もしも異能がディスクロージャーされたら? 作:パラレル・ゲーマー
二〇二六年十一月十三日、金曜日。午後一時三十分。
東京のオフィス街で日本の会社員たちが「アメリカの大企業の能力者活用」や「80人分の給料」の話題で盛り上がっていた昼休みが終わり、午後の業務が始まってから三十分が経過した時刻だった。
千代田区霞が関、中央合同庁舎内の内閣官房・危機管理合同会議室。
ブラインドが下ろされた無機質な会議室のテーブルには、内閣官房の安全保障・危機管理担当参事官をはじめ、警察庁生活安全局、総務省、国土交通省の連絡官、そして『八咫烏』からは国内相談・事務対応統括の霧島と、もう一人――本日の会議の招集を要請した男が着席していた。
男の名は、真柴(ましば)。年齢は四十代半ば。
八咫烏の『心霊事象部門』において、長年にわたり日本国内の霊的災害や高危険度心霊領域の封じ込め・現場指揮を担当してきた実務責任者である。
仕立ての地味なダークスーツを着た真柴は、一見するとどこにでもいる穏やかな地方公務員のように見えたが、その目元には、常人が一生のうちに一度も目にすることのない凄惨な現場を幾度もくぐり抜けてきた人間特有の、静かで揺るぎない厳しさが宿っていた。
「――お忙しいところお集まりいただき、ありがとうございます。八咫烏・心霊事象部門の真柴です」
真柴は手元の分厚いファイルを静かに開き、政府側の担当官たちを見渡して切り出した。
「本日、緊急にご協議いただきたいのは、日本国内に点在するいわゆる『心霊スポット』――専門的には『霊的危険管理区域』への一般市民の立ち入り防止、ならびに政府からの公式な注意喚起の発出についてです」
政府側の危機管理参事官が、配られた資料の表紙を見て少し首を傾げた。
「心霊スポット、ですか。今週の月曜日に霧島統括が会見で発表されて以降、我が国にも幽霊(霊体)や霊障が実在することは政府として公式に認めておりますし、すでに八咫烏に心霊事象の専門部門があることも周知しております。改めて今日、緊急の注意喚起を出す必要があるというのは、どういう理由からでしょうか?」
「はい。まさにその『政府が幽霊の実在を公式に認めた』という事実そのものが、これまでの安全管理の前提を根底から変えてしまったからです」
真柴は落ち着いた声で答えた。
すると、隣に座っていた国土交通省の建築・管理担当官が、少し不思議そうに質問を挟んだ。
「あの、真柴さん。世間で『心霊スポット』と呼ばれている場所というのは、要するに昔から若者たちが夏休みなどに肝試しに行く、 廃業したホテルや古いトンネル、廃病院などのことですよね?」
「ええ、一般的にはそう認識されております」
「確かに、そうした廃墟への無断立ち入りは、建物の老朽化による床の崩落や、アスベスト、あるいは不審者との遭遇といった物理的・防犯上の危険がございますし、建造物侵入罪にもあたります。ですが、それであれば従来の警察によるパトロールや、所有者・自治体によるフェンスの設置、『危険・立入禁止』の看板といった通常の管理措置で対応できるのではありませんか?」
これまでの「異能や幽霊が存在しないことになっていた表の行政」の感覚としては、ごく自然な疑問だった。
先週までの世界において、行政が廃墟への立ち入りを禁じる理由は、あくまで「建物が古くて崩れるから」「不法侵入だから」であり、間違っても「中にお化けがいるから」ではなかったのだ。
真柴は、その担当官の目を真っ直ぐに見つめ、静かに、しかしはっきりと首を横に振った。
「――建築物としての物理的な危険性だけであれば、従来の対応で構いません。しかし、私どもが問題にしているのは、古い建物の床が抜けることではなく、その場所に滞留・発生している『霊的な存在そのもの』が人間に与える直接的な危害なのです」
会議室の空気が、わずかに引き締まった。
真柴は手元のリモコンを操作し、正面のスクリーンに『国内における重度霊障被災事案・非公開統計および症例報告(八咫烏・心霊事象部門)』と題された内部資料を映し出した。
「政府の皆様には、この機会に『本物の心霊スポット(霊的汚染・境界変調区域)』において実際に何が起きるのか、正確な事実をご理解いただきたいと存じます。
世間で噂される心霊スポットの八割方は、単なる噂や自然現象の誤認、あるいは無害な残留思念(エコー)に過ぎません。ですが、残りの二割――私どもが『管理対象区域』として指定し、密かに封じ込め措置を施している場所には、先日のヨーロッパ・ライン川の事案でも一部が確認されたような、極めて危険な『悪霊化個体』や、複数の怨念が融合・変質した『土地縛り型の高危険度怪異』が現実に存在しております」
真柴は、画面に並んだ三つの分類項目をレーザーポインターで順番に指し示した。
「そうした危険区域へ、何の防護処置も持たない一般市民が足を踏み入れた場合に発生する被害は、大きく三つに分類されます。
第一に、『肉体への直接的な危害』です。悪霊化した存在による物理的・霊的な直接攻撃、あるいは階段や高所からの突き落とし、極度の低温による凍傷や心不全の誘発などにより、重傷、最悪の場合はそのまま死亡に至ります。
第二に、『認識および精神への直接干渉』です」
先ほど質問した担当官が、眉をひそめて聞き返した。
「……精神への干渉というのは、暗い場所で怖いものを見てパニックを起こし、腰を抜かすという意味でしょうか?」
「いいえ、単なる心理的な恐怖やパニックのことではありません」
真柴の声から一切の抑揚が消え、淡々とした事実の報告が響いた。
「私が申し上げているのは、霊的存在が放出する異常な干渉波形が、人間の脳の認知機能や精神構造そのものを外側から直接書き換え、破壊する現象です。
この干渉を受けた被害者は、目の前にあるはずの断崖や崩れた床の穴を『平坦な出口への道だ』と誤認させられて自ら足を踏み出したり、そこに誰もいないのに『親しい友人や家族が手招きして呼んでいる幻聴・幻覚』を完全に現実だと信じ込まされたりします。
さらに深刻なケースでは、私どもの専門部隊が突入して肉体を無事に救出した後であっても、本人の記憶や人格の一部が欠落・混濁したまま回復せず、長期間にわたって日常生活への復帰が困難となる重大な精神機能障害が残る事例が少なからず報告されております」
政府側の官僚たちが、ゴクリと息を呑んだ。
真柴はさらに三つ目の項目を指し、静かに追い打ちをかけた。
「そして第三が、『危険な霊的環境(境界の狭間)への取り込み』です。建物の内部で局所的に空間の位相が歪み、同じ廊下を何度歩いても外へ出られなくなる、あるいは現実空間から切り離されたポケットへ引きずり込まれ、外部からの専門的な救助がなければ自力での脱出が不可能となり、衰弱死に至るケースです。
……実際に、これまで表の統計では『廃墟探索中の不慮の転落事故』や『山間部での原因不明の行方不明・変死』として処理されてきた事案の中に、こうした重度霊障による死亡事例が含まれております」
会議室には、重苦しい沈黙が落ちていた。
真柴はポインターを消し、官僚たちの顔を見渡して言った。
「一般の方々は、『もし本物の幽霊に出くわしたら、驚いて走って逃げればいい』と軽く考えておられます。
ですが、本当に危険な心霊スポットにおきましては――『ここは危険だから逃げよう』と判断する人間の正常な認識能力そのものが、真っ先に奪われるのです。気づいた時には、自分の足で笑顔のまま穴へ飛び込んでいる。それが、私どもが現場で見てきた『霊障』の現実です」
*
真柴の具体的で生々しい説明によって、会議室にいた政府側の出席者たちは全員、心霊スポットが単なる「若者の非行や不法侵入の問題」などではなく、文字通り命に関わる災害現場であることを完全に理解した。
だが、ここで内閣官房の危機管理参事官が、腕を組んで難しい顔をしながら、行政として避けて通れない「もう一つの深刻なジレンマ」を口にした。
「……真柴さん。危険性の深刻さについては、よく分かりました。ただ、それを踏まえた上で、広報および危機管理の観点から一点、どうしても懸念されることがございます」
「何でしょうか」
「……その危険性を、政府が公式に『この場所には危険な本物の霊がいます』と公表してしまったら、かえってそこへ見に行こうとする人間が爆発的に増えてしまうのではありませんか?」
参事官のその言葉に、会議室が再び静まり返った。
参事官は手元のペンを回しながら、苦渋に満ちた表情で続けた。
「考えてみてください。先週までは、世間の若者たちの大半は『どうせ幽霊なんて科学的にいるわけがない、ただの都市伝説だ』と思っていました。
ところが、先日のヨーロッパの生中継と月曜日の政府会見によって、『この世界には本当に幽霊が存在する』と国がお墨付きを与えてしまったのです。そんな状況下で、もし政府が『心霊スポットには本物の危険な霊がいるから近づくな』と大々的に発表したら、好奇心旺盛な若者や、ましてや再生数と登録者数を稼ぎたい動画配信者(YouTuberやストリーマー)たちは、どう反応するでしょうか?」
隣にいた警察庁の担当官も、深く頷いて同意した。
「参事官の危惧される通りです。『政府が公式に認めたガチの心霊スポットだ!』と逆宣伝になり、全国から配信者や野次馬がカメラを持って殺到しかねません。もし政府が危険区域の具体的なリストや住所などを公開しようものなら、その翌日からそこは観光名所になってしまいますし、『立入禁止(霊的危険区域)』という看板自体が、格好の撮影スポット(サムネイルの素材)にされてしまう恐れがあります」
政府側の指摘は、大衆心理の暗部を突いた極めて合理的で現実的なものだった。先々週の土曜日、渋谷のハロウィンでも、「来るな」と言われたスクランブル交差点に何万人もの若者が集まったばかりなのだ。
しかし、真柴も霧島も、その政府側の懸念を頭から否定することはしなかった。
「参事官、警察庁のおっしゃる通りです」
真柴は静かに頷いた。
「私ども八咫烏といたしましても、全国の管理対象区域の『具体的な名称や所在地リスト』を一般向けに公開するようなことは、絶対に行うべきではないと考えております。それは文字通り、火に油を注ぐ行為です」
「では、具体的にはどうすべきだと?」
「所在地は伏せたまま、政府および八咫烏の公式声明として、『心霊スポットへの興味本位の立ち入りは、単なるルール違反ではなく、霊障による死亡や取り返しのつかない精神障害を引き起こす現実の生命の危険がある』という基本的な事実(リスクそのもの)だけを、今日中に強く、明確に国民へ警告していただきたいのです」
真柴はさらに、これまでの「秘匿時代の管理方法」が抱えていた限界について説明した。
「これまで私どもは、高危険度の廃墟や区域の周囲に、霊的な流出を抑えるための『境界封鎖(結界)』を施すと同時に、一般人が近づかないよう、土地の所有者や自治体と協力してフェンスを張り、『老朽化につき倒壊の危険あり・立入禁止』といった表向きの看板を設置してまいりました。
しかし、その『老朽化につき危険』という看板は、昨日までの『幽霊などいないと思っていた人々』に対しては一定の抑止力になりましたが、今の『幽霊が実在すると知って、本物の幽霊を撮影しに行こうとしている人々』に対しては、ほとんど抑止力にならないのです。
なぜなら彼らは、かつての単なる肝試し(度胸試し)としてではなく、本人たちの認識としては『実在する未知の超常現象を自分のカメラで世紀のスクープとして撮影する行為』として、フェンスを乗り越えようとしているからです」
そして、真柴の隣に座っていた八咫烏の霧島統括が、手元のタブレットの画面をプロジェクターに映し出し、会議室の全員に「今日でなければならない決定的な理由」を突きつけた。
「――それともう一点、皆様。先ほどから当機関の総合相談窓口やSNS監視班にも多数の通報が上がってきているのですが……皆様、本日がカレンダーの上で『何月何日の何曜日』であるか、お気づきでしょうか?」
政府の参事官が、壁の日めくりカレンダーを見た。
「えーと、本日は十一月十三日ですが……」
「はい。十一月の、『十三日の金曜日』です」
「…………あっ」
参事官と警察庁の担当官が、同時に息を呑んだ。
霧島は、タブレットの画面に並んでいる大手動画配信サイトやSNSのトレンド画面をスクロールして見せた。
そこには、『【今夜21時生配信】異能・幽霊公認後初の「13日の金曜日」! 県内最恐の心霊廃墟にガチ突撃して本物の存在痕跡を撮影する!!』『13日の金曜日・心霊スポット同時多発ライブ祭り!』といった、若手の動画配信者やオカルト系グループによる今夜の生配信の予告サムネイルが、何十件もずらりと並んでいたのである。
「……な、なんだこれは……!」
「はい。『十三日の金曜日』というただでさえオカルト的な注目を集めやすい日付が、運悪く『政府と欧州機関が幽霊の実在を公式に認めた直後の最初の週末(金曜日の夜)』と完全に重なってしまっているのです」
真柴が厳しい表情で言葉を継いだ。
「もちろん、私どもも各地の特に危険な指定区域については監視センサーと巡回を強化しておりますが、日本全国に点在するすべての廃墟や山間部を、日没から深夜まで物理的に100パーセント封鎖し切ることは不可能です。
今夜、霊障が人間の脳と命をどう壊すのかを何一つ知らないまま、軽い遊び感覚で本当に危険な区域の境界を踏み越えてしまう若者が出てくる前に――政府の権威をもって『絶対に近づくな、命に関わる』という強い警告を、今すぐ出しておく必要があるのです」
午後二時三十分。
真柴と霧島の切迫した、そして一点の隙もない説明を前に、内閣官房の参事官はもはや迷わなかった。
「……分かりました。具体的な場所の特定につながる情報は一切伏せ、一般的な安全上の緊急警告として、本日夕刻、内閣官房および八咫烏の連名で全国向けの公式注意喚起を発出します! 報道各社にも夕方のニュース枠で必ず読み上げるよう要請しましょう!」
*
午後五時ちょうど。
日が沈み、週末の夜の気配が漂い始めた日本列島に、内閣官房、八咫烏および警察庁の連名による『緊急の注意喚起』が、政府公式ポータル、公式Xアカウント、ならびにNHKや民放各局の夕方のニュース番組を通じて一斉に配信された。
――――――――――――――――――――
【内閣官房・八咫烏より緊急の注意喚起:心霊事象および危険区域への立ち入りについて】
先般の公表以降、いわゆる「心霊スポット」とされる廃墟や立入禁止区域への訪問・撮影を計画する動きが一部で確認されております。国民の皆様におかれましては、以下の事実を重く受け止め、危険な行為を厳に慎んでいただくよう強く警告いたします。
1.霊障は「生命および精神」に対する重大な危険を伴います
日本国内の一部の地域や建造物において、霊的な事象(悪霊化した個体や異常な霊的環境)による重大な人的被害が現実に確認されています。これらとの接触は、単なる恐怖体験にとどまらず、「死亡」「重傷」、または「認知・精神機能への深刻かつ不可逆的な障害(正常な判断力の喪失等)」を引き起こす場合があります。
2.興味本位での立ち入り・撮影は絶対におやめください
廃墟、閉鎖施設、および立入禁止区域への無断侵入は法令に違反するだけでなく、外部から安全確認が困難な極めて危険な行為です。特に本日(11月13日)夜間にかけて関連する動画配信等を計画されている方は、直ちに中止してください。
3.異常を感じた場合は
万が一、不審な現象や体調・認識の異変を感じた場合は、決して自ら確認や撮影を続けようとせず、速やかにその場から離れてください。生命や身体に危険が迫っている場合は、Webの相談窓口ではなく、直ちに警察(110番)または消防(119番)へ通報してください。緊急性のないご相談は、八咫烏総合相談窓口で受け付けます。
――――――――――――――――――――
これまで「能力者の権利保護」や「江戸時代の歴史史料」といった比較的穏やかなトーンの発表を続けてきた日本政府と八咫烏が、初めて『死亡』『精神機能への深刻な障害』『直ちに中止せよ』という極めて強い言葉を使って出したこの警告は、夕方のネット空間に小さからぬざわめきを広げた。
【5ちゃんねる & X(Twitter):政府の緊急警告に対する夕方の反応(17:30 JST)】
@news_watcher_tk
おい、内閣官房と八咫烏の公式アカウントから、めちゃくちゃガチなトーンで「心霊スポットには絶対に近づくな、死亡や深刻な精神障害になるぞ」って緊急警告が出たぞ……。
今日が「13日の金曜日」だから、YouTuberとかが凸するのを本気で警戒してるっぽい。
↳ @normal_citizen_01
「正常な判断力の喪失や死亡を引き起こす場合があります」って、政府の公文書に書かれると冗談抜きで怖すぎるんだが……。俺は絶対に近づかんわ。
↳ @curious_teen_99
でもさあ、これ逆に言えば「日本の心霊スポットと呼ばれてる廃墟の中には、ガチで本物のヤバい幽霊がいる場所が実在します!」って政府が公式に認めたってことだよな!? どこなんだろう、めちゃくちゃ気になるじゃん!
↳ @adult_voice_jp
>>@curious_teen_99
だからそういう奴が出るから場所を伏せて警告してんだよ!「命に関わるからやめろ」って日本語が読めないのか!? クマ出没注意の看板を見て「本物のヒグマがいるなら見に行こうぜ!」って丸腰で山に入るバカと同じだぞ、絶対に行くなよ!
多くの良識ある市民や、まともな危機感を持つ配信者たちは、この政府の異例の警告を見て「うわ、やっぱりガチで危ないんだな、今夜の企画は中止して部屋で怪談トーク配信に切り替えよう」と賢明に計画を取りやめた。
――だが。
一億二千万人の人間がいれば、どれほど強い言葉で「危険だから入るな」と警告されようとも、「みんながビビって中止した今夜だからこそ、俺たちが本物を撮れば日本で一番バズる!」と都合よく解釈してアクセルを踏んでしまう人間が、どうしても現れるのだった。
*
同日、午後八時四十五分。
東京から北へ車で二時間半ほど走った、関東北部・某県の山間部。
街灯一つない暗い県道からさらに細い未舗装の林道を分け入った中腹に、その巨大なコンクリートの塊――『旧・白鷺山(しらさぎやま)観光保養所』の廃墟は、黒い森に呑み込まれるようにしてひっそりと佇んでいた。
一九七〇年代の高度経済成長期に建設され、バブル崩壊後の二〇〇〇年代初頭に閉鎖されてから二十年以上が経過した、鉄筋コンクリート造・地上四階、地下一階の大型宿泊施設である。
周囲には身長を超える高さの有刺鉄線付きの金属フェンスが張り巡らされ、入り口のゲートには太い南京錠と鎖が巻かれ、県と管理者の連名で『危険! 建物崩落および有害物質の恐れあり・立入厳禁(監視カメラ作動中)』という真新しい警告看板が何枚も打ち付けられていた。
地元では昔から「夜中に近づくと誰かに名前を呼ばれて帰れなくなる」「肝試しに入った大学生が精神に変調をきたして病院に運ばれた」という不気味な噂が絶えない有名な心霊スポットだったが、表向きはただの危険廃墟として扱われてきた場所だ。
しかし実際には、この旧白鷺山保養所は、八咫烏の心霊事象部門の内部台帳において『管理コード:関東北-09(旧区分・第2種霊的汚染封鎖区域)』として登録されている、正真正銘の危険区域だったのである。
かつてこの土地の地脈の澱みと複数の死者の怨念が結びついて発生した「特殊な空間・精神干渉型の霊的存在」を、八咫烏の術者たちが外へ出られないように建物ごと二重の境界結界で封じ込めて管理していた場所だ。外周の結界とフェンスによって「中の怪異が外の町へ出てくること」は完全に防がれているが、もし外から生身の人間が物理的にフェンスを破って「封じ込められた檻(建物)の内部」へと自分から入り込んでしまえば、その安全は一切保証されない。
そして今、午後八時五十分。
その建物裏手の、倒木によって金属フェンスと境界の杭がわずかに歪んでいた斜面から、三つの懐中電灯の光が、枯れ葉を踏みしめて敷地内へと忍び込んでいた。
「――よっし、裏の斜面からなんとか入れたぞ! おい拓海、配信用のモバイルルーターの電波、ここで何本立ってる?」
「えーと……あ、ギリギリ4Gと5Gのアンテナが立ってるわ。建物の入り口付近から中盤までなら、高画質のままラグなしで生配信いけるぞ、健」
懐中電灯を片手に息を弾ませているのは、動画配信サイトでチャンネル登録者数四万人ほどを抱える心霊・廃墟探索系チャンネル『ミッドナイト・バスターズ』を運営する二十代後半の男女三人組だった。
先頭を歩くリーダーで企画・進行役の男、一ノ瀬健(いちのせ・けん・二十七歳)。黒のナイロンパーカーを着て、少しでも登録者数を増やして専業配信者として一発当てようと常に目をギラつかせている、明るくノリの軽い青年だ。
その後ろで、プロ仕様の暗視機能付き高感度ビデオカメラとジンバル(手ブレ防止装置)、そして配信エンコーダーを接続したスマートフォンを抱えているのが、撮影・技術担当の緒方拓海(おがた・たくみ・二十六歳)。機材オタクであり、心霊現象そのものに対しては「どうせ光の反射か気のせいだろ」と懐疑的なリアリストである。
そして最後尾で、予備のバッテリーと救急ポーチの入ったリュックを背負い、周囲の暗い森と建物の不気味な威圧感に顔をこわばらせているのが、同行スタッフ兼・音声確認役の女性、滝沢由梨(たきざわ・ゆり・二十七歳)。三人の中では一番常識的で慎重な性格だった。
彼らは一週間前から、この「13日の金曜日の旧白鷺山保養所・生配信」をチャンネルの目玉企画として予告していた。
割れた一階のロビー窓の近くで機材をセットする健に向かって、由梨は自分のスマートフォンに表示された「夕方の内閣官房・八咫烏の緊急注意喚起」の画面を見せ、不安そうな声で言った。
「……ねえ、健、拓海。やっぱり今夜は中に入るのやめといた方がよくない? ほら、夕方五時に政府と八咫烏から『心霊スポットには絶対に近づくな、死亡や深刻な精神障害になる』って公式の警告が出たばっかりじゃない。それに、表のフェンスにもあんなに厳重に立入禁止って書いてあったし……」
「何言ってんだよ由梨、逆だって、逆!」
健は小型のピンマイクを自分の襟元につけながら、白い歯を見せて笑った。
「夕方にあの政府の警告が出たおかげで、他のビビりな心霊系YouTuberどもが今夜の生配信を軒並み中止にしたんだぞ! おかげで今、俺たちの配信待機枠に、普段の十倍近い『3,200人』も視聴者が集まってるんだよ!
それにさ、俺たちはこの三年間で全国五十箇所近い心霊スポットや廃墟に突撃してきたけど、本物の幽霊なんてただの一回も出なかったじゃねえか。どうせ本当にヤバい場所なんか日本に数えるほどしかないって。もし万が一、今夜ここで本物の『存在痕跡』がカメラにチラッとでも映ってみろ、明日には再生数百万回突破で一気にトップ配信者の仲間入りだぜ!」
「まあ、俺も今まで一回も幽霊なんか見たことないし、一階と二階の廊下をぐるっと三十分だけ回って、何もなけりゃすぐ撤収すればいいだろ」
拓海もカメラのホワイトバランスを調整しながら頷いた。
「でも……」
「大丈夫だって由梨! 俺たち三人一緒なんだし、少しでもヤバい空気を感じたら一秒で外に逃げるって約束するからさ! なっ?」
健にそう言われ、由梨は「……うん。少しでも変な音がしたり気分が悪くなったりしたら、絶対にすぐ戻るからね」と自分に言い聞かせるように頷いた。
彼ら三人は、決して根っからの悪人でもなければ、自殺志願者でもなかった。ただ、「今まで五十回行って何も起きなかったのだから、五十一回目の今夜も大丈夫だろう」という正常性バイアスと、目の前のバズりへの欲に目が眩んだ、どこにでもいる少し軽率な若者たちに過ぎなかった。
午後九時ちょうど。
拓海が「よし、配信スタートするぞ。3、2、1……オンエア!」と合図を出し、スマートフォンの画面に赤い『● LIVE(同時接続:3,480人)』の表示が灯った。
*
「――はいどうもー! ミッドナイト・バスターズの健と、カメラの拓海、スタッフの由梨でーす! 皆さん、今夜は待ちに待った十一月十三日、そう、『13日の金曜日』でございまーす! しかも今年は、政府がついに幽霊の実在を認めた記念すべき歴史的な年ということで、今夜はここ、北関東最恐と噂される某・巨大廃保養所の前から完全生中継でお届けしていまーす!」
カメラのLEDライトに照らされた健が、ハイテンションな笑顔で手を振る。
後ろに立つ由梨が「ちょっと、記念すべきって言い方は不謹慎でしょ」と苦笑いでツッコミを入れると、配信画面の右側に流れるライブチャット欄が、いつもの明るいノリのコメントで一気に埋まり始めた。
【YouTube ライブ配信チャット欄(21:02 JST / 同接 3,850人)】
> 名無しA:きたああああああ!!
> 名無しB:13日の金曜日にガチ心霊配信は草
> 名無しC:夕方、政府と八咫烏から「心霊スポット行くな」って警告出てたのに行くのかよwww
> 名無しD:他の大手配信者が軒並み日和って中止にしたから、今夜ここ一択だわw
> 名無しE:場所どこ? 建物の形で特定班にはもうバレてるかな?
> 名無しF:どうせいつものやらせ(仕込み)だろ〜?
> 名無しG:もし今夜ガチの本物の幽霊(存在痕跡)が映ったら、チャンネル登録とスパチャ1万円投げるわww
チャット欄の「どうせやらせだろ」というコメントを読んだ撮影担当の拓海が、カメラの後ろから少し得意げな声を出した。
「おいおいリスナーのみんな、うちを他のやらせチャンネルと一緒にするなよな。今夜は見ての通り、最初から最後までノーカット、編集なし、エフェクトなしの100%完全リアルタイム生配信だからな。先発のスタッフも現地には一人も入れてない。もし今夜このカメラに何か映ったら、それは加工なしの全部そのままの映像として全世界に流れるってわけよ」
拓海のその言葉に、『おお、言うねえ!』『期待してるぞ!』とチャット欄が沸く。
三人は一階の割れた窓枠を跨ぎ、懐中電灯とカメラ用の強力LEDライトを点灯させて、廃保養所の建物内部――かつてフロントロビーだった広間へと足を踏み入れた。
午後九時五分から九時十五分までの最初の十数分間は、文字通り「いつもの何の変哲もない廃墟探索配信」そのものだった。
剥がれ落ちて垂れ下がった壁紙。湿気とカビの匂い。床一面に散乱したガラスの破片や、昭和の時代の古い観光パンフレットの残骸。電気はもちろん通っておらず、三人のライトの光が切り取る円形の範囲の外側は、すべて墨を塗り潰したような深い闇に沈んでいる。
「うわあ、見てくださいよこのフロントの朽ち方! めちゃくちゃ雰囲気ありますねえ!」
「足元気をつけてよ健、リノリウムのタイルが浮いてて滑りやすいから」
「心霊現象より、普通に床が抜けて怪我しないかの方が心配なんだよな……」
三人が軽口を叩き合いながら、一階のロビーを抜け、階段を上って「一番幽霊の目撃談が多い」とされる二階の長い客室廊下へと入った時だった。
幅二メートル半、奥行き五十メートル以上ある一直線の暗い廊下の両側に、古い木製のドアが並んでいる。
拓海がカメラのレンズを、廊下の一番奥の暗闇へと向けてゆっくりとパン(横振り)させた、午後九時十六分。
同時接続数が五千人を超えたチャット欄の中に、ぽつりと、こんなコメントがいくつか流れた。
> 名無しH:……ん? 今、廊下の右奥のドアの前に、誰か立ってなかった?
> 名無しI:え、どこ?
> 名無しJ:いや、俺には何も見えなかったぞ
> 名無しK:ライトの光の反射か、柱の影じゃね?
> 名無しH:いま巻き戻してスクショ撮ってみたけど、暗すぎてノイズしか分からんわ。気のせいか、すまんw
現地を歩いている健たち三人は、画面の端を流れたその小さなコメントには気づきもしなかった。
最初の「明確な異変」が起きたのは、その三分後――午後九時十九分のことだった。
二階の廊下の中ほど、『208号室』という錆びたプレートがかかった客室の扉の前を三人が通り過ぎようとした時。ドアは少しだけ隙間が開いており、中は真っ暗だった。
拓海が何気なくカメラをその扉の隙間へと向けた、その瞬間。
誰も触れていないし、風も吹いていないはずの廊下の奥――あるいはすぐ後ろの空間から、ひどく平坦で、感情の抑揚がない小さな声が、ふっと空気を震わせた。
『…………おかえり』
ピタリ、と。
前を歩いていた健の足が止まった。
後ろにいた由梨と拓海も、同時に足を止めた。
「…………え?」
健が振り返り、拓海と由梨の顔をライトで照らした。
「……おい、今、誰か何か言ったか?」
「えっ……? 健が言ったんじゃないの?」
由梨が目を丸くして聞き返し、カメラを構えた拓海も首を横に振った。
「いや、俺も今一言も喋ってないぞ。カメラの指向性マイクにも、はっきり声が入ってたけど……」
三人の間に一瞬の緊張が走ったが、リーダーの健はすぐに「撮れ高が来た!」とばかりにニヤリと笑い、わざと明るい大声を張り上げて廊下の奥へ呼びかけた。
「おーっと!? リスナーの皆さん、今の聞こえましたか!? もしかしてここの幽霊さん、俺たちのことを歓迎して『おかえり』ってお出迎えしてくれたんですかねー!? お邪魔してまーす!」
【YouTube ライブ配信チャット欄(21:20 JST / 同接 5,400人)】
> 名無しL:今の声はハッキリ聞こえたぞ!
> 名無しM:「おかえり」って言ったよな!?
> 名無しN:おいおい、奥の部屋に先回りで仕込みのスタッフ隠してるんだろww
> 名無しO:イヤホンで聴いてたからゾクッとしたわ、音響効果うまいなw
チャット欄はまだ半分以上が「仕込み(やらせ)だろう」と面白がっていた。
だが――その直後、健の後ろでマイクの音声モニター用のイヤホンを片耳につけていた由梨が、ひどく奇妙な顔をして眉をひそめ、小さな声で二人に尋ねた。
「……ねえ、拓海。今の『おかえり』っていう声……ちょっと変じゃなかった?」
「変って、何がだよ?」
「今の声、女の人の高い声だったよね?」
拓海は、何を言っているんだという顔で頷いた。
「ああ、若い女の声に聞こえたけど。それがどうしたんだよ?」
すると、前で聞いていた健が、きょとんとした顔で二人を振り返って言った。
「……は? お前ら何言ってんの? 今の声、どう聞いても低い『おっさん(男)の声』だったろ?」
「…………え?」
由梨の背中が、ゾクリと粟立った。
するとさらに、スマートフォンのチャット欄を見つめていた拓海が、「……おい、ちょっと待て。チャット欄のコメント見ろよ」と画面を指差した。
> 名無しP:今の「おかえり」、小さい子供の声だったよな?
> 名無しQ:えっ、お婆ちゃんのしゃがれ声じゃなかったか!?
> 名無しR:いや若い女の声だったって! なんでみんな聞こえてる声が違うんだよ!?
同じ一つの物理的な音声データを聞いているはずなのに、現場にいる三人の間でも、画面の向こうの五千人の視聴者の間でも、「男」「女」「子供」「老人」と、脳内で再生された声の認識がバラバラに食い違っていたのである。
*
午後九時二十二分。
少し気味の悪さを感じた由梨が「ねえ、やっぱりなんか気持ち悪いよ、そろそろ一階に戻らない?」と声をかけたが、同時接続数が一気に『8,200人』まで跳ね上がったのを見た健は、「何言ってんだよ、今やめたら『仕込みがバレて逃げた』って言われるだろ! あと十分、この二階の突き当たりの大広間まで行って何もなかったら帰るから!」と、ライトを向けてさらに廊下の奥へと足を進めてしまった。
そして午後九時二十四分。
前を歩く健と由梨の背中を追いかけながら、拓海が一度、後ろの階段方向を確認しようとカメラごとぐるりと振り返った、その瞬間だった。
カメラの強力なLEDライトが、三人が今歩いてきたばかりの暗い廊下を照らし出す。
そのライトの光の輪のすぐ外側――三人からわずか四メートルほど後ろの、剥がれた壁紙の廊下の端のところに。
先ほどそこを通った時には間違いなく誰もいなかったはずの場所に、『四人目の誰か』が、壁に背を預けるようにしてピタリと立っていた。
現場の拓海は、カメラをすぐに前へと戻してしまったため気づかなかった。
だが、高感度の暗視補正がかかった生配信の画面を見ていた八千人の視聴者の目には、その「黒いシミのような、細長い人間のシルエット」が、一秒間だけ鮮明に焼き付いたのだ。
【YouTube ライブ配信チャット欄(21:24 JST / 同接 8,900人)】
> 名無しS:待て
> 名無しT:おい今の後ろ!!!!
> 名無しU:右後ろの壁際に4人目いたぞ!!!!
> 名無しV:えっ!?
> 名無しW:黒い服着た誰かが直立してなかったか!?
> 名無しX:スタッフだろ? なあスタッフだって言ってくれよ!
> 名無しY:いやこいつら最初から3人組だぞ、車のシーンでも3人しか乗ってなかった!!
> 名無しZ:おい健、うしろ!! 後ろに誰かいるぞ!!
チャット欄が猛烈な速度で『後ろ!!』『4人目いる!!』という赤い文字で埋め尽くされるのを見て、健が足を止めてスマートフォンを覗き込んだ。
「えー、なになに? 『後ろに4人目がいた』? あはは、またまたー、お前ら俺たちをビビらせようとしてそういうコメント連投するのやめろって!」
健は笑いながらくるりと後ろを振り返り、自分の懐中電灯で四メートル後ろの廊下を照らし出した。
由梨も怯えながら後ろを見る。
――そこには、誰もいなかった。ただ剥がれた壁紙と、埃の積もった床があるだけだ。
「ほら見ろ、誰もいねえじゃんか! お前らが見たのは壁の染みか影だって!」
健がケラケラと笑い、由梨も「脅かさないでよもう……」と胸を撫で下ろした。
ところが。
チャット欄の視聴者たちの反応は、健の笑い声とは正反対のパニックに陥っていた。
> 名無しA1:嘘つくな、今カメラがもう一回後ろ向いた時も、同じ壁のところに立ってるじゃねえか!!
> 名無しB2:えっ!? なんで健と由梨には見えてないの!?
> 名無しC3:おいカメラマンの拓海、カメラの液晶モニター見ろよ! 画面の右端にバッチリ映ってるぞ!!
「……あん? カメラのモニターに映ってるって?」
拓海は眉をひそめ、自分が両手で構えているビデオカメラの小さな液晶モニターに目を落とした。
しかし、拓海が液晶画面に視線を向けたその瞬間だけ、液晶の中の廊下には何も映っておらず、「なんだよ、モニターにも誰も映ってねえぞ、お前らのスマホのバグだろ」と拓海は首をかしげた。
現場の三人には、肉眼でも液晶でも「見えていない」。
それなのに、配信サーバーを経由して送られてくる映像を見ている視聴者の画面にだけは、廊下の壁際に立つ『それ』がずっと映り続けていたのである!
しかも、配信を30秒巻き戻して一時停止した視聴者が、X(旧Twitter)にそのスクリーンショット画像を貼り付けたことで、さらなる戦慄が走った。
拡大された静止画の中の『4人目』は、古びた灰色の服を着た人間の形をしていたが、首から上の「顔があるべき場所」に目も鼻も口もなく、そこだけがまるで底なしの穴でも開いているかのように、不自然な真っ黒の暗闇として塗り潰されていたのだ。
午後九時二十七分。同時接続数は口コミで急増し、一万五千人を突破していた。
それまでの「やらせだろw」という空気は完全に消え失せ、チャット欄には『マジでヤバいってこれ』『冗談抜きで今すぐ外に出ろ!!』という悲鳴のようなコメントが並び始めていた。
だが、自分たちの目には何も見えていない健たちは、視聴者の必死の警告を「リスナーがノリで盛り上げてくれている」と勘違いしたまま、廊下の突き当たりにある二階の大広間(旧宴会場)の入り口の前へと到達してしまった。
そこで、拓海がカメラを廊下の振り返り方向――自分たちが歩いてきた一本道の真ん中へと向けた、まさにその時だった。
今度は、壁際ではなかった。
幅二メートル半の廊下の、文字通り「ど真ん中」。三人からわずか三メートルしか離れていない至近距離に、あの顔の部分が真っ暗な穴になった古びた服の『何か』が、音もなく立ち塞がっていた。
さらに異常だったのは、映像の「物理的な見え方」そのものだった。
拓海が持つ手持ちのカメラは、彼の呼吸や足元の動きに合わせてわずかに上下左右に揺れている。背景にある廊下の壁やドア、天井の染みは、カメラの動きに合わせて普通に揺れ動いている。
それなのに――画面の中央に立つその『顔のない人影』だけが、まるで視聴者のスマートフォンのガラスの裏側に直接張り付いてでもいるかのように、カメラがどれだけ揺れても1ミリも座標がブレず、画面のど真ん中にピタリと固定されたまま映り続けていたのである!
【YouTube ライブ配信チャット欄(21:27 JST / 同接 18,500人)】
> 名無しD4:な、なんだあれ
> 名無しE5:おいおいおいおいおい
> 名無しF6:真ん中にいる!! すぐ目の前に立ってるぞ!!
> 名無しG7:カメラが揺れてるのに、あいつだけ画面の真ん中で微動だにしてないぞ!? どういう映像処理だよこれ!?
> 名無しH8:生配信でこんなリアルタイム合成できるわけねえだろ、本物だ!!
> 名無しI9:顔がない、顔のところが真っ黒で奥行きがどうなってるのか分からん……見てるだけで吐き気がしてきた
> 名無しJ0:もう帰れ!! お願いだから今すぐ窓から飛び降りてでも逃げろ!!
その時、カメラのファインダーと液晶モニターを交互に見ていた撮影担当の拓海が、初めて「……あれ?」と低く掠れた声を漏らした。
「どうしたの、拓海?」
由梨が不安そうに尋ねる。
「……いや、なんか今、カメラのピントが……真ん中に何かあるような気がするんだけど、見ようとすると目が滑って、何が映ってるのかよく分かんねえんだ……」
*
午後九時二十八分。
決定的な崩壊は、一番前を歩いていたリーダーの健から始まった。
「……よし、じゃあこの大広間の中を最後に映して――」
と言いかけた健が、廊下の突き当たりの暗闇を見つめたまま、突然、電池が切れた人形のようにピタリと足を止めた。
懐中電灯を持った彼の右腕が、だらりと横へ下がる。
「……健? どうしたの?」
由梨が後ろから声をかけた。
返事がない。
拓海もカメラを向けたまま眉をひそめ、「おい、健。聞こえてるか? 寒いしもう戻るぞ」と肩に手を伸ばしかけた。
すると。
暗闇を見つめていた健の口元が、ふっと緩み、まるで久しぶりに地元の懐かしい溜まり場にでも帰ってきたかのような、ひどく穏やかで嬉しそうな微笑みを浮かべたのである。
「……ああ。なんだ、ここにいたんだ」
健が、優しい声でそう呟いた。
由梨の顔から、サーッと血の気が引いた。
「……え? だ、誰がいたの、健……?」
「誰がって……『みんな』だよ」
「……みんな……?」
「うん。ほら、あそこの広間の奥に、たくさんいるじゃん。みんな席に座って、俺たちのこと待っててくれたんだよ」
拓海が慌てて強力なLEDライトを大広間の奥へと向けた。
ライトの光が照らし出したのは、畳が腐って抜け落ち、天井の石膏ボードが崩れ落ちて瓦礫の山になっている、誰もいない荒れ果てた廃墟の空間だけだった。人間など一人もいないし、座る椅子すら存在しない。
健だけは、その荒れ果てた暗闇に向かって、久しぶりの友人に会えたように何度も嬉しそうに頷いていた。
「……あれ? 拓海、由梨、お前らには見えないの? ほら、あんなにたくさん人がいて、こっちへおいでって手振ってるのに」
「ふ、ふざけるのやめろよ健!! ドッキリならもう十分だろ、誰もいねえよ、今すぐ帰るぞ!!」
拓海が怒鳴り声を上げた。
ところが、健は拓海の方を振り返り、なぜ親友がそんな風に怒っているのか心の底から理解できないといった顔をして、クスクスと笑い始めた。
「……帰る?」
「そうだよ、外に出るんだよ!」
「……なんで?」
「なんでって、ここ廃墟だぞ!」
「変なこと言うなよ拓海。だってほら、周りのみんなも『もう帰らなくていいよ、ずっとここにいようよ』って言ってるよ?」
その健の、焦点の合っていない穏やかな笑顔と、あまりにも自然な口調を聞いた瞬間。
由梨は、これが再生数稼ぎの演技やドッキリなどでは絶対にないことを悟り、全身が氷水に浸けられたような本物の恐怖に震え上がった。
「いやあああっ、健、やめてよ!! 目覚まして、もう帰ろう、本当にやばいってここ!!」
由梨は泣き叫びながら健のパーカーの左腕に両手でしがみつき、階段の方向へと必死に引っ張った。
だが、健は振り払おうとして暴れることすらしない。ただ、由梨が泣き叫んでいる声そのものが耳に届いていないかのように、ニコニコと微笑んだまま、大広間の奥の暗闇へと向かって、ゆっくりと一歩、また一歩と歩き出し始めたのである。
「おい健、止まれって言ってんだろ!!」
拓海も片手でカメラを抱えたまま、もう片方の手で健の右肩を後ろから強く掴んで引き戻そうとした。
男二人の力でも、まるで夢遊病者のようにリミッターの外れた力で前へ進もうとする健の足取りは重い。健は二人を振り返り、本当に不思議そうに首を傾げて言った。
「……二人とも、さっきからどうしたの? そんなに引っ張らなくても、すぐそこが『明るい外の出口』なんだから、一緒に行こうよ」
健が笑顔で指差した先。
拓海と由梨の目が見開かれた。
健が「明るい外の出口だ」と言って真っ直ぐ向かっているその三メートル先の床は、火災と老朽化によって二階のコンクリートスラブが直径四メートル以上にわたって完全に崩落しており、一階のボイラー室跡の剥き出しの鉄骨とコンクリートの瓦礫へと真っ逆さまに落ちる『巨大な大穴(奈落)』が開いていたのだ!
拓海には、その黒い大穴がはっきりと見えている。
「バカ野郎、そこは出口じゃねえ、床が抜けて穴が開いてんだ!! 止まれ健!!」
拓海が必死に叫び、カメラを脇に抱え直して両手で健の胴体を羽交い締めにしようとした、その一瞬の隙だった。
健が「くすぐったいってば、拓海」と笑いながら、驚くほどの力で拓海の腕をスルリと振りほどき、大穴の縁へとタタッと二歩駆け出したのである。
「おい、待てえええええっ!!」
「健っ!!」
穴の縁に立った健が、後ろの二人を振り返って微笑んだ。
「大丈夫だって。ほら、下でみんなが待ってるし――」
「そこは床がないって言ってるだろ!!」
「……え?」
健の右足のスニーカーが、何もない虚空へとそのまま踏み出された。
ふわり、と彼の身体が前方に大きく傾く。
由梨が喉が裂けるような悲鳴を上げ、拓海が咄嗟に前へ飛び出して手を伸ばしたが、その指先は健のパーカーのフードをかすめただけで、空を切った。
一瞬だけ、健の顔から微笑みが消え、「……あ?」というきょとんとした表情が浮かんだ直後――彼の身体は、真っ暗な奈落の底へと音もなく吸い込まれるように落下していった。
一秒後。
階下の暗闇の底から、ドシャァァァンッ、ガシャンッ!! という、肉体と鉄骨と瓦礫が激突する、鈍く、重く、取り返しのつかない破壊音が建物全体に響き渡った。
そして、完全な静寂が落ちた。
「…………け、健……?」
穴の手前で四つん這いになった拓海が、震える声で下の暗闇に向かって呼びかけた。
返事はない。うめき声一つ聞こえない。
「健っ!! おい、健、返事しろよ!! 健ぇぇぇっ!!」
由梨が穴の近くで膝をつき、「いやあああああっ!! 嘘でしょ、健、健っ!!」と半狂乱で泣き叫ぶ。拓海がライトで穴の下を照らそうとするが、深さと瓦礫の影になっていて、底の様子は真っ暗で何も見えなかった。
午後九時三十五分。
楽しいはずだった13日の金曜日の肝試し配信は、二万五千人の視聴者が見守る目の前で、突如として現実の「重大死傷事故」へと変貌した。
*
健が暗闇の穴へと転落し、階下から鈍い衝突音が響いた瞬間。
二万五千人が接続していたライブ配信のチャット欄から、それまで残っていた一切の軽口や冗談が、文字通り一文字残らず消え失せた。
【YouTube ライブ配信チャット欄(21:35〜21:38 JST / 同接 32,000人へ急増)】
> 名無し:おい!!!!!!
> 名無し:落ちたぞ!?!?
> 名無し:今の音、マジのやつじゃねえか!?
> 名無し:おい嘘だろ、下は1階のコンクリと鉄骨だぞ、5メートル以上あるぞ!!
> 名無し:健から全然声がしない……おい、誰か今すぐ110番と119番に通報しろ!!
> 名無し:配信なんかやってる場合じゃねえ、カメラ切って救急車呼べ!!
> 名無し:嘘だよな? 下にマット敷いてあるドッキリだよな!? なあ、誰かドッキリだって言ってくれよ……
> 名無し:由梨ちゃんの泣き方と拓海の震え方見ろよ、演技なわけねえだろ!!
> 名無し:ていうかお前ら、画面の左奥を見ろ……健が落ちた穴のすぐ横の暗闇に、まだあの「顔のない黒い奴」が突っ立ってこっち見てるぞ……!!
画面の向こう側――日本全国の自宅の部屋やマンションで、スマートフォンやパソコンのモニターを通じてこの生中継を見ていた何万人もの視聴者たち自身にも、かつて経験したことのない生理的な恐怖とパニックが伝播していた。
今まで彼らがネットで見聞きしてきた超常現象は、渋谷のヒーローであり、ニューヨークの魔法使いであり、ヨーロッパの優しい母親の幽霊であり、徳川家康や大企業のコスト削減という、どこか明るく頼もしいニュースばかりだった。
だが、今目の前の画面に映し出されているのは、そんな人間に都合のいいファンタジーではない。
理由は分からないまま脳を狂わされ、何もない穴を「出口だ」と信じて笑いながら飛び降りていく人間と、そのすぐ横の暗闇で、顔のない黒い影がただ無言で立ち尽くしているという、理解も対話も一切不可能な「本物の怪異の悪意」だった。
都内のアパートで一人で配信を見ていた男子大学生は、画面の中で健が落ちた音を聞いた瞬間、自分の指先がガタガタと震えてスマートフォンの画面をうまくタップできなくなっていることに気づいた。心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく早鐘を打ち、息が浅くなって冷や汗が噴き出す。彼はたまらずブラウザを閉じ、部屋中のシーリングライトとテレビの明かりをすべて最大にして布団にくるまった。
別の視聴者は、息苦しさに耐えかねてイヤホンを外した。部屋を明るくしても、暗い廊下の真ん中に貼りついていたあの黒い顔だけが、目の奥から消えてくれなかった。
【X(Twitter)& 5ちゃんねる緊急実況スレ(21:38 JST)】
@emergency_call_jp
ミッドナイト・バスターズの生配信、これガチの重大事故だ!!
場所特定した、〇〇県〇〇市の『旧・白鷺山保養所』だ! 110番と119番に通報して、配信のURLも伝えた!! 八咫烏には警察・消防から連絡が行くはずだ!
↳ @watcher_0913
俺も今110番した、通信指令室の人が「すでに同じ配信を見た方から多数の通報が入っており、警察・消防の出動手配と専門機関への連絡を進めています」って言ってた!
おい、近くに住んでる奴、絶対に面白半分で現場に見に行ったり助けに行こうとしたりするなよ! 素人が入ったら同じように頭おかしくなって落ちるぞ、警察と八咫烏のプロに任せろ!!
↳ @pale_face_man
……おい、みんな思い出せよ。
今日の夕方5時に、政府と八咫烏が連名で出したあの緊急警告の文章。
『霊障は死亡や、認知・精神機能への深刻な障害(正常な判断力の喪失等)を引き起こす場合があります』『興味本位での立ち入り・撮影は絶対におやめください』。
……八咫烏が言ってたの、1ミリも大げさなんかじゃなく、文字通り「このこと」だったんじゃないか……!!
*
午後九時四十分。旧白鷺山保養所・二階。
まだ配信が繋がったままの現場では、さらなる悪夢が進行していた。
「……くそっ、くそっ、1階へ降りる階段はどこだ!? 早く下に降りて健を助けねえと……!」
拓海はパニックで涙と鼻水を流しながら、片手でカメラを握りしめ、もう片方の手で穴の縁から立ち上がろうとした。
隣にいた由梨も、泣きながらスマートフォンで119番に電話をかけようとしていたが、手が震えて画面をうまく押せず、とりあえず二人は元来た廊下を引き返して階段を探そうと、大広間の前から廊下へと数歩戻った。
その時だった。
拓海のすぐ後ろを歩いていた由梨の足が、廊下の真ん中で、ピタリと止まった。
「……由梨? おい、どうした、早く階段へ行くぞ!」
拓海が振り返って声をかけた。
だが、由梨は拓海の方を見ていなかった。
彼女は、誰もいない真っ暗な廊下の横――扉が閉まったままの古い客室の壁の方角を、虚ろに開いた目で見つめたまま、微動だにしなくなっていた。
「……ねえ、拓海。……いま、誰か……」
「え? 何がだよ!?」
「……いま、あっちの部屋の奥から、私の名前、呼ばれた」
拓海の全身の毛が逆立った。
「だ、誰も呼んでねえよ!! 気のせいだ、耳を塞げ由梨!!」
しかし、由梨はゆっくりと首を横に振った。
「……ううん、違うの。だって今の声……すごくよく知ってる、懐かしい人の声なの」
「知ってる人って、誰の声だよ!?」
「……分からない」
由梨は、泣き濡れた顔のまま、ひどく曖昧に微笑んでそう答えた。
由梨の足が、ふらり、と声の聞こえる暗い客室の方へと向かって一歩踏み出された。
「行くな!! そっちへ行ったら健みたいになるぞ、目を覚ませ由梨!!」
拓海が悲鳴のような声を上げて飛びつき、由梨の細い手首を力任せに掴んで引き戻そうとした。
「いや、離してよ……だって、あっちで呼んでるの……行かなきゃいけないの……」
「だから誰が呼んでんだよ!? あっちには誰もいねえよ!!」
「……分かんないよ……でも、待ってるって……」
錯乱状態の由梨と、それを必死に止めようとする拓海が廊下でもみ合いになった、その拍子だった。
拓海が脇に抱えていた配信用のビデオカメラとスマートフォンが、彼の手から滑り落ち、ゴトン、ガシャンッ! と音を立てて廊下の床の上へと転がり落ちた。
幸か不幸か、頑丈なケージに守られたカメラと配信機材は壊れなかった。
床に横倒しになったカメラのレンズとLEDライトは、低い床面のアングル(ローアングル)から、廊下の中央を真っ直ぐに照らし出す「固定カメラ」のような状態になった。
そして、画面の向こうの三万五千人の視聴者は、その床に落ちたカメラの映像を通して、決定的に「この世に存在してはならないもの」の姿を目撃してしまった。
画面の手前側には、床に踏ん張っている拓海のスニーカーとジーンズの足元が映っている。
その少し奥には、虚ろな目で立ち尽くしている由梨の足と、垂れ下がった手が見える。
そして――さらにその五メートル奥の廊下の中央に、あの『人影』が、カメラの強力なLEDライトの光を真正面から浴びて立っていたのである。
先ほどまでは逆光や暗がりでシルエットしか分からなかった。だが今、正面から光を浴びたその姿は、人間の輪郭をしているようでいて、細部のすべてが狂っていた。
着ている古い灰色の服の下から伸びる両腕が、膝の下に届くほど不自然に細長く、肘や手首の関節の曲がる角度が人間の骨格とは逆方向にねじれている。そして首の上にあるべき「顔」の位置には、やはり目も鼻も皮膚も存在せず、周囲のLEDの光を一切反射しない、底なしの真っ黒な「空間の欠落(穴)」がぽっかりと空いているだけだった。
次の瞬間。
その顔のない人影が、床に落ちたカメラと、揉み合っている拓海・由梨の二人へ向かって、ゆっくりと「近づき」始めた。
――ただし、『歩いて』ではない。
人影の両足は、床の上で揃えたまま1ミリも動いていないのだ。膝も曲がらなければ、足を前に踏み出す動作も一切ない。
それなのに、まるでコマ送りの映像の縮尺だけが狂っていくかのように、あるいは空間そのものがズルズルと手前に引き寄せられているかのように、廊下の壁の扉との位置関係を見れば明らかな速度で、その直立不動の人影と由梨たちとの距離だけが、五メートル、四メートル、三メートル、二メートルと、音もなく縮まっていく!
【YouTube ライブ配信チャット欄(21:42 JST / 同接 41,000人・阿鼻叫喚)】
> 名無し:なんだよあれ、なんだよあれええええええ!!
> 名無し:やめてくれ、もう見たくない!!
> 名無し:足が動いてないのに、滑るみたいに近づいてきてるぞ!!
> 名無し:おい拓海、カメラなんかいいから由梨ちゃん抱えて今すぐ後ろの窓から飛び降りろ!!
> 名無し:あれ絶対に人間じゃない、先日のフランスのライン川の幽霊とも全然違うぞ!!
> 名無し:警察と八咫烏はまだ着かないのかよ、早く助けてやれよ!!
> 名無し:本物だ……これが政府が言ってた「本物の心霊スポットの怪異」なのかよ……
現場の拓海と由梨は、自分たちのすぐ背後にまでその『顔のない何か』が迫っていることに、まだ気づいていなかった。
カメラの画面の中で、直立したまま滑るように移動してきたその人影が、由梨の背中の「わずか十センチ後ろ」でピタリと停止した。
人影の長い首が、ギシ、と関節の鳴るような角度でゆっくりと前に折れ曲がり、顔のあるべき真っ黒な暗闇の穴が、由梨の右耳のすぐ横へとぴたりと重なるように近づけられた。
「……っ、やだ……寒い、なにこれ、やだぁ……っ!」
由梨が突然、全身を小刻みに震わせて耳を押さえた。
「由梨!? どうした、しっかりしろ!!」
拓海には、由梨のすぐ後ろに立っている黒い影が見えていないのか、あるいは強い認識阻害によって脳が処理できていないのか、ただ由梨の肩を必死に揺さぶっている。
画面の中では、背後の影が、由梨の耳元で何かを「囁いて」いるように見えた。音声マイクには、ザァァァ……という砂嵐のような低いノイズしか入らない。
だが、その数秒後。
ガタガタと震えていた由梨の身体から、突然、すべての震えがピタリと止まった。
由梨は耳を押さえていた両手をゆっくりと下ろし、それまでボロボロと涙を流して怯えていた表情を、まるでスイッチでも切ったかのようにスッと消し去った。
そして、能面のように穏やかで、何の感情も宿っていない平坦な声で、ぽつりと言った。
「……ああ。そうだったんだ」
拓海の手が止まった。
「……由梨?」
「……私、最初からここが自分の家だったんだね。どこにも帰らなくて、よかったんだね」
「な、なに言ってんだよ由梨……! お前の家は東京だろ、俺たちと一緒に車で来たんだろ!?」
由梨は、ゆっくりと首を回して拓海の方を見た。
床のライトに照らされた由梨の瞳には、もう先ほどまでの恐怖も、悲しみも、そして目の前にいる拓海を「友人の拓海」として認識する人間らしい光すら、何一つ残っていなかった。ただ、空っぽのガラス玉のような目で拓海を見つめ、うっすらと微笑んでいる。
「……うわ、うわあああっ……!」
目の前で仲間の心が何かに完全に塗り潰されたのを見て、最後まで正気を保っていた拓海の精神も、ついに限界を超えた。
「……もう嫌だ、助けてくれ、誰か助けてくれえええっ!!」
拓海は恐怖で腰を抜かしながらも、由梨の腕を引っ張って後ずさりし、床のカメラを拾う余裕もなく逃げ出そうとした。
その瞬間。
誰も喋っていないはずの廊下の空間――床に転がったままのビデオカメラの集音マイクのすぐ真上から、こんな声が、驚くほどクリアな音量で響いた。
『……待って』
後ずさりしていた拓海の身体が、凍りついたように硬直した。
目の前の由梨の唇は、動いていない。
『……まだ、一人いるよ』
拓海は、息をすることすら忘れて立ち尽くしていた。
「…………は?」
『……三人で、来たんでしょう?』
画面の中で、由梨の背後に立っていたあの『顔のない人影』の首が、由梨の耳元から離れ、ギギ、と不自然な動きで、床に落ちているカメラのレンズ――そしてその奥で震えている拓海の方へと、真っ直ぐに向けられた。
次の瞬間。
ビビビビビッ、ザァァァァァァッ!!
配信画面全体に、かつてないほど激しいブロックノイズと磁気嵐のような乱れが走った。
カメラのマイクのすぐ数センチ先で、誰かが「フーッ……フーッ……」と冷たい湿った息を直接吹きかけているような不気味な呼吸音がスピーカーを揺らし、そして最後に、男とも女ともつかない、幾重にも重なった低い声がこう告げた。
『……ひとりも、帰さないよ』
ブツンッ!!
午後九時四十五分。
生配信の映像が、真っ黒になった。
【YouTube ライブ配信チャット欄(21:45 JST / 同接 46,000人)】
> 名無し:切れた!?
> 名無し:拓海は!? 由梨ちゃんは!?
> 名無し:頼む、誰か無事だって言ってくれ……
> 名無し:配信終わったのか?
だが、その数秒後。
真っ黒な画面の中央に、『接続を回復しました』という小さな文字が浮かび、途切れた映像が戻ってきた。
床に倒れたビデオカメラと配信端末は、強烈なノイズに一瞬だけ通信を乱されたものの、接続を自動で復旧していたのだ。赤い『● LIVE』の表示と視聴者数の数字は、再び動き始めていた。
映っているのは、廊下だけだった。
拓海も、由梨も、あの顔のない人影もいない。ひっくり返ったカメラのライトが、床と剥がれた壁紙を斜めに照らしている。
> 名無し:戻った!!
> 名無し:いや、誰も映ってない……
> 名無し:なんで誰もいないんだよ
> 名無し:配信、まだ続いてるぞ
> 名無し:お願いだから、もう誰も出てこないでくれ……
画面の右上で、経過時間の数字だけが一秒ずつ増えていく。
その夜の生中継は、まだ終わっていなかった。
*
午後九時四十六分。
健が転落した直後から、管轄の県警本部・通信指令室と消防の119番受付には、配信を見た全国の視聴者からの通報が殺到していた。八咫烏の心霊事象部門には、警察・消防との直通回線を通じて緊急情報が次々と送られていた。
『110番ですか!? 今YouTubeの生配信で、旧白鷺山保養所に入った3人組のうち1人が2階の穴から転落して、残りの2人も幽霊みたいなのに襲われて配信が切れました!!』
『演技じゃないです、画面に顔のない人間みたいなのがハッキリ映ってました! 早く助けに行ってあげてください!!』
先週までの警察であれば、「心霊動画の演出を本気にしたいたずら通報」として処理に時間を要したかもしれない。
しかし、二〇二六年十一月十三日の警察指令室は違った。すでに月曜日の会見で八咫烏との24時間直通連携システムが稼働しており、何より今日の夕方に「心霊スポットでの死亡・精神障害リスク」に関する政府警告が出されたばかりだったからだ。
県警本部の指令長は、即座に所轄署のパトカーと消防の救助工作車・救急車を現地麓の林道入り口へ急行させると同時に、ホットラインを通じて霞が関の『八咫烏・心霊事象部門』へと現場座標と配信アーカイブ映像を転送した。
霞が関の庁舎、心霊事象部門の作戦室。
転送されてきた位置データと、施設名『旧・白鷺山保養所』の文字をモニターで確認した当直の分析官は、一瞬にして顔色を変え、部屋の奥で待機していた部門責任者の真柴を呼んだ。
「――真柴室長!! 県警本部から第1級緊急ホットラインです! 一般の動画配信者三名が、立入禁止フェンスを破って侵入した先は……管理コード『関東北-09』、旧白鷺山保養所です!!」
真柴が、弾かれたように立ち上がった。
「関東北-09だと!? あそこは外周を二重封鎖していたはずだ、中に生身の人間が入ったのか!?」
「はい! 裏手の倒木でフェンスが損傷していた箇所から侵入した模様です! 配信映像を確認しましたが、内部で封じ込めていた『認知改変・誘導型』の複合霊体が活性・顕在化しており、すでに三名のうち男性一名が二階の崩落箇所から階下へ転落して安否不明、女性一名が重度の精神干渉(認識置換)を受け、残る男性一名も内部に取り残されて通信が途絶しました!」
真柴の表情が、険しく引き締まった。
彼はすぐさまマイクを掴み、県警本部および現地へ向かっている消防指揮隊へ直接指示を飛ばした。
「こちら八咫烏・心霊事象部門の真柴だ! いいか、現地へ到着した通常の警察官および消防の救助隊員は、我々の専門実働班(退魔・救出部隊)が到着して霊的遮断を開くまで、絶対に保養所の敷地フェンスの内部へ立ち入るな! 防護装備のない一般隊員があの活性化した空間に入れば、五分で被害者と同じように認識を狂わされて二次遭難する! 林道入り口での包囲と救急搬送の準備のみを行え!」
『りょ、了解しました! 現地部隊をゲート前で待機させます!』
そこへ、隣のフロアで緊急相談の転送状況を確認していた霧島統括が、警報を聞いて作戦室へと駆け込んできた。
「真柴さん! 今、緊急通報の転送ログを見ました……心霊スポットでの生配信事故ですか!?」
「ああ、霧島統括。残念ながら、一番恐れていたことが起きた。一般人三名が指定管理区域の内部へ侵入し、生配信のカメラの前で重度霊障事故を起こした」
「……三名とも、無事ではないのですか?」
「一名は二階からの転落により負傷の程度および生死が不明。一名は映像を見る限り、かなり深いレベルまで精神干渉を受けている疑いがある。残る一名も建物内で孤立している」
ちょうどその時、昼間の合同会議に出席していた内閣官房の危機管理参事官からも、震える声で内線電話が入った。
『真柴さん、配信の映像を確認しました……! 三人は助かるのでしょうか?』
真柴は、特殊防護服と霊的遮断具の準備を進める部下たちに合図を送りながら答えた。
「まだ分かりません。専門班が現場へ向かっています。警察と消防には待機位置を伝えました。今は二次被害を出さず、三人を救うことが最優先です」
午後九時五十二分。
北関東の八咫烏・広域即応拠点から、対霊障用の完全防護装束と結界展開機材、そして霊障医療キットを積載した特別救出班のヘリコプターと特殊車両が、夜の闇を切り裂いて白鷺山へと向けて緊急発進した。
作戦室のモニターの前で、真柴は現地の突入隊長と通信を繋ぎ、冷徹に命じた。
「――突入班へ告ぐ。最優先任務は、建物内に取り残された三名の生還と救出、ならびに外周封鎖結界の再固定だ」
『了解! 内部で活性化している対象霊体(顔のない複合個体)の処理はいかがいたしますか?』
「救出の妨げになる場合は、躊躇なく実力で制圧・無力化しろ。ただし、すでに被害者の精神構造と対象の干渉波が深く癒着している可能性がある。無理に霊体だけを乱暴に引き剥がせば、被害者の脳と心が壊れるぞ。まずは人間の命と精神の保護を最優先に、慎重に引き剥がせ」
その時、通信障害が起きる直前の十秒間――床に落ちたカメラの生配信映像をフレーム単位で解析していた観測班の若い隊員が、画面を拡大したまま、ゴクリと息を呑んで呟いた。
「……室長。このフレームに映っている霊体の干渉波形と、直前にマイクが拾った音声ですが……これは、かなりまずいかもしれません」
「何か分かったか?」
「……いえ、既存の『関東北-09』の記録データよりも、内部の侵食の性質が変質している可能性があります。詳細は、現場の突入班が中に入って直接確認する必要があります……!」
*
午後十時ちょうど。
旧・白鷺山観光保養所、二階の廊下。
配信開始から一時間が経っていた。
床に転がったカメラは、今も同じ廊下を映し続けている。配信機材の外部バッテリーはまだ生きており、映像が止まる気配はない。隅の赤い録画ランプも、小さく点滅を続けていた。
人の姿は、どこにもなかった。
けれど、何も起こらなかったわけではない。
ときどき、遠くから誰かの足音が聞こえる。
ペタ……、ペタ……。
誰かが廊下を歩いているような音なのに、レンズの前を横切るものはない。
そして、暗闇の奥から、かすかに声がした。
『……ただいま』
少し間を置いて、別の声が答える。
『……おかえり』
聞き覚えがある。
さっきまでこの廊下で笑っていた健と、由梨の声に、ひどくよく似ていた。
さらに、床のカメラのすぐ後ろから、もう一つの声がぽつりと落ちた。
『……まだ、帰ってない人が、ひとりいるよ』
【YouTube ライブ配信チャット欄(22:03 JST / 同接 58,000人)】
> 名無し:……今の、健の声じゃなかったか?
> 名無し:やめろ、もうやめてくれ
> 名無し:画面に何も映ってないのが一番怖い
> 名無し:警察は!? 八咫烏はまだなのか!?
> 名無し:現場に行こうとか言ってる奴、絶対にやめろよ
> 名無し:頼むから三人とも生きててくれ……
誰も映らない廊下を、五万人以上が見つめ続けていた。
*
午後十時二十五分。
最初に変化に気づいたのは、音量を上げていた視聴者たちだった。
遠くから、今までとは違う音が聞こえてきた。
金属の留め具が触れ合う、乾いた音。
それから、複数人の足音。
『――二階東側、通路を確認。遮断状態、維持』
今度の声は、はっきりと人間のものだった。
> 名無し:え?
> 名無し:いま誰か喋ったぞ!!
> 名無し:警察!?
> 名無し:声が違う、本物の人間だ!!
通路の奥で、白い光が一筋、壁を横切った。
次いで、もう一本。
黒い防護服に身を包んだ数名の人物が、廊下の曲がり角から姿を現した。通常の警察官とは明らかに異なる装備だった。顔の一部を覆う防護面、腕に固定された札状の器具、背負われた奇妙な金属の筒。先頭の隊員が短く手を上げると、後続が音を立てずに左右へ展開した。
『生体反応、三名分の所在を継続捜索。転落箇所の下階確認班は別動で進入中』
『了解。精神干渉の遮断を最優先。無理に呼びかけるな』
その声を聞いた視聴者たちが、ようやく理解した。
【YouTube ライブ配信チャット欄(22:27 JST / 同接 72,000人)】
> 名無し:来た……!!
> 名無し:八咫烏だ!!
> 名無し:本当に来てくれた!!
> 名無し:お願い、三人を助けてくれ!!
> 名無し:あの黒い奴がまだいるぞ、気をつけてくれ!!
廊下の片隅、倒れた棚の陰に転がったカメラには、隊員の誰も気づかなかった。
レンズは、彼らの足元から廊下の奥までを、途切れることなく映し続けていた。
先頭の隊員が足を止めた。
『……隊長。正面』
何もいなかったはずの廊下の中央に、いつの間にか、灰色の服を着た細長い人影が立っていた。
顔の部分だけが、底の見えない暗闇になっている。
床に落ちたカメラの映像では、そいつはさっきまでと同じように、画面の真ん中に貼りついたまま動かなかった。
しかし今度は、隊員たちが一斉にその方向を向いた。
誰も目を逸らさない。
『目標を視認。記録の対象と一致』
隊長らしき人物が、ゆっくりと右手を上げる。
『――対霊戦闘態勢。救出班への接近を許すな』
複数の隊員の足元に、淡い光の線が走り始めた。
その向こうで、顔のない人影が、初めて首を傾げた。
床のカメラは、そのすべてを全国へ生中継していた。
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