もしも異能がディスクロージャーされたら? 作:パラレル・ゲーマー
二〇二六年十一月六日、金曜日。午前十時二十三分。
東京都台東区、最寄りの地下鉄の駅から歩いて七分ほどの路地裏に建つ、築四十年近い古びた五階建ての雑居ビル。その三階の一番奥の扉には、真鍮の小さなプレートで控えめに『藤代霊視・除霊相談事務所』とだけ掲げられていた。
すりガラスの入った重い鉄扉の向こう側は、世間の人間が「霊媒師の部屋」と聞いてイメージするような、紫色の怪しげな煙が立ち込めて髑髏や水晶玉が転がっている空間ではなかった。
十二畳ほどのフロアの半分は、観葉植物と白いブラインド、そして座り心地の良さそうな布張りの椅子が向かい合う、ごく清潔で落ち着いた応接スペースになっている。壁際には過去の調査記録や行政への届出書類が詰まったスチール製のキャビネットが並び、その隣には、清め塩や白木の護符、古い真鍮の鈴(れい)といった実務用の道具類をきちんと分類して収めたガラス戸棚が置かれていた。
ただ一つ、その事務所の専門的な空気を台無しにしているものがあるとすれば、部屋の奥にある休憩用の三人掛けレザーソファの上で、毛布の半分を床にずり落とし、ボサボサに乱れた黒髪を顔に張り付かせたまま、あられもない仰向けの姿勢で熟睡している一人の若い女性の姿だった。
藤代沙耶(ふじしろ・さや)。二十八歳。
この事務所の所長であり、政府の専門機関にも正式に能力者として把握されている、正真正銘「本物の霊媒師・除霊師」である。
昨夜――木曜日の午後七時過ぎまで都内の古い一軒家で地道な霊障調査を続けていた彼女は、仕事上がりに馴染みの浅草の居酒屋へふらりと立ち寄り、生ビールと日本酒の熱燗を気持ちよく引っ掛けた結果、自宅マンションまで帰るのがすっかり面倒くさくなって、そのまま事務所のソファに倒れ込んで寝落ちしてしまっていたのだった。
「……あ゛ー……っ、頭、いてぇ……」
ブラインドの隙間から差し込む午前十時過ぎの明るい日差しに顔をしかめ、沙耶は低く掠れた呻き声を上げながら、ようやく片目を開けた。
こめかみの奥で、小さな小人が金槌を振るっているような典型的な二日酔いの鈍痛が響いている。
「……水……。水、どこ置いたっけ……昨日、最後にあの店主が出してきたにごり酒、何合飲んだんだっけアタシ……」
沙耶は上半身をだるそうに起こし、よれたスウェットの胸元をポリポリと掻きながら、テーブルの上を手探りした。ペットボトルは空っぽだ。
続けて、いつもの習慣でスマートフォンを探そうとソファの上を撫で回したが、手のひらに硬い感触が当たらない。
「あれ、スマホどこ行った……?」
ソファの背もたれと座面の隙間に手首まで突っ込んでゴソゴソと探り、落ちていたクッションをどかしたところで、ようやく黒いケースに入った私用兼・業務連絡用のスマートフォンが姿を現した。
画面のロックを解除する。デジタル時計の表示は『10:23』。
「……ふぅ、まだ十時過ぎか。助かった……」
沙耶はホッと胸を撫で下ろした。夜間に発生する除霊や家鳴りの調査依頼を扱うことも多い彼女の仕事は、一般的な会社員とは生活サイクルが違う。幸い、今日の金曜日は午前中に予約を入れておらず、最初のクライアントとの面談予定は午後二時からだった。それまでにシャワーを浴びてコーヒーを飲み、二日酔いの頭を仕事モードに切り替えれば十分に間に合う。
――そう思って、欠伸をしながらスマートフォンの画面に目を落とした瞬間。
沙耶の欠伸が、口を半分開けたままピタリと凍りついた。
画面の上部に並んでいる通知アイコンの数が、何かバグでも起きたのかと思うほど異常なことになっていたのである。
『不在着信:184件』
『留守番電話センター:新しいメッセージが上限(99件)に達しました。これ以上録音できません』
『メールアプリ:新着 3,412件』
「…………は?」
沙耶は一度、スマートフォンの電源ボタンを押して画面を真っ暗にした。
三秒ほど目を閉じて深呼吸し、もう一度ボタンを押して画面を点灯させる。
『不在着信:185件』『メールアプリ:新着 3,419件』。
消えるどころか、見ているこの三秒の間にも数字が増えていた。
さらに、嫌な予感に駆られてデスクの方へ目をやると、昨夜スリープ状態にしておいたはずの業務用デスクトップパソコンのモニターが勝手に復帰しており、画面の右下でメールソフトの受信通知ポップアップが、まるで機関銃の連射のように『ピロリン! ピロリン! ピロリン!』と絶え間なく明滅し続けていた。
昨夜の深夜の時点で千八百件を超えていた受信トレイの未読件数は、朝の通勤時間帯を経て、いまや『4,800件』という見たこともない天文学的な数字を叩き出している。
「……はあああああああっ!? な、なんだこれ、どうなってんの!?」
二日酔いの頭痛など一瞬で吹き飛び、沙耶は素足のままソファから跳ね起きてデスクの前へと駆け寄った。
最初に彼女の頭に浮かんだのは、昨日の世界情勢でもなければ、ヨーロッパのニュースでもなかった。
「ちょっと待て、うちの事務所のメールアドレス、どっかの闇サイトか名簿業者に漏れたのか!? ……いや、新手の迷惑メール(スパム)爆撃か? それとも先月縄張りの件で揉めたあのインチキ祈祷師の嫌がらせか!?」
悪態をつきながらマウスを握り、受信トレイの一番上に並んでいるメールを順番にクリックしてプレビュー画面を開く。
だが、そこに並んでいたのは、海外のカジノサイトの広告でもなければ、ウイルス付きの不審な英文でもなかった。すべて、日本全国の一般の人々からホームページの問い合わせフォーム経由で送られてきた、極めて真面目で、切実な日本語の相談メールだったのである。
沙耶は眉間に深い皺を寄せ、手元のスマートフォンの留守番電話センターへ発信し、スピーカーホンにして一件目の録音メッセージを再生した。
『――あ、もしもし、夜分遅くに大変申し訳ありません。神奈川県に住む佐藤と申します。先ほど、昨日のテレビのニュースと特番を見まして、どうしても先生にお願いしたくお電話いたしました。実は二年前に亡くなった母ともう一度だけお話をしたくて……』
ピッ、と次のメッセージに切り替わる。
『――もしもし、藤代先生の事務所でしょうか。三年前に事故で亡くした妻のことでご相談があります。ヨーロッパの映像を見て、もしかしたら妻もまだ近くにいるのではないかと……本物の霊媒師の方を探しておりまして……』
三件目。
『――突然のお電話失礼いたします。昨日の夜、『プライムニュース・ライブ』で月刊ムーの三神編集長がお話しされていた「本物の霊媒師による死者との交信」についてお尋ねしたく……』
その名前がスピーカーから流れた瞬間、沙耶の右手の指が、画面の上でピタリと止まった。
「…………三神?」
嫌な汗が、背筋をツッと伝う。
沙耶は震える指で四件目の留守番電話を再生した。
『――もしもし、昨夜の三神編集長の解説を聞いて、昔から都内で営業されているこちらのホームページに辿り着きました。政府に登録されている本物の先生だと伺いまして……』
続いて、パソコンのメールソフトの検索窓に『三神』と打ち込んでエンターキーを押す。
ズラズラズラッ!! と、画面が真っ黒になるほどヒットした数千件のメールの件名が一覧表示された。
『昨日の三神編集長のテレビ出演を見てご連絡しました』
『月刊ムーの三神様が仰っていた死者との交信について』
『本物の霊媒師を探しています(三神氏の番組視聴者です)』
『亡くなった家族を呼んでいただきたいのですが』
「……………………」
沙耶は無言のままパソコンの画面からゆっくりと顔を上げ、虚空の一点を見つめた。
昨夜は午後七時過ぎまで現場に出ていて、そのあとは居酒屋で日本酒を飲んで事務所のソファに寝落ちしたため、彼女は昨日の未明にヨーロッパのライン川で何が起きたのかも、昨日の夜八時からネット報道番組でどんな特番が放送されたのかも、何一つ見ていなかったのだ。
だが、彼女の脳裏には、つい一週間前の金曜日の夜に起きた「別の事件」の記憶が鮮明に蘇っていた。
あの男――月刊『ムー』の編集長であり、裏の業界にも広い顔を持つあの胡散臭い中年男は、先週のテレビ生放送でも、ニヤニヤ笑いながら『古くからの関係者の間では八咫烏の――ああ、失礼』などと政府の最高機密機関の名前を全国放送で漏らしかけ、裏の連絡網を大パニックに陥れたばかりではないか。
「……そういやあいつ、先週もテレビでカラスの名前を喋って始末書モノの大騒ぎになってたよな……」
沙耶の青白い二日酔いの頬に、見る見るうちにドス黒い怒りの血の気が昇ってきた。
彼女はスマートフォンをギリッと握り潰さんばかりの力で掴むと、連絡先リストの『み』の欄から『三神(ムー編集部)』の番号を呼び出し、親指で画面が割れるほど強く通話ボタンを叩き込んだ。
*
午前十時三十分。
トゥルルルル……トゥルルルル……と三回のコール音ののち、受話器の向こうから、昨夜の大仕事(特番出演)を終えて編集部のデスクで優雅にモーニングコーヒーでも嗜んでいるらしき、聞き慣れた穏やかなバリトンボイスが聞こえてきた。
『――はい、もしもし。三神です』
「おい」
『……はい?』
「おいコラ三神ィッ!! テメー、昨日の夜テレビで一体何を喋りやがったァッ!?」
鼓膜を突き破らんばかりの沙耶の怒声に、電話の向こうで三神がコーヒーカップをソーサーにカチャンと置く小さな音がして、一拍の沈黙が落ちた。
しかし、歴戦の編集長は少しも慌てることなく、すぐに電話の主が誰であるかを察して、実に爽やかな声で応じた。
『……ああ、これはこれは、藤代沙耶さん。おはようございます。今日もいいお天気ですね』
「おはようございますじゃねえんだよボケェッ!! 天気の話なんかしてんじゃねえ!!」
『いやあ、朝からずいぶんとお元気そうで何よりですが……もしかして、そちらの事務所にも、すでにお問い合わせがいくつか届いておりますか?』
「いくつかだと!? テメー、ふざけんなよ! 今朝起きてパソコン見たらな、うちの受信トレイに四千八百件以上のメールと、百八十件の不在着信が溜まっててサーバーがパンクしかけてんだよ!! やっぱり全部テメーのせいかよ!!」
沙耶がデスクをバンと叩いて吠えると、電話の向こうで三神が「うーん、四千八百件ですか。それは予想以上の反響ですねえ」と、半分感心し、半分申し訳なさそうな声を出した。
「感心してんじゃねえ!! おい三神、テメー先週の金曜日にもテレビに出て、カラス――『八咫烏』の名前を生放送でポロリしかけて、窓口の役人たちを過労死寸前に追い込んだばっかりだろ!」
『ああ……あの件につきましては、内閣官房の担当官の方からもたっぷり二時間ほどお小言を頂戴しまして、現在も深く反省しておりますよ』
「どこが反省してんだよ! 舌の根も乾かねえうちに、今度はテレビで何をやらかしたのか一から十まで白状しろ! アタシは昨日、現場上がりに酒飲んで寝てたからニュースなんか一秒も見てねえんだよ!」
『なるほど、まだ昨日のニュースをご覧になっていなかったのですか』
三神はそこで少しだけ真面目な口調になり、簡潔に事情を説明した。
『実は昨日の未明、ヨーロッパのフランスとドイツの国境にあるライン川で、霊的境界の破綻事案が起きましてね。二百四十体以上の死者の霊が川の上や電車の中に現れ、欧州の『オルド・クロノス』が結界で封じ込める一部始終と、亡くなったお母様の幽霊が娘さんと会話して悪霊から守る映像が、全世界に生中継されてしまったのですよ』
「……はあ!? ライン川で二百四十体の顕在化!? しかも生中継されただと!?」
『ええ。それで欧州当局が公式に「幽霊は実在する」と認めたものですから、昨日の夜は日本中が大騒ぎになりましてね。急遽私が報道特番に呼ばれて、幽霊の法的分類である「存在痕跡」の話や、日本国内にも実際に幽霊と接触できる「本物の霊媒師」が実在し、政府機関に登録されているという基本的な事実関係を解説させていただいた……というわけです。私がお話ししたのは、本当にそれだけですよ』
「『それだけですよ』じゃねえだろうがァッ!!」
沙耶はこめかみに青筋を浮かべて絶叫した。
『いえいえ、沙耶さん、誤解しないでください! 私は番組の中で「亡くなった人全員が幽霊として残っているわけではない」「お金を払えば誰でも確実に会えるわけではないから、焦って業者に飛びつくな」と、これでもかというほど丁寧に注意喚起もいたしましたよ!』
「そんな後ろの注意書きなんざ、頭に血が上った一般人が最後まで冷静に聞いてるわけねえだろうが!! みんな『本物の霊媒師が日本にもいる!』って最初の言葉だけを聞いて、血眼になってネット検索始めてんだよ!!」
沙耶はマウスをカチカチと鳴らし、モニターに並んでいる無茶苦茶なメールの件名を片っ端から読み上げた。
「聞いてみろこの受信トレイを! 『亡くなった母を今すぐ呼んでください』『三年前に死んだ夫と再会させてください』『死んだおじいちゃんに株の売り時を聞きたい』『去年死んだ飼い犬のポチを降霊できますか』『幽霊になった父に遺言書を書き直させることは法的に可能でしょうか』!! おい、一番最後なんか完全に法律事務所の仕事だろうが!」
『……ふむ、株の相談と遺言書の書き直しは、確かに私の説明の範囲をだいぶ超えていますねえ』
「笑い事じゃねえんだよ! しかも、なんでテメーがテレビで喋った尻拭いが、全部アタシの個人事務所に押し寄せてくんだよ! テメー、まさか番組の中でアタシの名前や事務所の場所を売ったんじゃねえだろうな!?」
『滅相もありません! 個人情報と守秘義務には細心の注意を払っておりますから、藤代沙耶さんの名前も、台東区の事務所のことも、番組ではただの一言も口にしておりませんよ』
「……じゃあ、なんでアタシのところに四千八百件も来るんだよ!」
『それはですね、沙耶さん。私が「高額な料金を吹っかける派手な広告のサイトは詐欺だから気をつけろ」と申し上げた結果、ネットの賢い皆さんが「じゃあ、昔から宣伝もせずにひっそりと真面目に営業していて、料金設定も良心的で、なおかつ過去に怪異事件を解決した実績の噂がある本物の老舗事務所はどこだ?」と徹底的に検索して、消去法であなたの事務所のホームページを発掘したからでしょうね』
「…………っ、お前のその中途半端にリアルな注意喚起のせいで、かえってアタシの事務所にピンポイントで誘導されてんじゃねえか!!」
『いやあ、それだけ藤代事務所が「本物」として信頼されている証拠ですよ。誇っていいと思いますねえ』
「嬉しくねえよ馬鹿野郎!!」
ひとしきり怒鳴り散らして肩で息をした沙耶だったが、そこでふと、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
先ほどまでは「自分の仕事が増えたこと」への怒りで頭がいっぱいだったが、霊媒師としての彼女の冷静な頭脳が、ある「一つの最悪の可能性」に思い至ったのである。
沙耶は周囲に誰もいない事務所のブラインドをちらりと確認すると、それまでの大声をピタリと止め、受話器を口元に引き寄せて、氷のように低く鋭い声で問いかけた。
「……おい、三神」
『はい』
「アタシ、昨日のその特番とやらはまだ見てねえんだけどさ。一つだけ、マジな確認をさせろ」
『……ええ、何でしょう』
「テメー、昨日の放送で……『出雲(いずも)』のことは、話してねえよな?」
その言葉が落ちた瞬間。
受話器の向こうの三神の気配から、それまでの飄々としたユーモアや軽薄な空気が、嘘のようにスッと消え失せた。
『……もちろんです』
三神の声は、昨夜のテレビ特番のどの瞬間よりも低く、静まり返っていた。
「本当だな? いつもの悪ノリで、匂わせたりもしてねえだろうな?」
『ええ。誓って、ただの一言も触れておりません』
「……『魂の庭(たましいのにわ)』のこともだな?」
『はい。そこだけは、絶対に』
三神の迷いのない即答を聞いて、沙耶はようやく胸の奥から「ふうーっ……」と深く、長い安堵の息を吐き出した。
「……そうか。ならいい」
だが、沙耶はそこで受話器を握る手に再び力を込め、自分自身にも、そして電話の向こうの男にも言い聞かせるように、低い声で念を押した。
「いいか、三神。絶対に忘れるなよ。あそこの出雲の『魂の庭』にはな――この地球ができてからのすべての死者が、ひとり残らず全部眠ってるんだぞ」
『……ええ。よく存じております』
「ヨーロッパの川に二百四十体の幽霊が出ただけで、世界中がこれだけひっくり返って大騒ぎしてんだ。もし万が一にも、日本の出雲の奥に『地球誕生以来のすべての死者の魂が眠る庭』が実在するなんてことが表の世間に広まってみろ。一体どうなると思う?」
『……ええ、想像したくもありませんねえ』
「今でさえ、うちの事務所に何千件も『死んだ家族を呼んでくれ』って連絡が殺到してんだぞ。あそこに行けば死んだ人間に会えるんじゃないかなんて誤解が広まったら、日本中どころか、世界中の遺族と、宗教団体と、各国の軍隊や権力者が何千万人単位で出雲へ押しかけて、この国ごと吹き飛ぶような大戦争になるじゃねえか!」
『……ええ、間違いなくそうなるでしょうね』
「『でしょうね』って他人事みたいに言ってんじゃねえよ!!」
出雲の『魂の庭』。
それは、八咫烏や各国の超常管理機関の中枢、そして沙耶のように霊的領域へ関わる一握りの術者たちだけが知る、地球の死後のあり方に関わる最大級の秘密だった。
そこがどんな場所なのか、誰が何を把握しているのか。まして、眠る死者へ生きた人間がどこまで手を伸ばせるのか――その答えは、まだ語られていない。確かなのは、存在だけが知られても『そこへ行けば会える』という誤解を招きかねないことだった。
電話の向こうで、三神が少しだけ空気を緩めるように苦笑した。
『やだなあ、沙耶さん。いくら私がおしゃべりな雑誌編集者だからといって、世間に出していい情報と、絶対に墓場まで持っていかなければならない世界の根幹の秘密くらいの区別は、私だってちゃんと理解していますよ。もう少し信用してください』
「…………」
『……あの、沙耶さん?』
「お前さあ、先週の金曜日の夜に、テレビの生放送でカラス(八咫烏)の名前をフルネームで言ったよな?」
『…………』
「しかもわざとらしく口に手を当てて、『あ、失礼(ニッコリ)』とか言ってたよな?」
『……はい、申しました』
「その前科持ちの口で、どうやってアタシに信用しろってんだよ!!」
『……誠に、ぐうの音も出ないほど大変申し訳ございませんでした』
普段はどんな大物政治家や学者相手にも一歩も引かない三神編集長が、二十八歳の女性霊媒師に正面から正論で詰められて平謝りしている様子に、沙耶もようやく少しだけ溜飲を下げ、ソファの背もたれにドサリと寄りかかった。
すると、受話器の向こうの三神が、少しだけ声を落として真面目な口調で言った。
『……沙耶さん。冗談はさておき、今回、私の番組での発言がきっかけとなって、あなたや全国のまともな霊媒師の方々のところへ膨大なご相談が殺到していることにつきましては、本当に申し訳なく思っています。来週、お詫びにそちらへ最高級の日本酒を一升瓶で差し入れますよ』
「一升瓶二本にしとけ。……まあ、いいよ」
沙耶は片手で乱れた前髪をかき上げ、パソコンの画面に並ぶ無数のメールの件名を見つめた。
『ただね、沙耶さん。昨日のストラスブールの映像を見た方々が、あれほど必死になってあなた方を探し、亡くなったご家族にもう一度会いたいと願ってしまうお気持ち自体は……やはり、誰にも止められないものだと思うのですよ』
沙耶は数秒間だけ黙り込んだ。
「……そんなもん、言われなくたって分かってるよ」
『……』
「痛いほど分かってるから、むやみに無視もできなくて、余計に面倒くせえって言ってんだろうが」
『……そうですね。あなたなら、そう仰ると思っていました』
三神が電話の向こうで静かに微笑んだ気配がした。
沙耶は照れ隠しのように鼻を鳴らし、再び声を荒らげた。
「とにかく! これ以上テレビに出て余計な仕事を増やすようなこと喋るんじゃねえぞ、分かったな!?」
『……最大限、善処いたします』
「『善処します』じゃねえ! 『絶対に喋りません』って今ここで約束しろ!!」
『いやあ、ジャーナリストとして「絶対に喋らない」と約束してしまうのは、職業倫理上少々難しいですねえ』
「テメー、どの口が職業倫理とか言ってんだ!!」
そこで三神が、ふと気づいたように言った。
『ところで沙耶さん。先ほどから少しお声が枯れていらっしゃるようですが……もしかして、また深酒をして二日酔いですか?』
「……ああ、悪いかよ」
『いけませんねえ、若い女性なんですから、お酒はもう少しほどほどになさった方がよろしいかと』
「誰のせいで朝から怒鳴り散らして二日酔いの頭痛が十倍に悪化してると思ってんだコラァッ!!」
『いえ、昨夜あなたが飲酒されたこと自体につきましては、物理的にも因果律的にも私の責任では――』
「うるせえっ、酒持ってこい! 切るぞボケェッ!!」
ピッ、と沙耶は力任せに終了ボタンを押し、スマートフォンをソファの上へ放り投げた。
*
午前十一時ちょうど。
冷蔵庫から出した冷たいミネラルウォーターをペットボトルのまま半分ほど一気飲みし、鎮痛剤を1錠放り込んだ沙耶は、洗面所で顔を洗って髪を後ろで一つに束ねると、ようやく霊媒師・藤代沙耶としてのシャープな目つきを取り戻してデスクのパソコンへと向かった。
「……さて、と。まずは敵(状況)を知るところからか」
沙耶は動画サイトを開き、昨日から世界中で再生されているという『フランス・ストラスブール(ライン川)事案』のニュース映像と、昨夜の『プライムニュース・ライブ』のアーカイブ動画を倍速で再生して確認した。
映像には、夕闇のライン川を渡る霊体の群れと、橋の両岸に打ち込まれた魔導杭、夜空に展開された巨大なバラ窓の結界が映っていた。
だが、沙耶の目は派手な光景ではなく、各接合点の配置と聖遺物の働きを追っていた。あれほどの霊的境界の破綻を、周囲の一般霊体を傷つけずに封じるのは並大抵のことではない。
「……へえ。ヨーロッパの『オルド・クロノス』か。話には聞いてたけど、ずいぶん派手に、しかも綺麗にやりやがるじゃないの」
沙耶は肘をついて画面に見入った。
「橋の真ん中で悪霊化した六体だけを聖遺物の鎖でピンポイントに抜いて、残りの二百三十体以上の無害な残留霊には一切ダメージを与えずに一時保護領域(サンクチュアリ)へ誘導して、さらに空間の裂け目に落ちた生者まで鍵の概念術式で引きずり出した、と……。
あの規模の複合境界決壊を、出動からたった三十分、死者ゼロで完全収束させたのか。……大したもんだな、向こうの退魔師たちも」
自分がもしあの現場に一人で放り込まれていたら、とても三十分では片付けられなかっただろう。世界中の裏側には、それぞれの土地の歴史に根ざした一流の専門家たちが確かに存在しているのだと、沙耶は素直に敬意を覚えた。
そして映像は、トラムの二両目で起きた母娘の再会へと切り替わった。
『……マリー……?』
『――マリー!! 危ない、伏せてっ!!』
『……ありがとう、私の可愛いマリー……』
金色の光の中で薄れて消えていく母親の霊と、膝から崩れ落ちて「ママン!」と泣き叫ぶ娘の姿。
沙耶は倍速再生を止め、標準速度に戻したその映像を、腕を組んだまま無言で最後まで見つめていた。
彼女の茶色い瞳の奥に、ほんの少しだけ、寂しげで優しい光が揺れた。
「…………ちっ。こんなもんをフルハイビジョンで世界中のテレビに流されたら、そりゃあ誰だって、死んだ親や子供に会いたくなるわな」
沙耶は小さく息を吐いた。
続けて昨夜の特番のアーカイブをざっと確認する。三神は本物の霊媒師がいることを認める一方で、誰でも必ず故人に会えるわけではないと何度も釘を刺していた。腹立たしいほど、慎重で正確な解説だった。
「……あのおっさん、ちゃんと言ってるじゃねえか。……で、この有様かよ」
沙耶は袖をまくり上げ、キーボードの上に両手を置いた。
午前十一時二十分。
ここからが、プロとしての彼女の仕事だった。
五千件近くに達している受信トレイのメールを、ただ上から順番に読んでいては一週間かかっても終わらない。沙耶はメールソフトのフィルター機能とキーワード検索を駆使し、届いている膨大な問い合わせを、その「性質と緊急度」によって冷徹かつ迅速に分類(トリアージ)し始めた。
まず、最も数が多いのが『亡くなった家族・恋人・ペットともう一度話したい(交霊・口寄せ希望)』という相談だ。これらは全体の八割以上を占めているが、緊急の生命の危険はないため、新規相談フォルダへと一旦振り分ける。
次に、全体の一割ほどを占める『世俗的・金銭的トラブルおよび好奇心』のメールだ。
沙耶はプレビュー画面をスクロールしながら、容赦なくツッコミを入れて削除・お断りテンプレートへと振り分けていく。
『件名:至急! 昨日亡くなった祖母を今日の午後に呼び出してほしい』
「……あのなあ。昨日亡くなったばかりの人を、通販の翌日配達みたいに今日の午後へホイホイ呼び出せるわけねえだろ。まだご家族だって落ち着いてないだろうに……」
『件名:亡き父の霊を呼び出し、長男である私に全財産を譲ると言わせて録音したい』
「……昨日のニュースをちゃんと見ろボケ! 幽霊は法律上『存在痕跡』だから、仮に親父さんの霊が何を喋ろうが民法上の遺言能力はゼロだって世界中が言ってんだろうが! 家庭裁判所と弁護士のところへ行け!」
『件名:【テレビ取材のご依頼】番組のスタジオで、タレントの亡くなった恩師を降霊する生放送企画をお願いしたく、ギャラは300万円で――』
「……お断りだ、バーカ! 死人と遺族のプライベートな会話をテレビの見世物にしてたまるかよ、三神のところへでも行ってろ!」
そして、沙耶が何よりも眉をひそめて頭を抱えたのは、メールの文面のあちこちに書かれた『先生は政府の専門機関に登録されている方だと伺いました。登録済みのプロなら、100%確実に亡くなった家族本人を呼んでいただけますよね?』という、一般人ならではの「過度な思い込み」だった。
「……あのなあ。『政府に登録されてる能力者』っていうのは、行政に能力や活動を把握されてるって意味であって、『神様みたいに何でも叶えられる万能の魔法使い』って意味じゃねえんだよ……」
三神が番組で説明していた通り、ひとくちに「霊媒」と言っても、術者によって能力の仕組みは千差万別だ。
沙耶は、遺族の記憶を読み取って故人を再現する型ではなく、実在する霊体を感知し、言葉を交わすことができる『交霊・霊視型』の能力者だった。実際の階位はTier2。しかし、強い集中状態や正式な儀式に入ると、霊的な干渉の実効出力はTier1.5相当――Tier1とTier2の中間ほどにまで達する。魂の階位自体が変化するわけではないが、霊能者としては日本でも上から数えた方が早い、文字どおりの上澄みだ。
だが、これほどの実力者であっても、望んだ相手と自由自在に交信できるわけではない。沙耶はその限界を、現場の経験からよく理解していた。
目当ての故人が今どのような状態にあり、交信できる条件が整っているのかは、実際に調べてみなければ分からない。力任せに術式の出力を高めたからといって、相手の声が届くとは限らない。会いたいという願いの数だけ奇跡を起こせるわけではなかった。
さらに沙耶は、数千件のメールの中から、『家鳴り』『ポルターガイスト』『声が聞こえる』『体調不良』『憑依』といったキーワードを含む数十件のメールだけを最優先で抽出し、一つずつ文面を精査した。
その中に、千葉県に住む主婦から今朝送られてきた一通のメールがあった。
『昨夜から、二階の子供部屋のクローゼットの中から、知らない男の低い唸り声のようなものが何度も聞こえます。七歳の息子が怖がって熱を出して震えており、部屋の温度もそこだけ異常に冷たいのですが、これは本物の悪霊なのでしょうか? 先生、早く除霊に来てください!』
これを見た瞬間、沙耶の目つきが完全に「現場の除霊師」のそれへと切り替わった。
『七歳の息子が熱を出して震えている』。沙耶が真っ先に目を留めたのは、その部分だった。
原因が霊障であろうと、そうでなかろうと、まずは母子の安全を確保する必要がある。
「……いきなり除霊だの何だの言う前に、まず人間の安全確認が先だっての」
沙耶はすぐさま、そのメールに記されていた主婦の携帯電話へと直接電話をかけた。
二コールで、電話の向こうからパニック状態の母親の声が返ってくる。
『は、はいっ! 藤代先生ですか!?』
「藤代です。メールを見ました。落ち着いて私の質問にだけ答えてください。今、あなたとお子さんはその家の二階にいますか?」
『い、いえ、一階のリビングに降りてきています!』
「よろしい。まず第一に、二階のクローゼットの異音ですが、外部からの不審者の侵入(空き巣やストーカーが屋根裏やクローゼットに潜んでいるケース)や、配管・暖房器具の異常、小動物の侵入ではないと確認できていますか?」
『えっ……? あ、いえ、怖くて中は開けていません……』
「なら、まず今すぐお子さんを連れて家の外――お隣の家か、近くのコンビニでも構いません、建物の外へ避難してください。そして、霊障かどうかを調べる前に、まず110番して警察官に二階のクローゼットの中に『生きた不審者』が隠れていないか確認してもらってください。話はそれからです」
『け、警察ですか!? でも、もし昨日のニュースみたいな悪霊だったら……!』
「もし本当に危険な悪霊化個体だったとしても、あなたとお子さんがその家の中に留まっているのが一番危険です。そして万が一、生身の不審者が包丁を持って隠れていた場合、霊媒師の私が行くより警察官が行く方が確実です。
いいですか、今すぐ外へ出て110番し、不審者が潜んでいる可能性と現在の状況を伝えて、警察の指示に従ってください。それから、お子さんの発熱や震えは医療機関で診てもらう必要があります。小児科や救急相談への連絡も優先してください。警察の確認が終わっても異常が続くようであれば、私の事務所の緊急枠、あるいは警察経由で政府の専門窓口(内閣官房の調査班)を手配します。まずは外へ出てください、いいですね!」
『は、はいっ! わかりました、すぐ子供を連れて外へ出ます!!』
通話が切れる。
沙耶は小さく息を吐き、メモ帳にその主婦の名前と連絡先を控え、念のため八咫烏の地域監視班の共有ボードにも『千葉県某所・軽度霊障または不審者事案の可能性あり・警察確認誘導済み』とフラグを立てておいた。
沙耶が電話の記録を保存したところで、パソコンがまた一件、新しいメールの受信を告げた。
*
正午を回り、午後一時近くになった頃。
沙耶は湯沸かしポットのお湯でカップラーメンを作り、割り箸で麺をすすりながら、改めて事務所のホームページの管理画面を開いていた。
二十八歳という年齢は、伝統や年功序列が重んじられる裏の霊媒・除霊業界においては、まだ若手と見られやすい。
それでも沙耶は数年前に独立し、八咫烏の心霊担当者や同業者からも難しい案件を相談されるほどの腕を持っていた。
幼い頃から否応なしに「視え、聞こえてしまう」体質として生まれ、十代の頃から師匠について数々の現場で泥水をすすりながら鍛え上げてきた。
とはいえ、その腕前を頼みに依頼が何千件集まろうと、メールを仕分ける事務員も、ホームページを直してくれる弟子もいない。沙耶は結局、カップラーメンをすすりながら自分で管理画面を開くしかなかった。
未読メールは、今も増え続けている。
昨日、ヨーロッパで幽霊の実在が公式に認められ、昨夜のテレビで「日本にも本物の霊媒師がいる」と放送された。そして今、沙耶の目の前のパソコンには、五千件近い「お金はいくらでも払うから、亡くなった家族と話させてほしい」という依頼メールが山積みになっている。
もし沙耶に、ほんの少しでも山っ気や金儲けの欲があったなら、話は極めて簡単だった。
今すぐホームページのトップ画面に『【本物の霊媒師】亡くなったご家族との交信・口寄せ特別コース(1回30分・10万円)』とでもデカデカとバナーを出し、片っ端から予約を受け付ければいいのだ。
そして相談者がやってきたら、実際に霊がそこにいようがいまいが、目を閉じてそれっぽいトランス状態のフリをして、『私は今、温かい光の中にいます。あなたに感謝していますよ、どうか泣かないで……』という、誰にでも当てはまる優しい言葉を涙ながらに語って聞かせればいい。遺族は涙を流して感謝し、喜んで十万円を置いて帰るだろう。この一ヶ月だけで、都心にビルが建つほどの莫大な金が稼げるはずだ。
「……ケッ。会えるかどうかも分かんねえし、そこにいるかどうかも分かんねえのに、適当な芝居打って遺族から金巻き上げてどうすんだよ。そんな真似するくらいなら、最初からこんな面倒くせえ稼業やってねえっての」
沙耶は空になったカップラーメンの容器をゴミ箱へ放り込むと、キーボードを叩き、自分の事務所のホームページのトップ画面――普段は地味な連絡先と料金表(霊障調査・相談:1時間5,000円〜)しか載っていないページの最上部に、赤枠で囲った大きな『【重要なお知らせ・ご相談を希望される皆様へ】』という注意書きのテキストを作成してアップロードした。
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【新規のご相談・お問い合わせを希望される皆様へ(2026年11月6日更新)】
現在、昨日の海外報道およびテレビ番組の影響により、当事務所へ数千件規模のお問い合わせをいただいております。順次目を通しておりますが、すべてに個別の返信を行うことは物理的に困難な状況です。
また、ご相談の前に、以下の点を必ずご理解ください。
1.当事務所は、「ご希望される故人との交信(再会)」を保証する場所ではありません。
亡くなられた方のすべてが現世の近くに霊体として留まっているわけではなく、仮に本物の霊媒技術を用いたとしても、ご希望の方とお話しできるケースはごく一部に限られます。「お金を払えば確実に会える」といったご依頼はお受けできません。
2.事前のヒアリング(状況確認)のみで終了する場合があります。
お話を伺った結果、霊的な接触が不可能、あるいはご遺族・霊体双方の安全上望ましくないと判断した場合は、交信の儀式自体をお断りいたします(その場合、儀式費用等は一切いただきません)。
3.現在進行形で物理的な危険や体調不良が生じておられる方は、霊障と決めつけず、まず警察・消防・医療機関への連絡と安全確保を最優先してください。
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掲載されたのは、客を呼び込む宣伝とは正反対の文章だった。
更新ボタンを押してホームページに反映させた沙耶は、伸びをして大きく息を吐いた。
「……よし。これだけデカく書いとけば、テレビ見てただ騒いでるだけの連中や、遺産目当てのバカは少しは減るだろ。……あー、クソッ、なんで金曜日の昼過ぎにアタシがこんなWEBデザインの更新作業みたいなことしなきゃなんねえんだよ。これも全部あの三神のタヌキ親父のせいだ……!」
ぶつぶつと悪態をつきながら、沙耶は再びメールソフトの画面へと向き直り、残っている未読メールの仕分け作業を再開した。
*
午後一時十五分。
何百件ものメールのタイトルと本文の冒頭を素早くスクロールし、「これは単なる好奇心」「これは他所の法務案件」「これは保留」と振り分け続けていた沙耶の右手が、ふと止まった。
画面に表示されていたのは、今日の未明、午前三時十二分に送信された一通のメールだった。
件名は、『亡くなった息子に謝りたいんです』。
差出人の欄には、『高瀬 美和(たかせ・みわ)』という四十六歳の女性の名前と、都内の電話番号が記されていた。
沙耶は何気なくそのメールをクリックし、右側のプレビュー画面に表示された本文に目を走らせた。
そこには、他の多くのメールのような「テレビを見て興奮しました!」「いくらでも払います!」といった浮ついた言葉は一つもなく、深夜にスマートフォンの小さな画面で、一文字ずつ涙をこらえながら打ち込んだであろう、静かで短い文章が綴られていた。
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『藤代先生
夜分遅くに、突然のご連絡を本当に申し訳ありません。高瀬美和と申します。
私には、三年前の秋に、十七歳で交通事故で亡くなった息子(航平)がいます。
あの子が亡くなった日の朝、私は本当にくだらない、今思い出してもどうでもいいような進路の書類のことであの子にイライラしてしまって、玄関を出ていくあの子の背中に向かって、ひどい言葉をぶつけて怒ってしまいました。
あの子は何も言い返さずに、少し寂しそうな顔をしてドアを閉めて出ていきました。それが、私と息子の最後の会話になってしまいました。
あの日から三年間、もっと優しくしてあげればよかった、最後にちゃんとあの子の話を聞いてあげればよかったと、思わない日は一日もありませんでした。お墓の前で何百回ごめんねと言っても、もうあの子には届かないのだと、自分を納得させて生きてきました。
ですが昨夜、フランスの電車の中で、三年前に亡くなったお母様が娘さんの名前を呼んで笑っているニュースを見ました。そしてテレビで、日本にも本物の霊媒師の方がいらっしゃると聞きました。
先生、もし、ほんの少しでも可能性があるのなら、息子に一度だけ会わせていただけないでしょうか。
あの子に何かをしてもらいたいわけではありません。ただ、あの日の朝、お母さんが悪かった、ごめんねと、あの子を産んで本当によかったと、それだけを伝えたいのです。
突然このような無理なお願いをして、ご迷惑だということは重々分かっております。
どうか、お返事だけでもいただけないでしょうか。よろしくお願いいたします』
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四角いモニターの白い光の中で、その文字の並びを見つめたまま、藤代沙耶はピタリと動かなくなった。
事務所の壁掛け時計が、カチ、カチ、と秒針を刻む音だけが静かな部屋に響く。
さっきまで威勢よく悪態をついていた沙耶の口から、言葉が消えた。
霊媒師としてこの事務所を開いてから数年。
沙耶はこれまでにも、こうした「最後の一言を伝えられなかった遺族」からの相談を、何十件と受けてきた。
病気で急逝した親に感謝を伝えられなかった娘。事故で幼い子供を失った父親。喧嘩別れしたまま二度と会えなくなった親友。
誰もが胸の奥に、かさぶたにならない生傷を抱えて、それでも「死んだ人間とはもう話せないのがこの世のルールだから」と唇を噛みしめて、今日までなんとか日常を生きてきたのだ。
ところが昨日の夜、世界中のテレビ画面に、あのストラスブールの奇跡――亡くなった母親が娘の伸びた髪を見て微笑み、娘が「ママン!」と泣き叫んだ映像が流れてしまった。
そして、幽霊は実在するのだと、世界が公式に認めてしまった。
あんなものを見せられたら。三年間、必死に諦めようとしていた母親が、真夜中の三時に布団の中でスマートフォンを握りしめて、「もしかしたら、うちの子にも謝れるかもしれない」と願ってしまうのを、いったい誰が責められるだろうか。
「…………ったく」
沙耶はデスクに肘をつき、片手で自分の目元を覆うようにして、低く掠れた声で呟いた。
「……あんな映像、世界中に見せられたらなあ……。誰だって、こうなるに決まってんじゃねえかよ……」
そこから先は、いつもの乱暴な悪態がどうしても続かなかった。
沙耶は目元から手を離し、高瀬美和からのメールの文面をもう一度じっと見つめた。
どう返事をするべきか。
霊媒師である沙耶にも、今この瞬間、三年前に亡くなったその十七歳の息子(航平くん)と交信できるのかどうかは分からない。実際に高瀬美和と会い、詳しい状況を聞いて、必要な手順で確かめてみなければ判断できないのだ。
もしここで、「大丈夫です、私が必ず息子さんに会わせてあげますよ」と優しい返信を送れば、この母親は飛び上がって喜ぶだろう。だが、実際に確かめて交信ができなかったなら、一度天まで持ち上げた希望を地面に叩き落として、母親の心を二度傷つけることになる。
かといって、五千件のメールに埋もれさせて無視したり、「三年も経っているなら無理です、諦めてください」と冷たく切り捨てたりする根拠も、沙耶にはない。亡くなって何年も経ってから、思いがけず交信できた事例を知っているからだ。
沙耶は、返信ボタンの上へカーソルを運んだ。
だが、すぐには押せなかった。
まず、決して約束できないことを伝えなければならない。
午後一時三十分。
沙耶は『返信』のボタンをクリックし、キーボードを叩いて文章を打ち始めた。
数行書いては、「いや、これじゃ期待させすぎるな」とバックスペースキーで全部消す。
もう一度書いては、「これじゃ突き放してるみたいに冷たいか」とまた消す。
いつもの乱暴な口調とは打って変わり、一語ずつ慎重に選んで、三度目の書き直しの末に返信を完成させた。
――――――――――――――――――――
『件名:Re: 亡くなった息子に謝りたいんです
高瀬 美和 様
ご連絡ありがとうございます。藤代霊視・除霊相談事務所の藤代沙耶です。
お送りいただいたメール、最後まで拝読いたしました。
まず、ご依頼をお受けするかどうかの前に、専門家としてどうしても最初にお伝えしなければならない大切なことがございます。
私は、高瀬様がご希望されている息子さんと「必ず交信できる(お会いできる)」とお約束することはできません。
亡くなられた方の霊が今もこちらでお話しできる状態にあるかどうかは、実際にお目にかかって詳しい状況やご遺品を拝見してみなければ分からず、確認した結果、やはり交信は不可能であると判断する場合も数多くございます。
また、仮に何らかの霊的な接触が可能であったとしても、それがニュースで議論されている通り、高瀬様が望まれるような形で息子さんご本人と直接お話しできると100%保証するものでもございません。
もし「確実に会えるなら行く」というお気持ちであれば、かえって高瀬様を深く傷つける結果になりかねませんので、今回は見送られた方がよろしいかと存じます。
その厳しい前提をご理解いただいた上で、それでも「もし会えなかったとしても、まずは一度これまでの経緯や息子さんのことについて話を聞いてほしい、できることがあるかどうかだけ確かめたい」ということであれば、来週、当事務所にて一度お話を聞かせてください(事前相談のみで交信に至らなかった場合、費用は一切いただいておりません)。
ご無理のない範囲で、ご検討いただければ幸いです。
藤代霊視・除霊相談事務所 藤代 沙耶』
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一字一句に誤りがないか確認し、沙耶は静かに『送信』のボタンをクリックした。
シュッ、という小さな送信音とともに、メールが飛んでいく。
沙耶は背もたれに体重を預け、送信済みトレイの画面を数秒間だけじっと見つめてから、誰に聞かせるでもなく、ぽつりと呟いた。
「……まあ、いざ来てくれたとして……ちゃんと繋がってやりゃあ、一番いいんだけどな」
*
午後二時を過ぎると、沙耶は予定されていた既存の依頼人(先週から継続していた、都内の古いアパートでの軽微な障りの経過確認)との三十分ほどの面談を丁寧にこなし、依頼人が安心した顔で帰っていったあと、再びパソコンの前へと戻って残りのメールの整理作業に没頭した。
とても一人で五千件すべてに返信することはできないが、ホームページに先ほどの厳しい注意書きを掲載した効果はてきめんだった。
午後二時以降、新しく届くメールのペースが目に見えて落ち着き始め、さらには朝方にメールを送ってきた人たちの中から『ホームページの注意書きを読みました。確実に会えるわけではないとのことですので、今回は相談を取り下げます』『テレビ局の企画の件、失礼いたしました』といった辞退の連絡が何百件も届き始めたのである。
それでも、残ったメールを以下の五つの優先順位に振り分ける作業は、果てしない事務処理の連続だった。
・最優先(赤ラベル):現在進行形で物理的・精神的な危険が生じている霊障相談(警察や専門機関への誘導・緊急調査対象)。
・優先(青ラベル):すでに以前から予約・継続対応している既存の依頼人。
・通常(緑ラベル):ホームページの注意書きを読んだ上で、それでも誠実に相談を希望している遺族からの新規連絡。
・お断り(灰ラベル):マスコミの取材依頼、金銭・遺産トラブル、興味本位の降霊要求(一括お断りメール送信)。
・削除(黒ラベル):明らかなスパム、いたずら、同業者の探り。
「……ったく、なんで霊媒師のアタシが、金曜日の昼下がりに大企業のカスタマーサポートみたいにメールのフォルダ分けを何時間もやらなきゃなんねえんだよ。肩が凝ってしょうがねえ……」
沙耶は首をボキボキと鳴らし、大きくため息を吐いた。
世間の人間は、異能者や魔術師、霊媒師というと、毎日派手な呪文を唱えて怪物を吹き飛ばしているように想像するかもしれない。だが現実は、八咫烏の官僚たちや宮原修一のような実働請負人が契約書と確定申告に追われているのと同じように、町の霊媒師の仕事もまた、聞き取り調査、安全確認、記録の作成、そして地道な事務連絡の連続だった。
沙耶はブラインドの隙間から、午後の傾き始めた日差しが照らす東京の街並みを見下ろした。
一週間前の水曜日までは、この街を歩く人々のほとんどが、超能力も、魔法も、そして幽霊も「映画や漫画の中だけの絵空事」だと思って生きていた。彼女の事務所を訪れるのも、よほど切羽詰まった霊障に悩む一部の人か、口コミを辿ってきた人だけだった。
けれど、もう世界は元には戻らない。
政府が異能の実在を認め、ヨーロッパの機関が幽霊の実在を認め、世界中のニュース番組で亡くなった母親と娘が言葉を交わす映像が流れた。
今日からは、これまで心霊現象など鼻で笑っていた普通の会社員や、主婦や、学生たちが、「もしかしたら、私の大切なあの人もまだどこかにいるのではないか」という切実な希望と痛みを抱えて、彼女の事務所の扉を叩き始めるのだ。
「……あーあ。こりゃあ、当分の間、昼間から居酒屋でゆっくり熱燗飲んで寝落ちするような暇はなくなりそうだな……」
口ではそうぼやきながらも、沙耶の表情には、不思議と嫌そうな色はなかった。
手元に残った相談一覧には、返事を待つ人たちの名前がまだ何十行も並んでいた。
午後二時五十五分。
ようやく第一陣のメール仕分けを終えた沙耶が、ふうっと息を吐いてデスクの上のマグカップ――朝淹れてすっかり冷めきってしまったブラックコーヒーへと手を伸ばした、その時だった。
ジリリリリリッ!!
デスクの隅に置かれた事務所の固定電話が、静かな部屋に高くベルの音を響かせた。
「……またかよ、今度はテレビ局のしつこいディレクターじゃねえだろうな」と眉をひそめながら、沙耶はナンバーディスプレイの表示を見た。
そこに表示されていたのは、都内の一般的な市外局番(03)から始まる、見知らぬ個人の固定電話番号だった。
三回、四回とベルが鳴り続ける。
沙耶は一度だけ小さくため息をつき、冷めたコーヒーのカップをデスクに置くと、背筋をすっと伸ばし、普段のガサツな地声を完全に引っ込めて、落ち着いた聞き取りやすい「所長」の声を作って受話器を取った。
「――はい、お電話ありがとうございます。藤代霊視・除霊相談事務所でございます」
一拍の間を置いて、受話器の向こうから聞こえてきたのは、少し緊張したような、五十代くらいの真面目そうな男性の低い声だった。
『……あ、あの、突然のお電話で大変すみません。私、杉並区に住んでおります、佐野と申します……』
「はい、佐野様。どのようなご用件でしょうか」
『あ、はい……。昨日の夜のテレビのニュースと、先ほど先生の事務所のホームページに出された注意書きを、全部読ませていただきまして……』
電話の向こうで、男性が一度、言葉を詰まらせるように深く息を吸い込む音がした。
『……実は、二年前に病気で亡くなった妻のことで……ホームページに書いてあった通り、必ず会えるわけではないということは、重々承知しております。ただ、一度だけ、先生にお話を聞いていただくことはできないかと思いまして……。こんな時に、無理なお願いでしょうか……?』
日本時間で昨日の明け方、遠くヨーロッパのストラスブールの地下室でオルド・クロノスの通信担当官が受話器を取ったのと同じ種類の電話が、今、東京の路地裏の小さな雑居ビルの三階にも繋がっていた。
電話口に、短い沈黙が生まれた。
沙耶は受話器を握り直し、誰もいない応接スペースの白い椅子へと視線を向けながら、静かに、そして温かく答えた。
「……いいえ、佐野様。無理なお願いではございませんよ。まずは、奥様のお話を聞かせてください」
受話器の向こうで、男性が「ありがとうございます……」と震える声で礼を言い、少しずつ、生前の妻がどんな人だったかをぽつりぽつりと話し始めた。
沙耶はそれを一言も遮ることなく、手元の白いノートを開いてペンを取り、静かに耳を傾けていた。
机の上のパソコンの画面の隅では、今も変わらず、新しい問い合わせメールの通知アイコンが一つ、また一つと静かに増え続けている。
その数千件のメールのすべてに、今日中に返事を書くことは到底できないだろう。ましてや、そこに込められた何千もの「もう一度会いたい」という切実な願いのすべてを叶えてやることなど、どれほど優れた霊媒師である彼女にも、できはしない。
それでも。
「……ええ。はい、大丈夫ですよ。お時間はありますから、どうぞゆっくりお話しください」
藤代沙耶、二十八歳。
酒好きで、口が悪くて、二日酔いに弱い、正真正銘「本物の霊媒師」である。
そして、幽霊が実在すると世界が知ってしまったこの日から、彼女の仕事は、これまでとは少しだけ違う、新しくて長い季節へと入ろうとしていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます! もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下部より【お気に入り登録】や【評価】、感想などをいただけると執筆の励みになります。 作者のモチベーション上昇に直結しますので、是非ともよろしくお願いします!
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