「……その端末、今も誰かに見られている可能性がありますよ」
七月二十二日、午後二時過ぎ。
学園都市第七学区の地下商店街。
小さな電子機器修理店で、作業着姿の店員が眉をひそめていた。
「……どういうこと?」
カウンター越しに尋ねたのは、長い青緑色の髪を持つ少女だった。
被験体番号、N-13。
ただし、現在の彼女をその番号で呼ぶ人間は、この場にはいない。
「これ、普通の携帯端末じゃないんですよ」
店員は分解した端末の内部を示した。
「通信基板に、後付けの部品が組み込まれています。製造元の標準仕様にはないものですね」
「……それって」
「外部から端末の状態を確認したり、特定の通信を受信したりするための装置だと思います。詳しい用途は調べないと分かりませんが」
少女の表情が強張った。
研究施設から持ち出した端末。
そこに、そんなものが仕込まれていた。
「……今も、動いてる?」
「電源は入っています。ただ、外部との通信が成立しているかどうかまでは、この設備じゃ確認できませんね」
店員は慎重に答えた。
少女は小さく頷く。
少なくとも、自分の知らない機能が存在していたことは分かった。
「……ありがとう」
「いえいえ。それで、こちらがご依頼の通信履歴なんですが――」
「へえ」
突然、横から声がした。
「面白いもの入ってるんだね」
少女の隣で、久遠零司が端末を覗き込んでいた。
黒髪に混じる銀色の髪。
眠たげな灰紫色の瞳。
黒と灰色を基調とした服装。
どこか気の抜けた笑みを浮かべた少年だった。
「……零司」
「ん?」
「……邪魔しないで」
「見てるだけじゃん」
「……近い」
「あ、ごめん」
零司は素直に一歩下がった。
もっとも、その視線は端末から離れていない。
「お連れの方ですか?」
店員が尋ねる。
「うん。まあ、そんな感じ」
零司が答える。
「……違う」
少女は即座に否定した。
「えー」
「……付き添い」
「それ、お連れの人って意味じゃない?」
「…………」
少女は返事をしなかった。
店員は苦笑しながら、解析結果を表示する。
「さて、こちらが残っていた記録です」
画面には複数の文字列が並んでいた。
通信時刻。
中継経路。
そして、端末の管理識別番号。
「送信者本人を特定できる情報はありません。ただ、この通信には施設内の管理番号らしいものが残っています」
「……管理番号」
「ええ。ここです」
店員が画面を指差した。
《中継管理識別:N-12》
「…………」
少女の呼吸が止まった。
「……え?」
もう一度、画面を見る。
N-12。
その文字列。
見覚えがあった。
忘れたくても忘れられない場所で、何度も目にしたものだった。
「……どうしたの?」
零司が尋ねる。
少女は答えない。
ただ、画面を見つめ続けていた。
そのときだった。
ピッ。
短い電子音。
続いて、店員の表情が変わる。
「……あれ?」
「……何?」
「端末から応答が……」
画面に警告が表示された。
《外部制御要求を検知》
《記録領域へのアクセス》
「……まずい!」
店員が慌てて接続を切断する。
だが、一瞬遅かった。
解析画面から、通信履歴の一部が消えた。
「……消された?」
「一部の記録が読めなくなりました。外部から操作された可能性があります」
少女の顔から血の気が引く。
誰かが。
今、この瞬間に。
自分の端末へ干渉した。
それも、調査を始めた直後に。
「……そんな」
「大丈夫ですよ」
店員が言った。
「さっきの表示内容は、こちらに一部保存してあります。確認用の出力もできますから」
少女は顔を上げた。
「……本当?」
「ええ」
「……お願い」
店員が印刷操作を始める。
その横で、零司が小さく笑った。
「……へえ」
「……何?」
「いや」
少年は店の入口へ視線を向けた。
「どうやら、来たみたいだね」
少女が振り返る。
そこには、二人の男が立っていた。
◇
「お嬢さん」
先頭の男が口を開いた。
作業員を装った地味な服装。
しかし、立ち方が普通ではない。
周囲の客を確認する視線。
出口を塞ぐ位置取り。
そして、上着の内側に隠された装備。
「その端末を、こちらへ渡してもらおう」
少女の身体が強張った。
「……誰?」
「ある研究機関から依頼を受けている」
「……研究所の人?」
「答える必要はない」
男が一歩踏み出す。
「その端末は、君が所有していいものではない」
少女は端末を抱きしめた。
「……嫌」
「抵抗しない方がいい」
「……渡さない」
男の表情が険しくなる。
しかし、その前に。
「ねえねえ」
零司が、ひょいと横から顔を出した。
「何の話?」
男が目を細める。
「君には関係ない」
「そう?」
零司は少女を指差した。
「でも、その子、僕の連れなんだけど」
「……っ」
少女が何か言いかけた。
だが、男の視線が自分へ向いていることに気づき、口を閉じる。
「……ならば、君にも協力してもらおう」
「えー」
零司は嫌そうな顔をした。
「僕、忙しいんだけど」
「何?」
「この後、ゲーム買いに行く予定なんだよね」
男の頬が引きつった。
「ふざけるな」
「今日はみんな機嫌悪いなぁ」
零司は肩をすくめた。
そして、少女へ顔を向ける。
「どうする?」
「……え?」
「端末。渡したい?」
少女は首を横に振った。
「……嫌」
「そっか」
零司は頷いた。
「じゃあ、渡さなくていいんじゃない?」
その瞬間。
男の手が動いた。
少女の腕へ伸ばされた手。
しかし。
その指先は、少女へ届かなかった。
「……なっ!?」
男の身体が、不自然な姿勢で停止していた。
踏み出した足は床についたまま。
伸ばした腕も、その位置から動かない。
まるで、身体の動きだけが何かに固定されたようだった。
「な、何を……!」
「ん?」
零司は笑った。
「まだ何もしてないよ?」
嘘だった。
ただし、それを指摘できる人間は誰もいなかった。
男が必死に身体を動かそうとする。
だが、動けない。
「……能力者か!」
「さてね」
零司は楽しそうに答えた。
その背後で、もう一人の男が携帯端末を操作する。
小さな電子音。
そして。
商店街の奥から、金属が擦れるような音が響いた。
◇
「……ん?」
通路を歩いていた少年が顔を上げた。
ツンツンと逆立った黒髪。
白いシャツの下から覗く赤いインナー。
片手には、食料品の入った買い物袋。
上条当麻。
学園都市に暮らす、ごく普通の高校生だった。
少なくとも、本人はそう思っている。
「……何だ?」
前方の通路が、妙に騒がしい。
足を止めた上条は、周囲を見回した。
すると。
ガァンッ!
突然、大きな金属音が響いた。
「うおっ!?」
通路脇の設備点検用シャッターが、固定具を外して傾き始めていた。
老朽化。
整備不良。
あるいは、何者かによる意図的な操作。
理由は分からない。
ただ、一つだけ明らかなことがあった。
その真下に、小さな子供がいる。
「……っ!」
上条は走り出した。
「危ねえっ!!」
少女のような小さな子供。
落下する金属製のシャッター。
間に合うかどうか。
そんなことを考えている時間はなかった。
上条は子供の肩を掴み、通路の端へ押し出した。
直後。
頭上から、巨大な金属板が迫る。
「……くそっ!」
反射的に、右手を突き出した。
だが。
その瞬間。
シャッターの動きが、不自然に遅くなった。
「……え?」
まるで、見えない何かが落下を支えているようだった。
上条は、驚きながらも右手を伸ばす。
そして。
金属板へ触れた。
パキンッ。
何かが砕けるような、小さな感覚。
次の瞬間。
シャッターが、再び大きく傾いた。
「うおおっ!?」
上条は慌てて身を引いた。
しかし、落下する金属板は彼へ直撃しなかった。
横方向へ弾かれたように軌道を変え、無人の通路脇へ叩きつけられる。
轟音。
床を震わせる衝撃。
周囲から悲鳴が上がった。
「……はぁっ、はぁっ……!」
上条は息を切らしながら、倒れたシャッターを見つめた。
「……何だ、今の……?」
そのとき。
「――へえ」
背後から、楽しそうな声が聞こえた。
「今の、君がやったの?」
上条が振り返る。
そこには、一人の少年が立っていた。
◇
久遠零司は、目の前の少年を見つめていた。
黒いツンツン頭。
学生らしい服装。
右手を押さえながら、こちらを警戒している。
どこにでもいそうな高校生。
外見だけなら、そう見えた。
しかし。
(……何だ、あれ)
零司は、内心で笑っていた。
シャッターが落下した瞬間。
零司は、その運動を制御した。
周囲の物理条件へ干渉し、落下速度を抑える。
人間が避難するまでの時間を確保する程度なら、造作もない。
そのはずだった。
ところが。
あの少年の右手が触れた瞬間。
局所的に、零司の干渉が途切れた。
金属板そのものが消滅したわけではない。
周囲の空間が壊れたわけでもない。
ただ、右手が触れた部分を中心として、能力によって成立していた条件が打ち消されたのだ。
零司は直後に別の位置へ干渉し、落下方向を修正した。
だから、誰も下敷きにならなかった。
しかし。
(……僕の能力が、消された?)
それは、初めての感覚だった。
能力を妨害されたことなら、過去にもある。
干渉を受けたことも。
条件を上書きされたことも。
だが、今の現象は違う。
競り合ったわけではない。
押し返されたわけでもない。
まるで、最初から存在していなかったかのように。
触れた部分だけが、当然のように無効化された。
「……ねえ」
零司は一歩近づいた。
「君、名前は?」
「……は?」
上条は眉をひそめた。
「いきなり何だよ」
「いや、気になって」
零司は笑った。
「さっきの右手、面白いね」
その言葉に、上条の表情が変わった。
「……お前」
「ん?」
「さっきのシャッター、止めてたのか?」
「まあね」
零司はあっさり頷いた。
「君が触るまでは、だけど」
「……ああ」
上条は、自分の右手を見下ろした。
そして、小さくため息をつく。
「……やっぱり、俺の右手のせいか」
「やっぱり?」
零司の瞳が細くなる。
「知ってるんだ?」
「……まあな」
上条は少し迷った。
見知らぬ相手に、自分の事情をどこまで話すべきなのか。
しかし、相手も明らかに能力者だった。
しかも、先ほどの落下物を止めようとしていたらしい。
少なくとも、今すぐ敵対する理由はなかった。
「俺の右手は、普通の能力とはちょっと違うんだよ」
「へえ」
「触れた超能力とか、そういう変な力を打ち消すことがある」
零司は、笑みを深めた。
「……なるほど」
その説明だけで十分だった。
能力者の力。
そして、おそらくは。
(……魔術も、かな)
確証はない。
だが、あの右手が持つ性質は、科学側の一般的な能力とは明らかに異なっていた。
異能を打ち消す力。
それが、どのような原理で成立しているのか。
今の零司には分からない。
だからこそ。
「……あはっ」
思わず笑みが零れた。
上条が眉をひそめる。
「……何だよ」
「いや、ごめん」
零司は楽しそうに答えた。
「ちょっと嬉しくて」
「嬉しい?」
「うん」
少年は、真っ直ぐに上条を見つめた。
「久しぶりに、知らないものを見つけたからさ」
上条は、何とも言えない顔をした。
「……お前、変な奴だな」
「よく言われる」
零司は笑う。
「それで、名前は?」
「……上条当麻」
「上条当麻、ね」
零司は、その名前を繰り返した。
「僕は久遠零司。よろしく」
そして、右手を差し出した。
「…………」
上条は、その手を見つめる。
少し考えた後。
「……おう」
右手を伸ばした。
二人の手が触れる。
その瞬間。
零司は、再び奇妙な感覚を覚えた。
ただの握手。
それ自体には、何の異常もない。
しかし、触れ合った部分では、零司が無意識に維持していたごく微細な能力干渉さえ成立しなくなっていた。
外部へ影響が広がることもない。
零司の力が失われたわけでもない。
ただ、その右手に触れている限り。
そこだけは、異能による書き換えを受け付けない。
(……本当に、消えてる)
零司は目を細めた。
灰紫色の瞳に、かすかな興奮が宿る。
(……面白いなぁ)
もっと詳しく調べたい。
どういう条件で発動するのか。
どこまで打ち消せるのか。
科学と魔術の両方に対して、同じように働くのか。
確かめたいことは、いくらでもあった。
だが。
「……おい」
「ん?」
「いつまで握ってるんだ?」
「あ、ごめん」
零司は手を離した。
上条は、少しだけ警戒した様子で彼を見る。
「……お前、何か企んでないだろうな」
「今は何も?」
「今は、って何だよ!?」
「気にしない、気にしない」
零司は笑った。
上条は深いため息をつく。
「……はぁ。不幸だ」
◇
「……零司!」
少女の声が響いた。
振り返ると、N-13が駆け寄ってきていた。
その手には、修理店で受け取った紙の記録が握られている。
「……大丈夫?」
「うん。僕はね」
零司は頷いた。
「君は?」
「……平気」
少女は答えた。
先ほどまで端末を奪おうとしていた男たちは、すでに動けなくなっていた。
零司が能力で拘束したまま、通報を受けた警備員が到着するのを待っている。
少女自身も、怪我はしていない。
ただ。
「……あの人たち、何者なの?」
「さあ?」
零司は首を傾げた。
「でも、丹羽さんの部下って感じじゃなかったね」
「……どうして?」
「丹羽さん、僕にあの子を追わないって約束したから」
零司は笑った。
「少なくとも、本人が直接命令したとは思えないかな」
少女は黙り込んだ。
丹羽宗一郎。
あの研究責任者以外にも、自分を狙う人間がいる。
その事実が、じわじわと恐怖を呼び起こしていた。
そのとき。
「……なあ」
上条が口を開いた。
二人が振り返る。
「お前ら、知り合いなのか?」
「うん」
零司は頷いた。
「最近知り合ったんだ」
上条は少女を見る。
その表情には、どこか不安そうな色があった。
「……さっきの連中、お前を狙ってたんだよな?」
少女は、小さく頷いた。
「……うん」
「何か、事情があるのか?」
「…………」
少女は答えられなかった。
どう説明すればいいのか、分からなかった。
研究施設。
実験体。
逃亡。
そして、今も続いている追跡。
初めて会った人間に、簡単に話せることではない。
その様子を見た上条は、頭をかいた。
「……あー、悪い。いきなり聞かれても困るよな」
「…………」
「でも、困ってるなら、誰かに相談した方がいいぜ」
少女が顔を上げる。
上条は続けた。
「一人で抱え込んでも、どうにもならないことってあるしさ」
それは、特別な言葉ではなかった。
誰にでも言えるような、ごく普通の助言。
しかし。
少女は、少しだけ目を見開いた。
「……どうして?」
「ん?」
「……どうして、そんなこと言うの?」
上条は首を傾げた。
「どうしてって……」
少し考える。
そして。
「困ってるように見えたから、じゃ駄目か?」
少女は何も言えなかった。
目の前の少年。
上条当麻。
彼は、自分の事情を知らない。
研究施設のことも。
能力のことも。
今、誰に狙われているのかも。
それなのに。
当然のように、手を差し伸べようとしている。
隣にいる久遠零司とは、まるで違っていた。
「……変な人」
思わず呟く。
「えっ!?」
上条が目を見開いた。
「いや、何で!?」
「……だって」
少女は少しだけ俯いた。
「……知らない人なのに」
「あー……」
上条は頭をかいた。
「まあ、確かにそうだけどさ」
それから、肩をすくめる。
「知らないからって、見捨てる理由にはならないだろ?」
その言葉を聞いた瞬間。
少女の表情が変わった。
そして。
「……零司」
「ん?」
「……この人」
少女は、上条を指差した。
「……あなたと、全然違う」
零司は笑った。
「うん。そうだね」
「……少しは見習ったら?」
「えー」
露骨に嫌そうな顔をする。
「僕は僕でいいじゃん」
上条は、二人のやり取りを眺めていた。
それから、小さく呟く。
「……何か、よく分かんねえ関係だな」
「僕もそう思う」
「お前が言うなよ!」
零司は楽しそうに笑った。
そのとき。
上条の携帯端末が鳴った。
「……ん?」
画面を確認する。
直後。
「……げっ」
上条の顔が引きつった。
「どうしたの?」
零司が尋ねる。
「……ちょっと、急いで戻らないと」
「ふうん」
「じゃあ、俺は行くわ」
上条は買い物袋を持ち直した。
それから、少女へ視線を向ける。
「さっきの話、無理に聞くつもりはねえけどさ」
「……うん」
「何かあったら、ちゃんと助けを呼べよ」
少女は、少しだけ迷った。
そして。
「……ありがとう」
小さく答えた。
上条は笑った。
「おう!」
そのまま、走り出す。
しかし、数歩進んだところで。
「……あっ!」
突然、足を止めた。
「どうしたの?」
零司が尋ねる。
上条は、手元の買い物袋を見下ろしていた。
袋の端が破れ、中に入っていた卵の容器が潰れている。
「…………」
数秒の沈黙。
そして。
「ふ、不幸だぁぁぁぁぁ!!」
商店街に、悲痛な叫びが響き渡った。
零司は一瞬だけ目を瞬かせる。
それから。
「……あははっ!」
堪えきれずに笑い始めた。
少女は、そんな二人を交互に見つめる。
「…………」
そして、小さく呟いた。
「……どっちも、変な人」
◇
午後五時過ぎ。
久遠零司の部屋。
少女は、テーブルの上に一枚の紙を置いた。
修理店で受け取った通信記録。
端末のデータは一部消されてしまったが、完全に失われたわけではない。
そこには、いくつかの情報が残されていた。
《受信日時:七月十九日》
《通信経路:施設内中継回線》
《中継管理識別:N-12》
少女は、その最後の文字列を見つめていた。
「……N-12」
小さく呟く。
久遠零司は、ソファに座りながら携帯端末を操作していた。
「ん?」
「……これ」
少女が紙を差し出す。
零司は受け取った。
「……ああ、さっきのやつね」
「……うん」
「N-12、か」
零司は文字列を眺めた。
「君の番号に似てるね」
「…………」
「研究所の管理番号かな」
少女は、しばらく黙っていた。
そして。
「……零司」
「ん?」
「……この番号、知ってる」
零司の指が止まった。
「……へえ」
顔を上げる。
「誰の?」
少女は、紙を握りしめた。
脳裏に、白い廊下が浮かぶ。
研究施設。
隣の部屋。
時折、廊下ですれ違った少女。
自分より、少し年上に見えた。
いつも疲れた顔をしていたけれど。
一度だけ。
研究者の目を盗んで、微笑みかけてくれたことがあった。
名前は知らなかった。
だが。
研究施設の人間が、その少女を呼ぶ声は覚えている。
『十二号。検査室へ移動しろ』
あの日。
少女は、いつものように呼び出された。
そして。
二度と戻ってこなかった。
「……隣の部屋に、いた子」
N-13が呟いた。
「……いなくなったって、話したでしょ」
「ああ」
零司は頷いた。
「前に言ってたね」
「……その子の番号」
少女は、ゆっくりと顔を上げる。
「……N-12だった」
零司の目が、わずかに細くなった。
「……ふうん」
紙へ視線を戻す。
研究施設内の通信経路。
そこに記録されていた管理識別番号。
そして、少女が覚えている、失踪した被験者の番号。
偶然かもしれない。
何者かが番号だけを利用した可能性もある。
実際に、その少女がメッセージを送ったのかどうかは分からない。
だが。
「……これは、面白くなってきたね」
零司が笑った。
少女は、その言葉に反応しなかった。
ただ、紙を見つめていた。
「……あの子」
小さな声。
「……死んだって、思ってた」
零司は黙って聞いていた。
「……研究所の人が、もう使えないって……」
少女の手が震える。
「……だから、もう会えないって……」
しかし。
もし、あの少女が生きているのなら。
もし、あのメッセージを送ったのが彼女なのだとしたら。
なぜ、迎えに来なかったのか。
なぜ、姿を見せないのか。
そして。
なぜ、研究施設の人間は彼女がいなくなったと説明したのか。
「……零司」
「ん?」
少女は顔を上げた。
その瞳には、以前とは違う強い意思が宿っていた。
「……わたし、あの子を探す」
零司は、数秒ほど彼女を見つめていた。
そして。
「……そっか」
小さく頷いた。
「……止めない?」
「何で?」
零司は首を傾げた。
「君が決めたんでしょ?」
「…………」
「なら、好きにすればいいよ」
少女は、静かに頷いた。
その瞬間。
零司の携帯端末が振動した。
「……ん?」
画面を見る。
差出人は、丹羽宗一郎。
短いメッセージだった。
『久遠様』
『お預けした被験体の件で、少々確認したいことがございます』
『特に、N-12という識別番号について』
『お時間をいただけませんでしょうか』
「…………」
零司は、画面を見つめた。
そして。
ゆっくりと笑った。
「……へえ」
先ほど、少女が口にした番号。
その同じ番号について。
研究責任者から連絡が届いた。
偶然にしては、出来すぎている。
「……どうしたの?」
少女が尋ねる。
零司は、携帯端末を彼女へ向けた。
「丹羽さんから」
「……っ!」
画面に表示された文章を読んだ瞬間。
少女の表情が強張った。
「……どうして……」
小さく呟く。
「……どうして、あの人が……」
零司は、楽しそうに笑っていた。
研究施設。
消えた被験者。
謎のメッセージ。
そして、久しぶりに遭遇した未知の力。
今日一日で、退屈な日常がずいぶん賑やかになった。
「……さて」
零司は端末を操作する。
『いいよ』
『明日、話そうか』
送信。
そして、少女へ視線を向けた。
「明日、丹羽さんと話すことにしたよ」
「……わたしも、行く」
即答だった。
零司は少し驚いたように目を瞬かせる。
「……本気?」
「……うん」
少女は、真っ直ぐに零司を見つめた。
「……あの子のこと、聞きたいから」
零司は、しばらく黙っていた。
それから。
「……いいね」
口元に、いつもの悪戯っぽい笑みが浮かぶ。
「じゃあ、一緒に行こっか」
少女は頷いた。
もう逃げるだけではない。
自分が何者なのか。
あの研究施設で何が起きていたのか。
そして、消えた少女は今どこにいるのか。
その答えを、自分の手で見つける。
彼女は、そう決めたのだ。
その隣で。
久遠零司は、再び携帯端末を手に取った。
画面には、別の文字列が表示されている。
《検索結果:上条当麻》
《所属:第七学区》
《能力判定:レベル0》
「……レベル0、ね」
零司は小さく呟いた。
科学の街で、最低の能力評価を受けた少年。
その右手は、零司の力さえ打ち消した。
少なくとも、触れた部分に限っては。
「……面白いなぁ」
少年は、楽しそうに笑った。
学園都市の第零位。
そして、幻想を殺す右手を持つレベル0。
その二人が出会ったことを、まだ誰も重要視していなかった。
――少なくとも、表向きには。