もしも異能がディスクロージャーされたら? 作:パラレル・ゲーマー
二〇二六年十一月九日、月曜日。午前八時四十分。
台東区の雑居ビルで霊媒師の藤代沙耶が五千件のメールと格闘していたあの金曜日から、週末を挟んで三日が経過していた。
東京都千代田区霞が関。中央合同庁舎のすぐ裏手に位置する、表向きは『内閣官房・地域安全制度調査室』などの複数のダミー看板が掲げられた灰色の地味な庁舎ビル。
その地下および中層フロアを占める、日本の超常事象管理機関――通称『八咫烏(ヤタガラス)』の国内行政・市民相談統括部門のオフィスは、月曜日の朝っぱらから、戦場のような喧騒と紙の匂いに包まれていた。
エレベーターを降り、片手にコンビニで買ったばかりのLサイズのブラックコーヒーを提げてフロアへと足を踏み入れた女性――国内相談・事務対応統括責任者の霧島(きりしま)は、自分のデスクへと向かうわずか二十メートルの通路を歩く間に、三人の部下から同時に声をかけられた。
「あ、霧島統括! おはようございます! 法務省の民事局から、昨夜までに寄せられた『霊体の法的地位および相続関連』の照会リストが届いております、決裁をお願いします!」
「霧島さん! 警察庁の生活安全局から、全国の警察署に持ち込まれている『自称・異能トラブル』の初期トリアージ基準について、至急確認を取りたいと連絡が!」
「統括、地方自治体向けの新しい『超常相談FAQ(よくある質問と回答)』の第4改訂版、総務省へ回す前の最終承認印をいただけますでしょうか!?」
先週末の土曜日も日曜日も、一歩もこの庁舎から出ることなく休日出勤していた霧島は、目の下にうっすらと浮かんだクマを化粧で隠した端正な顔をピクリとも動かさず、歩きながらコートを脱いで腕にかけ、流れるようなスピードで三人に順番に指示を飛ばした。
「法務省からのリストは『第二分類(制度照会)』のタグをつけて法制課の共有フォルダへ回して。警察庁の件は、『現在進行形の物理的危険があるもの(110番事案)』と『単なる能力の相談・民事トラブル』を入口で厳格に分ける昨日のフローチャートをそのまま送ってください。自治体向けのFAQは、昨夜二十二時に私が赤字を入れた最新版をそのまま承認で通して結構です」
「「「はいっ、了解しました!!」」」
部下たちが一斉に自分のデスクへと散っていく。
霧島はようやく辿り着いた自分のデスクに鞄を置き、椅子に腰を下ろして、まだ熱いブラックコーヒーを一口啜った。そして、机の上に山積みになっている三日分の会議資料の束を見つめ、誰に聞かせるでもなく静かに呟いた。
「……月曜日になれば、世間の熱も少しは冷めて静かになるかと思ったんですけどね」
すぐ隣の席でパソコンのキーボードを猛烈な勢いで叩いていた直属の後輩職員が、画面から目を離さずに乾いた声で応じた。
「統括、逆です。土曜日と日曜日に市役所や省庁の代表電話が閉まっていた分の問い合わせが、月曜日の朝八時半の開庁と同時に、ダムが決壊したみたいに一気に押し寄せてきています」
「……ですよね」
霧島は小さくため息を吐き、フロア正面の壁に設置された大型の集計モニターへと視線を向けた。
そこには、現在日本全国の行政機関で発生している、前代未聞の「窓口パニック」の惨状がリアルタイムの数字として映し出されていた。
十月二十八日に政府が異能の存在を公表し、同月三十日には国内の覚醒済み能力者が約三百四十二万人と発表された。先週には欧州のライン川で幽霊が公然と姿を現し、日本でも霊媒師への相談が急増した。窓口は、次々に増える種類の違う問い合わせに対応しきれなくなっていた。
ところが――日本政府はこれまで、「専門の機関が対応している」とだけ繰り返すばかりで、肝心の『八咫烏』という歴史的な呼称も、一般国民が直接アクセスできる『専用の統一相談窓口』も、公式にはまだ公表していなかったのである。
その結果、何が起きたか。
疑問や不安を抱えた何十万人もの一般市民と未登録能力者たちが、「どこへ電話すればいいのか分からない」まま、手近なあらゆる役所や公的機関へ手当たり次第に問い合わせを始めたのだ。
たとえば、地方の市役所の『住民課(戸籍係)』の窓口に、「昨日の夜、仏壇の前で死んだおじいちゃんの声が聞こえたんですが、存在痕跡の住民票は作れますか?」という老人がやってくる。
地元の『警察署』の交通課に、「うちの息子が昨日から5センチ宙に浮くんですけど、道路交通法違反になりますか? どこで登録すればいいんですか?」という母親が駆け込む。
厚生労働省の『労働基準監督署』には、「会社の上司から『お前、36人に1人の能力者じゃないのか』としつこく聞かれるのですが、パワハラになりますか?」という会社員からの電話が鳴り響き、『法務省』には幽霊の遺産相続についての質問が殺到し、さらには全国の『保健所』や『消費者センター』、果ては観光地の『寺院』や『神社庁』にまで、「政府公認の本物の霊媒師を紹介してほしい」という電話が日に何万件もかかってくる始末だった。
しかも、行政の実務を預かる霧島にとって何より悪夢だったのは、それらの相談の「転送経路」が完全にスパゲッティのように絡まり合っていることだった。
「……ちょっと待ってください。この画面の一番上にある『自宅の庭に青い火の玉が出る件について』っていう照会データ」
霧島はモニターのリストを指差し、後輩職員に尋ねた。
「これ、金曜日の夕方にも全く同じ文面を見ましたよ。同じ人からの問い合わせですよね?」
「はい、埼玉県在住の同一の男性からの相談です。ただ、ご本人が最初に地元の『市役所』に電話されまして、市役所が判断できずに『県庁の危機管理課』と『地元の警察署』の両方に転送し、県庁が『総務省』へ、警察署が『警察庁』へ上げ、さらにご本人が待ちきれずに『内閣官房の意見箱』にも直接メールを送られた結果……」
「……」
「それぞれの省庁で別々の受付照会番号(ID)が新規発行されてしまいまして、最終的に我が八咫烏のバックオフィスへ『四つの独立した重要照会案件』として別々のルートから回ってきております」
「……つまり、うちの実務班は、たった一人の同じ火の玉の相談に対して、四つの省庁向けに四回別々の回答書を作らされているんですか?」
「はい。現在進行形でそうなっております」
霧島は眼鏡のブリッジを指先で押し上げ、静かに白い天井を見上げた。
「……そりゃあ、何日徹夜したって仕事が終わるわけないですよ」
一人の同じ相談が四つに分裂して霞が関を一周し、現場の職員の時間を四倍削り取っていく。
この行政の多重バグを止めるには、各省庁に散らばった受付経路を整理するしかなかった。今日、『八咫烏』の名称と存在を正式に認め、全国の相談を最初から適切な部署へ振り分ける『総合相談ポータル窓口』を開設する。そのために霧島は週末を返上していた。
霧島はデスクの上の『本日午後3時・政府合同記者会見 発表要旨』と書かれたクリアファイルを手に取った。
そこには、彼女と部下たちが週末の三日間、睡眠時間を削って関係各省庁とすり合わせ、ようやく完成させた六つの発表項目が整然と並んでいる。
一、日本の特殊事象対応機関『八咫烏』の存在と歴史的名称を政府として正式に確認する。
二、八咫烏の役割は、能力者の保護、行政調整、特殊事象の安全管理、および関係機関への専門支援であると説明する。
三、本日より、一般市民・能力者・被害者向けの『特殊事象に関する総合相談窓口(Webポータルおよび専用ナビダイヤル)』を開設し、受付番号を一元化する。
四、受付対象、緊急時(110番・119番優先)の対応、および個人情報の厳格な保護方針を案内する。
五、異能者の人権・プライバシー保護と、本人の同意を尊重した相談制度を説明する。
六、今後の段階的な情報公開についての基本方針を示す。
「……よし。これなら、やっと全国の窓口の混乱を落ち着かせられる」
霧島はクリアファイルを胸に抱き、ようやく小さな安堵の息を吐いた。
彼女にとって、今日午後三時からの記者会見は、世界の秘密を暴く劇的なショーなどではない。パンクしかけている日本の行政窓口を正常化し、自分と部下たちが今夜こそ定時で家に帰って布団で眠るための、絶対に負けられない「事務処理改革」だったのである。
――少なくとも、午前十時からの総理官邸での事前会議に出席するまでは、彼女は本気でそう信じていた。
*
午前十時ちょうど。総理官邸・地下小ホール会議室。
長机がロの字型に並べられた重厚な会議室には、内閣官房長官をはじめ、内閣広報室の内閣審議官(政府広報調整官)、警察庁・法務省・総務省の連絡幹部、そして八咫烏側から出席した霧島の上司(行政管理局長)と、実務統括の霧島が顔を揃えていた。
「――それでは、本日午後三時より予定しております合同記者会見の最終確認に入ります」
議長席に座る官房長官が、手元のマイクをオンにして切り出した。十月三十日に「三百四十二万人」の発表を行った、あの長官である。
「すでにご承知の通り、我が国は先月末に世界に先駆けて異能の実在と国内の推計人口を公表した。その後、アメリカ合衆国は『MAJESTIC-12』を、中華人民共和国は『青幇』を、そして欧州各国は『オルド・クロノス』という専門組織の名称と存在を相次いで公式に認めている。
こうした国際情勢、ならびに国内の各行政窓口への問い合わせの混乱を鑑みれば、我が国だけがいつまでも『専門の機関』という曖昧な呼称を使い続け、公式の窓口を伏せておくことにはもはや何のメリットもない。本日をもって、『八咫烏』の名称と総合相談窓口を正式に公表する」
官房長官の言葉に、霧島の上司である八咫烏の局長が深く頷いた。
「おっしゃる通りです、長官。それに、隠そうにも『八咫烏』という名称自体は、先々週の金曜日の夜の段階で、すでに多くの国民に知られてしまっておりますからな」
その言葉に、斜め向かいに座っていた政府広報調整官が、手元のメディア分析資料をめくりながら苦笑いを漏らした。
「……ああ、先々週の金曜日の生放送で、月刊『ムー』の三神編集長が『古くからの関係者の間では八咫烏の――ああ、失礼』と口を滑らせた一件ですね。ネット上ではすでに既成事実として扱われておりますが……しかし、あの三神という編集長は、なぜ当機関のコードネームや、先週木曜日に解説した幽霊の法的分類まで、あそこまで正確に知っていたんでしょうね?」
広報調整官が純粋な疑問として尋ねると、霧島の上司は眉一つ動かさず、大真面目な顔で答えた。
「それはまあ、彼が昔から知っているからでしょうな」
「……いや、局長、そういうトートロジー(同語反復)の話ではなくて、情報漏洩の経路としてどうなのかと聞いておるのですが」
「はっはっは、古くからの腐れ縁のようなものですよ。彼も出していいラインと駄目なラインは一応わきまえておりますから」
「どこがわきまえてるんですか。あの人のせいで、この十日ほどの間にどれだけ問い合わせが増えたと思ってるんですか」と、霧島は内心で冷ややかにツッコミを入れたが、もちろん表情には出さず、順番が来ると立ち上がって『総合相談窓口』の運用フローについて説明を行った。
「――八咫烏の霧島より、本日開設する総合相談窓口の具体的な振り分け(トリアージ)運用についてご説明いたします。お手元の資料の3ページをご覧ください」
霧島はクリアで落ち着いた声で、プロジェクターの図解を指し示した。
「今回の窓口開設で最も重要なのは、あらゆる相談を八咫烏が抱え込むことではなく、受付経路を一本化し、重複案件を減らすことです。
政府公式ポータルでは統一受付番号を発行し、複数の省庁を経由した同一案件も一つの受付履歴に統合します。
緊急の危険を伴う事案は警察・消防から専門班へ直接連携し、通常の相談は担当の行政機関や専門部署へ振り分けます。詳しい受付対象と利用方法は、会見で国民の皆様にご説明する予定です」
官房長官が感心したように大きく頷いた。
「なるほど。これまで市役所や警察署でたらい回しになっていたものを、デジタル窓口で最初から交通整理するわけだな。危険な緊急事案と通常の行政相談を同じ列に並ばせないというのも非常に合理的だ」
「はい。また、先週木曜日の幽霊関連の報道以降、亡くなったご家族との再会を望むお問い合わせが増加しておりますので、窓口の対応範囲についても誤解のないようご案内いたします」
霧島は言葉に力を込めた。
「霊的な事象の相談を受けることと、特定の故人との再会を保証することは別です。その違いは、一般向けの説明で明確にいたします」
さらに霧島は、資料の次のページ――『非公開を維持する機密情報(レッドライン)』のリストについても、政府側の幹部たちに厳重に念を押した。
「なお、本日の公表はあくまで『八咫烏という組織の存在と相談窓口の開設』であり、以下の情報につきましては、国家安全保障および個人の基本的人権保護の観点から、引き続き完全非公開を維持いたします。
第一に、国内約三百四十二万人と推計される覚醒済み能力者のうち、当機関が把握している登録者の氏名、住所、勤務先等の個人情報。
第二に、実働部隊の具体的な編成、およびTier2・Tier1等の高階位能力者の個別能力と戦力データ。
第三に、能力の階位(Tier)制度の算定基準である『魂の定数』等の核心的技術情報。
第四に、国際因果律改変能力者委員会(ARC)に関する秘匿情報、高次元・神格存在、隣接異世界、ならびに国内の人外共同体に関する非公開協定。
……特に一般の方からは、すでに『自分の隣の家に住んでいる人間が能力者かどうか教えてほしい』『子供の学校の先生の名簿を照会しろ』といった要求が多数寄せられておりますが、本人の同意なき第三者からの身元照会には一切応じない方針を徹底いたします。よろしいですね?」
「うむ、もちろんだ。そこが崩れたら人権保護も何もないからな」
「当然だな」
「……当然のことなのですが、昨日までにすでに三万件近くそのような照会が来ておりますので、会見でもはっきりと『お答えできません』と釘を刺させていただきます」
各システム担当官からも「公式ポータルサイト、午後三時の会見と同時に公開可能です」「受付番号の自動発行システム、テスト完了しました」「全市区町村への転送マニュアル通知、完了しております」と次々に準備完了の報告が上がった。
時刻は午前十時五十五分。
霧島は手元のバインダーを閉じ、胸の中で小さくガッツポーズを作った。
完璧だ。何一つ抜け漏れはない。午後三時にこの通り淡々と発表を終えれば、明日からはあの悪夢のような「同じ火の玉の相談を四回処理する地獄」から解放されるのだ。
「――よし。では、本日の記者会見の基本骨格はこれで確定とする。霧島統括、実務の取りまとめご苦労だった」
官房長官が満足そうに頷き、会議を締めくくろうとした――まさにその時だった。
長机の向かい側に座っていた内閣広報室の政府広報調整官が、「あー、長官、ならびに八咫烏の皆様。会議を終える前に、もう一点だけよろしいでしょうか」と、自分の鞄の横から、先ほどまでの実務資料とは別の『薄い紫色のファイル』を取り出して机の上に広げたのである。
「……そういえば、今回の八咫烏の公式発表に合わせまして、当機関が保管している『過去の歴史的特殊事象の史料』も一部セットで一般公開してはどうか、という話が官邸の広報戦略チームで上がっておりまして」
霧島が、ピクリと眉を動かして顔を上げた。
「……歴史的特殊事象の史料、ですか?」
何気ないその一言から、会議室の雲行きが急速に怪しくなり始めた。
*
午前十一時ちょうど。
政府広報調整官がスタッフに命じて全員の手元に配り始めた新しい資料の表紙には、『歴史的特殊事象記録・第一期一般公開候補資料(審査済)』というタイトルが印字されていた。
霧島は、嫌な予感に胸をざわつかせながら手を挙げた。
「……あの、調整官。本日の午後三時からの記者会見は、八咫烏の名称公表と『総合相談窓口の開設』を国民に周知するための実務会見ですよね?」
「ええ、そうですよ」
「過去の歴史的特殊事象のアーカイブ公開につきましては、段階的ディスクロージャーの第三段階として、来月以降に文化庁や国立公文書館と連携して別日程で行う予定だったはずですが」
「ええ、当初のスケジュールではそうでした。ただですね、昨夜、官邸のメディア対策班でシミュレーションを行った結果、それを今日に『前倒し』して同時発表した方が得策ではないか、という結論になりましてね」
広報調整官は、眼鏡をキラリと光らせ、いかにも「名案を思いついた」と言わんばかりの得意げな口調で説明を始めた。
「考えてみてください、霧島さん。今日、私たちが『政府の秘密機関・八咫烏が実在します!』とだけ発表したら、会場のマスコミやネットの関心はどこへ集中すると思いますか?
間違いなく、『八咫烏の職員は何人いるんだ?』『予算はいくらだ?』『どんな超能力を持った戦闘員が所属しているんだ?』『一番強い能力者の名前と顔を教えろ!』『渋谷で戦ったトレンチコートの女性はどこにいるんだ?』といった、現在の組織の内部情報や個人の身元に対する執拗な詮索に100パーセント集中することになります」
横で聞いていた官房長官も、腕を組んで深く頷いた。
「うむ。アメリカのウォーレン大統領がMAJESTIC-12を認めた時も、中国の報道官が青幇を認めた時も、記者からの質問は『現在の組織の規模と能力者の実態』に殺到して大変だったからな。
現在の八咫烏の組織そのものに国民とメディアの注目が集まりすぎると、機密保持の壁とぶつかって会見が紛糾し、かえって肝心の相談窓口の案内が埋もれて行政の混乱が続いてしまう。そこでだ、会見の後半に、国民が思わずそちらに飛びつきたくなるような『別の大きな話題(歴史ロマン)』を一つポンと投げてやることで、現在の組織内部への過度な詮索から関心を分散させよう、というわけだよ」
言っている理屈自体は、政治広報のテクニック(スピン・コントロール)としては一理あるように聞こえた。
霧島も、そこまでは一応理解を示して頷いた。
「……なるほど。つまり、現在の安全保障や個人のプライバシーに直接関わらない『比較的安全で無難な昔の歴史資料』を一緒に公開することで、マスコミの目をそちらへ逸らす防波堤にする、ということですね」
「そういうことです! さすが霧島さん、話が早い!」
霧島は「まあ、明治時代のちょっとした怪異の記録や、陰陽寮の古いお札の目録程度なら、別に今日出しても害はないか……」と思いながら、手元に配られた紫色のファイルの表紙をめくり、1ページ目の見出しに目を落とした。
そこに太いゴシック体で印字されていたタイトルを見た瞬間。
霧島の動きが、完全に停止した。
『 公開史料第1号:徳川幕府初期における未来年代人物の召喚事象に関する記録 』
「……………………」
霧島は一度まばたきをし、自分の目が疲れて幻覚でも見ているのではないかと疑って、もう1ページめくった。
2ページ目には、江戸時代初期の墨書で記された古文書の高精細スキャン画像と、その横に添えられた現代語訳の抜粋が並んでいる。
そこには、『大御所様、秘札を用いて後の世の日の本の民を招き、政の行く末を問わせ給う』という趣旨の記述があった。その横の現代語訳には、『徳川家康が呪物を使用して未来の日本人と接触した記録。対象年代は二〇二〇年代と検証済み』との注記が添えられていた。
霧島の手が、紙の上でピタリと止まった。
彼女はゆっくりと顔を上げ、向かいに座る政府広報調整官の顔を、信じられないものを見る目で見つめた。
「……あの、調整官」
「はい?」
「……これ、徳川幕府の件ですよね?」
「ええ、そうですよ」
「……徳川家康公の?」
「はい、あの江戸幕府を開いた徳川家康公です」
「……特殊な呪物を使って、四百年後の『二〇二〇年代の現代日本人』を江戸城へ呼び出して相談していた、あの最高特A級の歴史事象記録ですよね?」
「そう、まさにその件です!」
霧島は、開いていたファイルをパタンと静かに机の上に置いた。
そして、努めて冷静な、しかしわずかに低くなった声で尋ねた。
「……それ、本当に『目くらまし』に使って大丈夫な資料ですか?」
問われた広報調整官は、きょとんとした顔で首を傾げ、自信満々に頷いた。
「ええ、まったく問題ありませんよ! 八咫烏の史料編纂室と法務部門による公開審査は、数か月前に完了しています。使用された呪物の保管場所や具体的な起動方法、召喚された現代人の個人情報に当たる部分は非公開とし、安全保障とプライバシー保護の両面を確認済みです!」
隣に座る霧島の上司(八咫烏局長)も、満足そうに頷いて補足した。
「うむ。今回はあくまで過去の使用記録を、必要な箇所を伏せて公開するだけだ。現在の管理情報や悪用につながる技術的な内容は含まれておらん。保全審査を通った史料を公表する分には支障はない」
霧島は、自分の上司と政府の幹部たちの顔を交互に見た。
公開前の機密審査が適切に行われたこと自体には、異論はない。
ただ、資料の内容を眺めながら、別の数字が頭の中に浮かんでいた。
全国の歴史研究者から届くであろう、質問状の件数である。
「……いえ、局長、調整官。私が申し上げているのは、軍事機密や安全保障の話ではなくてですね……」
霧島が口を挟もうとしたが、すっかり気分が乗っている官房長官が、資料をポンと軽く叩いて笑顔で遮った。
「まあ、確かに国民が聞いたら腰を抜かすほど衝撃は大きいだろうが、目くらましとしてはそれくらいインパクトがある方がいいんだよ、霧島君!
誰もが名前を知っているあの徳川家康が、実は関ヶ原や大坂の陣の頃に、令和の現代日本人を召喚して政治の相談をしていた――なんて話が出れば、ワイドショーもネットも一斉にそっちの話題で持ちきりになる。国民が八咫烏の現在の部隊編成や秘密兵器にばかり目を向けて怖がるより、江戸時代の歴史ロマンに目を向けてくれた方が、社会としてもよっぽど健全で明るいじゃないか」
広報調整官も大きく頷いて乗っかった。
「その通りです! しかも単なる根拠のない都市伝説ではなく、徳川幕府が公式に残した一次史料を政府が公認して公開するわけですから、国民が日本の歴史に改めて関心を持つ素晴らしいきっかけにもなります。
『徳川家康が未来人に相談していた』。いやあ、これは日本中が驚くだろうな、最高の目くらましになりますよ!」
会議室の幹部たちが「うむ、それはいい」「面白いじゃないか」と和やかに頷き合っている。
その中で、ただ一人、霧島だけが一切笑わず、氷のように冷めた微妙な表情で座っていた。
「…………」
彼女のあまりにも静かな沈黙に気づいた上司の局長が、ふと眉をひそめて声をかけた。
「……ん? 霧島君、どうしたね。さっきから浮かない顔をして、何か問題でもあるのか?」
「……いえ」
「遠慮せずに言ってみなさい」
霧島は一度だけ小さく息を吸い込み、会議室の全員を見渡して、静かに、しかしハッキリと問いかけた。
「……本当に、大丈夫ですか?」
「何がだ?」
「この、徳川幕府の件です」
「ああ、だから今説明した通り、機密保全と個人情報の審査はすべて済んでおる。法的に何の問題もない」
「いえ、公開の法的可否ではなくて……」
霧島は、手元のファイルの『徳川家康』『未来人召喚』『政務への下問』という文字を指差した。
「……こんな発表をしたら、日本中の『歴史学者』の方々から、問い合わせが殺到するのではありませんか?」
「…………」
会議室の和やかだった空気が、ピタリと止まった。
霧島は淡々と、具体的な数字と事実を積み上げていく。
「日本近世史――江戸時代を専門に研究しておられる大学の教授、准教授、講師、ならびに大学院生や博物館の学芸員の方々だけでも、日本国内に数千人単位でいらっしゃいますよね。さらに海外の日本史研究者や、在野の郷土史家、歴史ファンの方々まで含めれば何十万人という数になります」
「…………」
「その方々に向かって、今日突然、日本政府が『実は徳川家康は二〇二〇年代の未来人を召喚して話を聞いていました。当時の幕府の記録もあります』などと公式発表すれば……これまで四百年間積み上げられてきた徳川政権の政策決定過程や、幕藩体制の成立史、あらゆる古文書の解釈を根底から見直さなければならなくなるため、全国の大学の研究室や歴史学会から、検証と史料開示を求める問い合わせが津波のように押し寄せると思うのですが……」
官房長官と、広報調整官と、八咫烏の局長の三人が、同時に「……あっ」という顔をして、お互いの顔を見合わせた。
三秒間の気まずい沈黙。
「……まあ、大丈夫だろう」
最初に目を逸らしながらそう言ったのは、上司の局長だった。
「……本当に大丈夫ですか?」
霧島がジトッとした目で聞き返す。
「……いや、待てよ」
局長が顎に手を当て、隣の広報調整官を振り返った。
「…………ダメか? やっぱり学者連中が騒ぐか?」
「…………」
広報調整官は一瞬だけうろたえたが、すぐに自分の手元の分厚い準備ファイルを叩いて、自分自身に言い聞かせるように声を張り上げた。
「い、いやいや、大丈夫ですよ! だって、そのために史料編纂室が何ヶ月もかけて、この通り『一般公開用の現代語訳資料』と『史料目録』、それに『原本の一部の高解像度画像データ』まで完璧に整理して揃えてあるじゃないですか! 捏造ではないという科学的な年代測定データも添付済みです!」
「……はい、資料自体は揃っていますね」
「資料が最初から揃って公開されるんですから、わざわざ問い合わせるまでもなく、その公開された資料を読んでもらえれば全部わかるでしょう! だったら何の問題もないじゃないですか!」
霧島は、目の前の官僚たちの明るい見通しを聞いて、眩暈を堪えるように細く息を吐いた。
彼らには分かっていない。「新しく発見された超一級の一次史料の抜粋」を歴史学者に見せるということが、どういう結果を生むのかが。それは飢えたライオンの群れの前に最高級の生肉の切れ端を放り投げて、「ほら、一口分あげたからこれで満足して大人しく寝るだろう」と期待するようなものなのだ。
「……では、調整官。念のためお聞きしますが、その公開された史料を読んだ全国の歴史学者の方々から『抜粋されていない残りの原文をすべて見せろ』『筆跡と花押の鑑定データを出せ』『その未来人の証言が具体的にどの法令(武家諸法度や禁中並公家諸法度など)に影響したのか裏付け史料を開示しろ』という専門的な質問が殺到した場合……その回答を作成する担当部署は、どこに決まっているのでしょうか?」
広報調整官が、ゆっくりと手元の資料に視線を落とした。
「…………」
広報調整官と官房長官の動きが、再びピタリと止まった。
誰も答えない。
やがて広報調整官が、泳ぐような視線で資料の余白を見ながら、小さな声で言った。
「……まあ、公開した資料を見れば、大体のことは分かるだろう」
「…………」
「……分かるよな、局長?」
水を向けられた八咫烏の局長も、額の汗をハンカチで拭いながら頷いた。
「……う、うむ、そうだな! 何しろ徳川幕府の公式記録なんだから、書いてある通りの事実だ! 学者諸君も読めば納得するはずだ!」
「……納得するかどうかは、その歴史学者の方々に聞いていただかないと分かりませんが」
局長の額に、再び汗が浮かんだ。
「…………」
五秒間の重苦しい沈黙のあと、官房長官がパンと両手で机を叩き、すべての不安を気合でねじ伏せるような明るい大声で宣言した。
「――よし! 資料は完璧に準備できている! まあ大丈夫だろう、予定通り今日の会見で一緒に出すぞ!!」
「…………」
霧島は、この国の最高意思決定機関が下した「まあ大丈夫だろう」という楽観論を前に、最後の実務的な防衛線を張るべく、静かに手を挙げた。
「……あの。百歩譲って本日公開するとして、せめてその歴史史料に関するお問い合わせ窓口だけは、私が統括する『市民向けの総合相談窓口』とは完全に別の専用ルートとして、文化庁か国立公文書館の方に設けていただいた方がよろしいのではないでしょうか」
「ああ、その点なら抜かりはありませんよ、霧島さん!」
広報調整官が胸を張って答えた。
「本日公開する特設Webサイトの史料ページには、一般の相談窓口とは別に、『歴史的特殊事象史料に関する学術・一般照会フォーム』という専用ボタンをちゃんと分けて設置してあります!」
「……ほう。では、その専用フォームに届いた質問の回答は、どなたが担当されるのですか?」
「まずは内閣官房の文書管理部門のサーバーで一括受信し、内容の機密区分に応じて、関係する専門部署へと自動転送する仕組みになっております」
「……ちなみに、その自動転送される『関係する専門部署』というのは、具体的にどこですか?」
カチ、とボールペンのノック音だけが響いた。
広報調整官の視線が、すーっと横に逸れて、霧島の上司である八咫烏の局長の方へと向いた。
局長は、気まずそうに咳払いを一つして、隣に座る霧島の顔を恐る恐る見た。
「……霧島君」
「……はい、局長」
「その史料のどこまでが機密でどこからが開示可能かを判断できるのは、結局うちの組織しかないのでな……。例によって、まずは一度すべて君の統括する『国内相談・事務対応部門』の受信トレイに転送してもらい、そこで君たちに分類・仕分けをしてもらうことになっておる」
「…………」
「……すまん」
システムの上では窓口のボタンが二つに分かれているだけで、裏側のパイプは100パーセントそのまま霧島のデスクの上のパソコンに繋がっていたのである。
霧島は、三秒間ほど無言で総理官邸の会議室の白い天井を見つめた。
局長の「……すまん」という小さな声が、霧島の耳にいつまでも残った。
「……はあ。分かりました。もう、その内容で会見してきます」
霧島が観念して書類の束を抱えて立ち上がると、上司の局長はホッとしたように笑顔になり、彼女の肩を励ますように叩いた。
「頼んだぞ、霧島君! 君の落ち着いた説明ぶりなら、記者たちも安心するからな!」
「……はい」
官房長官も力強く頷いた。
「国民の混乱を収め、八咫烏の信頼を築く大切な第一歩だ。よろしく頼むよ、霧島統括」
「……承知いたしました」
霧島は礼儀正しく一礼すると、背筋を伸ばして会議室の重い扉を開け、廊下へと出た。
扉が閉まり、自分のカツ、カツというパンプスの足音だけが響く官邸の廊下を歩きながら、彼女は抱えた紫色のファイルを見下ろし、誰にも聞こえない声でぽつりと呟いた。
「……なんで江戸時代の徳川家康と歴史学者の相手まで、私の仕事になってるんでしょうね……」
*
午前十一時三十分から午後二時にかけて、霧島は霞が関の庁舎へ一度戻り、昼食のサンドイッチを片手に、史料編纂室の担当官と「徳川幕府の未来人召喚記録」の公開範囲の最終チェックを行った。
もちろん、官邸の上層部がいかに「目くらまし」として急遽前倒しを決めたとはいえ、日本政府と八咫烏が何の裏付けもない不確かなオカルト話を思いつきで発表するわけではない。
この『徳川幕府による未来年代人物の召喚事象』に関する記録群は、明治維新の際の江戸城明け渡し時に旧幕府の秘庫から新政府(および八咫烏の前身組織)へと極秘裏に引き継がれ、その後百五十年以上にわたって厳重に保管・検証されてきた、紛れもない第一級の行政・歴史文書だった。
「――霧島統括、こちらが本日午後三時に特設サイトへアップロードする公開用PDFデータと、会見場のスクリーンに映すスライドの最終版です」
史料管理担当官が、モニターに古文書のスキャン画像と解説テキストを表示させた。
それは、徳川家康自身が未来の人物に政務を尋ねた記録と、後の幕府中枢が残した同種の記録を含む、一連の特殊事象史料だった。
史料管理担当官は、各文書に付けられた整理番号を確認しながら、公開する原本画像と現代語訳を照合していく。
霧島も机の端に置いた審査票と照らし合わせ、黒塗り箇所の範囲を一つずつ確かめた。
原本の画像には、文書の年代や筆跡についての注記が添えられ、公開できる部分は高解像度で収録されている。
一方、召喚された二〇二〇年代の人物を特定できる情報は、一覧からも現代語訳からも伏せられていた。
幕府側が未来人に質問した内容は読み取れる。しかし、その返答が政策の決定に採用されたかどうかは、この抜粋だけでは分からない。
呪物の詳しい起動条件や現在の保管状況も、もちろん今回の公開範囲には含まれない。
史料の真正性を示す資料は揃っている。だからこそ、続きを求める研究者が現れることも、霧島には容易に想像できた。
「公開するスライドの内容は、以下の四点に絞っています」
史料担当官がチェックリストを読み上げる。
「一、徳川幕府が特殊な呪物を所有し、未来の人物との接触事象を起こしていたという歴史的事実。
二、徳川家康本人が、召喚された『二〇二〇年代の日本に生きる一般人』と直接対面して会話した記録(『駿府政事録・秘匿別巻』および『柳営秘鑑・異事録』の抜粋画像と現代語訳)。
三、家康公らが未来人に対し、将来の日本の統治機構、諸外国との関係、民衆の暮らしぶりなどについて熱心に質問・相談していたという記録。
四、ただし、召喚された現代人個人の特定につながる情報(氏名や住所等)はすべて黒塗りとし、また『未来人の助言が具体的に幕府のどの政策や法令に反映されたか』については、政府として断定せず、今後の歴史研究者の学術的検証に委ねる、という留保文言です」
霧島は、スライドの最後の1枚――墨で書かれた四百年前の達筆な崩し字の横に、現代の明朝体で『対象者:二〇二〇年代の日本に居住する一般人(氏名非公開)』『照会事項:後の世の日本の政、ならびに民の暮らしについて』と淡々と併記された、あまりにもシュールな公文書画面を見つめた。
「……内容は正確ですし、機密保護のラインも完璧ですね」
霧島は静かに頷いた。
「ただ、担当官。この『原本は一部抜粋のみ公開』『政策への具体的な反映については今後の学術的検証が必要』という書き方は……歴史学者の方々には、『続きがあるなら読ませてほしい』と思わせるでしょうね。問い合わせへの対応は覚悟しておいてください」
「……は、はい。お手柔らかにお願いしたいところですが……」
時計の針が、午後二時三十分を指した。
霧島は化粧室でスーツのジャケットの皺を伸ばし、髪を整えると、官邸の記者会見場へと向かう公用車に乗り込んだ。
*
午後三時ちょうど。総理官邸・記者会見室。
「本日午後三時より、政府の特殊事象対応体制に関する重要発表を行う」との予告を受け、会見場は国内の主要テレビ局、新聞社、通信社、さらには海外メディアの特派員たちで立錐の余地もないほど埋め尽くされていた。
定刻と同時に、内閣官房長官、政府広報調整官、そしてダークネイビーのパンツスーツを着こなした八咫烏の事務対応統括責任者・霧島の三名が登壇し、一斉に無数のカメラのフラッシュが焚かれた。
午前中、官邸の廊下で仕事が増えることをぼやいていた霧島だったが、いざ百台のカメラとマイクの前に座った彼女の佇まいは、どこから見ても隙のない、冷静沈着で有能なエリート行政官そのものだった。
会見の口火を切ったのは、内閣官房長官だった。
「――皆様、お集まりいただきありがとうございます。本日は、先月末より国内外で相次いで確認・報道されております特殊能力および超常的事象に関しまして、我が国政府の対応体制を改めて公式にご説明いたします」
官房長官は正面のカメラを見据え、厳粛な口調で続けた。
「これまで政府は、国内における特殊能力者の把握や超常事象への対処について、『専門の機関』を通じて行っているとご説明してまいりました。
しかし、先般の各国政府による専門組織の公表、ならびに国内の行政窓口における国民の皆様のご不便を解消するため、本日、その機関の存在と名称を公式に明らかにすることといたしました」
記者たちが一斉に身を乗り出す。
官房長官は一拍置き、はっきりと告げた。
「日本政府には、古くから特殊能力者および超常的事象の調査、安全管理、行政調整、ならびに当事者の保護を一元的に担ってきた専門機関が存在します。その機関が歴史的に用いてきた名称――コードネームが、『八咫烏(ヤタガラス)』です」
その瞬間、会見場全体に「おおお……!」「やっぱり『八咫烏』だった!」「先々週、月刊ムーの三神編集長がテレビで漏らしかけた名前が、本当に政府の機関の呼称だったぞ!」という大きなどよめきと、キーボードを叩く猛烈なタイピング音が巻き起こった。
官房長官は手を挙げて会場を制し、釘を刺すように言葉を継いだ。
「なお、誤解のないよう明確に申し上げますが、『八咫烏』は警察や自衛隊に代わって超法規的に事件を処理するいわゆる『秘密警察』や『軍事組織』ではありません。法令と適正手続に基づき、能力者の登録・人権保護、法務・税務等の行政調整、ならびに通常の警察・消防では対処困難な特殊事象に対する専門的支援を行う政府の機関です。
それでは、本日より開設する国民向けの具体的な相談受付体制につきまして、八咫烏の国内相談・事務対応統括責任者である霧島よりご説明いたします」
官房長官に促され、霧島が静かに立ち上がって自分のマイクのスイッチを入れた。
初めて表の世界のテレビカメラの前に姿を現した「本物の八咫烏の幹部職員」に、会場のすべてのレンズが集中する。
「――八咫烏において国内相談および事務対応を統括しております、霧島と申します。本日は、国民の皆様から寄せられているお問い合わせへの新たな対応体制についてご説明いたします」
霧島の声は、よく通り、一切の淀みも感情のブレもない、これ以上なく聞き取りやすいプロの行政官の声だった。
彼女は背後の大型スクリーンに『特殊事象に関する総合相談窓口(ポータルサイト)』の画面を表示させ、まず頭を下げた。
「去る十月二十八日に政府が特殊能力者の実在を公表して以来、全国の市区町村の窓口、警察署、各省庁、ならびに医療機関等に対し、国民の皆様から膨大な数のお問い合わせが寄せられております。これまで政府の公式な専用窓口が明示されていなかったため、国民の皆様、ならびに現場の自治体・関係機関の皆様に多大なるご不便とご不安をおかけいたしましたことを、実務責任者として深くお詫び申し上げます」
素直で潔い謝罪から入ったことで、身構えていた記者たちの空気がスッと落ち着く。
霧島はレーザーポインターで画面のフロー図を示しながら、明快に説明を進めた。
「その混乱を解消するため、本日午後三時をもって、内閣官房の公式サイト内に『八咫烏・特殊事象総合相談窓口』を開設いたしました。
本窓口では、ご自身やご家族に特殊な能力があるのではないかというご相談、能力を理由とした職場や学校での不当な差別・トラブルのご相談、ならびに不審な超常現象の目撃情報などを一元的に受け付けます。ご相談をお送りいただきますと、システム上で固有の『統一受付番号』を発行し、内容に応じて当機関の専門部署、または法務省・厚生労働省・警察庁などの適切な担当窓口へと迅速に振り分けを行います。これにより、複数の役所に同じ相談を繰り返していただく必要はなくなります。
ただし、一点強くお願い申し上げます。現在進行形で生命や身体に物理的な危険が迫っている緊急事態におきましては、Web窓口ではなく、これまで通りためらわずに『110番』または『119番』へ通報してください。警察・消防の指令室と八咫烏の緊急対応班は24時間直通回線で接続されております」
そして霧島は、正面のカメラを真っ直ぐに見据え、凛とした声で宣言した。
「なお、八咫烏の最も重要な任務の一つは、国内に暮らす能力者の方々の平穏な日常生活と基本的人権を保護することです。能力を有しているという理由だけで不利益な扱いを受けることはなく、また、第三者から『近所の誰々が能力者かどうか教えろ』といった身元照会が寄せられても、本人の同意なく個人情報を開示することは絶対にございません」
説明が一区切りつくと、司会者が「まず、ここまでの窓口体制について質問を受けます」と告げ、記者たちが一斉に手を挙げた。
「毎日新聞です! 先日、ヨーロッパの『オルド・クロノス』がライン川の事案において『幽霊(死者の霊体)』の実在を公式に認めました。日本の八咫烏におきましても、幽霊や心霊事象について把握・対応しているのでしょうか? また、亡くなった家族との再会を希望する遺族は、この新しい窓口に申し込めばよいのでしょうか!?」
霧島は一秒の迷いもなく、引き締まった表情で即答した。
「お答えいたします。日本国内におきましても、霊的な事象(いわゆる幽霊や霊障)が実在することは確認しており、当機関にはそれらを専門に扱う心霊事象部門が存在します。
しかしながら、『霊障に関する安全上の相談を受け付けること』と、『ご希望された特定の故人との再会や交信を保証すること』は、まったく別の問題です」
会場がシンと静まり返る中、霧島は明確に言い切った。
「先日の欧州における事案は、古い霊的境界の偶発的な破綻によって発生した極めて特殊な災害です。日本国内にも霊体と接触可能な能力者(霊媒師)は存在しますが、そもそも亡くなられた方のすべてが現世に霊体として留まっているわけではなく、ご希望の方を自由に呼び出せるわけではございません。したがって、当窓口において『亡くなったご家族との面会や降霊の斡旋・保証』を行うことは一切ございません。
また、現在インターネット等において、政府や八咫烏の公認を騙り、『確実に故人と話せる』と謳って高額な金銭を要求する悪質な霊感商法が確認されております。当機関がそのような民間業者に公認を与えることは絶対にありませんので、国民の皆様におかれましては、決して騙されないよう強く注意を喚起いたします」
続いて、別の記者たちから矢継ぎ早に組織内部に関する質問が飛んだ。
「朝日新聞です! 八咫烏には現在、何人の職員や実働部隊員が所属しているのですか!?」
「個別の組織編成や人員数につきましては、安全保障上の観点から、公開可能な範囲を整理した上で順次ご案内いたします」
「霧島統括ご自身も、三百四十二万人のうちの1人――すなわち異能者なのですか!?」
「当機関の職員個人の能力の有無や登録状況につきましては、プライバシーおよび職務保全のため、一律に公表対象としておりません」
「昭和三十年代から報道機関と協定を結んで国民に存在を隠していたことについて、説明責任をどうお考えですか!?」
「長年にわたり非公開の体制をとってきた経緯につきましては、政府として重い説明責任があると認識しております。ただし、過去の秘匿措置の多くは、能力者への差別・迫害の防止や社会秩序の維持を目的としたものでもありました。今後は有識者会議の検証を経つつ、公開可能な歴史的記録を段階的に国民の皆様へお示ししてまいります」
どんな鋭い変化球が飛んでこようとも、霧島は表情一つ変えず、完璧な法務・行政ロジックの盾で淡々と、しかし丁寧に受け流していく。
隣に座る官房長官や政府広報調整官も、「よし、ここまでは完璧だ」と安心しきった様子で頷いていた。
時刻は午後三時三十五分。
もし、記者会見がここで終わっていれば、翌日の新聞の一面は『政府、「八咫烏」を公式認定・総合相談窓口を開設』という、極めて真面目で実務的な行政ニュースとして綺麗にまとまっていたはずだった。
だが。
霧島は手元のバインダーのページを、ゆっくりと一枚めくった。
そこにあるのは、午前十一時の会議で上層部が「いい目くらましになる」「まあ大丈夫だろう!」と笑顔でねじ込んだ、あの紫色のファイルの内容だった。
霧島は、カメラには決して映らないほど微かに、胸の奥で一つだけ深いため息を吐いた。
そして、それまでとまったく変わらない、お天気お姉さんが明日の降水確率を読み上げるかのような、どこまでも事務的で澄み切った声で、こう切り出した。
*
「――続きまして。ただいま申し上げました『段階的な情報公開』の第一弾といたしまして、本日の窓口開設に合わせ、政府および八咫烏がこれまで非公開として保管してまいりました『歴史的特殊事象の公文書記録』の一部を、本日付で一般公開いたします」
会場の記者たちは、まだ比較的落ち着いた様子でメモ帳の新しいページを開いていた。
「過去の記録の一部公開か」「どうせ明治時代の超能力実験の記録か、戦前の千里眼事件の報告書あたりだろう」と、誰もがタカをくくっていたからだ。
霧島がリモコンのボタンを押すと、背後の大型スクリーンに、江戸時代の古い和紙に墨で書かれた文書のスキャン画像と、その現代語訳のスライドが映し出された。
「本日公開いたします史料第1号は、今から約四百年前――江戸時代初期における『徳川幕府』の特殊事象に関する公式記録です」
記者席から「おや、江戸時代か?」「徳川幕府?」と少し意外そうな声が漏れる。
霧島は、手元の原稿を一字一句正確に読み上げた。
「当機関が江戸城の旧幕府秘庫より引き継ぎ、長年にわたり保管・検証してきた一次史料の中に、徳川幕府の中枢が『特殊な呪物』を使用し、未来の時代に生きる人物との接触を繰り返し行っていたという記録が存在いたします」
記者たちのペンが、ふと止まった。
「……未来?」
「未来の人物との接触……?」
最前列の政治部記者が、聞き間違いかと思って顔を上げ、手を挙げずに思わず口を挟んだ。
「あの、霧島統括。今『未来の人物』とおっしゃいましたが、それは当時の陰陽師か誰かが将来の日本の姿を占った『予言書』があった、という意味でしょうか?」
「いいえ、予言や占いではございません」
霧島は背後のスライドの拡大図――『慶長十九年(一六一四年)』『大御所様(徳川家康)』『後の世の日の本の民』と記された箇所をレーザーポインターの赤い点で示し、淡々と告げた。
「初代征夷大将軍・徳川家康を含む徳川幕府の最高幹部が、特定の呪物を使用して、約四百年後の未来――すなわち『西暦二〇二〇年代の日本に生きる人々』を、過去の江戸城や駿府城の室内へ霊的な投影として直接呼び出し、会話を交わしていたことが確認されております」
――ピタリ、と。
百人以上の報道陣が詰めかけた総理官邸の記者会見場から、文字通りすべての物音が消え失せた。
一秒。二秒。三秒。四秒。
テレビカメラの向こうの全国の視聴者も、会見場の記者たちも、自分の鼓膜と脳の言語野が突然故障したのではないかと疑った。
今の文章の中には、『徳川家康』『呪物』『二〇二〇年代の日本人』『呼び出して会話していた』という、日本の歴史の教科書と現代のニュース番組では絶対に同じ文脈に並ぶはずのない単語が並んでいた。あまりにも意味が理解できなさすぎて、歓声や怒号すら上がらない、完全な思考停止の空白。
やがて五秒後。
中央の席に座っていたベテランの記者が、持っていたボールペンを床にポロリと落とし、掠れた声で言った。
「…………は?」
その一言が引き金だった。
次の瞬間、会見場にいる記者全員が、バネ仕掛けの人形のようにガタガタッと一斉に椅子から立ち上がり、マイクも通さずに絶叫し始めた!
「ちょ、ちょっと待ってください!! 今なんとおっしゃいましたか!?」
「『二〇二〇年代の日本人』って、今の私たちの時代の人間ってことですか!?」
「待ってください、徳川家康というのは、あの徳川家康ですか!? 関ヶ原の戦いで勝って江戸幕府を開いた、あの歴史の教科書の徳川家康のことですよね!?」
大パニックで叫ぶ記者に向かって、壇上の霧島は、微塵も表情を崩さず、大真面目な顔でコクンと頷いた。
「はい。その徳川家康です」
あまりにも冷静で事務的なその肯定に、記者席のあちこちから「うそだろおい……!」「徳川家康が令和の日本人を召喚してたってどういうことだよ!?」と頭を抱えるうめき声が上がった。
すかさずNHKの記者がマイクを握って叫んだ。
「し、質問します! 未来の人間を四百年前の江戸時代へ呼び出すということは、政府は『タイムマシン(時間移動・タイムトラベル)』が実在すると公式に認めるということですか!?」
「いいえ。SF作品等で一般に想像されるような、生身の肉体や物質を伴う時間移動(タイムトラベル)とは現象の性質が異なります」
霧島は、まるで新しい税制の仕組みでも解説するかのように冷静に答えた。
「史料および当機関の検証によって確認されている事象は、使用された呪物の特性により、二〇二〇年代の日本において生存している人物の意識が、睡眠中などの特定の条件下において、数十分間だけ『霊体(幽霊)によく似た半透明の視覚的投影』として四百年前の空間に出現し、当時の人物と音声による会話を交わすというものです。肉体は現代のベッド等に残ったままであり、過去の時代へ物品を持ち込んだり、過去の人間に物理的に触れたりすることはできません」
「……では、先日ヨーロッパで確認された『幽霊(死者の霊)』を呼ぶ降霊術の一種なのですか!?」
「いいえ、それも異なります。召喚されていた対象は死者ではなく、その未来年代――すなわち二〇二〇年代において『実際に生きている人間』です」
記者たちの顔が、さらなる混乱でぐしゃぐしゃになる。
「……生きている現代の人間が?」
「はい」
「……寝ている間に、半透明の幽霊みたいな姿になって、四百年前の徳川家康の目の前に現れる?」
「はい」
「……そして、徳川家康と日本語で会話をして、目が覚めたら現代に戻る?」
「その通りです」
「…………」
「……すみません、頭が追いつかないのですが、もう一度最初から説明していただけますか!?」
悲鳴のような記者の要望に、会場から乾いた笑いとどよめきが同時に起きた。
さらに別の新聞記者が、配布された特設サイトの資料をタブレットで必死にめくりながら手を挙げた。
「読売新聞です! 百歩譲ってその現象が起きたとして、徳川家康は二〇二〇年代の未来から『誰を』呼び出していたのですか!? やはり現代の政治家や歴史学者、あるいは科学技術者などを選んで召喚していたのでしょうか!?」
「いいえ。当機関の検証によれば、当該呪物には『召喚する対象者の年代(二〇二〇年代の日本)』が固定されている一方で、『特定の個人を術者側で自由に指定・選択することはできない』という制約があったことが判明しております」
「……選べない?」
「はい。そのため、実際に江戸城や駿府城へ呼び出された対象者の大半は、政治や歴史に関する特別な専門知識を持たない、現代のごく一般的な国民――会社員や学生、主婦などの方々であったと記録されています」
「「「一般人!?!?」」」
会場が再び大きくざわめいた。
「現代の普通のサラリーマンや大学生が、寝て起きたらいきなり徳川家康の目の前に呼ばれてたってことか!?」
「で、徳川家康はその普通の現代人に向かって、一体何を聞いていたのですか!?」
霧島は背後のスライドの現代語訳文を指し示した。
「公開された記録によりますと、徳川家康公や側近の幕閣たちは、呼び出された未来の一般市民に対し、『これより後の世において、徳川の天下は長く続いておるか』『後の世の日の本は、いかなる仕組みで国を治め、異国とどのように渡り合っておるか』『民は飢えずに暮らしておるか』といった、将来の社会制度や生活、政務に関する質問を熱心に行い、その証言を書き留めていたことが確認されております」
「……と、徳川家康が、令和の一般人に『江戸幕府が何年続くか』とか『未来の政治』について人生相談をしていた、と……!?」
「記録には、家康公ご本人による接触のほか、後の徳川幕府による同種の事象も確認されております。したがって、幕府全体としての記録は複数ありますが、家康公が何度も召喚を繰り返されたという意味ではございません」
その時。
会見場の後方に座っていた、大手新聞社の『文化部・歴史担当』のベテラン記者が、顔面を蒼白にしてガタガタと震えながら立ち上がり、マイクを奪うようにして叫んだ。
「か、確認させてください!! もし徳川家康や初期の幕閣たちが、二〇二〇年代の日本人から『江戸時代は二百六十年続く』『鎖国をする』『明治維新が起きる』といった未来の歴史のネタバレや社会制度の話を実際に聞いていたのだとしたら……その未来人との会話は、実際の徳川幕府の政策決定――たとえば禁教令や鎖国政策、武家諸法度の制定などに直接影響を与えたということですか!?」
歴史学の根幹を揺るがす、最大の質問だった。
霧島はここだけ、事前に打ち合わせた通りの極めて慎重な行政表現を用いて答えた。
「幕府側が召喚された未来の人物から様々な証言を得て、それを政務の参考として記録していた事実は存在します。ただし、呪物の使用には制限があり、召喚事例は限られています。また、呼び出されたのは必ずしも専門家ではなく、得られた情報の内容と正確性については個々に検証が必要です。
その上で、それらの証言が実際の幕府の個々の政策決定にどの程度具体的な影響を与えたかにつきましては、政府として現時点で一律に断定することはいたしません。本日公開いたしました一次史料の抜粋および目録をもとに、今後、歴史学等の『専門の研究者の皆様による学術的な検証』が必要であると考えております」
『専門の研究者の皆様による学術的な検証が必要』。
会見場の後方では、歴史担当の記者たちが一斉に資料へ目を落とし、先ほどまでよりも速い勢いでメモを取り始めていた。
*
午後三時四十五分から四時十五分までの残り三十分間。
総理官邸の記者会見場は、もはや「八咫烏の窓口開設会見」ではなく、完全に「日本史学会の緊急大討論会場」へと変貌していた。
官房長官と広報調整官の目論見通り、八咫烏の現在の部隊編成や職員数に関する質問はすっかり影を潜め、記者たちの関心は「徳川家康と未来人召喚」へと集中していた。
「朝日新聞です! その呪物が最初に使用された正確な年次はいつですか!? 関ヶ原の戦い(一六〇〇年)の前ですか、後ですか!?」
「現在公開可能な年次情報は、本日特設サイトに掲載した目録の記載の通りです。慶長年間後半から寛永年間にかけての複数の記録が含まれております」
「共同通信です! 徳川家康本人が直接立ち会った記録のほかに、二代将軍・秀忠や三代・家光、あるいは天海僧正や金地院崇伝といった側近が立ち会った記録もあるのですか!?」
「幕閣の立ち会い記録の一部は公開抜粋に含まれております。個別の人物の関与の詳細につきましては、公開資料をご確認ください」
「NHKです! その召喚に使われた『呪物』自体は、現在どこに保管されているのですか!? 現在も使用可能な状態なのですか!?」
「当該呪物の現在の具体的な保管場所および管理状態につきましては、安全保障および文化財保護の観点から非公表といたします」
「東京新聞です! 今回公開されたのは史料のほんの一部(抜粋)と現代語訳だけですが、黒塗りされていない原文のすべてを、一般の歴史研究者やメディアが直接閲覧・撮影することはできるのですか!?」
「原本の直接閲覧や未公開部分の開示につきましては、古文書としての物理的な保存状態の問題、ならびに召喚された現代人の個人情報保護の観点を含め、今後関係省庁と検討してまいります」
次から次へと飛んでくる前のめりな質問を、霧島は一歩も引かずにさばき続けた。
すると、週刊誌系の記者が手を挙げて、こんな質問を飛ばした。
「あの! 召喚されたのが『二〇二〇年代の日本に生きる一般人』だということは、その徳川家康に呼ばれて江戸城で話をしてきた当人が、今この二〇二六年の日本に、実際に生きている可能性があるということですよね!?」
「はい。理論上および記録上、対象となった個人の中には、現在の日本社会において普通に生活しておられる方が含まれる可能性がございます」
「では、その方々を八咫烏は特定しているのですか!? メディアが取材することは可能ですか!?」
「仮に当機関が把握している場合であっても、個人のプライバシーおよび平穏な生活を守るため、当事者の氏名や連絡先を公表することは一切ございません」
「もし、テレビを見て『あ、数年前に夢の中で徳川家康と話したのは俺のことだ!』と本人が名乗り出た場合は、政府として本物かどうか確認してくれるのですか!?」
「先ほどご案内した総合相談窓口の方へ個別のお申し出があれば、記録との照合・確認は行います。ただし、その認定結果を本人の同意なく外部へ公表することはありませんし、売名目的の虚偽の申し出には対応いたしかねます」
午後四時十五分。
予定時間を十五分延長したところで、司会者が強引に質疑応答を打ち切り、歴史的な合同記者会見は終了した。
会見場の扉を出て控室へと戻る廊下で、隣を歩く官房長官と政府広報調整官は、こぼれんばかりの満面の笑みを浮かべていた。
「――いやあ、霧島君、お疲れ様! 実に堂々とした見事な答弁だったよ!」
官房長官が上機嫌で言い、広報調整官も大きく頷いた。
「ほらご覧なさい、霧島さん! 私の言った通り、歴史資料を前倒しで公開して大正解だったでしょう? 後半の三十分間、記者たちは徳川家康の話に夢中で、八咫烏の機密事項や高位能力者の個人情報を掘り返すような意地悪な質問は、ただの一つも出なかったじゃないですか!」
「……その点につきましては、おっしゃる通りでしたね」
「よし、これでマスコミの目も江戸時代の方へ向いたし、世間の混乱もひとまず落ち着くはずだ!」
上機嫌で去っていく二人の背中を見送りながら、霧島は何も言わず、ただ手元のタブレットに表示された「ある数値」の上昇グラフだけを、無言で見つめていた。
*
午後四時三十分。霞が関・八咫烏行政部門のオフィス。
官邸から自分のフロアへと戻ってきた霧島を、部下たちが拍手せんばかりの明るい顔で出迎えた。
「霧島統括、会見お疲れ様でした! テレビで見てましたよ、完璧でした!」
「……ありがとう。で、肝心の『総合相談ポータル窓口』の稼働状況はどうなっていますか?」
「はい、極めて順調です!」
システム担当の後輩職員が、壁面の大型モニターを指差して報告した。
「午後三時のサイト公開と同時にアクセスが集中しましたが、サーバーは安定稼働しております! これまで全国の市役所や法務省、警察署の代表電話へ直接届いていた新規問い合わせの多くが、統一Webフォームへ誘導され始めています。受付番号による自動仕分けも正常に機能し、『同じ相談が四つの省庁から重複して回ってくる現象』も目に見えて減りました!」
「……よかった。本当に、よかったです」
霧島は自分のデスクの椅子に腰を下ろし、今日初めて、心からの安堵の微笑みを浮かべた。
彼女と部下たちが週末を返上して作り上げた新しい受付システムは、確かにその役割を果たし始めていた。これからは、どこへ相談すればいいか分からずにたらい回しにされる市民も、専門外の相談に困る自治体職員も、少しずつ減らしていけるだろう。少なくとも、霧島たちの準備は実を結んでいた。
「……これで、今日からは少しはまともなペースで仕事ができますね」
霧島がふうっと息を吐き、冷めたコーヒーの残りに手を伸ばしかけた――まさにその時だった。
部屋の奥のサーバー監視端末の前に座っていた別の若手職員が、画面の数値を二度見し、みるみるうちに顔面から血の気を失って手を挙げた。
「……あ、あの、霧島統括。一般相談窓口の方は順調に整理されているのですが……その、少し別の問題が発生しておりまして……」
霧島のコーヒーへ伸ばしかけた手が、空中でピタリと止まった。
「……何でしょう?」
「本日午後三時三十五分に特設サイトに公開された『歴史的特殊事象史料(徳川幕府の件)』のページに設置された、内閣官房の『学術・史料照会用フォーム』についてなのですが……」
「…………」
「……自動転送されてくるお問い合わせの件数が、公開から一時間足らずで予想を遥かに超えて爆発しております……!」
霧島は、三秒間だけ無言で部下の顔を見つめた。
そして、誰よりも静かな声で言った。
「……ですよね」
若手職員は、半泣きになりながらモニターの受信リストをスクロールして読み上げた。
「しかも統括、一般の方の『徳川家康すげえ!』といった感想メールだけではありません! 送信元のドメインが『ac.jp(大学・研究機関)』になっている、本物の全国の大学の歴史学研究室や史料編纂所からのガチの学術照会が、分単位で何百件も自動転送されてきております!
『公開された駿府政事録・秘匿別巻の原本について、料紙の繊維分析および放射性炭素年代測定の生データ、墨の鑑定結果を即時開示されたい』
『慶長十九年の召喚記録にある筆跡は右筆のものか、それとも金地院崇伝の自筆か、高解像度カラー画像(TIFF形式)の提供を求める』
『今回公開された抜粋以外の未公開目録全件のリストを情報公開法に基づき請求する』
『日本史研究会、ならびに近世史関連の主要五学会の連名により、今週末に八咫烏の史料管理責任者を招いた緊急合同説明会(シンポジウム)の開催を強く要請する』……っ!!」
「…………」
霧島は静かに目を閉じ、右手で自分のこめかみを押さえた。
午前十一時の会議室で自分が懸念したことが、会見終了からわずか十五分で、早くも現実になっていた。
その瞬間、霧島のデスクの上にある官邸直通の内線電話が、ジリリリリッ! と乾いた音を立てて鳴り響いた。
ディスプレイに表示された発信元は、内閣広報室の『政府広報調整官』。
霧島は無表情のまま受話器を取り、耳に当てた。
「……はい、八咫烏の霧島です」
『お、霧島さん! 会見お疲れ様でした! いやあ、先ほども申しましたが、実に落ち着いた見事な会見でしたねえ!』
電話の向こうの広報調整官の声は、まだ少し浮ついていたが、その後ろの背景からは、内閣官房の文書管理室の職員たちが「調整官、また大学の先生から電話です!」「文部科学省からも照会が回ってきました!」と悲鳴を上げている声がうっすらと聞こえていた。
「……ありがとうございます、調整官」
『やはり、徳川家康の歴史資料を公開して大正解でしたよ! テレビのワイドショーもネットニュースも、今は八咫烏の内部追及をそっちのけで、徳川家康と未来人の話題に一斉に集中していますからね。これでひとまず世論も落ち着きそうですな、ハハハ……』
「……ええ」
霧島は一拍の間を置き、氷のように澄み切った事務的な声で切り出した。
「……ところで調整官。その徳川幕府の史料に関しまして、全国の大学や学術機関からの専門的なお問い合わせが、すでに当方の受信トレイに数百件規模で転送されてきておりますが」
『…………』
「……午前中の会議で、私が懸念を申し上げた際、『すでに公開用の資料は揃っているから大丈夫だ』というお話でしたよね?」
『……あー、はい。ええ、公開用の資料自体は、間違いなく揃っております』
「……では、その公開された資料を読んだ上で、さらなる裏付けデータや未公開原文の開示、ならびに学術的な質疑応答を求めている全国の歴史学者の方々への『回答書を作成する専門人員』は、官邸の側に何名用意されていらっしゃるのでしょうか?」
『…………』
「…………」
受話器の向こうで、広報調整官がゴクリと唾を呑み込む音と、気まずい沈黙が五秒間ほど続いた。
そして、先ほどまでの威勢の良さが嘘のようにしぼんだ、申し訳なさそうな小声が返ってきた。
『……あの、霧島さん』
「はい」
『……とりあえず、そちらの統括部門の方で、いったん質問の項目ごとに取りまとめて分類していただけますでしょうか……?』
「……………………」
霧島は、開いていた手元のスケジュール帳をパタンと閉じた。
やっぱり、こうなるのだ。
閉じたスケジュール帳の表紙を、指先で一度だけ叩く。午前中に聞いた「大丈夫だろう」という声が、まだ耳に残っていた。
霧島は二秒間だけ深く息を吐き出し、それから一切の感情を消した完璧な官僚の声で答えた。
「……承知いたしました。では、当方で第1次分類を行った上で、史料編纂室への回答作成指示書を起案いたします」
『た、助かります! よろしくお願いいたします!』
ツーツー、と通話が切れる。
受話器を置いた霧島は、目の前のパソコンのモニターを見つめた。
画面の右下では、一般市民からの混乱した相談が減った代わりに、『【学術照会】徳川幕府・未来人召喚記録について』という件名のメール通知が、ピロリン、ピロリンと規則正しいリズムで増え続けている。
「……『資料は揃っているから大丈夫』、か。……資料がそこにあることと、専門家の質問に答えられることは、まったく別の話なんですけどね……」
午後五時十五分。
霧島が観念して学術照会フォルダの一番上にあったメールをクリックして開くと、それは国内でも有数の国立大学で日本近世史の講座を担当している著名な教授から送られてきた、第1号の公式照会メールだった。
件名は、『徳川幕府による未来年代人物召喚記録についての史料確認および研究上の緊急照会(全42項目)』。
本文の冒頭には「突然の照会にて失礼いたします。本日の政府発表は、我が国の近世史学の前提を根底から覆す重大な事実を含んでおり――」と極めて丁寧で格調高い時候の挨拶が記されていたが、その下に続く質問リストの文章量があまりにも膨大すぎて、画面右端のスクロールバーのつまみが、まるで米粒のように小さくなっていた。
料紙の繊維構造の鑑定結果。墨の産地。右筆の筆跡の同定。慶長十九年という年次と大坂冬の陣の戦略決定との時系列の整合性。当時のキリスト教禁教令や海禁政策(鎖国)と「未来人の証言」との具体的な相関関係。なぜ百五十年間も学界に秘匿されてきたのかという経緯説明……。
「……ずいぶんと、長いメールですね」
霧島が遠い目をして呟くと、隣で同じ画面を覗き込んでいた後輩職員が、引きつった笑顔で言った。
「はい、A4用紙に換算して18ページ分あります。……そして統括、こちらが本日の学術照会の『1件目』になります」
「……1件目?」
「はい。同じようなスクロールバーの長さの照会メールが、現在すでに380件ほど後ろに並んでおります」
「…………」
霧島は眼鏡を外して机の上に置き、ゆっくりと革張りの椅子の背もたれへと身体を預けた。
ふと机の端にある予定表が目に入った。今日の日付の下には、細い文字で『定時退庁予定』と書かれていた。
「……ああ、もう。日本の歴史学者の方々って、普段は静かな研究室にいらっしゃるくせに、いざとなるとこんなにお元気なんですね……」
すると、後輩職員が自分のスマートフォンの画面をちらりと見て、遠慮がちに最後の追い打ち報告を上げた。
「……それと、霧島統括」
「……まだ何かありますか?」
「はい。今の公式フォームへの照会は大学の先生方が中心なのですが、それとは別に、X(旧Twitter)やネットの掲示板の方では、全国の日本史専攻の大学生や大学院生、さらには歴史ゲームや大河ドラマのファンの方々が、今回の『徳川家康・未来人召喚』の発表を受けて、現在とんでもない大騒ぎになっているようでして……」
「……そうですか」
「はい。『俺の卒業論文が紙屑になった』『家康に呼ばれた現代人って誰だ』と、トレンドが全部徳川家康で埋まっている模様です」
霧島は背もたれに頭を預けたまま、静かにまぶたを閉じた。
「……でしょうね。……おい、誰か私の分の夕飯と、栄養ドリンクを二本買ってきてください。今夜も帰れそうにありませんから」
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