七月二十一日。
午前九時過ぎ。
学園都市の第七学区にある、とある学生向けマンションの一室。
「……分からない」
小さな呟きが、静かなリビングに響いた。
テーブルの前に座っているのは、長い青緑色の髪を持つ少女。
被験体番号、N-13。
彼女は朝から、ひび割れた携帯端末と睨み合っていた。
画面に表示されているのは、昨日までに調べた通信記録。
研究施設から逃亡する直前に受信した、差出人不明のメッセージだった。
『外へ出ろ』
『必ず迎えに行く』
たった二行。
送り主の名前はない。
連絡先も分からない。
昨日の調査によって、その通信が研究施設内部の回線を経由していた可能性は判明した。
しかし、それだけだった。
「……誰なの」
少女は小さく呟く。
研究者の誰かが送ったのだろうか。
それとも、外部から研究施設の通信網を利用した何者か。
考えられる可能性はいくつもある。
だが、どれにも決定的な証拠がなかった。
「……はぁ」
少女は小さくため息をついた。
そのとき。
「おはよー」
背後から、気の抜けた声が聞こえた。
「……おはよう」
振り返ると、久遠零司が寝室から出てくるところだった。
黒髪に混じる銀色の髪。
眠たげな灰紫色の瞳。
大きめのシャツに、ゆったりとしたズボン。
どうやら、つい先ほど起きたばかりらしい。
「……まだ調べてたんだ」
零司はテーブルの上を覗き込んだ。
「……うん」
「何か分かった?」
「……全然」
「そっか」
それだけ言うと、零司はキッチンへ向かった。
冷蔵庫を開ける。
中を覗き込む。
そして。
「……あれ?」
小さな声を漏らした。
「……何?」
「プリンがない」
「…………」
少女の手が止まった。
零司は冷蔵庫の奥まで確認する。
「昨日、確かに二個あったんだけどなぁ」
「…………」
「一個は僕が食べたから……もう一個は?」
少女は、そっと視線を逸らした。
数秒の沈黙。
零司が振り返る。
「……食べた?」
「…………」
「ねえ、食べた?」
「……一個だけ」
小さな返答。
零司は目を見開いた。
「えーっ!?」
少女の肩が跳ねる。
「……だって」
「楽しみにしてたのに!」
「……名前、書いてなかった」
「いや、僕の家の冷蔵庫なんだけど!」
「…………」
少女は、少しだけ俯いた。
怒られる。
そう思った。
研究施設では、許可なく何かを口にすることなど認められていなかった。
たとえそれが、些細な食べ物であっても。
規則を破れば、相応の処置が待っていた。
だから。
「……ごめんなさい」
小さく謝った。
しかし。
「……まあ、いっか」
「……え?」
顔を上げる。
零司は、すでに冷蔵庫を閉めていた。
「また買えばいいし」
「……怒らないの?」
「ん?」
零司は首を傾げた。
「何で?」
「……勝手に、食べたから」
「あー」
少し考える。
「じゃあ、次から僕の分も残しといて」
「…………」
「約束ね」
零司は笑った。
少女は、しばらく彼を見つめていた。
それから。
「……分かった」
小さく頷いた。
零司は満足そうに笑う。
「よし。じゃあ、今日はプリン買いに行こう」
「……それだけ?」
「うん」
少女は深いため息をついた。
やはり、この少年はよく分からなかった。
◇
「……外?」
「うん」
朝食を終えた後。
零司は、少女へそう告げた。
「ちょっと買い物行こうかなって」
「……買い物」
「そ。服とか必要でしょ?」
零司は少女の姿を見た。
現在、彼女が着ているのは零司から借りた衣服だった。
サイズは合っていない。
袖は指先が隠れるほど長く、ズボンの裾も何度か折り返している。
「……別に、これでいい」
「でも、大きくない?」
「……少し」
「でしょ?」
零司は笑った。
「ずっと僕の服着てるわけにもいかないしね」
少女は黙り込んだ。
服を買う。
研究施設にいた頃には、考えたこともなかった。
与えられた衣服を着る。
汚れれば交換する。
それだけだった。
色も、形も、選んだことはない。
「……自分で、選んでいいの?」
「当たり前じゃん」
「…………」
「僕が選んでもいいけど、好み分かんないし」
零司は靴を履きながら続けた。
「それとも、僕の趣味で決めちゃう?」
「……嫌」
即答だった。
「あはは。だよね」
零司は楽しそうに笑った。
「じゃ、行こっか」
少女は少し迷った後、小さく頷いた。
◇
学園都市の夏休み。
それは、学生たちにとって特別な季節だった。
普段よりも賑わう商業施設。
友人同士で遊びに出かける学生たち。
期間限定の商品を宣伝する大型ディスプレイ。
街の至るところに、夏特有の浮ついた空気が漂っている。
「……人、多い」
少女が呟いた。
「夏休みだからね」
零司は隣を歩きながら答える。
「……こんなに、たくさん……」
「研究所の中とは違うでしょ?」
「……うん」
少女は周囲を見回した。
笑いながら歩く学生たち。
買い物袋を提げた親子。
自動販売機の前で騒ぐ少年たち。
そのすべてが、彼女には新鮮だった。
そして。
少しだけ、怖かった。
「……零司」
「ん?」
「……あの人たち、わたしのこと……」
「見てる?」
少女は頷いた。
零司は周囲を見回した。
確かに、時折こちらへ視線を向ける人間はいる。
だが、それは特別不自然なことではなかった。
少女は目立つ容姿をしている。
長い青緑色の髪に、整った顔立ち。
加えて、現在着ている服は明らかにサイズが合っていない。
多少の視線を集めても不思議ではなかった。
「まあ、ちょっと目立ってるかもね」
「……やっぱり……」
少女の表情が曇る。
その瞬間。
周囲の空気が、微かに揺らいだ。
零司は横目で少女を見る。
彼女の姿を通過する光。
その伝わり方に、ほんの僅かな乱れが生じていた。
(……無意識、かな)
どうやら、能力が反応しかけているらしい。
研究施設では、監視から逃れるために使っていた力。
その影響が、恐怖や緊張に伴って現れようとしていた。
しかし。
「ねえ」
「……何?」
「そんなに気になるなら、帽子でも買う?」
「……帽子?」
「うん。目立ちたくないんでしょ?」
少女は零司を見上げた。
「……それで、隠れられるの?」
「少なくとも、髪は隠せるんじゃない?」
「…………」
「能力使うより楽だと思うけど」
少女の目が見開かれた。
「……分かるの?」
「まあね」
零司は笑った。
「でも、昨日あんなに使ったんだから、今日は休んどきなよ」
少女は小さく俯いた。
能力を使わなくてもいい。
誰かに命令されるわけでもない。
ただ、帽子を被ればいい。
そんな簡単なことが、どうして思いつかなかったのだろう。
「……うん」
少女は頷いた。
「……帽子、見たい」
「了解」
零司は笑った。
そして、近くの服飾店へ向かって歩き出した。
◇
買い物は、予想以上に時間が掛かった。
「……これ」
「ん?」
「……どっちが、いいと思う?」
少女は二着の服を持っていた。
一方は、淡い灰色のワンピース。
もう一方は、濃紺のシャツと黒いスカートの組み合わせだった。
零司は少し考える。
「どっちでも似合うんじゃない?」
「……ちゃんと見て」
「見てるよ」
「……本当に?」
「うん」
少女は不満そうに眉を寄せた。
零司は笑った。
「僕が決めちゃっていいの?」
「……それは、嫌」
「でしょ?」
少年は肩をすくめる。
「なら、好きなの選べばいいじゃん」
「…………」
少女は再び服を見比べた。
数分後。
「……こっち」
選んだのは、濃紺のシャツだった。
「お、決まった?」
「……うん」
「じゃあ、それにしよっか」
零司は会計へ向かった。
少女は選んだ服を見つめる。
自分で選んだ。
誰かに決められたわけでも、命令されたわけでもない。
ただ、自分が着たいと思ったから。
その理由だけで、服を選んだ。
「…………」
少女は、ほんの少しだけ笑った。
零司は、その表情に気づいていた。
しかし、何も言わなかった。
わざわざ指摘するほどのことでもない。
そんな気分だった。
◇
午後一時過ぎ。
二人は買い物を終え、商業施設を出た。
少女は新しく購入した服に着替え、頭には灰色の帽子を被っている。
足元も、昨日研究施設から借りた簡素な靴ではなく、自分で選んだスニーカーに変わっていた。
「……どう?」
少女が尋ねる。
「ん?」
「……変じゃない?」
零司は彼女を見た。
少し考える。
そして。
「うん。いいんじゃない?」
「……本当に?」
「さっきより似合ってると思うよ」
少女は、わずかに頬を赤らめた。
「……そう」
小さく呟く。
零司は、それ以上何も言わなかった。
その代わり。
「あ、そうだ」
携帯端末を取り出す。
「……何?」
「この近くに、新しくできたお店があるんだよね」
「……お店?」
「うん。プリンが美味しいらしいんだ」
「…………」
少女は、無言で零司を見つめた。
「……まだ、言ってるの?」
「だって食べたいし」
「……子供」
「あはは。君に言われたくないなぁ」
そんなやり取りをしながら、二人は歩き始めた。
そのときだった。
「…………」
零司の足が止まった。
「……零司?」
少女が振り返る。
少年は、少し離れた場所を見つめていた。
そこにあるのは、古い雑居ビル。
低層階には小さな店舗が入り、上階は学生向けの住居として利用されているらしい。
特別珍しい建物ではない。
学園都市では、どこにでもありそうな光景だった。
しかし。
「……へえ」
零司が、小さく笑った。
「……何?」
「いや」
少年は、ビルの方へ目を向けたまま答えた。
「ちょっと、懐かしい感じがしてね」
「……懐かしい?」
「うん」
少女は、もう一度建物を見た。
何も変わったところはない。
窓。
外壁。
非常階段。
壁面に設置された空調設備。
どれも、ごく普通のものだった。
「……何が?」
「んー……」
零司は少し考える。
「昔、似たようなものを見たことがあるんだ」
「……もの?」
「うん」
少年は、ゆっくりと目を細めた。
その視線の先。
古びた外壁の一角に、わずかな焦げ跡が残っていた。
火災でもあったのだろうか。
だが、周囲に大きな損傷はない。
焦げた紙片のようなものが、壁の隙間に引っ掛かっているだけだった。
普通の人間なら、気にも留めないだろう。
科学的な測定を行ったとしても、特別な異常は見つからないかもしれない。
だが。
久遠零司は違った。
(……魔術、か)
その言葉が、自然と思い浮かんだ。
学園都市。
科学の街。
超能力という、科学的な研究に基づく異能が発展した場所。
しかし、この世界に存在する異能は、それだけではない。
科学とは異なる原理によって成立する力。
信仰。
象徴。
儀式。
そして、世界を形作る位相へと関わる神秘。
魔術。
それは、零司にとって未知のものではなかった。
むしろ、よく知っている領域だった。
(……誰かが、術式を使ったんだね)
零司は、わずかに口元を緩める。
残されているのは、術式そのものではない。
すでに行使を終えた魔術の痕跡。
ここで何が起きたのか。
誰が術を使ったのか。
そのすべてを、この場から知ることはできない。
だが、少なくとも。
学園都市の中で、魔術を扱う何者かが動いている。
それだけは、分かった。
「……零司?」
少女が、もう一度声を掛けた。
「ん?」
「……どうしたの?」
「ああ、ごめん」
零司は振り返った。
「ちょっと面白いもの見つけちゃって」
「……何?」
「秘密」
少女は眉をひそめた。
「……また?」
「あはは」
零司は楽しそうに笑う。
「知らない方がいいこともあるんだよ?」
「……何、それ」
「そのままの意味」
少年は、もう一度建物を見た。
そして。
「……ま、いいか」
あっさりと視線を外した。
「今はプリンの方が大事だし」
「…………」
少女は、心底呆れたようにため息をついた。
「……本当に、変な人」
「よく言われる」
零司は笑った。
そのまま歩き始める。
だが。
彼の頭の片隅には、先ほどの痕跡が残っていた。
魔術師。
この街では、本来表立って活動することのない存在。
それが動いているということは、何らかの事情があるのだろう。
もっとも。
(……僕には関係ないけどね)
今のところ、首を突っ込む理由はない。
知っているからといって、何もかもに関わる必要はないのだ。
その程度の認識だった。
◇
同日、午後三時過ぎ。
学園都市の某研究施設。
丹羽宗一郎は、部下から提出された報告書を確認していた。
「……外部照会の件ですが」
若い研究員が説明する。
「七月二十日に記録された通信について、関連する接続情報を調べました」
「結果は?」
「照会元の正確な端末番号までは確認できませんでした」
「……そうですか」
「ただ、参照された情報は限定されています。被験体N-13の登録番号と、過去の通信経路に関するものです」
丹羽は眼鏡の位置を直した。
「研究データそのものへのアクセスは?」
「確認されていません」
「ふむ……」
丹羽は考え込んだ。
被験体N-13。
すでに研究施設の管理下から離れた実験体。
現在は久遠零司と行動しているはずだった。
もし少女自身が情報を調べているのなら、確かに不思議ではない。
しかし。
「……逃亡前の通信については?」
丹羽が尋ねる。
「現在も解析中です」
「送信者は?」
「不明です」
「内部の人間による操作の可能性は?」
「否定できません。ただし、外部から中継された可能性も残っています」
「……なるほど」
丹羽は静かに頷いた。
つまり。
N-13の逃亡に、何者かが関与していた可能性はある。
だが、まだ正体は分からない。
そして、その人物が何を目的としていたのかも不明だった。
「……研究資料の移転状況は?」
「予定どおり進行しております。共同研究先からも、追加の検証申請が届いています」
「結構」
丹羽は満足そうに頷いた。
「そちらは引き続き進めてください」
「……外部照会については、どう対応しますか?」
丹羽は少し考えた。
「今は監視だけで構いません」
「よろしいのですか?」
「ええ」
静かな声だった。
「久遠様が関与している以上、こちらから余計な接触を試みるべきではありません」
研究員は小さく頷く。
「承知しました」
部下が退室する。
丹羽は一人、ディスプレイへ視線を戻した。
《被験体N-13》
《管理状態:移管済》
《関連研究:継続中》
そして、もう一つの表示。
《識別番号:ZERO》
丹羽は、その文字列を見つめた。
「……久遠零司」
小さく呟く。
学園都市の極秘管理対象。
研究者として、彼の能力には強い興味がある。
だが、それ以上に。
理解できないのは、彼の行動だった。
研究対象を回収したと思えば、気まぐれで身柄を引き取る。
その代わりに貴重な観測資料を提供する。
研究施設の継続には、特に関心を示さない。
善意なのか。
悪意なのか。
それとも、単なる好奇心なのか。
丹羽には判断できなかった。
「……扱いにくい方ですね」
深いため息。
しかし、その直後。
丹羽の口元に、薄い笑みが浮かんだ。
「……だからこそ、興味深い」
その瞳には、研究者特有の光が宿っていた。
◇
午後六時。
久遠零司の部屋。
「……疲れた」
少女がソファへ腰を下ろした。
その足元には、今日購入した衣服や日用品が入った袋が置かれている。
零司は隣で、購入してきたプリンを冷蔵庫へしまっていた。
「結構歩いたからね」
「……うん」
「でも、楽しかったでしょ?」
少女は、少し考えた。
人混み。
買い物。
初めて自分で選んだ服。
そして、初めて入った店。
研究施設にいた頃には、想像もしなかった出来事ばかりだった。
「……少し」
小さく答えた。
零司は笑った。
「そっか」
少女は、テーブルの上に置かれた端末へ視線を向けた。
研究施設から持ち出したものだ。
ひび割れた画面。
古い通信記録。
差出人不明のメッセージ。
外の世界には、まだ知らないことがたくさんある。
それを知ることが、少しだけ楽しいと思えた。
しかし。
それと同じくらい。
怖いことも、きっと存在するのだろう。
「……ねえ、零司」
「ん?」
「……今日、途中で見てたもの」
「ああ」
「……何だったの?」
零司は少し考えた。
「気になる?」
「……うん」
「ふうん」
少年は椅子へ腰を下ろした。
「君さ」
「……何?」
「この街って、どんな場所だと思う?」
少女は首を傾げた。
「……学園都市」
「うん」
「……能力者がいて、研究所があって……」
「それから?」
「……科学が、発展してる場所」
零司は頷いた。
「そうだね」
そして、笑った。
「でも、それだけじゃないんだよ」
「……え?」
「この世界には、科学で説明できるものばっかりあるわけじゃないってこと」
少女は、しばらく黙っていた。
科学で説明できないもの。
そんなものが、存在するのだろうか。
自分の能力でさえ、研究施設では科学的に解明しようとしていた。
研究者たちは何度も実験を繰り返し、数値を取り、理論を組み立てていた。
どれほど奇妙な現象であっても、いつかは科学によって説明できる。
そう教えられてきた。
「……そんなもの、あるの?」
「あるよ」
零司は即答した。
「…………」
「まあ、信じるかどうかは君の自由だけどね」
少女は眉をひそめた。
「……ちゃんと、説明して」
「んー」
零司は考え込む。
そして。
「今日はやめとこっか」
「……何で?」
「長くなるし」
「……それだけ?」
「うん」
少女は、じっと零司を見つめた。
「……また、面倒くさいだけでしょ」
「あはは」
零司は楽しそうに笑った。
「よく分かったね」
「……最低」
「はいはい」
少年は笑いながら立ち上がった。
「じゃあ、夕飯どうしよっか」
「……話、終わってない」
「また今度ね」
「……絶対?」
「気が向いたら」
「……っ!」
少女は、深いため息をついた。
やはり。
この少年は、どうしようもなく気まぐれだった。
◇
同日、午後九時過ぎ。
学園都市の夜。
久遠零司は、自室のベランダに立っていた。
手には、冷えた缶飲料。
眼下には、無数の光が広がっている。
研究施設。
学生寮。
商業施設。
科学の粋を集めた巨大な都市。
そのすべてが、夜の闇に浮かび上がっていた。
「……ふうん」
零司は、街の一角へ視線を向けた。
昼間、奇妙な痕跡を感じた方向。
そこに、特別な変化はない。
少なくとも、今は。
「……魔術師、ねえ」
小さく呟く。
懐かしい響きだった。
科学と魔術。
本来、異なる原理によって成立する二つの力。
この街で暮らす大多数の人間は、魔術の存在など知らない。
存在を知ったとしても、簡単には信じないだろう。
しかし。
零司は知っている。
魔術が存在することを。
その力が、時として科学では説明できない現象を引き起こすことを。
そして。
この世界には、学園都市の研究者たちが想像もしないような存在がいることを。
「……まあ」
零司は缶飲料を口へ運んだ。
「僕には関係ないか」
あっさりと呟く。
今のところ、特別な興味は湧かなかった。
誰かが魔術を使った。
ただ、それだけのことだ。
それを理由に動く必要などない。
たとえ、何か大きな事件が起きていたとしても。
自分が関わる理由がなければ、放っておけばいい。
それが、久遠零司という少年だった。
そのとき。
「……零司」
背後から声がした。
「ん?」
振り返る。
そこには、N-13が立っていた。
長い青緑色の髪。
くすんだ赤茶色の瞳。
今は零司から借りた部屋着を身につけている。
「……何してるの?」
「夜景見てた」
「……楽しい?」
「まあまあ?」
零司は笑った。
少女は、その隣へ歩いてきた。
そして、ベランダから街を見下ろす。
「……綺麗」
小さく呟いた。
零司は頷いた。
「でしょ?」
「……うん」
少女は、しばらく夜景を眺めていた。
研究施設にいた頃。
窓の外を見ることは、ほとんど許されなかった。
まして、夜の街をこんなふうに眺めることなど。
考えたこともなかった。
「……ねえ」
「ん?」
「……わたし、知らないことばっかり」
零司は少女を見た。
「……そう?」
「……うん」
少女は、街の光を見つめたまま続ける。
「……今日、初めて行ったお店も」
「うん」
「……自分で選んだ服も」
「うん」
「……あんなに、人がいることも」
少女は、少しだけ微笑んだ。
「……全部、知らなかった」
零司は黙って聞いていた。
「……それに」
少女は振り返る。
「……科学じゃ、説明できないこともあるんでしょ?」
「あるよ」
「……だったら」
少しだけ迷う。
そして。
「……いつか、教えて」
零司は目を瞬かせた。
「……何を?」
「……あなたが、知ってること」
少女は、真っ直ぐに彼を見つめた。
「……わたしが、知らない世界のこと」
零司は、しばらく黙っていた。
そして。
「……へえ」
小さく笑った。
「いいよ」
少女が目を見開く。
「……本当?」
「うん」
零司は夜空を見上げた。
「まあ、いつになるか分かんないけどね」
「……また、それ」
「あはは」
少年は楽しそうに笑った。
少女は、小さくため息をつく。
しかし。
その表情には、ほんの少しだけ笑みが浮かんでいた。
知らない世界。
研究施設の外に広がっていたもの。
そして。
そのさらに外側に存在するかもしれない、未知の領域。
少女には、まだ想像することさえできなかった。
だが。
いつか、自分の目で見てみたい。
そう思った。
◇
同じ頃。
学園都市の別の場所では、一人の少年が自分の知らなかった世界に巻き込まれていた。
上条当麻。
学園都市では珍しくもない、レベル0の高校生。
彼は今、自分の常識では到底理解できない出来事に直面している。
魔術。
魔術師。
そして、禁書目録と名乗る少女。
それまで科学の街で暮らしてきた彼にとって、それらはあまりにも突拍子のないものだった。
だが。
彼は、目の前で苦しむ少女を見捨てなかった。
自分に何ができるのか。
そんなことを考えるより先に、手を伸ばしていた。
その行動が、今後どのような結果をもたらすのか。
彼自身、まだ知らない。
そして。
久遠零司もまた、そんな少年の存在を知らなかった。
少なくとも。
今は、まだ。
◇
「……あ」
自宅のベランダ。
零司が突然、声を上げた。
「……何?」
少女が振り返る。
零司は、空になった缶を眺めていた。
「プリン、食べるの忘れてた」
「…………」
「せっかく買ったのに」
少女は、しばらく固まった。
そして。
「……今、そんなこと考えてたの?」
「うん」
零司は頷いた。
「だって、明日まで置いとくのもなぁって」
「…………」
少女は、深いため息をついた。
そして、ぽつりと呟く。
「……本当に、変な人」
「あはは」
零司は楽しそうに笑った。
そのまま部屋へ戻っていく。
少女は、もう一度夜景を見下ろした。
無数の光。
その一つひとつに、自分の知らない誰かの生活がある。
自分が知らない出来事がある。
そして、もしかしたら。
自分が知らない力さえ、存在しているのかもしれない。
「……知らない世界、か」
少女は小さく呟いた。
それから、零司の後を追って部屋へ戻った。
科学と魔術。
二つの異なる世界。
本来、それらを知る人間は限られている。
しかし、久遠零司は違った。
彼は、その両方を知っている。
そして、そのどちらにも縛られるつもりはなかった。
正義も。
悪も。
科学も。
魔術も。
すべては、彼が興味を持つかどうか。
それだけのこと。
――学園都市の第零位。
その少年が、まだ顔も知らない幻想殺しの少年と交わる日は。
少しずつ、近づいていた。