もしも異能がディスクロージャーされたら? 作:パラレル・ゲーマー
二〇二六年十一月十三日、金曜日。午後十時二十七分。
関東北部・旧白鷺山観光保養所、二階客室廊下。
腐りかけたリノリウムの床の上に横倒しになったまま、暗闇の中で赤い録画ランプを点滅させ続けていた高感度ビデオカメラのレンズが、突如として廊下の階段側から差し込んできた複数の強力な白色戦術ライトの光条を捉えた。
配信は数十分前に復旧して以来、途切れず続いていた。隊員たちが歩み寄る足音も、ライトが次々と灯る様子も、全国の視聴者へそのまま流れている。
しかし、そこに映っていたのは、先ほどまでパニックで泣き叫んでいた配信者たちの姿ではなかった。
全身を艶消しの黒い特殊防護服と対霊遮断装甲で固め、顔面にマルチスペクトル位相ゴーグルと防毒マスクにも似た呼吸フィルターを装着した、八名のプロフェッショナルたち――『八咫烏』心霊事象部門・北関東広域即応班の突入部隊だった。
彼らは無言のまま、一切の無駄のない銃器保持姿勢で二列の戦術隊形を組み、腐った床の強度を確かめながら廊下の中央へと展開していく。
そして、彼らの構える銃口の先――カメラのレンズから見て十数メートル奥の暗闇の中に、あの古びた灰色の服を着た『顔のない人影』が、先ほどとまったく同じ直立不動の姿勢でぽつんと立ち尽くしていた。
だが、数十分前の配信者たちと、今ここに立つ八咫烏の隊員たちとの間には、決定的な違いがあった。
配信者たちの脳は怪異の放つ干渉波によって麻痺させられ、目の前に立つその存在を最後までまともに視認することすらできなかった。しかし、八咫烏の隊員たちの位相ゴーグルは、空間の歪みと霊体固有の波長を冷徹なデジタル座標として正確にロックオンしていたのである。
「――こちら第一突入班。二階中央廊下にて対象を確認。距離十五メートル、記録コード『関東北-09』の中心個体と波形照合完了」
先頭に立つ小隊長が、低く抑えた声でインカムに報告を入れる。
「全隊員、対霊遮断フィールド出力正常。現在の精神干渉波の透過率は0.2パーセント以下、認知異常の兆候はありません」
「別動の救出班より入電。現在、一階ボイラー室跡および二階奥の客室区画へ迂回進入中。当廊下の射線上に要救助者(生存者)が存在しないことを確認!」
小隊長が左手を軽く挙げて合図を送った。
「後方に局所防護結界を展開。――対霊火器班、射撃準備」
カチャリ、と重厚な金属音が廊下に響いた。
前衛の四名の隊員が肩に構えたのは、通常の警察や自衛隊が使用する自動小銃よりも一回り銃身が太く、機関部の側面に銀色の呪文回路と青白いカートリッジが装填された、八咫烏専用の『八九式改・対霊徹甲自動小銃』だった。物理的な鉛の弾丸ではなく、高密度に圧縮した浄化魔力と霊的干渉材を撃ち出し、悪霊の霊体構造(コア)を直接破砕するための特殊火器である。
正面に立つ顔のない人影の周囲で、空気が再びドロリと黒く濁り、空間が歪んで滑るように前進しようとする兆候が見えた。
「対象、移動および干渉出力上昇の兆候!」
「撃てッ!!」
小隊長の号令とともに、四挺の対霊自動小銃が火を噴いた。
ダダダダダッ!! という乾いた連射音とともに、銃口から青白い燐光を曳く特殊弾の束が放たれ、暗闇の廊下を一直線に切り裂いて、顔のない人影の胸元から頭部へと正確無比に突き刺さった。
バチィッ! ボフッ!!
着弾の瞬間、人影の灰色の服と黒い顔面の空間が、まるで高圧水流を浴びた砂の像のように激しく弾け飛び、ドス黒い霧となって周囲へ飛散した。
床に落ちたカメラを通じてその光景を見ていた視聴者たちは、先ほどまで配信者たちを一方的に嬲っていたあの不気味な怪異が、特殊部隊の火力によってあっさりと蜂の巣にされる姿を初めて目撃し、思わず拳を握りしめた。
――だが。
最初の一斉射撃によって頭部から右肩にかけての半分以上が吹き飛び、黒い霧へと霧散したはずの人影は、倒れなかった。
射撃が止んだわずか一秒後。
周囲の空中に飛び散った黒い霧が、まるで逆再生の映像を見るかのようにシュルシュルと元の位置へと吸い寄せられ、何事もなかったかのように「顔のない人影」の輪郭をピタリと再構成してしまったのである!
「……っ、全弾命中を確認しましたが、対象が即座に再構成しています!」
「霊体密度の減衰が見られません! 通常の破砕弾では損傷が定着しないぞ!」
「ひるむな、第2斉射! コアの位置を探りながら撃ち続けろ!」
小隊長の指示で、再び激しい連射が浴びせられる。
青白い弾丸が何十発も命中し、そのたびに人影の胴体に風穴が開き、腕が千切れ飛ぶ。しかし、崩れた端から瞬時に黒い霧が補填され、一秒後には元の不気味な直立姿勢へと戻ってしまう。
それどころか、銃撃を浴び続ける怪異の足元から、まるで墨汁の瓶を床にぶちまけたかのように、タール状の「真っ黒な染み」が廊下の床と左右の壁面へと向かってジワジワと広がり始めたのだ。
壁の剥がれたクロスが黒く変色し、建物そのものが怪異の肉体の一部として脈動を始めるような異様な光景に、前衛の隊員たちがじりじりと二歩、三歩と後退する。
「小隊長、まずいです! 対象の霊体反応が縮小するどころか、廊下全体へ拡大しています!」
「観測班、数値はどうなっている!?」
後方で大型の波形測定端末を睨んでいた観測班員が、切迫した声で叫んだ。
「対象の霊体構造が、単独の個体枠を超えています! この廃墟の建物内部に長年蓄積していた霊的汚染領域そのものと根を張るように直結して、そこから無限に予備の質量を汲み上げています!」
小隊長のゴーグルの奥で、目が鋭く細められた。
*
「……報告書にあった第2種指定の段階を超えているぞ。対象はすでに『深化(しんか)』済みだ!」
『深化』。
それは八咫烏の心霊事象部門において、最も警戒される事態を示す専門用語だった。
それは、封じ込められた悪霊や複合怨念が周囲の霊的汚染領域との結びつきを強め、生者の恐怖や精神への干渉を通じて、より危険な状態へ変質していく現象だった。
目の前の人影を撃ち砕いても、建物の奥に広がる汚染領域が、失われた輪郭をすぐに作り直してしまう。
「現れた端末の身体を銃撃で削るだけでは、再生速度を上回れません! 通常の対霊火器小隊の装備だけでは、完全制圧は困難です!」
「くそっ、二十年の封鎖の間に、建物の底でここまで根を深くしていたのか……!」
さらに観測班員が、端末の赤いアラートを見て声を張り上げた。
「小隊長! 対象が建物の汚染領域を活性化させたことで、この保養所の外周を囲んでいる『二重封鎖結界』の内側層に強い負荷がかかり始めています! このまま放置してさらなる深化を許せば、数十分以内に外周結界そのものが内側から食い破られます!」
今はまだ、外周の結界が生きているため、麓の町や外で待機している一般の警察・消防隊員に被害が及ぶことはない。
だが、もしここで手間取って怪異のさらなる拡大を許せば、救出班が捜索している三人の被害者を助け出せないどころか、この山全体が制御不能の霊的災害区域と化してしまう。
これを断ち切るには、表面の霧を散らす銃弾ではなく、対象と建物の汚染領域を繋いでいる「霊的構造の核と供給回路」そのものを、圧倒的な高出力の近接概念攻撃で一気に断ち切るしかなかった。
小隊長は一秒の迷いもなく、胸元の通信機のチャンネルを切り替え、現在一階の正面玄関ホールで予備戦力および退路確保要員として待機していた「切り札」の名を呼んだ。
「――こちら第一突入班長! 第七機動班の東雲(しののめ)! 聞こえるか、セナ! 二階廊下の対象はすでに『深化』済みだ、通常の火器では再生を止められん! 至急、前線へ上がって応援を頼む!!」
一秒後。
ノイズ混じりのインカムから、緊迫した現場の空気とは対照的なほど明るく、弾むような若い女性の声が即座に返ってきた。
『――りょーかい! ずっと下で待ってたよ、今すぐ行くね!!』
通信が切れた、そのわずか三秒後だった。
二階廊下の後方――一階から上がってくる大階段の踊り場の方向で、空気そのものがパチンッ! と弾けるような鋭い破砕音が響いた。
バチィッ!!
暗い廊下の空間を、まるで青白い稲妻の軌跡(霊力の残光)が一閃したかのような猛烈なスピードで、一つの小柄な影が疾走してきた。
前衛で銃を構えていた隊員たちの横を、つむじ風のようにすり抜ける。
直後、銃弾を何十発浴びても一歩も動かなかったあの『顔のない人影』の懐へと、その影が音速に近い踏み込みで肉薄し、腰だめから抜き放った白銀の刃を下から斜め上へと一気に斬り上げた!
ガギィィィンッ――ドゴォォォンッ!!
実体のない霧の塊のはずの怪異から、まるで分厚い鋼鉄の装甲板を叩き斬ったかのような凄まじい火花と衝撃波が炸裂した。
次の瞬間、対霊自動小銃の連射すらものともしなかった顔のない人影が、その一太刀の圧倒的な運動エネルギーと退魔の衝撃によって、黒い霧を撒き散らしながら廊下の奥へと十メートル以上も面白いように吹き飛ばされ、突き当たりの壁に激突したのである!
「……っ、すげえ……!」
隊員たちが思わず目を見張る中、床に転がったままの配信用カメラのレンズが、廊下の中央にスタッと軽やかに着地した「彼女」の後ろ姿と横顔を鮮明に捉えた。
防護マスクは着けていない。
動きやすい濃紺の八咫烏・機動戦闘ジャケットに身を包み、首元で切り揃えられた艶やかな黒髪のショートボブがふわりと揺れる。年齢はまだ二十一歳。あどけなさの残る整った横顔の中で、凛とした大きな瞳だけが爛々と輝き、その右手には、刀身に緻密な金銀の呪文紋様が刻まれ、青白い霊光を纏って脈動する細身の日本刀――特級対霊兵装『霊装刀(れいそうとう)』が握られていた。
東雲セナ(しののめ・せな)、二十一歳。
八咫烏・実働第七機動班に所属する、対怪異近接戦闘のスペシャリストである。
*
「――ふぅ、お待たせ! 小隊長、今の状況は!?」
セナは霊装刀の切っ先を奥の怪異へ向けたまま、振り返らずに明るく尋ねた。
「対象は深化初期段階、建物の汚染床と接続して再生を繰り返している! 対霊弾だけでは核を削りきれん!」
「要救助者の三人は!?」
「現在、別動の第2・第3救出班が一階ボイラー室と二階奥の客室区画へ迂回して捜索中だ! この廊下にはいない!」
「了解、なら心置きなく暴れられるね!」
セナがニッと笑って重心を低く沈め、再び怪異へと向かって飛び出そうとした、その瞬間。
後方の小隊長が慌てて声を張り上げた。
「ま、待て東雲! まだうちの火器班が牽制射撃を継続中だ、そのまま突っ込んだら味方の射線に入るぞ!!」
だが、二十一歳の若き退魔師は、足を止めるどころか、振り返ってウインクせんばかりの余裕の声で言い放った。
「――当たらないから私に気にせず、そのまま重火器支援継続して!!」
「なっ、しかし――!」
「後ろの観測班が射撃リズムを出してくれてるから、弾道は全部見えてる! とにかく今はこいつを仕留めるのが最優先だよ、これ以上『深化』が進んで建物全体と完全融合されたら、私たちの部隊だけじゃ対応できなくなる!」
小隊長は一秒で腹を括り、銃を構える部下たちに怒鳴った。
「……聞いたな、お前ら! 東雲のスピードを信じろ、射撃パターンを『広角制圧・タイプB』に固定して連射継続! 東雲の接近に合わせて再生阻害の弾幕を張れ!」
「「ラジャー!!」」
ダダダダダッ!! と再び四挺の対霊自動小銃が火を噴き、青白い光の弾道が廊下を格子状に埋め尽くす。
その銃弾の嵐の中へ、セナの身体が弾丸以上の初速で飛び込んだ。
セナは火器班の三点バーストの間隔と射角が切り替わるタイミングを読み、青白い弾道が通過した直後の隙間を、ダンスのステップのように駆け抜けていく。
「――はあっ!!」
対霊弾を浴びて表面の霧が剥がれた顔のない怪異の懐へ、セナが滑り込むように踏み込み、霊装刀を袈裟懸けから逆袈裟へと目にもとまらぬ速さで二連撃、三連撃と叩き込んだ。
ザンッ!! バシュッ!!
青白い霊光の刃が怪異の胴体と左腕を深く切り裂く。
今度は、先ほどの銃撃の時とは結果がまったく違った。
セナの霊装刀が通過した断面には、焼き鏝(ごて)を当てられたかのように白銀の光の粒子が焼き付き、怪異が周囲の黒い染みから霧を集めて傷口を塞ごうとしても、バチバチッと火花が弾けてうまく再構成することができない!
「……っ、対象の霊体構造に確定損傷を確認!!」
後方の観測班員が、モニターの波形を見て歓喜の声を上げた。
「東雲隊員の斬撃箇所、再生速度が70パーセント以上低下しています! 建物側からのエネルギー供給ラインが局所的に寸断されています!」
「よし、効いてる!」
セナは刀を振り抜きながら、快活に笑った。
「やっぱりね! まだ建物と完全に同化しきってないこの段階なら、私の刀で根っこごと斬れるよ!」
だが、追い詰められた怪異もまた、ただ斬られるだけの的ではなかった。
再生を阻害された顔のない人影が、突然、その真っ黒な穴の開いた頭部を、目の前にいるセナの顔面へとゼロ距離で突き出し、先ほど配信者の由梨の心を壊したのと同じ、いや、その十倍近い高出力の『直接精神干渉波(呪詛の囁き)』を、全方位へ向けて一気に放射したのだ!
キィィィィンッ……!! と、常人なら聞いた瞬間に鼓膜と脳の血管が吹き飛ぶような、不協和音の共鳴が廊下を揺らす。
その直後、セナの目の前の空間に、後方から撃ち込まれた「金色の六角形の光の盾」がパッと割り込んで展開し、黒い干渉波を正面から受け止めて中和した。
「高出力の精神干渉を検知!」
「遮断班、指向性防壁の出力を最大に維持しろ! 東雲の脳にノイズを通すな!」
「了解、防壁維持しています!」
後方で魔導演算器を構える二名の遮断班員が、額に汗を浮かべながらセナの周囲の霊的防壁を幾重にも補強する。
「サンキュー、遮断班! こういうイヤらしい攻撃を防いでくれるの、すっごく助かる!」
セナは一切動きを鈍らせることなく礼を言い、さらに踏み込んで怪異の右脚を切り飛ばした。
怪異が、初めて明確に「恐怖」したかのように、足を動かさないまま滑るようにして廊下の奥へと大きく後退した。
同時に、断末魔の抵抗のように建物全体の汚染領域が暴走し、廊下の壁がミシミシと音を立てて軋み、天井の梁やドアの位置がグニャリと歪んで見える強い空間・認識の揺らぎが発生した。
「……っ、な、なんだ!? 左側の廊下の壁が消えて、外の森に見えるぞ!?」
火器班の若い隊員の一人が、視界の異常に戸惑って声を上げる。
しかし小隊長は即座に一喝した。
「惑わされるな、自分の肉眼の視覚を信用するな! 建物自体の物理構造は1ミリも動いていない、ゴーグルに表示される観測班の3Dワイヤーフレーム座標だけを見て撃て!」
「は、はいっ!」
*
午後十時三十分から三十五分にかけて。
二階の床に転がったままのカメラは、その凄まじい「本物の退魔戦闘」の一部始終を、ローアングルの臨場感そのままに全国の視聴者へと送り届けていた。
「八咫烏の実働部隊が、あの顔のない怪異と戦っている」。その知らせがSNSを駆け巡り、七万人余りだった同時接続者数は、深夜にもかかわらず十万八千人に達していた。
【YouTube ライブ配信チャット欄(22:32 JST / 同接 108,000人)】
> 名無し:八咫烏の実働部隊きたあああああああああ!!
> 名無し:すげえ、光る弾が出る重火器持ってるぞ!?
> 名無し:うおおおおお頼む、あの顔のないバケモノをぶっ倒して3人を助けてくれ!!
> 名無し:……おい待て、あの黒い幽霊、銃で撃たれて頭吹き飛んだのに1秒で元に戻ってるぞ!?
> 名無し:嘘だろ、八咫烏の特殊銃でも効かないのかよ……!?
> 名無し:待て、階段の方から女の人の声がしたぞ!?
> 名無し:なんか光った!?!?
> 名無し:えええええ!? 日本刀持った黒髪の女の子が飛び込んできたぞ!!
> 名無し:速すぎて残像しか見えねえ!! 銃弾の隙間をすり抜けて斬りまくってる!!
> 名無し:おい、さっきまで銃が効かなかったバケモノが、あの子に斬られたところだけ再生できずに後退してるぞ!! つえええええええ!!
目を疑うような退魔戦闘に、コメント欄は一瞬、映画のクライマックスを見ているかのように沸き立った。
だが、およそ一時間前、同じカメラには健が穴へ転落していく姿も、由梨が別人のように変わっていく姿も映っていた。
> 名無し:頼む、お願いだからもう誰も死なないでくれ……
> 名無し:戦ってる間に、別動隊が3人を探してくれてるんだよな? 早く見つけてあげてくれ……
> 名無し:さっき穴に落ちた健くんは助かるのか? 誰か無事でいてくれよ……
> 名無し:ていうかお前ら、さっきあの刀の女の子が突っ込む時に言ったセリフ、聞こえたか?
> 名無し:『これ以上「深化」したら、私たちの部隊だけじゃ対応できなくなる!』って言ってたよな……?
> 名無し:「深化」って何だよ……? あのバケモノ、人間を取り込むとまだ強くなるってことなのか!?
> 名無し:夕方の政府の警告、「心霊スポットには絶対に近づくな」って、こういうバケモノが本当に封印されてるからだったんだな……もう二度と肝試しなんか行くもんか……
*
午後十時三十四分。
午後十時三十四分。セナと第一突入班が顔のない怪異を廊下に押しとどめたことで、奥の客室区画を覆っていた認識の歪みが弱まり、第2・第3救出班がそれぞれの捜索区域を進んでいた。
二階廊下の奥からL字に折れた、旧貴賓客室区画。
「こちら第2救出班! 212号室の内部にて、生存者二名の生体反応を確認! これより扉を開放して突入する!」
医療資格と対霊保護技能を併せ持つ四名の救出班員が、遮断フィールドを展開しながら、歪んだ木製のドアをバールでこじ開けて室内へと踏み込んだ。
ライトが照らし出したカビ臭い客室の奥――剥がれた壁紙の隅で、ガタガタと全身を震わせながら両手で頭を抱えてうずくまっている一人の青年がいた。
撮影担当の緒方拓海(二十六歳)だった。
「八咫烏の特別救出班です! 緒方拓海さんですね、もう大丈夫です、助けに来ました!」
先頭の救出班長が、武器を持たない両手のひらを見せながら、落ち着いた声で呼びかけた。
その瞬間、うずくまっていた拓海がビクッと跳ね上がり、血走った目でライトの方を睨みつけて、喉が裏返るような悲鳴を上げた。
「く、来るなあああああっ!! 近づくな!!」
「落ち着いてください、緒方さん! 私たちは警察と連携している政府の救助部隊です!」
「嘘だ!! さっきからずっと、健の声や由梨の声で『こっちへおいで』って騙そうとしてただろ!! お前らも……お前らもあいつらの仲間なんだろ、顔を見せろ、顔があるのかよおおおっ!!」
拓海はパニックのあまり、壁に背中を打ち付けながら必死に後ずさりした。
無理もなかった。カメラを落としてからの数十分間、彼は暗闇の中で、すでに落ちたはずの健の声や、母親の声、そして由梨の声をした「何か」に四方八方から名前を呼ばれ続け、何が現実の人間で何が怪異の幻覚なのか、完全に区別がつかなくなっていたのだ。
だが、八咫烏の救出班は、こうした霊障パニックに陥った被害者の扱いに熟練していた。
班長は決して無理に飛びかかって羽交い締めにしたり、大声で怒鳴り返したりはしなかった。その場で一歩後ろへ下がって片膝をつき、自分の顔の防毒マスクとゴーグルをゆっくりと外して、ライトの光で自分の「人間の顔」と、胸元の内閣官房・八咫烏の身分証をはっきりと拓海に見せた。
「――ほら、見てください、緒方さん。私にはちゃんと目も鼻も口もあります。あなたを呼んでいた怪異は、今、外の廊下で私たちの仲間の部隊が抑え込んでいます。
あなたは最後まであの声に騙されずに、自分の力で耳を塞いで耐え抜いたんです。もう本当に安全ですから、脈と呼吸だけ確認させてくださいね」
班長の穏やかで規則正しい声と、確かに存在する生身の「人間の顔」を見て、拓海の張り詰めていた恐怖の糸がぷつりと切れ、「うわあああああんっ……! 怖かった、怖かったよお……っ!」と子どものように声を上げて泣き崩れた。
隊員がすかさず拓海の肩に霊的断熱ブランケットをかけ、携帯用の診断器を当てる。
「……緒方拓海氏、確保! 身体的な外傷なし! 強い心因性ショックと過呼吸症状がありますが、脳内の霊的侵食値は基準値以下です、意識および自己認識ははっきりしています!」
「よし、そのまま鎮静処置をして一階の救護所へ搬送しろ!」
そして――残る二名の救出医療班員は、同じ212号室の反対側、埃まみれの古いベッドのフレームの横に、ぺたんと女の子座りをして座っていたもう一人の人物へと歩み寄った。
同行スタッフの女性、滝沢由梨(二十七歳)だった。
パニックで泣き叫んでいた拓海とは対照的に、由梨は驚くほど静かだった。
乱れた髪のまま、真っ暗な部屋の壁に向かって、まるでお気に入りのテレビ番組でも眺めているかのように、うっとりと穏やかな微笑みを浮かべて座っている。隊員たちがドアを蹴破って入ってきた音にも、拓海の叫び声にも、ピクリとも反応していなかった。
女性医療班員が、由梨の目の前に静かにしゃがみ込み、優しく声をかけた。
「――滝沢由梨さんですね? 八咫烏の救護班です。怪我はありませんか?」
由梨は、ゆっくりと首を傾げて、目の前の医療班員の顔を見た。
その瞳には焦点というものがなく、穏やかな声でこう聞き返した。
「……だれ?」
「政府の救助隊ですよ、由梨さん。ここは危険ですから、私たちと一緒に外へ出て、東京のお家へ帰りましょう」
「……助け? 外へ出る……?」
由梨は、なぜこの人はこんな奇妙なことを言うのだろう、とでも言いたげにクスクスと小さく笑い、腐った畳と壁を愛おしそうに撫でながら答えた。
「……どうして? 私、最初からずっと、このお家に住んでるのに。ここが私のお部屋なのに、どこへ帰るの?」
医療班員の表情が、険しくこわばった。
手元の霊的脳波スキャナーを由梨の頭部にかざすと、画面には真っ赤な警告グラフと、『深層認識置換・重度混濁(レベル4)』の文字が浮かび上がった。
「……第2救出班より報告! 滝沢由梨氏を発見、身体的な外傷はありませんが、重度の認識混濁を発症しています! ご自身の記憶と、この保養所の残留思念が脳内で深く混ざり合っており、正常な会話が成立しません!」
医療班員が直ちに由梨の額に浄化用の霊符を当て、保護結界で包んで抱き起こそうとした、その瞬間だった。
ピピピピピッ!! と、スキャナーから激しい警告アラームが鳴り響き、由梨の身体がビクンと痙攣して苦しげにうめいた。
「――っ、待ってください! これを見て!」
医療班員がスキャナーの波形画面を指差して叫んだ。
「由梨さんの脳の深層意識に刺さっている『精神干渉のパイプ(同調回路)』が、まだ外の廊下で戦っている『あの対象霊体の本体』と直接繋がったままになっています!
もし今、この接続を切り離さないまま、東雲隊員が外の本体を力任せに完全消滅させたら、繋がっている由梨さんの精神構造まで一緒に引きちぎられて、彼女の心が永久に壊れてしまいます!!」
救出班長は即座にインカムの緊急ボタンを押した。
「――緊急連絡、第一突入班および東雲隊員へ!! こちら第2救出班、被害者女性(滝沢由梨)を確保したが、彼女の深層意識と対象霊体の干渉波形がまだ強く接続している!
当班でこれより『霊的回路の外科的分離処置』を行う! 処置が完了するまでの約百二十秒間、対象を絶対に完全消滅させるな! 殺さずにその場で足止めしてくれ!!」
廊下でまさにトドメの一撃を叩き込もうと霊装刀を上段に振りかぶっていた東雲セナの耳に、その緊急通信が飛び込んできた。
「――っ、了解!! トドメは待って、しばらくこいつの相手をしてればいいんだね!?」
『そうだ! ただし、その間に再構成や深化を進めさせれば、今度は由梨さんへの侵食が逆流する! 再生も深化もさせず、かつ核を壊さないギリギリの出力で削り続けてくれ!』
「うわあ、注文が細かいなあもう! ……わかった、医療班、急いで切り離してね! ここは私が絶対に止めてみせるから!!」
セナは振りかぶっていた霊装刀の刃を、空中でクルリと反転させて「峰(みね・刃のない背の部分)」と浅い斬撃へと切り替え、目の前の怪異の顔面を峰打ちでガツンッ! と殴り飛ばした。
一撃で斬り捨てるよりも、遥かに難しく、遥かに神経をすり減らす「百二十秒間の精密な足止め戦」が始まった。
*
午後十時四十分。212号室および二階中央廊下。
客室の中では、二名の医療班員が由梨の両脇を固め、彼女のこめかみと胸元に銀の鍼(はり)のような魔導具を当てて、怪異から伸びている不可視の精神侵食パイプを1本ずつ慎重に焼き切る『分離処置』を開始していた。
処置の目的は、今の時点で彼女の壊された認識を元通りに治療することではない(それは専門病院の集中治療室で何週間もかけて行う領域だ)。まず何よりも、外の怪異本体との道連れを防ぐために、これ以上の干渉を物理的に遮断(ロックアウト)することにある。
「……接続回路、第1層から第3層まで分離開始!」
「対象霊体側からの強い引き戻し抵抗を確認! 被害者の脈拍が上昇しています、保護結界の出力を上げろ!」
ベッドの横で支えられている由梨は、苦痛を感じる様子もなく、ただ虚ろな目で誰もいない天井の染みを見つめながら、うわごとのように静かに呟き続けていた。
「……おかえり……。……ねえ、みんな、どこに行ったの? さっきまでそこで笑ってたのに、どうして黙ってるの……?」
そのあまりにも痛ましい呟きに胸を締め付けられながらも、医療班員たちは一切手を震わせることなく、ミリ単位の精度で霊的波形の切り離し作業を進めていく。
一方、外の廊下では、セナが額に汗を滲ませながら、暴れ狂う顔のない怪異と超高速の鍔迫り合いを演じていた。
核を破壊しないように手加減すれば、怪異はすぐさま床の黒い染みから力を吸い上げて巨大化(深化)しようとする。かといって強く斬りすぎれば、部屋の由梨の脳に衝撃が走る。
「――させないってば! 大人しくそこにお座りしてなさい!!」
セナは火器班の牽制射撃と完璧に息を合わせ、怪異が床から黒い霧を吸い上げようとする「足元の供給腱」と、精神干渉波を飛ばそうとする「両腕と首の関節」だけを、一秒間に五回、六回という神業のような精密斬撃で正確に削ぎ落とし続けた。
そして、長く感じられた九十秒が経過した、午後十時四十二分。
212号室の医療班長のスキャナーが、ついに緑色の『回路完全遮断』のシグナルを表示した。
「――分離成功!! 被害者(滝沢由梨)側の干渉反応、100パーセント遮断完了! 独立保護結界に移行しました!」
医療班長がインカムに向かって叫んだ。
「東雲隊員、第一突入班! お待たせしました、分離処置完了です! 対象霊体の『完全制圧(消滅)』を許可します!!」
その通信を聞いた瞬間。
廊下で刀を振るっていた東雲セナの口元に、獰猛なまでに明るく、晴れやかな笑みが弾けた。
「――了解、医療班グッジョブ!! じゃあ、ここからは一切遠慮しないよ!!」
小隊長も即座に号令を飛ばした。
「総員、リミッター解除! 対霊重火器班、残弾すべてを最大出力で叩き込み、対象の再生を完全に止めろ! 東雲、一気に核を抜け!!」
「「了解(ラジャー)!!」」
四挺の対霊自動小銃が、フルオートの最大連射で青白い光の奔流を吐き出した。
凄まじい弾幕を浴びた顔のない人影が、たまらず大きく仰け反り、その黒い身体がバラバラの霧となって廊下全体へと膨張する。
その瞬間、怪異が建物と繋がっている中心点――胸の奥に一瞬だけ露出した、赤黒く脈動する『怨念の核(コア)』の座標を、観測班のレーザーが正確に照射した。
「逃がさないよ――ッ!!」
セナが床を蹴った。リノリウムのタイルが踏み込みの反動で砕け散り、彼女の身体が青白い一筋の閃光となって弾幕の中を突き抜ける。
怪異が再び人影へと凝縮して防御態勢を取ろうとするよりも早く、セナの両手で握られた霊装刀が、最大出力の浄化霊力を纏って眩い白銀の光を放った。
「――そこっ!! 《破邪・一閃》ッ!!」
ズバァァァンッ!!
迷いのない渾身の横一文字の斬撃が、怪異の胸の核と、床へ伸びていた黒い供給回路の束を、文字通り一刀のもとに断ち切った。
次の瞬間。
直立していた黒い人影の全身に、内側から外側へと向かって無数の白い光の亀裂が走った。
これまで『おかえり』『帰さないよ』と人間の声を不気味に模倣して喋っていたその怪異の口元から、初めて「ギ、ギャアアアアアアアア……ッ!!」という、古い磁気テープが引きちぎれるような意味をなさない断末魔のノイズ音が迸った。
「対象の霊体構造、臨界崩壊を開始!」
「再構成不能を確認! 東雲、念のためもう一撃入れて完全に散らせ!」
「任せて!!」
セナは空中でくるりと身体をひねり、崩壊しかけている黒い核の中心へ向けて、霊装刀の切っ先を突き刺すような鋭い斬り下ろしを叩き込んだ。
パァンッ!! と、ガラス細工が砕け散るような澄んだ音が廊下に響き渡る。
それと同時に、顔のない人影の輪郭は完全に崩壊して光の粒子へと還元され、廊下の壁や床一面に広がっていたあの不気味なタール状の黒い染みも、まるで朝日に照らされた霜のようにジュワジュワと音を立てて急速に蒸発し、消え去っていった。
「――対象霊体、完全消滅を確認!!」
「建物内の汚染領域の活性反応、急速に低下! 外周封鎖結界への負荷、ゼロに戻りました!」
「周辺の残留霊波、安全基準値内まで減衰!」
観測班員の力強い報告が響き、廊下にようやく本当の静寂と、澄んだ夜の空気が戻ってきた。
小隊長が銃を下ろし、「……よし。対象制圧完了!」と息を吐く。
セナも霊装刀の刀身を軽く振って残光を散らすと、チャリン、と小気味よい音を立てて腰の鞘へと刀を収めた。
「ふうっ! なんとか深化しきっちゃう前に間に合ったね!」
各班から、隊員に負傷者はないとの報告が届いた。
だが、一階で転落した青年の安否については、まだ報告が届いていなかった。
*
午後十時四十六分。
二階の廊下でセナと第一突入班が周囲の安全確認を終えたまさにその時、インカムの通信回線に、別動で一階の崩落箇所(旧ボイラー室跡)へ進入していた『第3救出班』の班長から、低く、重苦しい声で連絡が入った。
『――こちら一階・第3救出班。二階大広間の床崩落箇所の真下、旧ボイラー室跡の瓦礫内部にて、転落した一人目の要救助者(一ノ瀬健氏・27歳)を発見しました』
二階の小隊長とセナの動きがピタリと止まった。
「こちら小隊長だ。要救助者の容体はどうだ!?」
通信機の向こうで、二秒間の重い沈黙があった。
一階で懐中電灯の光を瓦礫の上に向けている第3救出班員の目の前には、折れ曲がった錆びた鉄骨とコンクリートの塊の上に仰向けに倒れている、黒いナイロンパーカー姿の一ノ瀬健の姿があった。
五メートル以上の高さから、受け身一つ取らず、どころか「そこは平坦な床だ」と信じ込んだまま無防備に頭から落下した彼の身体には、致命的な頭部外傷と頸椎の損傷があった。
『……残念ながら、生命徴候(バイタルサイン)を一切確認できません。瞳孔散大、呼吸および心拍停止。落下時の頭部および頸部への激突による「即死」状態であったと判断されます。これより遺体の収容作業に入ります』
健が転落したのは午後九時三十五分。八咫烏の部隊が建物へ到着する、ずっと前のことだった。
小隊長は小さく息を吐き、すぐ横に立っていたセナの方を向いた。
「……東雲。一階の転落者について報告が入った」
「……うん、インカムで聞いてたよ。……助からなかったんだね」
セナは、先ほどまでの明るい笑顔を静かに消し、二階の奥にある大広間の方角をじっと見つめた。
ほんの数秒間だけ、二十一歳の彼女の瞳に深い影が落ちた。
「……そっか」
セナは一度だけ小さく目を閉じ、それから顔を上げて小隊長に尋ねた。
「……で、二階の客室で見つかった残りの二人は?」
「ああ、二名とも確保済みだ。男性(緒方拓海氏)は外傷も深層侵食もなく身体は無事だが、極度の恐慌状態にある。女性(滝沢由梨氏)は身体に怪我はないが、重度の精神干渉による認識混濁が残っており、今、医療班が担架で外の救護所へ運び出しているところだ」
「……了解」
セナは静かに頷き、自分の肩のストラップを締め直した。
「じゃあ、生き残ったその二人だけでも、これ以上何も起きないようにちゃんと外の救急車まで送り届けてあげよう。私も搬出の護衛につくよ」
午後十一時ちょうど。旧白鷺山保養所・正面ゲート外の臨時救護テント。
外周フェンスの外側にずらりと並んだパトカーと救急車の赤色灯が、夜の山の木々を赤く照らし出していた。
一台目の救急車の後部ステップに座らされていた撮影担当の拓海は、分厚い毛布を頭からすっぽりと被り、温かい砂糖水を紙コップで渡されても、両手がガタガタと震えてうまく口へ運ぶことができずにいた。
身体には擦り傷一つない。脳への霊的侵食も受けていない。
だが、健が暗闇へ落ちていった光景と、由梨の目から友人の面影が消えていった瞬間が、拓海の頭から離れなかった。
「……あ、あの……もう、いないんですか……?」
拓海は、少し風が吹いて木の枝が揺れる音にすらビクッと肩を跳ねさせ、そばに立つ医療班員に何度も同じことを尋ねた。
「はい、緒方さん。建物の中にいた危険な存在は、私たちの部隊が完全に消滅させました。ここは外ですからもう安全ですよ」
「……ほんとうに? 本当に、俺の後ろに、あの顔のない奴は立ってないですか……?」
「ええ、誰も立っていませんよ。さあ、病院へ行って少し眠りましょうね」
この場で、彼が立入禁止を無視したことを責める者はいなかった。
そして、隣の二台目の特殊救急車(八咫烏の精神医療センター直行便)のストレッチャーの上には、ベルトで緩やかに保護された滝沢由梨が横たわっていた。
彼女のバイタルサインは正常であり、生命の危険はない。先ほどの分離処置によって、怪異からの追加の干渉も完全に断ち切られている。
しかし――彼女の意識は、まだあの暗く冷たい廃墟の廊下から帰ってきてはいなかった。
救急隊員が「滝沢さん、お名前が言えますか?」と尋ねると、「滝沢由梨です」と普通に答えられる瞬間もある。
ところがその十秒後には、彼女は突然ストレッチャーの上でニコニコと微笑み、「ねえ、お客様が来たから208号室のお布団を敷きに行かなきゃ」と、自分が昔からあの保養所の従業員か住人であったかのような話を平然と始め、誰もいない救急車の天井の隅に向かって、時折こう優しく囁くのである。
「……おかえり。……ずっと待ってたよ、おかえり……」
診察を終えた霊障医療班の医師は、外で待っていた小隊長とセナに向かって、重苦しい顔で首を横に振った。
「……怪異との接続自体は切れましたが、短時間に高濃度の認識改変波を直接脳に流し込まれたせいで、ご本人の本来の記憶野と、怪異が植え付けた擬似記憶が複雑に癒着してしまっています」
「……元に戻りますか、先生?」
セナが静かに尋ねると、医師は言葉を選びながら答えた。
「……現時点では、何とも言えません。専門病棟に収容して、数ヶ月、あるいは数年単位で少しずつ霊的な癒着を解きほぐすリハビリ治療を行う必要がありますが……完全に元の日常へ戻れるかどうかは、今後の経過を見なければ分かりません」
一ノ瀬健(27歳)、転落による即死。
滝沢由梨(27歳)、重度の精神機能障害および認識混濁により長期入院。
緒方拓海(26歳)、身体的外傷なし。強い恐慌状態と急性のストレス症状により保護。
*
一方、午後十一時五分。
まだ三人の最終的な安否が公式発表されていないインターネット上のYouTubeライブ配信枠では、同時接続数が十二万人を超え、視聴者たちは「戦闘が終わった後の無人の廊下」が映し出されている画面を、祈るような気持ちで見つめ続けていた。
【YouTube ライブ配信チャット欄(23:05 JST / 同接 124,000人)】
> 名無し:さっきの刀の女の子(東雲さん?)が最後に一閃して、黒いバケモノが光って消えたよな!!
> 名無し:うおおおお八咫烏の部隊、マジで強すぎた……!
> 名無し:怪異が消えたってことは、もう安全になったんだよな!?
> 名無し:なあ、配信者の3人はどうなったんだ!? 無事なのか!?
> 名無し:さっき「1名保護!」って声は遠くで聞こえた気がするけど、穴に落ちた健くんと、様子がおかしくなってた由梨ちゃんはどうなったんだよ……
> 名無し:誰か3人とも無事でいてくれよ、頼むから……
視聴者たちが固唾を呑んで画面を見守る中、二階の廊下の奥から、コツ、コツ、と硬いブーツの足音が近づいてきた。
事後の現場検証と残留物の回収を行っていた八咫烏の第一突入班の隊員二名が、ライトで床を照らしながら歩いてきたのである。
「……小隊長、こちらを見てください」
若い隊員が足を止め、廊下の隅に転がっていたビデオカメラとスマートフォンを指差した。
「なんだ、それは?」
「侵入した配信者たちが使用していた撮影機材です。まだバッテリーが生きていて電源が入っています」
「ローカルの録画中か?」
「……いえ、これ……」
若い隊員がしゃがみ込み、横倒しになっていたカメラを両手で拾い上げて、接続されていたスマートフォンの画面を確認した。
画面の隅には『● LIVE(視聴中:125,400人)』という赤い文字が煌々と輝いている。
「……小隊長、これ、外部へのライブ配信がさっきからずっと継続中になっています。先ほどの我々の交戦も全部流れていた模様です」
画面いっぱいに、防毒マスクと位相ゴーグルを着けた隊員の顔がドアップで映し出される。
小隊長は一瞬だけ黙り込んだが、慌てる様子もなく、淡々とした実務的な声で命じた。
「そうか。直ちに配信を停止し、通信を切れ。機材一式は今回の侵入および被災事案の重要証拠物件としてこのまま保全・回収する」
「了解しました」
隊員の黒い手袋をはめた指がスマートフォンの画面へと伸び、配信終了のボタンをタップした。
プツン。
画面が真っ黒に切り替わり、中央に白文字で『このライブ配信は終了しました』とだけ表示された。
今度こそ、十万人以上が見守った悪夢の生中継は、完全に幕を閉じたのだった。
*
午後十一時二十分。東京都千代田区霞が関・八咫烏本部庁舎、心霊事象部門・作戦指揮室。
現場からの最終報告と、救急搬送の完了通知が、大型モニターの上に次々とテキストデータとして表示されていく。
室内には、心霊事象部門責任者の真柴と、国内相談統括の霧島、そして緊急連絡を受けて官邸から駆けつけてきていた内閣官房の危機管理担当参事官の三人が立ち、その報告画面を見つめていた。
「――以上が、管理コード『関東北-09(旧白鷺山保養所)』における侵入・霊障事案の最終対処結果です。
内部で深化・活性化していた複合霊体は、第七機動班の東雲および第一突入班により午後十時四十三分に完全制圧・消滅。損傷していた裏手のフェンスおよび外周封鎖結界の修復も完了しました。
侵入した一般人三名については、全員の所在を確認・収容。うち男性一名(一ノ瀬健氏)は二階からの転落により、医師による死亡確認が行われました。女性一名(滝沢由梨氏)は重度の精神干渉による認識混濁のため当機関の専門医療センターへ緊急搬送中。残る男性一名(緒方拓海氏)は身体的外傷なし、心因性ショックの処置後、警察および当機関で事情聴取の予定です」
ブリーフィングを終えたオペレーターの声に、内閣官房の参事官は、深く、重い溜息を吐き出して目を閉じた。
死亡者が出てしまったという事実は、行政官として痛恨の極みだった。ご遺族への連絡と、深夜の警察発表の準備はすでに進められている。
だが、参事官はそこで顔を上げ、モニターに映る「完全制圧・封鎖完了」の文字を見て、ほんの少しだけ張り詰めていた肩の力を抜いた。
「……若い方がお一人亡くなられ、もうお一人も重い障害を負われたことは、本当に痛ましく、残念でなりません」
霧島も、隣で静かに頭を下げた。
「……はい。お悔やみ申し上げます」
参事官はハンカチで額の汗を拭い、真柴の方を向いて言った。
「ですが、真柴さん。あなた方の迅速な出動と、あの東雲さんという隊員たちの見事な働きのおかげで、被害がこれ以上広がることは防げましたし、何より外周の封じ込めにも成功した。
さらに今回は、偶然にも現場のカメラが生きていて、あの恐ろしい怪異の姿と、配信者の方々が正常な判断力を奪われていく様子、そして八咫烏の専門部隊が命がけでそれを鎮圧する姿が、十万人以上の国民にリアルタイムで生中継されました」
参事官の声には、大きな危機を一つ乗り越えたことへの確かな安堵が滲んでいた。
「昼間の会議では『警告を出したら逆に見に行く人間が増えるのではないか』と議論していましたが、これだけ生々しく恐ろしい現実の事故映像が全国に流れたのです。これを見た国民は誰もが震え上がり、心霊スポットがどれほど危険な場所であるか、骨の髄まで理解したはずでしょう。
犠牲は出てしまいましたが……これで、無謀な肝試しや侵入騒ぎも一気に鎮静化するはずだ。……ひとまず、何とかなりましたな」
参事官がそう言ってホッとしたように息を吐いた、その時だった。
正面のモニターを見つめていた心霊事象部門の責任者・真柴の表情は、1ミリたりとも緩んでいなかった。
真柴はゆっくりと参事官の方を振り返り、氷のように静かで、どこまでも冷徹な声でこう答えた。
「――いいえ、参事官。何を仰っているのですか。『これからが本当の地獄』ですよ」
参事官の顔から、安堵の表情がスッと消えた。
「……え? こ、これからが地獄、とはどういう意味ですか?」
真柴は手元のリモコンを操作し、作戦室のサブモニターに、現在進行形で爆発的に拡散されているX(旧Twitter)や動画サイト、掲示板のリアルタイム解析画面を表示させた。
そこには、『#旧白鷺山保養所』『#心霊配信事故』『#八咫烏実働部隊』『#霊装刀の美少女』『#本物の悪霊』といったトレンドワードとともに、先ほどの生配信の録画切り抜き動画が、わずか二十分で数百万回という凄まじい勢いで再生・共有されている様子が映し出されていた。
「確かに、今夜のあの悲惨な映像を見て、『もう二度と心霊スポットには近づかない』と震え上がった方は大勢いるでしょう」
真柴は淡々と続けた。
「ですが、同じ映像を見て、正反対のことを考える人間もいるのです。たとえごく一部でも、全国では無視できない人数になります」
「……まさか……」
「ええ。『あんな無名の三人組が廃墟に入っただけで、同時接続が十二万人を超え、ニュースになって日本中の注目を集めたぞ』『本物の幽霊や八咫烏の退魔部隊が映れば、一晩で百万再生、億単位のインプレッションが稼げるぞ』『あいつらは素人だからやられたが、俺ならお守りを持って入り口付近だけ撮ってすぐ逃げられるはずだ』――そう考える人間が、必ず出てくるのですよ」
参事官は、開いた口が塞がらなかった。
「そ、そんな馬鹿な! 人が一人死んで、一人が心を壊されているのを目の前で見たばかりなんですよ!?」
真柴は、微塵も感情の揺れない目で参事官を見つめ、静かに言った。
「――参事官。人間は、時に私たちが考える以上に愚かですからね」
「目の前で他人が命を落としても、『自分なら大丈夫だ』と信じ込む人間はいます。今夜は怪異の姿だけでなく、八咫烏の戦闘まで全国に中継された。あの映像は、危険を知らせる警告であると同時に、彼らを引き寄せる材料にもなってしまったのです」
参事官の背筋に、冷たい汗が流れた。
「……で、では、もしまた別の心霊スポットに侵入する連中が出たら、今夜のように八咫烏の専門部隊に迅速に出動していただいて――」
「それにも、明確な『限界』があります」
真柴ははっきりと首を横に振った。
「参事官。今夜の戦闘を短時間で収束できたのは、北関東の広域拠点から専門班を送り込め、さらに第七機動班の東雲セナを投入できたからです。
ですが、八咫烏に所属する『実戦可能な退魔師・対霊部隊』の人数は、無限にあるわけではありません。国内に三百四十二万人の能力者がいるといっても、その大半は日常生活を送る一般市民であり、先ほどのような深化個体の精神汚染に耐えて霊装刀や対霊火器を扱える専門の戦闘要員など、全国すべての支部をかき集めても、ごく限られた人数しか存在しないのです」
真柴は、日本地図の上に無数の赤い点と黄色い点がプロットされた『全国霊的危険管理区域マップ』を画面に表示させた。
北海道から沖縄まで、その点の数は数百箇所に及んでいた。
「対霊弾の備蓄にも、遮断装備の数にも、ヘリコプターの移動時間にも物理的な限界があります。全国に数百箇所ある指定区域や、いまだ未把握の廃墟のすべてに、二十四時間体制でうちの精鋭部隊を常駐させることなど、到底不可能です。
……そこで参事官にお尋ねします。今夜は北関東の一箇所だけだったから救出できました。ですが、もし明日の土曜日の夜、北海道と、関西と、九州と、東海地方の計十箇所の心霊スポットに、今夜の動画に触発された別々の配信者グループが『同時に』侵入し、各地で一斉に怪異を活性化させてしまったら――一体、どうなると思われますか?」
「……………………」
参事官は、日本地図を埋める無数の赤い点を見つめたまま、完全に言葉を失った。
もし同時に十箇所から救助を求められたら、専門班を送り出せない現場が必ず生じる。その場所で何が起きるのか、参事官には想像できてしまった。
「……全国で同時多発したら、八咫烏の戦力だけでは物理的に対応しきれない、と……?」
「はい。もちろん、警察や消防の皆様には外周の封鎖や一次対応で多大なるご協力をいただいておりますが、先ほどご覧いただいた通り、対霊防護を持たない通常の警察官や救助隊員が内部へ突入すれば、二次被害が出るだけです」
参事官は、両手で自分の頭を抱え込んだ。
「危険な場所を公表すれば人が集まる。伏せれば、危険に気づかず入る者もいる。しかも、救援できる人数には限りがある……」
参事官は日本地図を見つめたまま、しばらく動けなかった。
やがて、ゆっくりと天井を仰いだ。
「…………まいったなぁ……」
その参事官の呟きが部屋に落ちた、まさにその直後だった。
部屋の隅でSNSと動画サイトのリアルタイム監視にあたっていた若い情報分析官が、モニターから顔を上げ、引きつった声で手を挙げた。
「……ま、真柴室長、ならびに霧島統括。新しい報告です」
「どうした?」
「先ほどの生配信の終了を受けまして、八咫烏の総合相談窓口に『近所の廃墟は大丈夫か』『今の映像の場所はどこか』という問い合わせが毎分千件以上のペースで急増しております。……そして、それだけではなく……」
「……言え」
「動画配信サイトおよびX上におきまして、先ほどの白鷺山の映像の反響を見た複数の若手配信者や迷惑系グループから、『明日の土曜日の夜、俺たちも地元の有名心霊トンネルに突撃して本物の八咫烏を呼んでみた生配信をやるぜ!』『登録者10万人いったら県内の最恐廃病院に潜入します!』といった模倣企画の予告投稿が……すでに全国で二十件以上、確認されております……!」
参事官が「……も、もうですか!? 配信が終わってから、まだ二十分も経っていないのに!?」と目を剥いて叫んだ。
だが、真柴は眉一つ動かさなかった。ただ、やっぱりな、と言わんばかりに静かに頷いた。
「……ええ。予想通りですね」
隣に立つ霧島統括が、眼鏡の奥の目を細めて、心の底から深いため息を吐いた。
「……明日の朝から、うちの総合相談窓口と警察庁のサイバーパトロールの業務量が、また何倍にも跳ね上がりそうですね」
「ああ、すまないな霧島統括。現場の警備人員も、窓口の人員も、警察との合同パトロール体制も、今夜中にさらなる増強を要請することになる」
参事官が慌てて口を挟んだ。
「じ、人員と予算なら、官邸から予備費を使ってでも今すぐ手配します!」
「ありがとうございます、参事官。……ただ、予算と書類上の人員枠を今夜中に増やしていただいたところで、あの怪異を斬れる東雲のような『専門の退魔師』を、明日の朝までに一夜漬けで育成できるわけではありませんので」
「……………………」
参事官は、もう何も言えなくなり、デスクに手をついて深くうなだれた。
午後十一時三十分。
真柴は、モニターの中で今も再生数を伸ばし続けている「床に落ちたカメラが捉えた、顔のない怪異と東雲セナの戦い」のキャプチャ画面を静かに見つめ、独り言のように低く呟いた。
「……白鷺山の一件は収束しました。ですが、今夜の映像によって、一つのことが全国に証明されてしまいました」
「……何が、ですか?」
うなだれたまま尋ねる参事官に、真柴は静かに答えた。
「――本物の心霊スポットには、本当に命を奪う幽霊がいる、ということです」
真柴の背後では、翌夜の心霊配信を予告する投稿が、また一件、静かに追加されていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます! もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下部より【お気に入り登録】や【評価】、感想などをいただけると執筆の励みになります。 作者のモチベーション上昇に直結しますので、是非ともよろしくお願いします!
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