もしも異能がディスクロージャーされたら? 作:パラレル・ゲーマー
二〇二六年十月三十日、金曜日。午後三時三十分(米東部夏時間)。
マンハッタン上空に出現した全長四十五メートルの竜型召喚存在が、灰色のパーカーを着た一人の魔法使いによって撃破され、空間転移で跡形もなく回収されてから一時間あまりが経過していた。
ニューヨーク市警および消防局による現地確認の結果、あれほど激しい空中戦が繰り広げられたにもかかわらず、マンハッタン市街地のビル群には窓ガラス一枚の破損もなく、市民の死傷者もゼロであることが正式に報告された。連邦航空局(FAA)による空域封鎖も段階的に解除され始め、物理的な都市機能は驚くほど速やかに日常を取り戻しつつある。
だが、物理的な被害がゼロであったことと反比例するように、ワシントンD.C.のホワイトハウスは、建国以来かつてない規模の「情報の大津波」に呑み込まれていた。
西棟の広報室およびプレス・ブリーフィング・ルームの周辺では、電話のベルと怒号が絶え間なく響き渡り、世界中から詰めかけた記者たちが「いつ詳細な会見を開くのか!」と報道官補佐たちを取り囲んでいる。
その喧騒から少し離れた大統領執務室(オーバル・オフィス)。
第48代アメリカ合衆国大統領ロバート・“ボブ”・ウォーレンは、レゾリュート・デスクの上に広げられたタブレット端末の画面を、老眼鏡越しにじっと眺めていた。
画面には、ホワイトハウス広報室が国内外の主要メディアおよび連邦議会から寄せられた何千件もの照会事項を自動集計し、優先度順に並べ替えたリストがリアルタイムで更新されている。
質問の項目は、大きく分けて四つに集中していた。
第一に、『日本政府が公表したような異能者(超能力者)は、アメリカ合衆国内にも実在するのか?』
第二に、『マンハッタンの空で百数十枚の魔法陣を展開してドラゴンを倒した、あの灰色のパーカーの人物は何者なのか?』
第三に、『合衆国政府は、以前からあのようなドラゴンや魔法の存在を知っており、秘密裏に対処してきたのか?』
そして第四に、『緊急声明に記されていた国土安全保障省・MAJESTIC-12とは、具体的に何を管理・遂行する機関なのか?』
「……いやあ、すごい勢いだねえ、コールマン」
ボブは老眼鏡を外してデスクに置き、背もたれに体重を預けて苦笑いを浮かべた。
「つい二時間前までは、東京の総理官邸に殺到している質問リストを眺めながら『日本は大変だなあ』なんて同情していたのに、気がつけばアメリカの記者たちが、一字一句まったく同じ質問をホワイトハウスにぶつけてきているよ」
デスクの正面に立つMAJESTIC-12の主席連絡担当官・コールマンは、脇に抱えた分厚い黒表紙のファイルを持ち替えながら、生真面目な表情で応じた。
「大統領。本日のニューヨーク事案は、単なる不可視の物理干渉にとどまらず、誰の目にも明らかな『竜型召喚存在』と『幾何学的な複合魔術陣』が、全米のテレビネットワークを通じてフルハイビジョンで生中継されてしまいました。日本の渋谷事変と比較いたしましても、一般社会の世界観に与えた視覚的・認識的な衝撃は、はるかに甚大であると言わざるを得ません」
「うん、まあ、あれだけ綺麗に空いっぱいの花火を打ち上げて、最後にカメラに向かって笑顔で『バイバイ』までしたんだからねえ。あのおかげでマンハッタンの市民は誰一人怪我をしなかったわけだから、文句を言ったらバチが当たるというものさ」
ボブは満足そうに頷くと、デスクの上の集計タブレットをパタンと伏せ、目の前の実務官を真っ直ぐに見上げて尋ねた。
「で、コールマン。午後八時からの全米向けテレビ演説まで、あと四時間半だ。MAJESTIC-12の連絡官として、君は今夜の演説で我々がどこまで国民に説明するべきだと考えているのかな?」
「はい。その点につきまして、当機関の法務・情報分析部門が緊急で作成した段階的ディスクロージャー(情報開示)の草案をこちらに用意いたしました」
コールマンは一歩前に進み出て、辞書のように分厚い三冊のバインダーをデスクの上に置いた。
「日本の先行事例および本日のマンハッタン事案を受け、今夜の演説においてどこまで踏み込むか、複数の選択肢を網羅しております。
具体的には、第1章が『合衆国内における覚醒済み能力者の推計人口および州別分布の公表案』。第2章が『登録アセットの管理制度ならびに能力分類(Tier制度)の概要説明』。第3章が『本日観測された魔術体系と一般異能の差異に関する公式見解』。そして第4章以降に『非人間種族(人外)共同体との歴史的協定の扱い』および『過去の竜型召喚事案の交戦記録の開示基準』をまとめております」
ボブは一番上のバインダーの表紙をめくり、緻密なグラフや専門用語がびっしりと並んだ最初の三ページほどにパラパラと目を走らせた。
そして、わずか十秒後。
ボブはバインダーをパタンと閉じ、軽く右手を上げてコールマンの説明を遮った。
「――いや、待ってくれ、コールマン」
「はい? データに何か不備がございましたでしょうか」
「不備なんてないさ、相変わらず君たちの仕事は完璧だよ。ただね、今夜の演説で、こんな分厚い話を全部する必要はまったくないだろう?」
コールマンは、予想外の言葉にわずかに目を見開いた。
「……しかし大統領、世界中がホワイトハウスの詳細な説明を待っております。では、今夜は一体何を公表なさるおつもりですか?」
ボブは椅子から少し身を乗り出し、極めてあっさりとした口調で即答した。
「『アメリカ合衆国にも、特殊な能力を持つ人々は実在する』。それを大統領として正式に認める。今夜は、それで十分だと思うよ」
執務室の中に、短い沈黙が落ちた。
コールマンは自分の耳を疑うように眉をひそめ、手元のバインダーの目次とボブの顔を交互に見た。
「……あの、大統領。では、先ほど日本政府が公表したような『国内の能力者人口の統計』につきましては、どういたしますか?」
「今日は出さないよ」
「では、能力の危険度や階位(Tier)の分類基準については?」
「それも出さない」
「当機関による登録制度の具体的な仕組みや、法的根拠については?」
「今夜は不要だね」
「本日マンハッタンで使用された『魔術』の成立原理や、魔女・吸血鬼などの各共同体との関係につきましても……?」
「もちろん、今夜は一言も話さないさ」
コールマンは完全に言葉を失い、数秒間だけ口をパクパクとさせた。
そんな几帳面な官僚の反応がおかしかったのか、ボブは喉の奥でクックッと穏やかに笑った。
「コールマン、誤解しないでくれよ。私はね、今夜八時から、合衆国のすべての国家機密を国民に講義するためにテレビカメラの前に立つわけではないんだ」
「……と、申しますと?」
「今夜の大統領演説の目的は、ただ一つ。『今日の昼間、国民がニューヨークの空で目撃したあの途方もない光景を、合衆国政府としてどう受け止め、明日から国民の生活をどう守るのか』という政治的な姿勢を示すことさ」
ボブは立ち上がり、窓辺へとゆっくり歩み寄りながら言葉を続けた。
「いいかい、コールマン。今日、何百万人ものニューヨーカーと全米の視聴者が、自分の目でドラゴンと魔法使いを見た。これを『集団幻覚だ』『ハリウッドの映画撮影だ』と誤魔化すことはできないし、現に我々は昼間の声明でMAJESTIC-12の協力者が対処したと認めた。だから、『アメリカにも超常的な能力を持つ人間が存在する』という事実そのものは、今日ここではっきりと公認する」
「はい。そこまでは理解しております」
「だがね、存在を認めることと、彼らの人数や内訳、管理の手口をすべて洗いざらい世間に晒すことは、まったく別の問題だろう? 日本政府が『三百四十二万人、三十六人に一人』という数字を出したのは、日本の事情があってのことだ。東京が数字を出したからといって、ワシントンまで慌てて『うちには九百三十万人います!』なんて情報公開競争(ディスクロージャー・レース)に付き合う義理はどこにもないのさ」
コールマンはハッとしたように顔を上げた。
「……確かに。日本国内の報道を見ましても、『三十六人に一人』という具体的な確率が公表されたことで、かえって全国の職場や学校で『この中に能力者がいるはずだ』という疑心暗鬼や犯人探しが過熱しているとの分析が上がっております」
「そうだろう? 数字というのはね、時に具体性がありすぎるせいで、人々の想像力を悪い方向へ縛り付けてしまうんだよ。必要な安全上の説明はきっちりやる。だが、出す必要のないカードまで今日一日で全部テーブルに並べるつもりはないよ」
大統領の明快で迷いのないトップダウンの決断に、コールマンは深く頭を下げた。東京の官邸が何時間もかけて悩み抜いた「どこまで公表するか」という迷宮を、この老練な政治家はものの五分でショートカットしてみせたのである。
「……大枠の方針、承知いたしました。いやはや、あっぱれなご決断です」
ボブが微笑んでデスクへ戻ると、壁面のモニターには、現在もニュース番組で繰り返し再生されているマンハッタン上空のハイライト映像が映っていた。
百七十八枚の攻撃魔法陣でドラゴンを消し去った後、FOX5の報道ヘリに向かって人懐っこい満面の笑みで『ばいばーい!』と手を振る、灰色のパーカーを着た青年の姿。
「いやあ、何度見ても実に愛想のいい青年だねえ。すっかり全米のヒーローじゃないか」
ボブが目を細めて画面を指差した。
「……はい。現在SNS上では『Hoodie Wizard(パーカーの魔法使い)』という通称で呼ばれている模様です」
「フーディー・ウィザードか、いいあだ名だ。……そういえばコールマン、ちょっと確認なんだがね」
「何でしょうか、大統領」
「あの魔法使いの青年の身元は、今夜の会見で少しでも公表できるのかい?」
その問いに対し、コールマンはコンマ一秒の迷いもなく、背筋をピンと伸ばして即答した。
「機密情報(Classified)です、大統領」
「おや、そうかい。じゃあ、せめてファーストネームだけでも『彼の名はジョンだ』くらいは?」
「機密情報です」
「二十代か三十代か、年齢くらいならどうだい?」
「機密情報です」
「どこの州の出身か、普段は学生なのか会社員なのかくらいは?」
「最高機密情報(Top Secret)です、大統領」
一分の隙もない鋼鉄のような四連発の拒絶に、ボブは吹き出しそうになりながら両手を上げた。
「……君、相手が大統領だというのに、ずいぶん徹底しているねえ」
「当機関の最高ランク協力アセットの保護規定に基づく、絶対の措置でございますので」
コールマンが眼鏡を光らせて真面目腐って答えると、ボブは少しだけ表情を落ち着かせ、画面の中の青年の顔を見つめた。
「まあ、君たちが彼を守ろうとするのはよく分かるよ。ただね、コールマン。あれだけ超望遠の4Kカメラで顔がハッキリ全世界に映ってしまったんだ。政府が名前や年齢を機密にしたところで、ネットの連中やパパラッチに嗅ぎ回られて、本人がかえって困ることにはならないかい?」
ボブの現実的な懸念に、コールマンの表情が実務家の厳しいそれへと変わった。
「ご懸念の通りでございます。事案終了直後から、当機関の情報保護部門が、政府管理下にある本人の登録記録へのアクセス制限と不審な照会の監査を強化しております。公開された報道映像そのものを消すことはできませんが、そこから新たに個人情報が流出する危険を減らすため、関係機関とも調整を進めております。
また、本人と近しい関係者の安全確保を優先し、当面の待機場所や移動経路には保護要員を配置しました。一般の民間データベースを一斉に書き換えたり、あらゆる接近を完全に防いだりできるわけではありませんが、具体的な脅迫や危険な接触には即応できる体制を敷いております」
「ほう、仕事が早いね。じゃあ、一般人がネットで彼の動画を見て『Hoodie Wizardカッコいい!』と騒いだり、似顔絵を描いたりするのは?」
「そこまでは規制いたしません。一般市民が映像を見て感想を語ることと、本人を脅迫したり、無関係な人間を誤認して追い回したりすることは別です。むしろ、安易に騒ぎを封じようとすれば、身元への関心を余計に煽るでしょう」
「なるほどねえ。……ところでコールマン、当の青年本人は、今回の騒ぎについて何と言っているんだい? もし本人が『テレビに出て有名になりたい、記者会見を開いてくれ』と望んでいるなら、考えてやらんでもないが」
「いいえ、大統領。先ほどセーフハウスに入った本人と直接話しましたが、『自分の名前や私生活が世間に公開されることだけは絶対に勘弁してほしい、明日から外を歩けなくなる』と、極めて強く匿名性の維持を希望しております」
「――そうか。それなら、答えは最初から簡単じゃないか」
ボブは大きく頷き、穏やかな笑みを浮かべた。
「徹底的に非公表で通そう。巨大なドラゴンからニューヨークの街と数百万人の命を守ってくれた恩人に対して、合衆国政府がそのお礼に彼の平穏な私生活をぶち壊して返すなんて、そんな恩知らずな真似をするわけにはいかないからね」
「……はい。おっしゃる通りでございます」
コールマンも静かに頷いた。単なる国家安全保障上の都合としてアセットを囲い込むのではなく、一人の市民としての本人の意思を尊重する――それがボブという大統領のやり方だった。
しかし、コールマンはそこで手元の別の報告書に目を落とし、少しだけ声を曇らせた。
「ただ、大統領。彼の活躍があまりにも圧倒的であったがゆえの『副作用』も、すでに全米各地で報告され始めております」
「副作用、というと?」
「はい。マンハッタンを守った彼の映像があまりにも鮮烈であったため、一部では能力者というだけで、あの青年と同じ規模の力を持っているかのように思い込む声が出ております。能力の性質も規模も分からないまま、目立つ映像だけが判断の基準になりかねません」
ボブの眉が、ピクリと寄った。
「それに伴い、ここ一時間の間に、匿名の掲示板やSNS上で『自分の職場や学校のあの人間も、実は危険な魔法使いではないか』と特定の個人を名指しし、勤務先や自宅住所を特定しようとする動きが複数確認されております」
「……ああ、それはよくないね。非常によくない」
「はい。放置すれば、今夜から明日にかけて、無実の登録能力者や、あるいは能力者ですらない一般市民に対する私刑(リンチ)や脅迫事件へと発展する恐れがあります」
ボブは腕を組み、執務室の絨毯の上をゆっくりと二、三歩行き来した。
「……無理もないね。人々が実際に見た能力者の姿が、あの青年だったんだから。知らないものを判断するとき、人間はどうしても最初に見たものを物差しにしてしまう」
「それは、おっしゃる通りです」
「だから、今夜の演説では数字を伏せる理由だけを説明しても足りない。国民がどんな誤解を抱いているのか、私も考えておかなければね」
ボブは足を止め、コールマンを振り返った。
その瞳には、いつもの軽妙な調子とは違う、国民へ言葉を届ける者としての慎重さがあった。
「一つの映像だけで、何百万人もの人々の暮らしまで想像した気になってしまう。それは避けたいね」
「……はい」
「君に確認しておきたいんだが、あれほど大規模な術式を自在に使える者は、やはりごく限られるんだろう?」
「はい、その通りです」
「そうか。ならば今夜、その誤解にきちんと向き合おう。どう伝えるかは、私自身の言葉で考えさせてくれ」
*
午後四時三十五分。バージニア州ラングレー近郊の地下施設――MAJESTIC-12統合指揮所・国内保護および情報監視セクション。
二時間前までマンハッタン上空のドラゴンの空間座標と術式の因果反応量を追跡していた巨大なメインスクリーンは、現在、全米五十州の警察通信網と主要SNSの公開情報に関する危険兆候を集約したダッシュボードへと切り替わっていた。
フロアには数十人の分析官と法務連絡官が並び、ヘッドセット越しに飛び込んでくる全国各地からの報告をさばき続けている。
ドラゴンという物理的な脅威はわずか十分で片付いた。だが、現場の担当官たちにとって、本当の悪夢のような残業はそこから始まっていた。
「――第4分析班より報告! カリフォルニア州の州立大学の匿名学生掲示板にて、陸上部の男子学生の実名と寮の部屋番号を挙げ、『あいつが去年の大会で出した記録は異常だ、MAJESTIC-12に隠れていた能力者に違いない、みんなで部屋に行ってテストしてやろうぜ』という煽動書き込みが拡散中! 現在、寮の周辺に野次馬の学生が二十名ほど集まり始めています!」
「対象学生の登録照会は!?」
「登録情報に該当する記録はありません! そもそも本人を能力者と断定できる証拠もなく、ただ競技成績が優秀だというだけで詮索されている状態です!」
「ちっ、すぐキャンパスポリスと地元警察の連絡ラインに通報して学生たちを解散させろ! 掲示板の運営には緊急削除要請を出せ!」
セクション主任の男が怒声を飛ばすなり、今度は反対側のデスクから女性分析官が手を挙げた。
「主任、ケースB――ニューヨークの『Hoodie Wizard』に関する身元特定(Doxxing)騒動がさらに拡大しています! 報道ヘリの映像から切り抜かれた不鮮明な横顔写真をAIの顔検索にかけたネット探偵たちが、ボストン在住の26歳の会計士、およびシアトル在住の大学院生のSNSアカウントを『こいつがパーカーの魔法使いの正体だ!』と誤認して晒し上げています!」
「また無関係な一般人への誤爆か!」
「はい! ボストンの会計士の自宅前にはすでに地元のユーチューバーや野次馬が押しかけて『魔法陣を出してみせろ!』とインターホンを連打しており、本人がパニックになって911番通報しています! さらに悪質なことに、シアトルの大学院生の職場には『お前がドラゴンを呼び寄せて自作自演したんだろう、ビルごと爆破してやる』という匿名の脅迫メールまで届いております!」
「クソッ、ボストン市警とシアトル市警に至急連絡しろ! 脅迫メールの記録は保全して、FBIのサイバー犯罪部門にも引き継げ! 送信元の照会も適正な手続きで進めさせるんだ!」
主任がこめかみを押さえていると、さらに三人目の分析官が報告を上げた。
「主任、ケースCです! ここ三十分で、国土安全保障省および『MAJESTIC-12公式ポータル』を装った悪質なフィッシング詐欺サイトが、少なくとも十二件立ち上がっています!
『合衆国政府の緊急命令:すべての市民は24時間以内にこのサイトで異能遺伝子検査の予約と登録手数料250ドルをクレジット決済しなければ、MAJESTIC-12により拘束される』というスパムSMSが全米にばら撒かれており、すでに高齢者の被害相談が消費者保護局に殺到しています!」
「政府がまだ登録制度の『と』の字も公表していないのに、詐欺師どもの仕事だけは音速だな!!」
主任がデスクを叩いて吠えた。
隣で端末を叩いていた副主任が、疲れ切った顔で眼鏡を押し上げながら呟いた。
「……つまり主任、上空のドラゴンは十分で綺麗に片付きましたが、地上のインターネットは一ミリも片付いていないわけですね」
「正確には、昨日までと同じクソみたいなインターネットが、『魔法と超能力』という最高に刺激的な新しいオモチャを手に入れただけだ」
「余計にタチが悪いじゃないですか……」
「全くだ。いいかお前ら、俺たちMAJESTIC-12は全国民のスマホを二十四時間覗き見できる神様でもなければ、ネットの悪口を取り締まる思想警察でもない! 単なる憶測やミームに手当たり次第リソースを割くな! だが、住所の拡散を伴う具体的な脅迫、暴力の扇動、公的機関を騙る詐欺――こうした危険な行為については記録を保全し、法令に基づく判断と対処をFBIや各州警察と連携して進めろ!」
『Yes, Sir!!』という声がフロアに響き渡る。
これまで暗闇の中で怪物や違法術者と戦ってきた秘密機関は、今や白日の下で「パニックになった一般社会から、能力者と無実の市民を守る」という、まったく新しい防戦に追われ始めていた。
*
午後四時五十五分。ホワイトハウス、大統領執務室。
統合指揮所からの初期報告を受けたコールマン担当官は、今夜の演説に盛り込むべき「治安維持と能力者保護」に関する文案をタブレットに表示させ、ボブ大統領の前に差し出していた。
「――以上のように、すでに全米各地で誤認による身元晒しや脅迫事案が発生しております。つきましては、今夜の大統領演説の中に、以下のような警告文を入れることを提案いたします」
コールマンは画面のテキストを読み上げた。
「『合衆国政府は、能力者に対するいかなる差別、偏見、中傷、ならびに不当な身元特定や攻撃も容認しない。MAJESTIC-12は関係機関と連携し、これらの不適切な言動や活動を厳重に監視・摘発する』……いかがでしょうか」
ボブは腕を組んでその文面を黙読し、やがて「うーん」と小さく唸って首を横に振った。
「コールマン。言いたいことの趣旨は分かるんだが、その『偏見や中傷を容認しない』『監視・摘発する』という表現は、かなり気をつけた方がいいね」
「と、申しますと? 能力者の人権を守るためには、強い姿勢を示す必要があるかと存じますが」
「ここがアメリカ合衆国だからさ、コールマン」
ボブは諭すような穏やかな声で言った。
「この国ではね、『連邦政府の秘密機関が国民の考え方や言論を監視する』という一文は、それだけで重大な警戒を招く。憲法修正第1条によって言論・表現の自由が守られている国だからね」
「……おっしゃる通りです」
「だからこそ、今夜の文面は正確にしなければならない。怖いと思っただけの人間と、実際に誰かを危険にさらしている人間を、一つの言葉で扱うわけにはいかないよ」
ボブはデスクの上のメモ用紙を引き寄せ、万年筆で二本の線を引いてみせた。
「こっちの線は、人々が何を考え、何を疑い、政府に何を要求するかという問題だ。厳しい批判であっても、それだけで政府が取り締まる話じゃない」
「はい」
「そして、もう一方の線は、現実に誰かの安全を脅かす行為の問題だ。具体的な危険があるなら法と適正な手続きに従って対応する。しかし『不適切な言動』なんて曖昧な言葉で、全部をひとまとめにはできない」
コールマンは万年筆で引かれた二本の線を見比べ、手元の文案にある「不適切な言動」という部分へ修正の印を付けた。
「……承知しました。国民の感情や批判を対象にするのではなく、具体的な危険と、それに対する法的な対応に限定して記述いたします」
「そういうことさ」
ボブは万年筆を置き、静かに言った。
「私が今夜の演説でやりたいのは、『能力者を怖がるな』と国民へ命じることじゃない。どういう人々が今、不安を感じているのか。そのことを忘れずに話したいんだよ。
それでも記者たちからは、きっと聞かれるだろうね。『政府はどこに線を引くのですか』と。
その時は私が直接答える。だから演説原稿には、曖昧な『監視』という言葉の代わりに、現に使える法的な仕組みを正確に書いておいてくれ」
「……承知いたしました。直ちにその方針で、司法省の担当官ともすり合わせて原稿の表現を修正いたします」
コールマンがタブレットに修正指示を書き込んでいると、執務室のセキュア回線のランプが点滅した。
午後五時二十分。
コールマンが受話器を取って数分間やり取りを交わし、やがて少し疲れた顔で受話器を置いた。
「大統領。先ほど、今夜の演説で公表する範囲――すなわち『米国内における人間の異能者の実在のみを認め、魔術体系の詳細や非人間種族(人外)については一切言及しない』という方針を、『全米魔女委員会』および『全米吸血鬼委員会』の双方へ事前通達いたしました」
「おお、ご苦労さま。で、彼女たちの反応はどうだったかね?」
「まず『全米吸血鬼委員会』ですが、今夜の演説で吸血鬼や人狼といった人外種族の存在が公表されないと確認したことで、評議会としてはひとまず安堵し、政府の方針を了承いたしました」
「それはよかった。彼らも今夜は安心して棺桶……じゃなかった、ベッドで眠れるわけだ」
「……ただし、大統領。それで話が終わったわけではございません」
コールマンは、たった今ファックスと暗号化メールで届いたばかりの二通の分厚い要望書をプリントアウトして手に取った。
「両委員会から、早くも明日以降の政府対応に関する『追加の要望書』が提出されております。しかも、書いてある要求の方向性が真っ向から食い違っております」
「……だろうねえ。聞かせておくれ」
「はい。まず『全米魔女委員会』からは、本日のニューヨークの映像で『魔法陣(Magic Circles)』という極めて視覚的な魔術現象が全世界に知れ渡った以上、政府がそれを単に『超能力(Supernatural Ability)』という曖昧な言葉で一括りに処理することに強い難色を示しております。
伝統派の長老たちは『我々の秘伝の術式体系を、政府の公的分類に無断で組み込むな』と主張する一方、西海岸の若手魔女グループは『週明けにも独自の広報声明を出して、魔術の素晴らしさを一般社会にアピールしたい』と息巻いており、委員会として政府との継続的な地位協定協議を要求してきております」
「ふむふむ」
「一方の『全米吸血鬼委員会』からは、『人間の魔法使いが白昼にドラゴンを撃破したからといって、我々吸血鬼共同体まで同じテーブルに乗せて段階的公表の対象にするな。従来の自治と秘匿協定を死守せよ』という要求に加え、『現在ネット上で拡散しているニンニクや十字架、無差別吸血といった誤った民間伝承に基づくヘイト投稿に対し、政府がどう対処するのか示せ』との申し入れが来ております」
ボブは天井を仰ぎ、しみじみとため息を吐いた。
「……人間の能力者がいると一言認めるだけで、裏では魔女と吸血鬼からこんなにたくさんの注文書が飛んでくるのか。コールマン、今朝方、日本の官邸で四十八もの実務者分科会を立ち上げて悲鳴を上げていた理由が、今になって骨身に染みて分かってきたねえ」
「はい。なお、アパラチアの人狼部族連合や、ネイティブ・アメリカンの精霊術師評議会からも、明朝までに同様の照会が届く見込みでございます」
「よし、その書類は全部、来週月曜日の私のデスクに置いておいてくれ。今夜これ以上読んだら、演説の前に私の頭から煙が出てしまうからね」
*
午後五時四十五分。ニューヨーク州某所――MAJESTIC-12の東部地域セーフハウス(待機施設)。
防音仕様のモダンなリビングルームのソファで、数時間前にマンハッタンの上空へ百七十八枚の攻撃魔法陣を展開してドラゴンを葬り去った張本人――灰色のパーカーを着た青年が、クッションを抱えながら備え付けの大型テレビを眺めていた。
フードを脱いだその顔立ちは、どこにでもいそうな少し優しげな目元をした二十代後半のアメリカ人青年だ。
テレビの画面には、CNNとFOXニュースの画面が分割表示されており、どちらのチャンネルでも『HOODIE WIZARD SAVES NEW YORK(パーカーの魔法使い、ニューヨークを救う)』『REAL MAGIC CAUGHT ON CAMERA(カメラが捉えた本物の魔法)』という特大のテロップとともに、彼が報道ヘリに向かってニコニコと手を振って消える瞬間の映像が、もう百回以上もループ再生されていた。
「……うわあ。これ、俺が思ってた十倍くらいハッキリ顔が映っちゃってるなあ」
青年はテーブルの上のダイエット・コーラの缶を手に取り、少し困ったように眉を下げて苦笑した。
部屋の隅のデスクで端末を操作していたMAJESTIC-12の現場担当官の男が、顔を上げて言った。
「だから管制から『報道ヘリが来ているから愛想を振りまくな』と警告しただろう。君が最後に満面の笑みで『バイバイ』なんかするから、世界中のネット民のおもちゃになってるんだぞ」
「いやあ、だってカメラマンのおっさんがあんまり必死な顔でレンズ向けてるからさ、無表情で消えたら悪いかなってサービス精神が出ちゃったんだよ」
「そのサービス精神のおかげで、うちの情報保護部門はいま、君の身元に関わる記録の照会制限と警護の手配に追われているんだ。……まあ、安心しろ。ホワイトハウスのコールマン主席連絡官から通達があり、ウォーレン大統領も『君の氏名や経歴などの個人情報は公表しない』と正式に決めた」
「お、本当? それはマジで助かるよ」
青年はホッとしたようにソファに背中を沈めた。
「あれだけ顔が映っちゃったから、大学の頃の友人や近所の馴染みの店員さんあたりには、いつか『あれ、お前じゃないか?』って気づかれるかもしれないけどさ。それでも、政府の公式発表で俺の本名や住所までセットで世界に晒されたら、もう二度と普通のスーパーに買い物にも行けなくなるからね。ドラゴン退治のたびに記者会見場に引っ張り出されるような人生は、絶対にゴメンだよ」
「我々としても、君のような切り札にパパラッチに追い回されて消耗してもらっては困るからな。しばらくはこのセーフハウスか、警備のついた指定アパートを使ってくれ」
担当官はそう言ってから、手元のタブレットのメッセージを一つ確認し、少し口元を緩めた。
「それとな、ウォーレン大統領個人から、君宛てに伝言を預かっている」
「ん? ボブから? なんだろう、ヘリに手を振った説教かな」
「いや。『市民を一人も傷つけずにニューヨークを守り抜いてくれたことに、合衆国大統領として心から感謝する。今日中断させてしまったソーホーのベーグルサンドの代わりに、今度ホワイトハウスのキッチンに招いて、最高級のテキサス産リブアイ・ステーキをご馳走したい』……だそうだ」
「マジで!? ホワイトハウスのシェフが焼くステーキ!?」
青年の顔が、今日一番の輝きでパッと明るくなった。
「やったあ! ボブのやつ、話が分かるじゃないか! 昼間のベーグルサンド、スモークサーモンとクリームチーズを大盛りにしたやつを一口も食べずに置いてきちゃったから、ずっと悔しかったんだよね! で、そのステーキいつ食べに行けるの?」
「……『ただし、大統領のスケジュールが分刻みのため、日程は完全に未定である』とさ」
「だろうね。しばらくはホワイトハウスも地獄みたいに忙しいだろうし、気長に待ってるよ」
青年は笑ってコーラを飲み干し、再びテレビ画面へと視線を戻した。
画面の中ではちょうど、明日のハロウィンに向けて全米の衣料品店やネット通販で「灰色の無地パーカー」が売り切れ続出となっており、若者たちがこぞって『#HoodieWizard』の仮装を準備しているという街頭ニュースが流れていた。
それを見た青年は、自分が今着ているヨレヨレの灰色パーカーの胸元をつまみ、なんとも言えない微妙な顔で呟いた。
「……ていうかさ、さっきからずっと気になってたんだけど。『Hoodie Wizard(パーカーの魔法使い)』って名前、もうちょっとカッコいいのに何とかならないのかな? 『蒼穹の大魔道士』とかさ、せっかくならもうちょっと威厳のあるコードネームがよかったんだけど」
担当官は、憐れむような目で青年を見て、淡々と答えた。
「諦めろ。すでにXのトレンド世界1位で、CNNのテロップにも固定された。全米三億人がそう呼んでいる以上、もう歴史の教科書にもその名前で載るぞ」
「……俺、当事者なのに命名権すらなかったのかよ」
世界を震撼させた規格外の魔法使いは、自分のあまりにも庶民的な二つ名に肩を落とし、ソファの上でゴロンと横になった。
*
午後六時十五分。ホワイトハウス西棟。
日没を迎え、照明が灯り始めた執務室には、連邦議会の上下両院指導部、および全米知事協会の代表者たちからの緊急照会が次々と届いていた。
「――大統領。カリフォルニア州やテキサス州をはじめとする複数の州知事から、今夜八時の演説内容に関する事前確認と、今後の州政府の権限についての質問状が届いております」
コールマンが書類の束を読み上げる。
「一部の保守派の州知事は『もし州内に危険な能力者が存在するなら、州兵および州警察の治安維持のため、MAJESTIC-12が保有する登録者リストを州政府に即時開示せよ』と要求しております。一方で、リベラル派の州知事や連邦議会の司法委員会からは『議会の承認なしに市民の能力を秘密裏に登録・管理していたのなら重大な違憲の疑いがある、全ての内部文書を提出せよ』との追及が入っております」
「右からは『リストを晒せ』と殴られ、左からは『なぜリストを作ったんだ』と殴られる。いやあ、実にアメリカ政治らしい健全な光景じゃないか」
ボブは少しも動じることなく、テキパキと指示を下した。
「各州の知事たちには、国土安全保障長官の名義でこう回答させてくれ。『個人の登録リストの開示は、連邦法上のプライバシー保護および安全保障機密により一切行わない。各州政府においては、根拠のない能力者探しや暴動の防止、および通常治安の維持を最優先されたい』とね。
それから、連邦議会の指導部と情報特別委員会のメンバーには、来週月曜日の朝から、MAJESTIC-12の歴史的経緯と予算に関する非公開の機密ブリーフィング(クローズド・セッション)を順次開催すると伝えてくれ。機密指定を盾にして、議会の正当な監督権まで拒むつもりはないからね」
「承知いたしました。直ちに手配いたします」
そして午後六時四十分。
演説準備室へと移動したボブの前に、ホワイトハウス報道官と主席スピーチライターたちが、一時間かけて書き上げたばかりの演説原稿の第一稿(ドラフト)を持ってきた。
A4用紙で二十五ページにも及ぶ、ずっしりと重い原稿の束だった。
ボブはソファに座って老眼鏡をかけ、最初の数ページに目を通した。
そこには、『第一節:マンハッタン上空における空間歪曲事象の物理的・超常的定義』『第二節:国土安全保障省・先進因果脅威部門(MAJESTIC-12)の行政組織法上の根拠と沿革』『第三節:異能および魔術現象の多様性と統計的推計モデルの非開示理由』『第四節:合衆国憲法修正第1条および第14条に基づく能力保有市民の法的地位』……といった、正確無比で重厚な官僚・法学用語が隙間なく並んでいた。
五ページ目までめくったところで、ボブはパタリと原稿を閉じ、目の前で緊張した面持ちで並んでいるスピーチライターたちを見上げた。
「……みんな、短い時間でよくここまで正確に書いてくれた。ただね、ちょっと長すぎるなあ」
主席スピーチライターが慌てて一歩前に出た。
「ですが大統領、歴史上初めて合衆国が超常現象を公式に認める演説です。後世の歴史家や法学者から突っ込まれないよう、法的・行政的な定義を厳密に盛り込みますと、どうしてもこの分量に――」
「いや、君たちの気持ちはよく分かるよ」
ボブは原稿の束をテーブルの上に置き、優しく問いかけた。
「だがね、ちょっと想像してみてくれないか。今日の午後二時、テレビで突然ニューヨークの空に巨大なドラゴンと百七十八枚の魔法陣が映るのを見て、腰を抜かしたオハイオ州の農家の夫婦や、アトランタで子供を育てているシングルマザーが、今夜八時にテレビの前に座って一番知りたがっていることは、一体何だと思う?」
「そ、それは……あのパーカーの魔法使いが誰なのか、あるいはドラゴンがどこから来たのか、でしょうか?」
「もちろんそれもあるだろう。だが、みんなが心の底で一番不安に思っているのは、もっと単純なことさ。『明日の朝起きたら、自分たちのいつもの生活はどうなってしまうのか?』――それだけなんだよ」
スピーチライターたちがハッとして顔を見合わせる。
「そんな不安でいっぱいの国民に向かって、二十分も『先進因果脅威部門の組織法上の根拠がどうたらこうたら』と法律書を読み上げたら、かえって怖くなってしまうよ。
必要な専門的説明は、議会や関係機関との協議で行えばいい。今夜の演説とは役割が違うんだ。
数字が欲しい人もいるだろう。だが、数字だけを並べても安心が届くとは限らない。
魔法使いの正体を知りたい人もいるだろう。しかし、何でも話せばよいわけでもない。
政府に怒っている人もいる。その声を黙らせるための原稿にしてはいけない。
一方で、今日の出来事に希望を見いだした人もいる。その思いも頭ごなしに否定する必要はない。
そうしたさまざまな人間が、同じテレビの前で私の言葉を待っていることを忘れないでほしい。
できるだけ平易な言葉で、十分以内にまとめ直してくれ。頼んだよ」
「……っ、承知いたしました! 直ちに書き直します!」
スピーチライターたちが目の色を変えて部屋を飛び出していく。
残ったホワイトハウス報道官が、今度は自分が用意した分厚いファイルを開き、冷や汗を拭いながら言った。
「大統領。演説のあとに、プレス・ルームの代表記者たちから十五分間だけ直接質問をお受けになるとのことですが……こちらが広報室で作成した『想定問答集(Q&A)』です」
午後七時十五分。ボブが渡された想定問答集を開くと、三十項目に及ぶ質問が、公開可能な事実、個人情報、捜査情報、今後の制度説明などに色分けして整理されていた。
『第1分類:今日確認された事実と、市民の安全に関する情報』
『第2分類:協力実働者の身元と関係者のプライバシー』
『第3分類:未公表の統計と能力評価制度』
『第4分類:過去の事案と、現在進行中の捜査』
『第5分類:機関の監督権限と、議会へ説明すべき事項』
『第6分類:民間伝承や裏づけのない推測に関する質問』
それぞれの分類欄には「回答可能」「追加説明が必要」「回答留保」といった朱書きが並んでいた。とりわけ本人の身元や捜査に関する欄が「非公表」の赤字で埋まっているのを見て、ボブは思わずコールマンの方を振り返った。
「……おいコールマン。国民が一番聞きたがる話題ほど、『現時点では話せない』になっているじゃないか」
「はい、大統領。安全保障と個人情報保護の基準に照らすと、どうしてもそうなります」
「それでは、私は記者会見で一体何を答えればいいんだい?」
「今日確認した事実と、国民の安全のための対応、そして今後どこで説明責任を果たすかについては、明確にお答えいただけます」
「……なるほどねえ。記者の連中には、なかなか難しい注文をつけられそうだ」
報道官が心配そうに口を挟んだ。
「大統領、やはり今夜は一方的なテレビ演説だけで打ち切って、記者からの質疑応答は週明けに見送られた方がよろしいのではないでしょうか? 機密ばかりでは政権の支持率に――」
「いや、質疑は予定通り受けよう」
ボブはきっぱりと言った。
「どうせ質問を受けずに逃げたところで、明日の朝からホワイトハウスが記者たちに包囲されて仕事にならなくなるのは同じだ。それにね、『政府は何を答えられて、何を絶対に答えないのか』というラインを、私自身の口から直接記者たちに突きつけておくことに意味があるんだよ。安全保障と国民のプライバシーを守るためなら、記者に嫌われるくらい安いものさ」
そして午後七時四十五分。本番の十五分前。
ボブは大統領執務室のデスクに戻り、書き直されたばかりの短い演説原稿に最終確認の赤ペンを入れながら、銀のトレイに乗せられて運ばれてきた「今夜のディナー」をつまんでいた。
トーストしたパンに、ハムとチェダーチーズ、レタスを挟んだだけのシンプルなクラブハウス・サンドイッチである。
コールマンがノックをして入室してくる。
「大統領、中継カメラのセッティングが完了いたしました。五分後に演説会場へ――」
「うん、分かっているよ」
ボブは最後のサンドイッチの一切れを口に放り込み、紙ナプキンで口元を拭うと、なんとも寂しそうな、遠い目をして呟いた。
「……コールマン。ホワイトハウスのキッチンが作るハムチーズ・サンドイッチは、もちろん世界で一番おいしいんだがねえ」
「……はい」
「やっぱり、今日の私の胃袋は、ミディアムレアに焼いた分厚いテキサス産リブアイ・ステーキと、マッシュポテトを迎える準備をしていたんだよ。あのドラゴンめ、よりによって金曜日の午後に現れて私のディナーをサンドイッチに変えてしまうとは、本当に罪深いトカゲだ」
「……誠に同情いたします。ですが大統領、その代わりと言ってはなんですが、ニューヨークの街と数百万人の市民は無傷でございました」
ボブは一瞬だけきょとんとし、それから目尻に深い皺を作って、今日一番の温かい笑顔を浮かべた。
「……まったくだね。無傷のニューヨークと引き換えなら、ステーキの一枚や二枚、実に安いディナーじゃないか」
ボブは立ち上がり、紺色のスーツのボタンをパチンと留めてネクタイを締め直した。
「ただし、コールマン。来週すべてが落ち着いたら、今日の分と合わせて二倍のサイズのステーキをちゃんと手配してもらうからね」
「はい、最優先事項としてキッチンに命じておきます」
執務室の重い扉が開かれる。
廊下の向こうには、全米、そして世界中の数億人の視線が待つテレビカメラの赤いタリーランプが光っていた。
ボブ・ウォーレンはそれまでの軽口を綺麗に消し去り、超大国の最高指導者としての威厳と包容力を全身に纏って、演壇へと歩み出た。
*
二〇二六年十月三十日、金曜日。午後八時ちょうど(日本時間・十月三十一日[土]午前九時)。
ABC、CBS、NBC、FOX、CNNをはじめとする全米のすべてのテレビネットワークとラジオ局、そしてYouTubeやSNSのライブストリームが一斉に通常番組を中断し、ホワイトハウスからの中継映像へと切り替わった。
海の向こうの日本でも、土曜朝の報道特番がすべて同時通訳付きでこの生中継を映し出している。
星条旗を背にした演壇の前に、ロバート・“ボブ”・ウォーレン大統領が静かに立つ。
数秒間の深い静寂ののち、彼は正面のプロンプターではなく、カメラのレンズの奥にいる一人ひとりの国民の目を真っ直ぐに見据えて、落ち着いた力強い声で語り始めた。
「――親愛なるアメリカ国民の皆さん、こんばんは。
まず初めに、本日の午後二時十一分、ニューヨーク市マンハッタンの上空において発生した重大な事案についてご報告いたします。
すでに多くの皆さんがテレビ中継やインターネットの映像で目撃された通り、本日、マンハッタンの空に巨大な有翼の生物――伝承において『ドラゴン』と呼ばれてきた存在によく似た、極めて危険な超常的脅威が出現いたしました。
しかし、国土安全保障省の特殊部門である『MAJESTIC-12』、およびその協力体制下にある勇敢な実働者が直ちに現場で迎撃にあたり、発生からわずか十分間でこの脅威を完全に排除いたしました。ニューヨーク市警、消防局、連邦航空局の迅速な連携、そして何よりあの空で戦ってくれた彼のおかげで、マンハッタンの建造物には一つの損傷もなく、市民の死傷者も一人も出ませんでした。現場で市民の命を守り抜いたすべての関係者に、合衆国大統領として心からの感謝を捧げます」
ボブはそこで一拍の間を置き、デスクの上に置いた両手にわずかに力を込めた。
「その上で、今夜、私はアメリカ合衆国大統領として、皆さんに一つの重大な事実を正式にお伝えしなければなりません。
先日、同盟国である日本政府が公表したのと同じように――現代の通常の科学の枠組みでは十分に説明することのできない『特殊な能力』を持つ人々は、我がアメリカ合衆国にも実在します。
これはインターネットの噂でも、ハリウッド映画の宣伝でも、ハロウィンのジョークでもありません。合衆国政府が長年にわたり公式に把握し、専門の機関を通じて対応してきた、紛れもない事実です」
その瞬間、ホワイトハウスの控え室にいた記者たちから、低くうねるようなどよめきが漏れた。
昼間のホワイトハウス声明では「MAJESTIC-12の協力者が対処している」とだけ述べられていたが、いま大統領自らの口によって、「アメリカ国内にも能力者たちが広く実在する」という事実が、歴史上初めて公式に認定されたのである。
ボブはざわめきに動じることなく、まるでリビングルームの暖炉の前で家族に語りかけるような、穏やかで噛み砕いた口調へと声のトーンを変えた。
「今日、皆さんはニューヨークの空で、空中に百枚以上の輝く円陣を描き出し、巨大な怪物の攻撃を跳ね返して街を守り抜くという、信じがたいほど強大な力を持った一人の青年を目撃しました。
彼は間違いなく、私たちの街を救ったヒーローです。
しかし、今夜私が皆さんに何よりも強く理解していただきたいのは――『特殊な能力を持つ人々が、全員あの青年と同じような強大な力を持っているわけではない』ということです」
テレビの前の数千万の視聴者が、ハッとしたように画面を見つめる。
「ひとくちに能力と言っても、その性質や規模には、人間一人ひとりの顔や背丈が違うのと同じくらい大きな個人差があります。特定の条件で初めて現れるささやかな力もあれば、身体能力を大きく引き上げる力もある。仕事に役立つ場合も、普段の暮らしでは使い道がない場合もあります。ですが、そうした人々の一人ひとりを、今日ニューヨークで目撃した大規模な魔術の使い手と同一視することはできません。
そして、彼ら能力者の圧倒的多数は、今日この瞬間まで、皆さんとまったく同じアメリカ社会の中で暮らしてきました。毎朝同じスクールバスに乗って学校へ通い、オフィスや工場で汗を流して働き、納税の義務を果たし、家族を愛して生きる、私たちの善良な隣人であり、友人であり、誇りあるアメリカ合衆国市民なのです」
ボブの言葉は、官僚が書いた無機質な法律用語ではなく、生身の体温を持った言葉として全米の家庭へと染み渡っていく。
「特殊な能力を持っているというただそれだけの理由で、その人が危険人物になるわけではありません。銃や車と同じように、もし能力を悪用して罪を犯す者がいれば、法に基づいて厳正に処罰されます。しかし、何も悪いことをしていない市民が、生まれつきの能力や体質を理由に差別されたり、犯罪者扱いされたりすることは、自由と平等を掲げるこの国において断じてあってはならないことです。
私は、今日の映像を見て皆さんが心に不安や戸惑いを抱くこと自体を責めるつもりはありません。未知の大きな力を目の当たりにすれば、怖いと感ずるのは人間として当然の反応です。
ですが、恐怖や根拠のない憶測を理由に、誰かを脅迫したり、その家族や職場を傷つけたりすることは決して許されません。特定の個人を能力者だと決めつけて個人情報を晒し、暴力を煽動する行為や、ストーキング、悪質な詐欺行為に対しては、MAJESTIC-12がFBIおよび各地の法執行機関と連携し、法に基づいて断固たる措置をとります」
そしてボブは、演説の最後の項目へと進んだ。
「なお、本日の演説において、合衆国内に何人の能力者が存在するのかという統計や、個々の能力の分類、具体的な管理制度、ならびに本日ニューヨークで戦った青年の身元について、政府から公表することはいたしません。
これは、政府が国民への説明を放棄するという意味ではありません。公開によって危険にさらされる人々のプライバシーと、国家の安全保障を両立させるために、現時点では慎重な扱いが必要なのです。政府には、国民が知るべき事実について説明を続ける責任と、個人の尊厳と安全を守り抜く責任の双方があります。どうか、そのことをご理解いただきたい」
ボブは最後に、ほんの少しだけ目尻を緩め、親しみのある微笑みをカメラに向けた。
「今日の昼間、ニューヨークで多くの人々が空を見上げ、見たこともない怪物に恐怖を感じたことでしょう。
しかし、どうか思い出してください。あの同じ青い空には、自分の危険も顧みず、見ず知らずの何百万もの市民を守るために立ち上がった、灰色のパーカーを着た一人の若者もいたのです。
私は、皆さんにあの光景を見て、恐怖だけを記憶に残してほしくはありません。私たちがこれまで知らなかった新しい力がこの世界に存在することと、この国の人々が昨日までと同じように互いを信頼し、尊重し、助け合って生きていけることは、決して矛盾しないのです。
ご清聴ありがとうございました。皆さんに、そしてアメリカ合衆国に、神のご加護がありますように」
午後八時十一分。
ボブが深く一礼すると、演説会場の脇に控えていたホワイトハウスのスタッフや閣僚たちから、静かだが力強い拍手が湧き起こった。
だが、感傷的な余韻が許されたのは、わずか三十秒間だけだった。
ボブが演壇の横からそのまま記者会見用のマイクスタンドへと移動し、「それでは、時間が許す限り代表質問を受けよう」と告げた瞬間、待ち構えていたホワイトハウス記者クラブの精鋭たちが、一斉に手を挙げて怒涛のような質問攻勢を開始した。
「大統領! AP通信です!」
最前列の男性記者が、マイクを握りしめて立ち上がった。
「本日のマンハッタンの事案で、百七十八枚もの発光する円陣を展開してドラゴンを撃退した、通称『Hoodie Wizard(パーカーの魔法使い)』について伺います! 彼は一体何者なのですか? 軍人なのか、MAJESTIC-12の職員なのか、それとも民間人なのか!」
「彼は、本日の危機に際してMAJESTIC-12に協力し、ニューヨークの市民を守ってくれた非常に優秀な実働者だよ」
ボブはにこやかに答えた。
「彼の名前を公表していただけますか!?」
「先ほどの演説でも申し上げた通り、それはできないね」
「では、彼はアメリカ国籍を持つ合衆国市民なのですか!?」
「個人の身元に関わる情報については、一切お答えしない方針だよ」
「年齢だけでも! 映像では二十代に見えましたが、学生なのですか!?」
「ピーター、年齢や職業というのも、立派な身元情報の一つだろう?」
「では大統領、彼は今この瞬間、どこにいるのですか!?」
食い下がる記者に対し、ボブは肩をすくめていたずらっぽく笑ってみせた。
「さあ、どこにいるかは機密だが……少なくとも、今もマンハッタンの空に浮かんでいるわけではなさそうだね」
張り詰めていた記者席から、思わずドッと笑い声が漏れた。
ボブは笑いが収まるのを待ってから、穏やかだが芯のある声で付け加えた。
「みんなが彼のことを知りたがる気持ちはよく分かるよ。私だって彼のファンになったからね。だが、彼がどれほど素晴らしい貢献をしてくれたとしても、それが彼の私生活を世界中のカメラの前に晒していい理由にはならない。あの青年には、ドラゴンを倒して家に帰ったあと、誰にも邪魔されずにゆっくりと夕食を取る権利があるはずだ。本人が望まない以上、政府から身元を明かすつもりはないよ」
「大統領! ワシントン・ポストです!」
続いて指名された女性記者が、鋭い眼光で核心へと斬り込んできた。
「先ほどの演説で、大統領は『能力者に対する脅迫や危険な身元特定について、MAJESTIC-12が法執行機関と連携して対処する』と述べられました。しかし、これまで議会にも存在を秘匿されてきたMAJESTIC-12のような情報機関が国内のSNSや市民の言論を監視するとなれば、合衆国憲法修正第1条が保障する『言論の自由』に対する重大な侵害、すなわち政府による思想検閲になるのではないですか!?」
会場の空気がピリッと引き締まる。
ボブは微笑みを消し、正面から女性記者の目を見据えて明確に首を横に振った。
「いい質問だ、サラ。だが、答えは明確に『ノー』だ。政府が国民の言論や思想を監視するようなことは断じてない」
「しかし、現実に能力者に対して否定的な意見や恐怖心をSNSに書き込んだ市民が、MAJESTIC-12のブラックリストに載せられるのではないですか?」
「載らないよ。少なくとも、単に自分の意見や感情を述べたというだけではね」
ボブは指を一本立て、全米の視聴者にも分かるようにハッキリと線引きを示した。
「いいかい、政府には、国民が未知の力を見て『怖い』と感じることを禁止する権限などないし、持つべきでもない。能力者の存在に疑問を呈することも、突然こんな発表をした私の政権の秘密主義を新聞の一面で徹底的に批判することも、すべて憲法で守られた皆さんの絶対の権利だ」
「では、具体的に何が取締りの対象になるというのですか?」
「たとえば、今日すでにいくつかの州で起きているように、『あの学生は能力者に違いない、みんなで寮の部屋を取り囲んで暴力を振るおう』と個人の住所を晒して襲撃を煽動すること。あるいは、無関係な市民の職場に『ビルを爆破する』と脅迫メールを送ることだ」
女性記者が一瞬言葉に詰まり、そして言った。
「……そのような脅迫や暴力の煽動であれば、特別な秘密機関など使わずとも、従来の刑法と通常の警察・FBIで対処できるはずではありませんか?」
「その通りだ、サラ!」
ボブは大きく頷いた。
「だからこそ、MAJESTIC-12が勝手に市民を逮捕したり超法規的な処罰を行ったりするのではなく、特殊事象に関する情報分析をFBIや地元の警察に提供し、既存の法律と裁判所の令状主義(適正手続)に基づいて対処すると言っているんだ。
いいかい、私の政権の原則は極めてシンプルだ。『能力者の権利を守るために、一般国民の言論の自由を奪うつもりはない。しかし同時に、一般国民の安心のためという名目で、能力者や無実の市民の基本的人権が暴力によって奪われることも、決して認めない』。ただそれだけのことさ」
サラの質問はそれで終わったが、記者席の表情が一様に和らいだわけではなかった。説明された法的な線引きに頷く者もいれば、依然としてMJ12への監督が十分なのか疑う者もいる。
しかし、国民が知りたいことは権利の問題だけではない。残された時間、質問は人口統計、過去の事件、そして政府の説明責任へと移っていった。
「大統領! ニューヨーク・タイムズです! 日本政府は国内に約三百四十二万人、三十六人に一人の能力者がいると発表しましたが、アメリカ国内には何人いるのですか!?」
「現時点では公表しない。ただし、政府が人数の問題を軽く考えているわけではないことは理解してほしいね」
「日本の比率を当てはめると約九百三十万人という試算が出ていますが、それに近い規模なのですか!?」
「仮定に基づく試算だね。日本と同じ比率かどうかを、私から肯定も否定もしないよ」
「では、政府は能力者をどのようにランク分けしているのですか!? ニューヨークの青年は最高ランクなのですか!?」
「評価の仕組みの詳細は今夜の公表対象ではない。それに、今日の青年の力だけでほかの能力者のことを測らないでほしい」
「今日のドラゴンは、一体どこから誰が呼び出したのですか!? 過去にも夜間に同様のドラゴンが出現したことがあるというのは本当ですか!?」
「誰が何のために召喚したのか、現在も調査を続けている。捜査の妨げになる情報は今は出せないが、皆さんの安全に関わる確認事項は適切に伝えるつもりだ」
「では、あの青年が使った百七十八枚の光る円盤は、科学技術ではなく文字通りの『魔術(Magic)』なのですか!?」
「専門的な定義については、今後の検証も必要だろう。今日の映像だけで、すべての仕組みが分かったと断言するつもりはないよ」
記者たちはなおも質問を重ねた。とりわけ政府がどこまで説明責任を果たすのかについては、納得していない者も多い。
「大統領! 能力者の存在は認めても、これまで政府が何をしてきたのかは説明されていません。国民や議会は、何を根拠に政府を信頼すればいいのですか!?」
ボブは一瞬だけ考え、それから笑みを消して正面から答えた。
「その疑問はもっともだね。今日、我々は能力者の実在と、ニューヨークでMAJESTIC-12が対応したことを明らかにした。だが、これで政府の説明が終わったとは思っていないよ」
「……」
「来週から議会には必要な非公開説明を始めるし、市民に伝えられることは今後も整理していく。ただし、関係者の身元や今も続く捜査を危険にさらしてまで、今夜すべてを話すわけにはいかない。少なくともニューヨークの人々が無事に夜を迎えられたことは、胸を張って報告できるけれどね」
記者たちが苦笑いと悔しさが混じった声を上げる中、時計の針が終了予定時刻を指した。
司会の報道官が「最後の質問にします」と告げると、会場の端でずっと手を挙げていたタブロイド系メディアの記者が、少し遠慮がちに、しかし真剣な顔でマイクを握った。
「大統領! 日本のテレビ番組では今朝、識者が『人間の能力者以外にも超常的な存在がいる』と示唆して大騒ぎになっています。今日、伝説の怪物であるドラゴンが実在した以上、お聞きします……このアメリカには、魔女や、吸血鬼(ヴァンパイア)や、人狼(ウェアウルフ)といった存在も実在するのでしょうか!?」
その瞬間、ボブの視線がほんの一瞬だけ、会場の袖に立つコールマン担当官の方へと流れた。
コールマンは、能面のように一切の感情を消した無表情で直立している。
ボブは再び記者の方へと向き直り、今日一番の穏やかで底の知れない微笑みを浮かべた。
「――本日、私が合衆国大統領として公式に発表したのは、『この国には特殊な能力を持つ人々が存在する』という事実です。それ以上のあらゆる憶測や民間伝承について、この場でお答えすることは控えましょう」
「『存在しない』と否定はなさらないのですか!?」
「未確認の質問に対して、大統領がいちいちイエスやノーと答えていたら、明日のハロウィンの仮装パーティーを前に、国民の皆さんをかえって混乱させてしまいますからね。……ありがとう、皆さん、良い夜を!」
午後八時三十五分。
背後から飛んでくる無数の質問の声を背に、ボブは軽く手を振って会見場の扉の奥へと姿を消した。
*
同じ時刻。イリノイ州シカゴ郊外のアパートメント(中部夏時間・午後七時三十五分)。
リビングのソファで缶ビールを片手にテレビの生中継を見守っていた三十代の会社員――Redditの常連ユーザー『u/ProbablyYourNeighbor』は、画面の中でボブ大統領が会見場を後にするのを見て、ふうっと長い息を吐き出した。
「……ようやく、ホワイトハウスも正式に認めたか」
彼はテレビ画面の下に流れる『PRESIDENT WARREN CONFIRMS ABILITY USERS EXIST IN THE U.S.(ウォーレン大統領、米国内の能力者の実在を確認)』という速報テロップを見つめた。
特に彼の胸に深く響いたのは、ボブが演説の中盤で語った『全員があのニューヨークの青年と同じ力を持っているわけではない』『彼らの多くは今日まで皆さんと同じ社会で暮らしてきた普通のアメリカ人だ』という一節だった。
「そうそう、そこなんだよな、ボブ。よく言ってくれたよ」
今日のお昼、ニューヨークで178枚の魔法陣を見たネット民たちから「お前もドラゴン倒せるのか!?」と詰め寄られ、彼が必死にキーボードを叩いて訴えたのとまったく同じことを、合衆国大統領が全国民の前で代弁してくれたのだ。
しかも、国内の人数や登録制度の詳細、個人の身元については「プライバシーと平穏な生活を守るために公表しない」と明確に線を引いてくれた。来週月曜日に出勤したところで、周囲の目がすぐに変わるとは限らない。それでも、少なくとも国が個人情報の一方的な公開を進めるわけではないと知り、少しだけ肩の力が抜けた。
彼は苦笑しながら手元のスマートフォンを開き、すでに何万件ものコメントで沸騰している Reddit の『r/worldnews(大統領演説実況メガ・スレッド)』に、短いコメントを書き込んだ。
u/ProbablyYourNeighbor [+14.2k]
『とうとうボブまで公式に認めちゃったなw
まあ、大統領が演説で言ってくれた通り、俺たちの大半はドラゴンなんか倒せない普通の市民だからさ。俺の明日の土曜日の予定がこれで変わるわけでもないよ。朝からスーパーに買い物に行って、午後は予定通り溜まった洗濯物を片付けなきゃならんし lol』
投稿してからわずか十秒後、待ち構えていたかのように見慣れた二人から即座に返信がついた。
↳ u/NoWayBro [+9,800]
『お前えええええ!! 合衆国大統領がついに公式に認めたぞおおおお!! お前が火曜日の夜中に書いてたこと、文字通り100%全部ガチの事実だったじゃねえか!!』
↳ u/SourcePlease [+11.5k]
『ウォーレン大統領の公式演説により、米国内に特殊能力者が実在し、政府が把握していたという事実は公的に確定した。また、能力に大きな個人差があるという大統領の説明も、お前の昼間の主張と完全に一致している。
……ただし念のため言っておくが、お前個人(u/ProbablyYourNeighbor)が本当に能力者であるかどうかの客観的証拠は、今の時点でもまだ提示されていないからな』
↳ u/ProbablyYourNeighbor [+18.4k]
『>>u/SourcePlease
もうそのセリフ、俺たちの挨拶代わり(ルーティン)になってるだろw 良い週末をな!』
そして、この歴史的な夜の演説を受け止めていたのは、ネットの住人たちだけではなかった。
ペンシルベニア州の静かな住宅街にある一軒家では、小学生の息子を抱き寄せた母親が、テレビの画面を見つめながら目尻に浮かんだ小さな涙を拭っていた。
彼女の八歳になる息子には、感情が高ぶると周囲の小さな金属製品――スプーンやクリップなどを数センチだけ引き寄せてしまうという、家族だけが知るささやかな異能があった。これまで母親は、もしこのことが学校や近所にバレたら、息子が政府の研究所に連れて行かれるか、街から追い出されるのではないかと、毎日怯えながら生きてきたのだ。
しかし今、テレビの中で合衆国大統領が「彼らにもすべての国民と同じ権利があり、政府はその平穏な生活を守る」と宣言してくれた。
もちろん、だからといって明日の朝すぐに学校の先生やママ友に息子の秘密を打ち明けようとは、母親も思わない。政府が認めたことと、世間の人々が一晩で偏見をなくすことは別問題だからだ。それでも、「自分の子供がこの国に存在していいのだと、国が公式に認めてくれた」という事実だけで、彼女の肩にのしかかっていた何年分もの鉛のような重荷は、確かに半分になっていた。
また、テキサス州ダラスの一般的な家庭のリビングでは、夕食後のソファで父親と母親、そして十歳の男の子がテレビのニュースを振り返っていた。
「……結局、ウォーレンのやつ、アメリカに何人能力者がいるのかも、あのパーカーの兄ちゃんが誰なのかも、肝心なところは全部『機密だ』で煙に巻いちまったなあ」
父親が物足りなさそうに腕を組んでぼやくと、隣で皿を拭いていた母親が呆れたように言った。
「いいじゃないの、それで。大統領が言ってた通り、能力者の人たちだって見世物じゃないんだから、私たちと同じように静かに暮らしたいんでしょうよ」
「……まあ、それはそうか。もし俺に超能力があったとしても、ご近所の噂のタネにされるのはごめんだからな」
その時、テレビ画面に再び昼間のニューヨークの映像――空中に百七十八枚の黄金の魔法陣を展開する『Hoodie Wizard』の姿が映し出された。
床に寝そべってそれを見ていた十歳の男の子が、目を輝かせて父親を振り返った。
「ねえ父さん! 僕も大人になったら、あのパーカーのお兄さんみたいに空を飛んで魔法陣を出せるようになるかな!?」
父親は息子の頭を眺め、三秒ほど真面目に考えてから、ポンと息子の背中を叩いた。
「……とりあえず、魔法陣を出す前に、明日の朝までに算数の宿題を全部終わらせるところから始めような」
「えーっ、魔法と算数、関係ないじゃん!」
「さっきニュースで科学者の人が『あの幾何学模様の魔法陣を動かすには、すごい数学の計算が必要だ』って言ってたぞ。ほら、机に向かった向かった!」
全米の幾千万ものリビングルームで、恐怖と驚き、そしてこうしたささやかな笑い声が交錯しながら、能力者の存在が公認された最初の夜は更けていった。
*
午後八時五十分。ホワイトハウス西棟、大統領執務室。
テレビ演説と記者会見という今日最大の山場を乗り切ったボブ大統領は、ネクタイを少し緩めながら執務室へと戻り、愛用の革張りチェアへとドサリと深く腰を下ろした。
「――お疲れ様でした、大統領。演説、ならびに質疑応答でのご対応、誠に的確でございました。広報室へ届いた速報的な反応は、安心したという声と説明が不十分だという声に分かれております。少なくとも、国民の関心が収まる気配はございません」
後ろから一緒に入室してきたコールマン担当官が、心からの敬意を込めて頭を下げた。
「いやあ、なかなか骨の折れる三十分だったよ。記者たちの目がまるで獲物を狙う鷹みたいだったからねえ」
ボブは肩を回して息を吐き、満足そうに頷いた。
「だが、これで少なくとも『アメリカにも能力者は存在するが、彼らは怪物ではなく私たちの隣人である』という一番大切なメッセージは、国民にしっかり届けることができたわけだ。
国内の人数も伏せた。本人たちの個人情報も守り抜いた。MAJESTIC-12の立場についても必要な範囲で説明したし、魔女と吸血鬼の連中との約束も守った。……よし、これで今夜から明日の土曜日にかけて、世間も少しは落ち着いてくれるかな?」
ボブが「さあ、今度こそ帰って寝ようか」とばかりに明るい顔でコールマンを見上げた。
ところが。
デスクの前に立つコールマン担当官は、なぜか気まずそうに視線を逸らし、無言のまま立ち尽くしていた。
ボブの笑顔が、ピクリと固まる。
「……コールマン? なんだい、その『まだ何か言わなければならないことがあるんだが』という顔は」
「……大統領。大変申し上げにくいのですが、明日の件につきまして、今夜中に決済をいただかなければならない緊急の追加報告がございます」
「まだ何かあるのかい!? ドラゴンはもうネバダの冷凍庫に入っているんだろう?」
「はい。ドラゴンの件ではございません。……大統領、明日十月三十一日が何の日か、ご記憶にありますでしょうか」
「……十月三十一日? ああ、ハロウィンじゃないか」
ボブは拍子抜けしたように笑った。
「それくらい知っているよ、コールマン。何しろ、今日のニューヨークの彼のおかげで、全米の服屋から灰色のパーカーが全部売り切れて、今年のハロウィンは『Hoodie Wizard』の仮装が大流行するらしいじゃないか。いいことだよ、こんな緊迫した一週間のあとだからこそ、明日くらいは子供たちにも大人にも、仮装をして楽しくお菓子を配って過ごしてもらいたいねえ」
「……一般市民が灰色のパーカーを着て楽しむこと自体は、何ら問題ございません」
コールマンは、懐から新しい赤ラベルの報告書を取り出し、デスクの上にそっと置いた。
「問題は、そのハロウィンの夜に紛れて活動する『本物の側』でございます」
ボブの眉が、嫌な予感にひくついた。
「……本物の側、というと?」
「はい。例年、十月三十一日のハロウィンの夜には、全米各地において『全米魔女委員会』に所属する魔女の氏族や、『全米吸血鬼委員会』をはじめとする一部の人外共同体が、年に一度の伝統的な祭礼・集会を実施しております」
「うん、まあ、彼らにとっては由緒正しいお祭りだからね」
「これまでは、全米の街中が魔女やドラキュラ、狼男の仮装をした一般人で溢れ返るハロウィンの夜こそが、彼らにとって『どれだけ本来の姿や魔術具を持ち歩いても、一般人から100パーセントただのコスプレだと誤認してもらえる年間最大の安全日(カモフラージュ)』として機能してきたのです」
ボブは、ゆっくりと目を閉じた。
「……ああ。そういうことか」
「はい。しかし今年は、日本のディスクロージャーに加え、本日の昼間にマンハッタンで本物の『魔法陣』が生中継され、さらに今夜の大統領演説で能力者の実在が公認された直後のハロウィンとなります。一般市民の側が『もしかしたら、この仮装行列の中に本物の魔法使いや吸血鬼が混ざっているのではないか』と、目を皿のようにして疑い始めているのです」
ボブがこめかみを押さえる中、コールマンは容赦なく追い打ちの報告を読み上げていく。
「すでに三十分前、『全米魔女委員会』から、明日の夜にニューイングランドやセイラムで予定されている伝統儀式の安全確保および一般人の立ち入り制限について、MAJESTIC-12との緊急協議要請が入っております」
「……うん」
「同時に『全米吸血鬼委員会』からは、『明日のハロウィンパーティーにおいて、我が共同体の構成員が一般の仮装参加者と混同されてニンニク入りフードを勧められる被害、あるいは逆に本物の吸血鬼ではないかと疑われて杭を向けられるリスクについて、政府はどのような警備体制を敷くのか』という厳重な照会が届いております」
「…………うん」
「さらに、民間の大規模ハロウィン・パレードの主催団体やニューヨーク市庁舎からは、『明日、灰色のパーカーを着たHoodie Wizardの仮装者が数万人規模で集まる見込みだが、万が一その中に本物の魔法使いが混ざって魔法陣を出した場合、イベント保険の適用対象になるのか、事前の届け出が必要なのか』という問い合わせが殺到しておりまして――」
「また、魔女委員会の若手グループの一部からは、『せっかく魔法が有名になったのだから、明日のパレードで本物の箒(ほうき)で空を飛んで見せてもいいか』という許可申請まで出ております」
ボブは、静かに右手を上げてコールマンの言葉を止めた。
執務室の時計は、午後九時を回ろうとしている。
「……コールマン」
「はい、大統領」
「一つだけ、君に質問してもいいかな?」
「何でしょうか」
「明日――土曜日のハロウィンくらいは、私を休ませてもらえないかね?」
コールマンは、これまで見せたどんな表情よりも申し訳なさそうな、しかし官僚として一切の妥協がない顔で、深く一礼して答えた。
「……最大限、善処いたします、大統領」
ボブは執務室の白い天井を仰ぎ見、魂の底から絞り出すような苦笑いを漏らした。
「コールマン、その『善処します』っていうのはね、ワシントンの政治用語で『一分たりとも休めません』という意味なんだよ……」
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