とある学園都市の第零位《ゼロナンバー》   作:右左右左右

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第6話 代償

 七月十九日、午後九時過ぎ。

 

 学園都市の第七学区。

 

 学生向けの飲食店が並ぶ一角で、一人の少女が困り果てていた。

 

「……これ、何?」

 

「オムライス」

 

「……おむらいす?」

 

「うん。知らない?」

 

 久遠零司は、向かいの席に座る少女を不思議そうに見つめた。

 

 長い青緑色の髪。

 

 くすんだ赤茶色の瞳。

 

 研究施設で着せられていた白い患者衣の上には、零司が用意した大きめの上着が羽織られている。

 

 被験体番号、N-13。

 

 つい数時間前まで研究施設から逃げ回っていた少女だった。

 

「……知らない」

 

「へえ」

 

 零司は少し驚いたように眉を上げた。

 

「じゃあ、食べてみなよ。結構美味しいよ」

 

 少女は目の前の皿を見下ろした。

 

 黄色い卵。

 

 その上にかけられた赤いソース。

 

 立ち上る温かな湯気。

 

 研究施設で与えられていた食事とは、何もかもが違っていた。

 

「……食べて、いいの?」

 

「そのために注文したんだけど」

 

「…………」

 

 少女は恐る恐るスプーンを手に取った。

 

 卵の表面を崩す。

 

 中から現れたのは、赤く色づいた米だった。

 

 小さくすくい、口へ運ぶ。

 

「…………」

 

 ゆっくりと咀嚼する。

 

 そして。

 

「……おいしい」

 

 小さな声が漏れた。

 

 零司は笑った。

 

「でしょ?」

 

「……うん」

 

 少女はもう一口、口へ運んだ。

 

 今度は少し大きめに。

 

 その様子を眺めながら、零司も自分の料理へ手を伸ばす。

 

「いやぁ、やっぱり外食っていいよね」

 

 呑気な声だった。

 

 数時間前まで銃弾が飛び交う地下施設にいたとは思えないほどに。

 

 少女は、そんな少年をちらりと見た。

 

「……ねえ」

 

「ん?」

 

「……どうして、普通にしていられるの?」

 

「普通?」

 

「……あんなことが、あったのに」

 

 零司は少し考えた。

 

 武装した男たち。

 

 逃亡した実験体。

 

 地下施設での追いかけっこ。

 

 そして、研究責任者との交渉。

 

「ああ」

 

 納得したように頷く。

 

「終わったことだからね」

 

「…………」

 

「それに、いつまでも気にしてても仕方ないでしょ?」

 

 零司は料理を口へ運んだ。

 

 少女は黙り込んだ。

 

 自分にとっては、人生を左右する出来事だった。

 

 研究施設から逃げ出したこと。

 

 捕まりかけたこと。

 

 そして、今こうして外の世界にいること。

 

 そのすべてが、まだ現実とは思えない。

 

 だというのに。

 

 目の前の少年にとっては、すでに終わった出来事らしい。

 

「……変な人」

 

「あはは。また言われた」

 

 零司は楽しそうに笑った。

 

 少女は、そんな彼を見つめた。

 

 怖い人。

 

 理解できない人。

 

 けれど、今は自分を研究施設へ戻そうとしていない人。

 

 そのどれもが、久遠零司という一人の少年だった。

 

     ◇

 

「……ここ?」

 

「うん」

 

 食事を終えた二人が到着したのは、第七学区にある学生向けのマンションだった。

 

 比較的新しい建物。

 

 整備されたエントランス。

 

 特別高級というわけではないが、一般の学生が一人で暮らすには十分すぎる設備が整っている。

 

「ちょっと待ってね」

 

 零司が認証端末へ手をかざす。

 

 電子音が鳴り、入口の扉が開いた。

 

 少女は周囲を警戒しながら、その後ろについていく。

 

 エレベーター。

 

 長い廊下。

 

 そして、一つの部屋。

 

「はい、到着」

 

 零司が扉を開けた。

 

「どうぞ」

 

 少女は、恐る恐る中を覗き込んだ。

 

 そこは、ごく普通の部屋だった。

 

 小さなリビング。

 

 ソファとテーブル。

 

 壁際には本棚が置かれ、窓の近くには観葉植物が一つ。

 

 テレビの横にはゲーム機があり、テーブルの上には読みかけの漫画が積まれている。

 

 研究施設のような無機質な設備は、どこにも見当たらなかった。

 

「……普通」

 

 思わず呟く。

 

「ん?」

 

「……もっと、変な場所かと……」

 

「あはは。僕の家に何を期待してたの?」

 

「…………」

 

 少女は答えなかった。

 

 零司は靴を脱ぎ、室内へ入る。

 

「適当に座ってていいよ」

 

「……うん」

 

「あ、シャワー使う?」

 

 少女の身体が、びくりと震えた。

 

 零司はそれを見て首を傾げる。

 

「……どうしたの?」

 

「……何でも、ない」

 

「そっか」

 

 少年はそれ以上追及しなかった。

 

「じゃあ、着替えだけ用意しとくね。使いたくなったら言って」

 

 そう言い残し、奥の部屋へ消える。

 

 少女は一人、リビングに残された。

 

「…………」

 

 室内を見回す。

 

 柔らかな照明。

 

 窓の外に広がる夜景。

 

 冷房の静かな運転音。

 

 どれも、初めて触れるものではない。

 

 研究施設にも照明はあった。

 

 空調設備もあった。

 

 休憩室のような場所も存在していた。

 

 しかし、そこに自由はなかった。

 

 立ち上がることも。

 

 座ることも。

 

 食事を取ることも。

 

 すべて、誰かの許可が必要だった。

 

 この部屋では。

 

 少なくとも、今のところ。

 

 誰も、自分に命令しない。

 

「……変なの」

 

 少女は、もう一度呟いた。

 

     ◇

 

「はい、これ」

 

 零司が戻ってきた。

 

 手には、畳まれた衣服。

 

 大きめのシャツと、柔らかそうなズボン。

 

「僕のだから、ちょっと大きいと思うけど」

 

「……ありがとう」

 

「どういたしまして」

 

 零司は衣服をソファへ置いた。

 

「あと、寝る場所だけど」

 

 少女の肩が強張る。

 

「奥の部屋、使っていいよ」

 

「……え?」

 

「僕はこっちのソファで寝るから」

 

「……いいの?」

 

「うん」

 

 零司は当然のように頷いた。

 

「別にどこでも寝られるし」

 

 少女は、しばらく彼を見つめていた。

 

 そして、小さく尋ねる。

 

「……鍵は?」

 

「ん?」

 

「……部屋の、鍵」

 

「ああ」

 

 零司は廊下の奥を指差した。

 

「内側から掛けられるよ」

 

「…………」

 

「心配なら掛けとけば?」

 

 少女は目を瞬かせた。

 

「……怒らない?」

 

「どうして?」

 

「……信用してないって、思われるから」

 

 零司は数秒ほど黙った。

 

 そして。

 

「あはは」

 

 楽しそうに笑った。

 

「いや、信用しなくていいでしょ」

 

「……え?」

 

「だって、今日会ったばっかりだよ?」

 

 少年は肩をすくめた。

 

「しかも僕、君を捕まえに来た側だったし」

 

「…………」

 

「そんな相手をいきなり信用する方が危なくない?」

 

 少女は何も言えなかった。

 

 確かに、その通りだった。

 

 だが、それを本人が言うとは思わなかった。

 

「ま、好きにしていいよ」

 

 零司は大きく欠伸をした。

 

「僕も眠いし」

 

 それだけ言うと、ソファへ倒れ込む。

 

 少女は、しばらくその姿を見つめていた。

 

 そして、渡された衣服を抱きしめる。

 

「……おやすみ」

 

「んー、おやすみ」

 

 零司は目を閉じたまま答えた。

 

 少女は、廊下の奥へ向かった。

 

 小さな寝室。

 

 その扉を閉める。

 

 そして。

 

 内側から、鍵を掛けた。

 

 かちり。

 

 小さな音が響く。

 

 少女は、その場に立ち尽くした。

 

 誰にも命令されずに。

 

 自分の意思で、扉を閉めた。

 

 そんな些細なことが、どうしようもなく不思議だった。

 

     ◇

 

 七月二十日。

 

 午前八時過ぎ。

 

「……ん」

 

 久遠零司は、ソファの上で目を覚ました。

 

 薄いカーテンの隙間から、朝日が差し込んでいる。

 

「……暑い」

 

 最初に口から出たのは、それだった。

 

 どうやら冷房の設定温度が少し高かったらしい。

 

 零司は寝ぼけ眼のまま、室内の温度をわずかに下げた。

 

 それから、ゆっくりと身体を起こす。

 

「……お腹空いたなぁ」

 

 大きく伸びをする。

 

 さて、朝食をどうしようか。

 

 冷蔵庫には卵があったはずだ。

 

 パンも、確か残っていた。

 

 そんなことを考えていると。

 

「……おはよう」

 

 廊下から、小さな声がした。

 

「ん?」

 

 零司が振り返る。

 

 そこには、昨日の少女が立っていた。

 

 長い青緑色の髪。

 

 くすんだ赤茶色の瞳。

 

 零司が貸した大きめのシャツを着て、少し落ち着かない様子でこちらを見ている。

 

「あ、おはよ」

 

 零司は笑った。

 

「よく眠れた?」

 

「……少し」

 

「そっか」

 

 少年は立ち上がる。

 

「朝ご飯、食べる?」

 

「……うん」

 

「じゃあ、適当に作るね」

 

 零司はキッチンへ向かった。

 

 少女は、その後ろ姿を見つめていた。

 

 昨夜、何度も目を覚ました。

 

 研究施設の夢を見た。

 

 白い部屋。

 

 拘束具。

 

 研究者たちの声。

 

 目を覚ますたびに、自分がどこにいるのか分からなくなった。

 

 そのたびに、部屋の鍵を確認した。

 

 外から誰かが入ってきた形跡はない。

 

 扉を開けようとした者もいない。

 

 ただ、静かな夜だった。

 

 そのことが、少しだけ不思議だった。

 

「目玉焼きでいい?」

 

「……うん」

 

「半熟と固焼き、どっちが好き?」

 

「……分からない」

 

「あー、そっか」

 

 零司は少し考えた。

 

「じゃあ、両方作ろっか」

 

 少女は目を瞬かせた。

 

「……いいの?」

 

「うん。食べ比べれば分かるでしょ」

 

 何でもないことのように答える。

 

 フライパンが温まり、卵の焼ける音が響く。

 

 少女は、その音を聞いていた。

 

 昨日から、何度も思っていることがある。

 

 この少年は、何なのだろう。

 

 敵なのか。

 

 味方なのか。

 

 それとも、そのどちらでもないのか。

 

 まだ、答えは出なかった。

 

     ◇

 

「……ねえ」

 

 朝食の途中。

 

 少女が口を開いた。

 

「ん?」

 

 零司がトーストをかじりながら顔を上げる。

 

「……昨日のこと、聞いてもいい?」

 

「いいよ」

 

「……どうして、研究所の人は……」

 

 少女は言葉を探した。

 

「……わたしを、手放したの?」

 

 零司の手が止まった。

 

 数秒ほど考える。

 

 それから、あっさりと答えた。

 

「取引したから」

 

「……取引?」

 

「うん」

 

 零司はコップを置いた。

 

「君の代わりに、研究データを渡したんだ」

 

 少女の表情が変わった。

 

「……研究、データ……?」

 

「そう」

 

「……何の?」

 

「君の能力に関するやつ」

 

 静寂。

 

 少女は、零司を見つめたまま動かなかった。

 

「……わたしの?」

 

「うん」

 

 零司は頷いた。

 

「昨日、君が能力使ってたでしょ? そのときに観測した情報をまとめて渡したんだ」

 

「…………」

 

「丹羽さん、結構喜んでたよ」

 

 その言葉を聞いた瞬間。

 

 少女の顔から、血の気が引いた。

 

「……待って」

 

「ん?」

 

「……それ、どういうこと……?」

 

 零司は首を傾げた。

 

「どういうことって?」

 

「……研究所の人に、わたしの能力のことを……」

 

「教えたよ」

 

 あまりにも簡単な返答だった。

 

 少女の手が震え始める。

 

「……どうして……?」

 

「君を預かる条件だったから」

 

「……そんな……」

 

 少女は、テーブルへ視線を落とした。

 

 研究データ。

 

 その言葉の意味を、彼女はよく知っていた。

 

 研究施設では、毎日のように実験が行われていた。

 

 能力を使わされる。

 

 反応を測定される。

 

 結果を記録される。

 

 そして、その記録を元に、次の実験が決められる。

 

 どれだけ苦しいと訴えても。

 

 どれだけ嫌だと拒絶しても。

 

 研究者たちは、数字を見つめ続けていた。

 

「……それを、渡したの……?」

 

「うん」

 

「……あの人たちに……?」

 

「そうだよ」

 

 少女は拳を握りしめた。

 

「……何で……!」

 

 思わず声が大きくなった。

 

 零司は、少しだけ驚いたように目を瞬かせる。

 

「……どうしたの?」

 

「どうしたの、じゃない……!」

 

 少女は立ち上がった。

 

 椅子が小さな音を立てる。

 

「……研究が、続いちゃう……!」

 

「……ああ」

 

 零司は納得したように頷いた。

 

「まあ、そうだろうね」

 

 その一言が。

 

 少女の胸に、深く突き刺さった。

 

「……分かってたの……?」

 

「何が?」

 

「……あの人たちが、また実験するって……!」

 

「うん」

 

 零司は答えた。

 

「研究者なんだから、研究は続けるんじゃない?」

 

「…………!」

 

 少女は言葉を失った。

 

 目の前の少年は、何も隠していなかった。

 

 自分を助ける代わりに研究資料を渡した。

 

 その結果、研究が続く可能性がある。

 

 そして、そのことを理解している。

 

 それなのに。

 

 まるで、何の問題もないかのように振る舞っている。

 

「……最低……」

 

 少女の唇が震えた。

 

「……あなた、本当に……最低……!」

 

 零司は小さく首を傾げた。

 

「またそれ?」

 

「……笑わないで!」

 

 その声に。

 

 零司の表情が、わずかに変わった。

 

 笑みが消える。

 

 しかし、怒ったわけではない。

 

 ただ、少女の話を聞こうとしているようだった。

 

「……あの人たちは……」

 

 少女は、震える声で続けた。

 

「……わたしだけじゃ、ないの……」

 

「うん」

 

「……他にも、いたの……!」

 

 白い部屋。

 

 隣の実験室。

 

 時折、廊下ですれ違った少女。

 

 自分に一度だけ笑いかけてくれた、名前も知らない少女。

 

 彼女は、ある日突然いなくなった。

 

 研究者は言った。

 

 研究対象としての有用性が失われた、と。

 

「……いなくなった子が、いるの……」

 

 少女の声が、小さくなる。

 

「……もう、戻ってこない子が……」

 

 零司は黙っていた。

 

「……わたしは、嫌だった……」

 

 少女は顔を伏せた。

 

「……もう、あんなことが起きるのは……」

 

 拳を握りしめる。

 

「……だから、逃げたの……!」

 

 零司は、しばらく何も言わなかった。

 

 やがて。

 

「……そっか」

 

 小さく頷く。

 

 少女は顔を上げた。

 

「……それだけ……?」

 

「ん?」

 

「……それを聞いて、何も思わないの……?」

 

 零司は少し考えた。

 

「可哀想だとは思うよ」

 

「……だったら……!」

 

「でもさ」

 

 少年は、その言葉を遮った。

 

「だからって、僕が全部何とかしなきゃいけないの?」

 

 少女の動きが止まった。

 

「…………え?」

 

「君が嫌だったのは分かった。研究所がひどいことしてるのも、まあ、分かる」

 

 零司は静かに続けた。

 

「でも、それと僕が研究所を潰すかどうかは、別の話でしょ?」

 

「……そんなの……!」

 

「君を連れ出したのは、僕がそうしたかったから」

 

 少年は少女を見つめた。

 

「研究データを渡したのも、僕がそうしたかったから」

 

 その声は、いつもと同じだった。

 

 穏やかで。

 

 どこか気の抜けた。

 

 それでいて、少しも揺らがない声。

 

「どっちも僕が決めたことだよ」

 

 少女は、何も言えなかった。

 

     ◇

 

「……じゃあ」

 

 長い沈黙の後。

 

 少女が、小さく口を開いた。

 

「……わたしを助けたのも……」

 

「うん?」

 

「……ただ、面白かったから……?」

 

「そうだよ」

 

 零司は即答した。

 

「…………」

 

「君がどうするのか、気になったからね」

 

 少年は肩をすくめる。

 

「研究所に戻したら、また同じことの繰り返しになりそうだったし」

 

「……それだけ……?」

 

「今のところは」

 

 少女は、ゆっくりと椅子へ座り直した。

 

 力が抜けたようだった。

 

 昨夜。

 

 自分は初めて研究施設の外で食事をした。

 

 初めて、誰にも命令されずに眠った。

 

 初めて、自分の名前を考えてもいいと言われた。

 

 そのすべてが。

 

 目の前の少年の気まぐれによって与えられたものだった。

 

 そして、その気まぐれの代償として。

 

 研究施設には、新しい資料が渡されていた。

 

「……ねえ」

 

 少女が呟く。

 

「ん?」

 

「……そのデータで、何ができるの……?」

 

 零司は少し考えた。

 

「さあ?」

 

「……分からないの?」

 

「観測結果を渡しただけだからね。能力の仕組みを全部解明したわけじゃないよ」

 

 それから、言葉を続ける。

 

「でも、今まで観測できなかったものが観測できるようになれば、研究の進め方は変わるかもね」

 

「……例えば……?」

 

「新しい測定方法を作ったり、別の能力者と比較したり」

 

 零司は少し考えた。

 

「場合によっては、似た能力を作ろうとするかもしれない」

 

 少女の身体が強張った。

 

「……それって……」

 

「うん?」

 

「……別の人に、実験するってこと……?」

 

「可能性はあるね」

 

 零司はあっさりと答えた。

 

 少女は、ゆっくりと俯いた。

 

 自分が逃げ出した場所。

 

 あの白い研究施設。

 

 そこには、自分以外にも被験者がいた。

 

 誰も名前で呼ばれなかった。

 

 誰も、自分の意思を尊重されなかった。

 

 ただ、研究に必要だからという理由で、実験を繰り返されていた。

 

 そして。

 

 自分がいなくなっても。

 

 研究は終わらない。

 

「……どうして……」

 

 少女の声が震えた。

 

「……どうして、そんなことができるの……?」

 

 零司は答えなかった。

 

 少女は顔を上げる。

 

「……誰かが、また苦しむかもしれないのに……!」

 

「うん」

 

「……あなたが渡したデータで……!」

 

「そうだね」

 

 少女の瞳が揺れた。

 

「……分かってるなら……!」

 

「分かってるよ」

 

 その言葉は、驚くほど静かだった。

 

「僕が渡したものが、悪いことに使われるかもしれない。それは理解してる」

 

 零司は少女を見つめる。

 

「でも、僕がそれを渡したのも事実だからね」

 

「…………」

 

「なかったことにはできないよ」

 

 少女は、唇を噛んだ。

 

 悔しかった。

 

 この少年には、きっと何でもできる。

 

 銃弾を止めることも。

 

 武装した大人たちを無力化することも。

 

 研究者たちを従わせることさえ、簡単なのだろう。

 

 それほどの力を持っていながら。

 

 どうして。

 

 どうして、もっと多くの人を助けてくれないのだろう。

 

「……あなたなら」

 

 少女は呟いた。

 

「……全部、壊せたんじゃないの……?」

 

 零司は首を傾げた。

 

「研究所?」

 

 少女は頷いた。

 

「……あんな場所……!」

 

「まあ、壊すだけなら簡単だよ」

 

 何でもないことのように答える。

 

「…………」

 

「でも、壊したところで研究が全部終わるとは限らないでしょ?」

 

 零司は指を折りながら続けた。

 

「データの複製があれば別の場所で続けられるし、関係者が残ってれば再開するかもしれない」

 

「……だったら……!」

 

「関係者を全員消す?」

 

 少女が息を呑んだ。

 

 零司の声は、変わらなかった。

 

「研究に関わった人も、資料を受け取った人も、資金を出した人も。全部調べて、全部潰す?」

 

「……それは……」

 

「できないとは言わないよ」

 

 少年は、小さく笑った。

 

「でも、そこまでする理由が今の僕にはないんだよね」

 

 少女は、何も言えなかった。

 

 目の前の少年が恐ろしかった。

 

 冷酷だからではない。

 

 誰かを苦しめることが好きだからでもない。

 

 ただ。

 

 自分の意思以外に、何の義務も感じていないからだ。

 

 助けることもできる。

 

 見捨てることもできる。

 

 そして、そのどちらを選んだとしても。

 

 この少年は、きっと同じように笑うのだろう。

 

     ◇

 

「……分かった」

 

 少女が、ぽつりと呟いた。

 

「ん?」

 

「……あなたが、どんな人なのか……」

 

 零司は首を傾げた。

 

「そう?」

 

「……うん」

 

 少女は、ゆっくりと立ち上がった。

 

「……やっぱり、信用できない」

 

「あはは」

 

 零司は笑った。

 

「そうだろうね」

 

「……笑わないで」

 

「ごめん、ごめん」

 

 少年は両手を軽く上げた。

 

 少女は、しばらく彼を睨んでいた。

 

 それから。

 

「……わたし、出て行く」

 

 静かに告げた。

 

 零司は瞬きをした。

 

「ん? そうなの?」

 

「……うん」

 

「そっか」

 

 それだけだった。

 

 引き止める様子はない。

 

 怒る様子もない。

 

 零司は、ごく自然に頷いた。

 

「じゃあ、気をつけてね」

 

 少女は目を見開いた。

 

「……止めないの……?」

 

「どうして?」

 

「……だって、あなた……」

 

 少女は言葉に詰まった。

 

 自分を研究所から連れ出した少年。

 

 昨日、彼は自分を預かると言った。

 

 だから、ここから出て行くことも許されないのではないか。

 

 どこかで、そう思っていた。

 

 しかし。

 

「君が出て行きたいなら、出て行けばいいんじゃない?」

 

 零司は、当然のように答えた。

 

「僕の家にいることを強制するつもりはないし」

 

「…………」

 

「ただ、昨日みたいな連中がまだ探してる可能性はあるから、そこは気をつけてね」

 

 少女は、拳を握りしめた。

 

 腹立たしかった。

 

 自分を連れ出したくせに。

 

 研究データを渡したくせに。

 

 今度は、出て行くなら好きにしろと言う。

 

 どこまでも、自分勝手な少年だった。

 

「……本当に、最低……」

 

「うん。四回目かな?」

 

「……数えないで!」

 

「あはは」

 

 零司は楽しそうに笑った。

 

 少女は、もう何も言わなかった。

 

 そのまま玄関へ向かう。

 

 靴を履く。

 

 扉の前に立つ。

 

 そして。

 

 手が止まった。

 

「…………」

 

 外へ出た後、どこへ行くのか。

 

 研究施設には戻れない。

 

 頼れる人間もいない。

 

 迎えに来ると約束した、名前も知らない誰か。

 

 その人物からは、まだ何の連絡もない。

 

 少女は胸元の端末を握りしめた。

 

 画面には、あの文章が残っている。

 

『外へ出ろ』

 

『必ず迎えに行く』

 

 もう研究施設の外には出ている。

 

 それなのに。

 

 迎えは来なかった。

 

「…………」

 

 少女は、ゆっくりと扉から手を離した。

 

 そして。

 

「……ねえ」

 

 振り返った。

 

 零司は、まだテーブルの前に座っていた。

 

 何事もなかったかのように、残りのトーストを食べている。

 

「ん?」

 

「……一つ、聞いてもいい?」

 

「いいよ」

 

「……わたしが、ここにいたら……」

 

 少女は言葉を探した。

 

「……研究所のこと、調べられる?」

 

 零司の手が止まった。

 

「……ん?」

 

「……あの人たちが、何をしてるのか……」

 

 少女は続ける。

 

「……誰が、まだあそこにいるのか……」

 

 零司は少女を見つめた。

 

「調べたいの?」

 

「……うん」

 

「どうして?」

 

 少女は、一度俯いた。

 

 白い部屋。

 

 消えた少女。

 

 研究施設から逃げ出した夜。

 

 そして、久遠零司が研究者に渡したデータ。

 

 それらが、頭の中で繋がっていく。

 

「……知りたいから」

 

 小さな声だった。

 

「……わたしが、逃げた後……」

 

 少女は拳を握りしめる。

 

「……何が、起きるのか……」

 

 零司は、しばらく黙っていた。

 

 そして。

 

「……へえ」

 

 口元が緩んだ。

 

「面白いこと言うね」

 

 少女は顔を上げた。

 

「……面白くなんか、ない」

 

「そう?」

 

「……うん」

 

 零司は、小さく笑った。

 

「じゃあ、何で僕に聞くの?」

 

 少女は、一瞬だけ言葉に詰まった。

 

 その理由は分かっている。

 

 この少年には、力がある。

 

 自分にはできないことが、きっとできる。

 

 だから。

 

「……あなたの力が、必要だから」

 

 少女は、はっきりと告げた。

 

 零司の瞳が、わずかに細くなる。

 

「ふうん」

 

 少年は、椅子の背もたれへ身体を預けた。

 

「それって、僕に研究所を潰してほしいってこと?」

 

「……違う」

 

「違うんだ」

 

「……自分で、決めたい」

 

 少女は、真っ直ぐに零司を見つめた。

 

「……何をするか」

 

 その言葉を聞いた瞬間。

 

 零司は、ほんの少しだけ驚いたような顔をした。

 

「……へえ」

 

 そして。

 

 楽しそうに笑った。

 

「いいじゃん」

 

 少女は目を瞬かせた。

 

「……え?」

 

「自分で決めたいんでしょ?」

 

「……うん」

 

「じゃあ、そうすればいいよ」

 

 零司は頷いた。

 

「調べるのは勝手だし、止めないよ」

 

「……手伝って、くれるの……?」

 

「んー」

 

 少し考える。

 

「気が向いたらね」

 

 少女の眉が寄った。

 

「……そればっかり……」

 

「あはは。だって、そうなんだもん」

 

 零司は笑った。

 

「でも、君が何をするのかは見てみたいかな」

 

 少女は、しばらく黙っていた。

 

 そして。

 

「……じゃあ」

 

 小さく息を吸う。

 

「……もう少しだけ、ここにいる」

 

「うん。いいよ」

 

「……勘違い、しないで」

 

「ん?」

 

「……あなたを、信用したわけじゃないから」

 

 零司は笑った。

 

「知ってるよ」

 

「……それに」

 

 少女は、拳を握りしめた。

 

「……あなたが渡したデータが、何に使われるのか……」

 

 その瞳に、強い光が宿る。

 

「……ちゃんと、確かめるから」

 

「うん」

 

 零司は満足そうに頷いた。

 

「楽しみにしてるね」

 

 少女は、深くため息をついた。

 

 やはり。

 

 この少年は、どうしようもなく気に入らない。

 

 それでも。

 

 少なくとも、自分が何をするかを自分で決めることは許してくれる。

 

 今は、それだけで十分だった。

 

     ◇

 

 同日、午前十時過ぎ。

 

 学園都市の某研究施設。

 

 丹羽宗一郎は、昨夜送信した資料への返答を確認していた。

 

 画面には、複数の研究機関から届いたメッセージが並んでいる。

 

『観測結果を確認』

 

『従来の測定方法では再現不可能と思われる』

 

『比較検証を希望』

 

 丹羽は満足そうに頷いた。

 

「……予想以上の反応ですね」

 

 久遠零司から提供されたデータ。

 

 それは、N-13の能力を完全に解明するものではなかった。

 

 しかし。

 

 これまで観測できなかった現象を、確かに捉えていた。

 

 その一点だけでも、研究者たちにとっては十分な価値がある。

 

「……さて」

 

 丹羽は別の資料を開いた。

 

 そこには、N-13の研究に関連する被験者候補の情報が記されていた。

 

 いずれも、観測干渉との関連性を調査するために選ばれた候補者たち。

 

 まだ正式な実験対象として登録されていない者も含まれている。

 

 丹羽は、その一覧を眺めた。

 

「N-13は失いましたが……」

 

 眼鏡の奥で、瞳が細くなる。

 

「研究を止める理由にはなりませんね」

 

 端末を操作する。

 

 画面に、新しい計画書が表示された。

 

《観測干渉研究・追加検証計画》

 

《提供観測データ:解析中》

 

《比較対象候補:選定中》

 

《次段階実験:準備》

 

 丹羽は静かに笑った。

 

「……久遠様には、感謝しなければ」

 

 その声には、偽りのない感謝があった。

 

 事実、彼は救われたのだ。

 

 研究対象を失うという、致命的ともいえる事態から。

 

 そして。

 

 その代償を支払うことになるのが誰なのか。

 

 彼は、まだ考えていなかった。

 

 いや。

 

 考える必要がないと思っていた。

 

 研究者にとって重要なのは、研究を進めること。

 

 その先に何が待ち受けているのかは、結果が出てから考えればいい。

 

 少なくとも、丹羽宗一郎はそう信じていた。

 

     ◇

 

「……ねえ」

 

 同じ頃。

 

 久遠零司の部屋。

 

 少女が、ソファに座る少年へ声を掛けた。

 

「ん?」

 

「……さっきの話だけど」

 

「研究所の?」

 

「……うん」

 

 少女は、少し迷った後。

 

「……わたしに、何ができると思う……?」

 

 零司は、しばらく考えた。

 

「さあ?」

 

「……さあ、って……」

 

「だって、君が何をできるか、まだ全部知らないし」

 

 少年は笑った。

 

「それに、僕が決めることじゃないでしょ?」

 

「…………」

 

 少女は黙り込んだ。

 

 零司は、ふと思い出したように言った。

 

「あ、そういえば」

 

「……何?」

 

「名前、考えた?」

 

 少女は目を瞬かせた。

 

「……名前……?」

 

「うん」

 

 零司は頷いた。

 

「昨日、言ったじゃん。自分で決めていいって」

 

「…………」

 

 少女は、ゆっくりと俯いた。

 

 名前。

 

 研究施設では、誰も自分を名前で呼ばなかった。

 

 N-13。

 

 それが、彼女に与えられた唯一の識別情報だった。

 

 だが。

 

 今は、違う。

 

 誰かの許可を得なくても。

 

 自分で、自分の名前を決めていい。

 

「……まだ」

 

 少女は小さく答えた。

 

「……決めてない」

 

「そっか」

 

 零司は笑った。

 

「まあ、ゆっくり考えなよ」

 

「……うん」

 

 少女は頷いた。

 

 そして、窓の外へ視線を向ける。

 

 青い空。

 

 行き交う人々。

 

 研究施設の中では、見ることのできなかった景色。

 

 そのすべてが、今は目の前に広がっている。

 

 自分は、まだ何も知らない。

 

 外の世界のことも。

 

 研究所のことも。

 

 そして。

 

 久遠零司という少年のことも。

 

 だが。

 

「……決めた」

 

 小さく呟いた。

 

「ん?」

 

 零司が顔を上げる。

 

 少女は、真っ直ぐに彼を見つめた。

 

「……わたし、もう逃げるだけなのは嫌」

 

 その声には、昨日までとは違う強さがあった。

 

「……ちゃんと、知りたい」

 

「うん」

 

「……あの場所で、何が起きていたのか」

 

 少女は拳を握りしめた。

 

「……それから、これから何が起きるのか」

 

 零司は、しばらく彼女を見つめていた。

 

 そして。

 

「……へえ」

 

 楽しそうに笑った。

 

「いいね」

 

 少女は眉をひそめる。

 

「……また、面白いって言うの?」

 

「あはは。よく分かったね」

 

「……最低」

 

「五回目?」

 

「……数えないで!」

 

 零司は楽しそうに笑った。

 

 少女は深いため息をつく。

 

 この少年とは、きっと何度も喧嘩をすることになる。

 

 そんな予感がした。

 

 しかし。

 

 それでもいい。

 

 自分が選んだことだから。

 

 誰かに命令されたわけでも、強制されたわけでもない。

 

 自分で考え、自分で決めた。

 

 そのことが、何よりも大切だった。

 

 ――そして。

 

 少女はまだ知らなかった。

 

 研究施設で進められようとしている、新たな計画の存在を。

 

 自分が逃げ出したことによって、失われるはずだった研究が別の形で継続しようとしていることを。

 

 そして。

 

 その研究の引き金を引いたのが。

 

 今、目の前で楽しそうに笑っている少年であることを。

 

 久遠零司。

 

 学園都市の極秘第零位。

 

 彼は正義の味方ではない。

 

 悪を裁く英雄でもない。

 

 ただ、自分の意思に従って行動する、一人の気まぐれな少年だった。

 

 その行動によって、誰かが救われることもある。

 

 誰かが傷つくこともある。

 

 そして時には。

 

 一人を救うための選択が、別の誰かを苦しめることになる。

 

 それが、彼の気まぐれが生み出す代償だった。

 

 もっとも。

 

 当の本人は、そんなことよりも。

 

「……あ、そうだ」

 

 突然、声を上げた。

 

「……何?」

 

「今日、何して遊ぼっか?」

 

 少女は、しばらく固まった。

 

 そして。

 

「……この、馬鹿……!」

 

 心の底から呆れたように、そう呟いた。

 

 零司は楽しそうに笑った。

 

「あはは。六回目は別の言葉だったね」

 

 少女は、もう一度深いため息をついた。

 

 学園都市の夏は、まだ始まったばかりだった。

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