七月十九日、午後九時過ぎ。
学園都市の第七学区。
学生向けの飲食店が並ぶ一角で、一人の少女が困り果てていた。
「……これ、何?」
「オムライス」
「……おむらいす?」
「うん。知らない?」
久遠零司は、向かいの席に座る少女を不思議そうに見つめた。
長い青緑色の髪。
くすんだ赤茶色の瞳。
研究施設で着せられていた白い患者衣の上には、零司が用意した大きめの上着が羽織られている。
被験体番号、N-13。
つい数時間前まで研究施設から逃げ回っていた少女だった。
「……知らない」
「へえ」
零司は少し驚いたように眉を上げた。
「じゃあ、食べてみなよ。結構美味しいよ」
少女は目の前の皿を見下ろした。
黄色い卵。
その上にかけられた赤いソース。
立ち上る温かな湯気。
研究施設で与えられていた食事とは、何もかもが違っていた。
「……食べて、いいの?」
「そのために注文したんだけど」
「…………」
少女は恐る恐るスプーンを手に取った。
卵の表面を崩す。
中から現れたのは、赤く色づいた米だった。
小さくすくい、口へ運ぶ。
「…………」
ゆっくりと咀嚼する。
そして。
「……おいしい」
小さな声が漏れた。
零司は笑った。
「でしょ?」
「……うん」
少女はもう一口、口へ運んだ。
今度は少し大きめに。
その様子を眺めながら、零司も自分の料理へ手を伸ばす。
「いやぁ、やっぱり外食っていいよね」
呑気な声だった。
数時間前まで銃弾が飛び交う地下施設にいたとは思えないほどに。
少女は、そんな少年をちらりと見た。
「……ねえ」
「ん?」
「……どうして、普通にしていられるの?」
「普通?」
「……あんなことが、あったのに」
零司は少し考えた。
武装した男たち。
逃亡した実験体。
地下施設での追いかけっこ。
そして、研究責任者との交渉。
「ああ」
納得したように頷く。
「終わったことだからね」
「…………」
「それに、いつまでも気にしてても仕方ないでしょ?」
零司は料理を口へ運んだ。
少女は黙り込んだ。
自分にとっては、人生を左右する出来事だった。
研究施設から逃げ出したこと。
捕まりかけたこと。
そして、今こうして外の世界にいること。
そのすべてが、まだ現実とは思えない。
だというのに。
目の前の少年にとっては、すでに終わった出来事らしい。
「……変な人」
「あはは。また言われた」
零司は楽しそうに笑った。
少女は、そんな彼を見つめた。
怖い人。
理解できない人。
けれど、今は自分を研究施設へ戻そうとしていない人。
そのどれもが、久遠零司という一人の少年だった。
◇
「……ここ?」
「うん」
食事を終えた二人が到着したのは、第七学区にある学生向けのマンションだった。
比較的新しい建物。
整備されたエントランス。
特別高級というわけではないが、一般の学生が一人で暮らすには十分すぎる設備が整っている。
「ちょっと待ってね」
零司が認証端末へ手をかざす。
電子音が鳴り、入口の扉が開いた。
少女は周囲を警戒しながら、その後ろについていく。
エレベーター。
長い廊下。
そして、一つの部屋。
「はい、到着」
零司が扉を開けた。
「どうぞ」
少女は、恐る恐る中を覗き込んだ。
そこは、ごく普通の部屋だった。
小さなリビング。
ソファとテーブル。
壁際には本棚が置かれ、窓の近くには観葉植物が一つ。
テレビの横にはゲーム機があり、テーブルの上には読みかけの漫画が積まれている。
研究施設のような無機質な設備は、どこにも見当たらなかった。
「……普通」
思わず呟く。
「ん?」
「……もっと、変な場所かと……」
「あはは。僕の家に何を期待してたの?」
「…………」
少女は答えなかった。
零司は靴を脱ぎ、室内へ入る。
「適当に座ってていいよ」
「……うん」
「あ、シャワー使う?」
少女の身体が、びくりと震えた。
零司はそれを見て首を傾げる。
「……どうしたの?」
「……何でも、ない」
「そっか」
少年はそれ以上追及しなかった。
「じゃあ、着替えだけ用意しとくね。使いたくなったら言って」
そう言い残し、奥の部屋へ消える。
少女は一人、リビングに残された。
「…………」
室内を見回す。
柔らかな照明。
窓の外に広がる夜景。
冷房の静かな運転音。
どれも、初めて触れるものではない。
研究施設にも照明はあった。
空調設備もあった。
休憩室のような場所も存在していた。
しかし、そこに自由はなかった。
立ち上がることも。
座ることも。
食事を取ることも。
すべて、誰かの許可が必要だった。
この部屋では。
少なくとも、今のところ。
誰も、自分に命令しない。
「……変なの」
少女は、もう一度呟いた。
◇
「はい、これ」
零司が戻ってきた。
手には、畳まれた衣服。
大きめのシャツと、柔らかそうなズボン。
「僕のだから、ちょっと大きいと思うけど」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
零司は衣服をソファへ置いた。
「あと、寝る場所だけど」
少女の肩が強張る。
「奥の部屋、使っていいよ」
「……え?」
「僕はこっちのソファで寝るから」
「……いいの?」
「うん」
零司は当然のように頷いた。
「別にどこでも寝られるし」
少女は、しばらく彼を見つめていた。
そして、小さく尋ねる。
「……鍵は?」
「ん?」
「……部屋の、鍵」
「ああ」
零司は廊下の奥を指差した。
「内側から掛けられるよ」
「…………」
「心配なら掛けとけば?」
少女は目を瞬かせた。
「……怒らない?」
「どうして?」
「……信用してないって、思われるから」
零司は数秒ほど黙った。
そして。
「あはは」
楽しそうに笑った。
「いや、信用しなくていいでしょ」
「……え?」
「だって、今日会ったばっかりだよ?」
少年は肩をすくめた。
「しかも僕、君を捕まえに来た側だったし」
「…………」
「そんな相手をいきなり信用する方が危なくない?」
少女は何も言えなかった。
確かに、その通りだった。
だが、それを本人が言うとは思わなかった。
「ま、好きにしていいよ」
零司は大きく欠伸をした。
「僕も眠いし」
それだけ言うと、ソファへ倒れ込む。
少女は、しばらくその姿を見つめていた。
そして、渡された衣服を抱きしめる。
「……おやすみ」
「んー、おやすみ」
零司は目を閉じたまま答えた。
少女は、廊下の奥へ向かった。
小さな寝室。
その扉を閉める。
そして。
内側から、鍵を掛けた。
かちり。
小さな音が響く。
少女は、その場に立ち尽くした。
誰にも命令されずに。
自分の意思で、扉を閉めた。
そんな些細なことが、どうしようもなく不思議だった。
◇
七月二十日。
午前八時過ぎ。
「……ん」
久遠零司は、ソファの上で目を覚ました。
薄いカーテンの隙間から、朝日が差し込んでいる。
「……暑い」
最初に口から出たのは、それだった。
どうやら冷房の設定温度が少し高かったらしい。
零司は寝ぼけ眼のまま、室内の温度をわずかに下げた。
それから、ゆっくりと身体を起こす。
「……お腹空いたなぁ」
大きく伸びをする。
さて、朝食をどうしようか。
冷蔵庫には卵があったはずだ。
パンも、確か残っていた。
そんなことを考えていると。
「……おはよう」
廊下から、小さな声がした。
「ん?」
零司が振り返る。
そこには、昨日の少女が立っていた。
長い青緑色の髪。
くすんだ赤茶色の瞳。
零司が貸した大きめのシャツを着て、少し落ち着かない様子でこちらを見ている。
「あ、おはよ」
零司は笑った。
「よく眠れた?」
「……少し」
「そっか」
少年は立ち上がる。
「朝ご飯、食べる?」
「……うん」
「じゃあ、適当に作るね」
零司はキッチンへ向かった。
少女は、その後ろ姿を見つめていた。
昨夜、何度も目を覚ました。
研究施設の夢を見た。
白い部屋。
拘束具。
研究者たちの声。
目を覚ますたびに、自分がどこにいるのか分からなくなった。
そのたびに、部屋の鍵を確認した。
外から誰かが入ってきた形跡はない。
扉を開けようとした者もいない。
ただ、静かな夜だった。
そのことが、少しだけ不思議だった。
「目玉焼きでいい?」
「……うん」
「半熟と固焼き、どっちが好き?」
「……分からない」
「あー、そっか」
零司は少し考えた。
「じゃあ、両方作ろっか」
少女は目を瞬かせた。
「……いいの?」
「うん。食べ比べれば分かるでしょ」
何でもないことのように答える。
フライパンが温まり、卵の焼ける音が響く。
少女は、その音を聞いていた。
昨日から、何度も思っていることがある。
この少年は、何なのだろう。
敵なのか。
味方なのか。
それとも、そのどちらでもないのか。
まだ、答えは出なかった。
◇
「……ねえ」
朝食の途中。
少女が口を開いた。
「ん?」
零司がトーストをかじりながら顔を上げる。
「……昨日のこと、聞いてもいい?」
「いいよ」
「……どうして、研究所の人は……」
少女は言葉を探した。
「……わたしを、手放したの?」
零司の手が止まった。
数秒ほど考える。
それから、あっさりと答えた。
「取引したから」
「……取引?」
「うん」
零司はコップを置いた。
「君の代わりに、研究データを渡したんだ」
少女の表情が変わった。
「……研究、データ……?」
「そう」
「……何の?」
「君の能力に関するやつ」
静寂。
少女は、零司を見つめたまま動かなかった。
「……わたしの?」
「うん」
零司は頷いた。
「昨日、君が能力使ってたでしょ? そのときに観測した情報をまとめて渡したんだ」
「…………」
「丹羽さん、結構喜んでたよ」
その言葉を聞いた瞬間。
少女の顔から、血の気が引いた。
「……待って」
「ん?」
「……それ、どういうこと……?」
零司は首を傾げた。
「どういうことって?」
「……研究所の人に、わたしの能力のことを……」
「教えたよ」
あまりにも簡単な返答だった。
少女の手が震え始める。
「……どうして……?」
「君を預かる条件だったから」
「……そんな……」
少女は、テーブルへ視線を落とした。
研究データ。
その言葉の意味を、彼女はよく知っていた。
研究施設では、毎日のように実験が行われていた。
能力を使わされる。
反応を測定される。
結果を記録される。
そして、その記録を元に、次の実験が決められる。
どれだけ苦しいと訴えても。
どれだけ嫌だと拒絶しても。
研究者たちは、数字を見つめ続けていた。
「……それを、渡したの……?」
「うん」
「……あの人たちに……?」
「そうだよ」
少女は拳を握りしめた。
「……何で……!」
思わず声が大きくなった。
零司は、少しだけ驚いたように目を瞬かせる。
「……どうしたの?」
「どうしたの、じゃない……!」
少女は立ち上がった。
椅子が小さな音を立てる。
「……研究が、続いちゃう……!」
「……ああ」
零司は納得したように頷いた。
「まあ、そうだろうね」
その一言が。
少女の胸に、深く突き刺さった。
「……分かってたの……?」
「何が?」
「……あの人たちが、また実験するって……!」
「うん」
零司は答えた。
「研究者なんだから、研究は続けるんじゃない?」
「…………!」
少女は言葉を失った。
目の前の少年は、何も隠していなかった。
自分を助ける代わりに研究資料を渡した。
その結果、研究が続く可能性がある。
そして、そのことを理解している。
それなのに。
まるで、何の問題もないかのように振る舞っている。
「……最低……」
少女の唇が震えた。
「……あなた、本当に……最低……!」
零司は小さく首を傾げた。
「またそれ?」
「……笑わないで!」
その声に。
零司の表情が、わずかに変わった。
笑みが消える。
しかし、怒ったわけではない。
ただ、少女の話を聞こうとしているようだった。
「……あの人たちは……」
少女は、震える声で続けた。
「……わたしだけじゃ、ないの……」
「うん」
「……他にも、いたの……!」
白い部屋。
隣の実験室。
時折、廊下ですれ違った少女。
自分に一度だけ笑いかけてくれた、名前も知らない少女。
彼女は、ある日突然いなくなった。
研究者は言った。
研究対象としての有用性が失われた、と。
「……いなくなった子が、いるの……」
少女の声が、小さくなる。
「……もう、戻ってこない子が……」
零司は黙っていた。
「……わたしは、嫌だった……」
少女は顔を伏せた。
「……もう、あんなことが起きるのは……」
拳を握りしめる。
「……だから、逃げたの……!」
零司は、しばらく何も言わなかった。
やがて。
「……そっか」
小さく頷く。
少女は顔を上げた。
「……それだけ……?」
「ん?」
「……それを聞いて、何も思わないの……?」
零司は少し考えた。
「可哀想だとは思うよ」
「……だったら……!」
「でもさ」
少年は、その言葉を遮った。
「だからって、僕が全部何とかしなきゃいけないの?」
少女の動きが止まった。
「…………え?」
「君が嫌だったのは分かった。研究所がひどいことしてるのも、まあ、分かる」
零司は静かに続けた。
「でも、それと僕が研究所を潰すかどうかは、別の話でしょ?」
「……そんなの……!」
「君を連れ出したのは、僕がそうしたかったから」
少年は少女を見つめた。
「研究データを渡したのも、僕がそうしたかったから」
その声は、いつもと同じだった。
穏やかで。
どこか気の抜けた。
それでいて、少しも揺らがない声。
「どっちも僕が決めたことだよ」
少女は、何も言えなかった。
◇
「……じゃあ」
長い沈黙の後。
少女が、小さく口を開いた。
「……わたしを助けたのも……」
「うん?」
「……ただ、面白かったから……?」
「そうだよ」
零司は即答した。
「…………」
「君がどうするのか、気になったからね」
少年は肩をすくめる。
「研究所に戻したら、また同じことの繰り返しになりそうだったし」
「……それだけ……?」
「今のところは」
少女は、ゆっくりと椅子へ座り直した。
力が抜けたようだった。
昨夜。
自分は初めて研究施設の外で食事をした。
初めて、誰にも命令されずに眠った。
初めて、自分の名前を考えてもいいと言われた。
そのすべてが。
目の前の少年の気まぐれによって与えられたものだった。
そして、その気まぐれの代償として。
研究施設には、新しい資料が渡されていた。
「……ねえ」
少女が呟く。
「ん?」
「……そのデータで、何ができるの……?」
零司は少し考えた。
「さあ?」
「……分からないの?」
「観測結果を渡しただけだからね。能力の仕組みを全部解明したわけじゃないよ」
それから、言葉を続ける。
「でも、今まで観測できなかったものが観測できるようになれば、研究の進め方は変わるかもね」
「……例えば……?」
「新しい測定方法を作ったり、別の能力者と比較したり」
零司は少し考えた。
「場合によっては、似た能力を作ろうとするかもしれない」
少女の身体が強張った。
「……それって……」
「うん?」
「……別の人に、実験するってこと……?」
「可能性はあるね」
零司はあっさりと答えた。
少女は、ゆっくりと俯いた。
自分が逃げ出した場所。
あの白い研究施設。
そこには、自分以外にも被験者がいた。
誰も名前で呼ばれなかった。
誰も、自分の意思を尊重されなかった。
ただ、研究に必要だからという理由で、実験を繰り返されていた。
そして。
自分がいなくなっても。
研究は終わらない。
「……どうして……」
少女の声が震えた。
「……どうして、そんなことができるの……?」
零司は答えなかった。
少女は顔を上げる。
「……誰かが、また苦しむかもしれないのに……!」
「うん」
「……あなたが渡したデータで……!」
「そうだね」
少女の瞳が揺れた。
「……分かってるなら……!」
「分かってるよ」
その言葉は、驚くほど静かだった。
「僕が渡したものが、悪いことに使われるかもしれない。それは理解してる」
零司は少女を見つめる。
「でも、僕がそれを渡したのも事実だからね」
「…………」
「なかったことにはできないよ」
少女は、唇を噛んだ。
悔しかった。
この少年には、きっと何でもできる。
銃弾を止めることも。
武装した大人たちを無力化することも。
研究者たちを従わせることさえ、簡単なのだろう。
それほどの力を持っていながら。
どうして。
どうして、もっと多くの人を助けてくれないのだろう。
「……あなたなら」
少女は呟いた。
「……全部、壊せたんじゃないの……?」
零司は首を傾げた。
「研究所?」
少女は頷いた。
「……あんな場所……!」
「まあ、壊すだけなら簡単だよ」
何でもないことのように答える。
「…………」
「でも、壊したところで研究が全部終わるとは限らないでしょ?」
零司は指を折りながら続けた。
「データの複製があれば別の場所で続けられるし、関係者が残ってれば再開するかもしれない」
「……だったら……!」
「関係者を全員消す?」
少女が息を呑んだ。
零司の声は、変わらなかった。
「研究に関わった人も、資料を受け取った人も、資金を出した人も。全部調べて、全部潰す?」
「……それは……」
「できないとは言わないよ」
少年は、小さく笑った。
「でも、そこまでする理由が今の僕にはないんだよね」
少女は、何も言えなかった。
目の前の少年が恐ろしかった。
冷酷だからではない。
誰かを苦しめることが好きだからでもない。
ただ。
自分の意思以外に、何の義務も感じていないからだ。
助けることもできる。
見捨てることもできる。
そして、そのどちらを選んだとしても。
この少年は、きっと同じように笑うのだろう。
◇
「……分かった」
少女が、ぽつりと呟いた。
「ん?」
「……あなたが、どんな人なのか……」
零司は首を傾げた。
「そう?」
「……うん」
少女は、ゆっくりと立ち上がった。
「……やっぱり、信用できない」
「あはは」
零司は笑った。
「そうだろうね」
「……笑わないで」
「ごめん、ごめん」
少年は両手を軽く上げた。
少女は、しばらく彼を睨んでいた。
それから。
「……わたし、出て行く」
静かに告げた。
零司は瞬きをした。
「ん? そうなの?」
「……うん」
「そっか」
それだけだった。
引き止める様子はない。
怒る様子もない。
零司は、ごく自然に頷いた。
「じゃあ、気をつけてね」
少女は目を見開いた。
「……止めないの……?」
「どうして?」
「……だって、あなた……」
少女は言葉に詰まった。
自分を研究所から連れ出した少年。
昨日、彼は自分を預かると言った。
だから、ここから出て行くことも許されないのではないか。
どこかで、そう思っていた。
しかし。
「君が出て行きたいなら、出て行けばいいんじゃない?」
零司は、当然のように答えた。
「僕の家にいることを強制するつもりはないし」
「…………」
「ただ、昨日みたいな連中がまだ探してる可能性はあるから、そこは気をつけてね」
少女は、拳を握りしめた。
腹立たしかった。
自分を連れ出したくせに。
研究データを渡したくせに。
今度は、出て行くなら好きにしろと言う。
どこまでも、自分勝手な少年だった。
「……本当に、最低……」
「うん。四回目かな?」
「……数えないで!」
「あはは」
零司は楽しそうに笑った。
少女は、もう何も言わなかった。
そのまま玄関へ向かう。
靴を履く。
扉の前に立つ。
そして。
手が止まった。
「…………」
外へ出た後、どこへ行くのか。
研究施設には戻れない。
頼れる人間もいない。
迎えに来ると約束した、名前も知らない誰か。
その人物からは、まだ何の連絡もない。
少女は胸元の端末を握りしめた。
画面には、あの文章が残っている。
『外へ出ろ』
『必ず迎えに行く』
もう研究施設の外には出ている。
それなのに。
迎えは来なかった。
「…………」
少女は、ゆっくりと扉から手を離した。
そして。
「……ねえ」
振り返った。
零司は、まだテーブルの前に座っていた。
何事もなかったかのように、残りのトーストを食べている。
「ん?」
「……一つ、聞いてもいい?」
「いいよ」
「……わたしが、ここにいたら……」
少女は言葉を探した。
「……研究所のこと、調べられる?」
零司の手が止まった。
「……ん?」
「……あの人たちが、何をしてるのか……」
少女は続ける。
「……誰が、まだあそこにいるのか……」
零司は少女を見つめた。
「調べたいの?」
「……うん」
「どうして?」
少女は、一度俯いた。
白い部屋。
消えた少女。
研究施設から逃げ出した夜。
そして、久遠零司が研究者に渡したデータ。
それらが、頭の中で繋がっていく。
「……知りたいから」
小さな声だった。
「……わたしが、逃げた後……」
少女は拳を握りしめる。
「……何が、起きるのか……」
零司は、しばらく黙っていた。
そして。
「……へえ」
口元が緩んだ。
「面白いこと言うね」
少女は顔を上げた。
「……面白くなんか、ない」
「そう?」
「……うん」
零司は、小さく笑った。
「じゃあ、何で僕に聞くの?」
少女は、一瞬だけ言葉に詰まった。
その理由は分かっている。
この少年には、力がある。
自分にはできないことが、きっとできる。
だから。
「……あなたの力が、必要だから」
少女は、はっきりと告げた。
零司の瞳が、わずかに細くなる。
「ふうん」
少年は、椅子の背もたれへ身体を預けた。
「それって、僕に研究所を潰してほしいってこと?」
「……違う」
「違うんだ」
「……自分で、決めたい」
少女は、真っ直ぐに零司を見つめた。
「……何をするか」
その言葉を聞いた瞬間。
零司は、ほんの少しだけ驚いたような顔をした。
「……へえ」
そして。
楽しそうに笑った。
「いいじゃん」
少女は目を瞬かせた。
「……え?」
「自分で決めたいんでしょ?」
「……うん」
「じゃあ、そうすればいいよ」
零司は頷いた。
「調べるのは勝手だし、止めないよ」
「……手伝って、くれるの……?」
「んー」
少し考える。
「気が向いたらね」
少女の眉が寄った。
「……そればっかり……」
「あはは。だって、そうなんだもん」
零司は笑った。
「でも、君が何をするのかは見てみたいかな」
少女は、しばらく黙っていた。
そして。
「……じゃあ」
小さく息を吸う。
「……もう少しだけ、ここにいる」
「うん。いいよ」
「……勘違い、しないで」
「ん?」
「……あなたを、信用したわけじゃないから」
零司は笑った。
「知ってるよ」
「……それに」
少女は、拳を握りしめた。
「……あなたが渡したデータが、何に使われるのか……」
その瞳に、強い光が宿る。
「……ちゃんと、確かめるから」
「うん」
零司は満足そうに頷いた。
「楽しみにしてるね」
少女は、深くため息をついた。
やはり。
この少年は、どうしようもなく気に入らない。
それでも。
少なくとも、自分が何をするかを自分で決めることは許してくれる。
今は、それだけで十分だった。
◇
同日、午前十時過ぎ。
学園都市の某研究施設。
丹羽宗一郎は、昨夜送信した資料への返答を確認していた。
画面には、複数の研究機関から届いたメッセージが並んでいる。
『観測結果を確認』
『従来の測定方法では再現不可能と思われる』
『比較検証を希望』
丹羽は満足そうに頷いた。
「……予想以上の反応ですね」
久遠零司から提供されたデータ。
それは、N-13の能力を完全に解明するものではなかった。
しかし。
これまで観測できなかった現象を、確かに捉えていた。
その一点だけでも、研究者たちにとっては十分な価値がある。
「……さて」
丹羽は別の資料を開いた。
そこには、N-13の研究に関連する被験者候補の情報が記されていた。
いずれも、観測干渉との関連性を調査するために選ばれた候補者たち。
まだ正式な実験対象として登録されていない者も含まれている。
丹羽は、その一覧を眺めた。
「N-13は失いましたが……」
眼鏡の奥で、瞳が細くなる。
「研究を止める理由にはなりませんね」
端末を操作する。
画面に、新しい計画書が表示された。
《観測干渉研究・追加検証計画》
《提供観測データ:解析中》
《比較対象候補:選定中》
《次段階実験:準備》
丹羽は静かに笑った。
「……久遠様には、感謝しなければ」
その声には、偽りのない感謝があった。
事実、彼は救われたのだ。
研究対象を失うという、致命的ともいえる事態から。
そして。
その代償を支払うことになるのが誰なのか。
彼は、まだ考えていなかった。
いや。
考える必要がないと思っていた。
研究者にとって重要なのは、研究を進めること。
その先に何が待ち受けているのかは、結果が出てから考えればいい。
少なくとも、丹羽宗一郎はそう信じていた。
◇
「……ねえ」
同じ頃。
久遠零司の部屋。
少女が、ソファに座る少年へ声を掛けた。
「ん?」
「……さっきの話だけど」
「研究所の?」
「……うん」
少女は、少し迷った後。
「……わたしに、何ができると思う……?」
零司は、しばらく考えた。
「さあ?」
「……さあ、って……」
「だって、君が何をできるか、まだ全部知らないし」
少年は笑った。
「それに、僕が決めることじゃないでしょ?」
「…………」
少女は黙り込んだ。
零司は、ふと思い出したように言った。
「あ、そういえば」
「……何?」
「名前、考えた?」
少女は目を瞬かせた。
「……名前……?」
「うん」
零司は頷いた。
「昨日、言ったじゃん。自分で決めていいって」
「…………」
少女は、ゆっくりと俯いた。
名前。
研究施設では、誰も自分を名前で呼ばなかった。
N-13。
それが、彼女に与えられた唯一の識別情報だった。
だが。
今は、違う。
誰かの許可を得なくても。
自分で、自分の名前を決めていい。
「……まだ」
少女は小さく答えた。
「……決めてない」
「そっか」
零司は笑った。
「まあ、ゆっくり考えなよ」
「……うん」
少女は頷いた。
そして、窓の外へ視線を向ける。
青い空。
行き交う人々。
研究施設の中では、見ることのできなかった景色。
そのすべてが、今は目の前に広がっている。
自分は、まだ何も知らない。
外の世界のことも。
研究所のことも。
そして。
久遠零司という少年のことも。
だが。
「……決めた」
小さく呟いた。
「ん?」
零司が顔を上げる。
少女は、真っ直ぐに彼を見つめた。
「……わたし、もう逃げるだけなのは嫌」
その声には、昨日までとは違う強さがあった。
「……ちゃんと、知りたい」
「うん」
「……あの場所で、何が起きていたのか」
少女は拳を握りしめた。
「……それから、これから何が起きるのか」
零司は、しばらく彼女を見つめていた。
そして。
「……へえ」
楽しそうに笑った。
「いいね」
少女は眉をひそめる。
「……また、面白いって言うの?」
「あはは。よく分かったね」
「……最低」
「五回目?」
「……数えないで!」
零司は楽しそうに笑った。
少女は深いため息をつく。
この少年とは、きっと何度も喧嘩をすることになる。
そんな予感がした。
しかし。
それでもいい。
自分が選んだことだから。
誰かに命令されたわけでも、強制されたわけでもない。
自分で考え、自分で決めた。
そのことが、何よりも大切だった。
――そして。
少女はまだ知らなかった。
研究施設で進められようとしている、新たな計画の存在を。
自分が逃げ出したことによって、失われるはずだった研究が別の形で継続しようとしていることを。
そして。
その研究の引き金を引いたのが。
今、目の前で楽しそうに笑っている少年であることを。
久遠零司。
学園都市の極秘第零位。
彼は正義の味方ではない。
悪を裁く英雄でもない。
ただ、自分の意思に従って行動する、一人の気まぐれな少年だった。
その行動によって、誰かが救われることもある。
誰かが傷つくこともある。
そして時には。
一人を救うための選択が、別の誰かを苦しめることになる。
それが、彼の気まぐれが生み出す代償だった。
もっとも。
当の本人は、そんなことよりも。
「……あ、そうだ」
突然、声を上げた。
「……何?」
「今日、何して遊ぼっか?」
少女は、しばらく固まった。
そして。
「……この、馬鹿……!」
心の底から呆れたように、そう呟いた。
零司は楽しそうに笑った。
「あはは。六回目は別の言葉だったね」
少女は、もう一度深いため息をついた。
学園都市の夏は、まだ始まったばかりだった。