もしも異能がディスクロージャーされたら? 作:パラレル・ゲーマー
午後十二時五十分。
十月下旬の乾いた秋風が、高層ビルの谷間を抜けて渋谷駅ハチ公口前の広場を撫でていた。
頭上を覆う巨大な街頭ビジョンからは、軽快なポップミュージックとともに新作スマートフォンのコマーシャルが大音量で流れ落ちている。山手線のホームから響く発車ベルと電車の走行音、ロータリーでアイドリングを続ける路線バスの重低音、そして何千という人間が同時に靴底を鳴らし、言葉を交わす雑踏のざわめきが、いつもの平日の昼下がりを形作っていた。
歩行者用信号機の電子音が鳴り響き、四方のシグナルが一斉に青へと切り替わる。
その瞬間、堰を切ったように全方位から人の波がスクランブル交差点へと流れ込んだ。
昼食を終えてオフィスへと戻るスーツ姿の会社員が、片手でネクタイを直しながら早足で白線の上を歩いていく。テイクアウトのカフェラテを手にした大学生のグループが笑い声を上げ、大型のスーツケースを引いた外国人観光客たちが、交差点の中央付近でスマートフォンを高く掲げて記念撮影に興じている。誰もがそれぞれの目的地へ向け、見慣れた東京の日常を疑うことなく消費していた。
そんな交差点の一角、ハチ公前広場から横断歩道へと差し掛かる歩道の縁で、一組の男女が足を止めていた。
男は二十代後半ほどに見えた。くすんだ色のフード付きジャケットにジーンズという、街中にいくらでも紛れ込めそうな無難な私服姿だ。対する女も同じくらいの年齢で、落ち着いたベージュのトレンチコートを羽織っている。
どこにでもいる若いカップルか、あるいは職場の同僚か。ただ一つ周囲から浮いていたのは、女が隠そうともせずに放っている険しい剣幕だった。
「――いい加減に目を覚まして。今ならまだ、上の連中にも私の手違いだったで通せるわ」
女は声を潜めようとしていたが、抑えきれない焦燥がその語気を鋭くしていた。
だが、男は煩わしそうに視線を逸らし、吐き捨てるように応じた。
「お前の都合なんか知るかよ。俺はもう抜けたんだ、あんな場所とは無関係だ」
「無関係で済むわけないでしょう! 自分が何をやったか、どれだけのものを敵に回したか理解してるの!?」
「理解してるからこうして出て行くんじゃねえか! 頼むから放っておいてくれ、お前まで巻き込みたくねえんだよ!」
男が苛立たしげに声を荒らげたことで、周囲を歩いていた数人がちらりとそちらへ視線を向けた。
「うわ、なんか揉めてるぞ」
「昼間っから修羅場かよ。別れ話かな」
「あんまり見ない方がいいって、目ぇ合うと面倒だぞ」
通りすがりの学生や会社員が、好奇心と苦笑いを浮かべて小声で囁き合う。だが、立ち止まって仲裁に入るような者はいない。渋谷の街角において、男女の痴話喧嘩など珍しい見世物ですらないからだ。大半の通行人は一瞥をくれただけで、再び自分のスマートフォンの画面や進行方向へと意識を戻していく。
男は周囲から向けられる好奇の目に気づき、舌打ちをしてフードを目深に被り直した。
「……とにかく、俺は行く。これ以上つきまとうなら、お前だろうと容赦しないぞ」
「待ちなさい! まだ話は終わってないわ!」
踵を返した男の肩を掴もうと、女が一歩踏み出して右手を伸ばした。
その指先が男のジャケットの布地にかすり、そして空を切った。
次の瞬間、世界の前提が音を立てずに剥がれ落ちた。
男が、浮いたのだ。
膝を曲げて地面を蹴ったわけではない。助走をつけて跳躍したのでもない。まるで彼自身の体重という概念だけが地球から切り離されたかのように、スニーカーの裏がアスファルトからふわりと離れた。
そのまま男の身体は、直立した姿勢を崩さずに垂直へと昇っていく。
一メートル。三メートル。五メートル。
街路樹の枝葉を抜け、信号機の支柱を追い越し、瞬く間にスクランブル交差点を埋め尽くす人々の頭上へと抜け出した。
すぐ近くにいた数人の通行人が、ぽかんと口を開けて頭上を見上げた。
「……え?」
誰かの喉から、間の抜けた声が漏れた。
悲鳴は上がらなかった。恐怖を感じるよりも先に、網膜が捉えた映像を脳が処理しきれず、思考が空白に陥ったのだ。
「おい、あれ……今、下から浮かなかったか?」
「は? 何あれ、どうなってんの?」
男の身体はビルの四、五階ほどに相当する、地上十数メートルの高さでぴたりと静止した。風が彼のジャケットの裾を揺らしている。足元には足場もなければ、台座もない。ただ虚空に、一人の人間が立っていた。
一人、また一人と、空を見上げる人間が増えていく。
誰かが指を差すと、周囲の歩行者もつられて視線を上へと向けた。
「え、すご。マジシャン?」
「いやいや、ワイヤーだろ。ほら、どっかのビルの屋上からクレーンで吊ってんだよ」
「あー、映画のゲリラ撮影か何か? それかYouTuberのドッキリ企画とか」
「最近のワイヤーアクションってあんなに糸見えないもんなの? ドローンで吊ってるにしては音がしないけど……」
交差点のあちこちから、納得したような声や感嘆の笑い声が上がり始めた。超常現象など存在するはずがないという強固な常識が、目の前の異常を「精巧なトリック」や「大掛かりな宣伝イベント」という既知の枠組みへと自動的に変換していく。
若者たちは次々とポケットからスマートフォンを取り出し、カメラアプリを起動して上空の男へとレンズを向けた。面白いものに出くわした、SNSに上げればバズるかもしれない――その程度の軽薄な熱気が、交差点の中央に広がりつつあった。
しかし、地上に残された女だけは、まったく異なる種類の汗を額に浮かべていた。
彼女は周囲で一斉に構えられた無数のスマートフォンと、足を止め始めた群衆を見回し、血の気の引いた顔で上空の男を睨み上げた。
「……正気なの!? ここがどこだか分かってるの!?」
彼女の叫びは、雑踏とビジョンの音楽にかき消された。女は一度だけ唇を噛むと、再び男を見上げた。
男が上空から彼女を一瞥し、逃げるように身体の向きを変えようとする。
「っ、待ちなさいってば!」
女が奥歯を噛み締め、コートの裾を翻した。
直後、彼女の身体もまた、見えない糸に引き上げられるように地上から浮かび上がった。
一段飛ばしで階段を駆け上がるよりも速く、空気そのものを蹴りつけるような鋭い軌道で、女は一気に十数メートルの高度へと到達し、男の正面に回り込むようにしてピタリと停止した。
交差点を包んでいた呑気な空気が、ざわりと揺らいだ。
「……えええっ!?」
「おい、今の女も飛んだぞ!」
「ちょっと待って、今の見た!? 下から一気に飛び上がったぞ、ワイヤーなんか絶対ついてなかったって!」
「撮影なんだよな!? なあ、カメラどこにあんだよ!」
どよめきが波紋のように広がっていく。一人だけなら、まだ大掛かりな手品や仕掛けだと笑っていられた。だが、直前まで目の前の歩道で口論していた二人が、何の器具もなしに次々と空へ飛び上がり、ビルの中空で睨み合っている。
横断歩道を渡りかけていた人々も、完全に足を止めて空を見上げていた。
地上十数メートルの虚空で、女が鋭く男を指差した。
「今すぐ降りなさい! まだ騒ぎを揉み消せるギリギリのラインよ、ここで一線を越えたら本当にあなたを守れなくなる!」
「守ってくれなんて頼んでねえよ! 俺の人生にこれ以上口を出すな!」
男が吼え、女に向けて右腕を乱暴に突き出した。
手のひらから何かが発射されたようには見えなかった。閃光もなければ、煙もない。
だが、直後に大気が爆ぜるような鈍い重低音が響き、女のすぐ目の前の空間が歪んだ。
ドン、と空気の塊が激突したかのような衝撃が走り、女の身体が木の葉のように後方へ十メートルほど吹き飛ばされた。
しかし、女は落下しなかった。空中で一回転して体勢を立て直すと、見えない壁に靴底を押し当てたかのように、空中で強引に踏みとどまったのだ。
地上でそれを見上げていた人々の間から、困惑した声が漏れる。
「……え? 今、何が起きた?」
「男が手を伸ばしたら、女の人が吹っ飛んだぞ……」
「離れてるのにどうやって殴ったんだよ? 風か?」
地上の戸惑いをよそに、空中の女は表情を険しく引き締めた。もはや言葉で説得できる段階ではないと腹を括った目だった。
女の身体が前傾したかと思うと、その姿が弾丸のように加速した。
重力を無視した水平移動ではない。戦闘機のような推進音すら伴わず、ただ純粋な運動エネルギーの塊となって一直線に男へと肉薄する。
男が咄嗟に真横へと飛び退いた。空中で直角に軌道を曲げるという、人間の三半規管や物理法則を嘲笑うかのような機動だった。
二人の影がビルの谷間を高速で交差し、上空で激しくぶつかり合う。拳や蹴りが交錯するたびに、空気が軋むような乾いた衝撃音が地上まで落ちてきた。
止まる、跳ぶ、急降下する、真横へ滑る。ヘリコプターでもドローンでも不可能な、人間の肉体そのものによる三次元の格闘戦が、渋谷の青空の下で繰り広げられていた。
「くそっ、しつこいんだよ!」
女の鋭い連撃に押され始めた男が、焦りを含んだ声で叫び、至近距離から再び片手を突き出した。
女は空中で身を捩り、紙一重でその射線から外れる。
目標を失った一撃は勢いを緩めることなく直進し――交差点の角に建つ雑居ビルの四階外壁へと直撃した。
ズガアアアンッ!!
落雷がすぐ隣に落ちたかのような轟音が、渋谷の街を揺らした。
ビルのコンクリート外壁が内側から抉られたように爆ぜ飛び、取り付けられていた大型の袖看板が、鉄骨の支柱ごと飴細工のようにひしゃげて傾いた。さらにその衝撃で、三階から五階にかけての窓ガラスが一斉に粉砕される。
砕け散った無数のガラス片とコンクリートの破片が、秋の陽光をキラキラと反射しながら、すぐ下の歩道へと降り注いだ。
ガシャアアアン! パラパラパラッ!
硬質な破砕音が路上に響き渡り、白い粉塵がビルから煙のように噴き出す。
一拍の空白ののち、誰かの喉から引きつった絶叫が飛び出した。
「きゃあああああああっ!!」
「うわあ!? ビ、ビルが壊れたぞ!?」
「おい、やばいってこれ! 撮影じゃねえ、本物だ!!」
「看板が落ちてくるぞ! 建物から離れろ、早く!」
直前までスマートフォンを構えて笑っていた若者たちの顔から、一気に血の気が引いた。
CGでもなければ、安全管理されたスタントでもない。頭上で戦っている二人は、文字通りビルを破壊するほどの暴力を振り回しているのだ。
ビル直下の歩道にいた人々が、頭を抱えて車道側へと飛び出してくる。しかし、交差点の中央にいた数百人の群衆は、まだ全員が逃げ出せたわけではなかった。あまりにも現実離れした光景を前に、足がすくんでその場に立ち尽くす者、何が起きたのか理解できずにキョロキョロと周囲を見回す者が入り乱れ、人の流れが完全に滞留してしまったのだ。
歩行者用信号が青から点滅へと変わり、やがて赤になる。
交差する車道の信号が青に変わり、先頭にいたタクシーや配送トラックが発進しようとしたが、横断歩道の上には空を見上げたまま凍りついている無数の歩行者が溢れかえっていた。
プアアアアーーッ!
苛立ったクラクションが幾重にも鳴り響く。しかし歩行者は退かないどころか、運転席のドライバーたち自身がフロントガラス越しに上空の異常事態を見つけ、ブレーキを踏んだまま呆然と動きを止めてしまった。
日本屈指の交通量を誇る渋谷スクランブル交差点が、わずか数分のうちに機能不全へと陥り始めていた。
その上空では、攻防がさらに激しさを増していた。
女は男が放つ衝撃を最小限の動きで躱しながら、ビル街の外側――人の少ない方角へと男を誘導しようと立ち回っていた。
「これ以上街中で暴れたら、本当に処分対象になるわよ! 大人しく投降しなさい!」
「投降すれば助かるとでも思ってんのか!? あそこに戻ったら最後、俺はどうせ二度と外には出られねえんだ!」
男の顔には、追い詰められた獣のような必死さが張り付いていた。彼の能力は女よりも一撃の破壊力に優れているようだったが、精密な空中機動と体術においては女の方が一枚上手だった。じりじりと高度を下げられ、退路を塞がれていく男が、荒い息を吐きながら空中で急停止した。
男の視線が、ふと真下――スクランブル交差点の中央で足を止めている大勢の一般市民へと落ちた。
対峙していた女の背筋が、氷水を浴びたように凍りつく。
男が何を考え、どこへ照準を定めようとしているのか、そのわずかな視線の動きだけで女には痛いほど理解できたからだ。
「……まさか。やめなさい、そこには一般人が――!」
女が制止の声を上げるよりも早く、男は血走った目で地上へと右腕を振り下ろした。
「邪魔するなら、そいつらの相手でもしてろ!!」
自分が逃げるための隙を作る。ただそれだけの目的で、男は全力の撃ち込みを地上の群衆へと放った。
上空の大気が不自然に圧縮され、目に見えない巨大な鉄槌となって、数百人が密集する交差点のど真ん中へと垂直に落下していく。
地上の人々は、自分たちの頭上に死が迫っていることにすら気づいていなかった。ただ、空中の男がこちらに手を向けたのを、スマートフォンの画面越しにぼんやりと眺めていた。
「させないっ!!」
女は男への追撃を完全に捨て、自らの身体を投げるようにして垂直降下した。
重力加速度すら置き去りにする猛烈なスピードで落下する圧力の奔流に追いつくと、地上の人々のわずか数メートル上空へ強引に割り込む。
女が両腕を左右へ大きく広げ、空を仰いだ。
彼女の前面で空気が陽炎のように激しく揺らぎ、ガラスにも似た半透明の薄い膜のようなものが展開された。
直後――世界が爆ぜた。
ドゴォォォォォンッ!!
鼓膜を直接金槌で殴りつけられたかのような、暴力的な衝撃音だった。
女の展開した障壁が男の一撃を正面から受け止め、行き場を失った衝撃が全方位への暴風となって弾け飛んだ。
真下にいた群衆を、台風並みの突風が上から叩きつける。
女性たちの長い髪が激しく逆立ち、スーツの男たちのジャケットが引き千切れんばかりにはためく。誰かが被っていたキャップや手提げ袋、書類の束が一瞬で宙へと舞い上がった。
さらに、障壁で受け止めきれずに横へと逸れた衝撃の余波が、交差点のアスファルトを直撃した。
バキィッ、ズズズッ……!
分厚く舗装された路面が蜘蛛の巣状に陥没し、白線のペイントごと砕け散った小石が散弾のように周囲の車のボディを叩く。
衝撃波は遅れて周囲の建物へと到達し、ハチ公口前の駅舎や商業ビルの窓ガラス、街路のショーウィンドウを共振させた。ビルの壁面という壁面がビリビリと不気味に震え、耐えきれなくなったガラスが次々と割れ落ちていく。
キィィィン、と鋭い耳鳴りが交差点中の人間の頭蓋を支配した。
舞い上がったアスファルトの粉塵が視界を白く濁らせ、鼻腔を焦げたような埃っぽい匂いが突き刺す。
一歩遅れて、自分が今まさに殺されかけたのだという事実が、本能的な恐怖として群衆の脳髄に突き刺さった。
「……ひっ、あああああああっ!!」
「逃げろおおおおおっ!! 殺されるぞ!!」
「テロだ! 爆弾だ、ここにいたら死ぬ!!」
パニックが爆発した。
交差点と駅前広場、周辺の歩道にいた人々が、数千人規模の人波となって四方へ逃げ出したのだ。
もはやスマートフォンの画面を見ている者は一人もいなかった。誰もが血相を変え、すぐ隣にいる他人を突き飛ばしてでも安全な建物の陰や地下街の階段へと逃げ込もうと殺到する。
「押すな! 押すなよ、前に人が倒れてるんだ!」
「痛い、誰か起きて! 踏まないで!」
「離しちゃダメ、しっかりお母さんの手を握ってなさい!」
人と人が激しくぶつかり合い、足をもつれさせて転倒する者が続出する。手から滑り落ちたスマートフォンが何十人もの革靴やスニーカーに踏みつけられ、液晶画面がバキバキに砕けていく。片方だけ脱げたパンプスや、中身をぶちまけた買い物袋が路上に散乱し、転んだ幼い子どもを母親が必死に覆いかぶさるようにして抱きしめる。
車道では、パニックになって走り出した歩行者を避けようと、進入しかけていた車が一斉に急ブレーキを踏んだ。タイヤがアスファルトを削る甲高いスキール音が鳴り響き、後続車がバンパーに追突する鈍い金属音が重なる。
悲鳴、怒号、子どもの泣き声、クラクション、そしてガラスの砕ける音。
数分前まで穏やかな日常を謳歌していた渋谷の中心地は、瞬く間に地獄のような混乱の渦へと叩き込まれた。
その狂乱のわずか数メートル上空で、女は肩で荒い息をしながら浮いていた。
先ほどの衝撃を受け止めた反動なのか、コートの袖は風圧で裂け、下ろした右手の指先がわずかに痙攣している。それでも彼女は地上へ落ちることなく、信じられないものを見る目で上空の男を睨み据えていた。
「……あなた、自分が何をしたか分かってるの!? 一般人を巻き込んだら、もうどこにも逃げ場なんてないのよ!」
その声には、怒りを通り越した戦慄が滲んでいた。彼らが属する世界のどんな掟に照らし合わせても、白昼の群衆に対する無差別攻撃など、絶対に許される行為ではなかったからだ。
だが、上空の男は答えない。自分のやったことの重大さに一瞬だけ顔を歪めたものの、すぐに表情を押し殺し、女から距離を取るようにじりじりと高度を上げていった。
その時、雑踏の悲鳴を切り裂くように、複数のパトカーのサイレンが駅前ロータリーへと滑り込んできた。
駅前交番に詰めていた警察官たちや、周辺を警邏中だった自動車警ら隊の隊員たちが、異変を聞きつけて駆けつけてきたのだ。
すでに警視庁の通信指令本部はパンク寸前に陥っていた。渋谷周辺から一斉に発信された数百件もの一一〇番通報が、オペレーターたちのヘッドセットを埋め尽くしていたからである。
『渋谷のスクランブル交差点で爆発が起きてます! ビルが崩れて人がたくさん倒れてて――』
『違うんです、空に人が浮いてるんです! 男と女が空中で殴り合ってて、そこから見えない爆発みたいなのが……!』
『酔っ払ってなんかいねえよ! 窓から見てんだよ、本当に人間が空を飛んで戦ってんだってば!』
支離滅裂で、到底現実の出来事とは思えない通報内容の嵐。しかし、現場に到着してパトカーから飛び降りた警察官たちは、それが集団幻覚でもいたずら電話でもないことを、自らの眼球で突きつけられることになった。
「……な、なんだありゃあ……!?」
若い巡査が、制帽が落ちそうになるのも構わず真上を見上げて絶句した。
ビルの谷間、地上二十メートルほどの空間を、二人の人間が縦横無尽に飛び回りながら激しく衝突している。男が放った衝撃が街路樹の先端をなぎ払い、折れた太い枝が車道へと落下してきた。
「馬鹿野郎、ボサッと上を見てるな!」
同行していた年配の警部補が、若い巡査の肩を強く叩いて怒鳴りつけた。
警部補の額にも脂汗が滲んでいたが、その目はパニックには陥っていなかった。彼はかつて幹部昇任時に受けた、決して外部に漏らしてはならない「特別研修」の内容を即座に脳裏へ呼び起こしていたのだ。
『――万が一、通常の物理法則や科学常識では説明のつかない特殊事案に遭遇した場合、現場の警察官は決して独断で制圧を試みてはならない。直ちに周辺市民の避難誘導と現場封鎖を行い、指定された連絡窓口へホットラインを繋ぐこと』
研修で聞かされた時は、カルト宗教か新種のテロ対策の比喩だろうと半信半疑だった。だが、今まさに頭上で起きている現象は、紛れもなくその「特殊事案」そのものだった。
「いいか、俺たちじゃ手出しできん! 拳銃も抜くな、相手を刺激するだけだ! 今はとにかく市民を交差点から遠ざけろ、怪我人を建物の陰へ運ぶんだ!」
「は、はいっ!」
警部補は部下たちを怒鳴りつけて走らせると、パトカーの無線機ではなく、自身の内ポケットから取り出した業務用端末で特定の秘匿番号をコールした。
その間にも、他の警察官たちが拡声器を握りしめ、パニックで逃げ惑う群衆へと必死に声を張り上げていた。
「危険ですからスクランブル交差点から離れてください! ガラスが落ちてきます、ビルの真下には立ち止まらないでください!」
「立ち止まって撮影している方! 命に関わります、今すぐその場から避難してください!」
しかし、避難誘導は困難を極めていた。
通常の爆破テロや通り魔事件であれば、発生源から遠ざかるように誘導すればいい。だが今回の「発生源」は、頭上の空を高速で移動し続けているのだ。
ハチ公口側へ逃がそうとすれば、上空の男がそちらへ向けて牽制の衝撃波を放ち、センター街の方角へ誘導しようとすれば、二人の軌道がそちらのビルの上へと移る。
しかも男は、女が一般市民への被害を防ぐために無理をして盾になることを見抜き始めていた。女が間合いを詰めようとするたび、男はわざと地上で逃げ遅れた人々や周辺のビル看板を狙って攻撃を散らす。そのたびに女は追撃を中断し、急降下して透明な障壁を展開せざるを得なかった。
女は明らかに防戦一方に追い込まれ、肩で息をしながら空中で歯噛みしていた。
事件発生から、すでに八分あまりが経過していた。
この渋谷という街には、一般人や警察官だけでなく、常に情報の匂いを嗅ぎ回っている人種が数多く出入りしている。
近くの商業施設で街頭インタビューのロケを行っていた民放テレビ局の取材クルーが、地鳴りのような轟音とサイレンの音を聞きつけ、機材を抱えてスクランブル交差点の外縁へと走ってきたのはその時だった。
「おい、なんだこの人だかりは! ガス爆発か!?」
「分かりません、警察が線を張ってます! でも、みんな上を――」
音声スタッフの言葉に、ベテランのカメラマンが反射的に肩の上の業務用ENGカメラを頭上へと向け、ファインダーを覗き込んだ。
ズームレンズが焦点を結び、液晶モニターに映し出された映像を見て、カメラマンの呼吸が止まった。
「……おい、嘘だろ。なんだ、あれは……」
ファインダーの向こう、見慣れた渋谷のビル群の真ん中で、トレンチコートの女とジャケットの男が空を飛びながら撃ち合っていた。女が宙で身を翻し、男が放った一撃が背後の広告看板を粉々に吹き飛ばす。
「ま、回せ! 今すぐ本社に繋げ、生で割り込ませろ!」
ディレクターが裏返った声で叫んだ。
その判断は、他の報道機関でも同時多発的に下されていた。渋谷周辺にいた複数のテレビ局のクルーや、通信社のカメラマンたちが次々と現場へ集結し、一斉に上空へとレンズを向けたのだ。
ほどなくして、全国のテレビ画面で放送されていた昼のワイドショーや情報番組が、緊急速報へと次々に切り替わった。
『――ここで緊急のニュースが入ってきました。現在、東京都渋谷区の渋谷駅前で、大規模な騒動が発生している模様です。現場からの中継が繋がっています!』
スタジオのアナウンサーの緊迫した声とともに、画面が渋谷スクランブル交差点の生映像へと切り替わる。
画面のすぐ手前では、警察官が声を枯らして人々を誘導し、割れたガラスや荷物が散乱する道路を市民が泣き叫びながら走っている。
そしてカメラがぐっと上空へパンすると、青い空を背景に、何の支えもなく宙に浮かび、超高速で交錯する二人の男女の姿が鮮明に映し出された。
『ご、ご覧いただけますでしょうか……! 現在、渋谷スクランブル交差点の上空に、二人の人物が確認できます! ワイヤーや飛行装置のようなものは一切見当たりません、人間がそのままの姿勢で空中に浮き、激しく動き回っています!』
現場のリポーターが、ヘルメットを手で押さえながら震える声でマイクに向かって叫んでいた。報道に携わる者として、目の前の光景をどう形容すればいいのか分からず、ただ見えている事実だけを必死に言葉にしているのが画面越しにも伝わってきた。
その中継カメラの目の前で、空中の男が大きく腕を振った。
ズドンッ! と空気が爆ぜ、女が展開した見えない壁とぶつかり合って火花のような大気の歪みを散らす。余波の暴風が吹き下ろし、中継スタッフの機材を揺らした。
『うわあっ!?』
カメラマンが反射的に身をすくめ、肩に担いだカメラが大きく揺れる。リポーターも悲鳴を上げてしゃがみ込んだ。それでもカメラマンは姿勢を立て直し、再び上空の二人をファインダーの中心に収めた。映像は途切れず、全国へと送り続けられていた。
しかも、映像を捉えていたのは一局だけではなかった。
現場を取り囲む数え切れないスマートフォンが、それぞれ別の角度から同じ現象を撮影していた。動画は次々とSNSや配信サイトへ投稿され、複数のテレビ局の生中継が、同じ渋谷の空を映し出していた。
そんな混乱の極みにあるスクランブル交差点の外周――道玄坂へと続く規制線のすぐ外側へ、サイレンも赤色灯もつけていない数台の黒塗りのセダンとワンボックスカーが、タイヤを鳴らして滑り込んできた。
ドアが同時に開き、中から降りてきたのは、男女十数名の集団だった。
全員が飾り気のない濃紺や黒のスーツを着用しており、年齢は二十代から五十代まで様々だ。一見すると官公庁の役人か、あるいは公安警察の私服警官のようにも見える。
しかし、彼らには周囲の警察官や報道陣とは決定的に異なる点があった。
誰もが血相を変えて空を見上げ、あるいはパニックに陥っているこの異常空間において、彼らだけが恐ろしいほど冷静だったのだ。
黒服たちは車から降りるなり、上空で交錯する男女の姿をちらりと確認しただけで、驚きの声ひとつ上げなかった。まるでそれが「起こり得る事態」であり、自分たちが対処すべき日常業務の延長でしかないとでも言うような、徹底して事務的な目つきだった。
リーダー格と思しき四十代ほどの黒服の男が、現場で指揮を執っていた先ほどの警部補のもとへと大股で歩み寄った。
「特殊事案への対処は、こちらが担当します。警察には規制線をさらに百メートル後方へ下げ、一般人の避難と救急車両の動線確保を続けていただきたい」
黒服の男が内ポケットから取り出した手帳を開いて見せる。そこには通常の警察手帳や省庁の身分証とは異なる、特殊な紋章と認証コードが刻まれていた。
特別研修を受けていた警部補は、その紋章を一目見るなり背筋を伸ばし、短く敬礼した。
「……了解しました! こちらは避難誘導と現場規制を継続します!」
警部補が部下たちに規制線の後退と避難誘導の指示を飛ばす中、安全な歩道橋の上やバリケードの向こう側からそれを見ていた野次馬たちが、怪訝そうに眉をひそめた。
「おい、あいつら誰だ? 公安か?」
「でも拳銃も防弾チョッキも着けてないぞ。ただの役人に見えるけど……」
「あんな化け物みたいな連中が空で暴れてんのに、なんであんなに落ち着いてんだよ……?」
一般市民の目には、彼らの存在そのものがまた別の不気味さとして映っていた。
黒服の男――日本国内の超常事象を管理する秘匿機関の実働責任者は、インカムに指を当てながら上空の戦況を鋭く観察していた。
都内に張り巡らされた因果律改変反応センサーが、渋谷駅周辺で大規模な数値の跳ね上がりを検知したのは十数分前。センサーが弾き出せるのは「いつ」「どこで」「どの程度の規模の現象が起きたか」という数値データだけであり、誰がどんな能力を行使しているかまでは現場で直接確認するしかない。
「班長、上空の対象二名を確認。片方は当機関の追跡対象、もう一名は先発の接触要員と見られますが、交戦の規模が想定を超えています」
双眼鏡型の測定器を覗いていた部下の女が、早口で報告を上げてくる。
「地上から鎮圧措置を取りますか?」
「待て。今は手を出すな」
責任者の男は即座に首を振った。
「まだ交差点の周辺に一般人が大勢残っている。ここで我々が介入して彼を追い詰めれば、先ほどのような広範囲攻撃を無差別に連発されかねん。まずは人命の保護と避難完了が最優先だ。包囲網を維持しつつ、周辺ビルの屋上へ要員を配置しろ」
部下たちは短く応じ、取り残された人々の位置と、上空の二人の動きを同時に確認し始めた。
だが、もう一人の部下がタブレット端末の画面を責任者へと向けた時、彼の眉間に初めて深い皺が刻まれた。
「班長……複数のテレビ局が全国ネットで生中継しています。現場の一般人による動画投稿も増え続けていて、情報担当が全体を把握しきれていません」
責任者の男は、少し離れた規制線の向こうで、別のテレビカメラが三脚に据えられ、赤いタリーランプを点灯させたまま上空の二人を捉えているのを見た。
一瞬、いつもの事故処理の手順が頭をよぎった。ガス管の破裂、撮影中の事故――だが、どんな説明を用意したところで、カメラの向こうでは二人の人間が現に空を飛んでいる。
責任者は視線をカメラから外し、上空の二人へ戻した。
「……隠蔽工作は後回しだ。今は目の前の現場を収めることだけを考えろ」
責任者は奥歯を噛み締め、低く指示を飛ばした。
その地上での動きに、上空の男も気づいたようだった。
女の激しい追撃をなんとかしのぎながら、男がちらりと眼下のロータリーへ視線を走らせる。黒塗りの車両の列と、整然と配置につき始めた黒いスーツの集団。そして、自分たちに向けて無数に突きつけられた報道用の大型カメラと、何千というスマートフォンのレンズ。
「……チッ、もう嗅ぎつけてきやがったか! どいつもこいつも、面倒なことばっかり増やしやがって!」
男が悪態をつき、大きく後方へと飛び退いた。
女は呼吸を乱しながらも、決して男から目を逸らさずに間合いを詰める。
「だから言ったでしょう! あなたがこんな場所で力を使った時点で、もうおしまいなのよ! これ以上罪を重ねる前に止まりなさい!」
「お前がしつこく追いかけてくるからだろうが! だったら最初から俺を見逃せばよかったんだ!」
「そんなことできるわけないでしょう!」
女が再び加速し、男の懐へと飛び込もうとした。
男は女を狙うのではなく、自らの両腕を胸の前で交差させると、周囲の空間そのものを押し広げるようにして大きく振り払った。
「邪魔だあああっ!!」
男を中心にして、全方位へと凄まじい衝撃が炸裂した。
ゴオオオオオッ! と空気が咆哮を上げ、局地的な竜巻のような暴風が交差点の上空で吹き荒れる。
周囲のビルの残っていた窓ガラスが一斉に砕け散り、傾いていた看板がバキバキと音を立てて外壁から剥がれ落ちた。地上では、避難誘導にあたっていた警察官たちの制帽が吹き飛び、路上に落ちていた紙くずやプラスチックの破片が空高く巻き上げられる。
「くっ……!」
女は突風の中で舌打ちをした。そのまま突っ込めば男に一撃を叩き込める間合いだったが、剥がれ落ちた看板の破片や大量のガラス片が、地上で避難誘導をしていた警察官や逃げ遅れた市民たちの頭上へと降り注ごうとしていたのだ。
女は迷うことなく攻撃を中断し、地上へ向けて急降下すると、再び両腕を広げて広範囲に半透明の障壁を展開した。
ガン、ガシャアアンッ! と、透明な屋根の上で看板の鉄骨やガラスの塊が弾かれ、人のいない車道の中央へと滑り落ちていく。
女が地上の人間を守るために足を止めた、そのわずか数秒の隙。
上空の男は、それを見届けることすらなく背を向けた。
男の身体が空気を裂くような速度で急加速し、駅前の高層ビルの向こう側へと一直線に飛び去った。
「――っ、待ちなさい!!」
落下物を防ぎきった女が顔を上げ、すぐさま空中を蹴るようにして男の後を追う。
彼女のトレンチコートの裾が青い空を一閃し、男が消えたビルの谷間へと吸い込まれるようにして姿を消した。
一秒。二秒。五秒。
ビルの向こう側からさらなる爆発音が響くことはなかった。
あれほど激しく吹き荒れていた風と衝撃音が嘘のように止み、ぽっかりと切り取られた渋谷の空には、ただ白い秋の雲が静かに浮かんでいるだけだった。
時計の針は、午後一時九分を指していた。
最初の飛行から、わずか十数分間。嵐のように現れた二人の超常者は、同じように嵐のような速さで現場から姿を消したのだ。
「班長、対象二名が交差点上空から高速度で離脱! 北西方向へ移動中ですが、ビル群に遮られて目視できません!」
「センサーの反応は!?」
「二人の離脱後、それに続く強反応が確認できません! 出力を抑えて検知下限を下回った可能性があります!」
部下の報告に、黒服の責任者は短く息を吐いた。都市センサーが捉えるのは、能力者の居場所ではなく、その時々に外へ表れた因果反応だ。反応が検知下限を下回れば、二人の足取りは追えない。
「追跡班は最終確認地点から捜索を継続しろ。残りの要員は警察と消防に合流し、負傷者の救護と現場保全を優先。崩落の危険がある箇所を確認し、能力由来の危険物があれば確保しろ。現場の記録も残せ」
「はっ!」
黒服たちが散開していく中、主役を失ったスクランブル交差点には、異様な静けさと、それに続く生々しい現実の音が戻ってきていた。
遠くから近づいてくる何台もの救急車と消防車のサイレン。
ひび割れて陥没したアスファルトの上には、白い粉塵と無数のガラス片が雪のように積もっている。衝撃波で根元から折れ曲がった道路標識が横断歩道に横たわり、フロントガラスが蜘蛛の巣状に割れたタクシーがハザードランプを点滅させたまま停止している。
路上には、パニックの中で置き去りにされたキャリーケースや、画面の砕けたスマートフォン、片方だけのスニーカー、こぼれて黒い染みを作っているコーヒーカップが散乱していた。
歩道の植え込みの陰では、転倒して膝や腕から血を流している会社員が救急隊員の処置を受け、すぐ隣では幼い子どもが声を上げて泣きじゃくり、母親が震える手でその背中をさすり続けている。
それは、先ほどまで空で起きていた出来事が、映画の撮影でも精巧なイリュージョンでもなく、質量と暴力を伴った紛れもない「現実」であったことを突きつける爪痕だった。
「いや、だから本当なんですって! 男が空から何か撃ってきて、女の人が透明な壁みたいなのを出して俺たちを守ってくれたんですよ!」
「俺も見ました! 動画も撮ってます、ほら、これ見てくださいよ!」
怪我の手当てを受けている若者や、規制線の外に避難した通行人たちが、興奮で顔を紅潮させながら警察官や報道陣に向かってスマートフォンの画面を突きつけている。
話を聞いている警察官も、マイクを向けている記者も、誰一人として彼らを笑わなかった。自分たち自身の目もまた、まったく同じものを目撃していたからだ。
規制線の内側、砕けたガラスを踏んで立つ黒服の責任者は、耳元の通信機を押さえて本部の幹部へと報告を入れていた。
「――はい。対象二名は現場から離脱、現在も追跡班が行方を追っています。現場の負傷者は現在集計中ですが、防戦していた女性要員の保護行動により、現時点で死者は確認されていません」
通信機の向こうから、低く張り詰めた声で問いかけが返ってくる。
責任者の男は、いまだに交差点の外周からこちらへレンズを向け続けている報道陣のカメラの群れと、頭上の大型ビジョンを見上げた。ビジョンには、先ほどこの場所で撮影されたばかりの「空を飛ぶ男女」のニュース速報映像が、音声なしで繰り返し映し出されていた。
「……はい。報道およびネット上の拡散についても把握しています」
男は一瞬だけ言葉を区切り、乾いた唇を舐めた。
「従来の事故説明では収束できません。映像はすでに、全国へ生中継されています」
通信を切り、男は静かに目を閉じた。
古代から連綿と受け継がれ、近代の法と行政の枠組みの中で緻密に守られてきた「表社会と裏社会の境界線」が、今日この場所で完全に崩壊したことを、彼は誰よりも深く理解していた。
*
事件発生から数時間が経過し、東京の空が茜色から深い群青色へと染まっていく頃になっても、渋谷駅周辺の混乱は収まっていなかった。
スクランブル交差点を中心とする半径数百メートルは警察の機動隊と特殊車両によって厳重に封鎖され、駅構内への入場制限が行われ、一部の路線では運転見合わせや運行区間の変更が続いていた。上空には何機もの報道ヘリコプターが旋回し、サーチライトが砕けたビルの外壁や陥没した路面を照らし出していた。
日本中の、いや世界中のあらゆるメディアが、この「渋谷事変」一色に染まっていた。
主要テレビ局は特別報道番組を編成し、昼間の映像を繰り返し流していた。スタジオに呼ばれた映像解析の専門家たちは、複数の角度から同時に撮影された映像を前に説明に苦しんでいた。ワイヤーも飛行装置も見つからない。現場の被害は映像と一致している。画面の中では、確かに人間が宙を飛んでいた。
その頃、永田町の総理官邸でも、かつてないほどの怒号と緊迫感が渦巻いていた。
官邸内の緊急会議には、内閣総理大臣をはじめとする主要閣僚、警察庁や防衛省のトップ、そして「八咫烏」の中枢を担う連絡室の幹部たちが顔を揃えていた。
机の上には、現場の被害状況、警察の通報記録、各局が放送した映像の静止画が並べられていた。関係者の身元確認と捜索、負傷者への対応、今後の市民への説明。議題は山積していた。
すでに海外の主要メディアも渋谷の映像をトップニュースとして報じ始めており、各国政府からは外交ルートを通じて事実確認の問い合わせが殺到している。
ここで政府が沈黙を貫くか、あるいは無理筋な事故説を強弁すればどうなるか。
政府への不信は募り、得体の知れない現象への恐怖ばかりが広がる。今後同じような事件が起きた際、どこへ通報し、どう避難すべきかも示せなくなる。
数時間に及ぶ激しい議論の末、政府と管理機関が下した結論は一つだった。
すべてを晒すことはしない。国内で数百万人もの能力者が普通に暮らしていることも、それを格付けする階位が存在することも、神話の領域に足を踏み入れた怪物たちが実在することも、今はまだ伏せておく。
だが、「超常的な能力が実在する」という一点だけは、もはや隠し通せない。国家としてその存在を公式に認め、政府の管理下にあることを示して国民の動揺を繋ぎ止めるしかない――。
午後八時ちょうど。
総理官邸の記者会見室は、異様なまでの熱気と緊張に包まれていた。
普段の定例会見とは比較にならない数の国内外の記者たちが詰めかけ、座席に入りきらない者たちが壁際まで幾重にも人垣を作っている。テレビカメラの放列が壇上を睨み、中継用の照明が眩しく焚かれる中、誰一人として私語を発する者はいなかった。
やがて側近たちを伴い、内閣総理大臣が重々しい足取りで会見室へと姿を現した。
カシャシャシャシャッ! と、機関銃の掃射のようなカメラのシャッター音とフラッシュの閃光が一斉に浴びせられる。
総理は厳しい表情のまま壇上の中央へと進み、マイクの前で足を止めて深く一礼した。
フラッシュの嵐がわずかに収まるのを待ち、総理は手元の原稿に一度だけ目を落とすと、すぐに顔を上げて正面のカメラ――その向こうにいる一億二千万の国民をまっすぐに見据えた。
「本日午後、東京都渋谷区の渋谷駅前において発生した事案につきまして、政府から国民の皆様へご説明いたします」
低く落ち着いた、しかしどこか張り詰めた声が、マイクを通じて全国へと響き渡る。
「まず初めに、本事案に巻き込まれ負傷された方々に対し、心よりお見舞いを申し上げます。現在、警察および消防、関係機関が全力で現場の安全確保と原因の究明、ならびに関係者の行方の捜索にあたっております」
総理はそこで一度言葉を切った。
会見室の記者たちが、ごくりと息を呑む気配が伝わる。誰もが待っていたのは、形式的な見舞いの言葉ではない。あの「空を飛ぶ人間」について、一国の首相が一体どんな説明を下すのかという一点だった。
「――さて、本日渋谷で確認され、報道等で広く伝えられている一連の現象について、現在、様々な憶測や情報が流れております」
総理の声が、一段と重みを増した。
「空中を飛行する二名の人物、ならびに通常の物理的な手段では説明のつかない破壊現象について、政府および専門機関において映像と現場状況の分析を進めてまいりました。結論から申し上げます。本日、渋谷で皆様が目撃された映像は、加工やトリックの類ではありません。すべて現実に発生した事象です」
会見室の空気が、ぴりりと音を立てて張り詰めた。
総理はマイクの縁を強く握りしめ、深く息を吸い込んだ。
「その上で、国民の皆様へ、政府として極めて重要なお伝えをしなければなりません」
一秒にも、永遠にも感じられるほどの短い沈黙。
そして、歴史を塗り替える言葉が、総理の唇から静かに紡ぎ出された。
「政府は、本日の事案で確認されたような、現代科学の枠組みを超えた特殊な能力――いわゆる『異能』と呼ぶべき力が実在することを、以前より認識し、専門の機関を通じて対応にあたってまいりました」
一瞬、会見室からすべての音が消え失せた。
記者たちも、カメラマンも、自分の耳が何を聞いたのか理解できずに凍りついていた。
だが、静寂は爆発的なざわめきと怒号によって粉々に打ち砕かれた。
「い、以前から、ですか!? 総理、それは一体いつから――!」
「異能が実在するというのは本当なんですか!? 政府はこれまで国民に隠蔽していたということですか!?」
「あの二人は何者なんですか!? 他にもあんな人間がいるということですか!?」
記者たちが椅子を蹴倒すようにして一斉に立ち上がり、制止する司会者の声を押し潰して怒鳴り声を上げる。無数のフラッシュが雷鳴のように明滅し、会見室は蜂の巣を突いたような大混乱へと陥った。
しかし、壇上の総理大臣は表情を一つも変えず、荒れ狂う質問の嵐の中でただ黙って正面を見据えていた。
神話の神々が天から降りてきたわけでも、世界を滅ぼす魔王が宣戦布告をしたわけでもない。
ただの平日の昼下がり、街角で起きた名もなき男女二人の諍い。
たったそれだけの出来事が、人類が長らく信じて疑わなかった「常識」という名の世界を終わらせ、幾千年もの間、歴史の裏側で守られ続けてきた秘密の帳を、二度と戻らない形で引き裂いた瞬間だった。
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