とある学園都市の第零位《ゼロナンバー》   作:右左右左右

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第8話 知らない世界

 七月二十一日。

 

 午前九時過ぎ。

 

 学園都市の第七学区にある、とある学生向けマンションの一室。

 

「……分からない」

 

 小さな呟きが、静かなリビングに響いた。

 

 テーブルの前に座っているのは、長い青緑色の髪を持つ少女。

 

 被験体番号、N-13。

 

 彼女は朝から、ひび割れた携帯端末と睨み合っていた。

 

 画面に表示されているのは、昨日までに調べた通信記録。

 

 研究施設から逃亡する直前に受信した、差出人不明のメッセージだった。

 

『外へ出ろ』

 

『必ず迎えに行く』

 

 たった二行。

 

 送り主の名前はない。

 

 連絡先も分からない。

 

 昨日の調査によって、その通信が研究施設内部の回線を経由していた可能性は判明した。

 

 しかし、それだけだった。

 

「……誰なの」

 

 少女は小さく呟く。

 

 研究者の誰かが送ったのだろうか。

 

 それとも、外部から研究施設の通信網を利用した何者か。

 

 考えられる可能性はいくつもある。

 

 だが、どれにも決定的な証拠がなかった。

 

「……はぁ」

 

 少女は小さくため息をついた。

 

 そのとき。

 

「おはよー」

 

 背後から、気の抜けた声が聞こえた。

 

「……おはよう」

 

 振り返ると、久遠零司が寝室から出てくるところだった。

 

 黒髪に混じる銀色の髪。

 

 眠たげな灰紫色の瞳。

 

 大きめのシャツに、ゆったりとしたズボン。

 

 どうやら、つい先ほど起きたばかりらしい。

 

「……まだ調べてたんだ」

 

 零司はテーブルの上を覗き込んだ。

 

「……うん」

 

「何か分かった?」

 

「……全然」

 

「そっか」

 

 それだけ言うと、零司はキッチンへ向かった。

 

 冷蔵庫を開ける。

 

 中を覗き込む。

 

 そして。

 

「……あれ?」

 

 小さな声を漏らした。

 

「……何?」

 

「プリンがない」

 

「…………」

 

 少女の手が止まった。

 

 零司は冷蔵庫の奥まで確認する。

 

「昨日、確かに二個あったんだけどなぁ」

 

「…………」

 

「一個は僕が食べたから……もう一個は?」

 

 少女は、そっと視線を逸らした。

 

 数秒の沈黙。

 

 零司が振り返る。

 

「……食べた?」

 

「…………」

 

「ねえ、食べた?」

 

「……一個だけ」

 

 小さな返答。

 

 零司は目を見開いた。

 

「えーっ!?」

 

 少女の肩が跳ねる。

 

「……だって」

 

「楽しみにしてたのに!」

 

「……名前、書いてなかった」

 

「いや、僕の家の冷蔵庫なんだけど!」

 

「…………」

 

 少女は、少しだけ俯いた。

 

 怒られる。

 

 そう思った。

 

 研究施設では、許可なく何かを口にすることなど認められていなかった。

 

 たとえそれが、些細な食べ物であっても。

 

 規則を破れば、相応の処置が待っていた。

 

 だから。

 

「……ごめんなさい」

 

 小さく謝った。

 

 しかし。

 

「……まあ、いっか」

 

「……え?」

 

 顔を上げる。

 

 零司は、すでに冷蔵庫を閉めていた。

 

「また買えばいいし」

 

「……怒らないの?」

 

「ん?」

 

 零司は首を傾げた。

 

「何で?」

 

「……勝手に、食べたから」

 

「あー」

 

 少し考える。

 

「じゃあ、次から僕の分も残しといて」

 

「…………」

 

「約束ね」

 

 零司は笑った。

 

 少女は、しばらく彼を見つめていた。

 

 それから。

 

「……分かった」

 

 小さく頷いた。

 

 零司は満足そうに笑う。

 

「よし。じゃあ、今日はプリン買いに行こう」

 

「……それだけ?」

 

「うん」

 

 少女は深いため息をついた。

 

 やはり、この少年はよく分からなかった。

 

     ◇

 

「……外?」

 

「うん」

 

 朝食を終えた後。

 

 零司は、少女へそう告げた。

 

「ちょっと買い物行こうかなって」

 

「……買い物」

 

「そ。服とか必要でしょ?」

 

 零司は少女の姿を見た。

 

 現在、彼女が着ているのは零司から借りた衣服だった。

 

 サイズは合っていない。

 

 袖は指先が隠れるほど長く、ズボンの裾も何度か折り返している。

 

「……別に、これでいい」

 

「でも、大きくない?」

 

「……少し」

 

「でしょ?」

 

 零司は笑った。

 

「ずっと僕の服着てるわけにもいかないしね」

 

 少女は黙り込んだ。

 

 服を買う。

 

 研究施設にいた頃には、考えたこともなかった。

 

 与えられた衣服を着る。

 

 汚れれば交換する。

 

 それだけだった。

 

 色も、形も、選んだことはない。

 

「……自分で、選んでいいの?」

 

「当たり前じゃん」

 

「…………」

 

「僕が選んでもいいけど、好み分かんないし」

 

 零司は靴を履きながら続けた。

 

「それとも、僕の趣味で決めちゃう?」

 

「……嫌」

 

 即答だった。

 

「あはは。だよね」

 

 零司は楽しそうに笑った。

 

「じゃ、行こっか」

 

 少女は少し迷った後、小さく頷いた。

 

     ◇

 

 学園都市の夏休み。

 

 それは、学生たちにとって特別な季節だった。

 

 普段よりも賑わう商業施設。

 

 友人同士で遊びに出かける学生たち。

 

 期間限定の商品を宣伝する大型ディスプレイ。

 

 街の至るところに、夏特有の浮ついた空気が漂っている。

 

「……人、多い」

 

 少女が呟いた。

 

「夏休みだからね」

 

 零司は隣を歩きながら答える。

 

「……こんなに、たくさん……」

 

「研究所の中とは違うでしょ?」

 

「……うん」

 

 少女は周囲を見回した。

 

 笑いながら歩く学生たち。

 

 買い物袋を提げた親子。

 

 自動販売機の前で騒ぐ少年たち。

 

 そのすべてが、彼女には新鮮だった。

 

 そして。

 

 少しだけ、怖かった。

 

「……零司」

 

「ん?」

 

「……あの人たち、わたしのこと……」

 

「見てる?」

 

 少女は頷いた。

 

 零司は周囲を見回した。

 

 確かに、時折こちらへ視線を向ける人間はいる。

 

 だが、それは特別不自然なことではなかった。

 

 少女は目立つ容姿をしている。

 

 長い青緑色の髪に、整った顔立ち。

 

 加えて、現在着ている服は明らかにサイズが合っていない。

 

 多少の視線を集めても不思議ではなかった。

 

「まあ、ちょっと目立ってるかもね」

 

「……やっぱり……」

 

 少女の表情が曇る。

 

 その瞬間。

 

 周囲の空気が、微かに揺らいだ。

 

 零司は横目で少女を見る。

 

 彼女の姿を通過する光。

 

 その伝わり方に、ほんの僅かな乱れが生じていた。

 

(……無意識、かな)

 

 どうやら、能力が反応しかけているらしい。

 

 研究施設では、監視から逃れるために使っていた力。

 

 その影響が、恐怖や緊張に伴って現れようとしていた。

 

 しかし。

 

「ねえ」

 

「……何?」

 

「そんなに気になるなら、帽子でも買う?」

 

「……帽子?」

 

「うん。目立ちたくないんでしょ?」

 

 少女は零司を見上げた。

 

「……それで、隠れられるの?」

 

「少なくとも、髪は隠せるんじゃない?」

 

「…………」

 

「能力使うより楽だと思うけど」

 

 少女の目が見開かれた。

 

「……分かるの?」

 

「まあね」

 

 零司は笑った。

 

「でも、昨日あんなに使ったんだから、今日は休んどきなよ」

 

 少女は小さく俯いた。

 

 能力を使わなくてもいい。

 

 誰かに命令されるわけでもない。

 

 ただ、帽子を被ればいい。

 

 そんな簡単なことが、どうして思いつかなかったのだろう。

 

「……うん」

 

 少女は頷いた。

 

「……帽子、見たい」

 

「了解」

 

 零司は笑った。

 

 そして、近くの服飾店へ向かって歩き出した。

 

     ◇

 

 買い物は、予想以上に時間が掛かった。

 

「……これ」

 

「ん?」

 

「……どっちが、いいと思う?」

 

 少女は二着の服を持っていた。

 

 一方は、淡い灰色のワンピース。

 

 もう一方は、濃紺のシャツと黒いスカートの組み合わせだった。

 

 零司は少し考える。

 

「どっちでも似合うんじゃない?」

 

「……ちゃんと見て」

 

「見てるよ」

 

「……本当に?」

 

「うん」

 

 少女は不満そうに眉を寄せた。

 

 零司は笑った。

 

「僕が決めちゃっていいの?」

 

「……それは、嫌」

 

「でしょ?」

 

 少年は肩をすくめる。

 

「なら、好きなの選べばいいじゃん」

 

「…………」

 

 少女は再び服を見比べた。

 

 数分後。

 

「……こっち」

 

 選んだのは、濃紺のシャツだった。

 

「お、決まった?」

 

「……うん」

 

「じゃあ、それにしよっか」

 

 零司は会計へ向かった。

 

 少女は選んだ服を見つめる。

 

 自分で選んだ。

 

 誰かに決められたわけでも、命令されたわけでもない。

 

 ただ、自分が着たいと思ったから。

 

 その理由だけで、服を選んだ。

 

「…………」

 

 少女は、ほんの少しだけ笑った。

 

 零司は、その表情に気づいていた。

 

 しかし、何も言わなかった。

 

 わざわざ指摘するほどのことでもない。

 

 そんな気分だった。

 

     ◇

 

 午後一時過ぎ。

 

 二人は買い物を終え、商業施設を出た。

 

 少女は新しく購入した服に着替え、頭には灰色の帽子を被っている。

 

 足元も、昨日研究施設から借りた簡素な靴ではなく、自分で選んだスニーカーに変わっていた。

 

「……どう?」

 

 少女が尋ねる。

 

「ん?」

 

「……変じゃない?」

 

 零司は彼女を見た。

 

 少し考える。

 

 そして。

 

「うん。いいんじゃない?」

 

「……本当に?」

 

「さっきより似合ってると思うよ」

 

 少女は、わずかに頬を赤らめた。

 

「……そう」

 

 小さく呟く。

 

 零司は、それ以上何も言わなかった。

 

 その代わり。

 

「あ、そうだ」

 

 携帯端末を取り出す。

 

「……何?」

 

「この近くに、新しくできたお店があるんだよね」

 

「……お店?」

 

「うん。プリンが美味しいらしいんだ」

 

「…………」

 

 少女は、無言で零司を見つめた。

 

「……まだ、言ってるの?」

 

「だって食べたいし」

 

「……子供」

 

「あはは。君に言われたくないなぁ」

 

 そんなやり取りをしながら、二人は歩き始めた。

 

 そのときだった。

 

「…………」

 

 零司の足が止まった。

 

「……零司?」

 

 少女が振り返る。

 

 少年は、少し離れた場所を見つめていた。

 

 そこにあるのは、古い雑居ビル。

 

 低層階には小さな店舗が入り、上階は学生向けの住居として利用されているらしい。

 

 特別珍しい建物ではない。

 

 学園都市では、どこにでもありそうな光景だった。

 

 しかし。

 

「……へえ」

 

 零司が、小さく笑った。

 

「……何?」

 

「いや」

 

 少年は、ビルの方へ目を向けたまま答えた。

 

「ちょっと、懐かしい感じがしてね」

 

「……懐かしい?」

 

「うん」

 

 少女は、もう一度建物を見た。

 

 何も変わったところはない。

 

 窓。

 

 外壁。

 

 非常階段。

 

 壁面に設置された空調設備。

 

 どれも、ごく普通のものだった。

 

「……何が?」

 

「んー……」

 

 零司は少し考える。

 

「昔、似たようなものを見たことがあるんだ」

 

「……もの?」

 

「うん」

 

 少年は、ゆっくりと目を細めた。

 

 その視線の先。

 

 古びた外壁の一角に、わずかな焦げ跡が残っていた。

 

 火災でもあったのだろうか。

 

 だが、周囲に大きな損傷はない。

 

 焦げた紙片のようなものが、壁の隙間に引っ掛かっているだけだった。

 

 普通の人間なら、気にも留めないだろう。

 

 科学的な測定を行ったとしても、特別な異常は見つからないかもしれない。

 

 だが。

 

 久遠零司は違った。

 

(……魔術、か)

 

 その言葉が、自然と思い浮かんだ。

 

 学園都市。

 

 科学の街。

 

 超能力という、科学的な研究に基づく異能が発展した場所。

 

 しかし、この世界に存在する異能は、それだけではない。

 

 科学とは異なる原理によって成立する力。

 

 信仰。

 

 象徴。

 

 儀式。

 

 そして、世界を形作る位相へと関わる神秘。

 

 魔術。

 

 それは、零司にとって未知のものではなかった。

 

 むしろ、よく知っている領域だった。

 

(……誰かが、術式を使ったんだね)

 

 零司は、わずかに口元を緩める。

 

 残されているのは、術式そのものではない。

 

 すでに行使を終えた魔術の痕跡。

 

 ここで何が起きたのか。

 

 誰が術を使ったのか。

 

 そのすべてを、この場から知ることはできない。

 

 だが、少なくとも。

 

 学園都市の中で、魔術を扱う何者かが動いている。

 

 それだけは、分かった。

 

「……零司?」

 

 少女が、もう一度声を掛けた。

 

「ん?」

 

「……どうしたの?」

 

「ああ、ごめん」

 

 零司は振り返った。

 

「ちょっと面白いもの見つけちゃって」

 

「……何?」

 

「秘密」

 

 少女は眉をひそめた。

 

「……また?」

 

「あはは」

 

 零司は楽しそうに笑う。

 

「知らない方がいいこともあるんだよ?」

 

「……何、それ」

 

「そのままの意味」

 

 少年は、もう一度建物を見た。

 

 そして。

 

「……ま、いいか」

 

 あっさりと視線を外した。

 

「今はプリンの方が大事だし」

 

「…………」

 

 少女は、心底呆れたようにため息をついた。

 

「……本当に、変な人」

 

「よく言われる」

 

 零司は笑った。

 

 そのまま歩き始める。

 

 だが。

 

 彼の頭の片隅には、先ほどの痕跡が残っていた。

 

 魔術師。

 

 この街では、本来表立って活動することのない存在。

 

 それが動いているということは、何らかの事情があるのだろう。

 

 もっとも。

 

(……僕には関係ないけどね)

 

 今のところ、首を突っ込む理由はない。

 

 知っているからといって、何もかもに関わる必要はないのだ。

 

 その程度の認識だった。

 

     ◇

 

 同日、午後三時過ぎ。

 

 学園都市の某研究施設。

 

 丹羽宗一郎は、部下から提出された報告書を確認していた。

 

「……外部照会の件ですが」

 

 若い研究員が説明する。

 

「七月二十日に記録された通信について、関連する接続情報を調べました」

 

「結果は?」

 

「照会元の正確な端末番号までは確認できませんでした」

 

「……そうですか」

 

「ただ、参照された情報は限定されています。被験体N-13の登録番号と、過去の通信経路に関するものです」

 

 丹羽は眼鏡の位置を直した。

 

「研究データそのものへのアクセスは?」

 

「確認されていません」

 

「ふむ……」

 

 丹羽は考え込んだ。

 

 被験体N-13。

 

 すでに研究施設の管理下から離れた実験体。

 

 現在は久遠零司と行動しているはずだった。

 

 もし少女自身が情報を調べているのなら、確かに不思議ではない。

 

 しかし。

 

「……逃亡前の通信については?」

 

 丹羽が尋ねる。

 

「現在も解析中です」

 

「送信者は?」

 

「不明です」

 

「内部の人間による操作の可能性は?」

 

「否定できません。ただし、外部から中継された可能性も残っています」

 

「……なるほど」

 

 丹羽は静かに頷いた。

 

 つまり。

 

 N-13の逃亡に、何者かが関与していた可能性はある。

 

 だが、まだ正体は分からない。

 

 そして、その人物が何を目的としていたのかも不明だった。

 

「……研究資料の移転状況は?」

 

「予定どおり進行しております。共同研究先からも、追加の検証申請が届いています」

 

「結構」

 

 丹羽は満足そうに頷いた。

 

「そちらは引き続き進めてください」

 

「……外部照会については、どう対応しますか?」

 

 丹羽は少し考えた。

 

「今は監視だけで構いません」

 

「よろしいのですか?」

 

「ええ」

 

 静かな声だった。

 

「久遠様が関与している以上、こちらから余計な接触を試みるべきではありません」

 

 研究員は小さく頷く。

 

「承知しました」

 

 部下が退室する。

 

 丹羽は一人、ディスプレイへ視線を戻した。

 

《被験体N-13》

 

《管理状態:移管済》

 

《関連研究:継続中》

 

 そして、もう一つの表示。

 

《識別番号:ZERO》

 

 丹羽は、その文字列を見つめた。

 

「……久遠零司」

 

 小さく呟く。

 

 学園都市の極秘管理対象。

 

 研究者として、彼の能力には強い興味がある。

 

 だが、それ以上に。

 

 理解できないのは、彼の行動だった。

 

 研究対象を回収したと思えば、気まぐれで身柄を引き取る。

 

 その代わりに貴重な観測資料を提供する。

 

 研究施設の継続には、特に関心を示さない。

 

 善意なのか。

 

 悪意なのか。

 

 それとも、単なる好奇心なのか。

 

 丹羽には判断できなかった。

 

「……扱いにくい方ですね」

 

 深いため息。

 

 しかし、その直後。

 

 丹羽の口元に、薄い笑みが浮かんだ。

 

「……だからこそ、興味深い」

 

 その瞳には、研究者特有の光が宿っていた。

 

     ◇

 

 午後六時。

 

 久遠零司の部屋。

 

「……疲れた」

 

 少女がソファへ腰を下ろした。

 

 その足元には、今日購入した衣服や日用品が入った袋が置かれている。

 

 零司は隣で、購入してきたプリンを冷蔵庫へしまっていた。

 

「結構歩いたからね」

 

「……うん」

 

「でも、楽しかったでしょ?」

 

 少女は、少し考えた。

 

 人混み。

 

 買い物。

 

 初めて自分で選んだ服。

 

 そして、初めて入った店。

 

 研究施設にいた頃には、想像もしなかった出来事ばかりだった。

 

「……少し」

 

 小さく答えた。

 

 零司は笑った。

 

「そっか」

 

 少女は、テーブルの上に置かれた端末へ視線を向けた。

 

 研究施設から持ち出したものだ。

 

 ひび割れた画面。

 

 古い通信記録。

 

 差出人不明のメッセージ。

 

 外の世界には、まだ知らないことがたくさんある。

 

 それを知ることが、少しだけ楽しいと思えた。

 

 しかし。

 

 それと同じくらい。

 

 怖いことも、きっと存在するのだろう。

 

「……ねえ、零司」

 

「ん?」

 

「……今日、途中で見てたもの」

 

「ああ」

 

「……何だったの?」

 

 零司は少し考えた。

 

「気になる?」

 

「……うん」

 

「ふうん」

 

 少年は椅子へ腰を下ろした。

 

「君さ」

 

「……何?」

 

「この街って、どんな場所だと思う?」

 

 少女は首を傾げた。

 

「……学園都市」

 

「うん」

 

「……能力者がいて、研究所があって……」

 

「それから?」

 

「……科学が、発展してる場所」

 

 零司は頷いた。

 

「そうだね」

 

 そして、笑った。

 

「でも、それだけじゃないんだよ」

 

「……え?」

 

「この世界には、科学で説明できるものばっかりあるわけじゃないってこと」

 

 少女は、しばらく黙っていた。

 

 科学で説明できないもの。

 

 そんなものが、存在するのだろうか。

 

 自分の能力でさえ、研究施設では科学的に解明しようとしていた。

 

 研究者たちは何度も実験を繰り返し、数値を取り、理論を組み立てていた。

 

 どれほど奇妙な現象であっても、いつかは科学によって説明できる。

 

 そう教えられてきた。

 

「……そんなもの、あるの?」

 

「あるよ」

 

 零司は即答した。

 

「…………」

 

「まあ、信じるかどうかは君の自由だけどね」

 

 少女は眉をひそめた。

 

「……ちゃんと、説明して」

 

「んー」

 

 零司は考え込む。

 

 そして。

 

「今日はやめとこっか」

 

「……何で?」

 

「長くなるし」

 

「……それだけ?」

 

「うん」

 

 少女は、じっと零司を見つめた。

 

「……また、面倒くさいだけでしょ」

 

「あはは」

 

 零司は楽しそうに笑った。

 

「よく分かったね」

 

「……最低」

 

「はいはい」

 

 少年は笑いながら立ち上がった。

 

「じゃあ、夕飯どうしよっか」

 

「……話、終わってない」

 

「また今度ね」

 

「……絶対?」

 

「気が向いたら」

 

「……っ!」

 

 少女は、深いため息をついた。

 

 やはり。

 

 この少年は、どうしようもなく気まぐれだった。

 

     ◇

 

 同日、午後九時過ぎ。

 

 学園都市の夜。

 

 久遠零司は、自室のベランダに立っていた。

 

 手には、冷えた缶飲料。

 

 眼下には、無数の光が広がっている。

 

 研究施設。

 

 学生寮。

 

 商業施設。

 

 科学の粋を集めた巨大な都市。

 

 そのすべてが、夜の闇に浮かび上がっていた。

 

「……ふうん」

 

 零司は、街の一角へ視線を向けた。

 

 昼間、奇妙な痕跡を感じた方向。

 

 そこに、特別な変化はない。

 

 少なくとも、今は。

 

「……魔術師、ねえ」

 

 小さく呟く。

 

 懐かしい響きだった。

 

 科学と魔術。

 

 本来、異なる原理によって成立する二つの力。

 

 この街で暮らす大多数の人間は、魔術の存在など知らない。

 

 存在を知ったとしても、簡単には信じないだろう。

 

 しかし。

 

 零司は知っている。

 

 魔術が存在することを。

 

 その力が、時として科学では説明できない現象を引き起こすことを。

 

 そして。

 

 この世界には、学園都市の研究者たちが想像もしないような存在がいることを。

 

「……まあ」

 

 零司は缶飲料を口へ運んだ。

 

「僕には関係ないか」

 

 あっさりと呟く。

 

 今のところ、特別な興味は湧かなかった。

 

 誰かが魔術を使った。

 

 ただ、それだけのことだ。

 

 それを理由に動く必要などない。

 

 たとえ、何か大きな事件が起きていたとしても。

 

 自分が関わる理由がなければ、放っておけばいい。

 

 それが、久遠零司という少年だった。

 

 そのとき。

 

「……零司」

 

 背後から声がした。

 

「ん?」

 

 振り返る。

 

 そこには、N-13が立っていた。

 

 長い青緑色の髪。

 

 くすんだ赤茶色の瞳。

 

 今は零司から借りた部屋着を身につけている。

 

「……何してるの?」

 

「夜景見てた」

 

「……楽しい?」

 

「まあまあ?」

 

 零司は笑った。

 

 少女は、その隣へ歩いてきた。

 

 そして、ベランダから街を見下ろす。

 

「……綺麗」

 

 小さく呟いた。

 

 零司は頷いた。

 

「でしょ?」

 

「……うん」

 

 少女は、しばらく夜景を眺めていた。

 

 研究施設にいた頃。

 

 窓の外を見ることは、ほとんど許されなかった。

 

 まして、夜の街をこんなふうに眺めることなど。

 

 考えたこともなかった。

 

「……ねえ」

 

「ん?」

 

「……わたし、知らないことばっかり」

 

 零司は少女を見た。

 

「……そう?」

 

「……うん」

 

 少女は、街の光を見つめたまま続ける。

 

「……今日、初めて行ったお店も」

 

「うん」

 

「……自分で選んだ服も」

 

「うん」

 

「……あんなに、人がいることも」

 

 少女は、少しだけ微笑んだ。

 

「……全部、知らなかった」

 

 零司は黙って聞いていた。

 

「……それに」

 

 少女は振り返る。

 

「……科学じゃ、説明できないこともあるんでしょ?」

 

「あるよ」

 

「……だったら」

 

 少しだけ迷う。

 

 そして。

 

「……いつか、教えて」

 

 零司は目を瞬かせた。

 

「……何を?」

 

「……あなたが、知ってること」

 

 少女は、真っ直ぐに彼を見つめた。

 

「……わたしが、知らない世界のこと」

 

 零司は、しばらく黙っていた。

 

 そして。

 

「……へえ」

 

 小さく笑った。

 

「いいよ」

 

 少女が目を見開く。

 

「……本当?」

 

「うん」

 

 零司は夜空を見上げた。

 

「まあ、いつになるか分かんないけどね」

 

「……また、それ」

 

「あはは」

 

 少年は楽しそうに笑った。

 

 少女は、小さくため息をつく。

 

 しかし。

 

 その表情には、ほんの少しだけ笑みが浮かんでいた。

 

 知らない世界。

 

 研究施設の外に広がっていたもの。

 

 そして。

 

 そのさらに外側に存在するかもしれない、未知の領域。

 

 少女には、まだ想像することさえできなかった。

 

 だが。

 

 いつか、自分の目で見てみたい。

 

 そう思った。

 

     ◇

 

 同じ頃。

 

 学園都市の別の場所では、一人の少年が自分の知らなかった世界に巻き込まれていた。

 

 上条当麻。

 

 学園都市では珍しくもない、レベル0の高校生。

 

 彼は今、自分の常識では到底理解できない出来事に直面している。

 

 魔術。

 

 魔術師。

 

 そして、禁書目録と名乗る少女。

 

 それまで科学の街で暮らしてきた彼にとって、それらはあまりにも突拍子のないものだった。

 

 だが。

 

 彼は、目の前で苦しむ少女を見捨てなかった。

 

 自分に何ができるのか。

 

 そんなことを考えるより先に、手を伸ばしていた。

 

 その行動が、今後どのような結果をもたらすのか。

 

 彼自身、まだ知らない。

 

 そして。

 

 久遠零司もまた、そんな少年の存在を知らなかった。

 

 少なくとも。

 

 今は、まだ。

 

     ◇

 

「……あ」

 

 自宅のベランダ。

 

 零司が突然、声を上げた。

 

「……何?」

 

 少女が振り返る。

 

 零司は、空になった缶を眺めていた。

 

「プリン、食べるの忘れてた」

 

「…………」

 

「せっかく買ったのに」

 

 少女は、しばらく固まった。

 

 そして。

 

「……今、そんなこと考えてたの?」

 

「うん」

 

 零司は頷いた。

 

「だって、明日まで置いとくのもなぁって」

 

「…………」

 

 少女は、深いため息をついた。

 

 そして、ぽつりと呟く。

 

「……本当に、変な人」

 

「あはは」

 

 零司は楽しそうに笑った。

 

 そのまま部屋へ戻っていく。

 

 少女は、もう一度夜景を見下ろした。

 

 無数の光。

 

 その一つひとつに、自分の知らない誰かの生活がある。

 

 自分が知らない出来事がある。

 

 そして、もしかしたら。

 

 自分が知らない力さえ、存在しているのかもしれない。

 

「……知らない世界、か」

 

 少女は小さく呟いた。

 

 それから、零司の後を追って部屋へ戻った。

 

 科学と魔術。

 

 二つの異なる世界。

 

 本来、それらを知る人間は限られている。

 

 しかし、久遠零司は違った。

 

 彼は、その両方を知っている。

 

 そして、そのどちらにも縛られるつもりはなかった。

 

 正義も。

 

 悪も。

 

 科学も。

 

 魔術も。

 

 すべては、彼が興味を持つかどうか。

 

 それだけのこと。

 

 ――学園都市の第零位。

 

 その少年が、まだ顔も知らない幻想殺しの少年と交わる日は。

 

 少しずつ、近づいていた。

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