もしも異能がディスクロージャーされたら? 作:パラレル・ゲーマー
二〇二六年十一月十八日、水曜日。午前九時三十分。
東京都台東区、最寄りの地下鉄の駅から歩いて七分ほどの路地裏に建つ、築四十年近い雑居ビルの三階。『藤代霊視・除霊相談事務所』の室内には、朝一番に淹れたブラックコーヒーの香りと、パソコンの冷却ファンが回る低い音だけが静かに響いていた。
すりガラスの入った鉄扉の向こう側の風景は、二週間前と何一つ変わっていない。観葉植物が置かれた清潔な応接スペースに、過去の調査記録が詰まったスチール製のキャビネット、そして白木の護符や真鍮の鈴(れい)、清め塩などが整然と収められたガラス戸棚。
ただ一つ、以前と決定的に違っているものがあるとすれば、それはデスクのモニターに表示されている『予約管理カレンダー』の画面が、朝から夕方まで一ミリの隙間もなく色付きのブロックで埋め尽くされていることだった。
かつて――世間がまだ幽霊の存在を「非科学的な迷信」や「テレビのバラエティ企画」だと半信半疑で眺めていた頃までは、所長である藤代沙耶(二十八歳)の仕事のペースはもっとずっと緩やかなものだった。
舞い込んでくる依頼といえば、本当に切羽詰まった家鳴りや霊障の調査、怪異の鎮静・除霊、あるいは地元の古い寺社や常連のツテを通じた紹介案件が中心で、平日の午前中はゆっくり昼近くまで寝ていて、午後からフラリと現場へ出かけるような日も珍しくなかったのである。
だが、世界中で幽霊の実在が公式に認められて以来、状況は一変した。
亡くなった家族や恋人ともう一度言葉を交わしたいと願う『故人との交信希望者』が文字通り桁違いに膨れ上がり、さらに先週末の「13日の金曜日」に北関東の旧白鷺山保養所で起きた生配信事故と八咫烏の退魔戦闘が全国に流れたことで、「霊的な問題は素人が手を出せば命に関わる、本物の専門家に頼らなければならないのだ」という認識が社会全体に決定的なものとして定着したのだ。
沙耶は黒髪を後ろで一つに束ね、仕事用のジャケットの袖をまくり上げながら、モニターに並ぶ本日のスケジュールを睨みつけて深いため息を吐いた。
「……午前中に新規の面談が二件、昼休みを挟んで午後に三件。んで、それが終わったら夕方から調査報告書の確認と作成、と……」
ホームページのトップに「交信の成功は保証しない」という厳しい注意書きを掲げて入口で九割方の冷やかしを振るい落としてもなお、正式な手順を踏んで申し込んでくる真剣な相談者の列は途切れず、いまや沙耶一人で対応できる限界ギリギリまで予定が詰まっていた。
「……ったく、毎日毎日朝から晩まで人と会って霊視して……。一体どこのどいつだよ、一日に五枠も予約枠を開けた馬鹿は」
誰もいない事務所の中で、返事をする者はいない。
先週末、少しでも切実な相談者の待ち日数を減らしてやろうと、自分で予約システムの管理画面を操作して午前中の枠を新しく追加したのは、他ならぬ沙耶自身だったからだ。
「……アタシだよ、クソッ。二週間前の昼まで寝てた頃のアタシに土下座して謝りたいわ」
一人で悪態をついてマグカップのコーヒーを飲み干した、ちょうどその時。
時計の針が午前九時五十五分を指し、事務所の玄関のインターホンが『ピンポーン』と控えめな音を鳴らした。
沙耶は自分の両頬をペチペチと軽く叩いて気合を入れると、「はーい、ただいま開けます」と普段のガサツな地声を引っ込め、落ち着いた所長の声を作って玄関へと向かった。
扉の外に立っていた本日一人目の予約客は、六十代半ばくらいの小柄な女性――松永(まつなが)という姓の夫人だった。
仕立ての良い落ち着いた色のコートを着た上品な女性だったが、その両手には、小さな紙袋がまるで貴重品でも運ぶかのように胸の前で大切に抱えられていた。
「……本日は、お忙しいところお時間をいただきまして、本当にありがとうございます」
応接スペースへ案内し、名刺を差し出すと、女性は少し緊張した面持ちで両手でそれを受け取った。
「はいはい、どうぞそちらのソファにお掛けください。温かいお茶でいいですか?」
「はい。恐れ入ります」
給湯器でお茶を淹れてテーブルに置き、向かいの椅子に腰を下ろした沙耶は、女性が湯呑みに手を伸ばす横顔と、こちらを見つめる瞳の色を静かに観察した。
ここ最近、沙耶はこの応接室の椅子で、こういう「目」をした依頼人を何十人と見てきた。
ほんの二週間前までなら、霊媒師の個人事務所を訪れる客の目には、多かれ少なかれ「疑い」や「ためらい」の色が混ざっていたものだ。
『本当に視えるんですか?』『インチキや霊感商法じゃないですよね?』『そもそも幽霊って科学的に証明できるんですか?』――口にこそ出さずとも、そんな半信半疑の探るような視線を向けられることも珍しくなかった。
しかし、今の依頼人たちは違う。
誰一人として「幽霊なんて本当にいるのか」などとは疑っていない。世界中のニュースでライン川を渡る死者たちの姿を見、政府がそれを公式に認めた後の世界を生きる彼らは、最初から「死者の霊はこの世界に確実に実在する」という前提の上で、この雑居ビルの階段を上ってくる。
だから、彼らが沙耶に向ける問いは、いつだって最初からたった一つだけだ。
『私の大切なあの人は、まだこの世界のどこかにいるんでしょうか?』
(……ったく。どいつもこいつも、そんな冗談の通じない本気の目ぇしやがって。……そりゃ、こっちも半端な仕事はできねえよな)
沙耶は内心で小さくぼやき、背筋を伸ばして、まず最初の説明を切り出した。
「――最初に言っときますが、松永さん。私がこれから探しても、旦那様の霊が必ず見つかるわけじゃありません」
女性が緊張した顔で頷く。
「はい」
「それに、もしどこかに反応が見つかったとしても、その方がこちらとの交信を希望しているとは限りませんし、そもそも言葉を交わせる状態にあるとも限りません」
「……はい」
「それと、もし反応が見つからなかった場合、『どうして見つからなかったのか』という理由まで、私に100パーセント分かるとは限りません。……以上の点、よろしいですね?」
相手がどれほど必死に希望を求めていようと、できないことをできるとは言わないし、不確実なことを確実だとは絶対に請け合わない。それが藤代沙耶という霊媒師が自分の仕事に課している最低限のルールだった。
それでも、向かいに座る女性は、膝の上の紙袋を握りしめたまま深く頭を下げた。
「……すべて承知しています。それでも、どうかお願いいたします」
沙耶は一度だけコクリと頷いた。
「分かりました。じゃあ、まずは旦那様のお話を聞かせてもらいましょうか」
*
午前十時五分。
松永夫人が語り始めたのは、五年前に亡くなった夫についての話だった。
夫は、亡くなる直前まで地元の会社で普通に働いていたが、ある日、前触れのない突然の心疾患で倒れ、そのまま帰らぬ人となったという。
五年の歳月が流れた今も、夫人は夫のことを深く大切に想っていた。ただ、四十年近く連れ添った夫が突然いなくなってからというもの、二人で暮らしていた家が、耳が痛くなるほど静かになってしまったのだと彼女は言った。
「……あの人、昔からあまり口数の多い人じゃなかったんですけどね」
夫人は少しだけ懐かしそうに目尻を下げ、寂しげに笑った。
「夕方、仕事から帰ってくると、いつも決まって居間の同じ椅子に座って、私が淹れたお茶を黙って飲んでいたんです。……先日のニュースで、亡くなった方が生前の記憶を持ったまま残っていることがあると知った時、あんなに急に逝ってしまったあの人も、もしかしたらまだどこかで、お家に帰る道を探しているんじゃないかと思いまして……」
そこで夫人は、膝の上で大切に抱えていた小さな紙袋をそっと開いた。
中から取り出されたのは、白いハンカチに包まれた一個の古い腕時計だった。革のベルトが柔らかく馴染み、金属のベゼルに長年使い込まれた細かな傷がいくつも刻まれている、夫が何十年も毎日愛用していた時計だという。
「……これでも、手がかりになりますでしょうか」
沙耶はテーブル越しにその腕時計を受け取り、指先で重みを確かめた。
「ええ。タンスの奥にしまわれていた綺麗な物より、ご本人が毎日長く身につけていた物の方が、ずっと『縁(えん)』が残っていますからね。少しお借りしますよ」
沙耶は両手のひらで、その使い込まれた腕時計を包み込むようにして持った。
ここから彼女が行う《縁感知》は、世間の人間が漠然とイメージするような「周囲にいる幽霊を無差別に映し出すレーダー」のような力ではない。
人間が生きている間に誰かと築いた縁や、故人が長年触れていた遺品に残る微細な霊的波長を手がかりとして、その先にある霊体とのつながりを手繰り寄せる専門技術である。十一月五日の報道特番で三神編集長が説明した「遺族の記憶から故人を再現する型」とは違い、現世のどこかに実在する本人を探すための術式だ。
沙耶はゆっくりと呼吸を整え、静かに瞳を閉じた。
意識を、日常の表層から深い水底へと一段ずつ沈めていく。
普段の沙耶は言葉遣いも荒っぽく、酒好きで面倒臭がりな二十八歳の女性に過ぎない。だが、ひとたびこうして仕事の集中に入ると、彼女の纏う空気はまるで別人のように凛と静まり返る。
沙耶自身は、遺族の記憶を読み取って故人を再現する型ではなく、実在する霊体を感知し、言葉を交わせる『交霊・霊視型』の能力者だった。八咫烏の非公開基準における、彼女の魂の階位はTier2。
ただし、強い集中状態や正式な儀式に入ると、霊的な干渉の実効出力はTier1.5相当――Tier1とTier2の中間ほどにまで達することがある。これは正式な階位区分ではなく、特定分野における出力の目安だ。魂の階位自体が変化するわけではないが、霊能者としては日本でも上から数えた方が早い、文字どおりの上澄みだった。
今回は通常の《縁感知》の範疇で十分だった。
閉じた視界の暗闇の中。数十秒の沈黙が流れる。
応接室の壁掛け時計の秒針の音だけが響く中、目を閉じたままの沙耶の眉が、ピクリとわずかに動いた。
(……おっ。繋がったな)
両手のひらの中の腕時計から、細く、しかし確かな手応えを持った一本の「縁の糸」が立ち昇り、事務所の窓をすり抜けて遠くへと伸びているのを、沙耶の知覚が捉えた。
沙耶は意識の焦点をその糸の先へと向ける。
方角は、ここ台東区の事務所から見て、北西。
波長の減衰から測れる直線距離は――およそ十三キロメートル。
もちろん、人工衛星のカメラのように現地の建物や道路の景色が地図として透視できるわけではない。ただ、「北西約十三キロの地点に、この腕時計と確かな縁で結ばれた霊体の反応が存在している」という事実と方向だけが、羅針盤の針のようにピタリと定まったのである。
やがて、沙耶はゆっくりとまぶたを開いた。
「……ああ」
息を詰めて見守っていた松永夫人が、ハッとして顔を上げた。
「……先生?」
沙耶は両手を開き、腕時計をテーブルの上のハンカチへと静かに置いた。
「……いましたね」
「…………え?」
「ここから北西の方向。だいたい十三キロくらい先に、それらしい霊体の反応があります」
夫人が「……っ!」と大きく息を呑み、両手で口元を押さえた。
「……ほ、本当ですか!? 北西に十三キロって……私どもの自宅と、主人が昔通っていた会社があるのが、まさにその方角なんです……!」
「ええ。ただ、落ち着いて聞いてくださいね。今の段階では、まだ旦那さんご本人だって100パーセント確定したわけじゃありませんよ。この時計と縁がつながる霊体の反応を遠隔で見つけた、というだけですから」
「……はい!」
「ここから直接その霊体を呼び出すには、十三キロはちょっと距離がありすぎますね。後日、私がその反応の近くまで実際に移動して、そこで改めて正式に交霊を試みれば、言葉を交わせる可能性はあります」
夫人はテーブルの上の腕時計を両手で胸に抱きしめ、ポロポロと涙をこぼしながら「……あの人が……まだ、どこかにいてくれたんですね……」と震える声で呟いた。
感動に震える依頼人を前に、沙耶はことさら劇的な言葉をかけるでもなく、いつもの淡々とした事務的な口調で確認した。
「で、松永さん。どうします?」
「……え?」
「ここから先は別日の現地業務になりますから、往復の交通費と現地調査の費用が別にかかりますし、さっきも言った通り、現地へ行ったからって実際に会える保証もありません。……それでも、試してみますか?」
沙耶がそう尋ねた瞬間。
夫人は涙で濡れた顔をガバッと上げ、テーブル越しに身を乗り出して、食い気味に叫んだ。
「お願いします!!! どうか、お願いいたします先生!!!」
「……ですよねえ」
あまりの即答っぷりに、沙耶は思わず肩の力を抜いて苦笑いした。
沙耶は手元の予定表を開きながら、これからの段取りを説明した。
「分かりました。じゃあ、私が先に現地の詳しい場所と安全を確認してから、別の日に同行します。来週の火曜日の午後なら空けられますが、それまでの間、絶対に一人で勝手に探しに行ったりしないでくださいね」
「はい!」
「近くまで行ったからって、普通の人には霊が見えるわけじゃないですから。下手にウロウロして変なものを拾っても危ないんで」
「分かりました、必ず先生とご一緒するまで待ちます」
そして沙耶は、予約の手続きを終えて立ち上がろうとする夫人に、ふと思い出したように言った。
「――あと、もし現地で上手く交信できたら、旦那さんに『何を伝えたいか』、あらかじめ考えておいてくださいね」
夫人は、少し驚いたような顔をして目を瞬かせた。
「……何を、ですか?」
「ええ。何年も会いたいと思っていた人ほど、いざ本当に目の前で繋がると、頭が真っ白になって泣くばっかりで、何にも言えなくなる人が多いんで」
その言葉に、松永夫人はふっと目を伏せ、涙の跡が残る頬を緩めて小さく笑った。
「……そうですね。五年間も、毎日あんなに話したいことがあったはずなのに、いざとなると何から話せばいいのか……お家のことか、庭の植木のことか、迷ってしまいますね」
沙耶はテーブルの端からティッシュの箱を取り、彼女の前へ無造作に差し出した。
「……まあ、来週まで時間はありますから、急がなくていいですよ」
深く頭を下げて帰っていく一人目の依頼人を見送り、沙耶は少しだけ柔らかい表情で息を吐いた。
こうして確かな反応が見つかり、次への希望を繋げられる相談は、霊媒師にとっても気分がいい。
*
午前十一時三十分。
換気のために一度開けた窓を閉め、新しいお茶を用意したところで、午前中二人目の予約客が事務所を訪れた。
扉を開けて入ってきたのは、落ち着いた紺色のスーツを着た四十六歳の女性――高瀬美和(たかせ・みわ)だった。
二週間前の十一月六日、五千件近い問い合わせメールの山の中で沙耶が目を留め、「ご希望された故人と必ず交信できるとお約束はできませんが、それでもよければ一度お話をお聞かせください」と返信を送った、あの女性である。その後、数回のメールで日程を調整し、本日ようやく対面の相談へと至ったのだった。
「……藤代先生。先日は、お忙しい中にお返事をくださって本当にありがとうございました。高瀬美和と申します」
「お待ちしておりました、高瀬さん。どうぞお掛けください」
ソファに腰を下ろした高瀬美和は、バッグの中から一枚の写真が入ったフレームと、使い込まれた黒い布製の筆箱を取り出し、テーブルの上にそっと並べた。
写真の中で笑っているのは、三年前に交通事故で亡くなったという、当時十七歳の息子・翔太(しょうた)だった。
以前のメールにも、事故の日の朝に些細な進路のことで親子喧嘩をしてしまったことは書かれていたが、実際に対面した高瀬美和は、震える声でその朝の出来事をより詳しく語り始めた。
「……私、あの日の朝、あの子に本当にひどいことを言ったんです」
沙耶は言葉を挟まず、黙って彼女の声に耳を傾ける。
「学校に出す進路の書類をまだ書いていないって聞いて、朝の忙しさでイライラしてしまって……『何でこんな簡単なことも決められないの』って。『あなたの将来のことなのに、どうしていつもそうやってお母さんを困らせるの』って、玄関で怒鳴ってしまったんです」
「……それで?」
「……あの子、何も言い返さなくて」
高瀬美和は、テーブルの上の息子の写真をじっと見つめた。
「いつもなら『うるさいなあ、今考えてるよ』くらい言い返す子だったのに、あの朝は、ただ黙って靴を履いて、少しだけ困ったような顔をして出ていきました。……それが、あの子との最後でした」
室内に、静かな沈黙が落ちた。
三年間、一日たりとも消えることのなかった母親の後悔の重さが、その短い言葉の端々から痛いほど伝わってくる。
「……お話しいただき、ありがとうございます。では、こちらの筆箱をお借りしますね」
沙耶は、翔太が高校で毎日使っていたという黒い筆箱を両手で受け取った。
一礼し、背筋を伸ばして目を閉じる。
一人目の時と同じように、呼吸を深く沈め、筆箱に残された少年の記憶と、目の前にいる母親の縁を手がかりに《縁感知》を開始した。
――だが。
三十秒、一分と意識を澄ませても、沙耶の手のひらの中には、何の反応も返ってこなかった。
(…………繋がらないな)
先ほどの松永夫人の腕時計の時は、意識を沈めてすぐに、北西方向へピンと張った縁の糸が感じられた。
しかし今、沙耶が握っている筆箱からは、方向も、距離も、何一つ浮かび上がってこない。それどころか、現世のどこかに霊体が存在していることを示すわずかな気配すら、全く見つけられないのだ。
沙耶は目を閉じたまま、静かに感知のアプローチを切り替えた。
筆箱だけでなく、テーブルの上の『家族写真』に指先を触れさせ、事前に控えられていた『高瀬翔太という氏名』『生年月日』、そして彼が十七年間暮らしていた『自宅や通学路の情報』へと順番に意識の波長を合わせて、もう一度全方位を探る。
それでも、結果は変わらない。
(……なら、もう一段深く潜るか)
沙耶は仰々しい呪文を唱えたり派手な身振りをしたりすることなく、ただ静かな呼吸の中で、自身の集中の深度を一段階、二段階と深く引き上げた。
通常の探索から、縁のかすかな痕跡まで拾い上げる深層感知へ。
静まり返った事務所の中で、壁掛け時計のコチ、コチ、という音と、沙耶の深く規則正しい呼吸音だけが響く。向かいの席では、高瀬美和が祈るように両手を固く握りしめ、目を閉じた沙耶の顔をただじっと見つめていた。
一分。二分。三分。
どれほど感知の精度を極限まで引き上げ、どれほど微細な縁の痕跡をすくい上げようとしても――そこにあるのは、どこまでも澄み切った「空白(不在)」だけだった。
存在しない反応を、能力で無理やり作り出すことはできない。
やがて沙耶は、ゆっくりと深い息を吐き出し、静かに目を開いた。
「…………」
沙耶が何も言わず、ただ静かな目でこちらを見たその表情だけで、高瀬美和はすべてを察してしまったようだった。
握りしめていた彼女の両手から、すっと力が抜ける。
「……先生」
「……はい」
「……翔太は、見つからなかったんですね」
沙耶は、目を逸らさずに真っ直ぐ彼女を見つめ、嘘偽りない事実を告げた。
「……すみません。今の私には、息子さんの反応を感知できませんでした」
「…………」
「遺品からも、お写真からも、できる限りの深さまで探ってみましたが、少なくとも、今こちらからつながれる状態ではないようです」
高瀬美和が俯き、その目から、ぽろりと一粒の涙がこぼれて膝の上に落ちた。
「……そうですか……」
消え入りそうなその声を聞きながら、沙耶は一拍の間を置き、ゆっくりと、慎重に言葉を選んで語りかけた。
「――ただ、高瀬さん。反応がないこと自体は、決して悪い知らせとは限りませんよ」
「……え?」
美和が涙に濡れた顔を上げる。
「亡くなってから時間が経っている方の場合、こうして現世のどこにも反応が見つからないというのは、もうこの世に苦しい未練を残さず、安らかな場所へ旅立っていることも多いんです」
「…………」
「もちろん、翔太さんが間違いなくそうだと、私が100パーセント断定できるわけじゃありません。ただ、少なくとも『今もどこかの暗い場所で、一人で苦しみ続けている』って決まったわけでもないんです」
高瀬美和は、しばらくの間、何も言わずにテーブルの上の息子の写真を見つめていた。
長い沈黙のあと、彼女はぽつりと呟いた。
「……私、ずっと怖かったんです」
「……何がです?」
「……あの子が、最後に私に言われたあの言葉を、死んだあともずっと気にしていたんじゃないかって」
沙耶は黙って頷き、続きを待った。
「もし、あの子が『お母さんを困らせるな』って言われたことで傷ついて、私を恨んで、この世のどこかに留まって泣いていたらどうしようって……この三年間、そればかりが怖くてたまりませんでした」
高瀬美和は、写真の中の少し照れくさそうに笑う十七歳の息子の顔を、指先でそっと撫でた。
「……でも、もし、先生のおっしゃるように、あの子がそんなことに縛られずに、ちゃんと旅立てているのなら……」
彼女の目から、先ほどとは違う、どこか温かい涙が次々とあふれ落ちてきた。
「……会えなくても、よかった、のかもしれませんね」
沙耶は、それに対して「ええ、きっとそうですよ」と安易な保証を与えることはしなかった。ただ、静かにこう答えた。
「……あなたがそう思えるなら、それでいいんじゃないですか」
それ以上は、余計な言葉を足さなかった。
沙耶は今日、彼女の息子を見つけ出すことはできなかった。けれど、目の前の母親は、「見つからなかった」というその事実の中から、自分自身の力で三年間止まっていた時間を前に進めるための「一つの答え」を見つけ出したのだ。
三十分後、少し腫れた目で、しかし穏やかな表情で礼を言って帰っていく高瀬美和を見送りながら、沙耶の胸には静かで温かい余韻が残っていた。
*
だが、霊媒師の仕事は、いつもそんな風にきれいな余韻で終わってくれるわけではない。
まったく同じ「反応なし」という結果であっても、受け取る人間によっては、それが何の救いにもならない残酷な刃となることもある。
昼休みを挟んだ午後二時からの三件目は、杉並区から訪れた五十代の男性、佐野だった。十一月六日に電話をかけてきた、あの相談者である。
佐野は二年前、妻を病気で亡くしていた。二人の間に子供はなく、妻と二人きりで暮らしていた家で、今も一人で生活を続けているという。
男性が持参したのは、妻の小さな結婚指輪と、生前の写真だった。
沙耶は午前中と同じように事前の説明を行い、結婚指輪を手に取って《縁感知》を行った。
通常感知から、深層への集中へ。
しかし――結果は、先ほどの高瀬美和の時と同じく、完全な『反応なし』だった。
「……すみません。奥様の霊体は確認できませんでした」
目を開けた沙耶が静かにそう告げると、向かいの椅子に座っていた男性は、糸が切れたように深く俯いた。
「……そう、ですか……」
沙耶は先ほどと同じように、落ち着いた声で言葉を継いだ。
「亡くなってから二年が経っておりますので、すでに迷いなく旅立っている可能性もあります。ただ、私に確認できるのはここまでです」
男性は、長い間、一言も発さずに黙り込んでいた。
高瀬美和は「息子が恨まずに旅立てたのかもしれない」という可能性に救われた。
しかし、この男性は違った。子供もおらず、静まり返った家で一人きりで生きてきた彼にとっては、「亡くなった妻が、まだこの世界のどこかにいて、いつかもう一度会えるかもしれない」と信じられることだけが、今日まで彼を生かしてきた唯一の希望だったのだ。
「どこにも見つからない(すでに旅立ったかもしれない)」という知らせは、彼にとって安心ではなく、最後の希望を奪い去る宣告でしかなかった。
やがて男性は、顔を上げないまま、掠れた小さな声で尋ねた。
「……じゃあ、私は、もう二度とあいつには会えないんでしょうか」
「……それは、私にも分かりません」
「…………」
「私が今日お伝えできるのは、『現時点では、こちらから交信する手段が見つからなかった』。それだけです」
男性は、膝の上で妻の小さな結婚指輪を、指の関節が白くなるほど強く握りしめた。
「……最後に、一言だけでも……話したかったな……」
その声は、今にも泣き崩れそうなほど細かく震えていた。
もし沙耶がその気になれば、目の前の男性を慰めるために、「奥様は今、温かい場所で幸せに暮らしていて、あなたに感謝していますよ」と優しい物語を語って聞かせることなど、造作もないことだった。そうすれば彼はどれだけ救われただろう。
だが、沙耶はそれを絶対にしない。本人から聞いてもいない言葉を、自分の口で捏造して遺族に売り渡すことだけは、本物の霊媒師として死んでもやってはならない一線だからだ。
沈黙が落ちた応接室で、沙耶は静かに言った。
「……今日は、ここまでにしましょうか。お代は結構です」
男性は力なく頷き、ゆっくりと立ち上がった。
「……ありがとうございました」
「……いえ」
ドアノブに手をかけた男性は、振り返らずに、ぽつりとこう言った。
「……先生が、気休めの嘘をついていないことだけは、よく分かります」
それだけ言って、男性は静かに部屋を出ていった。
パタン、と鉄扉が閉まる。
一人残された事務所の中で、沙耶はしばらくの間、誰もいなくなった閉まったままのドアをじっと見つめていた。
「…………」
五秒後、彼女は小さく、重たい息を吐き出した。
「……あーあ」
かっこいい決め台詞など、何一つ出てこない。
ドアの向こうから、佐野が階段を下りていく足音が、しばらく聞こえていた。
午後三時からの四件目は、実家に亡き父親の霊が残っているのではないか、という相談だった。《縁感知》では反応がなく、家鳴りは建物の老朽化が原因の可能性もあったため、まず住宅の安全点検を勧めた。
午後四時からの五件目は、以前から担当している軽度の霊障案件の経過確認と護符の交換だった。沙耶は記録を照合し、必要な処置を済ませて次回の点検日を決める。
最後の依頼人を見送る頃には、窓の外はすっかり夕暮れになっていた。
午後五時十五分。
最後の相談者を見送り、玄関の鍵を閉めた沙耶は、休憩用のソファへと「……つっかれたああああ……」と呻きながら倒れ込んだ。
クッションに顔を埋めたまま横目でデスクのモニターを見れば、明日も、明後日も、来週も、予約の枠が隙間なく並んでいる。
収入の面で言えば、以前とは比べものにならないほど潤っているのは確かだ。だが、お金がいくら増えたところで、藤代沙耶の身体と神経は一つしかない。
「……こりゃあ、マジで助手でも一人雇わねえと、そのうちアタシが過労でぶっ倒れてやってらんねえな……」
そんなことを本気で呟いた、ちょうどその時だった。
テーブルの上のスマートフォンが震え、古くからの付き合いがある浅草の古参霊媒師、岩瀬玄一(いわせ・げんいち、七十六歳)から、一通の短いメッセージが届いた。
『今夜七時、いつもの店じゃ。沙耶も顔を出せ』
「……はあ? こんなクソ疲れてる平日の夜に、じいさん連中の飲み会?」
沙耶は眉をひそめて断ろうかと思ったが、考えてみれば、あの憎めない年寄り連中の顔を見るのは一ヶ月ぶりだ。今日一日で溜まった重たい澱みを洗い流すには、気心の知れた同業者たちと騒々しく酒を飲むのが一番かもしれない。
「……まあ、ちょっと顔出して、二、三杯飲んで帰るくらいならいいか」
沙耶はソファから起き上がると、報告書をまとめてパソコンの電源を落とし、夜の街へと出かけていった。
*
午後七時五分。浅草の裏通りにある、赤い提灯がぶら下がった古い大衆居酒屋。
一階の焼き鳥の煙と喧騒を抜け、急な階段を上って二階の座敷の襖をガラリと開けると、そこではすでに、凄まじい熱気の宴会が始まっていた。
座敷のテーブルを囲んでいるのは、下は六十代後半から、上は八十代半ばに至るまでの『古参の霊媒師・除霊師』たち、男女合わせて十人ほど。
誰もが戦後から今日に至るまで、東京の裏側で本物の霊媒や除霊を生業にして生き抜いてきた海千山千の専門家たちなのだが、こうして酒の席に集まれば、見た目はただの「近所の酒好きで騒々しいお爺ちゃんとお婆ちゃんの集団」でしかなかった。
その平均年齢七十五歳オーバーの座敷の中に、二十八歳の沙耶がたった一人だけ混ざるのである。
「おお、沙耶! 来たか!」
「遅いぞ、若いの! もう乾杯は済ませちまったぞ!」
赤い顔をした爺さん連中から声がかかり、沙耶は靴を脱いで上がりながら即座に言い返した。
「うるせえな、こっちは夕方まで仕事終わりなんだよ! 七時前に勝手に始めてるなら、最初から七時って呼ぶなっての!」
「ほっほっほ! 相変わらず口が悪いのう、この娘は!」
「誰に育てられたと思ってんだよ!」
「儂らじゃ!」
「だからこんなに口が悪くなったんだろうが!!」
「違いねえ、わっはっは!」と座敷中がドッと沸き、沙耶は空いていた真ん中の座布団に腰を下ろして、突き出しとおしぼり、そして冷えた生ビールのジョッキを受け取った。
一口グイッとビールを煽って周りを見渡すと、老人たちの顔は、沙耶がこれまで見たことがないほどツヤツヤと上気し、景気のいい笑顔で満ち溢れていた。
座敷の中で最年長となる八十代の小柄な老婆が、お猪口を片手に嬉しそうに目を細めて言った。
「いやあ、しかし沙耶ちゃん、ここ二週間で本当に信じられないくらい忙しくなったねえ」
「まったくだ」と、隣に座る七十代の老人も大きく頷いた。「儂のところなんぞ、お彼岸とお盆くらいしか客が来んかったのに、今じゃ新規の相談予約が三ヶ月先までビッシリ埋まってしもうたわ!」
「そりゃすごいね」
「いやいや、まだまだ! 向こうの角に座っとる親父なんか、あんまり客が殺到するもんだから相談料を少し値上げしたのに、それでも依頼が全然減らんそうじゃぞ!」
沙耶はビールを飲みながら、その角の老人の顔をジロリと見た。
「……へえ。そりゃずいぶん儲かってんね」
言われた老人は、悪びれる様子もなく「おうよ!」と嬉しそうに胸を張った。
「そうじゃ! この道五十年で一番のぼろ儲けじゃ! いやあ、長生きはするもんじゃ、実にいい世の中になったのう!」
そのあまりにも素直な自慢話を聞いて、沙耶は否定するどころか、ふっと口元を緩めてこう言った。
「……ま、よかったじゃん。あんたら、世間から何と言われようと昔からずっと真面目にこの仕事をしてきたんだしさ。今さら少し真っ当に稼いだくらいで、バチも当たらねえし誰も文句言わねえよ」
「おお! 沙耶、お前さん若いのに話が分かっとるじゃないか!」
「ただし!」
沙耶はそこで、ビシッと焼き鳥の串を老人の鼻先へ突きつけた。
「調子に乗って、できねえことまで『できます、必ず会わせます』なんて嘘ついて客取るんじゃないよ? そんな真似したらアタシが最初に殴り込みに行くからね」
「馬鹿者、誰に向かって言っとるんじゃ! こちとらこの道五十年、嘘だけはついたことがないわい!」
「じゃあ、その五十年分の看板に泥塗らないように、最後まで責任持って仕事しな!」
「言われなくても分かっとるわい、ガッハッハ!」と、一同が再び腹を抱えて大笑いした。
すると、少し酒が回ってきた一人の老人が、感極まったように立ち上がり、徳利をマイク代わりにして熱弁を振るい始めた。
「――しかし、みんな考えてもみろ! 昔は『霊媒師をしておる』『拝み屋をしておる』と名乗っただけで、世間の連中からは頭のおかしい詐欺師呼ばわりじゃった!」
「そうじゃそうじゃ!」と周りから合いの手が入る。
「田舎の親戚からは『いつまでそんな怪しい恥ずかしい仕事をしておるんだ』と肩身の狭い思いをさせられ!」
「近所の連中には『あそこの家は夜な夜な変なものを拝んでおる』とヒソヒソ噂され!」
「それが、二〇二六年の今はどうじゃ!!」
老人は真っ赤な顔で胸を張り、酒の入ったグラスを天井へ向かって高々と掲げた。
「日本政府も、アメリカもヨーロッパも、世界中の政府が『幽霊は本当に実在する』と公式に認めて、今やテレビも世間も、誰もが儂らの力と仕事を必要として頭を下げに来よる!
幽霊なんぞ迷信深い年寄りしか信じていなかった時代は、今日で完全に終わったんじゃ! ついに、儂ら霊媒師の時代が来たんじゃあああああ!!!」
「「「おおおおおおおおおっ!!!」」」
座敷中の爺さんと婆さんたちが、拳を突き上げて大歓声を上げた。
そのあまりにも元気すぎる光景に、沙耶は耳を押さえて呆れながら笑った。
「……はいはい、あんたらの時代が来たのは分かったから、座りなよ。よかったねえ、ほんとに」
「なんじゃ沙耶、お前さんも同じ霊媒師じゃろうが! もっと一緒になって喜ばんか!」
「十分喜んでるよ! ただあんたらの声がデカすぎて、一階の客がびっくりしてるっつってんの!」
ひとしきり乾杯のやり直しで盛り上がったあと、話題は自然と、先週末の金曜日に起きた「旧白鷺山保養所での心霊配信死亡事故」のことへと移った。
先ほどまで笑っていた老人の一人が、刺身をつまみながら「……ふぅ。それにしても、あの北関東の心霊スポットに入った若い配信者の連中は、本当に馬鹿なことをしたもんじゃのう」と重いため息を吐いた。
向かいの老婆も、しんみりと首を振った。
「本当だよ。八咫烏がわざわざ二重に封鎖して立入禁止にしていたような危ない場所に、お守り一つ持たずにカメラ回して入って、若い命を落とすなんてねえ……」
沙耶もグラスを置き、静かに頷いた。
「……ああ。まだ二十代で若いのに、なんであんな死に急ぐような真似をするんだかねえ」
「しかもニュースを見とると、あれだけ悲惨な映像が流れたのに、まだ全国で同じように廃墟へ入ろうとする連中がおるんじゃろ?」
「いるらしいね。おかげで八咫烏の心霊部門も、警察も、毎晩パトロールと救助でてんてこ舞いだってさ」
プロである沙耶たちから見れば、何の訓練も防護も持たない普通の人間が、深化しかけた悪霊の精神干渉に自力で対抗するなど、最初から不可能な話だ。素人が肝試し気分で踏み込めば、ああやって認識を狂わされて命を落とすか、心を壊されるだけなのである。
老人が冷酒を一口啜って言った。
「まあ、ああいう怖いもの見たさで危ない祠や廃墟に入りたがる愚か者は、昔から一定数おったがのう」
「……そうだね」
「ただ、昔と違うのは、今は全員が手に『世界中へ生中継できるカメラ(スマホ)』を持っておることじゃ。死ぬ瞬間まで世間に流れて、それがまた次の馬鹿を呼ぶ。厄介な時代になったもんよ」
「……まったくだ」
*
午後八時を回った頃。
座敷のあちこちで別々の雑談に花が咲き始めた中、沙耶のすぐ隣の席で静かに鮎の塩焼きをつついていた岩瀬が、ふと箸を置いて話しかけてきた。
「……ところで、沙耶」
「ん? なに、岩瀬のじいさん」
「お前さん、そろそろ『弟子』は取らんのか?」
「…………は?」
唐突な質問に、沙耶は唐揚げを掴みかけていた箸をピタリと止めた。
「なんだよ急に、弟子って」
「いや、これだけ仕事も増えたことじゃし、お前さんのところにもそろそろ弟子の一人くらいおってもよかろうと思っての」
「……あのなあ、じいさん。アタシ、まだ二十八だぞ?」
「二十八がどうした?」
「どうしたって、人に教えるような歳じゃねえだろって話だよ」
すると岩瀬は、白髪混じりの太い眉を上げて、心底不思議そうに言った。
「何を言っとる。歳が若かろうが、今この東京の界隈で、お前さんより腕のいい霊媒師が一体何人おるというんじゃ?」
そう正面から言われ、沙耶は少しだけ口ごもった。
沙耶が言い返しかけると、岩瀬は何食わぬ顔で鮎をひと口かじった。周りの老人たちも、誰一人その言葉に異を唱えない。
ただ、沙耶自身にとっては、自分が誰かの「師匠(指導役)」になるなど、考えたこともない話だった。
「……いや、腕の話じゃなくてさ。誰かに一から技術を教えるのって、単純に面倒くさいじゃん」
「ほっほっほ! そういう素直じゃなくて面倒臭がりなところは、十代の小娘の頃からちっとも変わらんのう!」
「うるせえよ」
沙耶は悪態をつきながらジョッキを傾け、頭の中でこの「霊媒師という業界の後継者事情」について思い巡らせた。
先日イギリスのネットで「壁歩きの能力者が四世代続いている」という話が話題になっていたが、日本の霊媒体質(視える・聞こえる・降ろせる資質)にも、古くから血筋によって親から子へと継承されやすい強い傾向がある。そのため、伝統的な霊媒師や拝み屋の家系では、実の子供や孫がそのまま跡継ぎになるケースが多かった。
しかし、必ずしも血縁だけで継がれていくわけではない。
世の中には、ごく普通の無能力者の家庭に突然変異のように強い霊媒体質を持って生まれたために、親や周囲から「嘘つきだ」「頭がおかしい」と理解されずに苦しんでいる子供がいる。あるいは、早くに親を亡くして身寄りがなく、幼い頃から常人には見えない死者の姿が見えてしまって怯え続けている子供もいる。
そうした行き場のない子供たちを、力のある霊媒師の家が「内弟子(あるいは養子や保護対象)」として引き取って育て、自分の霊力を制御する技術と礼儀作法を教え込み、やがて一人前の後継者として独立させる――という慣習が、日本の裏社会には古くから根付いていた。
地方の古いイタコや祈祷師の筋には今でもそうした師弟継承が多く残っているし、ここ東京の古参霊媒師たちの間でも同じだ。もちろん二〇二六年の現代においては、児童の養育や保護には行政や八咫烏を通じた厳格な法的手続きを踏む必要があり、何より本人の自由意思が尊重されるが、「血の繋がらない師匠が、同じ体質を持つ若い後輩を預かって育てる」という文化自体は、今も大切に守られている。
何を隠そう、沙耶自身も十代の頃に先代の師匠のもとで厳しく鍛え上げられたからこそ、今の自分があることをよく知っていた。
隣で猪口を傾けていた岩瀬が、少しだけ声を落として話し始めた。
「……実はな、沙耶。うちのところにも今、何人か若い見習いがおっての」
「へえ、じいさんのところに? 知らなかったな」
「うむ。まだ十代後半から二十そこそこで修業中の身じゃが、その中に一人、なかなか筋が良くて真面目なのがおるんじゃ」
「そりゃよかったじゃん。じいさんの跡継ぎができたってことだろ」
「……ただな、儂も今年で七十六じゃ」
岩瀬は自分の節くれだった手を見つめ、静かに言った。
「今はまだこうして酒を飲んで現役で仕事ができておるが、あと五年後、十年後も同じように現場へ出て動けるとは限らん」
沙耶は茶化さずに、黙って頷いた。
「……そりゃ、人間だからそうだね」
「儂が元気で育てられる間は、もちろん責任を持って育てる。だが、もし儂が急に倒れたり動けなくなったりした時に、まだ半人前のあの子らをどうするか、今のうちから次の受け皿を考えておかんとな」
座敷の喧騒の中で、ここだけ少し真面目な空気が流れた。
強い霊媒体質を持って生まれた若者が、自分の力を正しく制御・遮断する技術を身につけないまま師匠を失って放り出されれば、それは単に「就職先がなくなる」という話では済まない。自分の体質を扱いきれずに悪霊の干渉をまともに食らい、日常生活はおろか命や精神に支障をきたす危険すらあるのだ。だから、師匠が後継者を育てることには重い責任が伴う。
岩瀬はそこで沙耶の顔を真っ直ぐに見て、本題を切り出した。
「そこでじゃ、沙耶。お前さんに一つ、折り入って頼みがあっての」
「……おい、なんか嫌な予感しかしねえぞ」
「うちにおるその見習いの一人を、週に何日か、お前さんの事務所で預かって現場や実務を見せてやってくれんか?」
「……はあ!?」
沙耶は目を丸くして声を上げた。
「な、なんでアタシなんだよ! 今じいさんのところにいるんなら、じいさんが毎日教えりゃいいだろ!」
「もちろん基本はうちで教えるが、儂の古いやり方だけでなく、お前さんのような若い一流の現場や、現代的な事務所の回し方も今のうちに経験させておきたいんじゃ。それに、万が一将来儂に何かあった時にも、最初から顔見知りで気心が知れておればスムーズに引き継げるじゃろう? ……ほかに頼める霊媒師もおらんではないか」
「ほかにも霊媒師なんて、この座敷にだって何人もいるだろ」
沙耶が周りを見回して言うと、岩瀬は小さく頷き、声を潜めて言った。
「おるよ。おるにはおるがな、中には金さえ渡せば弟子を引き受けて、高い授業料を取って型通りの技術だけ教えておしまい、という連中もおる」
「……じゃあ、そういうところに頼めばいいじゃん」
「……いや。儂としては、あの子をそういうがめつい連中のところに預ける気には、どうしてもならんのじゃ」
「…………」
沙耶は、岩瀬の真剣な目を見た。
冗談や面倒事の押し付けではなく、この老人が本気でその見習いの将来を案じ、自分を見込んで頭を下げていることが伝わってきた。
「……まあ、じいさんの言いたいことも、分からんでもないけどさ」
と、沙耶が小さく呟いた、その瞬間だった。
座敷の反対側で刺身をつまんでいた七十代の老人が、聞き耳を立てていたのか、顔を真っ赤にして立ち上がって怒鳴った。
「――おい岩瀬コラァッ!! さっきから全部こっちまで聞こえとるぞ!! 誰が『高い授業料を取るがめつい連中』じゃあああっ!!!」
岩瀬は涼しい顔でそっぽを向いた。
「ほう、誰も特定の個人の名前なんぞ出しとらんがのう。自分で手を挙げるとは珍しいのう」
「今の言い方は完全に儂のことじゃろうが!!」
すると、横にいた老婆がケラケラと笑いながら油を注いだ。
「まあまあ、あんたのところが昔からテキスト代だの免状代だので授業料が一番高いのは、この界隈じゃ事実だからねえ!」
「なっ、それはうちの道場の設備と高級な護符の教材に金がかかるからじゃ!! 適正価格じゃわい!!」
たちまち始まる年寄り同士の賑やかな口喧嘩を見て、沙耶は思わず吹き出して笑った。
「……あはははっ! ったく、いくつになってもうるせえジジイとババアどもだなあ!」
*
沙耶は新しい生ビールを一口飲みながら、冷静に自分の事務所の事情を計算した。
今日も朝から夕方まで五件の相談と業務に追われ、さっきソファに倒れ込みながら「マジで助手でも雇わないとやってられない」と自分で呟いたばかりだ。
今の彼女の事務所では、霊媒師としての本来の専門業務(霊視・縁感知・除霊)以外の雑務――電話の応対、予約メールの整理、お茶出し、霊具の手入れや事前の記録作成といった作業に、あまりにも多くの時間を取られすぎている。
岩瀬が基礎から面倒を見ている見習いなら、道具の準備や記録作業を手伝ってもらいながら、現場の安全確認や依頼人への対応を教えられる。沙耶の方も、一人で抱え込んでいた仕事を少しは減らせそうだった。
沙耶はジョッキをテーブルに置き、岩瀬の方へと向き直った。
「……まあ、正式な弟子じゃなくて『見習い(助手)』として預かるくらいなら、いいよ」
「おお! 本当か、沙耶!」
岩瀬の顔がパッと輝いた。
「ああ。ちょうど、うちの事務所も猫の手も借りたいくらい人手が足りなかったからね。雑務を手伝ってくれる助手が欲しいところだったんだ」
「ほっほっほ! そうかそうか、それは助かるわい!」
ただし、と沙耶は人差し指を立てて、プロとしての厳格な条件を突きつけた。
「先に言っとくけど、足手まといはごめんだよ?」
「心配するな! 礼儀作法も、霊的な自己防衛(遮断)の基礎も、儂がみっちり仕込んである!」
「あんたの言う『基礎は仕込んである』って言葉、昭和のスパルタ基準だろうからどこまで信用していいんだかねえ」
「失礼な奴じゃのう!」
沙耶は笑いながらも、真面目な口調で三つの条件を出した。
「まず一つ、最初は事務所での電話番や記録整理、道具の準備といった事務作業と基礎訓練からやってもらう。白鷺山みたいな危険な除霊現場へいきなり同行させるような真似は絶対にしない。
二つ、うちの事務所には深刻な悩みを抱えた相談者が来るから、個人のプライバシーと守秘義務を100パーセント理解して守れること。
そして一番大事なことだけど……その見習いの子『本人』が、うちへ来ることをちゃんと納得して希望していること。もしじいさんが勝手に決めて、本人が嫌がってるなら、その場で断るからね」
岩瀬は、沙耶のその誠実な条件を聞いて、我が意を得たりとばかりに深く頷いた。
「うむ、それでこそ沙耶じゃ。もちろん本人にもすでにお前さんの話はしてあるし、ぜひ藤代先生のところで勉強させていただきたいと目を輝かせておったよ」
「……なら、いいよ」
「よし! では、まずは『週に二日』ほど、お前の事務所へ通わせる形でどうじゃ?」
「……週二か」
「うむ。ほかの曜日はこれまで通り儂のところで基礎を面倒見る。まずは週に二日、お前の隣で本物の仕事を見て学ばせ、雑務を手伝わせればいい」
沙耶は少し頭の中でスケジュールを組み立て、「……まあ、水曜と金曜あたり、週二くらいならちょうどいいか」と頷いた。
「よし、決まりじゃ! 取引成立じゃな!」
「……話まとめるの早えな、おい」
「善は急げと言うじゃろうが! 細かい日取りや条件は、また明日改めて連絡するわい!」
「……ったく、調子のいいじいさんだこと」
こうして、まだ見ぬその見習いの氏名や年齢、具体的な能力の詳細については後日の顔合わせで確認することとして、藤代沙耶の事務所に「週二日の見習い助手」がやってくることが決まったのだった。
岩瀬が「いやあ、めでたい! あの小娘だった沙耶にも、ついに弟子ができたのう!」と嬉しそうに沙耶のグラスに酒を注ごうとすると、沙耶は慌てて言い返した。
「だから、まだ弟子じゃねえって言ってんだろ! じいさんのところの見習いを週二で預かるだけだ!」
「似たようなもんじゃ!」
「全然違うわ!」
それを聞きつけた周囲の老人たちも、一斉にニヤニヤと茶化し始めた。
「おお、沙耶ちゃんもいよいよ師匠(先生)デビューかい!」
「二十八歳で弟子持ちとは立派になったもんじゃ!」
「そのうち『藤代流』の二代目でも育てるんかのう!」
「勝手に流派を作って話を進めるんじゃねえよボケジジイども!!」
顔を赤くして怒鳴り返す沙耶に、座敷中が今日一番の笑い声に包まれた。
*
宴会も終盤に差し掛かった午後九時半過ぎ。
賑やかな笑い声の合間に、隅に座っていた八十過ぎのお婆さんが、温かいお茶を啜りながら、ふとしみじみとした声で呟いた。
「……それにしても、本当に変わったねえ」
近くにいた沙耶が、そちらを振り返った。
「……何が?」
「世の中だよ、沙耶ちゃん」
老婆は目尻に深い皺を寄せて笑い、懐から少し大きめの文字表示に設定された自分のスマートフォンを取り出して、沙耶に画面を見せてくれた。
「昔はねえ、霊媒師なんて名乗ると、若い人たちからは迷信だって眉をひそめられて、同世代の年寄りからすら『あそこは拝み屋だ』って何だか怖いものを見るみたいに言われたもんさ」
「……まあ、そうだったね」
「でもね、今は違うんだよ。ほら、これを見ておくれ」
画面に表示されていたのは、数日前に、遠く離れた都会で暮らす高校生の孫から老婆の元へ届いたというメッセージだった。
『おばあちゃん、テレビのニュース見たよ! おばあちゃんって、本当に幽霊が見えて、困ってる人を助けるすごいお仕事をしてる人だったんだね! 今までお友達の前でちょっと恥ずかしいとか思って疑っててごめんね、私、おばあちゃんのこと自慢に思うよ!』
老婆は画面を撫でながら、少女のように少し照れくさそうに笑った。
「……六十年この仕事をしてきて、孫からこんなことを言ってもらえる日が来るなんてねえ。長生きはするもんだよ、本当に」
それを見た沙耶の胸の奥が、ふわりと温かくなった。
沙耶もまた、素直に笑って頷いた。
「……そうだね。よかったじゃん、お婆ちゃん」
すると、隣で聞いていた別の老人が、涙目で鼻をすすりながら再びグラスを掲げた。
「そうとも、孫に自慢されてからが本番じゃ! わしらはまだまだくたばらんぞ、長生きするぞ!」
「おい、お前はまず医者に止められとる酒の量を控えろ!」
「何を言うか! 世間に認められた今日から、儂らの『第二の青春』が始まるんじゃ!」
「……はいはい、第二の青春は結構だけど、飲みすぎて救急車呼ぶ羽目になんなよ、ジジイども!」
最後まで底抜けに騒がしい年寄りたちだった。
けれど、沙耶はそんな彼らを眺めながら、少しも嫌そうな顔はしていなかった。むしろ、自分のことのように少し嬉しそうに笑っていた。
何十年もの間、誰に褒められることもなく社会の裏側で死者と生者の間に立ち続けてきた人たちが、人生の晩年になってようやく、自分たちの存在と誇りを公然と認めてもらえたのだ。これくらい浮かれて大騒ぎしたって、きっと神様も仏様も怒りはしないだろう。
*
午後十時ちょうど。
沙耶は一足先に腰を上げ、ジャケットを羽織った。
「……じゃあアタシ、そろそろ帰るわ。ごちそうさま」
「なんじゃ沙耶、もう帰るのか! 夜はこれからじゃぞ!」
「明日も朝から予約が入ってて仕事なんだよ! あんたらみたいに昼まで寝てられねえの!」
「ちぇっ、若いのに付き合いが悪いのう!」
「明日の朝、二日酔いと腰痛で起きられなくなって泣くのは、あんたらの方だろ! じゃあね、また連絡するよ岩瀬のじいさん!」
笑い合う老人たちに軽く片手を振って座敷を出ると、沙耶は木の階段を下りて店の暖簾をくぐった。
外へ出ると、十一月中旬の澄んだ冷たい夜風が、火照った頬と首筋を心地よく撫でていった。
「……ふぅ。ほんと、元気な連中だこと」
アルコールで少し温まった身体を夜風で冷ましながら、沙耶は人通りの少なくなった浅草の路地を、自宅マンションの方角へと向かってゆっくりと歩き始めた。
コツ、コツ、と自分の靴音だけが響く静かな夜道で、彼女の頭に自然と浮かんでくるのは、今日一日、あの事務所の応接室で向き合った依頼人たちの顔だった。
五年間、突然亡くなった夫の影を探し続け、十三キロ先に霊体の反応があると知って涙を流して喜んだ松永夫人。
息子の反応がどこにも見つからず、それでも「あの子が私を恨んで苦しんでいないならよかった」と写真を抱きしめて泣いた高瀬美和。
そして、同じく妻の反応が見つからず、最後の希望を失って肩を落として帰っていった佐野。
同じ《縁感知》の技術を使い、同じように誠実に仕事をした。
けれど、そこにいる人間の数だけ異なる事情があり、誰もが同じように救われるわけではない。
沙耶は街灯の下で一度だけ足を止め、自分の手のひらを見つめた。
「……ほんと、難しい仕事だよねえ」
そして、自嘲するように小さく苦笑した。
「……まあ、そんなの今さら始まったことじゃないけどさ」
さっきまで「儂らの時代が来た」と騒いでいた老人たちの顔が浮かぶ。あの岩瀬が口にした「もし儂に何かあった時」という言葉だけが、妙に耳に残っていた。
「……ったく、アタシだってまだ二十八で、十分若い方なんだけどねえ」
歩き出しながら、思わず一人で笑ってしまう。
だが、「まだ若いから」と言い訳して逃げていられる立場ではないことも、彼女自身が一番よく理解していた。名実ともに、彼女はすでにこの東京で指折りの実力を持つ一人前の霊媒師なのだから。
沙耶はふと足を止め、雑居ビルの谷間から広がる東京の夜空を見上げた。
遠くのスカイツリーの明かりや、ビル群のネオンが冬の近い雲に淡く反射している。
異能が開示されようと、幽霊がニュースになろうと、見慣れたこの街の夜空の形は何一つ変わらない。けれど、その空の下で眠り、働き、誰かを想って生きている人々の世界の認識だけは、もう二度と元には戻らないほど大きく変わってしまった。
「……まさか、生きてるうちにこんな時代が来るとはねえ」
自分が霊媒師だと名乗っても、もう誰も鼻で笑ったり驚いたりはしない。
それどころか、明日の朝になればまた、大勢の人間が本気の目をして彼女の事務所の扉を叩き、助けを求めてくる。
あの愛すべき老人たちは「儂らの時代が来た!」と大喜びしている。仕事は山のように増え、収入も増え、そして来週からは見習いまでやってくることになった。
「……はあ」
藤代沙耶は、白い息を夜空へ向かって小さく吐き出し、ジャケットのポケットに両手を突っ込んで言った。
「……難儀な世の中だねえ、まったく」
そう呟いた彼女の口元には、ほんの少しだけ穏やかな笑みが浮かんでいた。
彼女はそのまま踵を返し、明日の仕事が待つ日常の街へと、変わらぬ足取りで歩いていった。
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