もしも異能がディスクロージャーされたら? 作:パラレル・ゲーマー
二〇二六年十一月四日、水曜日。午後五時十分(中央ヨーロッパ時間)。
北京の国務院新聞弁公室において、中国政府が特殊能力者の実在と歴史的結社『青幇』の存続を世界に公表してから、およそ八時間が経過していた。
フランス北東部、アルザス地方の中心都市ストラスブール。
十一月初旬のヨーロッパの日は短く、午後五時四分の日没を過ぎた街には、すでに深い群青色の夕闇(トワイライト)が降り始めていた。石畳の通りにはオレンジ色の街灯が灯り、家路を急ぐ人々の吐く息が、晩秋の湿り気を帯びた冷たい空気に白く溶けていく。
そのストラスブールの中心街から東へと向かい、フランスとドイツの国境を流れる大河――『ライン川』をまたいでドイツ側の都市ケール(Kehl)へと直通する路面電車、「トラムD線」の車内は、仕事や学校を終えた帰宅客たちでほどよく混み合っていた。
流線型の近代的な低床車両が、ガタン、ゴトンと規則正しい音を立ててレールの上を滑っていく。
シェンゲン協定によって国境検問のないこの二つの街を結ぶトラムの中では、フランス語の柔らかな響きと、ドイツ語の歯切れのよい発音が、ごく当たり前の日常の音として混ざり合っていた。スーパーマーケットの紙袋からバゲットの先を覗かせている主婦、イヤホンで音楽を聴きながら参考書をめくる学生、コートの襟を立ててスマートフォンでニュースを読むビジネスマン。
「――ねえ聞いた? 今日の昼間、今度は中国の政府が記者会見を開いて、向こうにも超能力者がいるって認めたそうよ」
「ああ、さっきスマホのニュースで見たよ。しかも管理してる組織が、昔の上海の映画に出てくる『青幇(チンパン)』だったっていうじゃないか。先週のニューヨークのドラゴンといい、昨日のローマ教皇の演説といい、なんだか毎日世界がSF映画みたいになっていくな」
「まったくだわ。まあ、ドラゴンや魔法使いがどこに飛んでいようと、明日の朝のゴミ出しと住宅ローンの引き落としが変わらないなら、私たちには関係ないけどね」
つり革に掴まった中年の夫婦が、そんな会話を交わして小さく笑い合う。
世界がどれほど歴史的な転換点を迎えていようとも、国境の川を渡って夕食のテーブルへと帰る人々にとって、それはまだスマートフォンの画面の向こう側の出来事に過ぎなかった。
二両目の車両の中ほど、進行方向左側の窓際の座席に、二十九歳のフランス人女性、マリー・ルフェーヴルが腰を下ろしていた。
ストラスブール市内の会計事務所で働く彼女は、膝の上に革のハンドバッグを置き、少し疲れた目で窓の外を流れる港湾地区(ポール・デュ・ラン)の倉庫街の灯りを眺めていた。今夜は、橋を渡った先のドイツ側・ケールのアパートに住む大学時代の友人の家で、一緒にグラタンを作って夕食を食べる約束になっている。
マリーは手元のスマートフォンを一度だけ持ち上げ、時刻を確認した。
『17:12』。
時刻表示のすぐ下――スマートフォンのロック画面の壁紙には、一枚の少し色褪せた写真が設定されていた。
三年前の春、満開のリンゴの木の下で、今より少し若いマリーと、優しい目元をした五十代の母親――ソフィー・ルフェーヴルが肩を並べて笑っている写真だ。母のソフィーが思いがけない病で急逝してから、今年の秋でちょうど三年になる。
マリーには、最近ニュースで騒がれているような「異能」など一ミリもないし、幽霊が見えたり不思議な声を聞いたりする霊感の類も一切なかった。ただ、秋風が冷たくなって街にクリスマスの準備が始まるこの季節になると、ふと生前の母が編んでくれたマフラーの感触や、台所から漂っていた温かいスープの匂いを思い出して、胸の奥が少しだけ寂しくなる――そんな、ごく普通の、どこにでもいる一人の娘だった。
一方、同じ二両目の少し後ろのドア付近では、ピンク色のニット帽を被った二十歳のドイツ人女子大生、ナディア・クラインが、スマートフォンのインカメラを自分に向けて、小声でVlog(ビデオブログ)用の短い動画を撮影していた。
ケールの実家からストラスブールの大学へ毎日トラムで通学している彼女は、SNSのフォロワーが三千人ほどいる配信好きの学生だった。
「――はい、水曜日の午後五時すぎ、ナディアです。今日のフランス語講読のテスト、マジで難しすぎて魂が抜けるかと思った……。これからライン川の橋を渡ってドイツのお家に帰ります。外はもうすっかり暗いよー」
ナディアがカメラを窓の外へと向けたところで、トラムはフランス側の最後の停留所である『ポール・デュ・ラン(ライン港)』駅に一度停車し、数人の乗客を乗せて再び発車した。車両はそのまま、国境のライン川に架かる美しいアーチ橋――『ベアトゥス・レナヌス橋(Pont Beatus-Rhenanus)』へと向かう緩やかなスロープへと差しかかった。
時計の針が、午後五時十五分を指した。
その瞬間。
車内の空気が、まるで暖房のスイッチが突然切れて冷凍庫の扉が開かれたかのように、スウッと不自然に冷え込んだ。
「……ん?」
窓際に座っていたマリーは、足元から這い上がってきた妙な底冷えに首をすくめ、コートの襟元を合わせながら、何気なく通路を挟んだ向かい側のボックス席へと視線を向けた。
さっきポール・デュ・ラン駅を発車してから、トラムは一度も停車していない。向かいの二人掛けの座席も、間違いなく二つとも空席だったはずだ。
――なのに、そこに「誰か」が座っていた。
マリーの斜め向かいの座席に、うつむき加減でぽつんと腰掛けていたのは、七十代くらいの痩せた白髪の老人だった。
最近の街中ではまず見かけないような、ひどく古めかしい仕立ての茶色いツイードのジャケットを着て、膝の上には時代遅れのフェルト帽を置いている。
何よりマリーの目を引いたのは、その老人の服と髪が、まるでたった今、冬の川底から引き揚げられたばかりであるかのように、ぐっしょりと「水に濡れていた」ことだった。白髪の先からも、ジャケットの袖口からも、古びた革靴の踵からも、黒ずんだ冷たい水滴がポタリ、ポタリと絶え間なく滴り落ちているように見える。
だが、奇妙なことに、老人の靴の下にあるトラムのグレーの床材には、水溜まりも濡れた染みも一切広がっていなかった。
老人は瞬き一つせず、ただ虚ろな目で、暗くなり始めた窓の外のライン川の方角をじっと見つめている。
顔色は、蝋人形のように青白い。
「……あの」
マリーは少し迷いながらも、老人が急病か、あるいは川辺で転んで怪我でもしているのではないかと思い、身を乗り出してフランス語で小さく声をかけた。
「ムッシュ(おじいさん)……? あの、ずぶ濡れみたいですけど、お加減でも悪いんですか? 大丈夫ですか?」
老人は、ピクリとも動かない。マリーの声が聞こえていないかのように、ただ窓の外を見つめている。
すると。
マリーのすぐ隣の座席で新聞を読んでいた五十代くらいのドイツ人ビジネスマンが、不審そうに新聞を下げ、マリーの横顔を覗き込んでフランス語で尋ねてきた。
「……マドモアゼル。失礼ですが、さっきから一体『誰に』話しかけていらっしゃるんです?」
「え?」
マリーは驚いて隣の男性を見返し、それから向かいの座席を指差した。
「誰にって……すぐそこの向かいの席に座ってらっしゃる、濡れた服のおじいさんにですけど」
ドイツ人の男性は、マリーの指差す向かいのボックス席を見た。
そして、気味悪そうに眉をひそめて言った。
「……マドモアゼル、疲れているんじゃないですか? 向かいの席には、誰も座っていませんよ。最初からずっと空席です」
「…………え?」
マリーの心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ねた。
もう一度、向かいの席を見る。
空席なんかじゃない。すぐ目の前、手を伸ばせば触れられる距離に、濡れたツイードのジャケットを着た青白い顔の老人が、確かに座っているのだ。
マリーが恐怖で顔を引きつらせ、呼吸を忘れた、まさにその次の瞬間だった。
ジジッ……バチッ!!
トラムの天井を走るLED照明が、強い磁気嵐にでも遭ったかのように激しく明滅し、車内が一秒間だけ真っ暗な闇に包まれた。
同時に、走行中の車体が「ギシィィィッ……」と、まるで何十人もの人間が屋根の上へ一度に飛び乗ってきたかのように、重く不気味な音を立てて沈み込むように揺れた。
パッと車内の照明が再び点灯した時。
マリーの隣にいたドイツ人ビジネスマンの喉から、「……っ、ひぃっ!?」という引きつった悲鳴が漏れた。
向かいの座席の老人は、まだそこに座っていた。そして今度は、マリーだけでなく、隣のビジネスマンにも、周囲の座席の乗客全員にも、その老人の姿がハッキリと見えていたのである!
「な、なんだ!? いつの間に人が座ったんだ!?」
「おい、あっちの通路も見てみろ!!」
車内のあちこちから、驚愕の叫び声が上がった。
一人だけではなかった。
明滅した照明の下、車両の連結部の近くや、ドアの横、空いていた座席の上に、まるで古いフィルムの二重露光がじわじわと浮かび上がるようにして、次から次へと「見知らぬ人々」の輪郭が実体化して現れ始めたのだ。
十九世紀末のような長い黒の喪服とレースの襟をつけた婦人。
泥と煤にまみれた、第一次か第二次世界大戦の頃のものらしき古い灰色の軍服を着た若い兵士。
昔ながらのサスペンダーとキャスケット帽を被った労働者風の男。
そして、白いエプロンドレスを着て、壊れたブリキの人形を胸に抱いたままキョロキョロと周囲を見回している、七歳くらいの小さな女の子。
走行中のトラムのドアは一度も開いていない。
それなのに、五人、十人、二十人と、白黒写真や歴史博物館の展示からそのまま抜け出してきたような時代遅れの服装の人々が、音もなく車内の隙間を埋めるように増えていく。
「な、なんなのこれ!? フラッシュモブ!? それとも誰かが透明化の異能を解いたの!?」
後ろのドア付近にいた女子大生のナディアが、背中を壁に押し付けながら叫んだ。
だが、新しく現れた人々は、乗客を脅かすようなパフォーマンスをするわけでもなく、ただ自分がなぜこんな明るい電車の中にいるのか分からないといった様子で、虚ろに立ち尽くすか、あるいは何かに引き寄せられるように窓の外――ライン川の方角ばかりを見つめていた。
午後五時十六分。
トラムの先頭車両が、フランスとドイツの国境を跨ぐ『ベアトゥス・レナヌス橋』の白いアーチの中央付近へと差し掛かった時だった。
キィィィィィィィッ――ガクンッ!!
先頭の運転席から非常ブレーキの鋭い金属音が鳴り響き、強い減速Gとともに、トラムが橋のど真ん中で緊急停止した。
つり革に掴まっていた乗客たちが大きく前のめりになり、車内放送のスピーカーから、パニックに陥った運転士の震えるフランス語のアナウンスが飛び込んできた。
『ま、前方の軌道上および橋の上に、多数の人が立ち入っています! き、危険なため緊急停止しました! な、なんだこれは、川の上を……川の上を人が歩いて……っ!!』
そのアナウンスを聞いた乗客たちが、一斉に進行方向左右の大きな窓ガラスへと駆け寄り、橋の下を流れるライン川を見下ろした。
マリーもまた、隣の席の乗客に押されるようにして窓の外を見た。
そして、言葉を失った。
夕闇が濃くなり始めた幅二百五十メートルのライン川。
黒々と流れる冷たい水面の、まさにその「水の上」を、白い古いドレスを着た一人の女性が、まるで舗装された石畳の広場でも歩くかのように、波紋一つ立てずに素足でゆっくりと歩いていた。
いや、一人ではない。
その女性の少し後ろに、もう一人。その横に三人。さらに上流から下流にかけて、十人、五十人、百人、二百人――。
気づけば、フランス側の岸からドイツ側の岸へと向かうライン川の暗い水面一面に、数え切れないほどの「青白い人影の群れ」がどこからともなく湧き出し、終わりなき静かな行列となって、水の上をゆっくりと行進していたのである。
古いシルクハットを被った紳士がいる。頭巾を被った農婦がいる。錆びた剣を腰に差した中世の従士のような影もいれば、数十年前のコートを着た老夫婦もいる。
何百年もの間にこの大河のほとりで生き、そして死んでいったあらゆる時代の人々が、今この夕暮れの川面の上に一斉に呼び起こされ、無言のまま渡河を続けていた。
「……おい、嘘だろ……」
「水の上を、何百人も人が歩いてるぞ……」
「異能者じゃない……あの透き通った足元を見ろよ、服も百年前のものばかりだ……」
凍りついた車内の静寂の中で、誰かが震える唇から、世界中の人間が子どもの頃から知っていながら、大人は誰もが「実在しない」と決めていたその言葉を、ぽつりとこぼした。
「…………幽霊(ファントム)だ。死んだ人たちの、幽霊の行列よ……」
その言葉が落ちた瞬間、車内のあちこちでスマートフォンのシャッター音が鳴り始め、後方のドア付近にいた女子大生のナディア・クラインは、ガタガタと震える両手でスマートフォンの画面をタップし、SNSの『全世界公開ライブ配信(LIVE)』の赤いボタンを押し込んだ。
*
午後五時十七分。
ナディアのスマートフォンから発信されたライブストリームは、『【緊急】ストラスブールのトラムが橋の上で止まった! ライン川の上を何百人もの幽霊が歩いてる!!』というタイトルとともに、瞬く間にヨーロッパ中のSNSユーザーへと拡散され始めた。
『ちょ、ちょっと待って、誰かこれ見てる!? 私、いまストラスブールからケールへ帰るトラムD線に乗ってるんだけど、電車がライン川の橋の真ん中で止まっちゃったの! 嘘やCGじゃない、まずこの車内を見てよ!!』
ナディアが震える声でカメラを車内へ向けると、そこには現代のダウンジャケットを着た乗客たちのすぐ隣に、輪郭がわずかに青白く霞んだ十九世紀の喪服の女性や、ずぶ濡れの老人が立っている異様な光景が映し出された。
さらにナディアが窓ガラスにレンズを押し当てて外のライン川を映すと、薄闇の川面を埋め尽くして無言で歩き続ける何百もの「死者の行列」が、くっきりと画面いっぱいに広がった。
最初の一分間こそ、配信を見に来た視聴者たちは『ハロウィンの残り物のイタズラか?』『ニュージャージーの星空みたいな幻術系の異能者のアートだろ』と書き込んでいた。
だが、異常はナディアのスマートフォンだけではなかった。
同じトラムの別車両に乗っていた乗客たち、橋の歩道を歩いていて足止めされたサイクリスト、さらにはフランス側の岸のマンションやドイツ側のケール河川敷の公園にいた何百人もの市民たちが、それぞれの角度から一斉に同じ「川を渡る無数の人影」を撮影し、XやTikTok、YouTubeへとリアルタイムで配信し始めたのだ。
そして午後五時十九分。
ただ静かに佇んでいるだけだった「死者たち」の一部が、突如として牙を剥いた。
二両目の連結部近くに立っていた一体の霊体――泥と油にまみれた古い炭鉱夫か工場労働者のような作業服を着た大柄な男の幽霊が、急に頭を抱えて「うあああああっ……!」とノイズの混じったような呻き声を上げた。
その青白かった輪郭が、まるでインクを垂らしたかのようにドロドロとした「どす黒い影」へと変質し(悪霊化)、すぐ目の前でスマホを構えて後ずさりしていた二十代くらいの男性乗客の胸倉へと、黒い霧を噴き出す右腕をガバッと突き伸ばしたのである!
「うわあっ!? や、やめろ、来るな――ぐあっ!!」
悪霊の黒い腕が男性乗客の胸にめり込んだ瞬間。
物理的な傷口は何も開かなかったにもかかわらず、男性乗客の全身が感電したかのようにビクンと硬直し、その瞳から焦点が消えて白目を剥いた。
次の瞬間、男性乗客の口から、彼自身の声とは似ても似つかぬ濁ったしゃがれ声で、「暗い、冷たい、出せ、ここから出せええええっ!!」という狂乱の絶叫が飛び出し、近くにいた別の乗客へ殴りかかろうと暴れ出したのだ。
同時に、悪霊が立つ周囲半径三メートルの温度が一気に氷点下まで急降下し、トラムの分厚い二重窓ガラスの内側に、バキバキバキッ! と白い氷の結晶(霜の紋様)が一瞬で張り付いた。
「きゃあああああっ!! あの人、幽霊に触られておかしくなったわ!!」
「離れろ、触られるな!!」
車内が大パニックに陥る中、マリーの目には、さらに奇妙で、しかし決定的な光景が映っていた。
連結部で黒く変質して暴れているその悪霊を見て、車内にいた他の幽霊たち――あの十九世紀の喪服の婦人や、ブリキの人形を抱いた小さな女の子の幽霊までが、生きた人間たちとまったく同じように「怯えた顔」をして後ずさりし、女の子の幽霊などは近くの空席の陰に隠れてブルブルと震えていたのである。
すべての幽霊が人間を襲う怪物なのではない。何らかの理由で狂気に呑まれ「悪霊化」した個体だけが暴走しており、他の多くの死者たちは生前の理性や感情を保ったまま困惑しているのだ。
しかし、パニックに陥った乗客たちにそんな区別がつくはずもなかった。
しかも直後、さらに恐ろしい現象が起きた。
後方ドアのすぐ前に立っていたスーツ姿の四十代の男性乗客の足元で、床の空間そのものが水面のようにぐにゃりと揺らいだかと思うと、「えっ……? あ、足が、床が――うわあああっ!?」という叫び声とともに、男性の身体が霧のような空間の裂け目へとズルリと引きずり込まれ、床の上に茶色い革のビジネスバッグだけを残して、車内から忽然と姿を消してしまったのだ。
「ひっ……ひいいいいいっ!! 人が消えたぞ、床の中に人が吸い込まれた!!」
「ドアを開けてくれ!! ここから出してくれええええっ!!」
その戦慄の瞬間もまた、ナディアのスマートフォンのライブ配信カメラを通じて、何万もの視聴者の目の前へとそのまま送り届けられていた。
午後五時二十分。
ストラスブール市内の『フランス3・グラン・テスト(地域公共放送)』および対岸ドイツの『SWR(南西ドイツ放送)』の報道フロアは、鳴り止まない緊急電話とSNSのライブ映像によって騒然となっていた。
「編集長! ライン川のベアトゥス・レナヌス橋でトラムD線が緊急停止、乗客と周辺住民から112番(欧州緊急通報)に何百件もの通報が入っています!」
「SNSのライブ配信映像を第2モニターに出せ! ……な、なんだこれは、川の上に何百人も人が立っているぞ!? いつの映像だ!」
「たった今、2分前から現在進行形で配信されているライブ映像です! フランス側とドイツ側の別々の市民が撮った20本以上のストリームすべてに、同じ人影の群れと、車内の異常が映っています!」
「警察とトラム運行公社(CTS)の確認は!?」
「現地警察が橋の両端を封鎖中! さらに今、車内のライブ映像で、乗客の男性が黒い影に触れられて倒れ、もう一人の乗客が空間から消失する瞬間が映りました!!」
報道フロアの空気が凍りつく。
先週までの世界であれば、どれほど多くの動画が上がろうと「集団ヒステリーか精巧なフェイク映像の可能性」として裏取りに何時間もかけていただろう。だが、渋谷とマンハッタンを経験した二〇二六年十一月の報道機関は違った。
編集長は迷わずデスクを叩いた。
「もはや個人のいたずら動画の段階ではない! 通常番組を中断して緊急特別報道に切り替えろ! 断定的な表現は避け、『ライン川および橋上のトラムにおいて、通常の現象では説明できない多数の人影が出現し、乗客に被害が出ている模様』と事実のみを速報で流せ! パリの本社とAFP通信にも直ちに映像を共有しろ!」
「了解しました! ……あ、編集長、橋の入り口の定点カメラを見てください! 警察のパトカーの後ろから、何か見たことのない特殊車両の部隊が現場へ突入していきます!」
*
時間を二分だけ巻き戻す。午後五時二十分。
ストラスブール旧市街、大聖堂からほど近い石造りの歴史的建造物の地下三階に設けられた、欧州神秘管理連合評議会――『Ordo Chronos(オルド・クロノス)』のライン国境監視支部・作戦指揮室。
壁一面に古いラテン語の碑文と最新のデジタル・ホログラム地図が同居するその部屋では、すでに五分前の午後五時十五分の時点で、けたたましい鐘の音にも似た霊的警報チャイムが鳴り響いていた。
中央のコンソールの前に立つのは、フランスとドイツの合同現場即応班を率いる指揮官、アドリアン・ファルク(四十二歳)。
短く整えられた銀混じりのブロンドの髪に、氷のように冷静な灰色の瞳を持つ男だ。彼が着用しているのは、現代の特殊部隊仕様の黒い防刃タクティカルベストの上に、古い聖堂騎士団の系譜を示す濃紺のハーフコートを重ね、胸元に銀の歯車と砂時計を組み合わせた『オルド・クロノス』の紋章を刻んだ、伝統と近代科学が融合した実働装束だった。
「――状況を再確認しろ!」
ファルクの低く落ち着いた声に、コンソールの観測魔術師たちが即座に数値を読み上げる。
「ストラスブール=ケール国境、ライン川第3監視区画の『霊的境界(ヴェール)』の接合部が、午後5時15分02秒に臨界破綻しました! 原因は、先週末から観測されていた地脈(レイライン)の周期的揺らぎに、夕刻の急激な霊的気圧低下が重なったことによる自然決壊と見られます!」
「顕在化した霊体の規模は?」
「ベアトゥス・レナヌス橋を中心とする半径400メートルの範囲に、過去数世紀分の残留霊および彷徨霊が少なくとも240体以上流出! うち約30体が橋の中央で停止したトラムD線の車内に侵入し、乗客約120名が閉じ込められています! 車内ではすでに2体の霊体が環境負荷により『悪霊化(スペクター化)』し、乗客1名が憑依による霊障を発症、さらに乗客1名が境界の裂け目(狭間)へと転落・消失しました!」
一分一秒を争う極めて危険な複合心霊災害だった。
だが、ファルク指揮官も、周囲に控えるフランス・ドイツ両国の魔術師や退魔師たちも、誰一人として取り乱してはいなかった。
古くローマ帝国とゲルマンの境界であったこのライン川流域は、二千年にわたる数々の戦争と歴史の記憶が沈殿するヨーロッパ有数の霊的境界地帯である。オルド・クロノスの現地支部は、数日前から境界の数値に微細な異常が出ていることを正確に察知し、今日この夕方も、全隊員が装備を整えた状態で「いつでも五分以内に出撃できる第1級待機態勢」を敷いていたのだ。
「よし。合同即応班、第1から第4小隊まで全車出動。橋の両岸――フランス側とドイツ側の双方から同時に挟撃して展開する」
ファルクが迷いなく命じると、通信担当の若い連絡官が一瞬だけ顔を上げて尋ねた。
「ファルク指揮官! 今回は夕刻の市街地であり、すでに市民のスマートフォンによる撮影が始まっております! 大規模な結界術式および聖遺物を使用する場合、ブリュッセルの連合評議会本部への事前承認申請はいかがいたしますか!?」
「不要だ」
ファルクは手袋をはめながら、一秒の躊躇もなく切り捨てた。
「評議会の各派閥の代表者たちが議論をまとめるのを待っていたら、その間にトラムの乗客が全員境界の向こう側へ引きずり込まれる。人命救助および境界破綻の緊急封鎖は、条約第8条に基づき現場指揮官である私に事前委任された権限の範囲内だ。事後報告で構わん」
「りょ、了解しました!」
「フランス側のバ=ラン県警察およびストラスブール市警、ならびにドイツ側のバーデン=ヴュルテンベルク州警察へ特別連絡回線で通達を出せ。周辺道路の一般車両を遮断し、救急車と霊障医療班の導線を確保させろ。――行くぞ、発生から三十分以内にすべて封じる!」
そして午後五時二十二分。
最初の異常発生から、わずか七分後。
ベアトゥス・レナヌス橋のフランス側たもと(ポール・デュ・ラン側)と、対岸のドイツ側たもと(ケール側)の双方に、サイレンを鳴らした両国警察のパトカーに先導されて、車体に銀色の幾何学紋章を記した黒塗りの大型特殊装甲車と機材運搬車が計八台、タイヤを軋ませて滑り込んできた。
後部ハッチが一斉に開き、そこから整然と飛び出してきた三十名あまりの男女の部隊を見て、橋の入り口に集まっていた野次馬や、すでにカメラを構えていた地元テレビ局のクルーたちが一斉に息を呑んだ。
それは、どこの国の軍隊とも警察とも異なる、異様にして荘厳なプロフェッショナル集団だった。
全員がインカムと霊的位相ゴーグルを装着した現代的な黒のタクティカルスーツに身を包んでいるが、その肩や胸には古い騎士団の十字紋や魔術結社の銀の刺繍が光っている。
前衛を走る『対悪霊・騎士班』の者たちは、ルーン文字と聖句が刻まれた白銀の警杖(バトン)や鎖型の魔導具を携え、後方に続く『境界修復・魔術班』の者たちは、青い燐光を放つ古い真鍮製のランタンや、羊皮紙の巻物、そして重厚な銀の箱に収められた『聖遺物(レリック)』を手にしている。
指揮車から降り立ったアドリアン・ファルクは、川面を埋め尽くす死者の行列と、橋の中央で立ち往生しているトラムの車両を一瞥するなり、インカムを通じて部隊全員へ静かに、しかし絶対の自信に満ちた指示を飛ばした。
「――各班、配置につけ。
第1班(避難誘導・騎士班)は直ちに橋上のトラムへ突入し、車両の前後を確保。悪霊化した個体を乗客から引き離し、生存者の避難ルートを開け。ただし、敵対性のない一般霊体はむやみに攻撃・刺激せず、保護領域へ誘導しろ。
第2班(霊的観測班)はドローンおよび位相センサーを展開し、空間の裂け目に転落した乗客1名の正確な座標を特定せよ。
第3班(境界修復班)は、フランス側とドイツ側の橋脚にある古い結節点(アンカー)へ魔導杭を打ち込み、広域封鎖結界の準備に入れ。
第4班(医療・霊障班)は橋のたもとに救護テントを設営し、憑依被害者の浄化と救急処置にあたれ」
誰一人として「どうすればいいですか」と聞き返す者はいない。
何世代にもわたってヨーロッパの闇と境界を守り続けてきた名門の魔術師と騎士たちの末裔が、現代の危機管理マニュアルと完璧に噛み合った動きで、一糸乱れずそれぞれの持ち場へと疾走していく。
ファルク自身もまた、腰のホルスターから古い銀の鍵の形をした聖遺物を抜き放ち、橋の中央へと向かって歩き出しながら低く告げた。
「いいか、我々は何世紀もの間、こうした境界の綻びを相手にしてきた。カメラが回っていようが、何一つ慌てる必要はない。人命を最優先に、いつも通りの手順で綺麗に封じるぞ」
午後五時二十四分。
橋のたもとに到着した『フランス3』と『SWR』の中継カメラが、そのオルド・クロノスの部隊の鮮烈な動きを真正面から捉えた。
境界修復班の魔術師たちが、ライン川の両岸の石垣に長さ一メートルほどの銀色の魔導杭を「ガツンッ!」と打ち込み、手にした古いランタンを掲げてラテン語の術式詠唱を開始する。
すると次の瞬間。
フランス側の岸に打ち込まれた杭から、ドイツ側の岸の杭へと向かって、眩い青銀色の「幾何学的な光のライン」が幾筋も空中に走り、川面の上空でカチリ、と音を立てるように接続されたのだ!
『――第一接合点、固定完了!』
『対岸・ケール側、第二接合点、接続確認! 一時防壁の展開を開始します!』
『境界からの霊体流出速度、40パーセント低下!』
隊員たちのキビキビとした声が響き、橋の周囲の空間に、まるで精巧な時計の歯車とゴシック建築のアーチを組み合わせたような半透明の光の紋様が浮かび上がっていく。
その光景を生中継していたフランス3の現地リポーターは、マイクを握りしめたまま絶句していた。
『……ご、ご覧いただけますでしょうか! たった今、橋の両岸に特殊な装備と古い紋章をつけた専門部隊が到着し、警察と連携して展開を開始しました! 彼らが川に向かって銀色の装置を設置した瞬間、空間に青い光の幾何学模様が現れ、川面の人影の動きを抑え込んでいます!
これは明らかに国家や公的機関と連携した、極めて高度に組織化された「超常対策部隊」です!!』
*
午後五時二十六分。
フランスとドイツの公共放送が流したその衝撃的なライブ映像は、パリのAFP通信、ロンドンのロイター通信、ニューヨークのAP通信の国際配信網を通じて、即座に世界中の主要テレビ局のニュースルームへと転送された。
ロンドン、ニューヨーク、東京、北京の報道局の編集室では、デスクたちがモニターに映し出された「ライン川を渡る数百人の幽霊」と「光の結界を展開する黒と銀の特殊部隊」の映像を見て、一斉に立ち上がっていた。
「……おい、この映像の出所はどこだ!?」
「フランスの公共放送とドイツのSWRの公式ライブフィード、および現地の一般市民数十名の同時配信です! バ=ラン県の警察当局が実際に橋を封鎖しており、各地点の映像も一致しています! 少なくとも、一つの偽動画で説明できる状況ではありません!」
「なんてこった……先週の超能力者、金曜日のドラゴンと魔法使いに続いて、今度はヨーロッパの川に『幽霊(ゴースト)』が大量出現し、秘密の退魔部隊が出動しているとでも言うのか!?」
「すでに欧州放送連合(EBU)を通じて映像の緊急使用許諾が下りています! 国際ニュース枠で今すぐ速報を出せ!!」
世界中のニュース番組がストラスブールからの中継画面に切り替わった、まさにその直後――午後五時二十八分。
橋の中央で停止しているトラムD線の二両目へと突入したオルド・クロノスの第1班(避難誘導および対悪霊班)が、外から手動コックで車両のドアをプシューッと開け放ち、「生存者の誘導を開始する! 落ち着いて前のドアから順番に外へ出てください!」と車内へ踏み込んだ時だった。
車内のパニックが少し収まり、乗客たちが隊員に守られながら出口へと向かい始めたその通路の真ん中で。
一人の女性――マリー・ルフェーヴルが、避難の列から外れ、まるで足が床に縫い付けられたかのようにピタリと立ち止まった。
マリーの視線の先、わずか三メートル離れた窓際の空間に、一人の「女性の霊体」が静かに立っていた。
さっき車内の照明が明滅した時には、まだそこにはいなかったはずの女性。
十九世紀の古いドレスでもなければ、軍服でもない。少し波打つ柔らかな栗色のセミロングの髪に、生前、秋になるとよく好んで着ていた淡いブルーのニットのカーディガン。そして、少し目尻の下がった、世界で一番優しくて懐かしい目元。
マリーの持つスマートフォンのロック画面の中で、三年前の春からずっと時間が止まったまま笑っていた女性――亡き母、ソフィー・ルフェーヴルが、青白い淡い光を纏って、そこに立っていたのである。
「…………え?」
マリーの唇から、声にならない吐息が漏れた。
最初は、恐怖と混乱が見せた幻覚か、よく似た他人の幽霊なのだと思った。
だが、その淡いブルーのカーディガンを着た女性が、車内の騒ぎの中でふと顔を上げ、マリーの方へと視線を向けた瞬間。
女性の瞳が、信じられないものを見たかのように大きく見開かれ、その唇が、マリーが子供の頃から何万回と聞いてきたあの温かい声の響きそのままで、震えながら動いた。
「……マリー……?」
ガシャン、とマリーの手からハンドバッグが床に落ちた。
すぐ後ろでまだライブ配信用のスマートフォンを構えたまま避難しようとしていた女子大生のナディアのカメラが、立ち尽くすマリーと、その正面に立つ栗色の髪の女性の霊体を、同じフレームの中に鮮明に捉える。
「……ママン(お母さん)……?」
マリーが一歩、前へ踏み出した。
「……あら。……ああ、マリー、本当にあなたなのね……?」
母ソフィーの半透明の頬が、今にも泣き出しそうな、けれどたまらなく愛おしそうな笑顔にほころんだ。
「……少し見ない間に、髪が伸びて……また一段と綺麗になったわね、マリー……」
その一言で、二十九歳の娘の中で張り詰めていたすべての理性の糸が、ぷつりと音を立てて切れた。
「ママンッ!! あああっ、お母さん、お母さんっ!!」
マリーは涙をほとばしらせながら、母の胸へと飛び込もうと通路を駆け出した。
だが、彼女の手が母の淡いブルーのカーディガンに触れる寸前。
横から飛び出してきたオルド・クロノスの若い男性隊員が、マリーの肩を背後からしっかりと抱き止め、前に立ち塞がるようにして接触を制止した。
「待ってください、マドモアゼル! 今は霊体に近づいてはいけません、危険です!」
「いやあああっ、離して!! 離してください!!」
マリーは隊員の腕の中で、子どものように手足をばたつかせて泣き叫んだ。
「あそこにいるのは、私のお母さんなのよ!! 他の誰でもない、私のママンなの!! 三年前に病気で死んじゃったお母さんが、いま目の前にいて、私の名前を呼んでるじゃないの!! あなたに何が分かるっていうのよ、お願いだから触らせて!!」
マリーの魂を振り絞るような悲痛な叫び声に、彼女を抑えている若い隊員もまた、苦渋に満ちた表情で唇を噛んだ。
隊員の目にも、そして彼の装着している霊的位相ゴーグルの数値にも、目の前の女性の霊体に悪霊化の兆候や害意が一切ないことははっきりと分かっていた。単なる「残留思念の映像(エコー)」ではなく、生前の記憶と人格を持ち、自らの意思で娘に語りかけている。それだけは、専門教育を受けた彼にも確信できた。
だから隊員は、決して「あれは偽物です」などという嘘は口にしなかった。ただ、規則と安全のために、胸を痛めながら必死に声をかけた。
「お気持ちは分かります! あの方があなたを覚えていて、あなたを想っていらっしゃることも分かっています! ですが、今は車内に悪霊化した別の個体がいて非常に危険なのです! どうか落ち着いてください!」
隊員の腕越しに、マリーは涙でぐしゃぐしゃになった顔で母を見つめ、震える声で尋ねた。
「……ママン。本当に……本当に、私のお母さんなの……? 私が見てる夢じゃないの……?」
三メートル先で立ち止まったまま、娘を心配そうに見つめていた母ソフィーは、優しく首を横に振って微笑んだ。
そして、静かな、透き通るような声で言った。
「……夢じゃないわよ、マリー。ほら、覚えているでしょう? あなたが七歳の冬、まさにこのライン川の散歩道を二人で歩いていた時、お気に入りだった赤い毛糸の手袋を、片方だけ橋の上から川に落としてしまったわね」
「……っ!!」
マリーの息が止まった。
「パパに知られたら叱られるってあなたがわんわん泣くから、『じゃあママとマリーだけの秘密にしましょうね』って約束して、その日の夜、私があなたに内緒で同じ赤い毛糸を買ってきて、朝まで夜なべして片方だけ新しく編み直したでしょう? 少しだけ編み目が違っていたけれど、あなたは大人になるまでずっと気づかなかったわね……」
それは、日記にも書いていない、父親にすら話したことがない、この世で母ソフィーと娘のマリーの二人しか知らないはずの、二十二年前の小さな冬の記憶だった。
「……知ってたわよ……っ! 右手の親指のところだけ、ちょっと編み目が大きかったの、私ちゃんと気づいてて、宝物にしてたんだから……っ! お母さん……本当に、お母さんなのね……!!」
ナディアは震える手でスマートフォンを支えていた。レンズの向こうでは、世界中の視聴者が、母と娘の交わす言葉を息を詰めて聞いていた。
窓の外の報道カメラも、二人の姿を捉え続けていた。
そして午後五時二十九分。
涙に暮れる母と娘の再会のすぐ背後で、まだ制圧しきれていなかった車内奥の「二つ目の悪霊化個体」が、生者の強い感情の波長に引き寄せられるようにして、天井を這うような異様なスピードでマリーの真後ろへと迫った。
黒い瘴気を纏った鉤爪のような腕が、隊員とマリーの無防備な背中へ向けて振り下ろされようとする。
マリーも、マリーを抑えていた若い隊員も、咄嗟には反応できない死角だった。
そのコンマ一秒前。
誰よりも早くその危険に気づいたのは、正面に立っていた母ソフィーの幽霊だった。
ソフィーの穏やかだった顔が、我が子に迫る危機を前にした「母親の必死の顔」へと一変した。
「――マリー!! 危ない、伏せてっ!!」
ソフィーは、自分が実体を持たない脆い霊体であることも忘れ、娘を庇うために両腕を広げて一歩前へと飛び出し、マリーの身体の前に立ち塞がるようにして自らの霊体を盾にした!
悪霊の黒い腕がソフィーの肩を掠め、彼女の淡いブルーのカーディガンの輪郭がバチッと火花を散らして苦しげに歪む。
「ママンッ!?」
「させんぞ、退けッ!!」
次の瞬間、車両の前方ドアから飛び込んできたオルド・クロノスのベテラン退魔師(騎士班長)が、ルーン文字が輝く白銀の鎖(チェイン・レリック)を鞭のように一閃させた。
シャランッ!! という澄んだ金属音とともに、光の鎖が悪霊の黒い両腕と胴体を幾重にも縛り上げ、そのまま車内の床へと強力に縫い止める。
「対象B、拘束完了! 接触を阻止!」
「ソフィー夫人の霊体、消滅していません、無事です!」
ソフィーは苦痛に顔を歪めながらも、まっすぐ娘を見つめた。
「……怪我はない、マリー?」
その声を、ナディアのスマートフォンが拾っていた。
*
午後五時三十分。
ここからは、ヨーロッパの闇を何世紀にもわたって調律してきた『Ordo Chronos(オルド・クロノス)』の熟練した実働部隊が、その真骨頂を遺憾なく発揮する時間だった。
ニューヨークのマンハッタンでは、灰色のパーカーを着た一人の規格外の青年が、百七十八枚の魔法陣という圧倒的な「個人の火力」によってドラゴンをねじ伏せた。
だが、ここストラスブールのライン川でオルド・クロノスが見せつけたのは、個人のワンマンショーではなく、数百年受け継がれてきた「歴史的知識、聖遺物、そして高度に訓練された組織の分業と連携」による、芸術的なまでの集団危機管理術だった。
「――車内の生存者誘導、最終段階に入る! 観測班、残存霊体の識別データを全隊員のゴーグルへ共有しろ!」
橋の中央に立つファルク指揮官の号令のもと、上空に浮かぶ小型観測ドローンと魔術師たちの視覚がリンクし、橋とトラム周辺にいる二百体以上の霊体が、隊員たちのゴーグルの視界内で瞬時に「赤(悪霊化・危険個体)」と「青(非敵対・一般霊体)」に色分けされてマーキングされた。
「第2車両および橋上北側、赤マーク(悪霊化反応)残り4体! 一般霊体との距離、8メートル以上離れています!」
「よし、対悪霊班、拘束術式および浄化・隔離を許可する!」
黒と銀の装束を纏った退魔師たちが、二人一組(バディ)になって赤マークの悪霊へと踏み込む。
彼らはむやみに大爆発を起こすような攻撃魔法は使わない。一人が古い銀の聖印を掲げてラテン語の典礼文を唱え、空間に光の檻(ケージ)を展開して悪霊の動きをピタリと止めると、もう一人が聖別された塩と香油を塗った魔導槍の石突きで悪霊の核(コア)を正確に突き、周囲の一般霊体や建物を一切傷つけることなく、暴走した怨念だけをピンポイントで鎮静・封印していく。
最初に車内で悪霊に触れられて暴れていた若い男性乗客も、すぐに医療・霊障班のストレッチャーへと乗せられた。
修道女出身の専門医療員が、男性の額に古い聖遺物のロザリオを当てて霊障中和の祈祷を施すと、男性の身体から黒い霧がすっと抜け落ち、白濁していた瞳に正常な光が戻った。
「……憑依状態、完全に解除! バイタルおよび呼吸、正常値に回復しました! ただちに救急車で搬送します!」
その一方で、車内や橋の歩道で怯えて立ち尽くしていた「青マーク(非敵対)」の一般の幽霊たちに対するオルド・クロノスの隊員たちの扱いは、驚くほど丁寧で紳士的なものだった。
車両の隅でブリキの人形を抱いて震えていたあの七歳くらいの女の子の幽霊の前に、大柄なドイツ人の男性隊員が片膝をついてしゃがみ込み、武器を背中にしまって、優しいドイツ語で語りかけた。
「――もう大丈夫だよ、小さなフラウ(お嬢ちゃん)。僕たちは君を傷つけたりしない。ここは今、君がいるべき場所じゃないんだ。ほら、あちらの温かい白いランタンの光が見えるかい? あそこへ行けば、怖くない静かな場所で休めるよ」
女の子の幽霊は、ぱちくりと目を瞬かせ、隊員の優しい目を見てこくりと頷いた。
「……あっちへ行けば、迷子にならない?」
「ああ、約束するよ。さあ、歩いてごらん」
隊員が手で示す先――橋の脇に設けられた「一時的な霊的避難領域(サンクチュアリ)」の柔らかな光の輪の中へと、女の子や、十九世紀の喪服の婦人、ずぶ濡れの老人たちが、自分たちの足で静かに歩いて移動していく。
敵対する悪霊には一切の容赦なく冷徹な鎖を下し、害意なき死者には敬意をもって安息の道を示す。そのプロフェッショナルな対応のすべてが、橋の外の報道カメラに克明に映し出されていた。
午後五時三十三分。
残る最大の懸案は、十四分前に二両目のドア付近で床の空間の裂け目(狭間)へと吸い込まれ、行方不明になっていた四十代の男性乗客の救出だった。
「ファルク指揮官! 第2観測班より報告、消失した生存者の生体反応を捕捉しました!」
観測魔術師がコンソールを指差して叫ぶ。
「場所はどこだ!?」
「物理座標は、この第2車両の後方ドア付近から南へわずか2メートルの地点です! ですが、霊的位相が0.4段階ずれており、現実空間と幽界の狭間のポケット(亜空間)に取り残されています! あと5分で境界を完全に閉じれば、彼は永久に向こう側へ閉じ込められます!」
「……よし、座標が割れているなら十分だ。救出班2名、私に続け」
ファルク指揮官自らがトラムの横へと歩み出た。
彼が右手に握りしめているのは、十六世紀からストラスブールの神秘ギルドに伝わる第三級聖遺物――長さ三十センチほどの古びた銀の鍵『門番の鍵(Clavis Ostiarii)』だった。境界の扉を開閉する概念が付与された、オルド・クロノスの切り札の一つである。
ファルクは何もない橋のアスファルトの上の空間――観測班が示した座標の真正面に立つと、銀の鍵の先端を、何もない虚空へと向けてまるで目に見えない鍵穴に差し込むかのようにグッと突き立てた。
「――《古き盟約と時の律法の名において命ず。重なりし狭間の門よ、生者の帰還のために一時の道を穿て》――解錠(アペリ)!!」
ファルクが銀の鍵を右へ九十度、ガチリとひねった。
その瞬間。
何もない空中に火花のような金色の幾何学紋様が走り、空間そのものが縦二メートル、横一メートルの「扉」の形にパカリと口を開けたのである。扉の向こう側には、灰色の深い霧が立ち込める薄暗い水辺のような景色が覗いていた。
「扉を維持する時間は百二十秒だ! 救出班、命綱(ライフライン)を繋いで突入しろ!」
「了解!!」
特殊防護服を着た二人の救出隊員が、発光する魔導ワイヤーを腰に繋いで光の裂け目の中へと飛び込んでいく。
地上から見守る報道陣や乗客たちが息を呑む中、わずか九十秒後。
ワイヤーが強く引かれ、二人の隊員が、両手で頭を抱えてうずくまっていた四十代の男性乗客の両脇を抱きかかえて、灰色の霧の向こう側から現実の橋の上へと勢いよく飛び出してきた!
「生存者、確保ォッ!!」
ファルクが即座に銀の鍵を左へとひねり戻すと、空中に開いていた異界の裂け目はパタンと音を立てて閉じ、元の何もない夜空へと戻った。
救護班の毛布にくるまれ、酸素マスクを当てられた男性乗客は、外傷一つなく無事だったが、ガタガタと震えながら医師に向かってこう呟いていた。
「……む、向こうの霧の中に、何千人、何万人もの人が立ってたんだ……。誰も俺を襲ったりはしなかったけど、みんな、自分の帰る家や、残してきた家族の名前を呼んで、ずっと出口を探してた……」
そして午後五時三十五分。
すべての生存者の救出と避難が完了し、作戦は最終段階である「破綻した霊的境界の完全修復・封鎖」へと移った。
『こちら第1接合点(フランス側)、魔導アンカー固定完了!』
『第2接合点(橋中央部)、固定完了!』
『……っ、指揮官! ドイツ側(ケール側)の第3接合点から緊急報告です! 川底の地脈の乱れが予想より強く、通常の魔導杭では結界の出力が足りません! このままでは境界が再決壊します!』
ドイツ側の岸から、赤い警告信号が上がる。
だが、ファルク指揮官は眉一つ動かさなかった。彼はすぐさま背後に控えていた装備管理官を振り返り、短く命じた。
「特殊運搬ケースを開けろ。ストラスブール大聖堂の地下聖具室から予備として持参した第二級聖遺物――『大司教の封蝋印(Sigillum Episcopi)』を第3接合点のコアに接続しろ」
装備管理官が一瞬だけ躊躇した。
「し、しかしファルク指揮官! 第二級聖遺物の実戦使用には、本来ブリュッセルの評議会における三派閥以上の事前承認署名が必要と規定されておりますが……!」
「使用条件である『広域境界破綻の危機』は現に目の前にある。緊急対処条項第4項に基づき、現場指揮官の特権でロックを解除する。後の査問委員会への始末書は私が一人で百枚でも書いてやる、今すぐ繋げ!」
「は、はいっ! 認証ロック解除、接続します!!」
これこそが、オルド・クロノスという組織の底力だった。
彼らが持つ「聖遺物」と「古代契約術式」は、特定の歴史的血統や正式な継承手順を踏んだ者が、定められた条件の下で起動するものだった。今、十二名の術師と古い聖遺物が一つの術式を支えている。その連携には、数百年分の経験と継承された技術が息づいていた。
ドイツ側の岸で、黄金の匣から取り出された赤い封蝋印の聖遺物が魔導回路に接続された瞬間。
ゴォォォォン……ッ、と、目に見えない大聖堂の鐘の音がライン川の谷間全体に重々しく響き渡った。
フランス側とドイツ側の両岸に立つ十二名の結界術師たちが、一斉に杖を掲げて最終詠唱を開始する。
「――全員、準備はいいな」
ファルクがインカムで確認する。
『非敵対霊体の隔離領域への誘導、完了!』
『悪霊化個体6体、すべて制圧・封印済み!』
『トラム乗客120名と橋上・周辺市民8名、計128名の安全確保を確認!』
ファルクは静かに頷き、右手を高く掲げて振り下ろした。
「――では、境界を閉じるぞ。術式起動(クラーヴェ)!!」
次の瞬間。
ベアトゥス・レナヌス橋の上空二百メートルの夜空に、ストラスブール大聖堂の正面を飾るあの有名なゴシック建築の傑作――『バラ窓(ローズ・ウィンドウ)』をそのまま直径五百メートルの光のステンドグラスに拡大したかのような、息を呑むほど精緻で荘厳な極彩色の巨大魔術陣が、パァッと浮かび上がった!
無数の幾何学的な光の線と、古い欧州の紋章、そしてラテン語の祈りの文字が幾重もの円環となって静かに回転し、そこから降り注ぐ穏やかな金色の光の雨が、橋とライン川の全体を優しく包み込んでいく。
『――霊的境界(ヴェール)、再接続完了!』
『幽界からの流出、完全に停止しました!』
『川面の顕在化反応、急速に減衰していきます!』
午後五時三十九分。
上空の巨大なバラ窓の紋様から降り注ぐ光の中で、ライン川の黒い水面を埋め尽くしていた何百もの「死者の行列」が、足元から淡い金色の光の粒子へと変わり、一人、また一人と、静かに夜の空気の中へと薄れて消え始めた。
その橋のたもとの退避エリアで、毛布を肩にかけられたマリー・ルフェーヴルは、規制線のすぐ向こう側の保護領域に立つ母ソフィーの幽霊の姿が、同じように金色の光に包まれて透け始めたのを見て、規制ロープを掴んで叫んだ。
「ママン!! いや、待って、消えないでママン!!」
ソフィーがゆっくりと振り返り、マリーの方を見て微笑んだ。
「待ってよお母さん! まだ三年間あったこと、何にも話してない! 私、もっといっぱいお母さんに話したいことや、謝りたいことがあるのよ!!」
泣きじゃくりながら手を伸ばす娘に向かって、半透明になったソフィーは、少し困ったように、けれど生前と少しも変わらない深い慈愛に満ちた目で、優しく首を横に振った。
「……私もよ、マリー。あなたのお仕事の話も、新しいお友達の話も、もっとたくさん聞きたかったわ」
「じゃあ、行かないでよ……!」
「でもね、もう行かなくちゃいけないみたいなの。あのお兄さんたちが開けてくれた暖かい場所へ戻らないと、あなたに悪いことが起きちゃうからね」
「……また、会える!? ねえママン、またいつか会えるよね!?」
その切実な問いに、母ソフィーの幽霊は、すぐには答えることができなかった。
ただ、透き通っていく自分の手を見つめ、それから娘の顔を真っ直ぐに見て、小さく言った。
「……それは、分からないわ、マリー」
「……そんな……」
「でもね、マリー。泣かないで。三年ぶりにあなたの声が聞けて、あなたがちゃんとお仕事をして、元気に大人になって生きている顔を見られて……お母さん、本当に、本当に嬉しかったわ。ありがとう、私の可愛いマリー……」
ソフィーが最後に娘へ向かってそっと手を振り、その輪郭がひとしきり強く金色の光を放つと――次の瞬間には、淡いブルーのカーディガンの姿は光の粒となって夜空へと溶け、そこにはただ、誰もいない橋の石畳だけが残されていた。
「……お母さん……っ、ママン……っ!!」
膝から崩れ落ちて泣き崩れるマリーの肩を、そばにいたオルド・クロノスの女性隊員がそっと抱きしめて支えた。
そして、ライン川の水面からも最後の霊体の影が消え去り、上空の巨大なバラ窓の光陣が静かにフェードアウトしていくと、川面にはいつもの静かな波音と、街灯の反射だけが戻ってきていた。
*
午後五時四十五分。
異常発生の午後五時十五分から、きっちり三十分後。
ベアトゥス・レナヌス橋のフランス側たもとに設営された現地指揮車の中で、アドリアン・ファルク指揮官は、各班長から上がってくる最終完了報告を静かに受けていた。
「――第3区画の霊的境界、完全に安定。接合部の強度は通常時の120パーセントで固定されました」
「周囲1キロ圏内に残存する悪霊化反応、ゼロ。一般霊体もすべて境界内および保護領域へ収容完了」
「狭間へ転落した男性1名を含む乗客120名、および周辺市民8名、計128名の無事を再確認。憑依被害者1名および軽度の過呼吸・転倒による軽傷者3名は、霊障処置の上でストラスブール大学病院へ搬送完了。フランス警察およびドイツ警察への現場引き継ぎも終わりました」
「……よし。全員、よくやった」
ファルクはそこで初めて、張り詰めていた肩の力を抜き、一度だけ深く長い息を吐き出した。
死者ゼロ。重傷者ゼロ。行方不明者ゼロ。
一歩間違えれば百人以上の市民が幽界へ引きずり込まれるか悪霊に憑依されて大惨事になっていた「第2級広域心霊災害」を、異常発生からわずか三十分で完全に鎮圧してみせたのだ。実働部隊の指揮官として、これ以上ない完璧な作戦遂行だった。
――だが、すぐ隣で通信端末を操作していた副官の男が、真っ青な顔でファルクの方を振り返った。
「……ファルク指揮官。現場の鎮圧は完了いたしましたが……情報管理(秘匿)の件について、報告がございます」
「……言え」
「は、はい。先ほどのトラム車内における霊体の出現から、乗客の消失、我々オルド・クロノス部隊の展開、そして最後の『バラ窓』の大結界術式による封鎖に至るまで……乗客のスマートフォンおよび橋の両岸に詰めかけた報道陣のカメラによって、一部始終が全世界の主要通信社・テレビ局へ生中継されました」
「……そうか」
「特に……車内で乗客の女性(マリー・ルフェーヴル氏)が、三年前に亡くなった実の母親の霊体と再会し、昔の記憶について会話し、母親の霊が悪霊から娘を庇った一連のシーンが、極めて鮮明な音声付きで全世界に拡散されておりまして……すでに再生数は数千万回に達しております」
ファルクは数秒間だけ静かに目を閉じた。
「……つまり、今回の事案を『ガスの漏洩による集団幻覚』や『映画の撮影』として秘匿することは、100パーセント不可能になったということだな」
「はい……。今からでも情報統制班を出して、現場の乗客たちのスマートフォンを強制没収し、動画の削除を命じますか!?」
「馬鹿なことを言うな」
ファルクは目を開け、きっぱりと首を横に振った。
「すでにロイターやAFP、CNNの国際回線に乗って世界中のサーバーにコピーされた映像を、今さら現場で怯えている市民の携帯電話を取り上げた程度で消せると思うか? そんな無意味な強権を発動すれば、せっかく人命を救った我々が『市民を脅す悪の秘密警察』としてカメラに撮られるだけだ。撮影者を追い回すことは一切禁じる」
「で、では、いかがいたしますか!?」
「先週の日本とアメリカ、そして今日の昼の中国と同じだ。隠せない以上、我々が次にやるべき仕事は一つしかない。『現場で何が起き、誰がどう対処したのか』を、パニックを防ぐために公の場で正確に説明することだ。ブリュッセルの評議会本部と、仏独両政府の窓口へ繋げ!」
午後五時五十分。
ファルクが覚悟を決めた通り、世界中のテレビ画面とニュースサイトは、すでにこの「ライン川の三十分間」の映像で完全に埋め尽くされていた。
フランスのニュースチャンネル『BFM TV』では、キャスターが興奮した面持ちで画面を指差していた。
『ストラスブールのライン川で発生した異常事案について、現地当局は午後5時45分をもって危険が完全に解消されたと発表しました! しかしご覧ください、この映像を! 水面に立つ何百人もの人影、そして車内で亡くなった母親と涙ながらに会話する女性の姿が、全世界に衝撃を与えています!』
ドイツの公共放送『ARD』でも、特別番組が組まれていた。
『ケールとストラスブールを結ぶ橋の上で、フランス・ドイツ両国の警察と連携した「謎の専門部隊」が、幾何学的な光の結界を使って30分で事態を収拾しました。乗客は全員救出されましたが、私たちが目撃したあの方々は、本当に死者の魂(Geister)だったのでしょうか!?』
大西洋の向こう、午前十一時五十分を迎えたアメリカの『CNN』では、アンカーマンが信じられないといった顔で原稿を読んでいた。
『金曜日にここニューヨークにドラゴンと魔法使いが現れてから、まだ5日しか経っていません。そして今日、ヨーロッパのライン川では、ついに「幽霊(Ghosts)」としか呼びようのない存在が世界中のカメラの前で群れを成して歩き、生きた家族と会話を交わしました……!』
そして、深夜一時五十分を迎えていた日本のテレビ各局でも、緊急報道特番のチャイムが鳴り響き、眠りについていた人々を再び叩き起こしていた。
また、わずか九時間前に「青幇」の名前を公表して一息ついていたばかりの中国・北京の国営放送局のデスクでも、深夜零時五十分のモニターに映るライン川の死者の行列を見て、当直の編集長が「……超能力者と青幇の次は、ヨーロッパで幽霊の公式デビューかよ……もう勘弁してくれ……」と頭を抱えて突っ伏していた。
*
午後六時十分(現地時間)。ストラスブール市内のバ=ラン県庁・緊急記者会見場。
事態の収束からわずか二十五分という異例の早さで、フランス内務省およびドイツ連邦内務省の現地代表、ストラスブール市警の幹部、そしてその隣に並んだ二人の人物――背広姿の『オルド・クロノス公式広報連絡官』の男性と、現場から直行したアドリアン・ファルク指揮官による、合同緊急ブリーフィングが開催された。
欧州議会の所在地でもあるストラスブールには、もともとヨーロッパ中の主要メディアの支局が集まっている。会見場は、駆けつけた百名以上の記者たちの熱気でむせ返るようだった。
まずフランス内務省の代表から「本日17時15分に発生したトラムD線およびライン川橋梁における異常事案は、17時45分をもって完全に鎮圧・収束し、乗客および市民の死者はゼロ、一時行方不明となった1名も無事救出された」との公式発表が行われた。
続いてマイクを引き継いだ広報連絡官が、静かに、しかし歴史的な重みをもって組織の名を明かした。
「――なお、本日の現場における専門的な事象封鎖、ならびに生存者の救出作戦には、欧州各国の政府および公的機関と長年にわたり特別協力協定を結んでいる、超常・神秘事象対応の広域連合機構――『Ordo Chronos(オルド・クロノス)』の現地即応班が全面的にあたり、これを完遂いたしました」
会見場に、一斉にフラッシュの嵐とざわめきが走る。
「オルド・クロノス……!」「アメリカのMAJESTIC-12、中国の青幇に続いて、欧州も管理組織の名前を出したぞ!」「日本はまだ専門機関の名称を正式には発表していないのに……!」と、記者たちが猛然とメモを走らせる。
そして、質疑応答が始まった瞬間、最初の質問に立ったフランス国営テレビの記者が、世界中の誰もが最も知りたがっている「直球の問い」をぶつけた。
「質問します! 本日、ライン川の水面やトラムの車内に数百体単位で出現し、カメラにも鮮明に映し出されたあの『古い服装の人影』について、オルド・クロノスおよび当局は正体を把握しているのですか!? あれは幻影能力者のイタズラですか、それとも……本当に『死者の霊』なのですか!?」
会場のすべてのマイクと視線が、オルド・クロノスの連絡官へと集中した。
連絡官はファルク指揮官と一度だけ視線を交わし、それから正面を向いて、一切の曖昧さを排した明確な声で答えた。
「お答えいたします。本日、ライン川第3区画の霊的境界の一時的な破綻に伴って現実空間へ顕在化した存在は、誰かの作り出した光学幻影などではありません。
古来より私たちが一般に『幽霊(ファントム/ガイスト)』、あるいは専門用語で『霊体(スピリチュアル・エンティティ)』と呼んできた――かつて生存し、すでに生物学的な死を迎えた人間の霊的存在です」
一拍の沈黙ののち、会見場全体が「うおおおっ……!」「公式に『幽霊』だと認めたぞ!!」という蜂の巣を突いたような大騒ぎになった。
連絡官は手を挙げて記者たちを制し、誤解を防ぐための重要な留保を付け加えた。
「ただし、誤解なきよう申し添えますが、本日確認されたのは、死亡した方の記憶や人格を持ち、自ら意思を示す霊的存在が顕在化したという事実です。故人の意識がそのまま継続しているのか、何らかの形で故人を再現した存在なのかについては、専門家の間でも見解が分かれています。また、今回の事例だけで、天国や地獄の構造、輪廻転生といった特定の死生観のすべてが証明されたわけでもありません」
すると、すかさずドイツ紙の女性記者が立ち上がり、本日世界中を涙と衝撃に包み込んだ「あの映像」について斬り込んだ。
「確認させてください! 本日のライブ映像の中で、最も世界中に衝撃を与えたのは、トラムの車内で二十九歳の女性乗客が、三年前に亡くなった実の母親の姿をした幽霊と再会し、幼少期の秘密の記憶について会話を交わし、さらにその母親の幽霊が悪霊から娘を身を挺して守った場面です!
オルド・クロノスの専門家の分析として、あの女性の幽霊は、単なる記憶の残像や偽物ではなく、本当に亡くなった彼女の『母親本人』だったのですか!?」
連絡官は、ほんのわずかだけ言葉を選ぶように間を置き、そして誠実に頷いた。
「……あの霊体が、生前のソフィー・ルフェーヴル氏と一致する記憶や人格を保持していたことは確認されています。ただし、それをもって意識そのものが死後も連続していると断定できるかどうかは、別の問題です。ご本人であるという説もあれば、記憶や人格を再現した別存在であるという説もあります。現時点では、いずれかを確定することはできません」
「……あれほど本人としか思えないのに、断定はできないのですか?」
女性記者が戸惑った、その直後だった。
隣の席にいたイタリア紙の記者が立ち上がり、場の空気を一変させる鋭い質問を投げかけた。
「――であれば、お聞きします! あれが亡くなったお母様ご本人である可能性は否定できず、しかも娘さんを愛して守ろうとするほど穏やかで理性的な状態であったのなら、なぜオルド・クロノスの隊員は二人が抱き合うのを止め、最後には結界を使って母親を元の境界の向こうへ送り返してしまったのですか!?
亡くなった愛する家族が目の前に戻ってきたのなら、そのまま娘さんと一緒に自宅へ帰してあげるのが、人道的な対応ではありませんか!?」
会見場がピタリと静まり返った。
テレビの前の何千万もの視聴者もまた、あの引き裂かれるような母と娘の別れのシーンを見て、まったく同じ疑問を抱いていたからだ。
マイクを引き継いだ現場指揮官のアドリアン・ファルクが、低く落ち着いた、しかしどこか重い響きを持った声で口を開いた。
「現場指揮官として、まず安全管理上の理由からお答えします。
確かに、あのお母様の霊体は生前の愛情と理性を保っておられました。私たちは決して、すべての幽霊を危険な怪物だとみなしているわけではありません。
しかしながら、肉体という器を失った『霊体』は、この物質界(生者の空間)に留まり続けること自体が極めて不安定であり、周囲の環境負荷や生者の強い感情の波長に当てられることで、本人の意思とは無関係に突如として『悪霊化』し、一番近くにいる愛する家族の生命力を奪ったり精神を破壊したりする事例が、過去に数多く確認されています。また、生者が霊体に直接触れ続けること自体が、生者の側に深刻な健康被害(霊障)を引き起こすため、安全確認のない状態での接触や同居を認めることはできないのです」
安全上の説明には一定の説得力があったが、さらに別のフランスの法曹担当記者が手を挙げ、今度は「法律と制度」の問題へと踏み込んだ。
「安全上のリスクについては理解しました! では、法的な地位について伺います!
今、広報官は『亡くなった本人である可能性は否定できない』と説明されました。ならば、もし安全な隔離環境などで意思疎通が可能な幽霊が確認された場合、その幽霊は法律上も『生前の本人』として認められ、家族としての権利や財産権、あるいは基本的人権を持つことになるのですか!?」
その質問が飛んだ瞬間、壇上の広報連絡官とフランス・ドイツ両政府の法務官の顔が、一斉に険しくこわばった。
数秒間の重い沈黙ののち、広報連絡官は、現在世界中の超常管理機関と各国政府の間で適用されている「冷徹な現行制度」の事実を、正確に読み上げた。
「……お答えいたします。現行のフランスおよびドイツの法制度、ならびに各国の超常管理機関が用いる実務上の取り決めにおいては――たとえ生前の記憶や人格が一致していたとしても、すでに死亡した人物と、その後に顕在化した『幽霊(霊体)』とは、法律上『同一の法的主体』としては扱われておりません。こうした霊体は、法的・行政的には『存在痕跡』という区分で扱われます」
記者席が「……え?」「今、なんと言った?」とざわめく。
連絡官は言葉を継いだ。
「人間は、医学的・法的に死亡が確認された時点で、原則として自然人としての『法的人格(権利能力)』を終了します。
したがって、その後にその方の幽霊が現れたとしても、法律上は『その方が死亡したという事実』が取り消されるわけではなく、霊体は生前の法的身分、婚姻や親権などの家族関係、遺産相続などの財産権を一切継承いたしません。
すなわち現行制度において、幽霊に対しては、生きた人間と同一の『法的人格および基本的人権』は認められていない、という扱いになっております」
その言葉が落ちた瞬間、会見場は今日一番の激しい怒号と混乱の渦に叩き込まれた。
「ちょっと待ってください!! 『本人かもしれないのに、法律上は本人として扱わず、人権もない』というのは、どういうことですか!?」
「先ほどの映像を世界中が見たんですよ!? あのお母様は娘の名前を呼び、七歳の時の赤い手袋の思い出を語り、自分の身を挺して悪霊から娘を守ったじゃないですか! 心も記憶も愛情も生前のままそこにあるように見えるのに、法律の上では『人間ではなく、ただの現象(モノ)』として扱うというのですか!?」
「昨日、ローマ教皇は『異能者も人間である限り尊厳がある』と演説されましたが、一度死んで幽霊になった人間には尊厳も権利もないと、ヨーロッパの機関は主張するのですか!?」
四方八方から浴びせられる感情的な反発の嵐の中で、連絡官は汗を滲ませながらも、制度を守る官僚として必死に答えた。
「わ、私どもも、故人の霊に対するご遺族の感情や尊厳を軽視しているわけでは決してありません! ただ、もし死者である霊体に対して生前と同じ法的人格や財産権、参政権や家族権をそのまま認めれば、相続も、再婚も、社会のあらゆる法秩序が根底から崩壊してしまうため、生者の法体系とは厳格に区別されているのです……!」
記者席の前列では、母娘の再会を映していたタブレットが、まだ再生を続けていた。
広報官が何度説明を重ねても、質問のために挙がる手は一向に減らなかった。
*
午後六時四十分(欧州時間)。
ストラスブールでの記者会見の模様が国際回線で流れると、その衝撃波はまず、世界中の一般市民よりも先に、各国の「裏の超常管理組織」のオフィスを直撃し、担当官たちをパニックと頭痛のどん底へと叩き込んでいた。
どの国の組織も、幽霊が実在することや、霊体に法的人格がないという現行制度自体は、当然ながら昔から知っていた。
彼らが頭を抱えたのは、「幽霊が実在し、亡くなった家族と同じ記憶や人格を持つ存在と会話できる」という事実が、これ以上ないほど劇的で感動的な映像とともに全世界の一般市民に知れ渡ってしまったことで、明日の朝から自分たちの窓口に何が押し寄せてくるかを、一瞬で理解してしまったからである。
【日本・東京:八咫烏・夜間当直フロア(日本時間 11月5日 午前2時40分)】
深夜二時過ぎの霞が関の地下フロアで、夜間当直の主任と数名の職員たちは、大型モニターに映し出されたストラスブールのバラ窓の結界映像と、その後の記者会見の同時通訳を見つめながら、揃って乾いた笑いを浮かべていた。
「……いやあ、発生からたった三十分で240体の霊体流出を完全封鎖して、狭間に落ちた一般人まで無傷で引きずり出すとはな。さすがは『オルド・クロノス』の古参連中だ、現場の退魔と境界術の手際に関しては、文句なしの世界最高峰だな」
「ええ、現場対応は百点満点でしたね。……ただ、主任。本当の地獄はここからですよ」
若い当直職員が、すでに鳴り始めている報道各社からの夜間照会電話のランプを指差した。
「あの『亡くなったお母さんと娘の再会映像』と、『幽霊は生前の記憶を持つが、法律上は本人と認められない』という会見が、今まさに日本のSNSでも爆発的に拡散され始めています。
明日の朝八時半に役所の窓口が開いた瞬間、日本中のご遺族や一般市民から、どんな電話が何万件かかってくると思いますか?」
当直主任の顔から、スーッと血の気が引いていった。
「…………『昨日ヨーロッパのニュースを見ました。私の亡くなった妻(夫・親・子供)にもう一度会わせてほしいのですが、政府の専門機関の霊媒師を紹介してもらえますか?』……か」
「はい! それだけじゃありません、『恐山のイタコや近所の霊能者は登録能力者なのか』『幽霊が本人かもしれないのに人権がないとはどういうことだ、日本の民法でも同じなのか』『死んだ親父の幽霊が出てきたら遺産分割協議はやり直しになるのか』……!
霊媒師の管理部門、心霊事象対策班、法務省の民事局、そして第三契約管理室の相談窓口まで、明日の朝イチで全部パンクしますよ!!」
当直主任は三秒間ほど天井を仰ぎ見、それからデスクの上の栄養ドリンクの瓶を鷲掴みにして立ち上がった。
「……全員、仮眠は中止だ! 法務担当と心霊課の非番を今すぐ叩き起こせ! 朝のワイドショーが始まる午前六時までに、『日本国内における霊体の法的地位、および一般市民からの降霊・再会要望への対応方針』についての想定問答集(Q&A)を百項目作るぞ!!」
「「「えええええええっ!?(泣)」」」
【アメリカ・ワシントンD.C.:MAJESTIC-12 情報分析室(米東部時間 11月4日 午後0時40分)】
昼休みの時間帯だったMAJESTIC-12の本部でも、サンドイッチを片手にしたコールマン主席連絡担当官と分析官たちが、モニターの前でまったく同じ種類の悲鳴を上げていた。
「……オルド・クロノスの連中め、普段の国際会議では『伝統と格式』ばかり振りかざして融通が利かないと思っていたが、現場の境界封鎖術式の美しさと速さだけは見事なものだな」
「はい、コールマン主席。ですが、彼らがカメラの前で『幽霊は実在し、生前の記憶や人格を持つ』と公式に認めてしまったせいで、たった今、ホワイトハウスと当機関の広報回線が再び炎上を開始いたしました!」
オペレーターが泣きそうな声でヘッドセットを押さえる。
「全米のメディアと市民団体から、『アメリカ政府とMAJESTIC-12は、死者と交信する技術や施設を保有しているのか!?』『過去の災害、戦争で亡くなった家族の霊を呼んでもらうことは可能なのか!?』『過去に全米で報告されたポルターガイストや心霊スポットの調査記録を情報公開法(FOIA)に基づきすべて開示しろ!』という要求が、毎分千件のペースで殺到しております!」
コールマンは、食べかけのサンドイッチを皿に戻し、静かに懐から胃薬のシートを取り出した。
「……金曜日はドラゴンと魔法陣、土曜日はハロウィンの星空、火曜日はローマ教皇、水曜日の朝は中国の青幇、そして水曜日の昼にヨーロッパの幽霊か……。地球の超常現象どもは、少しは順番待ちというものを知らんのかね……とにかく『当機関は個人のための降霊サービス業務は一切行っていない』と緊急声明を出せ。胃に穴が開く……」
【バチカン市国:教皇庁・国務省および教理省連絡室(ローマ時間 11月4日 午後6時40分)】
ストラスブールと同じタイムゾーンにあるバチカンでは、被害はさらに直接的だった。
昨日の午前中、不眠不休の準備の末にローマ教皇の歴史的な特別演説と八項目の司牧指針を全世界に送り出し、「これでようやく大きな山は越えた……」と安堵していた参事官と若いアントニオ司祭の部屋に、広報局の職員が血相を変えて飛び込んできたのだ。
「参事官!! 大変です、フランスのストラスブールで霊的境界が決壊し、二百体以上の『死者の霊(幽霊)』が出現する映像が全世界に生中継されました! しかもオルド・クロノスが公式会見で『死者の記憶や人格を持つ幽霊である』と認めてしまいました!!」
「……な、なんだと!?」
「現在、世界中のカトリック教区および報道機関から、バチカンに対して新たな質問が殺到しています! 『死んだ人間の霊がこの世を歩いているということは、カトリックが教えてきた天国・煉獄・地獄の教義はどうなるのか!?』『まだ成仏していない家族の霊を救うために、教会で特別のミサや降霊を行ってくれるのか!?』『幽霊には法的人格がないと発表されたが、教会法上、幽霊は信徒なのか!?』と……!」
参事官は、昨日片付けたばかりの机の上を見つめ、魂が抜けたような顔で椅子に沈み込んだ。
「……アントニオ。教理省の神学者たちと典礼秘跡省の枢機卿方に、もう一度緊急招集の連絡を入れてくれ」
「……ま、またですか、参事官!? 昨日の夜、ようやく解散して帰られたばかりですよ!?」
「まただ!! 生きた異能者の隣人愛を説いた翌日に、今度は『死んだ隣人(幽霊)』の神学定義を迫られるとは、主も我々に試練をお与えになりすぎだ……!」
【中国・北京:青幇・政府連絡窓口事務所(中国標準時 11月5日 午前1時40分)】
そして、ある意味で世界中で一番気の毒だったのは、北京の胡同にある『青幇』の連絡事務所で徹夜作業をしていた顧連華と実務スタッフたちだった。
彼らが国務院の記者会見で「青幇」の名前を世間に公表してから、まだ十時間も経っていない。昼間の会見に対する国内メディアからの何千件もの問い合わせの整理に追われていた深夜一時過ぎ、ヨーロッパからの緊急速報が飛び込んできたのである。
「……顧代表! 国務院新聞弁公室の当直デスクから、緊急の協力要請が入りました!」
部下が青い顔で駆け込んでくる。
「なんだ、こんな夜中に?」
「は、はい! つい先ほど、ヨーロッパのライン川で大量の『幽霊(鬼魂)』が出現し、欧州のオルド・クロノスが幽霊の実在を公式に認める記者会見を行いました! それを受けて、明日の朝には中国のネットやメディアでも『中国にも幽霊や冥界は実在するのか!?』『青幇は幽霊も管理しているのか!?』という質問が殺到することが確実なため、明朝八時までに『我が国における霊体・魂魄現象の科学的・実務的説明資料』を作成して提出してほしいとのことです!」
スーツの上着を脱いで腕まくりをしていた顧連華は、持っていた万年筆をピタリと止め、信じられないものを見る目で部下を見つめた。
「……ちょっと待て」
「は、はい」
「我々青幇は、今日の夕方四時に、三百年近く世間から隠してきた組織の存続と実態を、初めて公表したばかりだぞ?」
「……はい、その通りでございます」
「その記念すべき公表初日の夜中に、まだ自分たちの組織の説明すら終わっていないのに、もうヨーロッパの幽霊の解説資料まで作らされるのか?」
「……国務院の広報官も『仙人や天帝の質問と混ざると収拾がつかなくなるので、幽霊については青幇の専門知見でなんとか整理してくれ』と泣きついてきておりまして……」
顧連華はしばらく無言で天井を見つめ、やがて深々と、建国以来一番重いため息を吐き出した。
「……まったく、仕事が早いにもほどがあるぞ、我が国の政府は。おい、陰陽・魂魄部門の老師たちを起こして茶を淹れろ、今夜は徹夜だ!」
【欧州某所:世界吸血鬼協会・常任理事会オンライン回線(同時刻)】
また、表の行政機関だけでなく、いまだ秘密のベールの奥に身を潜めている「人外共同体」の幹部たちも、このストラスブールの記者会見を厳しい目で見つめていた。
暗号化回線のモニター越しに、ヨーロッパとアメリカの吸血鬼委員会の理事たちが言葉を交わす。
『……聞いたか。オルド・クロノスの広報官が、記者会見で「現行制度において、幽霊には生きた人間と同一の法的人格(人権)は認められていない」と明言したぞ』
『ああ。我々「生きた人外種族(吸血鬼や人狼)」には秘密条約によって基本的人権に準ずる法的地位と財産権が認められている一方で、元々人間であった「死者(幽霊)」には法的人格が一切認められていないという、裏の法体系の最大のねじれが、ついに表の社会の目に触れてしまった』
『まだ一般社会は我々吸血鬼の存在を知らないが、もしこれから表の世界で「記憶と人格を持つ人間以外の存在(幽霊)にどこまで法的権利を認めるべきか」という大論争が始まれば、いずれ必ず議論の矛先は我々人外共同体の法的地位にも及ぶことになる』
『……まだ我々が表へ出るつもりはないが、人間社会の法制度が一度音を立てて動き始めた以上、我々も無関係ではいられなくなるな。各国の法務ロビイストたちに警戒レベルを上げさせろ』
*
午後七時三十分(中央ヨーロッパ時間)。
ストラスブール旧市街の地下にある『Ordo Chronos(オルド・クロノス)』の支部会議室。
現場の完全撤収と警察への引き継ぎを終えて帰還したアドリアン・ファルク指揮官は、大型モニター越しにブリュッセルの連合評議会本部の監査役および事務総長と向き合い、本日の作戦の最終報告を行っていた。
「――以上が、本日17時15分から17時45分にかけて実施した、ライン川第3区画・霊的境界破綻事案の対処結果です。
境界の再接続および補強は完了。顕在化した霊体242体のうち、悪霊化した6体は制圧・封印し、残る236体の非敵対霊体は一時保護領域を経由して境界内へ安全に還流させました。一時狭間へ転落した1名を含む市民128名は全員無事であり、死者はゼロです」
モニターの向こうの事務総長(白髪の威厳ある老貴族風の男性)は、手元の報告書に目を落とし、深く満足そうに頷いた。
「見事な指揮だった、ファルク指揮官。第二級聖遺物の緊急使用判断も含め、現場の作戦行動については一点の非の打ちどころもない。わずか三十分であの規模の境界破綻を死者ゼロで封じ込めたことは、我々オルド・クロノスの数世紀にわたる伝統と実力を世界に知らしめる結果となった。評議会を代表して労をねぎらう」
「はっ、光栄です」
「……ただ」
事務総長の表情が、そこで苦虫を噛み潰したような渋いものへと変わった。
「問題は、その後の広報および世界の世論の反応だ。広報担当、現在の状況を報告しろ」
会議室の端に控えていた広報部門の責任者が、タブレットの画面を見ながら冷や汗を拭った。
「は、はい。現在、世界中のすべての主要ニュースネットワークが、本日のトラム車内の映像――特にマリー・ルフェーヴル氏と亡き母親ソフィー夫人の霊との再会映像をトップニュースで繰り返し放送しております。
そして、先ほどの合同ブリーフィングでご説明した『幽霊が本人であるかどうかは未解明だが、法律上は生前の人物と同一の法的主体とはみなさない』という現行制度について、メディアや法学者、人権団体、そして一般市民から猛烈な反発と疑問の声が巻き起こっております」
事務総長は眉をひそめた。
「……なぜだ? 広報官は、欧州各国の法制度と、我々を含む超常管理機関が長く運用してきた実務上の取り決めを説明しただけではないか。霊体の安全管理も、死者の権利義務をめぐる問題も、これまで幾度となく検討してきたはずだ。説明のどこに誤りがあった?」
「誤りはございません。ただ、説明が届いていないのだと思います」
広報責任者は、言葉を選びながら静かに答えた。
「私たちは長年、霊体をどのように保護し、危険な状態に陥った時にどう対処するかを議論してきました。しかし今日初めて映像を見た方々は、まず『あのお母さんは娘さんを守ったのに、なぜ引き離されたのか』と問いかけているのです。
私たちが制度の説明を続けるほど、あの母娘の再会を否定されたと感じる方もいます。ご遺族が求めているのは、法的な分類の名前だけではないのでしょう」
会議室に、重い沈黙が落ちた。
その時、部屋の奥にある外部連絡用の通信コンソールから、先ほどからひっきりなしに点滅していた着信ランプを見ていた通信担当官が、震える声で手を挙げた。
「……総長、ならびにファルク指揮官。新しい報告です」
「なんだ? またどこの国の政府からの照会か?」
「はい、各国政府やバチカン、医療機関からの公式照会も数百件届いておりますが……それだけではありません。先ほどの記者会見で『オルド・クロノス』の名称が公表されて以来、フランスとドイツの警察窓口や、当支部の表向きの代表電話、メールサーバーに対して、世界中の『一般市民』から直接、何万件もの相談と懇願が殺到し始めております」
「……一般市民からだと?」
ファルクが振り返り、通信担当官のモニターへと歩み寄った。
「どのような内容だ?」
女性の通信担当官は、画面に次々とポップアップしてくるフランス語、ドイツ語、英語、スペイン語、日本語のメッセージの中から、いくつかの音声留守番電話とメールのテキストを震える声で読み上げた。
『――もしもし、オルド・クロノスの方ですか。ニュースを見ました。私の妻は五年前に病気で亡くなりました。ほんの五分、いいえ、一分だけでもいいのです、今日のトラムのお母さんのように、妻の霊を呼んでもう一度だけ話をさせていただけないでしょうか……』
『――お願いです、先月交通事故で亡くなった十歳の息子の霊が、まだあの川の人たちのようにどこかで迷っているかもしれません。お金ならいくらでも払います、あの子に「大好きだよ」と伝える方法を教えてください……』
『――母が亡くなる前日に喧嘩をして、謝れないままお別れしてしまいました。今日のニュースで、死んだ人が昔の記憶を持ったまま現れると知りました。どうかお願いです、どうすれば母に会えますか? どこへ行けば会わせてくれますか……?』
一つ、また一つと読み上げられるメッセージに、会議室にいた百戦錬磨の魔術師たちも、老練な評議会の事務総長も、誰一人として言葉を発することができなくなった。
今回のライン川の事案は、古い霊的境界の偶発的な破綻によって起きた極めて特殊な現象だった。オルド・クロノスがいかに優れた魔術を持っていようとも、世界中のあらゆる死者を、遺族の望み通りにいつでも安全に呼び出せるわけではない。交信が可能かどうかは、対象や術式、状況によって大きく異なる。ましてや、今日のような境界破綻を意図的に再現して再会の場を設けるなど、あまりにも危険だった。
「……現在、何件ほど来ている?」
事務総長が、かすれた声で尋ねた。
「……集計が追いつきません。欧州だけで毎分数千件のペースで増え続けており、アメリカやアジアの窓口にも同様の相談が殺到している模様です」
午後八時ちょうど。
ファルク指揮官は、無数の遺族たちからのメッセージが滝のように流れ続けるモニターの画面を見つめたまま、静かに立ち尽くしていた。
「……事務総長。現場の境界封鎖作戦につきましては、これにて完了としてよろしいでしょうか」
ファルクが尋ねると、モニターの向こうの老事務総長は、深く皺の刻まれた顔を伏せ、小さく息を吐いた。
「……ああ。ライン川の現場についてはな、ファルク」
「……」
「君と即応班の諸君は、今日、二百四十の霊体の奔流をわずか三十分で見事に封じ込め、百二十八人の市民の命を救った。それは誇っていい、間違いのない勝利だ」
事務総長はそこで顔を上げ、画面の向こうの膨大な着信リストを見つめて、独り言のように静かに言った。
「だがな、ファルク。我々が今日封じることができたのは、あくまでライン川に開いた『霊的な境界の綻び』だけだ。
世界中の何億という生きた人々が、今日の映像を見て初めて知ってしまったこと――『死んでしまった愛する家族が、今もどこかで自分を覚えていて、もう一度会って話せるかもしれない』という、人間にとって最も甘美で、最も残酷な『希望と願い』だけは……我々のどんな聖遺物を使っても、もう二度と封じることはできんよ」
ファルクは、何も答えることができなかった。彼の脳裏には、さっき橋のたもとで「ママン、まだ話したいことがいっぱいあるの!」と泣き叫んでいたマリー・ルフェーヴルの姿が焼き付いて離れなかった。
怪異は術式で封じられる。しかし、愛する者を失った人間の悲しみと願いだけは、いかなる魔法でも消すことはできない。
静まり返った地下の作戦指揮室に、再び外線電話の着信ベルがリリリリッ、と高く鳴り響いた。
通信担当官が深く息を吸い込み、受話器を取って耳に当てる。
「……はい、こちらオルド・クロノス連絡窓口です。……ええ、はい。……三年前に亡くなられたお嬢さんに、もう一度会いたいのですか……」
窓のない地下室の空気を震わせるその静かな応対の声だけが、いつまでも途切れることなく続いていた。
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