もしも異能がディスクロージャーされたら? 作:パラレル・ゲーマー
二〇二六年十一月四日、水曜日。午前八時三十分(中国標準時)。
東京・渋谷のスクランブル交差点で二人の能力者が衝突したあの日から、ちょうど一週間が経過した朝だった。
中華人民共和国の首都、北京。
晩秋の冷たく乾いた風が吹き抜ける長安街では、いつもの平日の朝と何ら変わることなく、何車線もの広い道路を埋める乗用車とEVバスの列がゆっくりと流れ、地下鉄の入り口へと向かう通勤客や学生たちが厚手のコートの襟を立てて足早に歩いていた。天安門広場の掲揚台では五星紅旗が朝の光を浴びてはためき、街角の朝食屋からは揚げパン(油条)と温かい豆乳(豆漿)の湯気が白く立ち昇っている。
十四億の人口を抱えるこの巨大な国の表通りは、一見すると、先週から世界中を揺るがしている未曽有の嵐から隔絶されたかのような平穏を保っていた。
だが、その長安街のすぐ北側。赤い高い塀と柳の木々に囲まれた国家権力の中枢――『中南海』の奥深くにある特別会議室では、早朝から国家の根幹に関わる最高機密会議が開かれていた。
重厚な紫檀の円卓を囲んでいるのは、中国共産党総書記・国家主席である劉景衡(りゅう・けいこう)をはじめとする最高指導部のメンバー、ならびに国務院、国家安全部、中央宣伝部のトップたちだった。
部屋の壁面モニターには、ここ一週間の間に東京、ニューヨーク、ワシントン、そして昨日のバチカンで行われた各国の公式発表の映像と、詳細な分析レポートが並べて映し出されている。
「――では、昨日までの国際情勢の推移について、外事弁公室および国家安全部からの最終報告を要約いたします」
会議の冒頭、劉主席に促された国際情勢担当の幹部が、手元のブリーフィング資料を読み上げた。
「発端となりました十月二十八日の日本・渋谷における能力者同士の交戦生中継以降、世界の秘匿体制はドミノ倒しのように崩壊を続けております。
日本政府は同日夜に異能の実在を正式に認め、三十日には国内の能力者が『約三百四十二万人(国民の三十六人に一人)』であると公表いたしました。また一昨日の夜には、日本の異能プロ格闘技リーグが過去の公式試合映像をインターネット上で一般公開し、全世界で数千万回再生されております。
続いてアメリカ合衆国におきましては、十月三十日の白昼、ニューヨーク・マンハッタン上空に全長四十五メートルの巨大ドラゴンが出現。灰色のパーカー姿の組織外の魔法使いが、百七十八枚の攻撃魔法陣を展開して単独でこれを撃破する映像が全世界に生中継されました。同日夜、ウォーレン大統領が全米向け演説を行い、米国内の能力者と特殊機関『MAJESTIC-12』の存在を正式に公認しております。
そして昨日、十一月三日。バチカンにおきましてローマ教皇が特別声明を発表し、カトリック教会も古くから異能や魔術の存在を認識し専門の調査組織を有していたと認めた上で、人間の能力者を信徒として受け入れ、迫害を厳禁するとの全世界向け指針を通達いたしました」
報告が終わると、高い天井を持つ会議室に重苦しい沈黙が降りた。
上座に座る劉景衡主席は、湯気の立つ白磁の茶杯に手を触れることもせず、モニターに映る各国の指導者たちの顔をじっと見つめていた。六十代後半、数々の政治的難局を乗り越えてきた彼の表情は常に冷静沈着で知られていたが、今朝のその双肩には、これまでのどんな経済危機や外交摩擦とも質の異なる、歴史そのものの重みがのしかかっていた。
やがて劉主席は、肺の奥から長く静かな息を吐き出し、低く落ち着いた声で呟いた。
「……まさか、私の任期の間に、この時代が来ることになるとはな」
円卓を囲む幹部たちは、誰もすぐには口を開かなかった。
「日本が最初に蓋を開け、アメリカがそれに続き、昨日はバチカンまでが二千年の沈黙を破ったか」
「はい、主席」
「しかも、どの国も、もはや『そのような超常現象は存在しない』と否定して押し通す路線を完全に放棄している」
「……その通りでございます。そして国内外の世論の関心も、すでに『異能が実在するかどうか』という段階を過ぎ、『各国政府はそれをどう管理し、社会の中でどう向き合っていくのか』という制度の段階へと移行しております」
劉主席は静かに頷くと、自らのデスクの脇に置かれていた一冊の古いファイルへと視線を落とした。
それは、最新のデジタルタブレットではなく、変色した厚紙の表紙に『絶密(最高機密)・建国初期特別会談録』と毛筆の赤い文字で記された、七十数年前の封印文書の写しだった。
「……七十数年前、我が国の『建国の父』がこの記録を残された時、いつの日か必ず、世界のすべての秘密が白日の下に晒される転換点が来ると予見しておられた。その提言が、まさか二〇二六年の今日、これほど生々しい現実の意味を持って我々の目の前に突きつけられることになろうとはな」
主席が漏らしたその言葉に、事情を知る最高指導部の面々が、一様に厳粛な面持ちで背筋を正した。
午前九時ちょうど。
続けて国務院の行政・法務調整を統括する陳文遠(ちん・ぶんえん)が、現在の中国国内外における具体的な影響について報告を引き継いだ。
「主席。現在、外交部および国務院新聞弁公室の窓口には、欧米や日本の主要メディア、ならびに各国政府の外交ルートから、我が国の公式見解を求める照会が殺到しております。
質問の要点は三つ。『中国政府も異能者の実在を認めるのか』『国内には何人の能力者がいて、その情報をどこまで把握しているのか』『そして、他国と同じように中国にも専門の管理体制が存在するのか』という点です」
「ふむ。当然飛んでくる質問だな」
「さらに国内におきましても、インターネット上の情報統制や検閲だけでは、もはや限界に達しつつあります。渋谷の空中戦やニューヨークのドラゴン、日本の異能格闘技の映像は、VPNやミラーサイトを通じてすでに国内の数億人のネットユーザーの目に触れており、地方の公安当局や自治体にも『中国には異能者はいないのか』『政府はいつ発表するのか』という市民からの問い合わせが急増しております」
陳文遠の報告を受け、治安・保守系統の幹部の一人が、少し慎重な口調で手を挙げた。
「……しかし主席。日本やアメリカで偶発的な生中継事故が起きたからといって、我が国までが今すぐ彼らに追随して公式発表を行う必要はないのではありませんか?
幸い、今週に入ってからも、北京や上海などの大都市圏において大規模な異能暴発事案は一件も起きておらず、国民の通常の社会生活と経済活動は平穏に維持されております。ここで政府が自ら『異能者は実在する』と発表すれば、かえって十四億の国民の間に無用な動揺や混乱を招く恐れがあります。しばらくは静観を続け、様子を見るべきかと――」
「いや、その静観がいつまで通用すると言えるのだ?」
すかさず陳文遠が、実務家としての冷徹な視点から反論した。
「日本政府とアメリカ大統領、さらにはローマ教皇までが公認した事実を、世界の主要国の中で我が国だけが『知らない、存在しない』と黙殺し続ければどうなるか。国際社会における発言力を失うだけでなく、国内の国民からも『政府は世界中が知っている事実を隠蔽している』『あるいは中国には異能事案に対処する能力がないのではないか』という深刻な不信を招くことになります」
「我々は存在を否定しているわけではない、ただ公式に発表していないだけだ」
「今の時代において、その二つは同じことだ。万が一、政府が沈黙している間に国内のどこかで渋谷のような事案が一つでも起き、それがスマートフォンで拡散されてみろ。『事前の説明も安全対策もなかった』として、統治の威信そのものが揺らぎかねんぞ」
二人のやり取りを黙って聞いていた劉主席は、軽く片手を上げて議論を制した。
「陳同志の言う通りだ。すでに世界の堤防は決壊した。この期に及んで『我が国に異能者が存在するかどうか』を隠すことに、もはや政治的な意味はない。人間の異能者が実在すること、そして国家として管理体制を整えていること自体は、公表する方向で確定とする」
最高指導者の明快な裁断により、「公表するか否か」という入口の議論はそこで決着した。
だが、円卓を囲む幹部たちの表情は、それで緩むどころか、むしろここから始まる「本当の難題」を前にして一層険しく引き締まった。
*
午前九時三十分。
陳文遠が各メンバーの手元の端末に表示させたのは、国務院と関係機関が昨夜のうちに策定した『段階的情報開示に関する基本草案』だった。
そこには、第一段階として「国内における特殊能力者の実在と法的な権利・安全管理の基本方針の公表」、第二段階として「歴史的に特殊事象への対応を担ってきた専門組織の存在の公表」が記されていた。
しかし、幹部全員の視線が釘付けになったのは、その草案の最終ページ――『別紙・最高機密検討事項』として記された、たった一行の項目だった。
『検討項目三:天帝、ならびに仙人(神仙)の実在および歴史的協定に関する情報の取り扱いについて』
その文字を見た瞬間、党の思想・理論および中央宣伝部門を統括する幹部、韓志明(かん・しめい)が、顔を紅潮させて椅子から立ち上がらんばかりの勢いで声を上げた。
「主席!! 人間の異能者の存在を公認することにつきましては、私も時代の趨勢として異論はございません。しかしながら、この別紙にある『天帝』および『仙人』の実在を一般社会へ公表することには、党の思想宣伝を預かる責任者として、断固として反対いたします!!」
韓志明の悲痛ともいえる声が、会議室に響き渡った。
「落ち着いて理由を述べよ、韓同志」
「はい! ご承知の通り、我が党と国家は、建国以来一貫して『唯物論』および『無神論』を思想的基盤として掲げ、科学的な世界観によって国民を導いてまいりました!
人間の『異能』や『超能力』であれば、まだ『未解明の人体科学や物理現象の延長』として、唯物論の枠組みの中で説明をつけることができます。しかし、神話や道教の伝承に登場する『仙人』が今も山中や別界に実在し、ましてや天界の最高神である『天帝』が実在するなどと国家が公式に認めてしまえば、我々が七十数年間、学校教育とメディアを通じて国民に教えてきた歴史観と世界観が、根底から崩壊してしまいます!!」
韓志明の言葉に、隣の組織部門の幹部も深刻な顔で頷いて補足した。
「しかも、問題は単に『天帝という強大な存在がいる』というだけでは済みません。もし天帝の存在を公に説明しようとすれば、必然的に『かつてこの中華の大地の最高統治権を持っていたのは天帝であり、建国の父が天帝との直接交渉によってその統治権を人間へと譲り受けた』という、建国最大の秘史にまで踏み込まざるを得なくなります!」
「その通りです!」
韓志明が机に手をついて畳み掛けた。
「もしそのような事実を今日いきなり公表したら、十四億の国民は何と言うでしょうか!? 『国家はこれまで何を隠していたのか』『我々が教科書で習ってきた近代史は何だったのか』『無神論とは表向きの建前に過ぎなかったのか』と、思想的な大パニックが起きることは火を見るより明らかです!」
思想担当幹部の切実な訴えに、会議室の空気が重く沈み込む。
すると、科学技術および超常現象の分析部門を担当する比較的若い幹部が、眼鏡の位置を直しながら、極めて冷静で論理的な口調で口を開いた。
「……韓同志の懸念は理解できますが、理論的な整理として一点だけ申し上げてもよろしいでしょうか」
「なんだ?」
「我々が最高機密として確認している『天帝が実在する』という事実と、その存在を宗教的な『信仰の対象』とすることは、必ずしもイコールではありません」
会議室が静まり返り、全員の視線がその若手幹部へと集まった。
「……どういう意味かね?」
「つまり、こういうことです。我が国の最高機密記録、そして国際委員会(ARC)の分類において、『天帝』はTier0級に位置づけられる規格外の神格存在です。その存在が、かつて中国の神秘秩序と統治に深く関わっていたことも確認されております。これは極めて強大な超常存在が実在するという事実であって、
それだけで、あのお方が『全宇宙を無から創造した全知全能の唯一神である』という宗教的教義が証明されるわけではありませんし、国民に対して『明日から天帝に祈りを捧げて信仰せよ』と求めるものでもありません。あくまで、現実に存在する強大な超常的実体として、科学的・客観的に説明することは、理屈の上では可能かと存じます」
理路整然とした「超常現象の唯物論的解釈」に、何人かの実務官僚が「なるほど、そういう説明の仕方もあるか」と頷きかけた。
だが、韓志明は額に青筋を浮かべて即座に首を横に振った。
「それは、この部屋にいる我々のような専門知識を持った人間の『理屈』の上での話だろうが!!」
韓志明は吐き捨てるように言った。
「いいか、昨日の夜まで超能力の存在すら半信半疑だった一般の国民に向かって、政府の報道官がテレビに出てきて『実は天帝と仙人は実在しますが、あれは高次元の超常実体であって神様ではありませんので、引き続き無神論を貫いてください』などと説明してみろ! 国民の誰が『ああ、なるほど、神様ではなく高次元実体ですね』と冷静に区別して受け止めると思うのだ!?
『天帝』という名前が出たその瞬間に、世間は『神話の神様が本物だった!』と受け止め、翌日から全国の道観や寺院、さらには怪しげな新興宗教や仙人修行カルトに何千万人もの人々が殺到するぞ!」
「……確かに。さらに言えば、もし天帝の名だけを伏せて『仙人』の存在だけを公表したとしても、仙人たちの歴史や術式の体系を辿れば、必ずその頂点にいる『天帝』の存在へと疑問が行き着くことになりますね」
陳文遠も顎に手を当てて同意した。
「仙人たちの中には、古い時代から各地の霊山や結界領域に隠棲し、政府や管理組織と限定的な接触記録を持つ者もおりますが、彼らの存在自体が神話と直結しすぎています。今の段階で仙人や天帝の領域にまで言及するのは、社会の許容量をはるかに超える劇薬と言わざるを得ません」
*
午前十時十五分。
議論が一つの壁に突き当たったところで、上座の劉景衡主席が静かに右手を伸ばし、先ほどからデスクの脇に置かれていたあの古い封印文書――『建国初期特別会談録』の紐を解き、黄ばんだ厚手の紙のページを開いた。
カサリ、と乾いた紙の音が静かな会議室に響く。
そこに記されているのは、二十世紀の中葉、長きにわたる戦乱と混乱の末に新しい国家が誕生しようとしていたまさにその前夜、当時の革命の最高指導者であった『建国の父』が、ただ一人で泰山の山頂に隠された秘境の祭殿へと赴き、この国の真の支配者であった存在と対峙した際の、一字一句の記録だった。
この国の最高指導部のメンバーだけが、就任の日に一度だけ閲覧を許される、中華人民共和国という国家の「本当の始まり」の物語である。
「……諸君」
劉主席は古い紙面に刻まれた力強い万年筆の筆跡を指先でなぞりながら、静かに語りかけた。
「我々が今日、こうして北京の中南海に座り、十四億の人民の代表としてこの国を治めているのは、かつて建国の父が武力や異能の力によって『天帝』を打ち倒したからではない」
幹部たちは息を呑み、誰も一言も挟まずに主席の言葉を待った。
「逆だ。人間の武力など、世界の《理》そのものを司るあのお方の前では、塵芥にも等しかった。
それでも我々が今日この国を治めているのは――建国の父が、生身の人間としてあのお方の前に立ち、真っ向から言葉をぶつけて説得し、天帝ご自身が『人間に国の統治権を譲ること』を認められたからだ。
あの日、建国の父があの存在に向かって何と言ったのか、諸君も就任の日にこの記録を読んで知っているはずだな」
劉主席の静かな声とともに、会議室にいる全員の脳裏に、七十数年前のあの日、雲海を見下ろす泰山の山頂に隠された祭殿で交わされた、神と人間の歴史的な対話の光景が鮮やかに蘇った。
◇
――それは、古い王朝の時代から何千年もの間、天命の名の下にこの大地を見下ろし、仙人や神秘の組織を通じて裏から歴史の興亡を管理し続けてきた絶対者・『天帝』の化身と、泥と硝煙にまみれた人民服を着た一人の『人間の男』が、初めて同じ床の上で向かい合った夜明け前のことだった。
人払いをされた石造りの広間には、ただ一人の随行員も、護衛の能力者もいなかった。
正面の玉座とも祭壇ともつかぬ高みに座す天帝の化身は、人間の目では直視することすら難しいほどの威厳と、数千年の歳月を凍らせたような冷徹な黄金の瞳をもって、下に立つ男を見下ろしていた。その気になれば、瞬き一つで男の存在ごと歴史から消去できる、文字通りの「生き神」である。
だが、擦り切れた人民服を着たその男は、膝をつくどころか、背筋をまっすぐに伸ばして仁王立ちし、天上の支配者に向かって、腹の底から雷のような大声を張り上げたのだ。
「――天帝!! もうお前さんたちの出番は終わりだ! これからはな、『人の時代』なんだよ!!!」
ビリビリと広間の石柱が震えるほどの咆哮だった。
何千年もの間、歴代の皇帝たちですら額を床に擦りつけて天命を乞うてきたその場所で、初めて真正面から「お前たちの時代は終わりだ」と突きつけられた天帝は、怒りを見せることもなく、ただ興味深そうに目を細めてその人間の男を見つめた。
「……人の時代、か」
天帝の声は、幾重もの山のこだまが重なり合ったかのように深く、静かに広間を満たした。
「お前たち人間という生き物を、我は何千年もこの高みから見てきた。だが人間は、幾度となく同じ過ちを犯してきたぞ。新しい王朝を興してはすぐに私欲で争い、理想を掲げて国を治めては、数百年も経たぬうちに自らの手でそれを腐らせて壊す。……それほど脆く愚かなお前たちが、それでもなお、天の導きと統治から離れたいと言うのか?」
「ああ、当たり前だ!!」
男は一歩も退かず、自分の分厚い胸板をドンと拳で叩いて言い放った。
「俺たち人間が愚かで、すぐに間違えて、何度も失敗することくらい、他の誰でもない俺たち自身が一番よく知っている! だがな、天帝!!」
男は一歩前へと踏み出し、神の黄金の瞳を真っ直ぐに睨み据えた。
「たとえどれほど泥臭くても、人間が汗を流して暮らすこの国を、いつまでも雲の上の『天の都合』で治められてたまるかよ!!
田んぼを耕して国を豊かにするのも、道を間違えて大失敗するのも、そしてその失敗から血を流して立ち上がってやり直すのも――他の誰でもない、この大地に足をつけて生きている『俺たち人間自身』が自分の手でやるんだよ!!」
広間に、張り詰めた沈黙が落ちた。
天帝はしばらくの間、目の前のちっぽけな人間の男が放つ、火傷しそうなほどの生命の熱量と気迫を黙って見つめていた。
そして、長い沈黙のあとに、低く厳かな声で問いかけた。
「……もし我が手を離せば、この広大な大地と何億もの民の命運のすべてが、お前たちの双肩にのしかかることになる。その途方もない責任を、お前たち人間だけで本当に負えると言うのか?」
「負うとも!!」
男は一秒の迷いもなく即答した。
「お前一人が生きている間だけではないぞ。お前が老いて死んだ後の世も、ずっとだ」
「俺が死んだら、その後の時代を生きる連中にそっくりそのまま引き継がせる! 何代かけてでも、人間の手でこの国を回してみせるさ!」
そのあまりにも不敵で、あまりにも真っ直ぐな答えを聞いて、数千年の間ほとんど表情を変えたことのなかった天帝の口元に、初めてかすかな苦笑のようなものが浮かんだ。
「……ふっ。人とは、どこまでも勝手な生き物よな」
男もまた、ニカッと白い歯を見せて豪快に笑った。
「そりゃそうだ! 勝手に生まれて、勝手に悩んで、勝手に未来を切り開く。だから、これからは俺たちの時代なんだよ!」
天帝はゆっくりと玉座から立ち上がった。
そして、雲海の向こうに昇り始めた夜明けの光を眺めながら、歴史を分かつ決定的な言葉を告げた。
「――よかろう」
「……!」
「そこまで言うのならば、人に任せよう。この国の統治のすべてと、これからの行く末を」
男が大きく息を呑む。
天帝は再び男へと向き直り、最後にただ一つだけ、絶対の条件を言い渡した。
「ただし、人間よ。この一事だけは魂に刻んで覚えておけ」
「何だ!」
「天から『国を治める権利』を受け取るということは――これから先、どれほど苦しい困難や失敗が訪れようとも、その結果の責任を『天のせい』にして押しつけることも、二度とできなくなるということだ。お前たちが選んだ道の結末は、すべてお前たち自身が引き受けねばならん」
「……ああ、望むところだ。よく分かっている!」
「ならば、我が目の黒いうちにたっぷりと見せてみよ。お前たちの作る、『人の時代』とやらをな」
◇
午前十時四十分。
中南海の特別会議室に、静かな現実の時間が戻ってきた。
劉景衡主席は、開いていた古い記録のページをそっと閉じた。
「……この泰山での約定(やくじょう)によって、数千年間続いた『天と仙人による裏からの統治』は終わりを告げ、この国の主権は完全に我々人間の政府へと移譲された」
陳文遠が静かに言葉を継いだ。
「はい。そして、その天帝のご決定に従う形で、それまで王朝や政権の裏側で神秘社会の管理と表の権力の双方に深く関わっていた古い結社――『青幇(チンパン)』の中枢もまた、表の政治・経済・治安の権力をすべて新政府へと返上し、自らは『純粋な神秘社会の管理・調整を担う裏方』へと完全に退くこととなったわけですね」
「その通りだ」
劉主席は深く頷いた。
「それが、現在の我が国における政権と青幇の関係のすべてだ。青幇は我々の敵ではないが、同時に、彼らが表の政治に口を出すこともない。すべては『人間の国は人間が治める』という、あの日の約束の上に成り立っている」
すると、円卓の端に座っていた安全保障担当の幹部が、ふと不安そうに尋ねた。
「……主席。今回の世界的な異能のディスクロージャーによって、人間社会の秩序が大きく揺らいでおります。天帝は、七十数年前に人間に統治権を譲られたあの決定を、今になって後悔しておられるのでしょうか……?」
劉主席は二、三秒ほど黙って考え、それから実にあっさりと首を横に振った。
「……さあな。雲の上におられる神格の胸の内など、私に分かるはずがないだろう」
「……」
「だが、少なくとも今日この瞬間まで、泰山の奥から『統治権を返せ』という神託は一度も下りてきていないし、仙人たちが政権を奪いに山から下りてきてもいない。ならば答えは一つだ。天帝は今も黙って見ている。我々人間が、この『秘密が暴かれた新しい時代』という試練を、自分たちの力と知恵でどう乗り越えるのかをな。……だから、我々は我々の仕事をするだけだ」
建国の父から何代にもわたってバトンを受け継いできた人間の指導者として、劉主席の声には一点の揺らぎもなかった。
*
午前十一時ちょうど。
劉主席はテーブルの上に両手をつき、本日の最終決定を下すべく全員の顔を見渡した。
「では、結論を下す。先ほど確認した通り、まず『天帝』および『仙人』の存在、ならびに建国時の統治権移譲の歴史については、今回は一切公表しない。韓同志が指摘した通り、それを今出せば、異能の公表とは次元の異なる思想的・社会的な大混乱を招く。時期尚早だ」
「はっ、賢明なご判断かと存じます」
韓志明がホッとしたように頭を下げた。
「ただし、韓同志。記者会見において『天帝や仙人は絶対に存在しない』と嘘の断定をする必要もない。今日の発表の対象はあくまで『人間の特殊能力者』と『その管理体制』であると明確に範囲を限定し、神話や伝承に関する質問には回答を控えるにとどめよ。後々の歴史的整合性のために、退路は残しておく」
「承知いたしました」
そして劉主席は、もう一つの最大の焦点である「管理組織」について言及した。
「次に、我が国において特殊事象への対応を担ってきた専門組織についてだが――その存在だけでなく、組織の正式名称である『青幇』という名前まで、本日正式に公表する」
その瞬間、会議室の幹部たちの間から「おお……」「名前まで出しますか!」という小さなどよめきが上がった。
宣伝部門の韓志明が、再び心配そうに手を挙げた。
「主席! 専門組織の存在を認めることは当然としても、『青幇』という固有名詞までそのまま公表してしまってよろしいのでしょうか?
一般の国民や海外のメディアにとって、青幇といえば『清代から民国期の上海などで暗躍し、阿片取引や政治的暴力、暗殺などにも深く関わった歴史上の秘密結社(黒社会)』というイメージが強く定着しております! その青幇が現在も存続し、しかも政府と協力して異能者を管理していたと発表すれば、過去の犯罪的な歴史との関係を巡って、国内外の記者から猛烈な追及を受けることは確実ですが……!」
「追及は出るだろうな。だが、それが名前を隠し続ける理由になるか?」
劉主席は静かに問い返した。
「いいか、アメリカは一九四七年以来のUFO陰謀論の代名詞だった『MAJESTIC-12』という名前をそのまま出した。日本の『八咫烏』もすでにネット上では公然の秘密になっている。ここで我が国だけが、急拵えの『特殊事象管理局』などという実体のないダミー名称を発表してみろ。数日も経たぬうちに海外の情報機関や国内の能力者から『本当の実働母体は青幇だ』とリークされ、政府は最初から嘘をついたとしてさらに大きな信用を失うことになる」
幹部たちがぐっと言葉に詰まる。
「それに、歴史上の青幇の中に、当時の時代背景の中で世俗の利権や犯罪、政治的暴力に手を染めた外縁組織が存在したことは事実だ。それを今さら『実は昔から一点の曇りもない聖人君子の組織でした』などと無理に美化して誤魔化す必要はない」
劉主席は淡々と、しかし力強く方針を示した。
「過去の問題を曖昧にせず、同時に現在の青幇がどのような役割を担っているかを説明させよ。歴史の評価を一度の会見で決着させる必要はない。今日明らかにできる事実と、守るべき機密を正確に分けるのだ」
「……過去の負の歴史を無かったことにせず、現在の行政的な役割と切り分けて正面から説明する、と。なるほど、それならば筋が通ります!」
陳文遠が深く頷いた。
「では、国内の能力者の総数(人口統計)やTier制度の詳細についてはいかがいたしますか?」
「今回は出さない。アメリカと同じく、まずは『存在の公認』と『管理組織(青幇)の公表』、そして『能力者も法の下で保護される通常の国民である』という基本原則の発表にとどめる。統計数字については、国内の反応を見極めてから次の段階で判断しよう」
「承知いたしました!」
午前十一時三十分。劉主席が最終決裁のサインを書類に書き入れると、会議室の空気は一気に「決定」から「実行」へと切り替わった。
「よし、中央宣伝部と国務院新聞弁公室は直ちに共同で記者会見の準備に入れ!」
「はっ! 会見の日時はいつに設定いたしますか!?」
「本日中だ。午後四時(16時00分)より、北京の国務院新聞弁公室にて内外記者会見を開く。世界中の主要国が事実を認め始めた今、我が国だけがこれ以上沈黙を続ける理由はない!」
幹部たちが一斉に立ち上がり、各省庁への緊急連絡に走り出そうとした、その時だった。
会見後の市民相談の受付体制について連絡を受けていた中央宣伝部の実務局長が、受話器を持ったまま手を挙げた。
「……主席、陳同志。発表後の国民からの問い合わせについて、広報部門から緊急の確認が入っております」
「何だ?」
「青幇の名称を公表すれば、能力の相談や目撃情報が一斉に寄せられるはずです。ところが、青幇の既存の連絡窓口は機密回線で、一般市民には案内できません」
「……それは、困るな」
「はい。今のままでは、相談先を知らない国民が青幇の非公開施設を探し始める恐れがあります。
しかも受付担当者には、能力者本人の情報や家族の個人情報が持ち込まれる可能性があります。機密とプライバシーの保護を両立させる窓口が必要です」
陳文遠は、机の上の連絡先一覧に目を落とした。青幇の実働窓口へ通じる番号には、すべて機密指定が付いている。
「……何の案内もなければ、問い合わせが現場へ直接流れ込むかもしれんな」
「はい。本人からの相談に加え、未確認の目撃談や悪質ないたずらも混じるでしょう。それらをすべて専門機関に直送すれば、本来の対応が止まりかねません」
政府と青幇の間には、長年の連絡体制がある。しかし一般市民からの問い合わせを受け付ける仕組みは、まったく別に整えなければならなかった。
劉主席は短く頷き、すぐに指示を出した。
「既存の行政相談窓口に暫定受付を設け、関係部門が内容を確認した上で青幇へつなげ。非公開の連絡先は出すな。能力者本人と家族の情報を保護する取扱規則も、受付開始までに徹底しろ」
「はっ! ただちに関係部署へ連絡いたします!」
*
午後零時三十分。北京市内・什刹海(じゅうさつかい)近くの静かな胡同(フートン)の奥にある、非公開の四合院(伝統的建築を改装した連絡施設)。
中庭の石畳に黄色いイチョウの葉が舞い落ちるその一室で、国務院から派遣された陳文遠は、一人の男と向かい合って座っていた。
男の名は、顧連華(こ・れんか)。年齢は五十歳前後。
古い秘密結社である『青幇』の現在の中枢(総堂)と、中国政府との間を繋ぐ首席連絡代表を務める人物である。
もっとも、その外見には映画に出てくるような清朝時代の長袍(チャンパオ)や功夫シューズの面影は微塵もない。仕立ての良いチャコールグレーの現代的なビジネススーツを着こなし、スマートウォッチを左腕にはめたその姿は、上海や香港の金融街を歩いていそうな洗練された企業幹部そのものだった。
「――以上が、先ほど中南海の最高指導部会議で決定された内容だ、顧代表。本日午後四時より、国務院新聞弁公室の記者会見において、国内における異能者の実在とあわせて、貴組織『青幇』の名称と役割を公式に公表する」
陳文遠が正式な通告書をテーブルの上に差し出すと、顧連華は書類に目を走らせ、驚く様子もなく静かに頷いた。
「そうか。ついに決まったか」
「……ずいぶんと落ち着いているな、顧代表。もう少し驚かれるかと思っていたが」
「先週、東京の渋谷の映像が流れ、金曜日にニューヨークの空に竜が出た時点で、いずれこの日が来ることはうちの老爺(長老)たちも全員予期していたさ。十四億の人間がスマートフォンを持っている時代に、隣国とアメリカが全てを認めて、中国だけが昔の帳(とばり)の後ろに隠れ続けられるはずがないからな」
だが、顧連華は通告書の後半――『組織名称「青幇」の直接公表』という項目に目を留めると、ほんのわずかだけ細めた目の奥に鋭い光を宿した。
「……ただ、政府が『青幇』という我々の古い看板の名前まで、そのまま表に出す決断をしたのは少々意外だったな。てっきり、新しく『国家特殊現象管理委員会』とでもいった官製の名前を被せて発表するものと思っていたが」
「主席のご判断だ。今さら別の名前で糊塗すれば、後に実態が漏れた際に国民の信頼を損なう、とな。……どうだ、青幇の中枢として、この名称公表に異存や反対はあるか?」
顧連華はしばらくの間、窓の外のイチョウの木を見つめていたが、やがてふっと口元を緩めて首を横に振った。
「反対? まさか。反対して何になるというんだ、陳先生」
「……」
「いいかい、我々青幇の本流が、七十数年前に表の政治や経済の舞台から完全に身を引き、影の管理役に徹するようになったのは、お前たち政府との権力闘争に負けたからではない」
顧連華の声は穏やかだったが、そこには何百年もの歴史を背負ってきた組織の確固たる誇りが滲んでいた。
「あの日、泰山の上で天帝が『これからは人間自身がこの国を治めよ』と仰せになり、我々の先代もまたその天命の移り変わりを受け入れたからだ。
今、この中華の大地を表で治めているのは、お前たち人間の政府だ。であれば、世界の状況が変わった時に、国民に向けて何をいつ、どの名前で公表するかを決めるのもまた、統治者である政府の仕事だろう。我々裏方が、政府の政治決断に異を唱える筋合いはないよ」
「……感謝する、顧代表。貴組織の大局的な理解に敬意を表するよ」
「礼など不要だ。ただ、我々が表から退いたあの日の約束の意味――『人間の社会は人間が責任を持って守る』という原則だけを、これからも忘れないでもらいたいだけさ」
そう言ったあと、顧連華は実務家としての厳しい目つきに戻り、指を二本立てて現実的な条件を確認した。
「もっとも、看板の名前を出すこと自体は構わんが、現場の実務を守るための境界線はきっちり引いてもらうぞ。
第一に、当組織に所属する実働人員の個人名、各支部(香堂)の具体的な所在地、ならびに封印・保管している危険な呪物や秘術の目録については、国家機密と同等に非公開を維持すること。
第二に、我々が把握・保護している国内の一般登録能力者やその家族の個人情報を、世間の好奇心や不当な詮索から法的に保護すること。……この二点は絶対に守れるな?」
「ああ、当然だ。そこは八咫烏やMAJESTIC-12とも足並みを揃え、政府の法務・公安部門が全力で防壁となる」
「それならいい。うちの若い連中にも、午後四時の会見以降は『公認された専門協力機関』として恥ずかしくないよう、一層規律を厳しく通達しておこう」
交渉が円満にまとまり、陳文遠がホッとしたように鞄から一枚の白い行政フォーマットの用紙を取り出したところで、少し気まずそうに切り出した。
「……ああ、それと顧代表。これは先ほど新聞弁公室の広報スタッフから泣きつかれた、実に些末な事務確認なのだが」
「ん? なんだね」
「午後四時の記者会見で報道陣に配布する基礎資料の中に、協力機関である『青幇』の概要を載せる欄があるのだが……役所の書式上、どうしても『組織の設立年月日(西暦・年月日)』と『初代代表者名』を記入する必須項目があるらしくてだな。広報がどう書けばいいか確認してくれと言っているのだが」
顧連華は、陳文遠が差し出した現代の役所の無機質なエクセル表のプリントアウトを見つめ、三秒ほど完全にフリーズした。
「……設立年月日、だと?」
「ああ」
「陳先生、それは一体『どの時点』を設立と呼ぶかによるな」
顧連華は、こめかみを押さえながら真顔で言った。
「近代の上海で一般の歴史書に『青幇』という名前が記録された清末の時点か? それとも雍正四年(一七二六年)に翁岩、銭堅、潘清の三祖が運河の漕運組織をまとめた時点か? あるいは明代に羅祖が源流の教義を開いた時点か? それとも、さらに遡って秦・漢の時代から仙人や方士たちと関わってきた最奥の『神秘管理中枢』が成立した時点か? どれを書けばお前たちの役所のパソコンはエラーを出さないんだ?」
「…………」
「必要なら、うちの書庫にある明代からの木簡と古文書の写しを今すぐ段ボール十箱ほど運ばせるが、午後四時までに記者が読めると思うかね?」
陳文遠は、無言でそのエクセル表の用紙を自分の鞄の中へとそっと戻した。
「……いや、結構だ。設立年月日の欄は『歴史的起源につき記載省略(近代以降、現在の専門協力体制へ改組)』の一行で埋めさせる」
「賢明な判断だ。役所の書類というのは、本当に昔から融通が利かんな」
二人の実務家は顔を見合わせ、どちらからともなく乾いた苦笑いを漏らした。
*
午後二時三十分。北京市東城区・朝陽門内大街にある『国務院新聞弁公室(SCIO)』の記者会見プレスホール。
一時間半前の午後一時に、新聞弁公室から内外の主要メディアに向けて『本日16時00分より、近年の国内外における特殊事象および国家の対応体制に関する特別記者会見を開催する』との緊急招集が発出されたことを受け、青い背景幕が張られた広い会見場には、中国国内の国営メディア(新華社、中央電視台・CCTV、人民日報など)だけでなく、欧米や日本の主要通信社・新聞社の北京特派員たち二百名以上が詰めかけ、異様な熱気とざわめきに包まれていた。
記者たちに事前に配られた案内紙には、ただ「特殊事象および国家対応体制に関する重要発表」とだけ記されており、具体的な固有名詞はまだ伏せられている。
カメラの三脚がずらりと並ぶ後方の記者席では、各国の特派員たちがノートパソコンを開きながら小声で予想を交わしていた。
「……おい、ついに中国政府も重い腰を上げたぞ。『特殊事象に関する重要発表』って、間違いなく異能(超能力)の公認会見だよな?」
アメリカの通信社の記者が、隣に座る日本人特派員に囁いた。
「間違いないでしょうね。先週の水曜日に東京で始まり、金曜日にワシントン、昨日の火曜日にバチカンと来て、G2のもう一角である北京だけが今日まで公式コメントを出していませんでしたから。一週間待って、各国の世論の出方を見極めてから出てきた形です」
「気になるのは、中国がどこまで数字や組織名を出すかだな。日本は能力者数まで公表したが、中国も人数を明かすと思うか?」
「さすがに今日いきなり人口統計までは出さないんじゃないですか? ウォーレン大統領も人数は機密にしましたしね」
すると、斜め前に座っていたイギリスの新聞記者が振り返って会話に加わった。
「俺が今日一番注目してるのは、人数よりも『中国の管理組織の名前』だよ。
中国の歴史をたどれば、古い王朝の役所や民間結社の名称がいくらでも出てくるだろう。ひょっとしたら、昔の名前をそのまま使っているかもしれない。
これだけ歴史と伝統のある国だ、一体どんな名前が出てくると思う? 『龍組』か? それとも『欽天監(昔の天文・占星術の役所)』か?」
「いやあ、今の中国政府のことだから、そういう古い名前じゃなくて『国家安全部・第9特別科学局』みたいな、ごく普通の味気ない行政名称で発表するんじゃないか?」
記者たちはそんな予想を語り合いながら、時計の針が進むのを見守っていた。この場にいる誰一人として、午後四時過ぎに演壇の上から読み上げられる「二文字の固有名詞」を予想できている者はいなかった。
午後三時三十分。会見開始の三十分前。
プレスホールの裏手にある報道官控え室では、本日の歴史的会見のスピーカーを務める国務院新聞弁公室の女性報道官・方静(ほう・せい)が、濃紺のジャケットの襟元を整えながら、たった今中南海から届いたばかりの最終承認済みの声明原稿に目を通していた。
四十代前半の方静は、外務省および新聞弁公室で数々の厳しい国際記者会見を乗り切ってきた、冷静沈着で知られるベテラン報道官である。今日の昼には陳文遠らから直接、国家機密に関する特別ブリーフィングを受け、異能の実在についても頭ではしっかりと理解していた。
だが――そんな彼女であっても、声明原稿の2ページ目の中段に印字された「その一文」を指先で追った時ばかりは、思わず自分の目を疑ってピタリと手を止めた。
『我が国には、特殊能力者および神秘的事象への対応を担ってきた歴史的な専門組織が存在します。その組織の名称は、「青幇(チンパン)」です』
「…………」
方静は原稿から顔を上げ、隣に控える新聞弁公室の連絡補佐官をじっと見た。
「……確認いたしますが、本当に、この『青幇』という二文字を、一字も変えずにそのままマイクの前で読み上げるのですね?」
「はい、方報道官。党中央および最高指導部による正式決定です」
「……そうですか」
「何か、読み上げにあたって問題がございましたでしょうか?」
「……いえ、決定であれば、その通りに読み上げます」
方静は静かに原稿へ視線を戻し、少しだけ遠い目をして言った。
「ただ……中学校の歴史の教科書を一度でも真面目に読んだことのある記者なら、国内の記者も海外の特派員も、この名前を聞いた瞬間に全員が椅子から転げ落ちるほど驚くでしょうね、と思っただけです」
「……ええ、同感です。質疑応答は、かつてないほど荒れることが予想されます」
「ええ。覚悟して臨みましょう」
方静はコップの白湯を一口飲んで喉を潤すと、想定問答集のファイルを脇に抱え、静かに立ち上がった。
*
午後四時ちょうど(日本時間・午後五時)。
国務院新聞弁公室のプレスホールの扉が開き、方静報道官が凛とした足取りで演壇の中央へと歩み出た。
無数のカメラのフラッシュが一斉に焚かれ、CCTVや新華社、そして世界中のニュースネットワークのライブ配信が一斉にスタートする。
「――皆様、こんにちは。これより国務院新聞弁公室による特別記者会見を開始いたします」
方静は会場の記者席をぐるりと見渡し、よく通る明瞭な標準中国語(普通話)で、用意された政府公式声明をゆっくりと読み上げ始めた。
「本日、中華人民共和国政府は、国内外において近年広く確認・報道されている特殊能力および超常的現象につきまして、国家としての公式な立場と基本方針を表明いたします。
まず第一に、国民の皆様および国際社会へ明確にお伝えいたします。
先日来、複数の国や機関が公表したのと同様に、我が国におきましても、通常の科学技術や一般的な身体能力の枠組みでは説明できない『特殊な能力』を持つ人々が実在いたします。
これらの能力および関連する特殊事象は、ここ数日の間に突然発生したものではありません。我が国政府は、建国以来長年にわたり、こうした特殊な能力を持つ人々の存在や、通常の自然現象だけでは説明のつかない事象について正確に情報を把握し、社会の安定と国民の安全を守るための必要な管理・対策を講じてまいりました」
その第一声が通訳の音声とともに流れた瞬間、会場の記者たちが一斉にノートパソコンのキーボードを猛烈な勢いで叩き始めた。
『【速報】中国政府、国内における「特殊能力者(異能者)」の実在を公式に認める』。
まず一つ目の歴史的ニュースが、北京から全世界へと発信された。
方静は動じることなく、第二の項目――能力者の法的地位と人権保護についての声明へと進んだ。
「第二に、国内の能力者に対する基本方針について申し上げます。
特殊な能力を有しているという事実のみを理由として、その人物を危険人物や違法存在とみなすことは断じてありません。能力を持つ人々もまた、憲法および法律の下で等しく権利と義務を有する中華人民共和国の公民であり、これまで長年にわたり、社会の各分野において皆様と共に普通に働き、学び、生活してきた社会の一員です。
政府は今後も、公共の安全の確保、能力者本人の正当な権利およびプライバシーの保護、ならびに社会秩序の維持を基本原則とし、関連する法制度や相談・管理体制の整備を段階的に進めてまいります。能力の有無を理由とした不当な差別、個人情報の違法な詮索や拡散、ならびに能力を悪用した違法行為に対しては、法に基づき厳正に対処いたします」
ここまでは、会場の記者たちにとっても「予想の範囲内」の内容だった。
日本政府、アメリカのウォーレン大統領、そして昨日のローマ教皇の声明と、基本的な骨格は同じだ。「中国もやはり国際標準のディスクロージャー路線に乗ったな」と、誰もが頷きながら次の言葉を待っていた。
そして午後四時十二分。
方静は原稿のページを一枚めくり、本日の発表の核心である第三の項目へと入った。
「――次に、我が国における特殊事象への対応体制についてご説明いたします。
政府はこれまで、こうした特殊な能力や超常的事象に適切に対処するため、国家の治安・行政機関による管理体制を維持してまいりました。
そして、その現場における専門的な実務、調査、ならびに能力者社会の調整におきましては、古くからこの分野に関する深い知識と対応能力を歴史的に継承してきた『専門の組織』が、政府との密接な協力関係の下でその任を担ってまいりました」
記者たちが「来たぞ、中国の管理機関の話だ」と身を乗り出す。
方静は一度顔を上げ、正面のカメラと二百人の記者たちの目を真っ直ぐに見据えて、静かに告げた。
「本日、政府は、その専門協力組織の名称についても公式に公表いたします」
会場のタイプ音が、ピタリと止まった。
一拍の静寂。
方静の唇から、極めて明瞭な発音でその名が放たれた。
「――その組織の名称は、『青幇(チンパン)』です」
*
午後四時十五分。
国務院新聞弁公室のプレスホールから、すべての音が消え失せた。
一秒。二秒。三秒。
最前列に座っていた中国国営メディアのベテラン記者も、後ろにいた欧米の特派員も、日本人記者も、全員がペンとキーボードを止めたまま、演壇の方静報道官の顔をポカンと見つめていた。
同時通訳のイヤホンからは、英語で『"The name of the organization is the Green Gang — Qingbang."』、日本語で『「その組織の名称は、青幇(チンパン)です」』という訳語が流れてきたが、通訳官自身の声すら、自分の訳している単語が信じられないといったようにわずかに震えていた。
青幇。
チンパン。
清の時代から二十世紀前半の魔都・上海にかけて裏社会と政財界に君臨し、歴史の教科書や映画の中に必ず登場する、あの伝説の秘密結社『青幇』?
「…………え?」
誰かの小さな呟きを皮切りに、静まり返っていたプレスホールが、突如として爆発したかのような大混乱とざわめきに包まれた。
「おい、今なんて言った!? 『青幇』って言ったか!?」
「聞き間違いじゃないのか、青年の『青』に幇助の『幇』って画面の字幕に出てるぞ!!」
「上海のあの青幇か!? 1949年の建国の時にとっくの昔に解体されて消滅したはずの歴史上の秘密結社だろ!?」
後方の外国人記者席では、先ほど「中国は味気ない役所の名前を出してくるだろう」と予想していたアメリカ人特派員が、頭を抱えて隣の日本人記者の肩を揺さぶった。
「……おい、ちょっと待ってくれ、嘘だろこれ!」
「な、なんですか!」
「俺はてっきり、国家安全部の第何局とかいう堅い名前が出てくると思ってたんだよ! それが何だ、『青幇』って!」
「……歴史書に載っている、あの青幇ですよね?」
「そうだよ! それが今も国家の専門協力機関だって? まったく、予想のしようがない!」
逆隣に座っていたイギリス人記者も、引きつった笑いを浮かべて天井を仰いだ。
「おいおいおい……極東の神話に、アメリカのUFO陰謀論、バチカンの異端審問、そして中国の歴史的秘密結社って、2026年の地球の裏側はどうなってんだよ!? 世界中の歴史ミステリーと都市伝説のオールスター感謝祭じゃねえか……!」
「――それでは、これより記者の皆様からの質問を受け付けます。挙手の上、所属と氏名を述べてから質問してください」
方静報道官の冷静なアナウンスが響くやいなや、会場にいる二百人の記者全員が、椅子の上に立ち上がらんばかりの勢いで一斉に手を挙げ、「報道官!!」「こちらです!!」と怒号のような声を張り上げた。
最初に指名されたのは、国内の大手紙『新京報』の男性記者だった。彼はマイクを握りしめ、興奮で声を裏返らせながら質問をぶつけた。
「し、質問いたします! 方報道官、今『青幇』とおっしゃいましたが、それは私たちが歴史の授業で学ぶ、清代から近代の上海にかけて存在したあの『青幇』と、文字通り同じ組織なのでしょうか!? すでに歴史の中で消滅したと考えられていた組織が、なぜ二〇二六年の現在も存続しているのですか!?」
「ご質問にお答えします」
方静は一切表情を崩さず、用意された公式見解を正確に述べた。
「本日公表いたしました『青幇』は、歴史上の青幇と直接の連続性を持つ組織です。
一般の歴史におきましては、青幇は清代の運河輸送(漕運)の相互扶助結社を源流とし、近代以降に消滅したものと理解されてまいりました。しかし実際には、その組織の最奥には、さらに古い時代から中国各地の特殊能力者や超常的事象の管理・調停を担ってきた『中枢の本流』が存在しておりました。
新中国の成立に伴い、表の世俗的な利権や旧社会の悪弊に関わっていた外縁の組織はすべて解体・清算されましたが、特殊事象に関する専門知識と管理能力を継承する中枢部門のみは、国家との正式な協定の下で再編され、現在に至るまで専門協力機関として存続してきたものであります」
「な、なんということだ……」と記者席から再び大きなどよめきが起きる。
すかさず次に指名されたロイター通信の特派員が、鋭い眼光で政治的な核心へと斬り込んだ。
「ロイター通信です! 国家と青幇の『権力関係』について伺います! 青幇のような巨大な歴史的秘密結社が今も存続しているということは、彼らは中国政府の指揮下にあるのですか? それとも、国家から独立した力を持ち、裏から中国の政治や政策に影響力を及ぼしている『影の政府』のような存在なのでしょうか!?」
その質問に対し、方静の声は一段と凛として力強いものになった。
「その点については、一切の誤解なきよう明確に申し上げます。我が国の主権、ならびに政治・行政・立法・司法のすべての統治権限は、中華人民共和国憲法に基づき、政府および公的機関が完全に掌握しております。
青幇は、あくまで『特殊事象および能力者に関する専門的な実務・調整』において政府に協力する機関であり、国家の政治や一般行政に関与することは一切ありませんし、青幇自身もまた、建国以来の取り決めに基づき、表の統治権を政府に委ねて専門領域に徹する立場を厳格に維持しております。『影の政府』などという解釈は、事実と全く異なります」
建国の父と天帝が交わした「人間の国は人間の政府が治める」という絶対の原則が、現代の報道官の口から、外交・法制上の揺るぎない言葉として宣言された。
しかし、記者たちの追及は止まらない。三番目にマイクを握った香港紙の記者が、誰もが気になっていた「歴史の暗部」について質問を飛ばした。
「報道官! たとえ中枢が神秘管理の組織であったとしても、歴史上の青幇といえば、二十世紀前半の上海において阿片の密売や恐喝、さらには政治的なテロや暴力事件に深く関与していた『黒社会(犯罪結社)』としての側面が歴史的事実として記録されています! 中国政府は、そのような犯罪的な歴史を持つ組織を国家の協力機関として認め、過去の行為をすべて免罪しているということですか!?」
極めて答えにくい、痛烈な質問だった。
だが、方静は言葉に詰まることなく、劉主席が指示した通りの誠実かつ冷徹な一線を提示した。
「ご指摘の通り、近代の混乱期において、青幇の名を冠した外縁の諸派が犯罪行為や政治的暴力に深く関与したことは、否定できない歴史的事実です。
そして本日の政府発表は、過去の個々の違法行為や歴史的な罪責を美化するものでも、免除するものでも断じてありません。現在の機関が公益的な業務を担っていることによって、過去の記録や被害が消えるわけではないのです。
歴史上の個々の事件については、確認できる記録と事実に即して扱う必要があります。公開可能な範囲での歴史的経緯と、現在の青幇の法的位置づけの詳細につきましては、今後、国務院および関係学術機関において整理の上、段階的に公表してまいります」
「現在の役割と過去の責任は別問題、か。説明は分かったが、過去の事件を実際にどう整理するかはこれからだな」と、外国人記者席の誰かが低く呟いた。
続いて四番目の質問。日本の共同通信の記者が手を挙げた。
「共同通信です! 中国国内における『特殊能力者の人数』について伺います! 日本政府は先日、国内に約三百四十二万人、総人口の約三十六人に一人の能力者が存在すると公表しました。この比率を中国の十四億人の人口に当てはめますと、中国国内には約三千九百万人もの能力者が存在することになりますが、政府と青幇が把握している実際の統計は何人なのでしょうか!?」
「国内における特殊能力者の具体的な人口統計や比率につきましては、現在、関係機関において公開可能なデータの整理と精査を進めております。
我が国においても、長年にわたる必要な調査と登録記録は存在しておりますが、無用な社会的混乱や個人のプライバシー侵害を防ぐため、本日の段階では具体的な数値の公表は差し控えます。準備が整い次第、改めて発表いたします」
「その発表時期はいつ頃になりますか!?」
「現時点では未定です」
そして午後四時三十五分。
会見の終了時刻が近づく中、最後に指名されたフランスの新聞社の特派員が、少し奇妙な、しかしこの一週間の世界の狂騒を象徴するような質問を口にした。
「報道官、最後に一つだけ確認させてください。
各国が異能や神秘管理の存在を認め始めた今、これまで伝説や歴史の一部と考えられていたものについても、改めて疑問が向けられています。今回、青幇の存続まで公表されたことで、我々はさらに多くの可能性を考えざるを得ません。
その上で伺います。中国の古い神話や道教の伝承に登場する『仙人(神仙)』、あるいは天界を統べる『天帝』といった存在についても、中国政府と青幇は実在を確認し、何らかの情報を把握しているのではないでしょうか!?」
その質問が通訳された瞬間、プレスホール全体がしん、と静まり返った。
最初は半ば冗談めいた質問かと思われたが、マンハッタンの空に本物のドラゴンが現れた後の世界では、どの記者も笑うことができず、ゴクリと唾を呑んで方静報道官の口元を見つめた。
中南海のモニターでこの生中継を見守っている韓志明ら最高指導部が、最も警戒していた質問そのものだった。
演壇の方静は、眉一つ動かさなかった。
彼女は手元の原稿に目を落とすこともなく、淡々とした、しかし一切の隙のない公式の壁を築いて答えた。
「――本日、中国政府が公式に発表し説明する対象は、あくまで『人間の特殊能力者の実在』、ならびに『それに伴う特殊事象に対応してきた専門組織・青幇の存在と基本方針』についてのみです。
それ以外の古典的な神話、民間伝承、あるいは宗教的な概念に登場する存在につきましては、本日の会見の説明対象とはしておりません」
フランス人記者がすかさず食い下がった。
「説明対象としていないということは、『仙人や天帝などは存在しない』と明確に否定はなさらないのですか!?」
方静は静かにマイクを見つめ、過不足のない一言だけを返した。
「本日、その点について政府からお答えすることはございません。……以上をもちまして、本日の特別記者会見を終了いたします。ありがとうございました」
午後四時四十分。
「報道官、もう一問だけ!」「青幇の現在の代表者は誰なのですか!?」「政府と青幇の協定文書は公開されるのですか!?」「仙人について回答を――!」という無数の記者たちの叫び声とフラッシュの嵐を背に受けながら、方静報道官は深く一礼し、脇の扉から冷静に退場していった。
主を失った演壇の前で、取り残された二百人の記者たちは、しばらくの間、呆然とお互いの顔を見合わせた。
やがて、中国の国内紙の若い記者が、自分のメモ帳に殴り書きされた『異能者実在』『青幇存続』『仙人・否定せず』という文字を見下ろしながら、隣の中堅記者に向かって魂の抜けたような声で呟いた。
「……なあ、先輩。今日、俺たちが午後から呼ばれて取材に来たのは、国務院新聞弁公室の真面目な政府記者会見だったよな?」
「……ああ、そうだな」
「なのに、どうして俺たちは政府の報道官の口から、武侠小説や歴史映画に出てくる秘密結社『青幇』が今も実在してて超能力者を管理してるなんて話を聞かされてるんだ……?」
「……俺に聞くなよ。今からデスクに戻って、この原稿をどうやって一面記事のトーンで書けばいいのか、俺の方が教えてほしいくらいだ」
*
北京での記者会見終了から三十五分後の、午後五時十五分。
北京から南へ千二百キロ離れた経済都市・上海。
黄浦江の西側、静安区の再開発エリアに立ち並ぶ近代的な高層マンションの十八階の一室では、大学四年生の青年・周航(しゅう・こう・二十二歳)が、洗面所の鏡の前で髪の毛にワックスをつけながら、リビングのテレビから流れてくるニュースの音声をなんとなく聞き流していた。
水曜日の夕方。周航はこれから午後六時に人民広場の近くの火鍋屋で、大学の友人たちと集まって食事をする約束があった。
リビングのソファには、今年で八十二歳になる彼の祖父・周徳林(しゅう・とくりん)が座り、熱い烏龍茶を啜りながら、日課である夕方のテレビニュース(東方衛視の特別報道番組)を眺めている。
祖父の徳林は、戦前・戦後の激動の上海を生きた両親(周航にとっての曽祖父母)から、昔の上海租界や黄浦江の埠頭の裏話をたっぷり聞いて育った生粋の上海っ子(老上海)だった。
この祖父には、昔から一つだけ、家族の誰も本気にしない「持論」があった。
事あるごとに、『いいか航、世間の歴史の本には、上海を動かしていた青幇(チンパン)は新中国になって全部消えてなくなったと書いてあるが、あれは嘘だ。あんな何百年も続いた巨大な組織が、そう簡単に根っこまで消えるわけがない。連中は形を変えて、今もどこかの裏でちゃんと生き残っておるんだ』と語るのである。
もちろん、二十二歳の現代っ子である周航やその両親は、「はいはい、またおじいちゃんの昔話が始まったよ」「今のデジタル監視社会の上海に、昔の映画みたいな秘密結社が残ってるわけないでしょw」と、いつも適当に相槌を打って聞き流していた。
この日も、周航がジャケットを羽織りながらリビングへ出てきた時、テレビの画面にはちょうど北京の国務院新聞弁公室の青い背景幕と、方静報道官の映像が映し出されていた。
『――繰り返します。本日午後四時、国務院新聞弁公室は特別記者会見を開き、我が国にも特殊な能力を持つ人々が実在することを公式に認めました。また、古くから特殊事象への対応を担ってきた専門の協力組織として、歴史的な結社である「青幇(チンパン)」が現在も存続し、その任にあたっていることを正式に公表しました――』
画面の下部に、太いゴシック体の中国語で『【緊急速報】政府、特殊能力者の存在を公認。対応組織「青幇」の存続を正式発表』という赤いテロップがデカデカと表示される。
スニーカーを履こうと玄関へ向かいかけていた周航の足が、リビングの真ん中でピタリと止まった。
「…………え?」
周航は振り返り、テレビの画面を二度見した。
「……チンパン? 青幇って……高校の近代史のテストに出てきた、昔の上海のあの秘密結社の青幇か!?」
周航が目を丸くして呟いた、まさにその瞬間だった。
ガタァッ!! と、ソファが後ろへズレるほどの激しい音を立てて、八十二歳の祖父・周徳林が、二十代の若者顔負けのスピードで仁王立ちに立ち上がった。
「――ほら見ろぉぉぉっ!!!」
マンションの窓ガラスがビリビリと震えるような、祖父の渾身の勝利の咆哮だった。
「うわっ、びっくりした!! な、なんだよ急にじいちゃん、血圧上がるぞ!」
「ほら見ろと言っておるんだ、この馬鹿孫が!!」
徳林老人は、震える右の人差し指でテレビ画面の『青幇』というテロップをビシッと指差し、それから孫の周航の方を振り返って、これ以上ないほど誇らしげに胸を反らせた。
「テレビの文字をよーく読んでみろ! 青幇だ! 政府の報道官が、青幇は今も残っておると公式に言ったぞ!」
「……う、うん。言ってるね」
「わしは昔から、お前にもお前の親父にも、何十回と言っておっただろうが! 『青幇が完全に消えたわけがない、連中は今も裏で生き残っておる』とな!! お前たちはいつもわしがボケて昔の映画の話をしとるみたいに鼻で笑って聞き流しておったが、どうだ! わしの言った通りだったろうが!!」
八十二年の人生で一番いい笑顔と言っても過言ではないほど得意満面な祖父のドヤ顔に、周航は圧倒されてタジタジになりながら頭をかいた。
「……いや、まあ、確かにじいちゃん、昔からずっとそう言ってたっけな……。すげえよ、マジでじいちゃんの言う通りだったわ」
「ふっふっふ、そうだろう、そうだろう! お前たち若い者は、すぐにネットだの教科書の文字だのだけを信じるからいかんのだ!」
気を良くした徳林老人は、ゴホンと一つ威厳のある咳払いをすると、ソファに深く座り直し、テーブルの上の湯呑みを置いて、孫に向かって手招きをした。
「よし、航、そこに座れ。ちょうどいい機会だ、なぜわしが青幇は消えておらんと確信しておったのか、わしの死んだ親父が戦前の十六舗(シージュウプー)の船着場で見たという話から、順番に教えてやろう」
周航の背中に、嫌な汗がスッと流れた。
これはマズい。おじいちゃんのこのスイッチが入ると、最低でも二時間はノンストップで清朝の運河の話から戦前の上海租界の思い出話まで続く「終わりなき歴史講義」が始まってしまうのだ。
「そもそもだな、航! 世間の連中は青幇というと、すぐに映画の『上海灘(シャンハイ・タン)』みたいな拳銃を持ったマフィアの話ばかりを思い浮かべるが、あれは近代に入ってからのほんの上澄みの姿に過ぎんのだ!」
「……へえー、そうなんだ」
「青幇の本当の始まりというのはな、今から三百年以上前の清の時代、北京へ米を送る大運河を行き来しておった船乗りや荷役の男たちが、自分たちの身と積荷を守るために作った『安清道友』という相互扶助の結社にまで遡ると言われておってな!」
「……うん、なるほど」
「何万隻という船と、何十万人という水夫たちを束ねる規律と暗号のネットワークだ。それだけの規模で中国の血管を握っておった組織の本流が、時代が変わったからといって、ある日突然、煙のように跡形もなく消えてなくなると思うか?」
「……いや、思わないかな」
「そうだろう! しかもな、わしの親父が子供の頃、黄浦江の古い倉庫街の奥で、普通の人間には到底持ち上げられんような鉄の錨(いかり)を片手で軽々と持ち上げて、水面の上をまるで氷の上を滑るように歩いて渡っていった青幇の老師の姿を見たことがあってだな! 今思えば、あれこそが今日テレビで言っておった『異能者』というやつだったに違いないのだ! さらにその背後には、古い道観の仙人たちとの約束があって――」
熱弁を振るう祖父の横で、周航はちらりとリビングの壁掛け時計に目をやった。
午後五時二十八分。
人民広場の火鍋屋での待ち合わせは六時ちょうどだ。今から地下鉄に乗らないと、確実に遅刻して友人たちに肉を全部食われてしまう。
周航は、祖父が息継ぎのために湯呑みに手を伸ばした一瞬の隙を突き、スッと音もなく腰を浮かせて玄関の方へと後ずさりした。
「……あ、じいちゃん」
「ん? なんだ、これからが戦後の再編の一番面白いところなんだぞ」
「ごめん、俺、今から人民広場のところで大学の友達と火鍋食う約束してるんだわ。もう出ないと電車に間に合わないから、ちょっと行ってくる!」
徳林老人が、湯呑みを持ったまま目を丸くした。
「なっ……待て待て航! 一国の政府が超能力者と青幇の実在を認めた歴史的な日なんだぞ!? わしの話はまだ序章が終わったばかりだ、火鍋なんかよりこっちの方が百倍大事だろうが!」
「いや、歴史的な日でもお腹は減るし、あいつら遅刻すると割り勘の金額多く取ってくるんだよ! 続きは夜帰ってきてから絶対聞くからさ!」
「おい、これからわしの親父が見た三人の老師の話に入るところなんだぞ!」
「うんうん、分かった、楽しみにしてる!」
「絶対に分かっておらんだろうが、この馬鹿孫がーっ!!」
周航は玄関で素早くスニーカーに足を突っ込み、スマホと財布をポケットに押し込むと、リビングから怒鳴っている祖父に向かって元気に片手を振った。
「じゃ、行ってきまーす! 夕飯は冷蔵庫にあるから温めて食べてねー!」
「おい航! まだ話が――!」
バタンッ!
軽快な音とともに玄関の鉄扉が閉まり、大学生の足音はエレベーターホールの方へとあっという間に遠ざかっていった。
*
午後五時三十分。
夕暮れの上海の住宅街では、仕事を終えた会社員や買い物帰りの主婦たちが、いつも通りの賑やかな夕方の通りを行き交っていた。
マンションのエントランスを飛び出した周航は、スマートフォンで時刻と友人たちからのチャット通知を確認しながら、地下鉄の駅へと向かって小走りに駆け出した。
中国政府が、ついに異能者の実在を公式に認めた。
しかも、学校の歴史の授業で習ったあの秘密結社『青幇』が、今も裏で存続していて国の超常管理を担っているらしい。
正直、頭が追いつかないほど驚きの連続だったし、火鍋屋に着いたら間違いなく友人たちともその話題で持ちきりになるだろう。
「……いやあ、それにしてもマジかよ。青幇が超能力者の組織だったって……じいちゃんのホラ話、本当に当たってたんだな」
周航は秋の夕風に肩をすくめながら、思わず小さく笑った。
しかし、すぐにスマホの時計表示を見る。
「……っと、やべっ、あと二分であの電車が出ちゃう! 遅れる!」
二十二歳の青年は、国家の最高機密の開示よりも、目の前の地下鉄の発車ベルと友人たちとの火鍋の約束を優先して、夕暮れの雑踏の中へと全力で駆けていった。
一方、その頃。
高層マンション十八階のリビングルームでは、一人残された八十二歳の周徳林老人が、まだ湯呑みを片手にテレビの前で熱弁を続けていた。
「――いいか、そもそも青幇という組織はだな、ただの港の秘密結社ではないのだ。昔の上海という街にはな、表の租界に見えておったものと、夜の霧の向こうに隠れておったものの二つがあってだな……」
そこまで気持ちよく語ったところで、老人はふと後ろを振り返った。
リビングには、誰もいない。玄関のドアはとっくに閉まっている。
「……おい、周航! お前、ちゃんと聞いておるか!」
当然、返事はなかった。
徳林老人はそこでようやく、自分の孫が五分前に火鍋を食べに出かけてしまったことを思い出し、「……ちっ」と小さく舌打ちをしてソファの背もたれに身を沈めた。
「……まったく。どいつもこいつも、最近の若い者は歴史の重みというものをまるで分かっておらん。わしの話は、これからが一番面白いところだったというのに」
老人はぶつぶつと文句を言いながらも、再び正面の大型テレビへと顔を向けた。
画面の中では、北京の国務院新聞弁公室の会見映像が繰り返しリプレイされ、『中国政府、特殊能力者の存在を公認。歴史的組織「青幇」の存続も正式発表』という字幕が誇らしげに輝き続けている。
徳林老人は熱い烏龍茶をズズッと一口啜ると、誰もいないリビングで、もう一度だけ満足そうに、そして実に気分良さそうに大きく鼻を鳴らした。
「……ふふん。ほら見ろ。だからわしは昔から、青幇はまだあると言っておったろうに」
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