七月二十日。
午前十一時四十二分。
学園都市の某研究施設。
地下三階に設けられた解析室では、複数の研究員が端末に向かっていた。
室内に響くのは、電子機器の駆動音とキーボードを叩く音だけ。
壁面の大型ディスプレイには、複雑な波形と数値が並んでいる。
その中心に立つ男、丹羽宗一郎は、目の前の解析結果を食い入るように見つめていた。
「……やはり、間違いありませんね」
小さな呟き。
隣に立つ若い研究員が顔を上げた。
「主任、本当にこのデータを外部へ提供するのですか?」
「ええ」
「しかし、まだ解析は終わっていません。観測条件すら完全には特定できていないんですよ?」
「だからこそです」
丹羽は眼鏡の位置を直した。
「我々だけでは、これ以上の解析に時間が掛かりすぎる。関連分野の研究機関へ協力を求める必要があります」
「ですが……」
研究員は、画面へ視線を戻した。
そこに表示されているのは、昨夜入手したばかりの観測記録だった。
被験体番号、N-13。
暫定能力名称、観測干渉。
光学情報、音響情報、電磁的応答。
それらが通常とは異なる振る舞いを示した際の、複数の観測結果。
問題は、その数値だった。
「……主任」
「何でしょう」
「この記録、本当に外部測定によるものなんですか?」
「提供者はそう説明しています」
「あり得ませんよ」
研究員は思わず声を強めた。
「これまで我々が何度実験しても、能力発現中の情報はまともに記録できませんでした。測定装置を増やしても、結果は不安定になるばかりで……」
「ええ」
「なのに、これは……」
研究員はディスプレイを指差した。
「完全ではありませんが、観測対象の異常が時間軸に沿って記録されています。こんな測定を、どうやって……」
「その方法については、提供者から開示されていません」
「……誰が提供したんですか?」
丹羽は答えなかった。
ただ、静かに微笑んだ。
「知る必要はありません」
「しかし――」
「研究に必要なのは、再現可能な結果です」
丹羽は画面を操作した。
「少なくとも、この記録が我々の既存理論に新しい検討材料を与えることは確かでしょう」
研究員は口を閉ざした。
言いたいことはいくつもあった。
だが、目の前の資料に価値があることも理解していた。
「……分かりました」
「では、予定どおり進めてください」
「はい」
研究員が自席へ戻っていく。
丹羽は再びディスプレイへ向き直った。
そして、誰にも聞こえないほど小さな声で呟く。
「……実に素晴らしい」
久遠零司。
学園都市の極秘識別番号《ZERO》。
その少年は、N-13との短時間の接触だけで、研究施設が長年取得できなかった種類の観測記録を残した。
もちろん、能力の原理を完全に解明したわけではない。
提供された数値にも、不明な部分は多い。
だが、それで十分だった。
研究というものは、たった一つの新しい情報から大きく進展することがある。
そして、今回の資料には、その可能性があった。
「……さて」
丹羽は、新しい画面を開いた。
そこには複数の研究機関の識別番号が並んでいる。
観測技術。
能力開発。
神経情報処理。
そして、複数の被験者を用いた並列計測。
様々な分野の研究機関が、共同研究先の候補として表示されていた。
「まずは、こちらからでしょうか」
丹羽は、そのうちの一つを選択した。
《共同観測基盤研究》
《資料提供申請》
《提供対象:観測干渉関連データ》
必要な項目を入力する。
そして、送信。
画面に承認待ちの表示が現れた。
丹羽は椅子へ深く腰掛ける。
「……N-13」
小さく、その番号を口にした。
「あなたを失ったことは、確かに残念です」
それは偽りのない本心だった。
貴重な実験体を失うということは、研究者にとって大きな損失である。
しかし。
「ですが、研究は続けられます」
丹羽は薄く笑った。
「研究対象が一人だけとは限りませんからね」
その言葉に、躊躇いはなかった。
◇
「……ねえ」
「んー?」
「……聞いてる?」
「聞いてるよ」
「……絶対、聞いてない」
「あはは。ばれた?」
同日、午後。
第七学区にある学生向けマンションの一室。
久遠零司は、ソファに寝転がりながら携帯ゲーム機を操作していた。
画面には、派手なエフェクトとともに敵キャラクターが表示されている。
その向かい側。
長い青緑色の髪を持つ少女が、不満そうな顔をしていた。
「……真面目に聞いて」
「はいはい」
零司はゲームを一時停止した。
「それで、何だっけ?」
少女の眉が寄る。
「……研究所のこと」
「ああ」
「……調べたいって、言ったでしょ」
「うん。覚えてるよ」
「……だったら」
少女は、テーブルの上に置かれた端末を指差した。
「……これ、見てほしい」
零司は身体を起こした。
少女が差し出したのは、研究施設から持ち出した携帯端末だった。
画面の一部はひび割れ、外装にも傷がついている。
地下施設で彼女が何度も確認していたものだ。
「それ、まだ動いたんだ」
「……うん」
「へえ。丈夫だね」
零司は端末を受け取った。
画面には、短い文章が表示されている。
『外へ出ろ』
『必ず迎えに行く』
「……ああ、これね」
零司は小さく頷いた。
「前にも言ってたやつ」
少女は頷いた。
「……誰が送ってきたのか、知りたい」
「ふうん」
「……調べられる?」
零司は画面を眺めた。
送信者の名前はない。
通信経路に関する情報も、通常の表示画面からは確認できない。
ただ、二行の文章だけが残されている。
「んー……」
しばらく考えた後。
「さあ?」
あっさりと答えた。
少女の目が細くなる。
「……さあ、って……」
「いや、だってさ」
零司は端末を軽く振った。
「これだけじゃ分かんないでしょ」
「……あなた、何でもできるんじゃないの?」
「そんなこと言ったっけ?」
「……言ってないけど……」
「あはは」
零司は笑った。
「僕の能力って、何でも知ってる能力じゃないからね」
少女は黙り込んだ。
零司の能力。
彼女は、それが何なのか知らない。
銃弾を止める。
武装した人間を無力化する。
自分の能力によって生じた異常さえ、何事もなかったかのように修正してしまう。
それほどのことができるのなら、端末の中身を調べるくらい簡単なのではないか。
そう考えていた。
「……じゃあ、無理なの?」
「そうとも言ってないよ」
零司は端末をテーブルへ置いた。
「ただ、僕が知らない情報まで勝手に出てくるわけじゃないってこと」
「…………」
「記録が残ってれば調べられるかもしれないし、残ってなければ別の手段が必要かもね」
少女は端末を見下ろした。
「……記録……」
「うん」
零司は再びゲーム機を手に取った。
「調べたいなら、まず何が残ってるか確認すれば?」
「……どうやって?」
「それを考えるのが調査じゃない?」
少女は不満そうに顔を上げた。
「……手伝ってくれないの?」
「んー」
零司は少し考えた。
「今、こっちが忙しいんだよね」
ゲーム画面を指差す。
「……ゲームじゃん」
「うん。結構いいところなんだ」
「…………」
少女は無言で零司を見つめた。
零司もまた、にこりと笑い返す。
数秒後。
「……もういい」
少女は端末を抱えた。
「自分で調べる」
「うん」
零司は満足そうに頷いた。
「頑張ってね」
「……最低」
「あはは」
そして、再びゲームを始めた。
少女は深いため息をつく。
本当に。
どうしようもない少年だった。
◇
研究施設から逃げ出した少女。
被験体番号N-13。
彼女には、名前がなかった。
研究施設で与えられたのは識別番号だけ。
生まれた場所も、家族の存在も、正確には知らされていない。
物心ついた頃には、すでに研究施設の中にいた。
白い部屋。
白い廊下。
白衣を着た研究者たち。
その中で、毎日のように能力開発と実験が繰り返されていた。
最初の頃は、それが普通なのだと思っていた。
自分にとって、世界とはそういう場所だったからだ。
しかし。
成長するにつれ、少しずつ疑問を持つようになった。
どうして自分は外へ出られないのか。
どうして名前で呼ばれないのか。
どうして、嫌だと言っても実験をやめてもらえないのか。
そして。
どうして、隣の部屋にいた少女は突然いなくなったのか。
研究者たちは、答えてくれなかった。
いや。
答える必要さえ感じていなかったのかもしれない。
彼らにとって重要なのは、研究結果だった。
被験者の感情ではない。
そう理解したとき、少女は初めて逃げたいと思った。
だが、逃げ方など分からない。
研究施設の外を、ほとんど知らないのだから。
そんなときに届いたのが、あのメッセージだった。
『外へ出ろ』
『必ず迎えに行く』
送り主は不明。
それでも、少女はその言葉に縋った。
そして、逃げ出した。
結果として。
迎えに来るはずだった人物とは出会えず、代わりに久遠零司という少年に捕まった。
いや。
今の状況を考えれば、捕まったという表現も少し違うのかもしれない。
研究施設から連れ出され、食事を与えられ、寝る場所まで用意された。
だが、その少年は自分を助ける代償として、研究施設へ観測データを渡していた。
その結果、別の誰かが苦しむかもしれない。
そんな可能性を知っていながら、彼は平然と笑っていた。
「…………」
少女は、ソファに座る零司を見た。
「……ねえ」
「ん?」
「……一つだけ、聞いていい?」
「いいよ」
「……あなた、研究所が嫌いじゃないの?」
零司はゲーム機を操作したまま答えた。
「別に?」
「……どうして……?」
「どうしてって言われてもなぁ」
少し考える。
「嫌いになる理由が、今のところあんまりないから?」
少女の表情が曇った。
「……ひどいこと、してるのに……」
「うん」
「……知ってるのに……?」
「知ってるよ」
零司は頷いた。
「でも、僕が嫌いかどうかは別じゃない?」
「…………」
「丹羽さんも、僕には結構丁寧だったしね」
少女は言葉を失った。
あの研究責任者。
自分にとっては、恐怖の対象でしかなかった男。
しかし、零司にとっては、丁寧に接してくれた研究者の一人に過ぎないらしい。
「……分からない」
少女は小さく呟いた。
「……あなたのこと、全然分からない……」
零司はようやくゲーム機を置いた。
そして、少女を見る。
「別に、分かんなくてもいいんじゃない?」
「……え?」
「僕だって君のこと、まだ全然知らないし」
零司は笑った。
「それで困ってる?」
「…………」
少女は答えられなかった。
確かに。
目の前の少年は、自分のことをほとんど知らない。
それなのに、研究施設から連れ出した。
今も、自分の部屋に置いている。
特別な理由があるわけではない。
ただ、そうしたかったから。
「……変なの」
「そう?」
「……うん」
零司は楽しそうに笑った。
「まあ、僕もそう思うことあるよ」
少女は小さくため息をついた。
その反応が、少しだけ気に入らなかった。
◇
午後二時十七分。
学園都市内の別の研究機関。
一般公開されている研究施設とは異なり、その建物には施設名を示す大きな看板が存在しなかった。
外観は、ごく普通のオフィスビル。
内部には、複数の研究室が設けられている。
その一室で、一人の研究員が新たな資料を確認していた。
《共同観測基盤研究》
《追加提供資料:観測干渉関連データ》
《提供元:丹羽研究室》
「……ほう」
男は、画面に表示された波形を眺めた。
それから、手元の端末を操作する。
複数の観測記録が並べられた。
一方は、丹羽から送られてきた資料。
もう一方は、以前から自分たちが収集していた能力者の測定記録だった。
「……なるほど」
男の口元が緩む。
丹羽のデータは、対象となる能力を再現する方法を示したものではない。
しかし、通常の測定では欠落する情報を、どのように比較すればよいか。
その手掛かりにはなりそうだった。
男は新しい画面を開く。
《応用先候補》
《複数個体の同時計測》
《能力発現時の観測誤差補正》
《神経信号と外部現象の相関評価》
そのうちの一つを選択する。
「……これは、使えるかもしれませんね」
男は短い報告書を作成した。
『提供資料を確認』
『既存の並列計測系に応用できる可能性あり』
『追加検証を推奨』
そして、送信した。
どこへ送られたのか。
誰がその資料を受け取るのか。
この部屋にいる研究員にとって、それは重要な問題ではなかった。
自分の仕事は、観測技術の評価。
その技術が最終的に何に利用されるかは、別の部門が判断することだった。
学園都市の研究は、そうして繋がっている。
一つの研究成果が、別の研究へ。
別の研究成果が、さらに別の計画へ。
研究者たちの多くは、自分が関わった技術の行き着く先を知らない。
そして、知ろうともしない者がいる。
その積み重ねの先に。
ときとして、表の世界には決して公開されない実験が生まれる。
◇
「……あった」
午後四時過ぎ。
久遠零司の部屋。
少女は、テーブルの上へ身を乗り出していた。
目の前には、二つの端末が並べられている。
一つは、研究施設から持ち出したもの。
もう一つは、零司から借りた古い予備端末だった。
その画面には、通信記録を確認するための解析ツールが表示されている。
もっとも、少女が突然高度な情報解析をできるようになったわけではない。
端末に残されていた操作履歴を調べ、表示できる範囲の記録を一つずつ確認しているだけだった。
何度も操作を間違えた。
意味の分からない項目も多かった。
それでも、少女は諦めなかった。
「……これ……」
画面に表示されているのは、受信履歴だった。
あのメッセージを受け取った時刻。
通信形式。
そして、わずかに残されていた経路情報。
「……研究所……?」
少女が呟いた。
通信の記録には、見覚えのある識別文字列が含まれていた。
研究施設内で利用されていた端末の管理番号。
その一部と、よく似ている。
「…………」
少女は眉をひそめた。
なぜ。
どうして。
自分を逃がそうとした人物が、研究施設の通信経路を使っていたのだろう。
研究者の中に、自分を助けようとした人間がいたのか。
それとも。
最初から、誰かの計画だったのか。
「……ねえ、零司」
「んー?」
ソファから返事が聞こえる。
「……ちょっと、見て」
「何?」
「……これ」
少女が端末を差し出した。
零司は画面を覗き込む。
「……ふうん」
「……どう思う?」
少年は、しばらく表示された情報を眺めていた。
そして。
「研究所の中を通ってるみたいだね」
「……やっぱり……?」
「まあ、少なくとも記録はそう見えるかな」
零司は端末を返した。
「でも、これだけじゃ送った人までは分かんないよ」
「……うん」
「研究所の中にいた人かもしれないし、外から経路を利用したのかもしれない」
少女は俯いた。
「……じゃあ……」
小さく呟く。
「……迎えに来るっていうのも、嘘だったのかな……」
「さあ?」
零司は肩をすくめた。
「それは本人に聞かないと分かんないでしょ」
「……本人が、誰か分からないのに……」
「じゃあ、まずはそこから調べれば?」
少女は顔を上げた。
「……簡単に言うね」
「難しく考えたって、急に分かるわけじゃないし」
零司は笑った。
「とりあえず、分かったことから調べればいいんじゃない?」
少女は端末を見下ろした。
確かに。
少なくとも、何も分からなかった昨日よりは前へ進んでいる。
たった一つの手掛かり。
それだけでも、自分で見つけたものだった。
「……うん」
小さく頷く。
「……もう少し、調べてみる」
「頑張って」
零司は再びゲーム機を手に取った。
その姿を見て、少女は少しだけ眉をひそめた。
「……ねえ」
「ん?」
「……本当に、興味ないの?」
「何に?」
「……わたしを逃がそうとした人」
零司は少し考えた。
「んー……」
そして。
「今は、そんなに」
あっさりと答えた。
少女は肩を落とした。
「……そう」
「でもさ」
零司が、ふと思い出したように続ける。
「ちょっと変じゃない?」
「……何が?」
「その人、迎えに来るって言ったんでしょ?」
「……うん」
「でも、来なかった」
「……うん」
「で、代わりに君を探してたのは、研究所の人と、君を殺そうとしてた人たち」
少女の表情が強張る。
零司は気にせず続けた。
「その中に、君を助けようとしてる人がいたのかなって」
「…………」
「まあ、別にいてもおかしくないけどね」
少年は肩をすくめた。
「研究所の人が全員同じこと考えてるとも限らないし」
少女は、しばらく黙っていた。
そして。
「……零司」
「ん?」
「……あのときの、もう一つの人たち……」
「ああ、殺そうとしてた連中?」
少女が小さく頷く。
「……誰だったの……?」
「知らない」
「……え?」
「聞かなかったし」
少女は言葉を失った。
「……どうして……!」
「だって、あんまり興味なかったんだもん」
零司は悪びれもせず答えた。
「邪魔だったから止めただけだし」
「…………」
少女は、深くため息をついた。
この少年には、何度驚かされればいいのだろう。
自分を殺そうとしていた人間たち。
普通なら、その正体を確かめようとするはずだ。
しかし、零司は違う。
邪魔だったから倒した。
それで終わり。
相手が何者なのか。
誰に命令されたのか。
そんなことは、どうでもよかったらしい。
「……ねえ」
「ん?」
「……あなた、本当に怖いものないの?」
零司は少し考えた。
「あるよ」
意外な返答だった。
少女は目を瞬かせる。
「……何?」
「んー……」
零司は天井を見上げた。
数秒ほど考え込む。
そして。
「夏休みの宿題とか?」
「…………」
「あと、冷蔵庫に入れといたプリンを勝手に食べられるのは嫌かな」
「…………」
少女は、静かに端末を置いた。
そして。
「……真面目に聞いたのに……」
「あはは。僕も真面目だよ?」
「……嘘つき」
「ひどいなぁ」
零司は楽しそうに笑った。
少女は、もう一度ため息をついた。
しかし。
その表情には、ほんの少しだけ。
以前とは違う柔らかさがあった。
◇
午後七時過ぎ。
丹羽宗一郎の端末に、新たな通知が届いた。
《共同観測基盤研究》
《資料受領確認》
《一次評価:有用性あり》
《追加研究への転用申請》
丹羽は画面を開いた。
そこには、今回提供した観測資料について、複数の研究機関から寄せられた評価が記されていた。
「……ほう」
一つずつ目を通す。
測定精度の向上。
観測時の情報欠落に関する評価。
複数対象を扱う実験系への応用。
そして。
「……これは」
丹羽の目が止まった。
ある研究部門からの申請だった。
《並列能力観測計画》
《既存実験系への応用検討》
《複数の能力発現現象を同時に観測する際の誤差補正》
丹羽は小さく息を吐いた。
「……なるほど」
確かに、今回の資料はそうした研究にも利用できるかもしれない。
N-13の能力そのものを再現できなくとも、測定時の情報欠落を評価するための参考資料にはなる。
ただし、その応用先で何が行われているのか。
詳細は記されていなかった。
提供されたのは、研究目的の概要と必要な観測項目だけ。
「……まあ、問題ありませんね」
丹羽は頷いた。
外部提供については、最初から想定している。
もちろん、共同研究先との契約や利用範囲の調整は必要だ。
だが、研究を進めるためなら、その程度の手間は惜しまない。
端末を操作する。
《転用申請:条件付き承認》
電子音が鳴った。
丹羽は椅子へ背中を預ける。
「……さて」
研究は進む。
N-13を失っても。
別の方法で。
別の施設で。
別の研究者たちによって。
その技術は、少しずつ広がっていく。
そして、それぞれの研究者は、自分が関わっている部分しか知らない。
学園都市の研究網とは、そういうものだった。
◇
「……零司」
「ん?」
夜。
久遠零司の部屋。
夕食を終えた少女が、ソファの向かい側へ座っていた。
「……少し、決めたことがある」
「何?」
零司は顔を上げた。
少女は、膝の上に端末を置く。
「……研究所のこと」
「ああ」
「……ちゃんと、調べたい」
零司は頷いた。
「うん。前にも言ってたね」
「……それから」
少女は少しだけ迷った。
しかし、すぐに顔を上げる。
「……わたしを逃がそうとした人も、探したい」
「ふうん」
「……どうして、あんなメッセージを送ったのか」
少女は続ける。
「……本当に、助けようとしてくれたのか」
「うん」
「……それとも、何か別の理由があったのか」
零司は、しばらく彼女を見つめていた。
それから。
「いいんじゃない?」
あっさりと答えた。
「……それだけ?」
「うん」
零司は笑う。
「君が調べたいなら、調べればいいよ」
「……手伝って、くれる?」
「気が向いたらね」
少女は、少しだけ眉をひそめた。
だが。
今度は、それ以上文句を言わなかった。
「……分かった」
小さく頷く。
「……じゃあ、自分でできるところから始める」
零司は満足そうに笑った。
「うん。それがいいと思うよ」
少女は、端末を握りしめた。
この少年を信用しているわけではない。
むしろ、信用できないところの方が多い。
しかし。
少なくとも、ここにいれば自分で考える時間がある。
自分の意思で行動することもできる。
それは、研究施設にいた頃には決して許されなかったことだった。
「……ねえ」
「ん?」
「……一つだけ、約束して」
零司は首を傾げた。
「約束?」
「……わたしが調べること、邪魔しないで」
少しの沈黙。
零司は少女を見つめた。
そして。
「いいよ」
あっさりと頷いた。
「君が何を調べるのかは、君の自由だし」
少女は、ほっと息を吐いた。
しかし。
「ただし」
零司が続けた。
少女の身体が強張る。
「……何?」
「僕が何をするかも、僕の自由だからね」
「…………」
「君が調べてる研究に、僕が協力することもあるかもしれないし」
零司は笑った。
「逆に、邪魔になることをするかもしれない」
少女の表情が曇る。
「……約束、違わない?」
「君の調査を邪魔しないって話でしょ?」
「……うん」
「だったら、わざと邪魔するつもりはないよ」
零司は肩をすくめた。
「でも、君のために僕の行動を全部変えるとは約束できないかな」
少女は黙り込んだ。
やがて。
「……分かった」
小さく答えた。
その言葉には、諦めではなく覚悟が含まれていた。
零司は、何となくそれを感じ取った。
そして。
「……へえ」
楽しそうに笑った。
「やっぱり、君って面白いね」
「……褒めてるの?」
「うん」
「……全然、嬉しくない」
「あはは」
零司は笑った。
少女は、深くため息をついた。
だが、その手から端末を離すことはなかった。
◇
同日、午後十一時過ぎ。
学園都市の某研究施設。
丹羽宗一郎は、最後の報告書を確認していた。
共同研究先への資料提供。
新たな実験計画。
追加の研究予算申請。
今日一日で、いくつもの作業が進んでいた。
丹羽は満足そうに頷いた。
「……順調ですね」
そのとき。
端末に新しい通知が届いた。
《外部照会記録》
《被験体N-13関連情報へのアクセス》
「……ん?」
丹羽は眉をひそめた。
被験体の情報にアクセスしようとした記録。
ただし、研究施設内部の端末からではない。
外部の通信経路を利用した、限定的な照会だった。
「……誰でしょうか」
詳細を確認する。
照会されたのは、研究内容ではなかった。
被験体の登録情報。
旧管理番号。
そして、研究施設で用いられていた通信経路に関する情報。
丹羽は、しばらく画面を見つめていた。
それから。
「……なるほど」
ゆっくりと笑う。
「もしかして、あの子でしょうか」
N-13。
研究施設から逃亡し、現在は久遠零司と行動している少女。
その少女が、自分自身の過去を調べようとしている?
むしろ、自然な反応ともいえる。
だが。
「……妙ですね」
丹羽は別の記録を開いた。
研究施設側には、N-13の逃亡に関する報告が残されている。
警備記録。
監視装置の異常。
追跡部隊の行動記録。
そして、逃亡直前に発生した不審な通信。
当時は混乱の中で見落としていたが、その通信には奇妙な点があった。
施設内の端末を経由している。
しかし、正式な操作履歴が存在しない。
利用者も不明。
送信内容も、記録上は欠落していた。
「…………」
丹羽は、眼鏡を外した。
ゆっくりと息を吐く。
「……内部の協力者、でしょうか」
可能性はある。
しかし、断定はできない。
外部から通信経路を利用された可能性も否定できなかった。
いずれにせよ。
自分の知らないところで、何者かがN-13の逃亡に関与していた可能性がある。
丹羽の表情から、笑みが消えた。
「……これは、少々厄介ですね」
研究資料を外部へ提供することと、研究施設の管理情報が勝手に利用されることは別問題だった。
もし内部に協力者がいたのなら。
それは、研究施設の管理体制そのものに関わる。
丹羽は端末を操作した。
《内部通信記録:再調査申請》
《対象期間:N-13逃亡前後》
《閲覧権限:研究責任者限定》
入力を終え、送信する。
そして。
「……さて」
静かに呟いた。
「誰が、あの子を逃がしたのでしょうね」
答えは、まだ分からない。
ただ一つだけ確かなことがあった。
N-13の逃亡は、単なる実験体の脱走では終わらなくなっていた。
研究データは外部へ流れ。
少女自身は研究施設の過去を調べ始め。
そして、彼女の逃亡を促した何者かの痕跡が、今になって浮かび上がりつつある。
その中心には。
久遠零司という、学園都市の極秘第零位がいた。
もっとも。
当の本人は、その頃。
「……あーっ!」
自宅のリビングで、ゲーム画面を見つめながら叫んでいた。
「また負けた!」
「……うるさい」
隣の部屋から、少女の声が聞こえる。
「ごめん、ごめん」
零司は笑った。
そして、もう一度ゲームを起動する。
学園都市の裏側で、どれほど複雑な思惑が動こうとも。
どれほど多くの研究者たちが、彼の残したデータを利用しようとも。
今の零司にとって重要なのは。
目の前のゲームを攻略することだった。
「……次こそ勝つからね」
少年は、楽しそうに笑った。
――科学の街、学園都市。
その裏側では、今日も誰かの知らないところで、何かが進んでいる。
そして。
そのすべてを把握している人間など、どこにもいない。
たとえ。
学園都市の第零位であったとしても。