もしも異能がディスクロージャーされたら? 作:パラレル・ゲーマー
二〇二六年十一月三日、火曜日。午前八時ちょうど(中央ヨーロッパ時間)。
バチカン市国の朝を告げるサン・ピエトロ大聖堂の重厚な鐘の音が、ローマの澄んだ秋空へとゆっくりと響き渡っていく。
ベルニーニの列柱廊に囲まれた石畳の広場には、朝靄の中を歩く巡礼者や観光客の姿がちらほらと見え始めていたが、その広場の奥にそびえる使徒宮殿および教皇庁の各執務棟の窓には、夜通し一度も消えることのなかった照明が白々と灯り続けていた。
国務省の一般総務部門、および教理省の連絡調整室が置かれたフロアは、この数日間、文字通り不眠不休の戦場と化していた。
先週の水曜日に極東の日本から始まった「異能」の公式開示。金曜日のアメリカ・ニューヨーク上空における巨大な竜と複合魔術陣の生中継。そして週末のハロウィンを経て、世界中の社会が「超常の力は現実に存在する」という事実を突きつけられた結果、地球上に約十四億人の信徒を抱えるカトリック教会の総本山には、世界中の司教協議会や地方教区から、悲鳴にも似た照会と相談が津波のように押し寄せていたのである。
長机が並ぶ連絡調整室では、黒いスータン(聖職者服)を着た各言語圏の担当官たちが、山積みになった報告書と端末の画面を前に、赤い目をこすりながら対応に追われていた。
そこに届いているのは、神学者たちが象牙の塔で議論するような抽象的な教義論争ではなかった。昨日まで普通に教会へ通い、祈りを捧げていた生身の信徒たちと、彼らにどう向き合えばよいか分からず立ち往生している現場の神父たちからの、あまりにも切実で差し迫った叫びだった。
「――東南アジア班、フィリピンのマニラ大司教区、セブ教区、イロイロ教区などから、今朝だけで追加の緊急照会が十四件届いています」
タガログ語と英語の文書を整理していた若い司祭が、隣で全体の取りまとめを行っている中堅の参事官へファイルを差し出した。
「内容は?」
「はい。特に深刻なのは、イロイロ教区の十一歳の少年カルロスの事例です。先週の土曜日、家族の目の前でスプーンが数センチ浮く現象が起き、動揺した父親が『悪魔に取り憑かれたのではないか』と口にしてしまいました。母親は息子をかばったものの、親族や近所の信徒たちも『悪魔祓いが必要だ』と騒ぎ、教区の司祭に対応を求めています。司祭は本人に悪意も危険な行動もないことを確認していますが、少年は父親の言葉に深く傷つき、ひどく怯えているとのことです」
参事官が眉間に深い皺を寄せて頷くと、今度は反対側のデスクからラテンアメリカ担当の職員が声を上げた。
「南米班、ブラジルのサンパウロおよびサルヴァドール教区からは、まったく逆方向の混乱が報告されています。生まれつき他者の傷や痛みを和らげる治癒系の異能を持っていた三十代の女性信徒について、日本の発表を見た親族が周囲に言い広めてしまった結果、地元の信徒や住民の間で『主が遣わされた奇跡の聖女だ』と熱狂する一派と、『教会の認可なき不自然な魔術を使う異端者だ』と恐れる一派の双方が彼女の自宅を取り囲み、本人が精神的に追い詰められて教会へ逃げ込んでおります」
「『悪魔憑き』か『奇跡の聖女』か……。人間というのは、理解を超えた力を見た時、どうしてこうも極端な二つの箱にしか人を入れられないのかね」
参事官が重いため息を吐く間もなく、欧州担当と北米・アジア担当のデスクからも次々と報告が上がる。
「ポーランドのクラクフ教区からは、幼児洗礼を受けて熱心に教会へ通っていた大学生の青年が、最近になって自らの異能に覚醒し、『こんな力を持ってしまった自分は、もうミサに与(あずか)って聖体拝領を受ける資格がないのではないか』と悩み、司祭に告解(ゆるしの秘跡)を求めてきたとの報告です。現場の司祭自身もどう答えるべきか確信が持てず、判断を仰いでいます」
「アメリカのニューヨークおよびボストン大司教区からは、金曜日のマンハッタンの映像を受け、『空中に幾何学的な魔法陣を描いてドラゴンと戦うような魔術を行使する人間は、カトリックの教義上、信徒として認められるのか』という質問が何百件も寄せられています」
「そして日本の東京大司教区からは、『日本政府が国内に約三百四十二万人、三十六人に一人の能力者が存在すると公表した以上、日本の信徒の中にも相当数の能力者が含まれていることは確実であり、彼らとその家族を安心させるためのバチカンからの公式声明を一刻も早く出してほしい』との要請です」
さらに深刻な問題として、一部の過激な保守派コミュニティや地方の閉鎖的な村落では、能力者だと噂された信徒が日曜日のミサへの立ち入りを拒まれたり、本人の意思に反して祈祷や浄化の儀式を強要されかけたりといった、実質的な「排除と私刑」の兆候すら報告され始めていた。
もちろん、世界中のカトリック教会全体が異能者を迫害しようとしているわけではない。大多数の善良な神父や司教たちは、信徒を傷つけまいとして必死に冷静さを保とうとしている。
しかし、「バチカンからの公式な教義的・司牧的指針がまだ一つも存在しない」という空白そのものが、現場の聖職者たちの足をすくませ、声の大きい過激派や恐怖に駆られた人々の勝手な宗教的解釈を増長させていたのだ。
「……本日午前七時時点で、世界各国の司教協議会を通じて正式に受理された照会文書だけで八百四十件。非公式の問い合わせを含めれば数千件を超えています」
集計表を閉じた若い司祭が、疲れ切った顔でコーヒーカップを手に取り、ぽつりと呟いた。
「……参事官。先週の火曜日まで、私たちの仕事は純粋な『宗教と信仰の問題』を扱うことだったはずなのですが」
隣で書類に決裁印を押していた参事官は、眼鏡の奥の目を細め、乾いたユーモアを込めて静かに言い返した。
「何を言っているんだ、アントニオ。今日も私たちの仕事は100パーセント純粋な『宗教問題』だよ」
「……そうですね」
「ただ、神が創られたこの現実の世界に、本当に空を飛んだり魔法陣を描いたりできる人間が何百万人も住んでいることが判明した、というだけの話さ」
「……それが人類史上最大の大問題なんでしょうが!」
若い司祭の思わず漏らしたツッコミに、室内の職員たちから小さな苦笑いが起きた。
その時、壁の時計が午前八時三十分を指し、執務棟の上階――教皇の私室および特別会議室がある第3ロッジアへと向かう内線電話が鳴り響いた。
*
午前八時三十分。使徒宮殿三階、教皇特別会議室。
高い天井にフレスコ画が描かれた静謐な室内には、白いカソック(教皇服)とズッケット(小帽)を身につけたローマ教皇と、その脇を固める三人の最高幹部――教皇庁国務長官、教理省長官を務める枢機卿、そして教皇庁広報局長の姿があった。
テーブルの上に置かれているのは、本日午前十時より『パウロ六世謁見ホール』において全世界へ向けて発表される、教皇特別声明の最終稿だった。
七十代半ばになる現在の教皇は、柔和な目尻に深い思索の皺を刻んだ人物だったが、今朝の彼の瞳には、幾晩もの祈りと熟考を経た者だけが持つ、揺るぎない静かな決意が宿っていた。
教皇は手元のイタリア語およびラテン語の原稿に最後まで目を通すと、万年筆を置き、静かに顔を上げた。
「――内容は、これで間違いありません。私の言葉として、世界中の兄弟姉妹へ伝えるべきことはすべてこの中にあります」
その言葉を受け、赤い縁取りのスータンを着た国務長官が、慎重に言葉を選びながら一歩前に出た。
「聖下。声明の根幹である『異能を持つ人々も私たちの隣人であり、迫害してはならない』というメッセージにつきましては、私どもも全面的に賛同いたします。……ただ、一点だけ、本当にここまで踏み込んで公表なさるのか、最後の確認をさせてください」
「第二節の、教会の歴史に関する部分ですね」
「はい」
国務長官は、原稿の2ページ目に記された一節を指差した。
「今回の声明案では、日本政府やアメリカ政府と同様に、『カトリック教会もまた、異能や超能力、魔術と呼ばれる現象が実在することを古くから認識しており、それらの神秘的事象を調査・管理するための専門の組織を内部に有していた』という事実を、教皇聖下ご自身の口から公式に認める形となっております。
もちろん、その専門組織の具体的な名称や内部構造、保管している聖遺物や呪物の目録、ならびに各国の管理機関との非公開協定の詳細については一切伏せておりますが……それでも『教会は昔から知っていて組織を持っていた』と公表すれば、世俗のメディアや一部の信徒から、なぜこれまで隠していたのかという批判や、現在も秘匿下で活動している関係部署への詮索が向かうリスクがございます」
国務長官の懸念は、バチカンという一国の外交・行政を預かる責任者として極めて真っ当なものだった。
だが、教皇は穏やかに、しかしはっきりと首を横に振った。
「長官。各国政府がすでに情報を公開し、信徒たちの間で恐れが広がっています。私たちにも、今ここで果たすべき責任があるのではありませんか」
「……はい」
「日本政府は国内の能力者の人数を公表し、アメリカ政府はMAJESTIC-12の存在を認めました。私たちも、必要な範囲で事実を明らかにすべき時が来たのです。
そして何より、今日は助けを求めている信徒たちに語りかけたい。これまでの沈黙について説明し、これからも隣人として共に暮らせるのだと、はっきり伝えたいのです」
教皇は原稿に視線を戻した。
「そのために何を語るべきかは、今日の演説でお話しします。秘密を守るべき人々の情報まで、明かすつもりはありません」
国務長官は数秒間だけ黙考し、やがて「……聖下の仰る通りです。失礼いたしました」と深く頭を下げた。
すると、隣に座っていた広報局長が、現場からの実務的な懸念を補足した。
「聖下。その『教会は以前から知っていた』という点に関しまして、一つだけ現場の聖職者たちのために配慮すべき点がございます。
当庁の中枢や特殊部門とは異なり、世界各地の現場で働く何十万人もの一般の司祭、神父、修道女たちの大多数は、一般信徒と同様に、この事実をこれまで全く知らされておりませんでした。本日の声明を聞けば、現場の神父たち自身も大変な衝撃を受け、教区へ問い合わせが殺到するものと思われます」
「ええ、承知しています。一般の司祭たちに重荷を背負わせてしまうことには心が痛みます。ですから、演説の中で彼ら現場の聖職者たちへ直接呼びかけるとともに、演説終了と同時に、教皇庁からすべての教区へ向けて具体的な『特別司牧指針』を送達してください。現場の神父たちが一人で迷わなくて済むように」
続いて、午前九時ちょうど。
教理省長官を務める老枢機卿が、分厚い眼鏡の位置を直しながら、神学・教義上の最もデリケートな論点について口を開いた。
「聖下。教理省といたしましては、第三節および第四節にある『魔法(Magia)や異能を使える人間も信徒として認める』という表現の厳密な定義について、誤解なきよう最終確認をさせていただきたいのです」
「ええ、どうぞ」
「ご承知の通り、カトリック教会の伝統的な『カテキズム(教理問答)』におきましては、神以外の超自然的な力に依拠して他者を支配しようとする魔術や占い、降霊術の類は、これまで厳しく退けられてまいりました。
もちろん、今週明らかになった『異能』や、マンハッタン等で観測された『魔術的術式』の多くが、悪魔との契約などではなく、人間が生まれつき、あるいは修練によって魂に備えた固有の因果干渉の力(一種の自然的・生得的才能の延長)であることは、当省の専門調査でも確認されております。
ですが、もし教皇聖下が単に『魔法や異能をすべて認める』とだけ仰れば、悪意ある呪詛や、他者の自由意志を蹂躙する術式の行使まで教会が宗教的に公認したかのように誤解されかねません」
教皇は深く頷いた。
「非常に重要な点です、枢機卿。だからこそ本日の演説では、『力そのものが存在すること(能力の保有)』と、『その力を使って何を行うか(能力の行使・目的)』の二つを、明確に切り分けてお話しします」
教皇は原稿の該当箇所を、指先で静かになぞった。
「異能や魔術が実在すると認めることと、あらゆる行使を宗教的に是認することは違います。悪意ある呪詛や、他者を脅して支配するための力の行使まで認めるつもりはありません。
その線引きは演説でも明確にします。能力を持つという事実だけで人を裁かず、実際の行為については倫理と信仰に照らして判断する。それが私たちの立場です」
「承知いたしました。教理省からも、各教区の神学的な疑問に対応するための補足文書を準備いたします」
教理省長官は満足そうに頷き、手元の赤ペンを置いた。
そして、午前九時十五分。
すべての確認が終わりかけたところで、国務長官の視線が、原稿の第三節の真ん中に記された「ある一文」の上でふと止まった。
『――その人が人間である限り、異能、超能力、魔法と呼ばれる力を持つことだけを理由として、私たちはその人を信徒として拒絶しません』
国務長官と教理省長官の二人が、ほんの一瞬だけ視線を交わし、室内に数秒間の静かな沈黙が落ちた。
『その人が人間である限り(Finché si tratta di esseri umani / As long as they are human beings)』。
一般の信徒やメディアがこの文章を聞けば、それは単に「異能者も怪物ではなく同じ人間なのだから受け入れる」という、人間性の肯定の修辞として自然に聞き流すだろう。
だが、バチカンの最深部の機密を知るこの部屋の者たちだけは、そこに置かれた「人間である限り」という限定条件が、文字通り何を意味し、何を今回の対象から慎重に除外しているのかを正確に理解していた。
しかし、国務長官も教理省長官も、その文言を削れとも言わなければ、その意味について質問することも一切しなかった。今はまだ、その箱を開ける時ではない。
教皇もまた、その一文に特別な強調線を引くこともなく、ただ静かに革表紙のフォルダーを閉じた。
「――それでは、時間です。ホールで待っている皆さんのところへ参りましょう」
*
午前九時四十五分。バチカン市国・パウロ六世謁見ホール。
近代的な扇形の巨大建築であり、波打つようなコンクリートの天井と美しいステンドグラスを備え、最大六千三百人を収容できるこの大ホールは、本日の朝、かつてないほどの厳粛な緊張と熱気に満たされていた。
通常であれば水曜日に開かれる一般謁見だが、今回は昨夜発表された「教皇による全世界向け緊急特別声明」のため、火曜日の朝にもかかわらず、客席は最前列から最後列の立ち見エリアに至るまで隙間なく埋め尽くされていた。
前方の中央ブロックには、ローマ教皇庁に駐在する世界各国の司教や枢機卿、黒や灰色の修道服に身を包んだ何百人もの司祭や修道女たちが整然と並んでいる。そしてその後ろの広大な一般席には、イタリア国内や世界中から集まった一般の信徒たち、巡礼者、さらにはバチカン広報局の許可を得て世界中から駆けつけた数百人の報道陣とテレビカメラの放列が詰めかけていた。
ステージ後方の同時通訳ブースでは、英語、スペイン語、フランス語、ポルトガル語、ドイツ語、ポーランド語、タガログ語、そして日本語や中国語を含む十数カ国語の通訳官たちがヘッドセットを装着し、バチカン・メディアのYouTubeおよび衛星回線を通じた全世界同時生中継のカウントダウンを見守っている。
その一般席の中ほど――通路から三番目の座席に、少し仕立ての良いダークスーツを着た二十四歳のイタリア人青年、マルコが、隣に座る五十代の母親・ルチアと肩を並べて座っていた。
マルコは先ほどからずっと、膝の上に置いた自分の両手を、指の関節が白くなるほど強く握りしめていた。少し汗ばんだ手のひらが、かすかに震えている。
彼は、生まれつき「自分の触れた少量の水の温度を、一瞬で沸騰寸前まで引き上げる」というささやかな異能を持った青年だった。
幼い頃にその力に気づいた時、敬虔なカトリック信徒である両親は最初こそ驚いたものの、「マルコはマルコよ、外では絶対に使わないようにしようね」と彼を温かく守り、隠してくれた。マルコ自身も教会の日曜学校へ通い、聖歌隊で歌い、ごく普通の善良な青年として育ってきた。
だが、先週の水曜日から世界が一変した。
職場の同僚や大学の友人たちが、ニュースを見ながら「能力者なんて気味が悪い」「聖書に出てくる悪魔の力じゃないのか」と冗談交じりに話すのを聞くたび、マルコの胸は針で刺されるように痛んだ。もし自分の力が知られたら、自分が赤ん坊の頃に洗礼を受け、毎週通い続けてきたこの愛する教会からも「穢れた異端者」として追い出されてしまうのではないか――その恐怖に耐えかねて、今朝、母親と一緒にローマ近郊の街からこの謁見ホールへとやってきたのだ。
「……大丈夫かしら、マルコ。手がすごく冷たくなっているわよ」
隣の母親ルチアが、ハンドバッグの上から息子の握りしめた右手をそっと自分の両手で包み込んだ。
「……分からないよ、マンマ」
マルコは正面の巨大なブロンズ彫刻と、まだ誰もいない白い演壇を見つめたまま、掠れた声で答えた。
「日本の政府やアメリカの大統領は、法律の上では能力者も市民だって認めてくれた。……でも、もし今日、教皇様が『超能力や魔法は神の定めた自然の摂理に反する力だ』っておっしゃったら、僕はもう二度と教会の敷居を跨げなくなる……」
「そんなはずがないわ。神様は、あなたがその手で一度も人を傷つけたことがなくて、ただお湯を沸かして私にカモミールティーを淹れてくれる優しい子だって、誰よりもよくご存じなんだから。……きっと、いいお話をしてくださるわよ」
母親はそう言って微笑んだが、彼女自身の握る手にも、祈るような強い力が込められていた。
一方、彼らから十列ほど前方の聖職者席でも、ローマ市内の小教区から招集された三十代の若い神父が、隣に座る白髪のベテラン司祭に向かって、落ち着かない様子で小声で話しかけていた。
「……ドメニコ神父様。本日の特別声明で、教皇聖下が『超常的な能力の実在』について公式に言及されるというのは、本当なのでしょうか」
「ああ、今朝のバチカン広報局の事前ブリーフィングでもそう通達があった。間違いないだろう」
「ですが……昨日の朝、私の教区の信徒からも『教会は以前からこうした力の存在を知っていたのか』と尋ねられて、私は『いいえ、そのような話は神学校でも一度も聞いたことがありません』と答えてしまったのです。もし教会の上層部が以前から把握していたのだとすれば、私たち現場の司祭はどう信徒に説明すればよいのでしょうか……」
「私とて、四十年司祭をやってきて初耳のことばかりだよ、パオロ」
白髪の司祭は静かに目を閉じ、ロザリオの珠を指先で繰りながら言った。
「だが、今一番混乱して助けを求めているのは、私たちの教区にいる信徒たちだ。まずは聖下の言葉を、一字一句漏らさずに聞くことだ」
そして、ホールの時計が午前十時ちょうどを指した。
会場の後方扉が開き、スイス衛兵が直立する脇を通って、白いカソックを纏ったローマ教皇が、側近たちを伴わずたった一人でゆっくりと通路へと歩み出てきた。
パチパチとまばらな拍手が起こるが、いつもなら「ビバ・イル・パパ(教皇万歳)!」と明るい歓声が飛ぶ謁見ホールが、今日ばかりは、これから下される歴史的な審判を前にしたかのような、張り詰めた静寂に包まれている。
教皇は特別な演出も大仰な身振りも見せず、通路脇の車椅子の信徒や、緊張した面持ちの修道女たちにいつも通り穏やかに会釈を返しながら、一歩一歩、演壇の中央へと進んだ。
演壇のマイクの前に立った教皇は、手元の原稿を開いた。
しかしすぐには読み始めず、まず数秒間をかけて、目の前に広がる六千人の聴衆の顔を――そしてカメラのレンズの向こうにいる、世界中の十数億の信徒と人々の姿を、慈愛に満ちた深い眼差しでゆっくりと見渡した。
ホールから、すべての物音が消えた。
静寂の中、教皇の穏やかで、しかしホール全体の隅々まで真っ直ぐに染み渡るような力強い声が、静かに紡ぎ出された。
*
「――親愛なる兄弟姉妹の皆さん。そして、今日この声に耳を傾けてくださっている、世界中のすべての皆さん。主の平和が皆さんと共にありますように」
教皇はまず、世界の現状と人々の心に渦巻く感情を、そのまま包み込むように語り始めた。
「ここ数日の間に、私たちが生きるこの世界は、歴史上かつて経験したことのない大きな変化の季節を迎えました。
これまで多くの人々が、遠い昔の物語や伝承、あるいは空想の中にのみ存在すると考えていた力が、私たちの生きるこの現実の世界に確かに存在するということを、私たちは知りました。
何の装置も用いずに空を飛ぶ人。手を触れずに物を動かし、目に見えない壁を作る人。人の傷を癒やす人。そして、空に輝く紋様を描き出し、私たちのこれまでの科学や理解を超える術を使う人。
それらの現象が加工された映像などではなく、今この瞬間も世界のどこかで現実に起きているという事実は、すべての人々に大きな驚きを与えました。
そして、私は知っています。今、多くの人々の心の中にあるのは、単なる驚きや好奇心だけではなく、深い『戸惑い』と『恐れ』であるということを。
昨日まで信じていた世界の前提が揺らいだことへの不安。自分の隣にいる人が、自分には理解できない大きな力を持っているかもしれないという恐怖。あるいは逆に、自分自身や自分の愛する家族がそのような特別な力を持っているがゆえに、『これから世間や教会からどう扱われるのか』と夜も眠れずに震えている人々の孤独。
私は今日、未知の力を前にして恐れを抱いている皆さんにも、そして自分自身が特別な力を持っていることに悩み、立ち尽くしている皆さんにも、同じ一人の人間として、そして教会の牧者として、まっすぐに語りかけたいと思います」
ホールの中の誰もが、身じろぎ一つせずに教皇の唇を見つめている。
教皇は一拍の間を置き、声のトーンを一段階、厳粛な告白の響きへと変えた。
「まず初めに、皆さんに対して、何一つ隠すことなく率直にお伝えしなければならない事実があります。
先日、日本政府やアメリカ合衆国政府が公式に表明したのと同じように――私たちカトリック教会もまた、皆さんが現在『異能』『超能力』、あるいは『魔法』と呼んでいる現象がこの世界に実在することを、ずっと以前から認識していました。
これは、先週の東京やニューヨークでの出来事を見て、私たちが初めて知ったことではありません。
二千年に及ぶ教会の長い歴史の記録の中には、通常の自然現象や人間の業だけでは説明のつかない出来事が、数多く記されてきました。
その中には、深い祈りと善意によって病める人々を助け、共同体を守った力もありました。一方で、悪意や傲慢によって人々を傷つけ、社会を恐怖へと陥れた力もありました。
そのため教皇庁は、古い時代より、そうした通常の理解を超える神秘的な現象や事物を専門に調査し、記録し、必要に応じて安全に対処するための組織を内部に設け、今日に至るまで対応を続けてまいりました」
ザワッ……と、ホール全体の空気が大きく揺れた。
最前列の聖職者席にいた若い神父たちが驚愕に目を見張り、後方の記者席では一斉にキーボードを叩く音とカメラのシャッター音が響く。その専門組織の具体的な名称や規模こそ明かされなかったものの、バチカンが公式に「独自の超常管理組織の存在と歴史的認知」を認めた瞬間だった。
教皇はざわめきが自然に静まるのを待ってから、自省を込めた静かな声で言葉を継いだ。
「『なぜ、教会はこれまでその事実を一般の信徒や聖職者たちにさえ知らせず、沈黙を守ってきたのか』。皆さんがそう問われるのは、あまりにも当然のことです。
私たちが長い歳月にわたり、知り得た情報の多くを非公開として慎重に取り扱ってきた最大の理由は、特別な力を持って生まれた人々の命と生活の安全を守り、同時に、準備のない社会に無用な混乱や分断が生じるのを防ぐためでした。
もちろん、過去の歴史における私たちの判断や秘匿のあり方のすべてが、常に誤りのない最善のものであったと、ここで自らを正当化するつもりはありません。過去の時代において、理解できない力を前にした人間たちの恐怖が、どれほど痛ましい悲劇を生んできたかを、私たちは誰よりも重く記憶しているからです。
しかし、力を持つことを周囲に知られたために、居場所を追われ、命や平穏な暮らしを脅かされる人々が現実に存在し、彼らを保護するための壁が必要であったこともまた、否定できない事実でした。
そして今、その壁が取り払われ、真実が広く知られることとなった以上、私たちは今日から、隠すことではなく、共に知り、向き合うという新しい時代へと足を踏み入れなければなりません」
そこで教皇は演壇の縁を両手でしっかりと掴み、ホールの中央――一般の信徒たちが座る客席へと真っ直ぐに視線を向けた。
「その新しい時代にあたり、私はローマ教皇として、すべての信徒と世界の人々に向けて、ここに明確に宣言いたします。
人が特別な力を持つことによって、その人の『人間としての尊厳』が失われることは、決してありません。
昨日まで皆さんと同じように笑い、働き、涙を流して普通の生活を送っていた人が、今日、空を飛べる人だと分かったとしても、あるいは手から炎や光を出せるようになったとしても――その人が昨日までとは別の生き物に変わってしまったわけではないのです。
生まれながらに不思議な力を持っている子供も、まったく同じです。その子は怪物でもなければ、呪われた存在でもありません。昨日も、今日も、そして明日も、親の温かい腕に抱かれ、愛されることを必要としている、神に愛された一人の尊い子供です。
特別な力を持っているという事実は、親がその子への愛情を失う理由にはなりません。友人がその人から離れていく理由にもなりません。そして、教会がその人を共同体から排除する理由にも、断じてならないのです」
一般席の中ほどで、母ルチアの手に包まれていた青年マルコの握りしめた拳から、ふっと力が抜け、彼の大きく見開かれた目に熱いものが滲んだ。
教皇の声は、よどみなく、自然な響きをもって次の言葉を紡ぎ出した。
「その人が人間である限り、異能、超能力、あるいは魔法と呼ばれる力を持つことだけを理由として、私たち教会がその人を信徒として拒絶することは一切ありません。
すでに洗礼を受けた兄弟姉妹が、実は特殊な能力を持っていたと判明したからといって、あるいは新しく力に目覚めたからといって、その事実だけで信徒としての立場や秘跡を受ける資格を失うことは決してありません。また、これから新しく信仰の門を叩こうとする方々に対しても、能力の有無によって教会の扉が閉ざされることは永遠にないのです」
『その人が人間である限り』。
教皇は特別な間を置くことも、声を潜めることもなく、人間としての尊厳を讃える一連の流れるような文脈の中で、極めて自然にその一節を口にした。会場の聴衆はそれを「異能者も同じ人間である」という力強い保証の言葉として受け止め、あちこちで深く頷く姿が見られた。
だが同時に、教皇はただ無条件の肯定だけを並べるのではなく、宗教的・倫理的な指導者としての厳格な一線をも、ここで明確に提示した。
「ただし、親愛なる皆さん。ここで私たちが決して混同し、誤解してはならない大切な区別があります。
それは、『特殊な力を持っていること』そのものと、『その力をどのように使うか』ということは、まったく別の問題であるという点です。
これは、異能を持たない私たちすべての人間にとっても同じことです。神が私たちに与えてくださったこの二つの手を使って、私たちは倒れている隣人を助け起こすこともできれば、パンを分かち合うこともできます。しかし、まったく同じこの手を使って、隣人を殴り、物を奪い、傷つけることもできてしまいます。手がそこにあることが罪なのではなく、その手で悪を行うことが罪なのです。
特別な力や魔術と呼ばれる技術を持つ人々についても、真理は同じです。
私たちが問うべきなのは、その人に不思議な力が備わっているという事実自体ではなく、『その人が心に何を望み、その力を使って他者に何を行うのか』ということです。
誰かの苦しみを癒やし、危険から人々を守り、あるいは子供たちを喜ばせるために力を使う人がいるでしょう。一方で、自らの欲望や怒りに任せて暴力を振るい、他者の自由や心を不当に支配し、傷つけるために力や術を使う人もいるでしょう。
私たち教会は、後者のような悪しき行為や、他者を害する術の行使を決して容認しませんし、これまで通り倫理と信仰に照らして厳しくその是非を問うていきます。しかし、力を持っているというただそれだけの理由で、まだ何も悪を行っていない人の存在そのものを罪と取り違えるような過ちを、私たちは決して犯してはならないのです」
ホールの中の空気が、深い納得とともに静まり返る。
そして、教皇は手元の原稿から完全に目を離し、正面のマイクへと一歩近づいた。この長大な演説の最も中心にある魂のメッセージを届けるために。
「そして、親愛なる兄弟姉妹の皆さん。
今日、私が世界のすべての教会、すべての家庭にいる皆さんに、最も強く、心の底から訴えたいことがあります。
『あなたの隣人を、あなた自身のように愛しなさい』。
福音書に記されたこの主の最も大切な掟を、私たちは子供の頃から何百回、何千回と耳にし、口にしてきました。
では、今日という日に、私は皆さん一人ひとりの良心に改めてお尋ねします。
もし明日、あなたの隣に住んでいる人が、実は空を飛べる人間だったと分かったなら――あなたはその人を愛することをやめるのですか?
もし、職場で毎日机を並べて助け合ってきた友人が、手を触れずに物を動かせる人間だったと知ったなら――あなたはその人を恐れ、職場や街から追い出そうとするのですか?
もし、あなたがこれまでお腹を痛めて産み、慈しんで育ててきた我が子が、ある日突然、あなたには理解できない不思議な力を持つようになったなら――その子があなたの愛する子供であるという事実まで、消えてなくなってしまうのでしょうか?
――いいえ。断じて、そのようなことはありません!」
教皇の力強い否定の声が、パウロ六世謁見ホールの高い天井を震わせた。
「特別な力を持つ人々は、昨日突然、どこか遠い別の星や暗闇の世界から侵略してきた怪物などではありません!
彼らは、一昨日まで、昨日まで、あなたのすぐ隣で一緒に暮らしていた人々です。
あなたと同じ言葉を話し、同じ学校で学び、同じ職場で汗を流し、同じ市場でパンを買い、同じ食卓を囲んで笑っていた、私たちの家族であり、友人であり、隣人なのです。
今週、私たちが新しく知ったのは、ただ『その人が持っていた一つの特徴』についてであって、あなたがこれまで何年もかけて知っていた『その人自身の優しさや誠実さのすべて』が嘘だったわけではないのです。どうか、そのことを忘れないでください」
その言葉は、衛星回線とインターネットを通じて世界中へ届けられていた。地域によっては、翻訳付きの録画上映の準備も進んでいる。
夕刻のフィリピン・イロイロの小さな教会では、後ほど始まる字幕付き録画上映を待ちながら、十一歳のカルロスが母マリアと父ロドリゴの間で身を縮めていた。父親は、まだ息子と正面から目を合わせられずにいる。
昼前のポーランド・クラクフのアパートでは、自分が能力に目覚めたことで教会へ行く資格を失ったと思い詰めていた青年が、パソコンの画面の前で両手で顔を覆い、声を殺して泣いていた。
朝のブラジル・サンパウロの教会では、治癒能力を持つ女性を前にしてどう守ればよいか苦悩していた老神父が、十字架の前で深く頷き、静かに立ち上がった。
そして夕方の日本・東京の教会では、自分が三十六人に一人であることを打ち明けたばかりの少女が、隣で祈る母親の横顔をそっと見つめていた。
バチカンの演壇で、教皇はさらに一段と語気を強め、世界中の信徒たちの心に潜む「最も危険な誘惑」に対して、厳格な警告を発した。
「だからこそ、私は教会の首長として、皆さんに厳しく命じ、またお願いしなければなりません。
自らの心にある『恐怖』を理由にして、異能を持つ人々へ暴力を振るってはなりません。
自分には理解できない不思議な力を持っているというだけで、その人を『悪魔に取り憑かれた者』や『呪われた異端者』だと勝手に決めつけてはなりません。本人の意思に反して、私的な祈祷や悪魔祓いのような宗教の儀式を強要してはなりません。
ましてや、神の名や信仰の言葉を盾に取って、隣人を裁き、つるし上げ、家や共同体から追放し、傷つけることなど――神の御前において、決して許されることではありません!
私たちは、人類と教会の過去の歴史にあった痛ましい過ちを、この二十一世紀において二度と繰り返してはならないのです。
どれほど敬虔な祈りの言葉を口にしていようとも、恐怖と無知に駆られて無実の隣人に石を投げる行為を、私たちは決して『信仰』とは呼びません。
もし能力を持つ人が、その力を使って現実の犯罪や他者を傷つける罪を犯したのであれば、それは能力を持たない人と同じように、社会の正当な法と手続きに従って責任が問われるべきです。しかし、何も悪を行っていない人間を、ただ『力を持っているから』『いつか危険かもしれないから』という理由だけで迫害することを、カトリック教会は絶対的に禁止します」
ホールの中は、水を打ったように静まり返っていた。かつての歴史の負の記憶にまで正面から踏み込み、「二度と魔女狩りを起こさせない」と退路を断って宣言した教皇の覚悟が、すべての聴衆の胸を強く打っていた。
教皇はそこで視線を、客席の前方に居並ぶ各国の枢機卿、司教、そして現場の司祭たちへと向けた。
「そして、世界各地の教区で日々奉仕しておられる司教、司祭、助祭、ならびにすべての修道者の皆さん。私は皆さんにも、牧者としての具体的な務めをお願いしたいと思います。
明日から、皆さんの教会には、自分が異能を持っていることを打ち明ける信徒や、家族が能力者であることを知って戸惑う人々が、数多く相談に訪れることでしょう。どうか、まず皆さん自身が、彼らを恐れないでください。
彼らを特殊な審査の対象として見るのではなく、まず温かい椅子を勧め、その人の話を最後まで聞いてあげてください。その人が何に悩み、何を恐れ、どのような助けを必要としているのかを確かめてください。もし現場での判断に迷うことがあれば、一人で抱え込まず、教区の責任者や司教協議会へ相談してください。本日、この演説の終了と同時に、教皇庁から全世界の教区へ向けて、具体的な対応を定めた『特別司牧指針』を送付いたします。
また、聖職者の皆さんに特に留意していただきたいのは、能力を持つ信徒に対して『教会や共同体の前で自分の力を告白・公開するよう強要してはならない』ということです。
彼らには彼らの守るべき日常があり、職場があり、家族の平穏があります。力を明かすか、それともこれまで通り胸の内に秘めて静かに暮らすかは、本人の自由な意思に委ねられるべき事柄です。私たち教会が求めるべきなのは、彼らから秘密を引き出すことではなく、彼らが力を明かしても明かさなくても、昨日までと変わらず安心してミサに集い、祈りを続けられる安全な居場所を守ることなのです」
さらに教皇は、信徒たちが抱くもう一つの神学的な疑問――「奇跡と異能」についての視点をも静かに解き明かした。
「また、これほど多くの超常的な力が現実に存在すると知ったことで、これまで教会が伝えてきた『奇跡』について、疑問や動揺を抱く方々もいることでしょう。
『すべての不可思議な現象は神の奇跡なのか、それとも過去の奇跡の中には人間の異能によるものが混ざっていたのか』と。教会は、今後こうした問いに対しても、信仰と理性の双方から誠実に研究し、向き合ってまいります。
しかし、今日皆さんに心に留めていただきたいのは、目に見える現象がどれほど巨大で派手であるかということと、そこに神聖さや人間の尊さがあるかということは、決して同じではないということです。
空に百枚の光の陣を描き、山を砕くほどの大きな力を持つ人間がいたとしても、その力の大きさだけでその人が神聖な存在になるわけではありませんし、逆に、何の異能も持たない一人の人間が、病床の友人の手を握って流す一粒の涙や、誰かのために捧げる小さな祈りと善意が、派手な能力の前で価値を失うことも、断じてないのです」
演説が始まってから、すでに二十五分以上が経過していた。
教皇は深く、ゆっくりと息を吸い込み、最後に再びホール全体と、カメラの向こうの全世界を見渡して、結びの言葉を語り始めた。
「親愛なる兄弟姉妹の皆さん。
私たちが生きるこの世界は、これから多くの制度や常識が書き換えられ、大きく変わっていくのでしょう。
昨日まで存在すら知らなかった不思議な力を、明日、私たちは街角や職場で目にするかもしれません。
あなたの大切な友人や、職場の同僚、あるいは家族の一人が、ある日勇気を振り絞って『実は私には特別な力があるのだ』とあなたに打ち明ける日が来るかもしれません。
もし、その日が来たなら。
どうか皆さん、その人の手から出る光や、その人の特別な能力を見る前に――まず、その人の『顔』を見てください。
昨日まであなたがよく知っていた、その人の顔を。
これまでその人と一緒に笑い合った日々を、あなたが苦しい時にその人がかけてくれた優しい言葉を、共に過ごした時間を思い出してください。
『力を持っている』というただ一つの新しい事実によって、あなたとその人が築き上げてきたこれまでのすべての信頼と記憶を、どうか否定しないでいただきたいのです。
私たちは弱い人間ですから、未知のものを前にして一瞬の恐れを抱くことはあるでしょう。
しかし、恐怖に私たちの心と行いを支配させてはなりません。
今、私たちに求められているのは、誰かを疑って裁くことではなく、隣人を理解しようとすることです。誰かを壁の外へ排除することではなく、孤独の中にいる人に手を差し伸べることです。
『隣人を、あなた自身のように愛しなさい』。
世界がどれほど変わろうとも、空を飛ぶ人が現れようとも、私たちが生きるべきこの教えは、一文字たりとも変わりません。
そして、今この放送を世界のどこかで聞いている、特別な力を持つすべての兄弟姉妹の皆さん。
どうか、世間の戸惑いや一時的な恐れだけを理由に、自分自身の価値や、自分が人間であることを疑わないでください。自分が生まれてきたことを呪わないでください。
あなたは、昨日も今日も、私たちの大切な隣人です。
そして私たちは、これからも同じ一つの世界の中で、共に手を取り合って生きていくのです。
全能の神、父と子と聖霊の祝福が、そして主の変わらぬ平和が、皆さん一人ひとりの上に常にありますように。ありがとうございました」
*
午前十時三十五分。
教皇が演壇の前で静かに十字を切り、深く頭を下げて演説を終えた。
一秒。二秒。三秒。
六千人を収容する広大なパウロ六世謁見ホールには、完全な静寂が落ちていた。
聴衆の誰一人として、すぐには声を上げることも、手を叩くこともできなかった。
バチカンが「古くから異能と魔法の存在を知り、専門組織を持っていた」と公式に認めたことの衝撃。そして何より、「異能者を悪魔扱いして迫害することを絶対的に禁じ、昨日までと同じ隣人として愛しなさい」と宣言した言葉の圧倒的な重みが、人々の胸の奥深くへと静かに沈み込んでいったからだ。
やがて。
一般席の中ほどから、パチ、パチ、と誰かが震える手で叩いた小さな拍手の音が響いた。
それを合図にしたかのように、一人、十人、百人と拍手の輪が広がり、次の瞬間には、ホール全体の六千人の聖職者と信徒たちが一斉に立ち上がり、天井が揺れるほどの万雷の拍手となってホールを満たした。
もっとも、その場にいた全員が、同じ気持ちで拍手を送っていたわけではない。
記者席のジャーナリストたちは「バチカンが秘密組織の存在を認めた!」と色めき立って原稿を送り始めていたし、聖職者席の一角では、伝統的な魔術観との兼ね合いや今後の教区運営の難しさを思って、腕を組んで深く考え込んでいる保守派の司教たちの姿もあった。
それでも――「恐怖によって隣人を傷つけてはならない」という、誰も覆すことのできない明確な道標(コンパス)が、いま全世界に向けて打ち立てられたことだけは確かだった。
立ち上がって拍手を送る無数の人々の波の中で、二十四歳の青年マルコは、立ち上がることができずに椅子に座ったまま、ぽろぽろと頬を伝う涙を拭うことも忘れて演壇を見つめていた。
隣に立つ母親のルチアが、優しく息子の肩を抱く。
「……よかったわね、マルコ。本当に、よかったわね」
マルコは子どものように何度も小さく頷き、震える声で呟いた。
「……うん。マンマ……僕、来週の日曜日も、その次の日曜日も、もう教会に来るのを怖がらなくていいんだね。神父様やみんなの前で、自分が人間じゃないんじゃないかって、怯えなくていいんだね……」
「ええ、そうよ。教皇様がはっきりそうおっしゃったじゃないの」
ルチアがハンカチで息子の目元を拭ってやると、通路の反対側に座っていた見知らぬ老婦人が、二人の様子に気づいたのか、何も言わずにマルコに向かって温かく微笑みかけ、「平和があなたと共にありますように」と小さく会釈してくれた。マルコは涙の滲んだ顔で、力いっぱい頷き返した。
その少し前方の聖職者席では、開演前に不安を口にしていた若いパオロ神父が、隣の白髪のドメニコ司祭を振り返り、興奮と安堵の入り混じった声で言った。
「……ドメニコ神父様。正直に申し上げますと、教会が昔から異能の存在と専門組織を持っていたと聞いた瞬間は、足元が揺らぐほど驚きました。私たちが神学校で学んできた世界は、一体何だったのかと……」
「ああ、私も驚いたよ」
老司祭は穏やかに頷き、演壇から退場していく教皇の白い背中を見送りながら言った。
「だがね、パオロ。この世界に私たちが知らなかった『不思議な力』が一つ増えたからといって、私たちがこれまで信徒たちに伝えてきた『隣人を愛しなさい』『弱い立場にある人を守りなさい』という福音の教えが、一文字でも間違いになったわけではないだろう?」
「……あっ」
「むしろ、目に見えない力を恐れて人々が疑心暗鬼になりかけている今だからこそ、私たち現場の司祭がこれまで以上にしっかりと教会の扉を開け放ち、その当たり前の教えを実践しなければならないということさ」
「……はい! その通りです、ドメニコ神父様!」
若い神父が目を輝かせて頷いた、そのすぐ後ろの席では。
ミラノとナポリの大司教区から来ていた二人の実務派の司教が、演説の感動とはまた別の意味で、青い顔をしてお互いの手帳を見比べていた。
「……おい、今の聖下の演説を聞く限り、世界各地の教区で相談体制を整えなければならんということだな」
「ええ。しかも、能力者本人からの信仰上の相談だけでなく、家族間のトラブルや、秘匿情報の管理、さらには本当に危険な事案が起きた際の行政機関との連携まで含まれることになるでしょう」
「……うちの教区、今でも司祭不足で日曜日のミサを回るだけで手一杯なんだが、明日から何百件も『うちの息子が空を飛んだんですが悪魔憑きでしょうか』『隣の信徒が魔法使いかもしれません』という相談が押し寄せてくるんだぞ。窓口の担当者をどうやって増やすんだ?」
「まずは教区の法務担当とカウンセラーを総動員するしかありませんね。……それから、能力者の個人情報が教会の名簿から絶対に漏れないよう、データ管理のセキュリティ規定も今日中に作り直さなければなりません」
「神学校と現職司祭の研修カリキュラムも全面改訂だな……」
「…………」
「…………大変なことになりましたね、これ」
神聖な感動のすぐ隣で、バチカンという巨大組織の中間管理職たちは、日本の八咫烏やアメリカのMAJESTIC-12の官僚たちとまったく同じ種類の「実務の津波」を予感して、揃って深いため息を吐いていた。
そして午前十一時十五分。
演説終了から約四十分後には、バチカン国務省および教理省の通信システムから、全世界の約三千の教区と各国司教協議会へ向けて、教皇の署名が入った公式文書――『特殊な能力を持つ人々への司牧的対応に関する特別指針』が一斉に送信された。
全八項目からなるその実務指針には、秘密組織の内部情報などは一切記されていなかったが、現場の神父たちが今日この瞬間から迷わずに動くための、極めて明確なルールが定められていた。
一、異能・超能力・魔術を扱えるという事実のみを理由として、本人を悪魔憑きや信仰の敵と断定してはならない。
二、能力の有無だけを理由に、洗礼を受けた者の信徒としての立場や秘跡への参加を否定してはならない。
三、特殊な能力を持つという理由で、洗礼を希望する人間を一律に拒絶してはならない。
四、異能者本人やその家族に対する暴力、脅迫、強制的な宗教儀礼、私的な制裁を断固として容認しない。
五、本人の同意なく能力に関する情報を第三者へ公開してはならない。告解の秘密と同様に、相談の秘密と生活上の安全を厳格に保護する。
六、能力行使に伴う現実の物理的危険については、宗教的な決めつけではなく、安全確保を最優先とし、適切な公的専門機関や警察・医療と連携する。
七、奇跡の認定や悪魔祓い(エクソシズム)など教会固有の判断を要する事項は、個人の独断を禁じ、司教および教皇庁の正式な権限と厳格な手続きに従う。
八、各教区に専門の相談窓口担当者を配置し、聖職者への必要な研修を速やかに進めること。
教皇の慈愛に満ちた言葉は、この冷徹なまでに具体的な八つの行政・教会法上のルールと対になることで初めて、世界中の現場を動かす現実の「力」となって海を渡っていったのである。
*
ローマ時間の午前十一時二十分。八時間の時差がある日本では、同じ十一月三日・火曜日(文化の日の祝日)の午後七時二十分にあたっていた。
東京都内・四谷にあるカトリック教会の静かな敷地。
昨日の夜、異能格闘技リーグ『PCL』の初公開アーカイブ映像で日本中が盛り上がっていたのとはまた違う、落ち着いた夕べの祈りの時間が流れていた。
聖堂の脇にある司祭館の応接室では、この教会を預かる五十代の佐伯神父が、先ほどまで生中継されていたローマ教皇の特別演説を思い返しながら、届いたばかりの八項目の特別指針をプリントアウトしていた。
コンコン、と控えめなノックの音がして、応接室の扉が開いた。
入ってきたのは、この教会に十年以上通っている信徒の母親・結城(ゆうき)と、その娘で中学二年生になる十四歳の少女・美咲(みさき)だった。淡い色のカーディガンを羽織った美咲は、緊張した面持ちで母親の後ろに隠れるように立っている。
「佐伯神父様、お忙しいところお時間をいただいてすみません」
母親が深く頭を下げ、美咲と一緒にソファに腰を下ろした。
「いいえ、お待ちしていましたよ。先ほどの教皇様の声明は、ロビーのモニターで見ていましたか?」
「……はい」
美咲が小さな声で頷いた。
先週の金曜日に日本政府が「国内に三百四十二万人、三十六人に一人」という発表をした翌日の土曜日。美咲は勇気を出して、両親に一つの秘密を打ち明けていた。
彼女には、小学校の高学年の頃から、「自分が手で触れている切り花や鉢植えの植物のしおれた葉を、ほんの少しだけ元の瑞々しい状態に元気にする」という、ごくささやかで誰にも害のない異能があったのだ。その力はごく小さく、日常生活にも何の支障もなかったが、敬虔なカトリックの家庭で育ち、幼い頃にこの教会で洗礼を受けて日曜学校のリーダーも務めていた美咲にとっては、「神様ではない自分が、植物の命に干渉するような不思議な力を持っていること」が、何か恐ろしい罪なのではないかとずっと一人で悩んでいたのだった。
「……神父様」
母親が、娘の膝の上の手をそっと撫でながら、不安そうに尋ねた。
「先ほど、教皇様のお話を聞いて、私も胸がいっぱいになりました。……ですが、改めて日本のこの教会でも確認させてください。普通の人にはないこんな不思議な力を持っている美咲は、これからも今まで通り、日曜日のミサに来て、お友達と一緒に祈ってもいいのでしょうか?」
佐伯神父は、手元に置いていたバチカンからの指針の紙をそっと脇へ置き、眼鏡の奥の目を細めて、母親ではなく中学二年生の美咲の目を真っ直ぐに見た。
「美咲ちゃん。あなたがその力で、お家の枯れかけたお花を元気にしてあげた時、お父さんやお母さんはどんな顔をしていましたか?」
「……え? あの、すごく綺麗ねって、喜んでくれました」
「そうですね。私も、あなたが日曜学校で小さい子供たちの面倒をいつも優しく見てくれているのを、何年も前からよく知っていますよ」
神父は穏やかに微笑み、はっきりと言った。
「教皇様が今日おっしゃった通りです。お花を少し元気にできるという素敵な個性があったからといって、美咲ちゃんが私たちが大好きな美咲ちゃんでなくなるわけではありません。これまでここでみんなと一緒に祈り、聖歌を歌っていたでしょう? これからも、一ミリも変わりません。日曜日の朝、いつもの席で待っていますよ」
美咲の張り詰めていた肩からすっと力が抜け、その大きな瞳に安堵の涙が浮かんだ。
「……ほんとうに? 私、今まで通りここに来ていいんですか?」
「ええ、もちろんです。ここはあなたの教会なのですから。誰にもそのお花の力のことを無理に話す必要もありませんし、もし学校や周囲のことで不安なことがあれば、いつでも私に相談に来なさい」
「……はいっ! ありがとうございます、神父様!」
笑顔を取り戻した母娘が帰っていったあと、佐伯神父はデスクに戻り、鳴り始めた電話の受話器を取った。
東京大司教区の本部や、近隣の教会の司祭たちから、「バチカンからの8項目の指針に基づき、日本の『342万人』という状況に合わせた教区合同の相談窓口とプライバシー保護規定を今夜中に策定する」という実務連絡が次々と入ってくる。
「……教義の解釈だけでなく、個人情報の管理から行政窓口との連携まで、これは私たち神父も、今まで以上に社会の仕組みを勉強しなければなりませんね」
佐伯神父は小さく苦笑しながらも、先ほどの少女の笑顔を思い出し、力強い手つきでメモ帳を開いた。
*
その少しあと、現地時間の午後六時二十五分。フィリピン中部の地方都市・イロイロの小さなカトリック教会。
熱帯の夕暮れの風が吹き抜ける開放的な礼拝堂には、百人ほどの地元の信徒たちが集まり、祭壇の横に設置された大型テレビで、タガログ語の字幕がつけられた教皇の特別演説の録画放送を食い入るように見つめていた。
長椅子の後ろの端の席には、作業着姿の父親・ロドリゴ(四十歳)と、母親のマリア、そして真ん中に挟まれて小さく肩をすくめている十一歳の息子・カルロスが座っていた。
カルロスは、三日前の夜に家族の前で、自分が緊張したり驚いたりすると「自分の周囲一メートル以内にあるスプーンや小石などの軽い物体が、数センチだけ宙に浮いて揺れる」という念動系の異能を発現させてしまった少年だった。
それを見た瞬間、敬虔だが昔気質の信心深さを持っていた父親のロドリゴは、驚きと恐怖のあまり「なんてことだ、カルロスに悪霊か悪魔が取り憑いたんじゃないのか!」と叫んでしまい、それを聞きつけた近所の親戚たちも「早く神父様に悪魔祓いの祈祷をしてもらわないと家に災いが起きるぞ!」と騒ぎ立てた。
母親のマリアだけは「カルロスは何も悪いことはしていない!」と必死に息子を庇ったが、一番大好きだった父親から怯えた目で見られ、「悪魔」という言葉を向けられた十一歳のカルロスは、深く傷ついて言葉を失い、今日この礼拝堂へ連れてこられる時も、まるで裁きの場へ引き出される罪人のようにガタガタと震えていたのである。
礼拝堂の前方でテレビの放送が終わり、地元の老神父がマイクを持って祭壇の前へと進み出た。
「――皆さん、今、ローマの教皇聖下の言葉を聞きましたね」
老神父は、礼拝堂の信徒たち――特に親戚一同で固まって座っているロドリゴたちの席を真っ直ぐに見つめて、厳かに言った。
「教皇聖下は、全世界の教会に向けて明確に宣言されました。『自分には理解できない不思議な力を持っているというだけで、その人を悪魔に取り憑かれた者だと決めつけてはならない。あなたの子供が不思議な力を持つようになったからといって、その子があなたの愛する子供であるという事実まで変わるのか』と!
もしこの町の中で、神から授かった無垢な子供に対して『悪魔だ』などと心ない言葉を投げつけ、恐怖で傷つけようとする者がいるならば、私自身がこの教会の名においてそれを許しません!」
老神父の雷のような言葉に、騒ぎ立てていた親戚たちが気まずそうに下を向いた。
そして、長椅子に座っていた父親のロドリゴは、まるで自分の心臓を直接槌で打たれたかのように、顔を歪めて固まっていた。
教皇が演説の中で語った言葉――『どうかまず、その人の顔を見てください。昨日まであなたがよく知っていた、その人の顔を』。
ロドリゴはゆっくりと首を回し、自分のすぐ隣で、小さな膝を抱えるようにしてうつむいている息子カルロスの横顔を見た。
そこにあるのは、恐ろしい悪魔の顔などではなかった。赤ん坊の頃に自分が徹夜で抱っこしてあやし、昨日まで一緒にバスケットボールをして笑い合っていた、何よりも大切な自分の息子の、怯えて泣きそうな小さな顔だった。
集会が終わり、信徒たちがざわめきながら外へ出始めたあと、ロドリゴは老神父の前へ歩み出て、帽子を脱いで深く頭を下げた。
「……神父様。私は、なんという愚かな父親だったでしょうか。突然スプーンが浮いたのを見て、頭が真っ白になって……一番守ってやらなければいけないはずの自分の息子が、何か恐ろしい化け物に変わってしまったのではないかと、私自身が怖がってしまったのです」
老神父は、ロドリゴのゴツゴツした肩に静かに手を置いた。
「突然のことで驚いたのは、人間として無理もないことだよ、ロドリゴ。だが、誤りに気づいたのなら、今あなたが言葉を届けるべき相手は、私ではないはずだ」
ロドリゴは唇を噛みしめて頷くと、聖堂の隅で母親の手を握って立っていたカルロスの前へと歩み寄り、汚れた作業ズボンの両膝を石の床にそのままついて、息子の目線と同じ高さになった。
「……カルロス」
少年がビクッとして顔を上げる。
ロドリゴの浅黒い頬を、大粒の涙がポロポロと伝い落ちた。
「ごめんな、カルロス……。お父さんが悪かった。お前が何も悪いことをしていないのに、お父さんが勝手に怖がって、お前をひとりぼっちにして怖がらせてしまった……。本当に、ごめんな」
「……お父さん……?」
「スプーンが浮こうが、何が起きようが、お前は俺と母さんの世界に一人だけの自慢の息子だ。もう二度と、誰にもお前のことを悪魔だなんて言わせない。お父さんが絶対に守るからな」
カルロスの大きな瞳から、堰を切ったように涙があふれ出した。
「お父さん……っ、僕、怖かったよお……っ!」
泣きじゃくりながら飛び込んできた小さな身体を、ロドリゴは自分の太い両腕で、骨が軋むほど力いっぱい抱きしめた。その瞬間、カルロスのポケットに入っていた小さなコインが一枚、ふわりと数センチだけ宙に浮いてキラリと光ったが、ロドリゴもマリアも、もう誰もそれに怯えることはなく、ただ温かな涙と笑顔で少年を包み込んでいた。
*
一方、ローマと同じ中央ヨーロッパ時間の午後零時三十分。ポーランド南部・クラクフ近郊の古い石造りの小教区教会。
ここでは、信徒ではなく、教会を預かる「聖職者自身」が、自らの判断の誤りと向き合っていた。
この教会の主任司祭である五十代のヤン神父は、五日前――日本政府が異能の実在を公表した翌日に、幼い頃からこの教会で侍者(ミサの手伝い)を務めてくれていた二十一歳の大学生、トマシュから涙ながらの告白を受けていた。
トマシュは、自分が数ヶ月前から「遠く離れた場所の音を風に乗せて聞き取る」という聴覚系の異能に目覚めていたことを打ち明け、「神父様、僕はこれまで通り日曜日のミサで奉仕を続けてもいいのでしょうか」と尋ねたのだ。
その時、ヤン神父は彼を悪魔扱いしたわけではなかった。ただ、前例のない事態にどう対応してよいか分からず、保守的な慎重さから、こう答えてしまったのである。
『トマシュ、君を疑うわけではないが、まだバチカンからも司教館からも、そのような能力を持つ者に関する公式な教義上の見解が出ていない。信徒たちの間に動揺が広がるといけないから、正式な指針が出るまでの間、しばらく教会の奉仕活動やミサへの参加は控えて、自宅で静かに祈っていなさい』と。
追放するつもりはなかった。「規則が決まるまで待ってくれ」という、組織の人間として無難な先送りをしたつもりだった。
だが、さっき教皇の特別演説――『異能を持つことを打ち明けた人々を、どうか最初から恐れないでください』『能力を持つことを理由に、その人を教会から排除してはならない』という痛烈な言葉を聞いた瞬間、ヤン神父は自分がどれほど冷酷な拒絶の刃をあの青年の胸に突き立ててしまったのかを悟り、愕然としたのだ。
「……私は、彼を恐れてなどいないと自分に言い訳をしていた。だが実際には、自分の教区で問題が起きることから逃げるために、一番助けを求めていた若者を教会の扉の外へ締め出してしまったのだ……」
ヤン神父は演説が終わるなり、自分でトマシュの携帯電話へ連絡を入れ、「どうしても直接話したいことがある」と教会へ来てもらうよう頼んだ。
そして午後零時半。冬の気配が混じる冷たい風の中を、コートの襟を立てたトマシュが、不安そうに聖堂の入り口へと入ってきた。
「……ヤン神父様。お呼びでしょうか。あの、僕の能力のことで、何か新しい処分が決まったのでしょうか……」
入り口の近くで足を止め、これ以上中へ入ってはいけないかのように遠慮がちに立つ青年を見て、ヤン神父の胸が強く痛んだ。
ヤン神父は祭壇の前から大股で歩み寄ると、二十一歳の青年を前にして、自らの白髪交じりの頭を深く、直角になるほど下げた。
「――トマシュ。五日前の私の言葉を、どうか許してほしい。本当に申し訳なかった」
「……えっ!? し、神父様、頭を上げてください、どうして神父様が謝られるのですか!?」
慌てるトマシュの前で、ヤン神父は顔を上げ、真っ直ぐに青年の目を見て言った。
「私は、自分の無知と臆病さのせいで、勇気を出して相談してくれた君の話をきちんと聞こうともせず、『指針がないから』という口実で君をこの教会から遠ざけてしまった。牧者として、これ以上恥ずべきことはない。君はあの時、どんなにか心細く、拒絶されたと感じたことだろう」
「そ、そんな……僕はただ、神父様にご迷惑をおかけしたくなくて……」
「迷惑なわけがあるか。君は七歳の頃から、雨の日も雪の日もこの教会に来て祭壇のロウソクに火を灯してくれた、私たちの大切な家族だ」
ヤン神父は、トマシュの冷えた両手を自分の温かい手でしっかりと握りしめた。
「正直に言おう、トマシュ。私はまだ、君の持つ『遠くの音を聞く力』というのがどういう仕組みなのか、詳しいことは何も知らない。これから教皇庁の指針を読んで、私自身が一から勉強しなければならないことばかりだ。
だが、これだけは今すぐ言える。まず、君がこれまで一人で何に悩み、どんな風にその力と向き合ってきたのか、この一番前の席に座って、私にゆっくり聞かせてくれないか? そして今度の日曜日には、またいつも通り、私の隣でミサの鐘を鳴らしてほしいんだ」
トマシュの張り詰めていた顔がくしゃりと歪み、やがてその口元に、五日ぶりの明るい笑顔が戻った。
「……はい、ヤン神父様! 僕の方こそ、何でもお話しします!」
*
さらに時間は進み、大西洋を越えた南米と北米でも、朝の光とともに教皇の声明と八項目の特別指針が各教区へと届き始めていた。
現地時間・午前九時(ローマ時間・午後一時)。ブラジル最大の都市・サンパウロの下町にある教区教会。
ここの司祭館の奥の部屋には、冒頭で教皇庁への緊急報告にも上がっていた三十四歳の看護師の女性、クララが、疲れ果てて青ざめた顔で身を寄せていた。
彼女が持つ異能は、患部に手を当てて祈るように集中することで、人間の自然治癒力を一時的に数倍に高め、切り傷の止血や炎症・痛みの緩和を促進する『治癒補助』の能力だった。
もちろん、それは万能の魔法ではない。折れた骨を一瞬で繋ぐこともできなければ、進行した末期がんや重い臓器疾患を消すこともできないし、ましてや死者を蘇らせることなど絶対に不可能だ。さらに、一度能力を使えばクララ自身が激しい貧血と疲労に襲われるため、これまでは勤務先の病院でも誰にも気づかれないよう、本当に危険な救急患者の処置の時にだけ、こっそりと医療行為の補助として使うにとどめていた。
ところが三日前、異能のニュースを見た彼女の叔父が、悪気なく近所の人々に「実はうちのクララには、手を当てるだけで病気を治す神様の力があるんだ!」と言いふらしてしまったのである。
翌朝から、クララのアパートの前は地獄になった。
一部の住民は「魔女の呪いだ」と白い目を向けたが、それ以上に彼女を追い詰めたのは、末期の病を抱えた家族を連れた人々や、交通事故で歩けなくなった子供の親たちが、何十人もアパートの前に座り込んで「クララ様、あなたは神が遣わされた奇跡の聖女だ! どうか私の母に手を当ててガンを消してください!」と泣きながら懇願してきたことだった。
クララが「私にはそんな病気は治せません、病院の先生の治療を受けてください!」と涙ながらに説明して断ると、今度はその家族たちが逆上し、「神様から無償で授かった奇跡の力を、どうして出し惜しみして見殺しにするんだ! 冷血漢め、それでもクリスチャンか!」と罵声を浴びせてきたのだ。
「……マテウス神父様。私は、どうすればいいのでしょうか……」
司祭館の部屋で、クララは震える自分の両手を見つめながら、老練なマテウス神父に訴えた。
「私には、みんなが求めるような奇跡なんて起こせません。ただ少しだけ傷の痛みを和らげて、治りを早くすることしかできない、ちっぽけな不器用な人間なんです。それなのに、みんなは私を聖女だと言って拝み、治せないと分かると、私が悪魔のように意地悪をして力を隠しているのだと責めるんです……。こんな力、なければよかった……!」
マテウス神父は、泣き崩れるクララの背中を静かに見守り、彼女が涙を吐き出し終えるまで一言も遮らずに耳を傾けていた。
そして、テーブルの上に置かれたバチカンからの特別指針の文書に一度目を落としてから、穏やかで、しかし岩のように揺るぎない声でクララに語りかけた。
「クララ。顔を上げなさい。あなたはこれまで、看護師として、そして一人の人間として、自分の身体が貧血で倒れそうになるのも顧みず、目の前の患者さんの痛みを少しでも減らそうと一生懸命に働いてきたね。主は、あなたのその献身をすべて見ておられるよ」
「……神父様……」
「いいかい、クララ。よく聞きなさい。あなたが『誰かを助けたいと願う優しい心を持っていること』と、『あなたが世界中のすべての病人を治さなければならないこと』は、まったく違うんだよ」
クララがハッとして涙の滲んだ顔を上げた。
マテウス神父は、優しく、しかしきっぱりと言い切った。
「あなたは、神様ではないんだよ、クララ。ただの人間だ。
今日、ローマの教皇聖下も全世界に向けてこう仰った。『現象の大きさや不思議な力があることだけで、その人の神聖さを判断してはならない』とね。
あなたの力は、たとえば美しい声で歌える人や、手先が器用で上手な手術ができる外科医の先生と同じ、一つの才能(タレント)に過ぎない。外科医の先生だって、二十四時間眠らずに世界中のすべての患者を手術することなどできないし、治せない病気だってたくさんある。それを断ったからといって、誰もそのお医者さんを罪人とは呼ばないだろう?」
「……はい……」
「あなたには、あなた自身の健康と、平穏な生活を守る権利がある。他人が勝手にあなたを『聖女』の台座に祭り上げ、あなたの人生をすり減らすことを要求する権利など、誰にもないのだよ。これ以上、あなたが自分を責めて何もかも引き受ける必要はまったくない」
マテウス神父は立ち上がり、力強く頷いた。
「外の信徒たちや住民には、私から教皇庁の公式指針を示して、はっきりと説明する。『クララさんは奇跡を起こす聖女ではなく、一人の普通の信徒であり、本人の同意なく能力の行使を強要したり自宅へ押しかけたりする行為は、教会に対する重大な冒涜および違法行為として警察に通報する』とな。……だから今夜は、ここでゆっくり眠りなさい」
クララは静かに頷き、震えていた自分の両手を、ようやく膝の上へ下ろした。
*
それから二時間後、現地時間の午前九時を迎えたアメリカ合衆国・ニューヨーク(米東部標準時。十一月一日より冬時間へ移行)。
四日前の金曜日に、まさにこの街の頭上で全長四十五メートルのドラゴンと百七十八枚の魔法陣が激突したマンハッタンの五番街では、ゴシック様式の壮麗な尖塔を持つセント・パトリック大聖堂の周辺にも、朝から多くの信徒や市民たちが集まっていた。
アメリカでは金曜日の夜にウォーレン大統領が「能力者の実在」を政治的に公認し、そして今朝、ローマ教皇が宗教的な立場から「能力者も魔術を使う者も、人間である限り信徒として受け入れる」と宣言した。
車輪の両輪のようなこの二つの歴史的声明を受け、大聖堂のロビーや相談室では、アメリカの信徒たちらしい率直で、時に少しユーモラスな質問が神父たちにぶつけられていた。
「――オコーナー神父様、率直にお聞きしたいのですが!」
朝のミサを終えた後、ロビーで囲まれた中年のオコーナー神父に向かって、地元のビジネスマン風の男性信徒が身を乗り出して尋ねた。
「金曜日にこの上の空でドラゴンを倒した、あの『Hoodie Wizard(パーカーの魔法使い)』のことです! 彼は空中に百七十八枚もの光る魔法陣を出して戦いましたが、あれはカトリック教会から見て、街を救うために神が遣わされた『天使や神の使い』だったのでしょうか? それとも、やはり禁じられた魔術を使った異端者になるのでしょうか!?」
周囲の信徒たちも「そうだ、そこが一番気になっていたんだ!」とばかりに耳をそばだてる。
オコーナー神父は、困ったように眉を下げて苦笑しながら、両手を広げてみせた。
「皆さん、少し落ち着いてください。まず第一に、私たちはあの灰色のパーカーを着た青年について、ウォーレン大統領が『機密だ』と仰った通り、何一つ個人情報を知りません。彼の名前も、どこの教会に通っているのかも、そもそも彼がカトリック信徒なのかプロテスタントなのか、あるいは無宗教なのかすら分からないのですよ」
「……まあ、確かにそうですね」
「ですから、彼があの力でニューヨークの何百万人もの命を救ってくれた素晴らしい青年であることは間違いありませんが、だからといって、私たちが勝手に彼を『神の使い(天使)だ』と認定するわけにはいきませんし、逆に、人を守るために力を使った彼を『悪魔の異端者だ』と非難する理由もどこにもありません。
今日の教皇聖下の声明の通り、もしあの青年が一人の人間であり、いつの日かこのセント・パトリック大聖堂にふらりとやって来て『静かに祈りたい』『洗礼を受けたい』と願うのであれば、たとえ彼が魔法使いであっても、私たちは喜んで彼を隣の席へ迎え入れますよ」
神父の明快な答えに、信徒たちが「なるほどなあ」と感心して頷いた。
すると、隣にいた上品な老婦人の信徒が、少し想像を膨らませたように目を丸くして言った。
「……でも神父様。もし本当にあの『Hoodie Wizard』が日曜日のミサにいらしたら、大聖堂の中がサインや写真を求める人たちで大騒ぎになってしまうのではありませんか? それに、あの方、やはりあの灰色のパーカー姿でいらっしゃるのかしら?」
オコーナー神父は、真面目な顔で顎に手を当てた。
「……うーん、そこは確かに司牧上の大問題ですね。まあ、教会は神に祈る場所ですから、どんな服装で来られても構いませんが、できればフードだけは脱いでいただきたいところです」
「もしミサの最中に、うっかりあの光る魔法陣が百七十八枚も聖堂の中に出たらどうしましょう?」
「その時は、大司教様にお願いして『大聖堂のステンドグラスが割れるから、教会の中では魔法陣をゼロ枚にして静かに座っていなさい』と厳重注意していただくしかありませんね」
周囲の信徒たちから、どっと明るい笑い声が上がった。
オコーナー神父も一緒に笑い、それから穏やかな声で付け加えた。
「……まあ、教会の中では力をひけらかさずに静かに祈り、外へ出たら隣人のために善い行いをする。それは、百七十八枚の魔法陣が出せる大魔法使いであっても、何の能力もない私たちであっても、すべての信徒にとってまったく同じルールですからね」
そこへ、ニュージャージー州側から通勤してきているという女性信徒が、ふと思い出したように手を挙げて尋ねた。
「あ、神父様、もう一つだけ! 土曜日のハロウィンの夜に、うちの近くのニュージャージー州ウィロークリークの住宅街で、曇り空だったのに五分間だけ、子供たちの頭上に『満天の天の川と流れ星』が現れたってニュースになっていましたよね? あれも、神様が起こされた奇跡だったのでしょうか?」
オコーナー神父は、土曜日の夜にSNSで見たあの美しい星空の動画を思い出し、優しい目をして頷いた。
「ああ、あの動画なら私も見ましたよ。宇宙飛行士の仮装をした小さな女の子が飛び跳ねて喜んでいて、本当に美しい夜空でしたね」
「ええ! 子供たちが本当に幸せそうで……」
「ただ、教皇聖下も今日お話しされた通り、何が起きたのか詳しい仕組みも分からないうちに、私たち教会が何でもかんでも『これは神の奇跡だ』と公式認定する必要はないのですよ。もしかしたら、どこかに住んでいる心の優しい能力者か魔法使いの方が、子供たちへのハロウィンプレゼントとして見せてくれたのかもしれません。
たとえそれが神の直接の奇跡ではなく、一人の人間が使った魔法だったとしても――『子供たちを喜ばせたい』と思って誰かがそっと差し出したその温かい善意そのものの中に、神の愛が宿っているのだと、私は思いますよ」
午前十時。
同じアメリカのワシントンD.C.にある『アメリカ合衆国カトリック司教協議会(USCCB)』の本部ビルでも、教皇庁から届いた特別指針の英訳版を全米の教区へ通達するための実務会議が急ピッチで進められていた。
「――全米百九十以上の教区への公式指針の配信、完了しました。特に第7項の『正規の手続きを経ない悪魔祓い(エクソシズム)の厳禁』および第6項の『危険事案における公的専門機関との連携』については、赤字で強調して通達しています」
事務局長の司教が報告すると、議長を務める大司教が深く頷いた。
「うむ。金曜日のウォーレン大統領の演説によって法的な人権保護の枠組みが示され、そして今日の教皇聖下の声明によって、信仰および倫理上の受け入れ方針が完全に確立された。
特にこのアメリカでは、テレビ伝道師や一部の過激な独立系グループが、異能者を悪魔と結びつけて扇動するリスクが依然として高い。各教区の司牧窓口には、そうした言説に惑わされて傷ついた能力者や家族を保護するための専門カウンセラーと、法執行機関およびMAJESTIC-12の地域連絡官へつなぐホットラインを今週中に必ず設置するよう徹底してくれ」
「承知いたしました」
政治と宗教。超大国を支える二つの巨大な柱が、それぞれの言葉と実務をもって、新しい世界の秩序を必死に支え始めていた。
*
ローマ時間・午後四時三十分。
再び舞台はイタリアへと戻る。ローマ中心部から少し離れた、石畳の坂道とオレンジ色の瓦屋根が並ぶ郊外の古い町・フラスカーティ。
そこにある小さなサン・ロッコ教会の前庭で、長年この町の教会に通っている六十八歳の未亡人、アンナ・マリアは、黒いショールを肩にかけ、買い物袋を提げたまま、教会の石段のところで足を止めていた。
石段の下の掲示板の前には、同じ町内のアパートに住む二十六歳の青年、ロレンツォが立ち、教会に貼り出されたばかりの『教皇聖下の特別声明(イタリア語全文)』の紙をじっと読んでいた。
ロレンツォは、町の小さな家具工房で働く真面目で無口な大工の青年だった。重い木材を運ぶのを手伝ってくれたり、アンナ・マリアが教会の階段を上る時にいつもそっと手を貸してくれたりする、町のみんなから好かれている若者だった。
だが、三日前の土曜日のことだ。
工房の作業中に倒れてきた重いオーク材の梁(はり)から同僚を庇った際、ロレンツォは咄嗟に「手を触れずに空気の壁で木材を押し止める」という自分の異能を人前で使ってしまったのである。
同僚は無傷で助かったものの、その話はすぐに小さな町中に広まった。ロレンツォ自身も隠すのをやめ、「実は昔から、少しだけ離れた物を押さえる力があったんです」と正直に打ち明けた。
その話を聞いた時、アンナ・マリアは彼に悪口を言ったわけではなかった。
ただ――どうしても、怖くなってしまったのだ。
昨日までただの優しい大工の青年だと思っていたロレンツォが、目に見えない力で重い木材を弾き飛ばせる「得体の知れない別の存在」であるかのように感じられ、おとといの日曜日に道端で彼とすれ違った時、アンナ・マリアは思わず目を逸らし、挨拶もそこそこに早足で通り過ぎてしまったのである。その時、ロレンツォが浮かべた寂しそうで傷ついた表情が、アンナ・マリアの胸にずっと棘のように刺さっていた。
そして今日、午前十時からの教皇の演説を、アンナ・マリアは自宅のラジオで最初から最後まで聞いた。
『もし、あなたの隣人が手を触れずに物を動かせる人間だったと知ったなら、あなたはその人を恐れ、遠ざけるのですか?』『どうかまず、その人の顔を見てください。その人と交わした言葉と、共に過ごした時間を思い出してください』。
まるで教皇が、バチカンの丘の上から自分一人に向けて静かに語りかけているかのように思えて、アンナ・マリアは居ても立ってもいられず、この夕方の教会へと歩いてきたのだった。
掲示板の前で立ち尽くしているロレンツォの背中を見つめ、アンナ・マリアは深く息を吸い込むと、石段を降りて彼のもとへと歩み寄った。
「……ロレンツォ。今日は、ここに来ていたのね」
声をかけられたロレンツォが、ビクッとして振り返った。
アンナ・マリアの顔を見た瞬間、彼は昨日道端で避けられたことを思い出したのか、気まずそうに視線を下げて一歩後ろへ下がった。
「あ……アンナ・マリアさん。こんにちは。すみません、今すぐ帰るところですので……」
「待って、行かないでちょうだい」
アンナ・マリアは呼び止め、ロレンツォのすぐ目の前まで歩いていった。
「今朝の、教皇様のお話は聞いた?」
「……ええ。工房のラジオで、みんなと一緒に聞いていました」
数秒間の静かな沈黙が落ち、夕暮れの鐘の音が遠くで一つ鳴った。
アンナ・マリアは自分の胸の前でショールの端を握りしめ、二十六歳の青年に向かって、ためらいがちに、しかし誠実に頭を下げた。
「……ロレンツォ。おとといの日曜日、道であなたに会った時……私、あなたのことを少し怖がって、目を逸らして逃げるように歩いていってしまったわね」
ロレンツォは何も言えず、ただ黙って彼女を見つめている。
「本当に、ごめんなさいね。ニュースで東京やアメリカのすごい映像を見たばかりだったから、急によく分からない大きな力がすぐ近くにあると思って、頭が混乱してしまって……」
「……いいえ、アンナ・マリアさん。謝らないでください。僕の方こそ、今まで黙っていて驚かせてしまって……」
「でもね、今日教皇様のお話を聞いていて、自分がなんて馬鹿なことをしたんだろうって恥ずかしくなったの」
アンナ・マリアは顔を上げ、ロレンツォのゴツゴツした職人の手と、その優しい目を見つめた。
「だってあなたは、もう五年前からずっとこの教会に通っていたロレンツォじゃないの。おととしの冬、階段が凍っていた時には私の腕を支えて家まで送ってくれたし、去年のクリスマスのミサの前には、壊れていた教会の古い長椅子を、休みの日に一人で全部綺麗に修理してくれたわよね」
「……そんなこと、まだ覚えていてくださったんですか」
「忘れるわけがないでしょう。目に見えない力があるかどうかなんて関係ないわ。あなたが、工房で仲間を守るためにその力を使った、私がよく知っているあの優しいロレンツォのままなのに、どうして私があなたを怖がる必要があったのかしらね」
ロレンツォの目元が、夕陽の光の中でかすかに潤んだ。
アンナ・マリアは微笑み、自分の足元に置いていた、市場で買ったジャガイモやオレンジが入った少し重そうな布の買い物袋を持ち直した。
それを見たロレンツォが、いつものように一歩前へ出て、少し照れくさそうに言った。
「……あの、アンナ・マリアさん。よかったら、その買い物袋、お家の前まで僕が持ちますよ」
アンナ・マリアの目尻に、深い皺が寄った。
「……ええ。いつもみたいに、お願いできるかしら」
「はいっ、喜んで!」
ロレンツォは異能など使わず、自分の鍛えた右手でしっかりと買い物袋を受け取り、年配の女性の歩調に合わせてゆっくりと石畳の坂道を並んで歩き出した。
十メートルほど歩いたところで、ロレンツォは何か決心したように前を向き、口を開きかけた。
「……あの、アンナ・マリアさん。僕の持ってる『力』のことなんですけど、実はそんなに凄いものじゃなくて、どのくらいの重さまでなら動かせるかというと――」
一生懸命に自分の能力のスペックを説明して安心させようとする青年の言葉を、アンナ・マリアは穏やかに首を横に振って遮った。
「……急いで説明しなくてもいいわよ、ロレンツォ」
「……え?」
「だって、私はあなたの力の検査官じゃないもの。あなたがいつか、自分から楽しく話したくなった時に、お茶でも飲みながら聞かせてちょうだい。それよりも、今度うちの台所の古い木の棚が少しガタついてきたから、時間がある時にまた大工のロレンツォとして見に来てくれる?」
ロレンツォは一瞬だけきょとんとし、それから今日一番の晴れやかな笑顔を浮かべて、力強く頷いた。
「……はい! 今度の土曜日に、道具箱を持って伺いますね!」
石畳の坂道には、二人分のゆっくりとした足音と、買い物袋の中でオレンジが触れ合う小さな音だけが響いていた。
*
そして、十一月三日の夜が世界各地を順番に包んでいくにつれ、バチカンから放たれた石は、地球上のあらゆる場所で確かな波紋となって広がり続けていた。
メキシコシティの大司教館では、国内の過激なカルト集団による「異能者狩り」を未然に防ぐため、司教たちが警察および内務省の担当官と合同の緊急対策会議を立ち上げていた。
パリのカトリック学院では、神学者と科学者たちが集まり、「異能や超常現象の実在を踏まえた自然神学と奇跡論」についての共同研究プロジェクトの準備を始めていた。
ドイツのケルン大司教区では、教区内の信徒から寄せられる能力相談の記録が外部へ絶対に漏洩しないよう、告解の秘密と同等の最高レベルの暗号化データベースへの移行作業が進められていた。
フィリピンのイロイロでは、ロドリゴがカルロスの手をしっかりと握り、集会を終えた教会の石段を、息子と並んで降りていた。
日本の東京では、夕食の食卓で中学二年生の美咲が「今度の日曜日、教会の花壇の手入れをするのが楽しみだな」と母親に笑いかけていた。
ポーランドのクラクフでは、聖堂の最前列でヤン神父と青年トマシュが温かい紅茶を飲みながら静かに語り合い、ブラジルのサンパウロでは、司祭館の守られた部屋で看護師のクララが、何日ぶりかの穏やかな表情でロザリオを手に祈りを捧げていた。
各地の教会では、まだ聞き慣れない異能の相談が続いていた。窓口の電話は鳴り、司祭たちは届いたばかりの指針を手に、信徒たちの話へ耳を傾けていた。
礼拝堂の扉を開ける人々も、迎える聖職者たちも、今日の言葉をそれぞれの暮らしの中で確かめ始めていた。
*
午後九時ちょうど。バチカン市国・使徒宮殿三階、教皇執務室。
長く重かった一日のすべての公務を終えた教皇は、分厚い絨毯が敷かれた静かな執務室のデスクに戻り、控えめな読書灯の明かりの下で、国務長官が持参した本日最後の報告書に目を通していた。
「――聖下。本日の特別声明および司牧指針に対する、世界各国の司教協議会ならびに主要政府からの初期反響を取りまとめました」
国務長官が静かな声で報告する。
「大多数の教区および各国の行政機関からは、パニックと私刑を抑止する極めて重要な声明であったとして、強い歓迎と支持の声が寄せられております。特に、自らが能力者である信徒や、能力を持つ子供を抱える世界中の家族からは、バチカンの広報窓口へ何万通もの感謝のメッセージが届いております」
教皇は老眼鏡の奥で静かに目を細め、小さく頷いた。
「……それは、本当によかった」
「ただ、一方で……一部の伝統主義的なグループや、異能に対して強い恐怖を抱く地域からは、やはり戸惑いや反発の声も上がっております。また、魔術的術式と教義の境界線について、さらに詳細な神学的ガイドラインを求める司教たちからの質問状も多数届いておりますが……いかがいたしましょうか」
「それもまた、当然の反応でしょう」
教皇は少しも動じることなく、穏やかに答えた。
「今日私が三十分お話ししただけで、人間が何千年も抱えてきた未知への恐れがすべて消えてなくなるとは、最初から考えていません。疑問を持つ司教たちとは、これから時間をかけて何度でも対話を重ねていきましょう。
今日という日は、終わりではなく始まりです。本当に大切なのは、私が今日マイクの前で何を語ったかではなく、明日の朝から、世界各地の小さな教会で司祭と信徒たちがどう行動するかですからね」
「……はい、仰る通りでございます。では、私はこれにて失礼いたします。聖下もどうか今夜はゆっくりお休みください」
国務長官が深く一礼して執務室の扉へと向かいかけた、その時だった。
教皇がふとデスクの端のトレイに置かれていた「一通の小さな白い封筒」に目を留め、それを取り上げて長官を呼び止めた。
「ああ、長官。退室される前に、一つだけ確認させてください」
「はい、何でしょうか」
教皇が手にしていたのは、先週の水曜日、日本で異能の存在が公表されたと知ったイタリアの少女が書き、地元の教区を通じて届けられた一通の手紙だった。
罫線の入った子供用の便箋には、まだ幼さの残る十一歳の少女の、一生懸命に丁寧な字で書かれた、しかし涙の跡でインクが少し滲んだ短い文章が綴られていた。
そこには、自分が最近になって不思議な力に目覚めてしまったこと、お父さんとお母さんがとても驚いて怖がっていること、そして最後に、ただ一つの問いかけだけが記されていた。
『教皇様。わたしは、もう教会に行ってはいけないのですか?』
今回の特別声明の原稿を書き上げる際、教皇が何度も読み返し、自分のデスクのすぐ横に置いていた手紙だった。
教皇はその便箋の一文を静かに指先でなぞり、国務長官を見上げて尋ねた。
「……この手紙をくれた少女には、教皇庁からの返事をもう出しましたか?」
国務長官はハッとして姿勢を正し、答えた。
「はい、聖下。本日の声明の全文と合わせて、聖下が直接署名された励ましのお手紙を、現在、現地の教区司祭を通じて少女とご家族のもとへ届けるよう手配を進めております。明日の午前中には、司祭が直接自宅を訪ねて手渡す予定です」
教皇はそれを聞いて、今日一番の深く温かな安堵の微笑みを浮かべた。
「……そうですか。それなら、どうか明日の朝一番に、なるべく早く届けてあげてください」
「承知いたしました」
「……あの子はきっと、今夜もベッドの中で、日曜日の朝が来るのを不安な気持ちで待っているでしょうからね」
国務長官が静かに退出すると、広い執務室には、デスクの上の小さな真鍮のランプの灯りだけが残された。
窓ガラスの向こうには、夜の闇に包まれた静かなサン・ピエトロ広場と、街灯に浮かび上がる白いオベリスクの影が広がっている。
教皇は、先ほどまで読み返していた少女の手紙を、折り目が傷まないように丁寧に元の封筒へと戻した。
自分には、周りの人と違う不思議な力がある。だから、もう神様の家の扉をくぐってはいけないのだろうか――そう尋ねた十一歳の少女。
今日の演説が、世界のどこかで同じように震えている何百万人もの「あの子たち」の不安を、ほんの少しでも和らげることができたならいい。
けれど、バチカンからの言葉だけではまだ半分だ。明日の朝、その少女が教会の石段を上ってきた時に、そこに立つ神父と隣の席の信徒たちが、笑顔で「おはよう」と迎え入れてくれて初めて、今日の言葉は本当の意味で完成するのだ。
教皇はデスクの上に置かれた古い革表紙の聖書へと視線を落とした。
そして、誰もいない静かな部屋で、自らにも言い聞かせるようにぽつりと呟いた。
「……隣人を、自分のように愛しなさい」
何千年もの間、人類が何度も忘れかけ、そのたびに立ち返ってきた、古くて単純な一つの教え。
人間が空を飛び、夜空に魔法で星を描く時代になったからといって、人間が人間を愛し、尊ぶべき理由がただの一つも変わるわけではない。
老いた教皇はデスクの前で静かに目を閉じ、遠い国々で明日も変わらず教会の扉を開こうとしているすべての人々のために、深く長い夜の祈りを捧げた。
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