もしも異能がディスクロージャーされたら? 作:パラレル・ゲーマー
二〇二六年十一月十日、火曜日。午前八時四十分(グリニッジ標準時)。
東京の総理官邸で「八咫烏」の公式窓口開設と「徳川家康の未来人召喚記録」が発表され、世界中の歴史学者とネット民が徹夜で大騒ぎを繰り広げていたその翌朝。
英国の首都、ロンドンは、いかにも十一月のイギリスらしい鉛色の低い雲と、テムズ川から立ち昇る冷たい霧雨に包まれていた。
ウェストミンスター地区、ダウニング街十番地。
黒塗りの重厚な鉄柵の向こう側にある首相官邸の正面玄関前には、早朝からBBC、ITV、スカイニュース、ガーディアン、タイムズといった英国内の主要メディアだけでなく、世界中から詰めかけた百人以上の報道陣が傘も差さずにひしめき合い、今か今かとあの有名な「黒い扉」が開くのを待ち構えていた。
記者たちがこれほど殺気立っている理由は、明白だった。
十月二十八日に極東の日本から始まった「異能」の公式ディスクロージャーから、すでに二週間近くが経過している。
その間に、米国、中国、欧州諸国などが相次いで超常管理体制を公表し、先週はライン川で幽霊の実在まで認められた。そして昨日、日本政府は『八咫烏』の正式公表に合わせて、四百年前の徳川幕府が未来人を召喚していたという極秘記録まで公開してしまった。
それなのに。
国連安全保障理事会の常任理事国であり、G7の一角を占めるここイギリス政府だけは、先週のストラスブール事案の際に「我が国も欧州の関係機関と緊密に連携している」という短いコメントを一本出したきりで、英国内に何人の能力者がいるのかも、英国独自の管理組織が何であるのかも、今日に至るまで一切の公式発表を行っていなかったのである。
午前八時四十二分。
ダウニング街十番地の艶やかな黒い扉が内側から開き、朝の閣議を終えて議会へと向かう英国首相――アーサー・ペンハリガン(五十四歳)が、二人の政務秘書官を伴って石段の上へと姿を現した。
その瞬間、待ち構えていた記者団から、カメラのフラッシュの嵐とともに、怒号のような質問の十字砲火が一斉に浴びせられた。
「首相! BBCです! 我が国はいつになったら国内の異能者の存在と管理体制について公式発表を行うのですか!?」
ペンハリガン首相は足を止め、折り畳み傘を差しかける秘書官を制しながら、用意された公式見解を落ち着いたオックスブリッジ訛りの英語で繰り返した。
「現時点におきまして、政府として新たに発表する予定の事項はございません。現在、関係各機関と慎重に協議を進めております」
「では首相、イギリス国内には超能力者や魔術師は一人も存在しないとでもおっしゃるのですか!?」
「そのようなことは一言も申し上げておりません。政府は常に、国民の安全と法的権利を最優先して適切な対応をとっております」
「首相! ガーディアン紙です! アメリカの『MAJESTIC-12』、中国の『青幇』、そして大陸欧州の『オルド・クロノス』はすでに公に認められました! イギリスにも、それらに匹敵する独自の歴史的な超常管理組織が存在するのではないですか!?」
「安全保障および危機管理の個別体制につきましては、コメントを差し控えます」
「首相! ハロウィンの夜にはアメリカで本物の魔女のような現象が確認されましたが、イギリスの魔女や魔法使いも実在するのですか!?」
「首相! グラストンベリーやストーンヘンジの伝承、あるいは『アーサー王伝説』も実は歴史的事実だったりするのではないですか!?」
四方八方からマイクを突きつけられ、ペンハリガン首相は紳士的な微笑みを貼りつかせたまま「関係機関と協議中です」と受け流し続けた。
だが、そこへ最前列のタイムズ紙のベテラン政治部記者が、今朝の朝刊の一面記事を掲げて、とどめの一撃のような質問を飛ばした。
「首相!! 昨日、同盟国である日本政府は、『八咫烏』の公表と同時に、十七世紀の将軍・徳川家康が呪物を使って未来人を召喚していたという公文書まで公開しました! ちなみに家康の外交顧問だったのはイギリス人のウィリアム・アダムス(三浦按針)ですが、我が英国政府の公文書館にも、当時のエリザベス一世やジェームズ一世に関する同じような超常的機密が眠っているのではないですか!?」
ペンハリガン首相の眉が、ピクリと痙攣した。
「……日本政府が昨日発表された歴史史料の内容につきましては、日本政府へ直接お問い合わせいただきたい」
「では、わが国の王室や政府には歴史的機密はないと断言できますか!?」
「……公務の時間ですので、これにて失礼する!」
首相は議会へ向かう車に乗るのを取りやめ、くるりと踵を返すと、逃げるような早足で十番地の黒い扉の奥へと引き返した。
バタンッ、と分厚い防弾仕様の扉が閉まり、外の「首相! お答えください首相!!」という記者たちの叫び声が遮断される。
静かなエントランスホールに立ったペンハリガン首相は、その場で深々と肩を落とし、首を締め付けていたエンジ色のネクタイをぐいっと緩めて、心の底からの重いため息を吐き出した。
「……まったく、どいつもこいつも……本当に面倒なことになったな」
隣で書類鞄を抱えていた首席政務秘書官のエドワードが、同情を絵に描いたような顔でハンカチを差し出した。
「……お疲れ様です、首相。今朝の記者たちの勢いは、ブレグジットの国民投票の翌日以上でしたね」
「全くだよ、エドワード。……つくづく、日本がすべての元凶だ!」
首相は歩きながら、八つ当たりのようにぼやいた。
「いや、まあ、渋谷の交差点は突発的な事故でしたし、その後もアメリカやバチカン、中国、仏独と各国の公表が連鎖しておりますので、日本だけが原因とは言い切れないかと存じますが……」
「それは頭では分かっている! 私が言っているのは、昨日の午後の日本の記者会見のことだよ!」
ペンハリガン首相は階段を上りながら、両手を広げて叫んだ。
「国民向けの『総合相談窓口』を開設するのはいい、行政として実に真っ当な仕事だ! だがな、なぜその真面目な窓口開設の記者会見の後半に、『ところで四百年前の徳川家康は未来人を召喚して政治の相談をしていました』などという特大の歴史爆弾を抱き合わせで発表する必要があるんだ!? 日本政府の官僚はいったい何を考えて生きておるんだ!?」
「……それはまあ、日本政府の側にも、何か現在の組織からマスコミの目を逸らしたいといった広報上の深いご事情があったのではないかと……」
「どんな事情があれば、相談窓口の案内と将軍のタイムトラベル召喚をセットにするんだ!? おかげで今朝から、オックスフォードとケンブリッジの歴史学教授たちや大英博物館の理事たちから、『イギリスの東インド会社やウィリアム・アダムスの非公開記録も今すぐ全部開示しろ!』と官邸に抗議の電話が殺到しているんだぞ!」
もしこの場に、日本の八咫烏で山のような学術照会メールと格闘している霧島統括が居合わせたなら、国境を越えて涙ながらに首相と固い握手を交わしていたに違いなかった。
*
午前九時十分。首相執務室。
デスクの革張りチェアに腰を下ろしたペンハリガン首相は、運ばれてきた二杯目のブラックコーヒーに口をつけ、首席秘書官のエドワードを見上げた。
「……ところで、エドワード。大陸側の『オルド・クロノス』の本部からは、その後なんと連絡が来ている?」
エドワードは手元の暗号化タブレットの画面を開き、ブリュッセルおよびストラスブールから届いた連絡公電を確認した。
「はい。まず実務面の協力体制につきましては、従来の条約通り『一切の変更なく全面的に継続する』との正式回答を受けております」
「……ふん、それは当然だろう。数年前に我が国がEU(欧州連合)を離脱したからといって、何世紀も前からヨーロッパの霊脈と安全保障を共同で守り続けてきた超常協定まで破棄したわけではないからな」
「おっしゃる通りです。『オルド・クロノス』はEUを中心に再編された機構ではありますが、通常のEU行政部局とは異なり、古くからの騎士団や魔術結社、EU域外の王室や専門機関も、条約や特別な参加資格によって関与しております。我が国の組織も、長年にわたってその中核を担い続けております」
そこまでは問題なかった。
だが、エドワードはタブレットを持ったまま、少し言いづらそうに視線を泳がせた。
「……ただ、首相。実は一点だけ、ブリュッセル側から連絡が来ておりまして」
「……なんだ?」
「先週水曜日のストラスブール事案を受け、今週、フランスやドイツをはじめとする大陸側の諸国が、欧州委員会(EC)の危機管理・広報総局の枠組みを使って『欧州における超常事象および市民保護に関する合同記者会見・共同声明』を順次発表する予定なのですが……」
「うむ。我が国もそこへ名前を連ねて一緒に発表すれば、わざわざ単独で矢面に立たずに済むではないか」
「それが……欧州委員会の広報担当部局から、『イギリスはすでにEU非加盟国(第三国)であるため、EU加盟国向けの公式合同記者会見の枠組みには行政手続上参加できない。イギリス国内の組織や制度の公表については、ロンドンで別途独自に調整していただきたい』との通達がございまして……」
執務室に、ピキッ、と音が聞こえそうなほどの凍りついた沈黙が落ちた。
ペンハリガン首相の手の中で、コーヒーカップがカタカタと震え、その端正な英国紳士の顔がみるみるうちに真っ赤に染まった。
「……あ、あのブリュッセルの石頭のユーロクラート(EU官僚)どもめええええっ!!」
首相はデスクを拳でドンと叩いて立ち上がった。
「いえ、首相、落ち着いてください! 超常事象の防衛協力自体が打ち切られたわけではございません、あくまで一般社会に向けた『行政広報の管轄区分』の問題でして……」
「そんな言い訳が通るか! うちの騎士団の連中はな、百年戦争の前から千年以上も、ドーバー海峡の向こう側の怪異や魔術的危機の封じ込めにも血を流して協力してきたんだぞ!?」
「は、はい、その通りです」
「つい先週の水曜日だって、ストラスブールのライン川の境界修復のために、うちのロンドンの秘庫から予備の触媒データを緊急貸与してやったばかりではないか! ほんの数日前まで一緒に肩を並べて怪物を封印していた連中が、いざ表のテレビカメラの前で発表する段になったら、『あなた方はEU非加盟の第三国ですので、こちらの会見場の椅子は用意できません』だと!? 怪異や幽霊には国境がないのに、記者会見のひな壇には国境があるというのか!!」
あまりにも尤もな首相の魂の叫びに、エドワードは何一つ反論できず、「……誠に、おっしゃる通りでございます」と深くうなだれるしかなかった。
やがて首相は、荒い息を吐きながら椅子にドサリと座り直し、額に手を当てた。
「……結局、ブリュッセルの傘には入れんということだ。日本も、アメリカも、中国も、大陸欧州もすべて手の内を明かした以上、我が英国政府だけがこれ以上ダンマリを決め込むことは不可能だ。……今日中に、我が国独自の公式発表を行わざるを得んな」
続いて午前九時三十分。
執務室に呼ばれた官邸報道官(広報担当官)のサイモンが、分厚いメディア監視レポートを抱えて入ってきたが、その顔色はロンドンの曇り空以上に暗かった。
「……サイモン。我が国には、二十世紀初頭から運用されている『Dノーティス(国防・安全保障機密に関する報道自粛勧告)』と、それとは別に長く続いてきた主要報道機関との『超常報道協定』があったはずだな?」
「は、はい、首相。各メディアの経営陣や主筆クラスとは、昨夜から何度も連絡を取っております」
「ならば、なぜ今朝も官邸の前に百人もの記者が押しかけてきて、『魔女はいるのか』『アーサー王は本物か』と私に向かってマイクを突きつけてくるんだ!?」
サイモン報道官は、額の汗をハンカチで拭いながら悲痛な声で答えた。
「それが……協定に参加しているBBCやタイムズの上層部も、もはや現場の記者や報道を完全にコントロールできない状態に陥っているのです!
第一に、国内の独立系ネットメディアや個人の動画配信者、ならびに協定外の外国メディアが連日報道を続けております。第二に、同盟国であるアメリカの大統領や日本の総理大臣、さらにはローマ教皇までが公式に認めた事実について、イギリスの報道機関だけが『我が国では報道協定により触れません』と口を閉ざせば、読者や視聴者から報道機関としての信用が完全に失墜してしまいます。
現場の記者たちからは『昨日の徳川家康のニュースまで出て、なぜ自国のことを一行も書けないんだ!』と編集局長が吊るし上げられておりまして……要するに、これまでの報道管理体制は事実上、限界を迎えております」
「…………そうか。もう外堀も内堀も全部埋まっておるわけだな」
ペンハリガン首相は、絶望的な面持ちで執務室の天井を仰いだ。
そして、一拍の間を置いたのち。
首相は突然、執務室の奥――暖炉の横に置かれた、誰も座っていないはずのアンティークな一人掛けの革張りソファの空間へ向かって、腹の底から声を張り上げた。
「――魔女様(マダム)!!」
首席秘書官のエドワードと、サイモン報道官の二人が、同時に「えっ!?」とぎょっとして首相の顔と、誰もいないソファを交互に見た。
「……しゅ、首相? どなたに話しかけていらっしゃるのですか、そこには誰も――」
「ずっとそこで聞いておられるんでしょう!? 隠れていないで姿を現してください、魔女様!!」
執務室に、数秒間の静寂が流れた。
暖炉の薪がパチリと爆ぜる音。
すると次の瞬間、誰も座っていなかったはずの深緑色の革張りソファの上の空間が、まるで静かな水面に波紋が広がるようにふわりと揺らぎ、一人の「女性」の姿が最初からそこに座っていたかのように自然に浮かび上がった。
「……はいはい。そんなに大きな声を出されなくとも、耳は悪くありませんからちゃんと聞こえておりますよ、首相」
穏やかで、どこか鈴を転がすような気品のある声だった。
ソファに優雅に脚を組んで座っていたのは、見たところ四十代前後にも、あるいは三十代後半にも見える、落ち着いた佇まいの妙齢の英国女性だった。
仕立ての良いツイードのスカートスーツを着こなし、柔らかな栗色の髪を上品にまとめ、その手には、官邸のキッチンには存在しないはずのウェッジウッドの古いティーカップとソーサーが持たれている。カップからは、香り高いダージリン・ティーの湯気がふわりと立ち昇っていた。
街角やアフタヌーンティーの席で見かければ、誰もが「裕福で教養のある穏やかな英国婦人」としか思わないだろう。
だが、このダウニング街十番地の歴代の主人たちだけは、彼女の本当の素性を知っていた。
彼女こそは、今を遡ることおよそ千四百年前――西暦六世紀のアングロ・サクソン七王国とブリトン人の時代より、このグレートブリテン島の王権と統治者の傍らに影のように寄り添い続けてきた、英国最高位の『王室・政府公認魔女』。
政府の最深部のみが把握している彼女の真の階位は、文字通り神話の領域である『Tier0(神格・惑星規模)』。国際因果律改変能力者委員会(ARC)の最高盟約を遵守し、普段は自ら能力行使をTier0.5相当の規模に抑えて「相談役」として振る舞っているが、それでもなお、この島そのものの生きた歴史と呼ぶべき規格外の存在だった。
「……ま、魔女様……! いつからそこにいらしたのですか!?」
目を白黒させるエドワードを横目に、ペンハリガン首相が半ば呆れたように尋ねると、魔女はティーカップをソーサーに置き、柔らかな微笑みを浮かべて答えた。
「ええと、首相が今朝の二杯目のブラックコーヒーをおかわりなさって、『日本がすべての元凶だ』と大変失礼な八つ当たりを始めていらした頃からでしょうか」
「……最初からずっといたんじゃないですか!」
「ええ、そうですねえ。外の記者さんたちの声がずいぶん賑やかでしたから、様子を見に参りましたのよ」
のんびりと紅茶を一口啜る魔女の前へ、ペンハリガン首相はデスクを回り込んで歩み寄り、一国の宰相としてのプライドもかなぐり捨てたような必死の顔で身を乗り出した。
「……魔女様! いらしていたのなら話が早い、どうかお願いです、官邸の前に群がっているあの百人の報道陣を、あなたの魔術でどうにかしてください!」
「……どうにか、と申しますと?」
「この一週間、毎朝毎晩マイクを突きつけられて、もうまともに通常国会の法案処理もできやしません! あなたの力なら、何とかできるでしょう!?」
「あらあら、それはお困りですねえ」
魔女は小首を傾げて二秒ほど考え込む素振りを見せ、それから、いたって大真面目な顔でこう提案した。
「……では、外の記者さんたちを、全員まとめて『カエル』に変えてしまうというのはいかがでしょう?」
執務室の空気が、ピタリと凍りついた。
ペンハリガン首相は、三秒間ほど無言で魔女の穏やかな目を見つめ返し――そして、ゴクリと唾を呑み込んで、真剣な声で聞き返した。
「……それ、本当にできますか?」
「さあ? 久しぶりにやってみませんと分かりませんが」
「もしできるなら、今すぐぜひお願いします!!」
「しゅ、首相ぉぉぉっ!? 一体全体なにをおっしゃっているんですか!? BBCとタイムズの記者をカエルに変えたら政権が五分で吹っ飛びますよ!!」
サイモン報道官が顔面蒼白で悲鳴を上げて止めに入る。
すると魔女は、くすりと上品に笑ってティーカップを置き、まるでいたずらを見つけた家庭教師が小学生の生徒を窘(たしな)めるかのような優しい口調で言った。
「……ペンハリガン首相。冗談ですよ。かりにも大英帝国の宰相たる英国紳士が、都合の悪い記者をカエルに変えようだなんて、たいへんみっともないですよ?」
「……は、はい。失礼いたしました……」
「私はおよそ千四百年間、この島の幾多の王や女王、そしてウォルポール以来の歴代の首相にお仕えしてまいりましたけれど、目の前の政敵や民衆、報道関係者を『カエルに変えてくれ』と本気で私にお願いなさった方は、歴史上でもそう多くはありませんよ?」
叱られたはずのペンハリガン首相の目が、そこでキラリと輝いた。
「……えっ。『そう多くはない』ということは、過去の歴代国王や首相の中にも、同じことをあなたにお願いした先人がいたんですか!?」
「ええ、五、六人ほどいらっしゃいましたね。議会と揉めたチャールズ一世ですとか、新聞記者に叩かれた十九世紀のどなたかですとか」
「おお! 偉大な先人たちも同じことを考えたのですな! それならなおさら、ぜひ私にも――!」
魔女は、今日一番の優雅で非情な満面の笑みを浮かべて、きっぱりと告げた。
「――もちろん、お一人残らず全員お断りいたしました」
「…………」
「皆様、私の冷たいお断りをお聞きになったあとは、ちゃんと人間の政治家としてご自分の頭と足をお使いになり、ご自分の言葉で問題を解決なさっていますよ」
「……そうですか……」
しょんぼりと肩を落としてデスクへと戻る五十四歳の首相を見て、エドワードとサイモンは「千四百年生きる方の前では、うちの首相もただの子供扱いだな……」と内心で遠い目をした。
魔女はもう一度紅茶を一口飲み、空になったカップをテーブルに置くと、すっと真剣で知的な相談役の表情へと切り替えた。
「さて。朝の茶番はこの辺りにいたしましょうか」
「……ええ」
「それで首相。カエルに変えるという選択肢がない以上、今日これから、英国政府としてこの事態にどう向き合われるおつもりです?」
*
魔女の一言によって、執務室の空気は一気に現実の国家意思決定の場へと引き戻された。
ペンハリガン首相は咳払いを一つして姿勢を正し、尋ねた。
「……実務機関の公表についてだが、現在、我が国の『円卓の騎士団(Knights of the Round Table)』の諸君は、どのように動いている?」
魔女は静かに頷いて答えた。
「皆さん、先々週の東京の事案の直後から、それぞれの持ち場で休むことなく動いていらっしゃいますよ」
「具体的には?」
「現役の騎士(ナイト)のうち、下院議員を務めていらっしゃるお二人は内務省との法改正のすり合わせを。貴族院(上院)に議席をお持ちの伯爵は、王室およびスコットランド・ウェールズの自治政府との連絡調整を。そして国防省や内務省の特殊部局に籍を置く実働の騎士の方々は、国内の霊脈の監視と、万一のパニックに備えた治安維持にあたっておられます」
「……そうか。オルド・クロノスとの関係はどうだ?」
「ええ。先ほどエドワードさんが仰った通り、ブリュッセルのEU官僚が何と言おうと、オルド・クロノスの実務の中核を何世紀も支えてきたのは我が国の円卓の騎士たちですからね。ストラスブールのファルク指揮官たちとも直接連絡を取り合い、ドーバー海峡周辺の境界監視を共同で進めておいでですよ」
首相は腕を組み、深く頷いた。
「……やはり、我が英国において古くから特殊事象と能力者の管理・保護を担ってきた歴史的組織として国民に公表するのは、『円卓の騎士団』を置いて他にないな」
「ええ。アメリカが『MAJESTIC-12』、中国が『青幇』、日本が『八咫烏』を出したのですから、我が国が『円卓の騎士団』を公式に認めるのは、歴史の重みから言っても実績から言っても、これ以上なく英国らしい堂々たる発表になるかと存じます」
魔女はそこで、少しだけおかしそうに目元を緩めて付け加えた。
「もっとも、会見ではきちんと言葉を補ってあげてくださいね。一般の国民の皆さんが『円卓の騎士』とお聞きになると、今も全員が白銀のプレートアーマーを着て、白い馬に乗ってロンドン市内をパトロールしていると勘違いされるといけませんから」
「はは、分かっていますよ。現代の騎士団の諸君が、ピンストライプの背広を着て議会で法案を審議したり、役所で予算書と格闘したり、時に特殊装備で怪異を封じたりしている現代的なエリート組織であることは、ちゃんと説明します」
「ええ。剣や槍を振るうばかりが、現代の騎士のお仕事ではありませんからね」
すると首相は、手元の国際組織図のチャートを見ながら、ふと素朴な疑問を口にした。
「……そういえば魔女様。今から公表する我が国の組織が『円卓の騎士団』で、大陸のオルド・クロノスの最高意思決定機関が『円卓評議会』で、さらに国際因果律改変能力者委員会(ARC)の最高機関には『神々の円卓』などという呼び名まであるそうですが……」
「ええ、そうですねえ」
「……この世界の裏社会には、いくらなんでも『円卓(ラウンド・テーブル)』が多すぎませんか? なぜどこの組織もそんなに丸い机ばかり作るんです?」
魔女は、鈴が鳴るように楽しく声を立てて笑った。
「ふふっ、上座も下座も作らずに、力の強い者たちが顔を突き合わせて話し合うには、角のない丸いテーブルが一番都合がよろしいからでしょうね。それに、本家本元の『円卓』は間違いなく我が国のものですから、他が勝手に真似をしたと思っておけばよろしいのですよ」
「……なるほど、本家はうちだと。それなら気分がいいですな」
首相はサイモン報道官とエドワード秘書官を振り返り、テキパキと指示を下した。
「よし、方針は決まったぞ、二人とも! 本日午後四時より、ここダウニング街十番地の会見室にて緊急記者会見を開く。
英国政府として国内に特殊能力者および魔術師が実在することを公式に認め、従来の保護・管理制度を説明する。さらに、EU離脱後もオルド・クロノスとの超常安全保障協定が完全に有効であることを明言した上で、我が国の歴史的専門組織である『円卓の騎士団』の実在を正式に公表する!」
「「はっ、承知いたしました!!」」
ようやくイギリスとしての明確な方針が固まり、首相がホッと胸を撫で下ろした――その時だった。
ソファの上で新しい紅茶を注いでいた魔女が、ふといたずらっぽい光を瞳に宿して、こう切り出したのである。
「……ただ、首相。せっかく午後四時に世界中が注目する会見をお開きになるのに、それだけでは少しばかり『芸がない』のではありませんか?」
ペンハリガン首相の動きがピタリと止まった。
「……はい? 芸がない、とおっしゃいますと?」
「『円卓の騎士団は実在します』『英国にも能力者がいて法律で管理しています』と、お堅い官僚の作文を読み上げるだけでは、いかにも退屈で堅苦しいではありませんか」
「いや、魔女様、一国の政府がアーサー王伝説の騎士団の実在を認めるだけで、地球がひっくり返るほど重大な発表だと思いますが!?」
「あら、でも昨日の日本政府は、窓口の発表と一緒に『徳川家康公の未来人召喚』という楽しいお話まで公表なさって、世界中の話題を独占なさったそうですよ?」
「だから、あの日本の無茶苦茶な広報と張り合う必要はどこにもないでしょう!?」
首相が頭を抱えると、魔女はくすくすと笑いながら、しかし非常に的確な「大衆心理の核心」を突く提案を口にした。
「歴史の秘密で張り合う必要はございません。ただね、首相。今、イギリスの一般の国民の皆さんが一番不安に思い、一番知りたがっているのは、『特殊能力者というのは、一体どんな顔をして、普段どんなお仕事をして私たちの隣で暮らしているのか』という具体的なイメージなのですよ」
「……具体的なイメージ、ですか」
「ええ。日本では元ボクシング世界王者の青年が名乗り出て、スポーツとしての魅力を伝えましたね。でしたら、我がイギリスにおきましても、国民の誰もが顔と名前を知っていて、心から親しみと敬意を抱いているような『著名な能力者の方』にお一人、ご本人の同意の上で会見にご登壇いただいてはいかがでしょう?」
首相とサイモン報道官が、ハッとして顔を見合わせた。
「なるほど……! 正体不明の秘密組織の発表だけでなく、誰もが知る国民的な有名人が『実は私も能力者の一人ですが、これまで通り皆さんと同じ社会で仕事をしています』と姿を見せてくれれば、国民の安心感は劇的に高まります!」
サイモンが目を輝かせ、首相も深く頷いた。
「よし、それは名案だ! では、円卓の騎士団の中から誰か見栄えのいい若手の騎士を選んで、会見場のカメラの前で軽く模擬戦か剣術でも披露させますか?」
「――違います」
魔女が、コンマ一秒の迷いもなく即答で却下した。
「……違う?」
「あたりまえでしょう。不安になっている一般の国民の皆さんを安心させるための会見で、鎧を着た騎士に魔法の剣を振り回させてどうするのですか。余計に怖がられますよ」
「……い、いや、それは確かにそうですが……では、どういう方を?」
「戦うお仕事ではなく、もっと平和で、世界中の誰もがそのお仕事ぶりをテレビや映画館で見て楽しんでいるような、普通のお仕事をしていらっしゃる方ですよ」
「……たとえば?」
魔女はティーカップを傾け、にっこりと微笑んで言った。
「――有名な『俳優さん』など、いかがでしょう?」
「……俳優?」
*
午前十時二十分。首相官邸・地下機密ブリーフィング室。
テーブルの上には、内務省の特殊登録局、文化・メディア・スポーツ省の連絡官、そして秘密情報部(MI6)の特殊セクション責任者が緊急で持参した『英国籍・著名登録能力者ファイル』の束が広げられていた。
そのリストを前に、最初に具体的な名前を挙げたのは、やはり魔女だった。
「……たとえば、お一人目の候補として、『ハンスリー・ポプキンス』さんなど、いかがでしょう?」
その名前が出た瞬間、ペンハリガン首相とサイモン報道官が「おお……!」と声を上げた。
「サー・ハンスリー・ポプキンス……! シェイクスピア演劇からハリウッドの超大作映画に至るまで、半世紀以上にわたって活躍し、アカデミー賞も受賞している、我が英国が世界に誇る最高峰の名優(ナイト爵)じゃないですか!」
「ええ。八十代になられた今も現役で素晴らしい演技を見せてくださる、世界中の方がお顔とお声をご存じの大スターですね」
実は、ハンスリー・ポプキンスという世界的な大御所俳優には、一般社会の人間が誰一人として知らない「裏の顔」があった。
彼は生まれつき極めて高度な異能を有しており、英国政府の非公開分類においては、国内でも数えるほどしか存在しない『Tier1(戦略級)』に指定されている最高位の能力者だったのである。さらに、若い頃から俳優業の裏で英国秘密情報部(MI6)の特別協力エージェントとして数々の極秘任務に従事し、現在は実働の一線から半引退しているものの、依然としてMI6の最高顧問名簿に名を連ねている伝説の人物だった。
「……そういえば、ポプキンス卿の固有能力というのは、具体的にどのようなものでしたかな?」
首相が記憶を辿るように尋ねると、魔女が少し首を傾げて言った。
「ええと、確か……ご自身の事象の改ざん、モザイク化のような力でしたね」
すかさず、テーブルの端に座っていたMI6の連絡責任者の男が、背筋を伸ばして正確な登録名称を補足した。
「コードネームは《存在しない者(The Non-Existent)》です、首相」
「……ああ、そうだった! 思い出したぞ」
ポプキンスが持つ《存在しない者》という能力は、先週月曜日に日本で公開された異能格闘技の映像に登場した「透明人間」の力とは、根本的に異なる性質を持っていた。
俳優としての彼の顔は世界中に知られていたが、そのもう一つの顔は、長年にわたって国家機密の奥深くに置かれてきた。
その能力の正確な仕組みも限界も、本人とごく一部の関係者しか知らない。身体能力や過去の実働歴に関する情報も、同様に厳重な管理下にあった。
だからこそ――MI6の連絡責任者は、眼鏡の奥の目を険しく光らせて、全力で手を挙げて反対した。
「……首相、ならびに魔女様。恐れながら、秘密情報部(MI6)といたしましては、ポプキンス卿の能力公表には重大な懸念がございます!」
「……まあ、君たちの立場ならそう言うだろうな」
「はい! ポプキンス卿は現在、現場の実働からは半引退なさっているとはいえ、いまだ我々の最重要の特別協力アセットとして登録されております。あのような唯一無二の隠密・事象改ざん能力の持ち主の顔を、世界中のテレビカメラの前で『この人が能力者です』と公表してしまうなど、防諜上あまりにもリスクが高すぎます!」
すると魔女が、心底不思議そうに目をぱちくりさせて小首を傾げた。
「……あら? でも、ポプキンスさんのお顔とお名前は、もう五十年も前から世界中の映画館のスクリーンに何千回も映し出されて、地球上の何億人もの方がご存じなのではありませんか?」
「俳優としての顔が知られていることと、『あの俳優が現実の超常能力者であり、認識阻害の能力を持っている』と外国の情報機関に知られることは、まったくの別問題でございます!」
MI6の責任者は必死に力説した。
「いいですか、これまで彼が世界中の映画祭やロケーション撮影で各国の要人と接触しても、誰一人として彼を警戒しなかったのは、彼が『ただの有名な映画俳優』だと思われていたからです! もし彼の能力の性質が敵対勢力に知られれば、今後のあらゆる情報活動に計り知れない影響が出かねません!」
ペンハリガン首相は腕を組み、「……うむ、確かにMI6の言うことにも一理あるな。いくら国民的スターでも、国家安全保障の虎の子をわざわざ自分から晒すのは得策ではないか」と頷いた。
魔女も特に固執する様子はなく、「あら、そう。ではポプキンスさんは一旦外して、次の方にいたしましょうか」とあっさりファイルの一ページ目をめくった。
*
「――それでしたら、お二人目の候補として、若い世代にも大人気の『ティム・ホランド』さんなどいかがでしょう?」
魔女が二番目の名前を挙げた瞬間、今度はサイモン報道官の顔がパッと輝いた。
「おおっ、ティム・ホランド!! それは素晴らしい人選です、首相! ロンドン出身の二十代の若手スターで、ハリウッドの『スパイダーマン』シリーズの主役として世界中の子供から大人まで圧倒的な人気と好感度を持っています! 彼のように明るくて親しみやすい青年が登壇してくれれば、異能に対する世間の怖いイメージは一発で吹き飛びますよ!」
ペンハリガン首相も大きく身を乗り出した。
「うむ、彼ならうちの娘も大ファンで映画を全部見ているぞ! よし、彼にしようじゃないか。……ところで魔女様、そのティム・ホランド君も登録能力者なのですね? ちなみに、彼の能力というのは何なのですか?」
魔女は、一点の曇りもない素敵な笑顔で答えた。
「『蜘蛛(スパイダー)』です」
ブリーフィング室に、三秒間の空白が落ちた。
首相とサイモン報道官は、ポカンと口を開けたまま固まっている。
魔女はにこやかに説明を続けた。
「ええ、手足の先を壁や天井にピタリと吸着させて垂直なビルを登ったり、常人の数倍の驚異的なバネで高い場所から高い場所へ飛び移ったりできますね。それに、手首のあたりから非常に強靭な糸のような魔力繊維を射出してぶら下がることもお出来になりますよ」
「…………」
「…………」
ペンハリガン首相は、椅子から半分腰を浮かせ、目を剥いて絶叫した。
「――ほ、本当にスパイダーマンだったのかよ!?」
魔女は「なぜそんなに驚くのかしら」とでも言いたげに、不思議そうに首を傾げた。
「……ええ。だって彼、映画の中でそういう役を演じていらっしゃるのでしょう?」
「ええ、演じていますとも! 世界中で何十億ドルも稼いでいる『スパイダーマン』の主役ですよ!」
「でしたら、まさに適役ではありませんか」
「そういう問題なんですか!? なんでスパイダーマン役の俳優が、現実でも壁を登って手から糸を出しているんですか!?」
すると、先ほどまで大賛成していたサイモン報道官が、急に顔面を蒼白にして手元の法務・芸能ファイルをめくり始めた。
「……しゅ、首相、少々お待ちください! これ、よく考えたらとんでもない問題が起きます!」
「なんだサイモン!?」
「もし英国政府が公式会見で『俳優のティム・ホランド氏の現実の異能は、壁に張り付いて糸を出す蜘蛛の能力です』と発表してしまったら……ハリウッドの映画会社(ソニーやディズニー/マーベル)との莫大な著作権・肖像権契約や、守秘義務契約はどうなるのでしょうか!?」
「……契約?」
「はい! フィクションのキャラクターである『スパイダーマン』の能力と、俳優ご本人の現実の超常能力が100パーセント一致しすぎています! 映画会社側から『キャラクターのイメージと現実の能力の権利関係がどうなるんだ』と法務的なクレームや抗議が来る可能性が……!」
魔女がくすりと笑った。
「あら、本人が生まれつき持っていた能力の方が先なのに、映画会社が何に対して抗議をなさるの?」
「そ、それは私にも法的な前例がなさすぎて見当もつきませんが……!」
さらにペンハリガン首相自身が、もう一つの「さらに恐ろしい波及効果」に気づいて青ざめた。
「……おい待てよ、サイモン。映画の撮影そのものへの疑惑はどうなる?」
「……と、おっしゃいますと?」
「これまで彼の映画のメイキング映像やインタビューでは、『ビルからビルへ飛び移ったり天井に張り付いたりするシーンは、すべて最新のCG(VFX)とワイヤーアクション、およびスタントマンの技術で撮影しています』と説明していたはずだ!」
「……はい、当然そう説明されています」
「なのに今日、英国政府が『実は主演のティム・ホランド本人は、生身で壁を登って糸で飛び回れます』と発表してみろ! 世界中の映画ファンとメディアから、『じゃああの映画のアクションシーンは、CGじゃなくて本人がマジで飛んでただけじゃないのか!?』『アカデミー視覚効果賞の審査はどうなるんだ!?』と、ハリウッド全体を巻き込む大疑惑になって問い合わせが殺到するぞ!!」
サイモン報道官が頭を抱えて叫んだ。
「そ、それだけではありません! 『ティム・ホランドが本物のスパイダーマンだったなら、他のアベンジャーズの俳優たちも実は全員本物の能力者なんじゃないか!?』という憶測まで世界中に広がって、米英の映画産業がパニックになります!!」
魔女が手を叩いて楽しそうに言った。
「まあ、それはそれで夢があって楽しそうではありませんか」
「楽しそうで済む話じゃありませんよ魔女様!!」
まさにその時。
事前に非公式の打診メールを送っていた文化・メディア省の連絡官の端末がピコンと鳴り、連絡官が目を丸くして顔を上げた。
「……首相! たった今、ティム・ホランド氏のマネジメント事務所および代理人を通じて、ご本人から直接お返事が届きました!」
「おお、早いな! で、本人は何と言っている? やはり映画会社の手前、公表は困ると言ってきたか?」
「いいえ、逆です! ご本人は能力の公表について、信じられないほど前向きでノリノリです!」
連絡官は、画面に表示されたティム本人からのボイスメッセージとテキストを読み上げた。
『やあ首相! ついに政府が発表してくれるんだね、ずっと秘密にするのが大変だったからめちゃくちゃ嬉しいよ! 午後四時の記者会見、ぜひ喜んで出させてもらうよ!』
「……ほう、本人は乗り気なのか」
「はい! ただ、メッセージに追伸がついておりまして……」
「なんだ?」
「『ところで首相、今日の記者会見の途中で、僕がダウニング街十番地の壁を素手でよじ登って、会見室の天井に逆さまに張り付いて記者のみんなに挨拶してもいいかな? 糸でマイクを引っ張る実演もできるよ!』と……」
「…………」
首相と官僚たちは全員、無言で天井を見上げた。
魔女が「まあ、本当に元気で可愛らしいお若い方ですねえ」と微笑む横で、ペンハリガン首相はこめかみを押さえて呻いた。
「……ダウニング街十番地の歴史ある記者会見場は、ハリウッド映画のワールドプレミアのステージじゃないんだぞ!! それに、アメリカの映画会社との権利確認や契約関係のクリアランスが今日の午後四時までに終わるわけがない! 彼には丁重に礼を言って、今回は見送り(後日調整)にしてくれ!」
*
「――では、ティムさんがお若すぎて元気すぎるのでしたら、もう少し落ち着いた大人の俳優さんになさいますか?」
魔女がファイルの次のページをめくった。
「はい、ぜひ落ち着いた知的な方でお願いします、魔女様」
「それでしたら、三人目の候補として『ベネディクト・カンバートン』さんなど、いかがでしょう?」
首相とサイモン報道官の顔に、再び希望の色が戻った。
「おお、ベネディクト・カンバートン! 名門出身の正統派の英国俳優で、『シャーロック・ホームズ』のドラマや数々の歴史映画で知られ、知的で品格のある語り口には定評がある! 彼なら会見室の天井に張り付いたりせず、実に理路整然と国民に語りかけてくれるはずだ!」
「ええ、とても素敵なお声の方ですよね」
首相は、念のためといった様子で、すっかり警戒した声で尋ねた。
「……ちなみに魔女様。そのカンバートン氏の登録能力というのは、一体何なのですか?」
魔女は、これまた実に穏やかな笑顔で答えた。
「『空間魔術』ですね」
「……………………」
首相とサイモン報道官の顔から、スーッとすべての表情が消え失せた。
魔女は指先で空中に小さな円を描く仕草をしながら、補足説明を続けた。
「ええ。古くからの魔術の素養をお持ちで、空間の座標を繋いで離れた場所へ小さな物品を通したり、周囲の空間を折り畳んで一時的な防護領域を作ったりするのが大変お上手ですよ」
五秒間の完全な沈黙ののち。
ペンハリガン首相は両手で自分の頭をガシッと抱え込み、机に突っ伏しそうになりながら叫んだ。
「――なぜだ!! なぜまたしても、ハリウッド映画で本人が演じている『魔術師のヒーロー(ドクター・ストレンジ)』の役柄と、現実の能力がピンポイントで一致するんだ!?」
魔女はきょとんとして答えた。
「……それはやはり、映画のキャスティング担当の方に、無意識のうちに『適材適所』を見抜く目がおありだったからではございませんか?」
「そんなピンポイントすぎる適材適所があってたまるか!! 本物の空間魔術師に空間魔術師の役をやらせるな!!」
サイモン報道官も、半泣きになりながら書類をバサバサとめくった。
「し、首相、こちらもティム・ホランド氏とまったく同じ問題が発生します! そもそもあの方はホランド氏と同じ映画シリーズで共演しておられますので、もしこの二人を公表したら『あの映画会社は最初から本物の超能力者と魔術師を集めてドキュメンタリーを撮っていたのか!?』と、世界中の映画業界と株式市場が大パニックになります! しかも映画のあの光る魔法陣のエフェクト、先々週の金曜日にニューヨークの『Hoodie Wizard』が出した本物の魔法陣ともそっくりですし……!」
「……もう、あのアメコミ映画の関係者は全員候補から外せ!!」
首相が悲鳴のように叫ぶと、魔女は「でも、お二人とも能力に頼らずとも、俳優としての純粋な演技が大変お上手なのは事実ですよ?」とフォローしたが、首相は「彼らの演技力を疑っているわけではありません!!」と涙目でツッコミを返すしかなかった。
首相はハンカチで額の汗を拭い、魔女に向かって手を合わせんばかりにして懇願した。
「……あの、魔女様。どうかお願いですから、次は『映画で演じた代表的な役柄と、ご本人の現実の能力が1ミリも一致しない方』でお願いできますでしょうか!?」
「……なるほど、役柄と能力が一致しない方ですね。分かりました」
魔女は少し考えるように顎に指を当て、そしてリストの四ページ目を指差した。
「それでしたら、四人目の候補として『ダニエル・ラッドグリフ』さんはいかがでしょう?」
首相の顔が、パッと明るくなった。
「おおっ、ダニエル・ラッドグリフ! 世界的な児童文学『ハリー・ポッター』シリーズで、十年間主人公の少年魔法使いを演じた、文字通りイギリスで最も有名な俳優の一人だ! 現在はブロードウェイの舞台や個性的なインディーズ映画でも高く評価されている好青年だな!」
「ええ、大変真面目で誠実な方ですよ」
首相は、先ほどの約束を思い出しながらも、恐る恐る慎重に尋ねた。
「……あの、念のため確認しますが、彼は世界一有名な『魔法使いの役』の俳優ですが……現実の彼の能力は、魔法ではないのですよね?」
「ええ、魔法ではございませんよ」
魔女はにっこりと頷いた。
「ほっ……! それを聞いて安心しました! では、彼の異能というのは一体どんな能力なのですか?」
「『ご自身の身体を、極端に小さくする能力』ですよ」
「……………………」
ブリーフィング室に、三度目の奇妙な沈黙が落ちた。
魔女は親指と人差し指で五センチほどの隙間を作って見せながら、淡々と説明した。
「ええ。ご自身の肉体と着衣の質量およびサイズを、一時的にネズミや小鳥ほどの大きさまで縮小させましてね、普通の方では到底通れないような通気口や扉の隙間をスルスルと通り抜けることがお出来になります」
ペンハリガン首相は、しばらくの間、口をパクパクと開閉させ、ひどく混乱した顔で魔女に尋ねた。
「……あの、魔女様。彼は、世界中で何億人もが見た『魔法使いの少年』の役を演じていた俳優ですよね?」
「ええ、そうですよ」
「……なのに、なぜ現実の能力は、杖を振る魔法ではなくて『身体が縮む能力(ミニマム化)』なのですか? それ、さっきの映画会社の別のヒーロー(アントマン)の能力じゃないですか……!」
すると魔女は、心底おかしそうに微笑み、先ほどとは見事なほど正反対の正論を優しく諭した。
「……首相。俳優さんというのは、自分とは違う誰かの人生を『演技』するお仕事でしょう?」
「…………は、はい」
「でしたら、映画で演じた役柄と、ご本人が生まれつき持っていらっしゃる能力がまったく違っていても、何一つ不思議なことはないではありませんか。それとも首相は、刑事役の俳優さんは全員本物の警察官でなければならないとお考えなのですか?」
「……いえ、それは……まったくもって、魔女様のおっしゃる通りでございます」
首相はぐうの音も出ずに深く頷き、それから自分のこめかみを両手で強く押さえて呻いた。
「……あなたの言うことは100パーセント正しいです、魔女様! ですが、さっきの『本当にスパイダーマンだったホランド君』と『本当に空間魔術師だったカンバートン氏』の二人のせいで、私の脳の基準が完全におかしくなっているんですよ!!」
魔女が「ふふっ、人間というのは都合の良い規則性を探したがる生き物ですからねえ」と楽しそうに笑う中、文化・メディア省の連絡官が「なお、ラッドグリフ氏は現在ニューヨークで舞台公演中のため、本日午後四時のロンドンの会見に物理的に登壇していただくのは時間的に不可能です」と報告し、四人目の案もそこで消滅した。
*
「……よし、もう映画俳優は全員やめましょう! 過去の出演作のCG疑惑だの役柄との一致だの、地雷が多すぎます!」
ペンハリガン首相が半分ヤケクソになって宣言すると、魔女は「では、音楽の世界――歌手の方はいかがでしょう?」と五人目のファイルを差し出した。
「おっ、ミュージシャンですか! いいですね、イギリスの音楽は世界に誇れる文化ですからな! どなたですか?」
「『エド・シェリントン』さんなど、いかがでしょう?」
「おお、エド・シェリントン! アコースティックギター一本で世界中のスタジアムを満員にする、我が国最高のシンガーソングライターじゃないですか! 気さくで飾らない人柄で、国民からの好感度も抜群だ!」
サイモン報道官も「歌手の方であれば、映画の特殊効果(VFX)をごまかしたという疑惑も出ませんし、映画会社とのキャラクター契約の問題もありません!」と身を乗り出した。
首相は大きく頷き、確認した。
「よし、今度こそ決まりだな! ……で、魔女様、シェリントン氏の能力というのは?」
「『音(サウンド)』に関する能力ですね」
「……ほう、音の能力。ミュージシャンとして、実に自然で素晴らしい才能じゃないですか」
首相が微笑んだ、まさにその横で。
サイモン報道官の笑顔が、突然ピシリと音を立てて凍りついた。
「……あ、あの、首相、魔女様、ちょっとお待ちください」
「……なんだサイモン、今度は何が不満なんだ?」
「その『音に関する能力』というのは……具体的にどのような効果を持つ異能なのでしょうか? まさか、ご自身の歌声やギターの音波に干渉するような能力では……」
魔女は穏やかに答えた。
「私、音楽の詳しいことは存じませんが、記録によりますと、空間を伝わる音の響きや波長を繊細にコントロールして、広い会場の隅々にまで歌声をクリアに届けたり、聴く方の心に心地よい共鳴を起こしたりすることが可能だそうですよ。もちろん、ご本人は普段のレコーディングやライブでは一切能力を封印して、生身の喉とギターの腕前だけで歌っていらっしゃるそうですが」
「…………」
サイモン報道官は、ゆっくりとペンハリガン首相の方を向き、震える声で言った。
「……首相」
「……なんだ」
「もし本日、英国政府が『世界的歌手エド・シェリントン氏は、歌声や音波を操作して聴衆を心地よくさせる音響系の異能者です』と公表した場合……本人がいくら『普段のライブでは使っていません!』と弁明したところで、世間や音楽業界はどう受け止めるでしょうか?」
「…………あっ」
「間違いなく、『今までのスタジアムツアーの感動的な歌声は、超能力で音響加工して観客の脳に精神干渉していただけじゃないのか!?』『過去に受賞したグラミー賞やブリット・アワードは、能力によるドーピング(不正)だから剥奪しろ!!』という大論争が巻き起こり、レコード会社と音楽賞の主催団体に何万件もの抗議が殺到します!!」
ペンハリガン首相は、音もなく両手で自分の顔を覆った。
「……映画界が駄目なら、音楽業界まで駄目なのか……。スポーツ選手が身体能力強化を持っていればドーピングと言われ、俳優が能力を持っていればCG詐欺と言われ、歌手が音の能力を持っていれば口パク以上の不正と言われる……!」
テーブルの上に散乱した五人分のファイルを前に、首相も秘書官も報道官も、完全に精根尽き果ててぐったりとうなだれた。
それを眺めていた魔女が、少しだけ呆れたように、しかし優しく微笑んで言った。
「……皆さん、本当にご心配が尽きませんねえ」
「心配するのが我々政府の仕事なんですよ、魔女様!!」
午前十一時四十分。
重苦しい沈黙が落ちたブリーフィング室で、ペンハリガン首相は疲れ切った声で呟いた。
「……結局、誰を公表しても何かしらの問題が起きるということだな」
サイモン報道官も力なく頷いた。
「はい……。知名度が高ければ高いほど、その方のこれまでの業績や、関わっている巨大な産業、契約関係に対して、公表が与える影響が大きくなりすぎてしまいます」
MI6の責任者も「また、能力の性質が知られること自体が、安全保障やご本人の身の安全にとってリスクになる場合もございます」と付け加えた。
すると。
それまでどこか他人事のように楽しく茶々を入れていた魔女の表情から、ふっと悪戯っぽい色が消え、千四百年の歳月を生きてきた者だけが持つ、深く静かな眼差しになって頷いた。
「……ええ、その通りです。ようやく一番大切なところに辿り着かれましたね、首相」
首相が顔を上げる。
「……魔女様?」
「一人の人間が『自分は特殊能力者である』という事実を世間に公表するということは、単なる記者会見の余興ではありません。その方がこれまで築き上げてこられたお仕事や評価、そして明日からの生活そのものを、良くも悪くも変えてしまうという、とても重い決断なのです」
「……」
「映画俳優であれ、歌手であれ、あるいは街角のパン屋さんや普通の会社員であれ、皆さんそれぞれに守るべき誇りとご事情がおありでしょう。ですから、ただ『有名で能力が派手だから』という理由で政府が誰かを引っ張り出すことはできません。
今日あの演壇に立つことができるのは――公表することが持つ本当の意味とリスクを誰よりも深く理解しており、なおかつ、どんな世間の雑音が起きようとも一切揺らぐことのない圧倒的なキャリアと実績をすでに確立していて、ご自身の意思でそれを受け入れられる方だけです」
ペンハリガン首相は、魔女の静かな言葉を噛み締め、深く息を呑んだ。
「……公表の意味を理解し、どんな影響も跳ね返せるだけのキャリアと経験を持った人物……」
「ええ」
魔女はそこで、テーブルの一番端に置かれていた「最初に外されたファイル」へと、白い指先をそっと伸ばした。
「――ですから私は、一番最初に『あの方』をご提案したのですけれどね」
「……あの方?」
「サー・ハンスリー・ポプキンスさんですよ」
*
首相と官僚たちの視線が、一斉にポプキンスのファイルへと戻った。
魔女は穏やかに説明を続けた。
「考えてもごらんなさい。ポプキンスさんは御年八十代、すでに半世紀以上にわたってシェイクスピアの舞台から映画界の頂点までを極められた、生ける伝説(リビング・レジェンド)です。今さら彼の能力が『存在を消すこと』だと知られたところで、過去の彼の名演技が超能力のおかげだったなどと難癖をつけられる人間は、この地球上に一人もおりません。だって、俳優というのは舞台の上で『誰よりも強く存在感を放つ』お仕事なのですから、能力とは正反対ですもの」
「……た、確かに! 存在を消す能力を使ってアカデミー主演男優賞は取れませんからな!」
「それに、お若いティムさんたちと違って、これからの数十年のキャリアが契約問題で縛られるご心配もありません。そして何より――彼は能力者としても、また裏の世界の実務家としても、この部屋にいる誰よりも長い経験をお持ちです。何をカメラの前で話してよくて、何を絶対に墓場まで伏せておくべきか、その境界線を彼以上に完璧にコントロールできる人物が他にいまして?」
魔女はそれ以上何も言わず、ティーカップを手に取って首相の返答を待った。
「……しかし、魔女様。先ほどMI6が指摘した安全保障上の機密の問題はどうするのです?」
「ええ、もちろんそこは重要です。ですから、会議室で私たちが勝手に決めるのではなく、まずポプキンスさんご本人にお電話をして、直接お気持ちを伺ってみてはいかがでしょうか?」
魔女はMI6の責任者を見つめて言った。
「彼はもう五十年以上も、影の中でこの国のために十分に働いてこられた方です。すでに現場の一線からは退いておられるのですし、もしご本人が『俳優として、最後に国の役に立ちたい』と公表を望まれるのであれば、その意思を尊重して差し上げるのが、大英帝国の礼儀というものではありませんか?」
ペンハリガン首相は数秒間考え、そして決断を下した。
「……その通りだ。本人の同意と意思がすべてに優先する。MI6、ただちにポプキンス卿の私邸へ安全回線を繋いでくれ!」
「……はっ、承知いたしました!」
午後零時三十分。
暗号化された秘匿音声回線が繋がり、スピーカーから、世界中の映画ファンなら誰もが一度は劇場で聞いたことのある、あの深く、静かで、チェロの低音のように美しく響く老紳士の声が流れてきた。
『――これはこれは、ペンハリガン首相閣下。お電話でお話しするのは、去年のバッキンガム宮殿の園遊会以来でしょうか。ご機嫌麗しゅう』
「ポプキンス卿、突然のお電話で誠に申し訳ありません。お休みのところ、お邪魔をしてしまいましたかな?」
『いいえ、お気になさらず。ちょうど自宅のサンルームでお茶を飲みながら、来月ウエストエンドの劇場で上演する『リア王』の台本を読み返していたところですよ。年を取っても、まだ俳優を辞めたわけではありませんからね』
電話の向こうで穏やかに笑う名優に、ペンハリガン首相は背筋を正し、本日の午後四時に英国政府として能力者の実在と『円卓の騎士団』を公表すること、そして国民の不安を和らげるため、もし可能であればポプキンス卿ご自身の同意のもとで、能力者である事実を公表・登壇していただけないかという要請を、一切の飾り気なく誠実に伝えた。
一通り説明を聞き終えたポプキンス卿は、電話の向こうで三秒ほど静かに沈黙し、それから実に落ち着いた、温かみのある声で答えた。
『……なるほど。先々週の東京とニューヨークのニュースを見ておりましたが、ようやく我がイギリスも、その幕を開ける時代になりましたか』
「……急なお願いであることは重々承知しております。ご協力いただくことは可能でしょうか?」
『ええ。喜んでお引き受けいたしましょう、首相』
あまりにもあっさりとした快諾に、首相の方が驚いて目を丸くした。
「……よ、よろしいのですか、ポプキンス卿!? ご自身の長年の秘密を明かすことになりますし、それに、あなたの『もう一つのお仕事(MI6)』との関係もございますが……」
『もちろんです。私が俳優として培ってきた名前と顔が、新しい時代を迎える英国民の皆さんの心の平穏に少しでも役立つのなら、これほど光栄なことはありません』
ポプキンス卿は、老練なプロフェッショナルとしての冷静さで言葉を継いだ。
『また、ホワイトホール(情報部)の諸君が心配している機密の件につきましても、どうぞご安心を。現在進行中の案件や、過去の非公開任務、ならびに私の能力の正確な階位や詳細な発動条件といった安全保障に関わる部分には、一切触れるつもりはございません。
本日公表するのは、あくまで「俳優ハンスリー・ポプキンスが特殊能力者であるという事実」と、「差し障りのない範囲での能力の一般的な概要」のみ。私の過去のもう一つの履歴書については、これまで通り金庫の奥にしまっておいていただければ結構ですよ』
その明快な言葉に、隣で聞いていたMI6の責任者も、大きく安堵の息を吐いて頷いた。
すぐさま政府の法務・情報保全チームとMI6の間で最終的な『機密審査(クリアランス)基準』が策定された。
・公表対象:ハンスリー・ポプキンスの氏名・職業、特殊能力者である事実、能力《存在しない者》の一般向け概要説明、および安全基準内での限定実演。
・完全非公開対象:政府内部の階位分類(Tier制度および彼がTier1である事実)、能力の最大出力・限界・詳細な発動条件、MI6との過去および現在の関係、一切の諜報活動記録。
「ありがとうございます、ポプキンス卿! あなたの英断に、政府を代表して心から感謝いたします!」
『どういたしまして、首相。私はこれでも六十年近く舞台とカメラの前に立ってきた俳優ですよ。大勢の人前で話すことには、あなた方政治家に負けないくらい慣れておりますからね』
そこでポプキンス卿は、ふと電話口でいたずらっぽく声を潜めて、こんな提案を付け加えた。
『……ところで首相。せっかく私がその歴史的な記者会見のステージに上がるのでしたら、言葉で説明するだけでなく、記者の皆さんの目の前で、ほんの少しだけ私の能力を「実演(デモンストレーション)」してお見せしてもよろしいでしょうか?』
「……実演、ですか?」
『ええ。もちろん、誰かに危害を加えたり、保安上の機密に触れたりしない、ごく初歩的で安全な範囲で、です』
「具体的には、どのようなことを?」
『会見場の演壇の上で、世界中のカメラが回っている目の前で、ほんの数秒間だけ、私という存在を「消して」みせようかと思いましてね』
首相とサイモン報道官が息を呑んだ。
『……百聞は一見に如かず、と申しますでしょう? 演出家の端くれといたしましても、言葉で百万語を費やすより、その方が観客の皆様にはずっと鮮烈に、そして楽しく状況をご理解いただけると思うのですが、いかがでしょう?』
ペンハリガン首相は、思わず口元を緩めて笑った。
「……確かに。サー・ハンスリー・ポプキンス自らが演出されるワンマンショーとなれば、世界中の誰も目を離せませんな」
しかし、横で聞いていたサイモン報道官だけは、真っ青な顔で頭を抱えて叫んだ。
「ちょ、ちょっと待ってくださいポプキンス卿! 政府の公式記者会見の真っ最中に、生中継のカメラの前で登壇者が突然存在を消したら、放送事故だと思われて現場のカメラマンと記者が大パニックになりますよ!?」
電話の向こうで、名優は低く優雅な声でクックッと笑った。
『ご安心ください、報道官殿。カーテンコールまでには、ちゃんと元のステージへ戻ってまいりますよ』
*
午後二時から午後三時三十分にかけて、ダウニング街十番地の首相官邸では、分刻みで緊急記者会見の準備が進められた。
サイモン報道官と内閣府のスタッフたちが作成した会見の進行台本は、極めてシンプルかつ強固な三段構えで構成されていた。
第一段階:英国政府として、国内における特殊能力者および魔術師の実在と、その法的権利保護・安全管理体制を公式に確認する。また、EU離脱後も大陸の『オルド・クロノス』との超常安全保障協定が完全に維持されていることを明言する。
第二段階:英国において古来より超常事象の対処と秩序維持を担ってきた歴史的専門組織――『円卓の騎士団』の実在と、現代における活動概要を正式公表する。
第三段階:能力者が社会の一員として活躍している実例として、本人の同意に基づき、名優ハンスリー・ポプキンス卿を紹介する。
ここで官邸スタッフ全員に最も厳重に徹底されたルールは、「政府内部および国際機関の間で使用されている能力の階位分類(Tier制度)については、今回の会見では『Tier』という単語そのものを含めて一切言及しない」という点だった。
日本も、アメリカも、中国も、仏独も、一般社会に向けてはまだTier制度の詳細を開示していない。ましてやポプキンス卿が国家戦略級の『Tier1』であることなど、絶対に表に出してはならない情報だった。
午後三時四十五分。会見開始の十五分前。
官邸の控え室で最終原稿を確認していたペンハリガン首相は、部屋の隅のソファで相変わらず優雅にアフタヌーンティーのスコーンと紅茶を楽しんでいる魔女を振り返った。
「……本当に、この内容で問題ありませんかな、魔女様」
サイモン報道官が傍らから「はい、騎士団の現役メンバーの個人名も、ご本人の同意と安全審査が済むまでは非公開としておりますし、ポプキンス卿についてもクリアランス通りの範囲に限定しております」と補足する。
魔女はナプキンで口元を拭い、満足そうに頷いた。
「ええ、大変よろしいのではありませんか。英国政府として恥ずかしくない、立派な発表になると思いますよ」
「……ところで魔女様。あなたは千四百年もこの国の超常秩序の頂点におられたわけですが、本日の会見には、本当に表へ出られなくてよろしいのですか?」
首相が尋ねると、魔女は心底おかしそうに首を横に振った。
「まさか。私はあくまで歴代の王と首相にお茶飲み話をするだけの『裏の相談役』ですから。表のステージに立って国民の皆さんに説明責任を果たすのは、選挙で選ばれたあなた方現代の政治家のお仕事でしょう?」
「……まあ、まったくもってその通りですが」
「ですが、今夜のニュースを見た世界中の方々がどんなお顔をなさるか、この控え室のテレビで拝見するのはとっても楽しみですねえ」
「……あなた、やっぱり今回の騒動を心の底から楽しんでおられますね?」
「ええ、もちろん。千四百年も生きておりますと、退屈が一番の毒ですからね」
その時、控え室のドアがノックされ、濃紺の完璧なスリーピース・スーツに身を包んだ白髪の老紳士――サー・ハンスリー・ポプキンスが、穏やかな微笑みを浮かべて入ってきた。
「ペンハリガン首相、お待たせいたしました。準備はいつでもよろしいですよ」
「おお、ポプキンス卿! 本当にありがとうございます。……それでは、時間だ。参りましょうか!」
*
午後四時ちょうど(グリニッジ標準時/日本時間・十一月十一日[水]午前一時)。
ダウニング街十番地内に設けられた政府公式ブリーフィング・ルーム。
青い背景パネルの中央に『HM Government(英国政府)』の紋章とユニオンジャックが掲げられた演壇の前に、アーサー・ペンハリガン首相が姿を現した。
朝方に官邸の門の前で彼を包囲していた国内外の記者たちが、今度は室内の記者席を隙間なく埋め尽くし、BBCワールドニュースやCNN、スカイニュースの生中継カメラが一斉に首相の顔を映し出す。
「――皆様、お集まりいただきありがとうございます。
本日、英国政府は、先月末より世界各国で相次いで確認・公表されております特殊能力および超常的事象に関しまして、我が国の公式な立場と国家対応体制の一部を、国民の皆様ならびに国際社会へ正式に公表いたします」
会場の記者たちが、一斉にノートパソコンと録音機に集中する。
ペンハリガン首相は、力強く明瞭な声で声明を読み上げた。
「まず第一に、同盟国である日本やアメリカ合衆国、ならびに欧州諸国と同様に、我がグレートブリテンおよび北アイルランド連合王国におきましても、通常の科学の枠組みでは説明できない『特殊な能力』や『魔術的素養』を持つ人々が古くから実在しております。
英国政府は長年にわたり、これらの能力を持つ市民の基本的人権と平穏な生活を保護すると同時に、公共の安全を確保するための管理・調整体制を維持してまいりました。また、先般ストラスブールで発生した事案において公表された欧州の広域協力機構『オルド・クロノス』との間におきましても、我が国はEU離脱(ブレグジット)に関わらず、現在も特別条約に基づく完全な安全保障・実務協力関係を継続しております」
首相はそこで一拍の間を置き、正面のカメラを真っ直ぐに見据えた。
「そして第二に、我が国において、そうした特殊能力者や魔術師の統括、ならびに超常的な脅威から国民と国土を守る任務を、幾世紀にもわたって歴史的に担ってきた『英国独自の専門組織』の名称について、本日公式に公表いたします。
その組織は、中世以来、英国民であれば誰もが知る伝説の中にその名を留め、現代に至るまで途切れることなく王室と政府を支え続けてきた騎士たちの結社です」
記者席の空気が、ピンと張り詰めた。
前方の席にいたBBCの記者が、まさかという顔で顔を上げる。
ペンハリガン首相は、誇り高い英国宰相の響きをもって、その名を告げた。
「――その組織の名称は、『円卓の騎士団(The Knights of the Round Table)』です」
言葉が落ちた瞬間。
重厚なブリーフィング・ルームが、文字通り蜂の巣を突いたような大混乱とどよめきに包まれた!
「……えっ!? 今、『円卓の騎士団』とおっしゃったか!?」
「アーサー王伝説の、あのキャメロットの円卓の騎士団か!?」
「日本の八咫烏、アメリカのMAJESTIC-12、中国の青幇、欧州のオルド・クロノスに続いて、イギリスは『円卓の騎士(ナイツ・オブ・ザ・ラウンド・テーブル)』が実在していたと公式に認めたぞ!!」
「首相! ランスロット卿やガウェイン卿、ガラハッド卿は実在したのですか!?」
「アーサー王も歴史上の実在の人物だったということですか!?」
「騎士団の本部はどこにあるのですか、やはりウィンザー城の地下ですか!?」
総立ちになって叫ぶ記者たちを前に、ペンハリガン首相は片手を挙げて冷静に制した。
「静粛に願います。具体的な質疑は後ほど受けますが、概要をご説明いたします。
『円卓の騎士団』は、単なる過去の神話や物語ではなく、古来よりこの島の超常的秩序を守護してきた実在の騎士団組織であり、現在も我が国の特殊事象対応の中核を担うと同時に、オルド・クロノスの実務を支える主要な柱の一つとして活動しております。
もっとも、誤解のないよう申し添えますが、二〇二六年の現代において、円卓の騎士たちが常に甲冑を着て剣を帯びて街を歩いているわけではありません。現在の騎士団のメンバーには、危機管理の実働部隊として現場に立つ者だけでなく、ウェストミンスターの議会(下院および貴族院)に議席を持つ政治家や、各省庁の行政官、外交官、学術研究者として、現代社会の法と制度の中で職務を果たしている者も多数含まれております。
なお、歴史上のアーサー王に関する史料の公開や、現在活動している個々の騎士の身元につきましては、安全保障上の審査および本人の同意に基づき、今後段階的に判断してまいります」
会場の熱気とどよめきがまだ収まらぬ中、世界中の通信社が『【緊急速報】英政府、アーサー王伝説の「円卓の騎士団」が超常管理組織として現在も実在・活動していると公式発表』という見出しを一斉に世界へ打電した。
そして午後四時十五分。
ペンハリガン首相は手元のバインダーのページをめくり、騒然とする記者席を見渡して、こう切り出した。
「――さて。本日は、組織の公表に加えて、もう一つ、国民の皆様へどうしてもお伝えしたい大切なことがございます。
特殊な能力を持つ人々は、決して『円卓の騎士団』のような特別な任務に従事する方々ばかりではありません。その大多数は、私たちとまったく同じ社会の中で、それぞれの才能を活かして様々な職業に就き、家族や友人を愛して暮らしている善良な市民です。
その事実を、何よりも分かりやすい形で皆様に知っていただくため、本日はご本人の全面的なご同意とご協力のもと、我が国を代表する『ある著名な能力者の方』に、この会場へお越しいただいております」
ざわめいていた記者たちが、「えっ?」「著名な能力者がここに来ているのか!?」と一斉に息を呑んで静まり返った。
首相は横の扉へと視線を向け、丁重な口調で紹介した。
「彼は英国政府が正式に把握している特殊能力者のお一人であり、同時に、皆様が何十年もの間、スクリーンや舞台の上でその素晴らしい仕事ぶりを目にしてこられた方です。
――ご紹介いたします。サー・ハンスリー・ポプキンス氏です」
一瞬の空白。
「…………」「…………」
そして次の瞬間、ブリーフィング・ルームの横の控室扉がゆっくりと開き、記者席から「ハンスリー・ポプキンス!?」「あのアカデミー賞俳優のポプキンス卿だと!?」という信じられないような驚愕の声が上がった。
*
扉の向こうから、濃紺のスリーピース・スーツを完璧に着こなした白髪の老紳士――ハンスリー・ポプキンスが、背筋をまっすぐに伸ばした優雅で落ち着いた足取りで、演壇の横へと歩み出てきた。
世界中の映画ファンが『羊たちの沈黙』やシェイクスピア映画、数々の重厚な人間ドラマで見慣れた、あの知的で威厳に満ちた顔立ちと、全てを見透かすような深い碧眼。
カメラのシャッター音が機関銃のように鳴り響く中、ペンハリガン首相がポプキンス卿と固い握手を交わし、補足した。
「ポプキンス卿は、長年にわたり英国を代表する俳優として世界中の皆様に親しまれてこられました。そして本日、氏ご自身の意思に基づき、氏が特殊能力を有しているという事実と、公開可能な能力の一部をご紹介いただくこととなりました。なお、これまで通り個人の詳細な管理区分等については非公表といたします。……では、ポプキンス卿、お願いいたします」
首相から演壇の中央を譲られたポプキンスは、マイクの前に立ち、まず会場の記者たちを端から端までゆっくりと見渡して、ほんの少しだけ目尻を緩めて微笑んだ。
「――皆さん、こんにちは。ハンスリー・ポプキンスです」
あの低く、深く、劇場全体の空気を一瞬で支配する独特のベルベット・ボイスがスピーカーから流れた瞬間、殺気立っていた記者たちが思わず圧倒されて聞き入った。
「……もっとも、ここにいらっしゃるメディアの皆さんには、今さら私の名前を自己紹介する必要もなかったかもしれませんね」
ウィットに富んだその一言に、張り詰めていた記者席からクスリと温かな笑いが起き、会場の空気が一気に和らいだ。
ポプキンスは両手を演壇の縁に軽く置き、穏やかな、しかし一語一語が胸に染み入るような明瞭な口調で語り始めた。
「本日、私はペンハリガン首相からの要請と、そして何より私自身の意思に基づき、長年私の映画や舞台を観てくださってきた世界中の皆様へ、一つの事実をお伝えするためにここへ参りました。
――私は、特殊能力者です」
静かな宣言だった。
「今から六十年以上前、私がまだ若い演劇青年だった頃から、私には他の人とは少し違う特殊な力が備わっておりました。英国政府の関係機関にも古くから登録し、俳優としての仕事を続けながら、公の場ではその事実を伏せて生きてまいりました。
しかし、ここ二週間で世界は大きく変わり始めました。昨日まで隠されていた力が白日の下に出たことで、今、多くの若い能力者たちが『自分は世間からどう見られるのか』と不安を抱き、また一般の方々も『能力者とはどんな恐ろしい存在なのか』と戸惑っておられます。
ですから、首相からお話をいただいた時、もう八十を過ぎた老優である私が最初に皆様の前へ出て、『ほらご覧なさい、あなたがたが昔から映画館で見ていたこの年寄りも能力者でしたが、誰も取って食ったりはしなかったでしょう?』とお見せするのが、長年皆様からいただいた拍手に対する、私なりの恩返しになるのではないかと思った次第です」
会場の記者たちから、感銘を受けたような静かな頷きが広がる。
するとポプキンスは、そこで少しだけいたずらっぽく目を細め、くすりと笑って言った。
「……ただ、神様というのは実に皮肉な配役をなさるものです。
私の生涯の仕事である『俳優』という職業は、舞台の上やカメラの前で、観客の皆さんに『私という人間を見ていただくこと、記憶していただくこと』によって成り立つ仕事です。
ところが――私が生まれつき持っていた特殊能力というのは、実はその『まったく逆』を可能にする力なのですよ」
記者たちが、一斉に首を傾げた。
「……逆?」「見てもらうことの逆とは、どういう意味だ?」とひそひそ声が飛び交う。
ポプキンスはマイクの前から一歩横へ出て、何もない演壇のスペースの中央へと進み出た。
「少々、役者としては皮肉な能力でしょう? 本日、政府の安全確認のもと、言葉で説明する代わりに、ほんの数秒間だけ、皆様の目の前でその力を実演(デモンストレーション)することをお許しいただきました」
記者たちが「おっ、実演だと!?」「カメラを止めずにズームしろ!」と一斉に色めき立ち、百台のテレビカメラとスマートフォンのレンズが、演壇の中央に立つポプキンスの全身を画面のど真ん中に捉えた。
「私の能力は、皆さんがご想像なさるような、単に姿を透明にする力とは少しばかり違うものです。
詳しい仕組みをご説明するより、まずは皆さんにその違いを体験していただく方が早いでしょう。
……それでは、皆様。瞬きをなさらずにご覧ください」
ポプキンスが穏やかに微笑み、演壇の中央で、静かに半歩だけ後ろへ足を引いた。
呪文を唱えたわけでもない。ポーズをとったわけでもない。光が弾けたわけでもない。
ただ、次の瞬間。
ブリーフィング・ルームの最前列から最後列までに座っていた百人の記者たちの脳内で、世にも奇妙で、背筋が粟立つような「異常」が発生した。
記者たちの目は、確かに演壇の中央を見つめている。
そこには、青い背景パネルがあり、ユニオンジャックの旗があり、少し離れた脇に立つペンハリガン首相とサイモン報道官の姿が見えている。
――だが、「今、自分たちが演壇の真ん中の『誰』を見ていたのか」が、突然どうしても認識できなくなったのである。
視線を演壇の中央へ向けようとしても、まるで磁石の同じ極同士が反発するかのように、意識が勝手に横のユニオンジャックの模様や首相のネクタイの方へと滑ってしまい、「真ん中の空間」に焦点を合わせることができない。さっきまでそこで誰かが喋っていたような気はするのに、そこに誰が立っているのか、そもそも誰かがいるのかどうかすら、頭の中からすっぽりと抜け落ちてしまっているのだ!
「…………え?」
「……あれ? 今、私たちは何を見ていたんだっけ……?」
「ま、待て、ポプキンス卿はどこだ!? いつ控室へ戻られたんだ!?」
記者たちが混乱してキョロキョロと周囲を見回す中、テレビカメラのファインダーを覗いていたBBCのベテランカメラマンが、モニター画面を見て「……っ、な、なんだこれ!?」と裏返った悲鳴を上げた。
生中継されているテレビカメラの映像の中では、さらに信じがたい現象が起きていた。
演壇の中央――ポプキンスが立っていたはずの空間の映像が、壊れているわけでもブラックアウトしているわけでもないのに、まるで空間そのものに精巧な「認識不能の空白(意味をなさない背景色のモザイクの揺らぎ)」が貼り付けられたかのように、そこにいるはずの人物の情報だけがデジタルデータから完全に欠落していたのである。周囲の照明も旗の揺れも正常に録画されているのに、「ハンスリー・ポプキンス」という存在だけが、カメラのセンサーからも視聴者の目からも、文字通り『存在しないもの』として処理されていた。
「カメラの故障か!?」「いや、どこの社のカメラでも同じ空白になってるぞ!!」「目の前にいるはずなのに、脳が認識を拒否してるんだ!!」と、会場がパニックになりかけた――その五秒後。
フッ、と。
演壇の右端――最初に彼が立っていた場所から四メートルほど離れた、ユニオンジャックの旗のすぐ横で、見えないベールが剥がれ落ちるようにして《存在しない者》の干渉が解除された。
そこには、最初からずっとそこに立っていたかのように、ポケットに片手を入れたハンスリー・ポプキンスが、穏やかな微笑みを浮かべて静かに佇んでいたのである。
もちろん、その四メートルを彼が歩いて移動した足音に気づいた者も、横切る影を見た者も、会場にはただの一人もいなかった。
「「「うわああああああああああっ!?!?」」」
記者席の全員が、椅子から飛び上がらんばかりに驚愕の声を上げた。
「い、いつそっちへ移動したんだ!?」
「ドアは開いてない、私たちの目の前を歩いて横切ったのに、誰一人として見えもしなければ気配すら感じなかったぞ!?」
「カメラの録画データを巻き戻しても、最初からそこに誰もいなかったみたいに背景しか映ってない……!!」
騒然となる百人の記者たちに向かって、白髪の名優は、ウエストエンドの劇場のカーテンコールで拍手に応える時とまったく同じように、胸に手を当てて優雅に一礼してみせた。
「――ご覧の通りでございます。観客の皆様に自分の姿を見ていただく俳優という仕事をしている者にとりましては、少々扱いづらい、困った能力でしてね」
そのあまりにも洒脱で、あまりにも余裕に満ちたジョークに、呆気にとられていた記者席から、次の瞬間、爆発するような笑いと感嘆の拍手が沸き起こった。
一般の記者やテレビの前の視聴者たちにとっては、それは「世界的な名優が目の前でマジシャンのように消えてみせた!」という、最高にスリリングで楽しい驚きのショーだった。
だが――この生中継を世界各地で見守っていた超常管理機関の幹部や高位実働者たちの背中には、一般人とはまったく違う種類の、氷のような冷や汗が流れていた。
(……おい、今のを見たか? 単なる光学迷彩や気配遮断じゃない、百人の生身の観測者の認知と、数十台のデジタル放送カメラの記録媒体の双方に対して、予備動作ゼロで同時に『存在情報の欠落(事象改ざん)』を割り込ませ、しかも周囲に1ミリの認知障害(脳へのダメージ)も残さずに五秒で綺麗に解除してみせたぞ……!)
(あれが英国の最高峰、かつて冷戦時代に東側の要塞から誰一人に気づかれずに機密を抜いたと噂されたMI6の伝説の亡霊、《存在しない者》の精密制御か……! 化け物にもほどがあるぞ……!)
もちろん、そんな裏世界のプロたちの戦慄などおくびにも出さず、また『Tier1』などという専門用語も一切口にしないまま、ポプキンス卿は静かに元のマイクの前へと戻った。
*
実演が終わると同時に、興奮状態の記者たちから質問の手が一斉に上がった。
「ポプキンス卿! デイリー・テレグラフです! 今の能力、本当に驚きました! そこでお聞きしたいのですが、卿はこれまでの六十年の映画撮影や舞台公演におきましても、その能力をこっそり使われたことはあるのですか!? たとえば、カメラの前から一瞬で消えるホラー映画のシーンなどで……!」
ポプキンスは穏やかに首を横に振った。
「いいえ、一度もございませんよ。先ほども申しました通り、映画や舞台の演技というのは、脚本家や監督、共演者の皆さん、そして照明やカメラのスタッフの皆さんと力を合わせて、一つの作品を誠実に作り上げるものです。私が撮影中に勝手にこの能力を使ってしまったら、せっかくカメラマンの方がピントを合わせたフィルムに何も映らなくなってしまい、監督から大目玉を食らってしまいますからね」
「では、卿のこれまでの数々の名演技やアカデミー賞の受賞は、特殊能力とは一切関係がない、と?」
ポプキンスは、少しだけ茶目っ気のある目でその記者を見つめ、微笑んで言った。
「――ええ。少なくとも、私のこれまでの映画の演技が良かったか、それとも大根役者で悪かったかを、私の超能力のせいにだけはしないでいただきたいですね」
会場から再びドッと大きな笑いが起きた。
ところが次の瞬間、中央の席にいたロイター通信の敏腕政治部記者が立ち上がり、笑いの空気を一変させる鋭い質問を投げかけた。
「ポプキンス卿、ならびにペンハリガン首相に確認させてください。
ただいま実演された『周囲の認識とカメラの記録から自身の存在を完全に消し去る能力』ですが……率直に申し上げて、この能力は、軍事や外交における『諜報活動(エスピオナージ)』や秘密工作において、世界最強とも言える適性を持っているように見受けられます。
これまで英国政府、あるいは秘密情報部(MI6)などの情報機関が、ポプキンス卿のその能力を国家の非公開任務に活用していたという事実はありますか!?」
会場の空気がピタリと止まった。
壇上のペンハリガン首相の眉がわずかに動き、控え室のモニターで見守っていたMI6の責任者がゴクリと息を呑む。
だが、八十代の老名優は、まつ毛一本動かさなかった。
彼は何十本ものスパイ映画や政治劇で培った以上の、底知れないほど穏やかで完璧なポーカーフェイスを保ったまま、静かに答えた。
「……私は本日、一人の俳優として、そして一人の能力を持つ英国市民として、皆様にお話しするためにここへ参りました。
英国政府の非公開業務や安全保障上の事柄につきまして、一介の俳優である私からお答えする立場にはございませんよ」
記者がすかさず食い下がった。
「お答えする立場にないということは、『過去にMI6の任務に従事したことは一度もない』と明確に否定はなさらないのですか!?」
ポプキンスは、まるで映画『007』のM(部長)が微笑んだかのような、気品と謎に満ちた笑みを浮かべて、隣の首相と報道官の方へ軽く手を示した。
「……さて、どうでしょうね。そのご質問への回答は、私の台本には書かれておりませんので、英国政府の担当者にお任せいたします」
すかさずサイモン報道官がマイクを引き取り、「政府の個別の安全保障および情報機関の活動に関わる事項につきましては、従来の原則通り、肯定も否定も含めて一切のコメントを差し控えます」と鉄壁の公式回答で幕を引いた。
肯定もせず、否定もしない。
だが、その老紳士のあまりにも堂々とした立ち居振る舞いを見た世界中の視聴者は、「……おい、今の受け答え、どう見ても昔ガチでジェームズ・ボンド以上の仕事をしてた人の顔だぞ……!」と、言外に漂う圧倒的なロマンを感じ取って震えていた。
質疑応答の終了時刻となり、ポプキンス卿は最後にカメラへ向かって背筋を伸ばし、シェイクスピアの独白を締めくくるかのような美しく重厚な声で、結びの言葉を述べた。
「――長い人生の間、私は舞台の上で、王から犯罪者、科学者から魔法使いに至るまで、実にさまざまな他人の人生を演じてまいりました。
ですが、今日この場所で初めて、役柄の仮面を脱ぎ、これまで一度もお見せすることのできなかった『ハンスリー・ポプキンス自身の本当の姿の一面』を皆様にご紹介できたことを、一人の人間として心から嬉しく思います。
世界は少しだけ賑やかになりますが、どうか恐れないでください。劇場の明かりが灯り続ける限り、私たちの日常は何一つ変わりません。……ご清聴、ありがとうございました」
ポプキンス卿が深く、優雅に一礼すると、普段は辛辣な質問ばかりを飛ばすダウニング街の記者席から、この日ばかりは惜しみないスタンディングオベーションに近い万雷の拍手が贈られた。
*
午後五時十分。首相官邸・控え室。
大成功のうちに記者会見を終え、ポプキンス卿を丁重に見送ったあと、控え室へと戻ってきたペンハリガン首相は、ソファへと崩れ落ちるように深く腰を下ろし、「ふうーっ……!」と今日一番の長い息を吐き出した。
「……終わった……。なんとか、大過なく終わったぞ……」
隣でタブレットを確認していたサイモン報道官が、興奮冷めやらぬ声で報告した。
「首相、会見の映像はBBCを通じて全世界に生中継され、すでに爆発的な反響を呼んでおります! 『アーサー王伝説の円卓の騎士団が実在していた!』という歴史的衝撃と、『名優ハンスリー・ポプキンス卿が超能力者で、カメラの前で姿を消した!』というニュースが、昨日の日本の徳川家康の話題を一気に塗り替えて世界のトレンド1位と2位を独占しております!
また、国内の世論調査モニターでも、ポプキンス卿の落ち着いたユーモアのあるスピーチのおかげで、パニックは一切起きず、政府の公表姿勢に対して非常に好意的な評価が集まっております!」
「……そうか。よかった、本当によかった……」
首相は胸を撫で下ろし、テーブルの向かいで三杯目の紅茶を優雅に傾けている魔女へと視線を向けた。
「魔女様。あなたのご提案通り、ポプキンス卿にお願いして大正解でした。これでようやく、明朝から官邸の門の前で記者たちに吊るし上げられる日々ともお別れできそうですな」
「あら、首相、本当にそうお思いになりますか?」
魔女はティーカップの縁から、楽しそうに目を細めて首相を見た。
「……はい? だって、円卓の騎士団も公表しましたし、著名人の実例も見せたではないですか」
「ええ、とても素晴らしい発表でしたよ。……ただ、そのおかげで、明日の朝からはまた新しい種類のお仕事が山のように増えることになりそうですねえ」
「……新しい仕事、とは何です?」
「まず、世界中の歴史学者やアーサー王伝説の研究家の方々から、『円卓の騎士団が実在するなら、キャメロットの城跡や聖杯(ホーリー・グレイル)、エクスカリバーの記録を今すぐ公開しろ!』というお問い合わせが、昨日の日本の徳川家康公の時と同じくらい殺到するでしょうね」
「…………あっ」
「さらに、世界中の映画ファンやメディアからは、『ポプキンス卿が能力者だったのなら、他にもイギリスの俳優や歌手に能力者が隠れているのではないか!?』という取材や憶測が、それこそ蜂の巣を突いたように盛り上がることでございましょう」
ペンハリガン首相の顔から、再び血の気が引いていった。
「……ま、魔女様。あなた、それも全部分かった上で勧めたんですか!?」
「ふふっ、何を仰いますやら。秘密を明かすというのは、そういうことですよ」
「……ならば、魔女様も明日から少しは官邸の問い合わせ処理を手伝ってくださいよ!」
魔女は立ち上がり、スーツの裾を軽く払って、上品に微笑んだ。
「嫌ですよ。私はこれまでの千四百年間で、もう十分すぎるほどこの島のお手伝いをしてまいりましたもの。これからの新しい時代の行政と窓口対応は、すべてあなた方現代の皆さんにお任せいたしますわ」
「……相変わらず、人使いが荒くて厳しいお方だ……」
首相がうなだれていると、部屋の隅でスマートフォンを見ていた文化・メディア省の連絡官が、何かとんでもないものを目撃したかのように、引きつった顔で手を挙げた。
「……あ、あの、首相」
「……なんだ、まだ何かあるのか?」
「はい。先ほど、本日の会見を見送らせていただいた若手俳優の『ティム・ホランド氏』の代理人から、改めて官邸宛てに緊急の連絡がございまして……」
「……ホランド君から? なんだ、公表を見送られて怒っているのか?」
「いいえ、その逆です!」
連絡官は冷や汗を拭いながら、届いたばかりのメッセージを読み上げた。
「ご本人は今、自宅のテレビでポプキンス卿がカメラの前で姿を消した会見映像をご覧になって、大興奮しておられるそうでして……『大先輩のハンスリーがあんなにカッコよく能力を見せたんだから、僕も早くみんなの前で能力を見せたい! 壁を登って天井に張り付くだけなら誰にも迷惑かけないし簡単だから、来週にでも第2回の記者会見を開いてよ!』と……」
「…………」
「……さらに、追伸でこうも仰っています」
「……まだあるのか?」
「はい。『実は今、僕のマネージャーを通じてハリウッドの映画会社の社長と直接掛け合ってもらってるんだ! もし映画会社がOKしてくれたら、次の政府記者会見には、映画で実際に使ってる本物のスパイダーマンのスーツを着てダウニング街十番地の屋根から飛び降りて登場してもいいよ!』と……!」
ペンハリガン首相は、音もなく両手で自分の顔を覆い、そのままデスクの上へと突っ伏した。
「……あいつ、まだ1ミリも諦めてなかったのかよ……! 一国の首相官邸の屋根からスパイダーマンの着ぐるみで飛び降りてくる記者会見なんか、死んでも開けるかあああっ!!」
その横で、魔女が今日一番の楽しそうな笑い声を部屋に響かせた。
「まあまあ、お若い方は本当にエネルギーに満ち溢れていて結構ではありませんか」
首相はガバッと顔を上げ、涙目で魔女を睨みつけた。
「……魔女様!!」
「はい、なんでしょう?」
「どうかお願いですから、私に内緒でホランド君や映画会社と連絡を取って、勝手に『第2回・著名人能力実演記者会見』の企画を進めたりしないでくださいね!? 絶対にですよ!?」
千四百年を生きる大魔女は、自分の唇に人差し指をそっと当て、悪戯がバレた少女のように美しく微笑んで言った。
「――さて、どういたしましょうね。先ほど首相ご自身が、『本人の意思は最大限に尊重する』と仰ったばかりではありませんか」
「……そういう問題じゃないんですよおおおおっ!!」
霧雨の降り続く夕暮れのダウニング街十番地に、英国首相の悲痛な叫び声と、魔女の涼やかな笑い声がいつまでも響き渡っていた。
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