もしも異能がディスクロージャーされたら? 作:パラレル・ゲーマー
二〇二六年十月三十一日、土曜日。午後五時ちょうど(米東部夏時間)。
日本時間では翌十一月一日の午前六時。渋谷のスクランブル交差点で飛行能力者の大学生が騒動を起こしてから約九時間半が過ぎた頃、アメリカ東海岸――ハドソン川を挟んでマンハッタンから北西へ車で四十分ほど離れたニュージャージー州北部の郊外住宅地「ウィロークリーク地区」は、しっとりとした秋の夕暮れを迎えていた。
緩やかな坂道に沿って、手入れの行き届いた芝生の前庭と白い木製のポーチを持つ二階建ての一戸建てが整然と並んでいる。
街路樹のシュガーメイプルは赤や黄金色に染まり、落ち葉がアスファルトの歩道を彩っていたが、あいにく今日の空は昼前から分厚い灰色の層雲にすっぽりと覆われていた。今にも雨が落ちてきそうなほどではないものの、太陽の光は雲の向こうに隠れ、夕方が近づくにつれて空は重たい鉛色から暗い藍色へと沈み込みつつあった。
だが、曇り空の薄暗さは、かえってこの日の住宅街を彩る無数の装飾を鮮やかに際立たせていた。
どの家のポーチにも、くり抜かれたカボチャの『ジャック・オー・ランタン』が並べられ、内側に仕込まれた温かなオレンジ色のキャンドルライトが揺れている。窓ガラスには黒い画用紙のコウモリが張り付き、芝生の植え込みからはプラスチック製の白骨死体の腕が突き出し、玄関へと続くレンガの小道には綿で作られた巨大な蜘蛛の巣が張り巡らされていた。
そんなウィロークリーク地区の一角、オーク・ストリートの中ほどにある一軒家の前庭で、住民のデイヴ(四十二歳)は、芝生の真ん中に設置した高さ二メートル半の『空気膨張式(インフレータブル)の緑色のドラゴン』を見上げながら、腕を組んで深刻そうに首をひねっていた。
内蔵された小型ファンでブォーッと膨らみ、赤い目を光らせている愛嬌のあるビニール製のドラゴンなのだが、デイヴが電源コードを抜こうかどうしようか迷っていると、自宅のポーチを掃除していた妻のリンダが呆れたように声をかけてきた。
「ちょっとデイヴ、さっきからそのドラゴンの前で何をブツブツ悩んでるのよ? もうすぐ子供たちが回ってくる時間でしょう?」
「いやあ、それがさ、リンダ……このドラゴン、今年はやっぱり空気を抜いてガレージに片付けた方がいいんじゃないかと思ってさ」
「はあ? なんでよ、去年ホームデポで八十ドルも出して買ったお気に入りじゃない」
「だって、昨日の昼間に川の向こうのマンハッタンで、全長四十五メートルの『本物のドラゴン』が出たばっかりだぞ? なんかこう、翌日に庭先でドラゴンの風船を膨らませてるのって、不謹慎というか、ご近所さんから妙な目で見られないか?」
デイヴが真剣な顔で言うと、リンダは吹き出して腰に手を当てた。
「馬鹿言わないでよ! 昨日のニュースでニューヨークのビルも人も無傷だったって大統領が言ってたじゃない。それに、本物のドラゴンが空を飛んだからって、なんでうちの可愛いゴム製のドラゴンまでリストラされなきゃいけないのよ。ほら、そんなこと気にしてないで、玄関のボウルにチョコレートの袋を開けてちょうだい!」
「……まあ、それもそうか」
デイヴが頭をかきながらポーチへ戻ろうとした時、歩道を通りかかった海賊姿の男の子が、庭のビニール製ドラゴンを指差してケラケラと笑った。
「あははっ、おじさんの家のドラゴン、昨日のテレビに出てた本物のドラゴンよりずーっとちっちゃくて可愛いね!」
「おう、うちのは火を吐かない安全設計だからな! あとでお菓子取りに来いよ!」
わずか二十七時間前には、ここから三十キロしか離れていない大都会の空で神話の怪物と百七十八枚の魔法陣が激突し、昨夜は合衆国大統領がテレビで「この国にも能力者は実在する」と歴史的な演説を行った。
それでも、今日十月三十一日の夕方、ウィロークリークの住宅街を支配しているのは、世界の終末への恐怖ではなく、年に一度のハロウィンを待ちわびる子供たちの笑い声と、甘いチョコレートの匂いだった。
*
午後五時十五分。オーク・ストリートの三軒隣にあるミラー家の玄関ホール。
母親のヘレン・ミラー(三十六歳)は、玄関マットの上でそわそわと足踏みをしている二人の我が子の衣装の最終チェックに追われていた。
「ほらオーウェン、じっとして! 首元の骨のプリントが曲がってるわよ。ルーシーは靴紐、ちゃんと二重結びにした?」
ヘレンに襟元を直されている十歳の兄・オーウェンは、全身真っ黒なタイツスーツに蓄光塗料で白い骨格標本が描かれた『スケルトン(骸骨)』の仮装をしており、目の周りには黒いアイシャドウ、頬には歯がむき出しになったような簡単なフェイスペイントを施していた。
そして、その隣で誇らしげに胸を張っている八歳の妹・ルーシーが着ていたのは、魔女でもお化けでもお姫様でもなく、NASAの青いロゴワッペンが胸についた真っ白な『宇宙飛行士(アストロノーツ)』のジャンプスーツだった。
ルーシーは両手で、透明なプラスチックのバイザーがついたおもちゃの白い宇宙ヘルメットを抱え、背中にはこれから貰うお菓子を詰め込むための銀色の小さなリュックサックを背負っている。
自分の顔を鏡でチェックしたオーウェンが、隣にいる妹の白い宇宙服をジロリと見て、少し不満そうに鼻を鳴らした。
「……なあルーシー。お前、それ宇宙飛行士だろ? 今日はハロウィンなんだから、怪物とかお化けの格好をする日なんだぞ。宇宙飛行士なんか全然怖くないじゃん」
「いいの! 私はお化けじゃなくて、大人になったら本物の宇宙飛行士になりたいんだから!」
ルーシーはぷいっと頬を膨らませ、兄の骸骨メイクを指差して言い返した。
「それに、お兄ちゃんのそのガイコツだって、ぜんぜん怖くないもん! だって鼻の下にいつものホクロが見えてるし、すぐお兄ちゃんって分かるよ!」
「なっ……! こ、これは暗くなってからライトを当てると骨が光ってめちゃくちゃ怖くなるんだぞ!」
「ふーん。でも白い宇宙服の方がぜったいカッコいいもんね、ママ!」
「はいはい、二人ともとっても素敵よ。喧嘩しないの」
兄妹の微笑ましいやり取りにヘレンが笑っていると、リビングの奥から、スマートフォンを手にした父親のマーク・ミラー(三十八歳)が苦笑いを浮かべながら出てきた。
高校で理科の教師をしているマークは、大の天体観測好きであり、晴れた週末の夜にはいつも裏庭の芝生に愛用の天体望遠鏡を持ち出して、子供たちに木星の縞模様や秋の星座を教えてやっていた。ルーシーが宇宙飛行士に憧れるようになったのも、そんな父親の影響だった。
「パパ! もうお菓子もらいに行っていい?」
ルーシーがヘルメットを頭にかぶりながら駆け寄ると、マークはスマホの気象レーダー画面を閉じてポケットにしまい、玄関の窓から外を見上げた。
窓の向こうの空は、隙間なく垂れ込めた分厚い雲によって、すでに夜の帳が下りたかのように暗い灰色に塗り潰されている。
「うん、あと十五分ほどで五時半だ。そろそろ出発の準備をしようか。……ただ、ルーシー」
「なあに、パパ?」
「さっきから天気予報の雲量チャートを見ていたんだけどね、今夜はずっとこの厚い雲が動かないみたいなんだ。だから、帰ってきてから裏庭で望遠鏡を見るのは、今日はちょっと無理そうだよ。星は一つも見えそうにない」
「……えーっ、今日も星、見えないの?」
ルーシーの被った宇宙ヘルメットのバイザーの奥で、大きな瞳がしょんぼりと垂れ下がった。
先週の週末も雨で観測ができず、「ハロウィンの夜にはアンドロメダ銀河とカシオペヤ座を見ようね」と父親と約束していたのだ。せっかく宇宙飛行士の格好をしたのに、頭上の空に星がないことが、八歳の少女にはたまらなく残念だった。
マークはしゃがみ込み、娘の白い宇宙服の肩に優しく手を置いて言った。
「残念だけどね。でもほら、ルーシー、パパがいつも言っていることを覚えているかい?」
「……うん。知ってるよ」
ルーシーは少しだけ唇を尖らせながらも、父親に教わった言葉を暗唱するように答えた。
「空が曇ってて私たちの目に見えない時でも、星が消えてなくなったわけじゃない。あの雲のずーっと上の方では、いつもと同じように何億個もの星がピカピカ光ってるんだよね?」
「その通り! さすが未来の宇宙飛行士だ、よく覚えていたね」
マークは嬉しそうに娘のヘルメットの上から頭を撫でた。
「雲の向こうには、今この瞬間もちゃんと満天の星がある。……さあ、星を見る代わりに、今日はご近所さんから宇宙一たくさんのチョコレートを集めに行くぞ!」
「うんっ!!」
午後五時三十分。
自治体が推奨するトリック・オア・トリートの開始時刻になると同時に、ウィロークリーク地区のあちこちの家のポーチライトが一斉に明るく灯り、仮装した子供たちと付き添いの保護者たちの群れが、夕闇の歩道へと繰り出し始めた。
「Trick or Treat!!(お菓子をくれなきゃイタズラするぞ!)」
「Happy Halloween!!」
最初の訪問先である向かいのスミス家では、とんがり帽子を被ったスミス夫人が笑顔で出迎えてくれ、「まあ、なんて可愛らしい小さな宇宙飛行士さんと、怖ーい骸骨さんかしら!」と言いながら、ルーシーとオーウェンの袋にミニサイズのスニッカーズとキャンディを二つずつ入れてくれた。
二軒目の家ではグミの小袋、三軒目の家ではキャラメル。
そして四軒目、毎年ハロウィンの装飾に一番お金をかけている角の歯科医の家を訪ねた時、事件(子供たちにとっての大事件)は起きた。
「ハッピー・ハロウィン! ほら、好きなのを一本ずつ持っていきな!」
住人の男性が差し出したバスケットの中に並んでいたのは、一口サイズのミニチョコではなく、スーパーのレジ横で売っている『フルサイズ(通常サイズ)のハーシーズの板チョコとキットカット』の束だった。
「……うおおおおおっ!! ルーシー見ろ、この家『フルサイズ』のチョコバーだぞ!!」
受け取ったオーウェンが、まるで金の延べ棒でも手に入れたかのように目を剥いて歓声を上げた。
「わあっ、ほんとだ、おっきい! ママ、パパ、来年のハロウィンもぜったい一番最初にこのお家に来ようね!!」
「ふふっ、まだ今年のお菓子をもらい始めたばかりなのに、もう来年の予約をするの? ちゃんとお礼を言いなさい」
「「サンキュー・ベリーマッチ!!」」
歩道を歩く他の子供たちともすれ違う。
途中、黒いマントに星柄のとんがり帽子を被り、プラスチックの魔法の杖を振り回している同じ小学校の男の子が、オーウェンたちの姿を見つけて駆け寄ってきた。
「やあオーウェン! ねえ知ってる? 昨日のテレビで大統領が言ってたけど、この世界には『本物の魔法使い』がいるんだって!」
男の子が目を輝かせて杖を振ると、オーウェンは少し大人ぶった顔で腕を組んだ。
「知ってるよ! 昨日マンハッタンの空で、光る輪っかをいっぱい出してドラゴンをやっつけたパーカーの人だろ? 僕のクラスでも朝からその話ばっかりだったよ」
「僕も今日から呪文の練習して、本物の魔法使いになるんだ!」
「えー、でもさ、昨日ウォーレン大統領がテレビで言ってたのは『特別な能力を持った人(Ability users)がいる』ってことだけだろ? おとぎ話に出てくるみたいな、ホウキで空を飛んだりカエルを鍋で煮たりする『本物の魔女(Witch)』がいるなんて、一言も言ってなかったよ」
「じゃあ、昨日のニューヨークの魔法陣は何だったんだよ?」
「……うーん、それは……なんか凄い科学の超能力なんじゃないのか?」
十歳の少年たちが眉間に皺を寄せて大真面目に「超能力と魔法の定義」を議論している後ろで、付き添いのマークとヘレン、そして男の子の両親は、顔を見合わせて苦笑いを浮かべた。
大人たちにとっても、昨日の今日でまだ消化しきれていない「新しい世界の常識」を、子供たちは自分たちのハロウィンのお祭りの一部として、驚くほど無邪気に受け入れようとしていた。
*
午後五時五十分。
オーク・ストリートの緩やかな坂を上りきった突き当たり、大きな柳の木(ウィロー)が庭の隅に立つ古い木造の二階建ての一軒家に、ミラー家の一行が近づいていった。
その家は、周囲の現代的な住宅とは少し趣の異なる、築七十年以上のクラシックなニューイングランド風の建築だった。
丁寧に塗装された深い緑色の外壁に、広いウッドポーチ。
足元のステップには大小さまざまな本物のカボチャを彫ったジャック・オー・ランタンが灯り、玄関脇には黒猫の置物と古びた箒が立てかけられている。
そして何より特徴的だったのは、ポーチの軒先から庭の木の枝にかけて、真鍮(ブラス)や色ガラスで精巧に作られた何十個もの『星と三日月のオーナメント』が吊るされており、夕風に揺れるたびにシャラン、と涼やかで澄んだ音を奏でていることだった。
この家に一人で暮らしているのは、地域の公立図書館で四十年近く司書を務め、数年前に退職したエレノア・ホイットモア(六十九歳)。
いつも穏やかな笑顔で子供たちに絵本の読み聞かせをしてくれる、ウィロークリーク地区で一番人気のある優しいおばあさんである。
ちょうど前のグループの親子連れがポーチから降りてくるところで、ポーチのロッキングチェアの横には、エレノア本人がお菓子を入れた大きな籐のバスケットを抱えて立っていた。
彼女は毎年ハロウィンの日になると、必ず同じ「魔女の衣装」を着て玄関先へ出るのが恒例になっていた。
銀髪が混じる豊かな髪の上に、つばの広いクラシカルな深緑色のとんがり帽子を被り、丸い銀縁眼鏡をかけ、緻密な銀糸で星座のような幾何学模様が刺繍された重厚なベルベットのローブを羽織っている。片手には、先端に小さな白い水晶が埋め込まれた、年季の入ったトネリコの木の杖。
「こんばんは、エレノアさん! 今年もその魔女の衣装、本当に本格的で素敵ですね。ブロードウェイの舞台衣装みたいだ」
すれ違った近所の父親が声をかけると、エレノアは目尻に柔らかな皺を寄せて、上品な声で微笑んだ。
「ふふ、ありがとう、トム。もう何十年も毎年同じものを引っ張り出して着ているだけなのよ。ハロウィンの夜くらいしか、この服に袖を通す機会がないからね」
トムたちは「またまた、物持ちがいいんですねえ」と笑って通り過ぎていった。
このウィロークリーク地区の住民の誰一人として知らないことだったが――エレノアが今身に纏っているその深緑のローブは、パーティーグッズ店で買った仮装用の衣装などではなかった。
彼女の一族が十七世紀に欧州から新大陸へと渡ってきた時代から代々受け継がれ、彼女自身が半世紀以上にわたって魔力を馴染ませてきた、正真正銘の『儀式用・第一級魔術礼装』そのものだったのである。手にしたトネリコの杖も、本物の魔導杖(ワンド)だ。
普段の日にこの格好で外を歩けば、全米魔女委員会の風紀部門から即座に厳重注意を受けるところだが、十月三十一日のハロウィンの夜だけは、どれだけ本物の礼装と杖を身につけてポーチに立っていても、ご近所さんから「今年もミセス・ホイットモアの仮装は気合が入っているわね!」と褒められるだけで済む。彼女にとって、この日は一年で最も気楽に「本来の自分」の装いで夜風に当たれる特別な夜だったのだ。
午後六時ちょうど。
ルーシーとオーウェンが、エレノアの家のポーチの階段をトコトコと駆け上がった。
「Trick or Treat!!」
「まあ、いらっしゃい! 今年のミラー家の兄妹は、可愛い宇宙飛行士さんと、とってもクールな骸骨さんなのね」
エレノアが目を細めてバスケットを差し出し、手作りのリボンが結ばれたチョコレートとクッキーの詰め合わせを二人の袋に入れてやる。
「ありがとう、ミセス・ホイットモア!」
オーウェンは袋の中身を見て喜び、すぐさま次の家へ行こうと階段を降りかけた。
だが、妹のルーシーだけはポーチの真ん中に立ち止まり、頭上の軒先に吊るされたガラスと真鍮の「星のオーナメント」を、うっとりとした瞳で見上げていた。
「……ミセス・ホイットモア。このお星さまの飾り、すっごく綺麗だね。ランプの光が当たってキラキラしてる」
「ありがとう、ルーシー。私も死んだ主人も、昔から星を見るのが大好きだったからね。毎年少しずつ集めていたのよ」
「私もお星さま大好き! だから今日は宇宙飛行士の服を着たの!」
ルーシーは誇らしげに胸のNASAのワッペンを叩いてみせたが、それからふとポーチの外――街灯の向こうに広がる、重たく垂れ込めた灰色の曇り空を見上げて、小さくため息を吐いた。
「……でもね、今日は空が曇ってるから、お星さまが一個も見えないんだ」
「あら、そうねえ。今夜は雲が厚いものね」
「パパはね、『雲があっても、その向こうにはちゃんと星があるんだよ』って教えてくれたんだけど……やっぱり、せっかく宇宙飛行士になったから、本物のキラキラした星空が見たかったなあ」
ルーシーはそこで、目の前に立つ魔女の衣装のおばあさんの顔をじっと見上げ、八歳の子供ならではの純粋で真っ直ぐな疑問を口にした。
「……ねえ、ミセス・ホイットモア」
「何かしら、ルーシー?」
「昨日ね、ニューヨークに本物の魔法使いのお兄さんが出てきて、空に光る輪っかをいっぱい出してドラゴンをやっつけたでしょう? 大統領もテレビで『魔法みたいな力を使える人は本当にいる』って言ってたよね?」
「……ええ。私もニュースで見たわよ」
「じゃあね、もしこの世界に『本物の魔女』がいたら……こんな風に空が曇ってても、魔法で雲の向こうのお星さまを見せてくれたりできるのかな?」
その言葉が落ちた瞬間。
エレノア・ホイットモアの丸い眼鏡の奥の瞳が、ほんのわずかだけ大きく見開かれた。
怪物を焼き払う力でも、空をマッハで飛ぶ力でも、大金を手に入れる力でもない。「曇り空の日に、ただ綺麗な星を見せてくれる魔法使いはいないのか」という、小さな少女の願い。
エレノアは数秒間だけ黙ってルーシーの澄んだ瞳を見つめ返し、それから一度、頭上の分厚い雲に覆われた夜空を見上げた。
やがて彼女の唇に、神秘的で、けれどどこまでも優しい微笑みが浮かんだ。
「……どうかしらね、ルーシー。ニューヨークのあの青年みたいに、ドラゴンと戦うような派手な魔法ばかりが魔法じゃないわ。もしかしたら、この世界のどこかには、夜空に星を描くことだけが得意な魔女だって、本当にいるかもしれないわね」
「ほんと!? いたらいいなあ!」
「ほらルーシー、置いてっちゃうぞー!」
下の歩道からオーウェンと父親のマークが呼ぶ声がして、ルーシーは「あ、待って! バイバイ、ミセス・ホイットモア、ありがとう!」と元気に手を振って階段を駆け下りていった。
「気をつけて行ってらっしゃい」と手を振って見送ったエレノアは、ポーチに一人残されると、軒先の星のオーナメントを指先でそっと揺らした。
シャラン、と小さな音が鳴る。
*
午後六時十五分。
一度お菓子の補充のために玄関のドアを閉めて家の中へと戻ったエレノアは、暖かな暖炉の火が灯るリビングを抜け、奥の書斎へと足を踏み入れた。
壁一面の本棚には、図書館司書時代に収集したシェイクスピアの戯曲や児童文学、そして亡き夫のロバートが愛用していた分厚い『北天星図(Norton's Star Atlas)』や天文年鑑が並んでいる。
だが、本棚の一角の隠しラッチを外して開く奥の棚には、一般の書店や図書館には決して並ばない、羊皮紙にラテン語と古いルーン文字で記された魔術書や、水晶のプリズム、銀のコンパスといった魔導具が静かに収められていた。
書斎のデスクの上では、エレノアの私用タブレット端末の画面に、昨夜『全米魔女委員会(American Witches Council)・東部評議会』から全登録会員に向けて一斉配信された暗号化通達が表示されていた。
『【重要通達:合衆国大統領演説を受けた暫定行動指針】
昨日、マンハッタン上空における大規模複合魔術の生中継、ならびにウォーレン大統領による「能力者の実在公認」を受け、一般社会の超常現象に対する警戒と好奇心は過去最高レベルに達している。
大統領は「個人の意思による自己開示」を否定しなかったが、我々「魔女(Witches)」という歴史的・伝統的共同体の存在、および委員会の組織構造については、合衆国政府との協定により引き続き「非公開」が維持されている。
つきましては、本日(10月31日・サウィン/ハロウィン)の夜、各会員は以下の点を厳守されたい。
1.個人の判断で能力の一端を開示する場合であっても、魔女共同体全体の機密や、他の姉妹・会員の身元につながる情報は絶対に漏洩させないこと。
2.公共空間における魔術の行使、特に不特定多数の一般市民が観測可能な「広域術式」の発動については、パニックや身元特定(魔女狩り)の引き金となり得るため、従来以上に慎重に判断し、原則として控えること――』
「……まったく。昨日の今日で、評議会の長老たちもずいぶん神経質になっているわね」
エレノアは通達の画面を閉じ、小さく苦笑した。
彼女自身、六十九年の人生の大半を、自分の正体を隠して「ただの図書館司書のエレノア」として静かに過ごしてきた。隣人を驚かせたいと思ったこともなければ、魔法を使って有名になりたいと思ったことも一度もない。
ただ、今の彼女の心には、先ほどポーチで宇宙服を着たルーシーが言った『雲があっても星を見せてくれる魔女はいないのかな?』という言葉が、温かい炭火のようにぽつりと残っていた。
エレノアはデスクの引き出しから、一冊の古い革張りのノートを取り出した。
五年前に他界した夫・ロバートが、生前に手書きで記録していた天体観測ノートだ。
一般人(非魔術師)だったロバートは、エレノアが魔女であることを最後まで知らなかったが、二人は若い頃からよく秋の夜に毛布を持って裏庭に出かけ、ホットココアを飲みながら二人で夜空の星を見上げたものだった。ロバートは近所の子供たちを集めては、「いいかい、都会の明かりや曇り空で見えなくても、僕たちの頭の上にはこんなに美しい天の川が流れているんだよ」と、手作りの星座早見盤を使って目を輝かせながら語っていた。
そして、魔女としてのエレノア・ホイットモアが専門としてきた魔術の系統は、まさにその「光と視覚」に関わるものだった。
彼女はニューヨークの青年のようにドラゴンを撃ち落とす攻撃魔法など使えないし、重い物を浮かせる念動力もない。
彼女が祖母の代から受け継ぎ、半世紀にわたって磨き上げてきたのは、光の輪郭や色彩を繊細に編み上げる古典魔術『広域光学幻影(オプティカル・イリュージョン)』だった。
美しい星空を描くためには、ただ光を増やせばよいわけではない。星々の明るさの差、色合い、互いの位置関係――それらを一つの景色として破綻なく結び合わせるには、気の遠くなるほどの技量が要る。
「……ロバート。あの子、宇宙飛行士になりたいんですって。それなのに、せっかくのハロウィンの夜に、こんな鉛色の曇り空しか見えないなんて、ちょっと可哀想よねえ」
エレノアは夫の観測ノートを開き、十月三十一日午後七時のニュージャージー州北部の星図を指先でなぞった。天頂近くの白鳥座のデネブ、西寄りに輝くこと座のベガ、南のわし座のアルタイル。北のカシオペヤ座と南東へ広がる秋の四辺形。彼女はその配置を確かめながら、実際に魔法をかける午後六時五十二分の夜空に合わせ、星々の位置をわずかずつ補正していった。
委員会の通達には「広域術式は慎重に判断し、原則として控えよ」と書いてある。
だが、誰かを傷つけるわけでもない。大きな音を立てて脅かすわけでもない。
ただ、このウィロークリークの住宅街の数ブロックの頭上にだけ、ほんの五分間、雲の向こうにあるはずの本当の星空を映し出してやるだけなら――いったい誰が文句を言うだろう?
「……ええ。ほんの五分だけなら、きっと神様も評議会も大目に見てくれるわよね」
エレノアは本棚の奥から、銀の台座に収められた透明な八面体の『星水晶(アストラル・クォーツ)』を取り出し、トネリコの杖を手に取って、二階の窓辺へと向かった。
*
午後六時三十分から四十五分にかけて、ウィロークリーク地区のハロウィンは最も賑やかなピークの時間帯を迎えていた。
日が完全に沈んで暗くなった通りには、オレンジ色のジャック・オー・ランタンと各家のポーチライトが幻想的な光の道を作り出し、お菓子の詰まった袋を提げた子供たちが、グループになって家から家へと楽しそうに駆け回っている。
伝統的なお化けのシーツを被った子、小さな吸血鬼、スパイダーマン、ディズニープリンセス。
そんな色とりどりの衣装の中に、今年はアメリカでもやっぱり「あの仮装」が大量に混ざっていた。
「おや、そこの三人組の少年たち! 君たちは何の仮装かな?」
玄関先でお菓子を配っていた恰幅のいい中年男性が、揃いも揃って「灰色の無地パーカーにジーンズ」という普段着そのものの格好で並んでやってきた小学生の男の子三人組に尋ねた。
すると真ん中の男の子が、鼻息荒くフードを被り直して胸を張った。
「決まってるだろ、おじさん! 昨日マンハッタンでドラゴンを倒した『Hoodie Wizard(パーカーの魔法使い)』だよ!」
「なるほど、ドラゴンを倒した魔法使いか。じゃあ、君たちも魔法でお菓子を出せるのかい?」
「……それはまだ! 今は魔法の修行中なんだ!」
「そうかそうか。だったら、そのお菓子の袋を振ってみてごらん。ひょっとして中からチョコレートが出てくるかもしれないぞ?」
「えっ!? ……あ、出ない。やっぱり修行が足りないのかな……」
「ははは! それなら今夜は、うちから本物のチョコレートを持っていくといい!」
三人は「トリック・オア・トリート!」と声を揃え、袋を高く差し出した。魔法が使えなくても、今夜の呪文だけはよく効く。大人からチョコレートを受け取り、少年たちは得意げに走り去っていった。
歩道では、子供たちを見守る親たちが、ホットコーヒーの入ったタンブラーを片手に立ち話をしていた。
「しかし、なんだか不思議な気分だな、マーク」
ご近所の父親の一人が、隣を歩くマーク・ミラーに声をかけた。
「昨日はマンハッタンのドラゴンのニュースを見て、会社から家族に何度も連絡したよ。今日もつい空を見上げちまう。何か飛んでこないかってな」
「気持ちは分かるよ。僕も娘に望遠鏡を出してやりたかったのに、この雲じゃ星一つ見えそうにない」
二人はつられて曇り空を見上げたが、街灯の光を鈍く返す雲のほかには何も見えなかった。
「……もし魔法使いがうちの町に来るなら、ドラゴンを連れてこない方にしてほしいな」
「ははっ、その条件には大賛成だよ」
午後六時四十八分。
一時間以上歩き回ってリュックサックがお菓子でパンパンに膨らんだルーシーは、オーク・ストリートの小さな並木道の真ん中で足を止め、宇宙ヘルメットのバイザーを押し上げて、もう一度だけ頭上の夜空を見上げた。
街灯のオレンジ色の明かりの向こうには、相変わらず隙間の一つもない、重たく暗い雲の天井が低く垂れ込めているだけだった。
星は、ただの一粒も見えない。
「……やっぱり、お星さま見えないね、パパ」
ルーシーがぽつりと呟いた。
隣に並んだマークは、夜空を見上げて小さく息を吐き、娘の頭を撫でた。
「うん、今夜はちょっと雲が厚すぎるみたいだね。でも、さっきお話ししただろう? 雲の向こうにはちゃんと――」
「ねえパパ。さっきミセス・ホイットモアがね、『この世界のどこかには、夜空に星を描くのが得意な魔女もいるかもしれないわね』って言ってくれたの」
「へえ、エレノアさんがそんな素敵なことを言ってくれたのかい」
マークは微笑んだ。昨日、大統領が能力者の存在を認めたばかりだ。以前の彼なら「魔女はおとぎ話だけだよ」と教えていたかもしれないが、今夜は素直に頷くことができた。
「そうだね。世の中にはいろんな不思議な力を持った人がいるみたいだから、そういう優しい魔法使いも、どこかにいるかもしれないな」
「じゃあ、私、いま心の中でお願い事してみる!」
ルーシーは白い宇宙服の両手を胸の前でぎゅっと組み合わせ、曇り空に向かって目を閉じた。
「『もしどこかに魔法使いさんがいたら、ほんのちょっとだけでいいから、今日のお空にお星さまを見せてください』……!」
「おいルーシー、そんなとこで突っ立ってないで早く次の家に行こうぜ! あっちの家でマシュマロ配ってるってさ!」
兄のオーウェンが手招きし、ルーシーが目を開けて「うん、今行く!」と駆け出そうとした――まさにその時だった。
坂の上の古い木造の家。
二階の暗い出窓の奥で、深緑の礼装ローブを纏ったエレノア・ホイットモアが、開かれた亡き夫の星図の上に『星水晶』をそっと置き、トネリコの杖を静かに持ち上げていた。
*
午後六時五十分。
エレノアの部屋には、窓の外から子供たちの遠い笑い声と、風に揺れる星のオーナメントの「シャラン……」という澄んだ音色だけが流れ込んでいた。
彼女は丸い眼鏡の奥の瞳を細め、デスクの上の星図と、窓の向こうに広がるウィロークリーク地区の夜空を見比べた。
彼女がこれから紡ぎ出すのは、昨日マンハッタンの空で若き魔法使いが見せたような、百七十八枚もの魔法陣で空間を焼き尽くす荒々しい戦闘術式ではない。
エレノアが右手のトネリコの杖を軽くひと振りし、左手のひらを上へ向けると、その指先から、まるで月光を溶かしたかのような繊細な銀色の魔力の糸がふわりと立ち昇った。
スーッ……と、音もなく。
彼女の小さな手のひらの上、わずか直径三十センチほどの空間に、時計の歯車と天球儀の赤道環を組み合わせたような、極めて精緻で美しい『一枚だけの銀色の魔法陣』が静かに浮かび上がった。
たった一枚。
だが、その一枚の円陣の中に編み込まれた光学干渉の演算密度と、半世紀の歳月をかけて磨き上げられた魔力制御の洗練度は、現代の魔女社会においても最高峰の熟練(マスタリー)の領域にあった。
エレノアは杖の先端で、デスクの上の星水晶の中心をコン、と軽く突いた。
術式が作用するのは、彼女の自宅を中心とする半径約五百メートル(四ブロック四方)の住宅街上空。星空の光の像を結ぶのは、分厚い雲よりもずっと手前にある、高度約二百メートルの大気層だった。
空港の航空管制や遠方のハイウェイには干渉せず、風も気温も変えない。上空の雲そのものを消すこともなく、彼女はロバートの星図を頼りに、この夜本来そこにあるはずの天球を静かに描こうとしていた。
「――ロバート、あなたの星図を借りるわよ。……さあ、今夜くらい、子供たちに本物の星空を見せてあげましょうか」
エレノアが杖先を窓の外の夜空へ向けて、ふっと優しく息を吹きかけた。
手のひらの上の銀色の魔法陣が、静かに、しかし深く澄み切った光を放って回転を始めた。
午後六時五十二分。
並木道を歩いていた宇宙飛行士姿のルーシーは、何気なくもう一度だけ、自分の頭上の暗い曇り空を振り仰いだ。
灰色の分厚い雲が、街灯の明かりを鈍く反射している。
――はずだった。
「…………あれ?」
ルーシーの小さな足が、落ち葉の上でピタリと止まった。
頭上の暗い雲の真ん中。ちょうど天頂のあたりに、まるで黒いビロードの布に小さな針で穴を開けて後ろから強い光を当てたかのように、青白く澄み切った「一粒の光の点」が、ぽつんと浮かんでいたのだ。
飛行機の点滅灯ではない。赤や緑にチカチカすることもなく、動いてもいない。ただ、ダイヤモンドの欠片のように凛とした冷たい輝きを放っている。
「……パパ、見て!」
ルーシーが父親のコートの裾をグイッと引っ張り、空を指差した。
「どうしたんだい、ルーシー?」
「あそこ! 空の真ん中に、お星さまが一個だけ出てるよ!」
マークは「まさか、この曇り空で?」と苦笑しながら顔を上げた。
だが、娘の指差す先を見た瞬間、理科教師であり天文愛好家であるマークの口から、笑みがスッと消えた。
本当に、輝いていたのだ。
しかも、その青白い輝きと天頂近くの位置は、彼が秋の夜ごと見上げてきた白鳥座の一等星『デネブ』と重なっていた。厚い雲の向こうにあるはずの星が、今は目の前で輝いている。
しかし、周囲の空を見回しても、分厚い層雲が風で切れた様子はどこにもない。雲の隙間から見えているのではなく、まるで雲そのものが透明なガラスに変わり始めたかのように、そこだけに強い光が宿っている。
「……おかしいな。雲は晴れていないはずなのに、なんでデネブが見えるんだ……?」
マークが首を傾げて眼鏡の位置を直した、その瞬間だった。
続いて、西寄りの高い空に二つ目の白い光――こと座の『ベガ』が、すっと浮かび上がった。
さらに南寄りに三つ目の光、わし座の『アルタイル』が灯り、大空に巨大な『夏の大三角』の輪郭が鮮やかに結ばれる。
四つ目。五つ目。十。二十。五十。百――。
そこからは、まるで目に見えない巨大な絵筆が、灰色の曇り空というキャンバスを端から順番に「深い群青色の宇宙」へと塗り替えていくかのような光景だった。
爆発音も、風圧も、不気味な唸り声も一切ない。
ただ絶対的な静寂の中で、ウィロークリーク地区の頭上を覆っていた鈍色の雲が、中心から外側へ向かって波紋が広がるようにスウッと深い藍色の透明な夜空へと溶け変わり、二等星、三等星、四等星、そして普段なら大都市近郊の光害(街の明かり)にかき消されて肉眼では絶対に見えるはずのない六等星の無数の星屑に至るまでが、幾千万の宝石箱をひっくり返したかのように夜空一面に溢れ出したのである!
北の空には、W字を描くカシオペヤ座と北極星。
南東寄りの空には、ペガスス座の『秋の四辺形』とアンドロメダ座。
そして、住宅街の屋根から屋根へと架かる大空のアーチのど真ん中を、白く淡く輝く無数の微細な星の帯――『天の川(ミルキーウェイ)』が、息を呑むほど幻想的な光の川となって悠然と横切っていた。
「…………わあぁぁぁ……っ!!」
ルーシーの口から、小さな感嘆の吐息が漏れた。
彼女は被っていた宇宙ヘルメットを思わず両手で脱ぎ、大きく見開いた瞳に満天の星々の光をいっぱいに映し出しながら、その場に立ち尽くした。
すぐ前を歩いていた兄のオーウェンも、他の仮装した子供たちも、一人、また一人と異変に気づいて足を止め、口をあんぐりと開けて真上を見上げる。
「おい、なんだよこれ……見てみろよ、上!」
「星だ!! お星さまがいっぱい出てきた!!」
「ママ! ママ見て、空が宇宙になっちゃったよ!!」
オーウェンが骸骨のマスクを頭の上にずり上げ、信じられないものを見る目で呟いた。
「……すげえ。プラネタリウムなんかより全然キレイだぞ、これ……」
「パパ!! 宇宙だよ、本物の宇宙が来たよ!!」
ルーシーがピョンピョンと飛び跳ねながら父親の腕に抱きついた。
マークは娘の小さな肩を抱きしめたまま、頭上に広がる圧倒的な天球の光景から目を離すことができなかった。
天体観測を趣味にして二十年になる彼には、一目で分かった。
あの空に輝いている星座の配置も、星々の等級(明るさの差)も、赤みがかった星や青白い星の色彩の違いも、適当に作られたイルミネーションや模様ではない。十月三十一日のこの時刻の空に実在する本物の星空と、一分の狂いもなく一致している。
それなのに、大気の揺らぎや街灯の反射に邪魔されることなく、まるで標高四千メートルの山頂か宇宙空間から直接見上げたかのように、星々が手を伸ばせば触れそうなほどくっきりと、立体的で温かい光を放っているのだ。
マークの脳裏に、昨日の昼間に見たニューヨークのニュース映像と、昨夜のウォーレン大統領の言葉が鮮烈に蘇った。
『この国にも、現代の通常の科学では説明できない特殊な能力を持つ人々が実在します』。
そして、五分前に娘のルーシーが言った、『ミセス・ホイットモアが、夜空に星を描くのが得意な魔女もいるかもしれないって言ってたの』という無邪気な言葉。
「……まさか、本当に……誰かが、子供たちのために魔法で……」
マークの震える呟きは、周囲の通りから一斉に沸き起こった子供たちの歓喜の叫び声と拍手の中へと溶けていった。
*
午後六時五十四分。
魔法の星空が浮かび上がったウィロークリーク地区の四ブロック四方では、通りを歩いていたすべての家族連れだけでなく、家の中でテレビを見ていた住民や、ポーチでお菓子を配っていた大人たちまでが、外の歓声に気づいて次々と芝生の上へと出てきていた。
冒頭で庭の空気式ドラゴンを片付けようか悩んでいたデイヴと妻のリンダも、お菓子のボウルを持ったままポーチから降り、頭上に広がる天の川を呆然と見上げていた。
「……おい、リンダ。俺の目がどうかしたのか? さっきまで真っ暗な曇り空だったよな?」
「ええ……。なにこれ、町内会か市役所が秘密で準備してたハロウィン用のプロジェクションマッピングかなにかかしら?」
隣の家の前では、ゴールデンレトリバーの散歩をしていた若い男性が、スマートフォンを空に向けながら首を横に振っていた。
「いや、プロジェクションマッピングって、雲に下から光を当てたら、光が拡散してぼやけたシミにしかならないはずですよ! 見てくださいよあの星の鋭い輝き、レーザーやドローンショーであんな何万個もの細かい星と天の川を同時に再現するなんて、絶対に不可能です!」
「じゃあ、一体なんだっていうのよ……? まさか、昨日のニューヨークの『パーカーの魔法使い(Hoodie Wizard)』が、今度はこのニュージャージーに来て空に魔法をかけたとでも言うの!?」
「魔法使い」という言葉が出た瞬間、何人かの大人の顔に、昨日のドラゴン事件を思い出したような一瞬の緊張が走った。
「……おい、大丈夫なのかこれ? 上から何か落ちてきたりしないだろうな?」
父親の一人が咄嗟に子供の肩を引き寄せる。
だが――頭上の夜空には、威圧的な咆哮を上げる怪物の影もなければ、兵器のような幾何学模様の攻撃陣もなかった。
ただ、どこまでも静かで、どこまでも深く澄み渡った群青色の夜空に、無数の星々がオルゴールの音色でも聞こえてきそうなほど穏やかに瞬いているだけだった。
その時。
二階の出窓から街を見下ろしていたエレノアが、自分の家の前の通りで宇宙飛行士姿のルーシーが笑顔で空を見上げているのを見つけ、トネリコの杖の先をほんの少しだけ、左から右へと軽やかに払った。
小さな「おまけ」の演出だった。
直後。
天頂の白鳥座のあたりから、西の空へ向かって、銀色の長い尾を引いた一筋の眩い『流れ星(流星)』が、シュウッ……と夜空を滑るように駆け抜けた。
一つだけではない。一拍遅れて、今度はカシオペヤ座の横からもう一筋、さらに大きな黄金色の流れ星が、弧を描いてゆっくりと流れていく。
「――あっ!! 流れ星だ!!」
「今の見た!? 二個も流れたよ!!」
「お願い事しなきゃ! 早く早く、消えちゃう前に三回言うんだよ!!」
それまで少しだけ警戒していた大人たちの緊張も、その二つの美しい流れ星と、目をキラキラさせて両手を合わせる子供たちの姿を見た瞬間に、跡形もなく溶けて消えた。
通りのあちこちで、小さな魔女や骸骨やスパイダーマンたちが、ぎゅっと目を閉じて空に向かって願い事をしている。
ルーシーもまた、宇宙ヘルメットを胸に抱きしめたまま、夜空を見上げて一生懸命に願った。
(お星さまを見せてくれた魔法使いさん、ありがとう! 来年も、お兄ちゃんやパパやママと、みんなで楽しいハロウィンができますように!)
近くの一軒家のポーチでは、長年この町に住んでいる八十代の老夫婦が、寄り添うようにしてその星空を見上げていた。
「……あなた。なんだか、五十年前に新婚旅行でメイン州の山奥の湖へキャンプに行った時に見た夜空に、そっくりね」
「ああ、本当だな。最近は目が悪くなって、もう死ぬまであんな天の川を見ることはないと思っていたが……ハロウィンに、いいプレゼントをもらったもんだ」
別の家の前では、父親が五歳の男の子をひょいと肩車してやり、男の子が「わあ、お星さまに手が届きそう!」と小さな手を空に向かって伸ばしてケラケラと笑っている。
そして、その場にいた何十人、何百人もの大人や中高生たちが、この信じられないほど美しいハロウィンの夜の奇跡を残そうと、一斉にポケットからスマートフォンを取り出し、動画の録画ボタンを押して頭上の空へとレンズを向けていた。
午後六時五十七分。
エレノアが最初に決めていた「五分間」が、静かに過ぎようとしていた。
永遠に続く魔法はない。それに、これ以上長く維持すれば、それだけ魔力の波長が遠くの観測網に引っかかるリスクも高まる。
ウィロークリークの空を満たしていた満天の星々が、まるで朝霧が晴れるかのように、あるいは優しい夢からゆっくりと目を覚ますかのように、少しずつその輝きを薄れさせ始めた。
まず、大空を横切っていた天の川の淡い光の帯が、背後の雲の色へと溶け込んで消えていく。
続いて、無数の細かな星屑たちが一つ、また一つと瞬きを終えて姿を消し、秋の四辺形やカシオペヤ座が薄れていく。
最後に、天頂近くで最初に現れた一等星『デネブ』が、名残を惜しむように一度だけキラリと強く瞬いて――フッと静かに消えた。
数秒後。
住宅街の頭上には、五分前とまったく同じ、街灯のオレンジ色の明かりを鈍く照り返すだけの、重たく分厚いニュージャージーの曇り空が戻っていた。
「……あ。消えちゃった……」
ルーシーが、名残惜しそうに空を見上げたまま小さく声を漏らした。
周囲の通りでも、拍手やため息、そして「今の本当に何だったんだ!?」「動画撮れたか!?」という興奮した話し声が一斉に湧き起こる。
マークは娘の肩に手を置き、まだ信じられないといった面持ちで曇り空を見上げていた。
「……すごいものを見ちゃったね、ルーシー」
「うん! パパ、今のってやっぱり本物の魔法だったのかな? 私、あんなにたくさんの綺麗なお星さま、生まれて初めて見たよ!」
満面の笑みで飛び跳ねる娘を見て、マークもようやく笑顔を取り戻し、深く頷いた。
「ああ。誰が見せてくれたのかは分からないけれど……間違いなく、世界一素敵なハロウィンの魔法だったね」
その頃、坂の上のホイットモア家の二階。
出窓の前に立っていたエレノアは、ゆっくりとトネリコの杖を下ろし、左手のひらの銀色の魔法陣を光の粒子へと還して消去した。
五分間とはいえ、半径五百メートルの空間全体に高精細な天球の光学幻影を維持し続けたのは、六十九歳の身体にはなかなかの重労働だった。エレノアは「ふう……」と小さく息を吐き、窓際の肘掛け椅子へとドサリと腰を下ろした。
しかし、窓ガラスの向こうの夜の通りから聞こえてくる子供たちの明るい歓声と、幸せそうな笑い声を聞いていると、心地よい疲労感とともに、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「……ふふ。どうやら、未来の宇宙飛行士さんには喜んでもらえたみたいね」
満足そうに頷き、紅茶でも淹れようかと立ち上がりかけた、その時だった。
デスクの上に置いてあったエレノアの私用スマートフォンが、ピコン、ピコン、ピコンッ! と立て続けに通知音を鳴らした。
画面を開くと、それはウィロークリーク地区の住民たちが防犯や回覧板代わりに使っているご近所連絡用のグループチャットアプリ『Nextdoor』の通知だった。
> トム(3丁目):『おい、みんな今の空を見たか!? うちの前の通りから見上げた動画だ、これ一体何のイベントだ!? [動画添付]』
> サラ(オーク通り):『見た見た!! 曇ってたのに急に満天の天の川が出てきて、うちの子供たちが大騒ぎしてたわ! 私もiPhoneで4K動画撮ったから貼るわね! [動画添付]』
> ケビン(高校生):『これうちの町だけらしいぞ! 隣の地区の友達にLINEしたら「こっちはずっとただの曇り空だけど?」って言われた! 今TikTokとXに動画上げたら、1分で再生数が10万超えてバズりまくってる!!』
次から次へとポップアップするご近所さんたちのメッセージと、そこに添付された「自分が見せたばかりの星空の鮮明なスマホ動画」を見て、エレノアは丸い眼鏡の奥でパチクリと瞬きをした。
「……あら」
彼女は恐る恐る立ち上がり、二階の出窓からもう一度だけ下の通りを覗き見た。
通りのあちこちで、数十人もの大人や若者たちがスマートフォンを手に集まり、今撮ったばかりの動画を見せ合いながら「SNSに上げようぜ!」「ニュース局に送ろう!」と大興奮している姿が目に飛び込んできた。
「……あらあら、まあ……」
元図書館司書の老魔女は、自分の頬にそっと手を当てた。
彼女にとっては、近所の子供たちにほんの五分間だけ見せてすぐ消した、昔ながらのささやかな手品のようなプレゼントのつもりだった。
だが、今は二〇二六年であり、しかも「昨日の昼にニューヨークでドラゴンと魔法陣が生中継され、昨夜大統領が能力者の実在を公認した直後のアメリカ」であるという事実を、インターネットにあまり詳しくない六十九歳のおばあさんは、ほんの少しだけ甘く見積もっていたのだった。
*
午後七時ちょうど(日本時間・十一月一日[日]午前八時)。
ウィロークリーク地区の住民たちが撮影した数十本の動画は、X(旧Twitter)、TikTok、Instagram、そしてRedditへと同時にアップロードされ、昨日の『Hoodie Wizard』の興奮が冷めやらぬ全米のネット空間へ、文字通り秒速で拡散されていった。
【Reddit:r/NewJersey(ニュージャージー州ローカル板)→ r/worldnews へクロスポスト】
(2026年10月31日[土] 19:03 EDT)
スレッドタイトル:[VIDEO] Something crazy just happened in Willow Creek, NJ. It's been completely overcast all day, and then the sky turned into a crystal-clear Milky Way for 5 minutes during Trick-or-Treating.(【動画】ニュージャージー州ウィロークリークでたった今クレイジーなことが起きた。一日中完全に曇りだったのに、トリック・オア・トリートの最中に5分間だけ、空が雲一つない天の川に変わった) [48.2k Upvotes in 15 minutes]
u/NJ_Dad_2026 (スレ主) [+18.4k]
ウィロークリークのオーク・ストリートに住んでる父親だ。手が震えてるけど、さっき18時52分から57分までの約5分間、うちの自宅の前庭で撮影した無加工の動画を貼る。
今日のニュージャージー北部は朝からずっと厚い曇り空で、星なんか1個も見えなかった。
なのに突然、頭上の雲が透けるみたいに消えて、街灯の明かりがある住宅街の真上に、グランドキャニオンの奥地でしか見られないような満天の星空と天の川、それに2つの大きな流れ星が現れたんだ。そして5分後に、また元の真っ暗な曇り空に戻った。
近所の人もみんな外に出て見てた。他にこの近くにいて見た人いるか!?
[動画リンク:ジャック・オー・ランタンが灯る住宅街のポーチと仮装した子供たちの頭上に、信じられないほど鮮明で美しい無数の星々と天の川が浮かび上がり、流れ星が駆け抜けていく映像]
↳ u/NoWayBro [+9,120]
は?????
おい待て、なんだこのめちゃくちゃ綺麗な映像は!? 映画『インターステラー』のワンシーンか何かを空に合成したんじゃないのか!?
↳ u/CloudyHalloween [+12.5k]
いや、合成じゃない!! 俺もウィロークリークの3丁目に住んでるけど、犬の散歩中に自分の目で直接これを見たぞ!!
俺が別角度(エルム・ストリートの交差点)からiPhoneで撮った動画もここに貼る。スレ主の動画の2分15秒のところで流れた2本の流れ星が、俺の動画にも全く同じタイミングで別角度からバッチリ映ってる!
[別角度の動画リンク]
↳ u/TrickOrTreatMom [+10.8k]
私も同じ町内で子供たちとお菓子をもらいに歩いてて見ました!
最初は昨日のマンハッタンみたいな怖いことが起きるのかと思って身構えたんですけど、音も風も全然なくて、ただ本当に綺麗な星空が出ただけで……宇宙飛行士の仮装をしてた近所の女の子なんか、大喜びで飛び跳ねてましたよ!
↳ u/RenderFarmGuy [+22.3k]
VFXコンポジターの u/RenderFarmGuy だ。今週はもう毎日駆り出されて休む暇がないな lol
今、このスレッドとXに上がっているウィロークリーク地区の別々の住民による動画14本を並べて簡易チェックした。
街路樹の枝の隙間や、電線、動いている子供たちと背後の星々の遮蔽関係、それに各家庭のポーチライトの露出を比べた限り、個々のスマホで別々に事後合成されたという説明はかなり苦しい。少なくとも現地の人々が、共通する光の像を実際に撮影していた可能性は高い。
【Reddit:r/worldnews & 気象・天文マニアの検証(19時10分)】
u/WeatherNerd_NJ [+15.6k]
おい、みんなこれを見てくれ。アメリカ海洋大気庁(NOAA)が公開しているGOES-19の衛星画像と、ニューアーク空港の航空気象観測による18時50分〜19時00分の記録を見比べてきた。
驚くべきことに、あの動画が撮影された18時52分〜57分の間も、ニュージャージー州北部の空は雲底が約1,200メートルと報告される厚い雲に覆われたままだったんだ! 衛星画像でも、あの地区だけ雲が晴れたような変化は見当たらない!
しかも、ウィロークリーク地区から2マイル(約3キロ)離れた隣町のライブカメラの映像を見ると、同じ時刻の空はずっと真っ暗な曇り空のままで、星なんか一つも映っていない!
↳ u/SourcePlease [+8,900]
>>u/WeatherNerd_NJ
待て、気象衛星のデータで雲が晴れておらず、3キロ離れた場所からも見えていないということは、どういうことだ? やっぱり地域ぐるみの集団フェイクか、ドローンによる演出なのか?
↳ u/ScienceTeacherNJ [+19.4k]
いや、ドローンであの解像度の天の川と何万もの星を無音で再現するのは現代の科学技術では不可能だ。
まだ断定はできないけど、気象データと現地映像の両方を説明しようとするなら、こんな可能性がある。
「上空の雲が消えて本物の宇宙が見えた」のではなく、【雲より手前の空間に、あの住宅街からだけ見えるほど精巧な『星空の光学的幻影(イリュージョン)』が作られた】んじゃないか、ってことだ!
↳ u/NoWayBro [+24.1k]
……おい。
↳ u/ScienceTeacherNJ [+14.2k]
なんだ?
↳ u/NoWayBro [+31.5k]
昨日の昼はマンハッタンに「178枚の魔法陣でドラゴンを撃ち落とす兄ちゃん」が出てきて、今日のハロウィンの夜はニュージャージーに「曇り空に満天の星空と流れ星を描く誰か」が出てきたってことかよ!?
おいウォーレン大統領、昨日の演説で「能力者にはいろんなタイプがいる」って言ってたのはこういうことかよ!!
↳ u/ArchiveConspiracy [+11.2k]
間違いない、これは大規模な環境幻術(Environmental Illusion)だ! MAJESTIC-12が把握している魔術師アセットの誰かが、ハロウィンの夜に術式を起動したんだ!
↳ u/SourcePlease [+13.8k]
>>u/ArchiveConspiracy
まだ政府も誰も確認していないのに、何でもかんでも即座にMAJESTIC-12の陰謀に結びつけるのはやめろwww
*
午後七時十五分。ニュージャージー州・ウィロークリーク警察署の通信指令室。
小さな町の警察署の電話は、午後六時五十五分を過ぎたあたりから、住民たちからの奇妙な通報と問い合わせによって一斉に鳴り響いていた。
『もしもし警察ですか!? さっきうちの家の真上の空に、急にものすごい数の星と天の川が出てきて、五分で消えたんですけど、あれは市役所のハロウィンイベントですか!?』
『もしもし、空に変な光が出たんですが、昨日のニューヨークの魔法使いがうちの町に来てるんでしょうか!?』
『UFOの母船の光学迷彩が解けたんじゃないですか!?』
受話器を置いた若い通信指令員の巡査が、困惑しきった顔でデスクの当直署長を振り返った。
「……署長。ここ十五分で、ウィロークリークのオーク・ストリート周辺から同じ通報が四十件以上入っています。パトロール中の巡査の車載カメラにも映っていたそうですが……」
「……で、中身は『空に綺麗な星が出た』って話なんだな?」
白髪交じりの当直署長は、ドーナツをかじりかけのまま眉間に皺を寄せた。
「はい、そうです」
「火災や爆発音は?」
「一切ありません」
「空からドラゴンや隕石が落ちてきたり、誰かが怪我をしたり、車がぶつかったりしたという被害報告は?」
「いえ、一件もありません。むしろ電話をかけてきた住民たちも『すごく綺麗だったんだけど、一体何だったのか知りたくて』という感じでして……」
当直署長は、重々しくドーナツを紙皿の上に置いた。
「……つまり何か、うちの町の住民たちは、『夜空に星が出たこと』を警察の事件として通報してきているわけか?」
「はい。ただ、今日は一日中分厚い曇り空だったのに、あの地区の上空だけ五分間、プラネタリウムみたいな満天の天の川が見えたそうでして……。それに署長、昨日の昼にニューヨークであんなことがあって、昨夜は大統領が『アメリカにも超能力者がいる』ってテレビ演説をしたばかりじゃないですか。住民も俺たちも、どう受け止めていいか分からなくて……」
「…………まあ、そりゃそうだな」
署長は壁のテレビに映るニュース映像を一瞥し、深々とため息を吐いた。
三日前までなら、「ハロウィンの夜に飲みすぎたんでしょう、おやすみなさい」で切っていた電話だ。だが、今朝の通達で州警察の本部から『超常事象および異能に関連すると思われる通報があった場合は、被害の有無にかかわらず直ちに国土安全保障省の特別連絡窓口へ報告せよ』という指示が下りてきていた。
「……分かった。とりあえずパトロールカーには通常のハロウィン交通整理を継続させろ。危険がないならサイレンを鳴らして住民を不安にさせる必要はない。州警察経由で、あの『MAJESTIC-12』とやらの連絡窓口へ、念のため照会を入れておいてくれ」
*
午後七時二十分。ボストン近郊にある『全米魔女委員会・北東部地区連絡事務所』。
アンティーク調の家具が並ぶオフィスで、地区連絡担当を務める中年の魔女、マーガレット・クロスは、自分の目の前の魔術通信端末に届いた一通の「自己申告メッセージ」と、その横のノートパソコンで再生されているSNSのバズ動画を見比べながら、頭を抱えて固まっていた。
端末に表示されているのは、ウィロークリーク地区に居住する古参会員、エレノア・ホイットモアから五分前に送られてきた、実に丁寧で事務的な報告書だった。
『【術式行使に関する事後報告】
報告者:エレノア・ホイットモア(北東部第4支部・登録会員)
日時:2026年10月31日 18時52分〜18時57分(約5分間)
場所:ニュージャージー州ウィロークリーク地区・自宅周辺4ブロック上空
内容:サウィン(ハロウィン)における地域児童への季節的還元として、第3階梯・広域視覚幻影術式『天球の鏡(Speculum Stellarum)』を単独で行使。
備考:物理的な気象改変なし。人体および電子機器への有害干渉なし。負傷者・物的被害ゼロ。なお、予想以上に多くの近隣住民がスマートフォンなる機器で映像を記録していた模様につき、念のためご報告いたします』
「……『念のためご報告いたします』じゃないわよ、エレノアさん……っ!!」
マーガレットは額に手を当て、深く、長い溜息を吐き出した。
もう一度報告書を読み返す。「星空?」「五分間?」「地域児童への季節的還元?」。
そしてパソコンの画面を見れば、Xのトレンドの上位に『#NewJerseyStars(ニュージャージーの星空)』『#HalloweenMagic(ハロウィンの魔法)』が急浮上し、エレノアが描き出したあの息を呑むほど美しい天の川と二つの流れ星の動画が、すでに全米で百五十万回以上も再生されているではないか!
マーガレットは即座に秘匿回線の受話器を取り、エレノアの自宅へと直通電話をかけた。
二コールで、電話の向こうから、紅茶でも淹れていたのか穏やかで上品な老婦人の声が返ってきた。
『――はい、もしもし。エレノアよ』
「エレノアさん、北東部連絡室のマーガレット・クロスです!」
『まあ、マーガレット。お仕事ご苦労さま、ハッピー・ハロウィン』
「ハッピー・ハロウィンです、エレノアさん! ……それで、たった今届いた『星空の広域幻影』の報告書の件でお電話したのですが!」
『ええ、届いたかしら。どう? 動画も見た? 久しぶりにトネリコの杖と星水晶を出して編んだのだけれど、なかなか綺麗に結像していたでしょう?』
あまりにも屈託なく、自分の作品の出来栄えを尋ねる師匠格の大先輩の声に、マーガレットは一瞬だけ毒気を抜かれ、思わず本音で答えてしまった。
「……ええ、それはもう、驚くほど見事な『天球の鏡』でした。現代の若い魔女が十人がかりで陣を組んでも、一等星から六等星までの光度差と天の川の星雲の揺らぎをあそこまで自然には再現できません。芸術品と言ってもいいほどの素晴らしい魔術でしたわ」
『ふふ、そうでしょう? あなたにそう言ってもらえると嬉しいわ』
「――って、そうではなくてですね、エレノアさん!!」
マーガレットは慌てて首を振り、声を張り上げた。
「その素晴らしい星空の動画が、たった二十分でもう全米で百五十万回も再生されて、テレビのニュース速報にまで流れ始めているんですよ!? 昨日、マンハッタンの空で大規模魔術が生中継されて、昨夜ウォーレン大統領が能力者の実在を公認したばかりの、一番世間がピリピリしているタイミングなんです! 昨夜、評議会から『公共空間での広域術式は原則として控えるように』という通達をお送りしたはずですが!」
『ええ、もちろん読んだわよ。昨夜の大統領の演説もテレビで全部見ていたもの』
エレノアは少しも悪びれることなく、しかし静かで優しい声で続けた。
『でもね、マーガレット。今日うちのポーチに来てくれた八歳の小さな女の子が、宇宙飛行士の衣装を着て、曇り空を見上げながらこう言ったのよ。「もし本物の魔女がいたら、雲があってもお星さまを見せてくれるのかな?」って』
「……っ」
『昨日はニューヨークの空で、怪物を倒すための恐ろしくて眩しい魔法が世界中に映し出されたでしょう? だからね、ハロウィンの夜に小さな子供がそうやって願ったのなら、魔法というのは何かを壊したり戦ったりするだけのものではなくて、ただ夜空を綺麗に見せてあげることもできるのだと教えてあげるのが、古くからこの土地に暮らす年寄りの魔女の務めだと思ったのよ。……本当に、子供たちがとってもいい顔で喜んでくれたの』
受話器を握るマーガレットの口から、叱責の言葉がすっと消えた。
彼女自身もまた、幼い頃に祖母が見せてくれた小さな光の魔法に憧れてこの道に入った一人の魔女だった。画面の中で、宇宙服の女の子や骸骨姿の男の子たちが、流れ星に向かって目を閉じて手を合わせている映像を見て、マーガレットの胸が動かされなかったと言えば嘘になる。
「……エレノアさんのお気持ちは、痛いほど分かります。本当に、誰一人傷つけない、心温まる素敵な魔法でした」
マーガレットは声のトーンを落とし、実務担当者としての現実的な懸念を丁寧に伝えた。
「ただ、私が心配しているのは、エレノアさんの魔法そのものではなく、それを見た『外の社会』の反応なのです。エレノアさん個人がご自身の力をどこまで世間に見せるかは、今後の新しい時代において尊重されるべき権利です。
ですが、あの動画を見た世界中のネット民やメディアが、『ウィロークリーク地区の半径五百メートル以内に、これほど高度な幻術を使える本物の魔法使いが住んでいるぞ!』と気づいて、術者の身元特定(犯人探し)を始めたらどうなりますか? もしエレノアさんのご自宅が特定されれば、そこから芋づる式に北東部支部の連絡網や、まだ正体を隠して一般企業や学校で暮らしている他の若い姉妹たちの身元まで暴かれる危険があるのです」
『……ああ。それは確かに、他の皆さんに迷惑をかけてしまうわね』
そこに至って初めて、エレノアの声にも真剣な色が宿った。自分一人が近所に知られるくらいならまだしも、自分が所属する共同体の仲間たちを危険に晒すつもりは毛頭なかった。
『ごめんなさいね、マーガレット。スマートフォンの拡散力というものを、年寄りの私が少し軽く見ていたようだわ。でも、もう夜空に描いてしまった星は取り消せないでしょう? 今からできる対策はあるかしら』
「はい。すでに委員会の情報保護班が動いております。幸い、エレノアさんの術式は、雲の下の大気層に広い範囲で均一な星空を結像させる方式でした。地上から撮影された映像だけでは、『どの家に術者がいたか』を特定できません」
『そう、それはよかったわ』
「ですので、エレノアさんは今夜、絶対に追加の術式を使用なさらず、いつも通りの『魔女の仮装をした優しいご近所のおばあさん』として過ごしてください。動画を無理に削除要請したりすれば、かえってそこに秘密組織が関与しているという証拠を与えてしまいますので、映像自体はそのまま放置します。
また、合衆国政府(MAJESTIC-12)との連絡協定に基づき、私の方からMJ12の地域担当官へ『当委員会の登録会員による無害な季節的幻影であり、敵対的意図および二次被害の危険は皆無である』と正式に通告し、現地での無用な捜索や公表を行わないよう釘を刺しておきます」
『ありがとう、マーガレット。頼りになるわね、後のことはあなたにお任せするわ』
*
午後七時三十五分。ニュージャージー州ニューアークにある国土安全保障省の地方分室――MAJESTIC-12北東部地域連絡オフィス。
地域連絡担当官のレイチェル・グラントは、ウィロークリーク警察署から回ってきた照会データと、SNS上の拡散動画、そしてたった今『全米魔女委員会』のマーガレット・クロスから届いた協定回線経由の事後通告書を、三つのモニターに並べて照合していた。
昨日のマンハッタンのドラゴン事案のように、高エネルギーの空間亀裂や巨大生物の召喚が伴う場合であれば、MAJESTIC-12の広域因果センサー網が自動で警報を鳴らす。
しかし、今回エレノアが使用したような「物理的な質量や破壊エネルギーを一切伴わない、極めて繊細で穏やかな局所光学幻影」は、全米の空を二十四時間監視していてもセンサーの閾値(しきいち)には引っかからない。MJ12は決して、全米の能力者がいつどこで小さな魔法を使ったかまでを自動的に覗き見できる全知全能の監視カメラを持っているわけではないのだ。
だからこそ、地元警察への市民からの通報と、SNSの動画、そして魔女委員会との長年の信頼関係に基づく自己申告があって初めて、レイチェルたちは事態の正確な全貌を把握することができたのである。
「……よし、すべてのデータの裏付けが完了したわ」
レイチェルは手元のコンソールで簡潔な判定レポートを作成し、ワシントンD.C.の本部――コールマン主席連絡担当官のデスクへと音声回線を繋いだ。
『――こちら本部のコールマンだ。グラント担当官、ニュージャージー州での異常現象の報告とは何だ?』
「お疲れ様です、コールマン主席。本日18時52分、ニュージャージー州北部のウィロークリーク地区という郊外の住宅街におきまして、空に星が出ました」
『…………星?』
電話の向こうのコールマンの声が、一瞬だけピタリと止まった。
『グラント、今は夜の七時半だぞ。夜空に星くらい毎晩出るだろう』
「ええ、もちろん晴れていればそうですが、本日の当地は朝から湿度八十パーセントの完全な曇天(雲量10)なのです」
『……曇り空だったのか?』
「はい。しかも上空の雲は晴れておりません。雲の下の空間に、約五分間だけ、肉眼およびカメラで観測可能な『満天の星空と天の川、および流星二個』が出現し、その後消失いたしました。すでに全米魔女委員会より、現地に居住する高齢の登録魔女がハロウィンのお祝いに単独で行使した第3階梯の広域光学幻影であるとの正式な申告が入っております」
受話器の向こうで、コールマンが自分のこめかみを押さえるような、深くて長い沈黙が流れた。
昨夜、大統領執務室でボブ大統領に向かって「明日はハロウィンですので、魔女や吸血鬼の伝統行事が一般人に目撃されるリスクがございます」と警告したばかりのコールマンにとって、それはあまりにも予想通りで、しかし予想以上にメルヘンチックな第一号事案だった。
『……昨日は白昼のマンハッタンに全長四十五メートルのドラゴンが現れ、今日はニュージャージーの住宅街に魔法の星空、か』
「はい。ですが主席、ご安心ください。現地の警察および気象・航空当局とも確認を取りましたが、物理的な被害、健康被害、交通や航空管制への悪影響は文字通り『ゼロ』です。単に住宅街の子供たちと住民が五分間、綺麗な夜空を見て喜んだだけで終了しております」
『……なるほど。で、術者の魔女の身元がネット等で特定される危険は?』
「魔女委員会の側で情報保護措置をとっており、発動地点の特定は不可能です。当機関としても、協定に基づき術者の身元は完全秘匿とし、地元警察およびメディアからの問い合わせに対しては『関係機関にて現地の環境データを確認したが、危険な異常や被害は一切確認されていない』という一行の安全確認回答のみで処理したいと存じます」
『……うむ、それがいい。害のない美しい幻影にまで、連邦政府がパトカーや黒服を送り込んで住民を怯えさせる必要はないからな』
コールマンは少しだけ安堵したような声で頷き、そして付け加えた。
『グラント、この件は君の地域オフィスと魔女委員会の連絡調整だけで完結させろ。間違ってもホワイトハウスの緊急案件には上げるなよ。今の大統領に「ニュージャージーで魔法の星空が出ました」などと報告したら、また執務室から抜け出して見に行きたがるに決まっているからな』
「ふふっ、承知いたしました、主席」
*
午後八時ちょうど。
行政と裏の組織が静かに幕引きを図る一方で、全米のインターネットとSNSのタイムラインは、この「ハロウィンの夜の五分間の星空」の話題で、昨日のドラゴン事件とはまた全く違う種類の熱狂に包まれていた。
【Reddit:r/AskAnAmerican & r/worldnews 合同トレンドスレッド】
(2026年10月31日[土] 20:05 EDT)
スレッドタイトル:Yesterday we got a guy in a hoodie soloing a dragon with 178 magic circles. Today someone painted the Milky Way on a cloudy sky in New Jersey for kids on Halloween. What even is 2026 anymore?(昨日はパーカーの兄ちゃんが178枚の魔法陣でドラゴンをソロ討伐し、今日は誰かがハロウィンに子供たちのためにニュージャージーの曇り空に天の川を描いた。2026年は一体どうなってるんだ?) [128k Upvotes / 24.3k Comments]
u/NoWayBro [+34.5k]
昨日の昼にニューヨークでドラゴンがブレスを反射されるのを見てから、俺の脳みそはずっと「魔法=街を吹き飛ばす超兵器」っていうモードに切り替わってたんだよ。
なのに、今日の夜にニュージャージーの住宅街から上がってきた動画を見たら、ただカボチャのランタンが灯る静かな通りの上に、涙が出るくらい綺麗な天の川と流れ星が浮かんでて、下で宇宙飛行士の格好をした小さな女の子が「わあーっ!」って飛び跳ねて喜んでるんだぜ?
しかも地元警察の発表は「被害ゼロ、危険なし」。
昨日の今日で、こんな誰かを幸せにするためだけの魔法を見せられたら、もう感情のやり場がなくてバグるわ lol
↳ u/CloudWatcher_NY [+21.8k]
しかもさ、今日のニュージャージーの星空の方は、誰も戦ってないし、誰も名乗り出てすらおらず、ただ5分間だけ星を見せて、お菓子を配り終えるみたいにスッと消えたんだよな。
粋(Classy)にもほどがあるだろ。
↳ u/SourcePlease [+14.2k]
一応確認しておくが、あの星空が「人間の能力者(または魔法使い)による現象である」という政府の公式認定はまだ出ていないぞ。警察も「危険な異常は確認されていない」としか言っていない。
↳ u/RenderFarmGuy [+29.6k]
>>u/SourcePlease
おいおい、俺たち映像屋と気象マニアが1時間かけて20本以上の別角度動画と気象衛星データを突き合わせた結果、「雲が晴れていないのに、限られた住宅街の空に共通する星空の光が映っていた」ってところまでは、かなり確からしいんだぞw
これを通常の気象現象やドローンで説明するのは、昨日のマンハッタンのドラゴンを「風船だ」と言い張るくらい無理があるよ。
u/Astronomy_Prof_PA [+31.0k]
ペンシルベニアの大学で天文学を教えている者だが、あの動画の星空を拡大して星図ソフトと照合してみて、本当に驚嘆した。
あれは「なんとなく星っぽい光の粒を適当に散りばめた」ような雑な幻影じゃない。
10月31日午後6時52分にニュージャージーの緯度・経度から見上げた場合のデネブ、ベガ、アルタイル、カシオペヤ座、さらにはアンドロメダ銀河(M31)の淡い楕円形の光斑まで、星図ソフトで再現した配置と驚くほどよく重なっているんだ!
これを発動した人物は、ただ凄い能力を持っているだけでなく、本物の星空を心の底から愛していて、何十年も夜空を見上げてきた高度な天文知識を持つ人物に違いない。
↳ u/Gamer_Mage_99 [+18.7k]
>>u/Astronomy_Prof_PA
うわあ、その解説聞いたらますます鳥肌立った!
ニューヨークの『Hoodie Wizard』が攻撃と防御に特化したバトルメイジ(戦闘魔道士)だとしたら、ニュージャージーのこの人は、空間そのものに本物の宇宙のテクスチャをレンダリングできる最高ランクのイリュージョニスト(幻術師)かアストロマンサー(星見の魔女)ってことか!
正直、俺がもし一つだけ魔法をもらえるなら、ドラゴンと戦う力よりこっちの星空を出す能力の方が100倍欲しいわ。恋人とドライブに行って、曇り空をパッと満天の天の川に変えて流れ星を流すんだぜ? モテすぎて人生イージーモードだろ lol
↳ u/Legal_Eagle_NJ [+12.4k]
>>u/Gamer_Mage_99
デートで使うのは勝手だが、航空法の空域の下で勝手に夜空の景色を改造したら、パイロットが目視飛行を見誤るからFAA(連邦航空局)に怒られるぞww
u/Suburban_Mom_IL [+26.3k]
イリノイ州の母親です。さっき7歳の娘と一緒にこのニュージャージーの動画を見ました。
昨日の昼間、テレビでニューヨークの怪獣を見てから、娘はずっと「魔法使いや怪物がうちにも来るの?」って怖がって私の後ろに隠れていたんです。
でも、この動画の中で宇宙飛行士の女の子が星を見て笑っているのを何回も繰り返し見て、ようやく「こんな綺麗な魔法を見せてくれる魔女さんなら、うちの町にも来てほしいな!」って笑ってくれました。
どこの誰だか知りませんが、このハロウィンの夜に、世界中の子供たちに「魔法は怖いものじゃない」って教えてくれたニュージャージーの魔法使いさんに、親として心から感謝します。
↳ u/Cautious_Citizen_TX [+6,800]
>>u/Suburban_Mom_IL
綺麗な話だし、今回の人が善良だったのは間違いないと思う。
ただ、少しだけ冷静に考えると、1キロ四方の住人全員の視界(しかもスマホのカメラまで)に、本物と全く区別がつかない映像を勝手に投影できる能力者が住宅街に潜んでいるってことだよな?
今回は「綺麗な星空」だったから拍手喝采だけど、もし悪意のある奴が同じ能力を使って「空からミサイルが降ってくる幻影」や「街が燃えている幻影」を投影したら、それだけで都市一つをパニックで壊滅させられるんじゃないか……?
↳ u/Rational_Reader_NY [+15.9k]
>>u/Cautious_Citizen_TX
だからこそ、昨夜ウォーレン大統領が演説で言った通りなんだよ。
「力そのもの」は包丁や車やプログラムと同じで、使う人間次第で毒にも薬にもなる。そして、そういう力を持った人たちが昨日まで何十年も、街をパニックに陥れるどころか、今日みたいに子供たちを喜ばせるためだけにそっと力を使って隣で暮らしていたという事実を、俺たちはちゃんと見るべきなんだと思う。
↳ u/ArchiveConspiracy [+8,400]
いいかお前ら、昨日日本のオカルト雑誌の編集長がテレビで匂わせ、今日の昼に俺が指摘したことを思い出せ!
1947年以来、MAJESTIC-12が隠してきたのは超能力者だけじゃない、ニューイングランドや東海岸に古くから根付く「本物の魔女(Witches)の社会」がついに表へ顔を出し始めたんだよ!!
↳ u/SourcePlease [+11.2k]
>>u/ArchiveConspiracy
またお前かwww 幻影系の異能者(Illusion ability user)がいるという話から、なんでいきなり中世の魔女結社の話に飛躍するんだよ!
↳ u/NoWayBro [+19.5k]
まあ魔女だろうが超能力者だろうがどっちでもいいから、誰か今すぐ俺の住んでるアパートの真上にも天の川を出してくれー!!
*
だが、午後八時十五分を過ぎた頃。
先ほど全米魔女委員会のマーガレット・クロスが危惧していた通りの「ネットの暴走」が、やはり一部のスレッドで頭をもたげ始めた。
「あの美しい星空を出した魔法使いは、一体ウィロークリーク地区のどの家に住んでいる誰なのか?」
悪意からではなく、純粋な好奇心や「お礼を言いたい」「顔を見てみたい」という大衆の無邪気な欲望から、ネットの特定班(ネット探偵)たちが、アップロードされた二十本以上の動画の撮影地点と、星空が見えていた角度をGoogleマップの上にマッピングし始めたのである。
『動画A(オーク通り3丁目)と動画B(メイプル通り1丁目)の境界線を引くと、星空のドームの中心座標は、オーク・ストリートの北端からウィロー・レーンにかけての半径200メートル以内だ!』
『おい、誰か今日その通りでトリック・オア・トリートをしてた奴はいないか!? 怪しい魔女の格好をした住人がいたはずだ!』
すると、ある無責任なアカウントが、ストリートビューの画像と、近所の高校生がSNSに上げていたスナップ写真を勝手に切り貼りして、こんな投稿を上げた。
『特定したかも!! メイプル通り2丁目の角の白い家に住んでる30代くらいの女性が、今日めちゃくちゃリアルな黒い魔女のドレスを着て、庭で紫色の煙が出る大鍋をかき回してたぞ! きっとこの人が星空の魔女だ!!』
しかし、その挙げられたメイプル通りの女性というのは、ただハロウィンが好きでAmazonで買った四十ドルの魔女コスチュームを着て、ドライアイスを入れたパンチボウルで子供たちにジュースを振る舞っていただけの、100パーセント無能力の一般の主婦だった。
幸いにも、昨夜のウォーレン大統領の厳しい警告演説(「特定の個人を能力者だと決めつけて住所や個人情報を晒す行為には法執行機関が断固対処する」)が効いていたこともあり、その投稿には即座に何百件もの批判リプライが殺到した。
『おいバカ、無関係かもしれない個人の家の写真を勝手に晒すな! 昨日のボストンの会計士の誤爆騒動から何も学んでないのか!?』
『ハロウィンの日に魔女のコスプレをしてる女性なんて、ニュージャージー州だけで10万人くらいいるわボケ! モデレーター、今すぐこの投稿を削除してBANしろ!』
『せっかく子供たちのために素敵な星空を見せてくれた人を、パパラッチみたいに追い回して引っ張り出そうとするなよ。そっとしておくのが俺たちのマナーだろ!』
投稿は三分後にモデレーターによって削除され、ネットの自浄作用によってそれ以上の特定作業にはブレーキがかかった。
それでも、マーガレットから「今、ネット上でウィロークリーク地区の地図を使った推測投稿が出ましたが、別人の誤認情報と周囲の制止によって鎮火しました。エレノアさんのご自宅は特定されておりません」という連絡を受けたエレノアは、電話口で深く胸を撫で下ろした。
「……あらまあ、メイプル通りの奥さんが私と間違われかけたなんて、申し訳ないことをしたわね。無事で本当によかったわ」
『ええ。ですが、たった五分間の善意の魔法であっても、現代のネットワーク社会ではこれほど簡単に個人の生活圏までカメラが踏み込んでくるということです。どうか今夜はもう、杖は奥の棚にしまっておいてくださいね』
「ええ、分かっているわ。ありがとう、マーガレット」
受話器を置いたエレノアは、自分の行動が引き起こした波紋の大きさを改めて噛み締めた。
それでも、彼女の顔に暗い後悔の色はなかった。ただ、「これからの時代は、魔法を使う側ももう少し賢いやり方を考えないといけないわね」と、長年図書館の運営に携わってきた女性らしい前向きな思索を巡らせていた。
*
午後八時三十分。オーク・ストリートのミラー家。
トリック・オア・トリートの巡回を終えて帰宅したルーシーとオーウェンは、手洗いとうがいを済ませるなり、リビングルームのカーペットの上に自分たちのリュックと袋をひっくり返し、今日集めたお菓子の「戦果確認」に夢中になっていた。
色とりどりのチョコレートバー、ロリポップキャンディ、グミ、マシュマロ、クッキーの小袋が、カーペットの上に小さな山を作っている。
ところが、袋の中身を並べた途端、兄妹の関心はチョコレートの数とお菓子の種類へと移った。どちらも負ける気はまったくないらしい。
「よし、一、二、三……やったあ、今年は全部で四十八個! ルーシーより三個多いぞ、僕の勝ちだな!」
骸骨のペイントを半分落としたオーウェンが、自分の山の前で勝利宣言を上げた。
「えーっ、なんで!? 最初から最後までお兄ちゃんとまったく同じお家を回ったのに、なんでお兄ちゃんの方が三個も多いのよ! ずるい!」
「ずるくないもんねー、スミスさんのお家で僕が『その帽子カッコいいですね!』って褒めたら、おまけでもう一個くれたんだもんね!」
「あーっ!! ちょっと待って、お兄ちゃんの山の一番上にあるそのイチゴ味のクマのグミ、私がさっき袋の横のポケットに入れてたやつじゃない!? 歩いた時に落ちたのを拾ったでしょ!!」
「ひ、拾ってない! これは最初から僕の袋に入ってたグミだ!」
「うそつきー! ママあ、お兄ちゃんが私のイチゴグミ取ったあ!!」
カーペットの上で取っ組み合いになりかける二人を見て、キッチンでお茶を淹れていた母親のヘレンと、ソファに座っていた父親のマークが、顔を見合わせて声を上げて笑った。
「こらこらオーウェン、妹のグミは返してあげなさい。それに、今日一日でそんなに食べたら虫歯になるから、今夜食べていいのは好きなのを二つだけよ」
ヘレンは二人の袋の口を結び直し、残りのお菓子は明日の朝までお預けだと宣言した。
オーウェンは口を尖らせたが、マークが「残りは明日、交換会でもしたらどうだい」と肩をすくめると、すぐにどのチョコを取っておくか真剣に考え始めた。
やがて、グミを取り返して満足そうに口に放り込んだルーシーが、ふとリビングのカーテンが開いた窓の方へトコトコと歩いていき、外の暗い空を見上げた。
窓の向こうには、もうあの天の川はない。いつもの曇った夜空があるだけだ。
「……パパ」
「ん? どうした、ルーシー」
「さっきのお空のお星さま、本当に何だったのかなあ?」
マークはソファから立ち上がり、娘の隣に並んで窓の外を見た。
「……パパにもはっきりとは分からないよ。ただ、さっきテレビのニュースでも言っていたけれど、このウィロークリークの空だけに、五分間だけ現れた特別な星空だったみたいだ」
「やっぱり、誰かが魔法で見せてくれたのかな?」
「そうかもしれないね。ルーシーが一生懸命お願い事をしたから、どこかにいた優しい魔法使いさんに声が届いたのかもしれないよ」
「また見られるかな?」
「さあ、どうだろうね。……でも、もし魔法の星空が見られなくても、来週になって雲が晴れたら、またパパの望遠鏡を裏庭に出して、本物の星を一緒に見よう」
ルーシーは「うん!」と元気に頷いた。
そして、何かとても大切なことを思いついたように「……あっ、そうだ!!」と声を上げると、そのまま自分の勉強机の方へと走っていき、引き出しから真っ白な画用紙と、二十四色入りの色鉛筆のケースを引っ張り出してきた。
「ルーシー? もうすぐお風呂に入って寝る時間よ、今から何を描くの?」
ヘレンが尋ねると、ルーシーはテーブルの上に画用紙を広げ、濃い青色と紺色の色鉛筆を両手に握りしめながら、真剣な顔で言った。
「今日お星さまを見せてくれた魔法使いさんに、お礼のお手紙と絵を描くの! お菓子をもらったら『サンキュー』って言うのに、あんなに綺麗なお星さまをもらって『サンキュー』を言わないまま寝たら、宇宙飛行士としてダメだもん!」
*
午後九時ちょうど。
ハロウィンの推奨時間が終わり、通りを行き交う子供たちの姿もすっかり途絶えたウィロークリーク地区は、静かな夜の帳に包まれ始めていた。
坂の上のホイットモア家では、エレノアが魔女の深緑のローブを脱いで普段のカーディガン姿に戻り、玄関ポーチに出ていたカボチャのランタンの火を消し、余ったお菓子のバスケットを片付けていた。
その時。
ピンポーン、と玄関のドアベルが控えめに鳴った。
「あら、まだ遅れて回っているお子さんがいたかしら?」
エレノアがお菓子の小袋を一つ手に取って玄関のドアを開けると、ポーチのオレンジ色の外灯の下に立っていたのは、白い宇宙飛行士のジャンプスーツを着たままのルーシーと、その背後に付き添う父親のマークだった。
「まあ、ルーシーにマークさん。こんな時間にどうしたの、忘れ物かしら?」
エレノアが目を丸くして尋ねると、ルーシーが一歩前に出て、両手で大切に持っていた一枚の画用紙を差し出しながら、弾むような声で言った。
「ミセス・ホイットモア! さっきね、私がここでお菓子をもらったあと、お空にすっごく綺麗なお星さまと天の川がいっぱい出たの!」
「……ええ、そうね。私も二階の窓から見ていたわよ。本当に綺麗だったわね」
「うん! それでね、私、あの星空を見せてくれた魔法使いさんに、お礼の絵を描いたの!」
ルーシーが誇らしげに見せてくれた画用紙には、青い色鉛筆でゴシゴシと一生懸命に塗りつぶされた夜空いっぱいに、黄色や白やオレンジ色の星々が数えきれないほど描かれ、真ん中には白い宇宙服を着て手を振る女の子が描かれていた。
そして画用紙の下の余白には、まだ少し不揃いな八歳のアルファベットで、こう大きく書かれていた。
『 Thank you to the person who showed us the stars!(お星さまを見せてくれた人へ。ありがとう!) ―― Lucy 』
エレノアの胸の奥が、キュッと音を立てたように熱くなった。
ルーシーは画用紙をエレノアの方へぐっと差し出し、真剣な瞳で見上げて言った。
「私、誰があのお星さまを出してくれたのか分からないの。……でもね、ミセス・ホイットモアは毎年あんなにカッコいい魔女の仮装をしてるし、本をいっぱい知ってるから、もしかしたら『本物の魔女さん』や『魔法使いさん』とお友達で、どこかでお茶を飲んだりすることがあるかもしれないでしょ?」
エレノアは、思わず瞬きを繰り返した。
「……そうねえ」
「だからね、もしミセス・ホイットモアがいつか本物の魔法使いさんに会えたら、私の代わりにこのお礼の絵を渡してくれないかな?」
後ろに立っていた父親のマークが、申し訳なさそうに苦笑して頭を下げた。
「夜分遅くに本当にすみません、エレノアさん。どうしても今夜中にエレノアさんに預かってもらわないと魔法使いさんに届かないと言って聞かなくて……このあとすぐ寝かせますので、受け取ってやってくれませんか」
エレノアは数秒間、差し出された小さな画用紙と、ルーシーの真っ直ぐな瞳を交互に見つめた。
それから彼女は、ルーシーの目線の高さまでゆっくりと膝を曲げて腰をかがめ、両手で恭しくその一枚の画用紙を受け取った。
「……ええ、もちろんよ、ルーシー。喜んでお預かりするわ」
「ほんと!?」
「ええ。もし私がその魔法使いさんに会うことがあったら、あなたがどれだけあの星空を喜んでいたか、この素敵な絵と一緒に、間違いなく、必ずその人にお渡しするわ。約束するわね」
「やったあ!! ありがとう、ミセス・ホイットモア! おやすみなさい、ハッピー・ハロウィン!」
ルーシーは今日一番の満開のひまわりのような笑顔を咲かせると、父親の手を握って、スキップしながら夜の坂道を自宅へと帰っていった。
八歳の少女は、目の前にいる優しいおばあさんが本物の魔女であることなど、最後まで少しも知らない。
けれど、彼女が色鉛筆を握りしめて描いた感謝の手紙は、世界中のどんな郵便配達よりも正確に、たった一人で星空を編んだ術者本人の両手の中へと直接届けられたのだった。
*
午後九時三十分。
玄関の鍵を閉めてリビングへと戻ったエレノアが、テーブルの上にルーシーの絵をそっと置いたところで、書斎の魔術通信端末が静かな着信音を鳴らした。
全米魔女委員会のマーガレット・クロスからの、本日最後の確認連絡だった。
『――夜分に恐れ入ります、エレノアさん。先ほどMAJESTIC-12の北東部オフィスとも正式に調整が完了いたしました。政府側も「無害な局所現象であり調査・公表の対象としない」と合意し、ネット上の特定騒ぎも完全に収束いたしましたので、今回はひとまず、大きな問題にはならずに済みそうです』
「そう、それはよかったわ。いろいろと手を回してくれてありがとう、マーガレット」
『いいえ、それが私の仕事ですから。……ただ、エレノアさん、くれぐれもお願いですが、今後もし同じような広域魔術をご使用になる場合は、事後報告ではなく、必ず事前に委員会へご相談いただけますか? 私の心臓が持ちませんので』
「ふふ、ええ、分かったわ。肝に銘じておくわね」
受話器の向こうで、マーガレットがホッとしたように息を吐き、それから少しだけ考え込むような静かな声で言った。
『……それにしても、今回のエレノアさんの星空の動画に対する一般社会の反応を見ていて、私自身も、評議会のメンバーも、いろいろと考えさせられました』
「あら、どんなことを?」
『私たちの魔術は、昨日までは「一般人に知られれば恐れられ、迫害されるもの」だとばかり思っていました。もちろん、今でもその危険が消えたわけではありませんし、昨日までとは社会の状況がまるで違います。一般の人々はもう、本当にこの世界に魔法や異能が存在するのだと知ってしまったのですから』
「……ええ、そうね」
『だからこそ、ただ昔のようにすべてを闇の中に隠し続けるだけではなく、これからは私たち魔女も、新しい時代に合った「社会との関わり方」を考えなければならないのかもしれません。守るべき共同体の機密や仲間の身元は厳格に守りながら、一方で、本人が望む善意の力の披露や還元をどこまで、どのような安全な枠組みで認めていくのか……と』
真面目な後輩の言葉を聞いていたエレノアの目が、いたずらっぽくキラリと輝いた。
「……あら、マーガレット」
『はい?』
「それなら、来年のハロウィンには、ウィロークリーク町内会の『公式の夜空の催し物』として、最初から委員会と役所に事前申請を出せば、堂々と星空を見せられるかしら?」
『……えっ!?』
電話の向こうで、マーガレットが素っ頓狂な声を上げた。
「もちろん、私が『全米魔女委員会の魔女です』なんて名乗り出る必要はないわ。大統領が認めた『ちょっと変わった視覚能力を持った匿名のボランティア市民』として、安全基準を守って五分間だけ夜空にプラネタリウムを映し出すのよ。……だって、近所の子供たちが、来年もまた見たいって言ってくれているんだもの」
『…………』
数秒間の沈黙のあと、受話器の向こうから、マーガレットの参ったというような、しかしどこか温かな笑い声が漏れた。
『……エレノアさんには敵いませんね。来年の十月三十一日までに、そういう平和的な能力披露のガイドラインが作れるかどうか、評議会とMJ12の窓口に議題として上げておきますわ』
「ふふ、ありがとう。それなら来年のハロウィンが今から楽しみだわ」
*
午後十時ちょうど。
ウィロークリークの住宅街は、一晩中続いたお祭りの熱気が嘘のように引き、深い静けさを取り戻していた。
お菓子をもらい終えた子供たちはそれぞれの家のベッドへと入り、通りを照らしていたポーチライトやジャック・オー・ランタンの灯りも、一つ、また一つと消えていく。
窓の外には、相変わらず分厚い秋の雲が垂れ込めていた。星は一つも見えない。
エレノア・ホイットモアは、淹れたてのカモミールティーを一口飲むと、リビングのテーブルの上に置かれた一枚の画用紙へと視線を落とした。
青い色鉛筆で一生懸命に塗られた夜空。
そこに、黄色やオレンジの星々が数えきれないほど描かれている。
真ん中には、白い宇宙服を着て笑う小さな女の子。
そして、その横に添えられた拙い文字。
『お星さまを見せてくれた人へ。ありがとう!』
エレノアは、しばらくの間、静かにその絵を見つめていた。
それから、誰もいない温かなリビングルームで、目尻に深い皺を寄せて優しく微笑んだ。
「……ええ。ちゃんと届いたわよ、ルーシー」
彼女は画用紙を両手で丁寧に持ち上げると、暖炉の上のマントルピース――亡き夫が天体望遠鏡の横で笑っている写真立てのすぐ隣に、そっと立てかけて飾った。
窓ガラスの向こうでは、厚い雲が夜風に吹かれて静かに流れている。
人間の目には見えなくとも、その雲の向こう側では、今も変わらず何億もの星々が美しく輝いているはずだった。
エレノアは最後にもう一度だけ夜の空を見上げると、ゆっくりと窓のカーテンを閉じた。
「……ハッピー・ハロウィン」
ここまで読んでいただきありがとうございます! もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下部より【お気に入り登録】や【評価】、感想などをいただけると執筆の励みになります。 作者のモチベーション上昇に直結しますので、是非ともよろしくお願いします!
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