もしも異能がディスクロージャーされたら? 作:パラレル・ゲーマー
午前七時ちょうど。
枕元のスマートフォンが、いつもと変わらない電子音のアラームを規則正しく鳴らし始めた。
宮原修一は布団の中から片腕だけを伸ばし、画面をスワイプして音を止めると、ゆっくりと上半身を起こした。三十四歳、独身。都内の中堅オフィス機器メーカーで営業管理課の係長を務める彼にとって、それは何百回、何千回と繰り返してきた木曜日の朝の始まりだった。
あくびを一つ噛み殺しながらリビングへ向かい、遮光カーテンを左右へ引き開ける。
窓ガラスの向こうには、十月下旬の澄んだ秋空と、練馬区内の穏やかな住宅街の風景が広がっていた。
昨夜、内閣総理大臣がテレビカメラの前で「現代科学の枠組みを超えた『異能』が実在する」「政府は以前よりそれを認識し、専門の機関を通じて対応してきた」と公式に認めてから、すでに十一時間が経過している。
だが、いざ朝になって窓の外を眺めてみても、空に巨大な魔法陣が浮かんでいるわけでもなければ、街中を能力者たちが飛び回って瓦礫の山を作っているわけでもなかった。集積所にはカラス除けの黄色いネットが張られ、向かいのマンションからはスーツ姿のサラリーマンが眠そうな顔で駅へと歩いていく。
「……まあ、そりゃそうだよな」
修一は小さく呟き、キッチンでコーヒーメーカーのスイッチを入れてから、リビングのテレビをつけた。
画面が映し出された瞬間、朝の爽やかな情報番組のテーマ曲ではなく、スタジオの重苦しい空気と『緊急特番・渋谷事変と政府「異能」公表の衝撃』という赤い巨大テロップが目に飛び込んできた。チャンネルをどこへ回しても、恒例の占いコーナーや芸能ゴシップはすべて消え失せ、昨日の昼間に渋谷スクランブル交差点で撮影されたあの映像が、擦り切れるほど繰り返し再生されている。
『――日本政府が昨夜の緊急記者会見において、いわゆる「異能」の実在を公式に認めたことを受け、国内外でかつてない衝撃と混乱が広がっています。こちらは昨日午後零時五十六分頃、渋谷駅前で撮影された映像です』
アナウンサーの硬い声とともに、画面の中でフード付きのジャケットを着た男が上空から右腕を振り下ろし、それを防ぐためにトレンチコートの女が垂直降下して半透明の障壁を展開する瞬間がスローモーションで映し出される。直後、逃げ場を失った衝撃波がアスファルトを蜘蛛の巣状に陥没させ、周囲の窓ガラスが一斉に砕け散る。
淹れたてのコーヒーをマグカップに注ぎながら、修一はその映像をぼんやりと眺めた。
「……とうとう公表されちまったか。それにしても、よくまああんな場所で堂々とやったもんだよな」
彼の口から漏れたのは、未知の超常現象に対する畏怖でも驚愕でもなく、同業者のあまりにも非常識なマナー違反に対する呆れ混じりのため息だった。
昨日の昼休み、修一は会社で渋谷の騒動を知った。帰宅後に秘匿端末を確認すると、管理機関からの第1級緊急アラートが届いていた。
空を飛ぶ男女。不可視の衝撃波と、空間固定による防壁。
一般の国民にとっては、何千年もの間信じてきた物理法則と常識が根底から覆る世紀の瞬間だったに違いない。だが、八咫烏に「Tier2(特殊作戦級)」として正式に登録され、裏の現場で実働をこなしてきた修一にとって、画面に映っている現象そのものは決して珍しいものではなかった。
映像を見る限り、あの二人が具体的にどのような条件や自己制約を用いて因果律を改変しているのかまでは判別できない。ただ、観測できる出力や空中での機動精度はTier2相当に見えた。相当に訓練を積んだTier3上位という可能性もあるが、どのみち画面越しに真の階位を断定できるものではない。
「男の方は完全にパニックになって周囲へ乱射してるが、トレンチコートの女の方は大したもんだ。真下に三百人以上の一般人を抱えた状態で、上からの指向性衝撃を殺しきって死者ゼロに抑えてる。八咫烏の現場要員か、かなり腕の立つ協力者だな」
修一はトーストをかじりながら、画面の中でコートの袖を裂かれながらも空中に踏みとどまっている女性の姿に、実務者としての純粋な敬意を払った。市街地のど真ん中、しかも無防備な群衆を人質に取られたも同然の不利な状況で、自分の反撃機会をすべて捨てて防衛に徹するのは、並大抵の精神力と制御技術でできることではない。
だが、感心していた修一の視線は、すぐにテレビ画面の左上に表示されている時刻表示――『7:25』という数字へと移った。
「……ところで、今日は会社休みにならないのか?」
テーブルの上から会社貸与の業務用スマートフォンを手に取り、画面をタップしてメールアプリと社内グループウェアを確認する。
総務部からの『本日の出社見合わせについて』といった嬉しい通知は、一通も届いていなかった。山手線や渋谷駅を通過する一部の路線に遅れが出ているという運行情報があるだけで、彼の勤務先がある神田のオフィスは、本日も通常通り午前九時に始業するらしい。
「人類の歴史が塗り替わっても、木曜日の営業会議はなくならないんだな……」
修一は乾いた笑いを漏らし、残りのコーヒーを一気に飲み干した。
*
食器をシンクに置き、洗面所で髭を剃り終えた午前七時三十五分。
修一は寝室のクローゼットの奥から、普段は電源を切って厳重に保管しているもう一台のスマートフォン――八咫烏の認証キーが組み込まれた登録能力者専用の秘匿端末を取り出し、電源を入れて生体認証でロックを解除した。
回線に接続された途端、昨夜から未明にかけて配信された数十件もの通知が、画面に一斉に並んだ。
最上部に固定されているのは、八咫烏の中央本部から全国の登録者宛てに一斉配信された『政府会見に伴う緊急通達(第3報)』だ。
そこには、昨夜公表されたのは「異能という現象の実在」および「専門機関による管理の事実」のみであり、登録能力者個人の氏名・住所・勤務先や、国内の能力者人口、Tier制度の詳細などは引き続き最高機密として保護されること。そして、追って法改正やガイドラインの通達があるまで、一般社会に対して自発的に能力を開示・実演することを固く禁ずる旨が、赤文字で厳重に記されていた。
さらに専用ブラウザを開けば、登録者専用の匿名掲示板が昨夜からずっとサーバーダウン寸前の大騒ぎを続けているのが見えた。
「まあ、現場も窓口もてんやわんやだよな……」
画面をスクロールしていた修一は、ふと指を止め、部屋の隅に置かれた小さな耐火金庫へと視線を向けた。
あの金庫の中には、彼がこの数年間、会社の仕事とは別の「裏の顔」で請け負ってきた業務の契約書控えと、確定申告用の証憑書類の束が収められている。
宮原修一の表の顔は、年収四百八十万円の中堅メーカー勤務のサラリーマンである。
だが、八咫烏のデータベースにおける彼は、国内でも希少な実働戦力である『Tier2・民間請負人』として登録されていた。
八咫烏は行政機関であり、すべての超常案件を直属の公務員だけで処理しているわけではない。民間の退魔組織や探索チーム、あるいは修一のような個人の高位能力者に対し、危険度に応じた業務委託を行っているのだ。
たとえば、地方の山林や廃ビルで発生した危険な怪異の封鎖・討伐作業。違法能力者やブローカーが持ち込んだ呪物の強制回収。あるいは神秘社会の重要人物や特殊資源を輸送する際の警護任務。
一般の警察官や、大半の低階位の実働者が単独で挑めば命に関わるそうした高難度案件を、修一は月に一、二件ほど、有給休暇や週末を利用して淡々と片付けていた。
当然、命がけの特殊技能に対する対価は、表のサラリーマンの給与とは桁が違った。
案件の危険度や成功報酬によって年ごとの変動はあるものの、修一が裏稼業で得る年間報酬は、およそ三千五百万円から四千万円規模に達する。本業の営業管理課で一年間コツコツとエクセルを叩いて稼ぐ年収の、実に八倍近い金額だ。
「……これ、今後の税務処理どうなるんだ……?」
修一は誰もいない部屋で、今日一番の深刻な声を漏らした。
誤解のないように言っておけば、彼は脱税など一円たりともしていない。むしろ、神秘社会の住人の中では驚くほど真面目な優良納税者だった。
これまで、八咫烏や関連組織から支払われる高額な報酬は、神秘社会と表社会の境界に設けられた特定の会計事務所や調査法人を経由し、表向きは『特殊環境下における地質・構造物調査業務』や『危機管理コンサルティング報酬』といった名目の雑所得・事業所得として処理されてきた。住民税の徴収方法も、副業分については『自分で納付(普通徴収)』を選び、勤務先に余計な疑念を抱かれないよう必要な手続きを踏んでいる。
だが、それは「異能や怪異など存在しない」という表向きの前提に合わせて、国税庁のごく一部の事情を知る担当者と八咫烏の法務部門が、適法な申告と秘匿を両立できるよう調整してきたからこそ成立していた仕組みだ。
昨日の総理会見によって、政府が公式に「異能の実在」と「専門機関の存在」を認めてしまった以上、これから国会や各省庁で、異能関連予算や契約に関する法整備が急速に進められることになるだろう。
もしその過程で、これまでブラックボックスとして保護されていた民間請負人への支払いデータが一般の税務行政とすり合わせられたり、あるいは「透明性の確保」などと称して契約内容の実態証明を求められるようになったらどうなるか。
一般の税務調査官がやって来て、「宮原さん、この一回で六百万円振り込まれている『深夜の廃トンネルにおける特殊障害物撤去作業』というのは、具体的にどんな重機を使って何をしたんですか? 下請け業者の領収書を見せてください」と尋ねてくる。
それに対して、「ああ、あれはトンネルの奥に溜まった怨念が受肉してTier3相当の怪異になったので、俺が単独で突入して因果律改変で核ごと粉砕した案件ですね。重機は使ってません、素手です」などと説明できるはずがない。
かといって、「国家機密なので言えません」と突っぱねれば、今度は怪しげなマネーロンダリングか反社会的勢力との取引を疑われ、最悪の場合、勤務先の会社にまで問い合わせが行ってしまうかもしれない。
「いや、税金は毎年きっちり上限近い税率で払ってるんだぞ。払ってるのに、なんで世間に異能がバレたせいで俺の帳簿が危うくならなきゃいけないんだ……」
渋谷の男女が引き起こした歴史的転換点の翌朝。
世界がどう変わるかでも、自分が能力者だと周囲にバレる恐怖でもなく、来年の確定申告と証憑書類の整合性に頭を抱えながら、修一は重い足取りでクローゼットから紺色のスーツを取り出した。
*
午前八時十分。
自宅から歩いて十分ほどの私鉄駅へと向かう道すがら、修一はさっそく「昨日までとは違う世界」の空気を肌で感じることになった。
普段の平日の朝なら、すれ違う通勤客や通学の高校生たちは、イヤホンで音楽を聴くか、無言でスマートフォンの画面を睨みながら早足で歩いているだけだ。
しかし今朝は、駅の改札へと向かう人の流れのあちこちから、熱を帯びた会話の断片が嫌でも耳に飛び込んできた。
「――だから昨日の夜、総理大臣がハッキリ言ったんだってば! 異能だって!」
「信じらんないよねえ、お父さんなんか朝までニュース見ちゃって今日寝不足よ」
「おい、今日の一限の物理の授業、先生どんな顔して入ってくるんだろうなww」
改札を抜け、都心へと向かう上り電車のホームに降りても、その異様な熱気は変わらなかった。
やがて滑り込んできた八両編成の通勤電車は、いつも通りのすし詰め状態だった。修一は人の波に押されるようにして車両の中ほどへと乗り込み、頭上の吊り革を掴んだ。
ギュウギュウに密集した車内で、乗客たちの手にあるスマートフォンの画面には、そのほぼすべてに「渋谷の空中戦」の動画か、今朝の新聞各紙の一面記事――『政府「異能」の実在を公認』『首相「以前より認識し対応」』という特大の見出しが映し出されている。
世界がひっくり返っても、満員電車の乗車率が一ミリも下がらないあたりが、なんとも東京のサラリーマンらしかった。
「なあ、昨日の渋谷のやつ、何回見てもCGにしか見えないよな」
修一のすぐ目の前で吊り革に掴まっていた三十代くらいの会社員二人組が、声を潜めつつも興奮を抑えきれない様子で話し始めた。
「でも総理が本物だって認めたんだろ? しかも『以前から専門機関で対応してた』ってのがヤバいよな。警察の他にもそういう秘密組織があったってことだろ」
「一体、日本に何人くらいいるんだろうな、ああいう超能力者って」
「さあなあ……さすがに何万人もいたらとっくにバレてるだろうし、全国で百人とか、多くてもせいぜい五百人くらいじゃね?」
「だよなあ。何百万人に一人の突然変異みたいなもんだろ。俺も空飛べるなら、こんなクソみたいな満員電車に乗らずに上から会社まで直行するのにな」
「ハハッ、でも背広着て空飛んだら、風圧で髪型もネクタイもぐちゃぐちゃになるんじゃね?」
「確かにww 冬場は上空めっちゃ寒そうだしな」
二人の呑気な会話を聞きながら、修一は表情を動かさぬまま、内心で苦笑いを浮かべた。
――全国で百人か五百人、ね。
彼らには気の毒だが、その見積もりは四桁ほど足りない。
八咫烏の統計によれば、現代日本においてTier1からTier4までに分類される覚醒済み能力者の総数は、約三百四十二万人。日本人の実に三十六人に一人が、大小さまざまな因果律改変能力を保有している計算になる。
もちろん、覚醒済み能力者の圧倒的多数を占めるTier4にも、指先に小さな火花を出せる程度の者から、成人男性の数倍の身体能力を発揮する者まで幅がある。使い勝手も仕組みも人によって違う。それでも、こうして満員電車に揺られている乗客の中に、修一以外の能力者が何人か混じっていたところで不思議ではないのだ。
修一は何気なく周囲の乗客たちの横顔を見回した。
ドアの横で目を閉じて音楽を聴いている大学生も、座席の前でスポーツ新聞を折りたたんで読んでいる白髪交じりの男性も、もしかしたら自分と同じ登録能力者で、今ごろ内心で「朝からこの話題ばっかりで気まずいな」と冷や汗をかいているのかもしれない。外部へ力を表出させていない限り、どれほど高位の能力者であっても、見た目だけで一般人と見分けることは不可能なのだ。
――それに、空を飛べるかどうかと、それを通勤に使えるかどうかはまったくの別問題だしな。
修一は先ほどの会社員の冗談を思い出し、心の中で補足した。
そもそも飛行系の能力というのは、単に身体を浮かせるだけでなく、乱気流やビル風の処理、急加速時のGの緩和、さらには着地地点の路面強度や周囲の視線の計算まで含めて制御しなければならない、非常に神経を使う技術だ。朝の慌ただしい時間に、革靴とスーツ姿でカバンを抱えてやるようなものでは断じてない。電車賃数百円を払って、こうして吊り革に掴まって運ばれている方が、どれほどコスパが良くて安全か知れないのだ。
そんな極めて所帯じみたことを考えているうちに、修一は途中の乗換駅でJR線へ乗り継ぎ、やがて神田駅のホームへと降り立った。
*
午前八時五十分。
修一が社員証をゲートにかざして四階の営業管理部フロアへと足を踏み入れると、そこはまるでワールドカップの日本代表戦の翌日か、あるいは世紀の大事件が起きた直後の報道フロアのような騒々しさに包まれていた。
本来なら始業前のこの時間帯は、各自が静かにパソコンを立ち上げてメールチェックをしているはずなのだが、今日はどの島のデスクでも、社員たちが三人、四人と集まってスマートフォンの画面や朝刊を囲み、朝から熱い議論を戦わせている。
「あ、宮原さん! おはようございます!」
修一が自分のデスクにカバンを置くなり、隣の席の後輩社員・佐伯が、椅子を蹴るような勢いで立ち上がって駆け寄ってきた。入社三年目、普段から素直で人懐っこい男だが、今朝は目が血走るほど興奮している。
「宮原さん、昨日の夜の総理会見、見ました!? いや、その前の昼の渋谷の生中継も見ましたよね!?」
「ああ、見たよ。今朝もテレビはずっとそのニュースばっかりだったな」
修一がデスクのパソコンの電源ボタンを押しながら落ち着いて答えると、佐伯は身振り手振りを交えてまくし立てた。
「やばくないですか!? 人間が生身で空を飛んでるんですよ!? しかも手から見えない衝撃波みたいなのを撃ってビルの壁を吹っ飛ばしたり、女の人が空中でガラスみたいなバリアを張って受け止めたり……あれ、CGでも映画の撮影でもなくて、ガチの『異能』だって総理大臣が認めちゃったんですよ!」
「そうだなあ。最初に映像を見た時は、俺も何かの宣伝かと思ったよ」
「ですよね! 俺なんて昨日、外回りの移動中にスマホで生中継見てて、電柱にぶつかりそうになりましたもん! リアルであんな魔法みたいなことができる人間が同じ東京にいるとか、ちょっと信じられなくないですか!?」
目をキラキラさせて同意を求めてくる後輩に対し、修一は「全くだな」「すごい時代になったもんだよ」と、当たり障りのない模範的な一般人の相槌を打ち続けた。
だが、佐伯の興奮は収まらない。
「特にあのトレンチコートの女の人、動きが人間離れしてましたよね! 男が下の交差点にいた人たちに向けて何か撃ち下ろした瞬間、上から一気に急降下して割り込んで、空中でピタッて止まって防いだじゃないですか。あれ、どういう反射神経してるんですかね!?」
「ああ、あの場面な。上から落ちてくる衝撃のベクトルと拡散範囲を正確に読んで、最小限の面積に障壁を集中させて横に受け流してたからな。あれだけ乱戦の中で出力の配分を誤らないあたり、相当現場に慣れた手練れの使い手――」
そこまで口にしてから、修一はハッと我に返った。
佐伯がポカンと口を開け、目を丸くしてこちらを見つめている。
「……え? 使い手、ですか? なんか宮原さん、急にバトル漫画の解説者みたいな玄人っぽい言い方しましたね」
「……いや、ほら、昨夜ネットの検証スレやニュースの専門家がそんな風に解説してたのをそのまま受け売りで言っただけだよ。あれだけ動けるんだから、きっと訓練されたプロなんだろうなって」
「あー、なるほど! 確かにネットの考察班、昨日の昼からめちゃくちゃ細かくスロー解析してましたもんね!」
佐伯はあっさりと納得して頷いた。
修一は背中にほんの少しだけ冷や汗を感じながら、デスクの上のマグカップに手を伸ばした。危ないところだった。長年あちら側の現場で能力の干渉形式や戦術を分析するのが癖になっているせいで、うっかり実務者のボキャブラリーが口を突いて出てしまった。
「でも、私は見ていて普通に怖かったですよ」
向かいの席から、同僚の女性社員・篠原が書類の束を抱えて会話に加わってきた。彼女は眉をひそめ、少し真剣なトーンで言った。
「佐伯くんはすごいすごいって喜んでるけど、あのフードの男の人、自分が逃げるためにスクランブル交差点の真ん中にいた普通の人たちを狙って攻撃したんでしょ? もしあのトレンチコートの女性が守ってくれなかったら、何十人も亡くなってたかもしれないじゃない」
「あ……まあ、それは本当にそうですけど。昨日の夕方、現地にいた大学生の書き込みがバズってましたけど、道路が陥没して周りの人が血だらけになったって言ってましたしね」
「そうよ。あんな銃も爆弾も持たない普通の服装の人が、機嫌を損ねただけでビルを壊せるなんて、テロリストよりずっとタチが悪いわ」
「確かに、言われてみればそうだな。あの男がやったことは、どんな事情があろうとただの無差別テロと変わらないよ」
修一は篠原の言葉に、心の底から深く同意した。
実際、神秘社会のルールにおいても、非戦闘員である一般市民を故意に攻撃対象とすることは最も重い禁忌の一つだ。あの男がどこの組織から離脱した者だろうが未登録の暴走者だろうが、白昼の渋谷であの一撃を放った時点で、八咫烏の実働部隊からは最優先で確保・無力化すべき危険人物に指定されているはずである。
「だからこそ、昨日の夜は警察だけじゃなくて、あの黒いスーツの専門機関の人たちが話題になってたんですよね! 宮原さんはあの黒服の組織、なんだと思います!?」
佐伯が再び身を乗り出してきた、その時だった。
「おーい、お前ら! 総理会見の感想戦は昼休みにやってくれ!」
フロアの入り口から、課長の谷口が分厚いクリアファイルを振り回しながら大声で入ってきた。
「九時半から第一会議室で今期の営業進捗会議だぞ! 佐伯、お前が担当してるB社向けの保守契約の更新資料、ちゃんと人数分プリントアウトしてあるんだろうな!?」
「あっ!! やべっ、昨日の夕方から渋谷のニュース見入ってて、最後のページ修正したまま印刷するの忘れてました!!」
「馬鹿野郎、あと十五分しかねえぞ! 複合機が空いてるうちに走れ!」
「す、すいませんっ!!」
顔を青くした佐伯が、脱兎のごとくコピー機の方へとすっ飛んでいく。他の社員たちも慌てて雑談を切り上げ、それぞれのデスクへと散っていった。
修一は小さく息を吐き、自分のパソコン画面に表示されたエクセルの売上集計表へと視線を戻した。
昨日、数千年にわたって隠されてきた世界の秘密が暴かれた。
だが、取引先に提出する見積書の締め切りも、営業会議の資料の準備も、昨日までと一ミリも変わらずそこに存在していた。
*
午前九時四十五分。
定例の進捗会議が予定より少し早く終わり、修一が自分のデスクで取引先へのメールを打ち返していると、隣の席に戻ってきた佐伯が、まだ熱が冷めやらない様子でスマートフォンの画面をこちらへ向けてきた。
「いやー、課長に怒られるかと思いましたよ。……あ、それはそうと宮原さん、さっきの話の続きなんですけどね」
「まだ続けるのか? 手元の発注処理、午前中までだぞ」
「これだけ、これだけ聞いてくださいって!」
佐伯は声を潜め、画面に映し出された渋谷の上空の静止画――空中で睨み合う男女のキャプチャ画像を指差した。
「この渋谷の二人って、やっぱり『世界最強クラスの突然変異』とかなんですかね? だって生身で時速何百キロで空を飛んで、手を振るだけでビルを粉砕して、透明な壁で爆発を防ぐんですよ? こんな神話とか映画の主役みたいなことできる人間が、世の中にそう何人もゴロゴロいるとは思えないんですけど」
修一はキーボードの上に置いた指を止め、佐伯が差し出したスマートフォンの画面と、その後ろにある佐伯の無邪気な顔を交互に見た。
正確に答えようとするなら、まず前提から訂正しなければならない。
確かに、国内に三百四十二万人いる能力者の圧倒的多数はTier4(潜在的脅威)だ。日常の小さな便宜から一般人を圧倒する身体強化まで能力の幅は広いが、渋谷の二人のように大規模な破壊と精密な防御を自在に行える者は、ごく一部に限られる。
渋谷の二人が見せた現象は、瞬間的な反応規模だけなら「Tier2(特殊作戦級)」相当にも見える。とはいえ、それだけで本人たちの真のTierを確定できるわけではない。一方、同じような規模の現象を起こせる高位の実働者が日本にほかにもいるのは確かだ。八咫烏の実働部隊や伝統的な退魔組織、修一のような民間請負人の中にも、そうした手練れがいる。
何を隠そう、今こうして佐伯の隣で安物のオフィスチェアに座り、一パック百円のドリップコーヒーを啜っている宮原修一その人が、Tier2の能力者なのだ。
もちろん、因果律改変能力というのは「共通の魔力エネルギーを撃ち出す」ような便利なものではなく、個人の生き方や修練、自己制約に根ざした固有の現象である。そのため、修一が渋谷の二人とまったく同じように空を自由に飛び回ったり、ガラスのような半透明のドームを展開したりできるわけではない。
そして修一自身も、渋谷の二人と同程度の規模の現象を、自分の得意なやり方で起こすことは難しくない。条件を満たして本気で力を振るえば、あの雑居ビルの外壁を砕く程度の破壊など十分に可能だ。実戦で積み重ねてきた判断や制御にも自信がある。ただし、二人の能力の詳細も発動条件も分からない以上、実際に戦って勝てるかどうかはまた別の話だった。
――ここで「いや、あの二人くらいの出力なら、俺でも普通に出せるぞ」って言ったら、こいつどんな顔するんだろうな。
修一は一瞬だけ、頭の中でその光景をシミュレーションしてみた。
自分が真顔でそう告げる。佐伯が「またまたご冗談をw」と笑う。そこで自分がほんの少しだけ能力の端緒を見せて、デスクの上のボールペンなり空気なりに変異を起こしてみせる。
次の瞬間、佐伯が椅子ごとひっくり返って悲鳴を上げるだろう。フロア中の社員が何事かと集まってきて、谷口課長が目を剥き、五分後には社長室へと引きずり込まれる。
そして、そこから先は悪夢だ。
八咫烏の法務部門から秘密保持違反を厳しく咎められるのはもちろんのこと、社内でも「宮原係長が超能力者だったぞ!」と大騒ぎになり、他の部署の連中から「ちょっと何かやってみせてくださいよ!」「営業先で能力使って契約取ってきましょうよ!」「倉庫の重い什器、宮原さんの力で全部運んどいてくれ!」と、ロクでもない見世物と雑用の嵐が押し寄せてくるに決まっている。
ましてや、マスコミにでも嗅ぎつけられて自宅アパートの前にテレビカメラが張り込むようにでもなれば、平穏な独身生活は一秒で終わりを告げる。
――いや、絶対にごめんだ。百害あって一利もない。
「まあ、どうだろうな。あんな規格外の人間がそこら中にウジャウジャいたら、こっちが怖くて外を歩けないよ」
修一は完璧に穏やかな微笑みを浮かべ、実に無難な言葉を返した。
すると佐伯は、我が意を得たりとばかりに大きく頷いた。
「ですよね!! いやー、もしあんな空飛んでビル壊せるような化け物が日本に何人もいたら、それこそ日本終わりますって! 昨日のは本当に世界に二人だけの突然変異だったんですよ、きっと!」
――いや、日本は終わってないんだけどな。昨日までも、何十年も前から、お前のすぐ隣の席に普通に座って仕事してたんだけどな。
修一は喉元まで出かかったツッコミをコーヒーと一緒に飲み込んだ。
それに、と彼は思う。仮に自分の正体が知られれば、会社員としての仕事と、休日に請け負っている非公開の仕事との関係まで詮索されかねない。異能があることを説明するだけでも面倒なのに、裏稼業の契約先や報酬の話まで持ち出されたら、どうにも収拾がつかなくなる。
就業規則では副業は許可制だ。人事部長から「宮原くん、休日に受けているその高額な業務委託は、具体的に何をしている仕事なのかね?」と問われても、守秘義務のある契約内容を勝手に話せるわけがない。説明のために八咫烏の担当者まで呼ぶ羽目になれば、ますます大騒ぎになるだろう。
――……いや、わざわざ正体を明かして得することなんて、一つもないな。
修一は心の中で深く頷き、何食わぬ顔でパソコンの画面へと向き直った。
*
午前十時四十分。
午前中の山場だった発注データの照合作業が一段落し、フロアの空気が少し緩んだ頃だった。
自席で決裁書類に判子を押していた谷口課長が、ふと顔を上げてフロア全体を見渡すように言った。
「しかしアレだな、テレビじゃ朝から晩まで専門機関だの異能者だのって騒いでるが……うちの会社も全社で四百人近く社員がいるわけだろ? 確率で言ったら、社内にも一人くらいああいう能力を持った人間が紛れ込んでたりするのかねえ」
その何気ない一言に、フロアのあちこちから笑い声と反応が上がった。
「いやー、課長、さすがにうちの会社にはいないんじゃないですか? 作ってるのオフィス用の複合機とパーテーションですよ?」
「でも営業一課のトップの佐々木さん、どんな気難しいクライアントでも一回会っただけでコロッと契約取ってくるじゃないですか。あれ絶対、相手の脳みそを操る催眠系の異能ですよw」
「それを言ったら、総務の鬼のお局様が背後から音もなく近づいてくるのだって、気配を消す特殊能力かもしれないぞww」
社員たちが好き勝手に冗談を飛ばし合う中、修一は画面の数字を追うフリをしながら、黙って耳だけを傾けていた。
全社で四百人。
三十六人に一人という全国の平均比率をそのまま当てはめれば、この会社には十人前後の能力者がいてもおかしくない。そのうちの確実な一人が、今ここで黙々とキーボードを叩いている宮原修一だ。ほかに何人いるのか、どこの部署にいるのかは修一にも分からないし、知りたいとも思わなかった。
「よし、じゃあ面白いから、うちの部署でも『実は私は異能者です』って自己申告アンケートでも取ってみるか? もし空飛べる奴がいたら、来月から配送トラック代が浮くぞ」
谷口課長が半分冗談、半分好奇心といった調子で言った瞬間、修一の指がピクリと止まった。
だが、修一が何か言うよりも早く、向かいの席の篠原が呆れたようにペンを置いて声を上げた。
「課長、それ冗談でも言わない方がいいですよ。コンプライアンス的に完全アウトです」
「え? そ、そうか?」
「当たり前じゃないですか。昨日の総理会見でも、個人の権利やプライバシーへの配慮はこれから議論するって話でしたよ。まだ国から何のガイドラインも出ていないのに、会社が勝手に社員の能力を調べたり、自己申告や実演を求めたりしたら、ハラスメントや個人情報の問題になります。人事に苦情が殺到したらどうするんですか」
「うっ……い、いや、もちろん冗談だよ! 誰が本気でアンケートなんか取るか!」
篠原の極めて正論かつ理路整然とした指摘に、谷口課長は慌てて首を引っ込めた。
修一は内心で篠原に手を合わせた。こういう時、感情やノリに流されず法令遵守を盾に取ってくれる同僚の存在は、隠れ能力者にとって何よりの防波堤になる。
「まあ、本人がわざわざ言いたくない気持ちも分かりますけどね」
隣の佐伯が、椅子の背もたれに体重を預けながら言った。
「でも、もし毎日隣で一緒に働いてる人が実は超能力者だったって後から分かったら、絶対びっくりしますよ。……ねえ宮原さん、もし万が一、宮原さんが実はすごい異能者だったとしたら、俺たちに教えてくれます?」
突然、真正面から飛んできた直球の質問。
フロアの数人の視線が、なんとなく修一の方へと集まる。
だが、修一は心拍数一つ乱すことなく、コーヒーカップを持ったまま佐伯の方へ向き直り、呆れたように肩をすくめてみせた。
「教えるわけないだろ、そんなもの」
「えーっ、なんでですか! 水臭いじゃないですか、俺と宮原さんの仲なのに!」
「お前らに『実はすごい力があります』なんて言ったら、絶対に面白がって『ちょっと見せてくださいよ!』って囲まれるし、そのうち『宮原さん、異能があるならこの月末のトラブル案件も一人で片付けられますよね?』って面倒な仕事を全部押し付けられるに決まってるだろ。せっかくの定時退社ができなくなるじゃないか」
修一が大真面目な顔でそう答えると、佐伯をはじめ周囲の同僚たちがどっと笑い声を上げた。
「ハハハッ! 確かに、宮原さんなら絶対そう言って墓場まで隠しますね!」
「超能力があってもなくても、宮原さんが残業したくないのだけはブレないなww」
和やかな笑い声に包まれながら、修一も口元だけで小さく笑った。
同僚たちは気の利いたジョークだと思っているが、修一にとっては百パーセント混じり気のない本音だった。力を誇示して周囲からちやほやされたいなどという承認欲求は、二十代の頃に嫌というほど現場の修羅場を見てきた彼には一欠片も残っていないのだ。
*
午前十一時四十分。
昼休みが近づき、フロアの隅にあるリフレッシュスペースの壁掛けテレビでは、昼前のニュース番組が流れていた。
画面には、昨日の渋谷事変で一般市民を守り抜いた「トレンチコートの女性」の特集コーナーが映し出されている。SNS上では彼女を『#渋谷のヒーロー』『#バリアのお姉さん』と呼んで称賛し、政府による表彰を求める署名運動まで始まっているという。
「やっぱりあの女の人、世間でもめちゃくちゃ人気になってますね」
給湯器でお茶を淹れていた佐伯が、テレビを見上げながら言った。
「男の方は最悪のテロリストですけど、あの女の人に関しては間違いなく何百人もの命を救ったヒーローじゃないですか。もし正体が政府の専門機関の人なんだとしたら、名前くらい公表して国民栄誉賞でもあげればいいのに」
「うーん、どうかしらね」
隣で弁当の包みを広げていた篠原が、テレビのワイプに映るコメンテーターの険しい表情を見ながら呟いた。
「助けてくれたことにはみんな感謝してると思うけど……今朝からネットやテレビでも、『そもそもあの女性が昼間の渋谷みたいな人混みの中で犯人を追い詰めなければ、男もあんな場所で暴発しなかったんじゃないか』っていう意見が出始めてるわよ」
「えっ、そんなこと言う奴がいるんですか!? それはないでしょう、悪いのは100パーセント攻撃した男の方じゃないですか!」
憤慨する佐伯に、別のベテラン社員が腕を組んで口を挟んだ。
「いや、篠原さんの言う視点も無視できないんだよ。一般市民からすれば、男も女も『警察でも自衛隊でもないのに、市街地で戦車並みの暴力を振り回せる得体の知れない存在』であることには変わりないからな。今回はたまたま女の方が守ってくれたからよかったものの、法律の根拠も分からない連中が勝手に街中で捕り物をやって、その巻き添えでビルが壊れて四十一人も怪我人が出た、って見方をする人が出るのも無理はないさ」
修一は自分のデスクで書類を整理しながら、同僚たちのその議論を静かに聞いていた。
昨日の渋谷事変の現場映像を見た時から、いずれ表社会でこうした議論が起きるであろうことは、修一にも予想がついていた。
現場の実働者としての視点から言えば、あの女性の判断に落ち度はほとんどない。男が最初から「逃げるためなら一般人を無差別に殺傷することも厭わない」という危険極まりない精神状態にあった以上、あの場で声をかけずに見過ごしていれば、男はさらに人通りの多い駅構内や商業施設の中で、防壁を張れる者が誰もいない状況で同じ暴発を引き起こしていた可能性が高い。彼女は最悪の遭遇戦の中で、自身の負傷を顧みずに被害を最小限に抑え込んだのだ。
だが、それはあくまで「超常の暴力が日常的に起こり得る」という裏の事情を知っている側の論理だ。
昨日まで平和な法治国家で暮らしていた一般市民からすれば、「悪人を止めるためだったとはいえ、なぜ白昼の交差点でそんな危険な戦闘が始まったのか」「そもそも能力者という存在自体が、社会にとって制御不能な爆弾なのではないか」という恐怖と疑問を抱くのは、あまりにも自然な反応だった。
「まあ、助けられた現地の人たちが感謝してるのは間違いないんだろうけどな」
修一がぽつりと口を開くと、佐伯とベテラン社員がこちらを見た。
「ただ、一般の人から見て『誰が味方で誰が危険人物なのか分からない』っていうのが一番怖いんだろう。だからこそ、政府がどういうルールで管理してるのかをこれから説明していくしかないんじゃないか」
「ですよねえ。いっそ警察の中にも、ああいう能力を持った『超能力捜査課』みたいなのを正式に作れば安心なのに」
――それに近いものが、実は千年以上前からこの国にはあるんだけどな。
修一は心の中だけでそう呟き、時計の針が正午を指したのを見て、財布とスマートフォンを手に立ち上がった。
*
午後零時十五分。
修一はオフィス街の大通りから一本外れた路地裏にある、古びた定食屋のカウンター席の端で、サバの塩焼き定食が運ばれてくるのを待っていた。
同僚たちと一緒にランチへ行くと、どうしても一時間ずっと昨日のニュースの話を振られ続けることになるため、今日は「ちょっと銀行と郵便局に寄る用事があるから」と適当な口実を作って一人で外へ出てきたのだ。
店内のテレビでも、相変わらず昨日の総理会見の映像と、街頭インタビューの模様が流れている。
修一は周囲に客がいないことを確認すると、ポケットから覗き見防止フィルターを貼った秘匿端末を取り出し、登録能力者専用の匿名掲示板を開いた。
昨夜は総理会見の実況でパンクしていた板だが、一夜明けた今日の昼休みには、修一と同じように「一般社会に紛れて働く社会人能力者たち」の切実な雑談スレッドがいくつも乱立していた。
――――――――――――――――――――
【秘匿回線:国内登録能力者専用掲示板/雑談板】
スレタイ:【社畜】異能公表の翌日なのに、普通に会社に出勤してる奴www ★6
001 :名無しの登録者:2026/10/xx(木) 12:01:12
俺です。おはようございます。
002 :名無しの登録者:2026/10/xx(木) 12:01:28
俺もだわ。
今、会社のトイレの個室に籠もってこれ書いてる。
003 :名無しの登録者:2026/10/xx(木) 12:01:45
俺も普通に出社して、さっきまで上司に怒られながら月末の請求書作ってたわ。
004 :名無しの登録者:2026/10/xx(木) 12:02:09
おい、数千年の世界の秘密が暴露された歴史的翌日なんだから、今日くらい国民の祝日にして会社休みにしろよ!!
005 :名無しの登録者:2026/10/xx(木) 12:02:30
>>004
お前が登録能力者だからって、一般企業の取引先が休みになるわけじゃねえだろwww
資本主義は因果律改変より強いんだよ、諦めて働け。
006 :名無しの登録者:2026/10/xx(木) 12:03:02
てか、うちの職場、朝礼の時から今までずっと昨日の渋谷と総理会見の話題一色なんだが。
お前らの会社はどうよ?
007 :名無しの登録者:2026/10/xx(木) 12:03:25
弊社もまったく同じww
普段ろくに口も利かない隣の部署の部長まで「いやー、超能力って本当にあるんだなあ!」って話しかけてきて、愛想笑いだけで顔面の筋肉が攣りそう。
008 :名無しの登録者:2026/10/xx(木) 12:03:58
さっき給湯室で同僚の女の子に「もしうちの社内にも異能者が隠れてたら面白いですよねー!」って言われて、持ってた紙コップ握り潰しそうになったわ。
ここにいるぞ、お前の目の前でほうじ茶淹れてる係長がTier3の念動系だぞって喉まで出かかった。
009 :名無しの登録者:2026/10/xx(木) 12:04:33
俺なんて後輩から「昨日の渋谷のトレンチコートの女の人、めちゃくちゃカッコよかったですよね! 俺もあんなバリアの能力欲しいっすわ!」って言われたぞ。
010 :名無しの登録者:2026/10/xx(木) 12:04:55
>>009
で、お前自身は何持ちなの?
011 :名無しの登録者:2026/10/xx(木) 12:05:18
>>010
ただの近接身体強化(Tier4)。
012 :名無しの登録者:2026/10/xx(木) 12:05:35
>>011
十分便利でいいじゃん。
013 :名無しの登録者:2026/10/xx(木) 12:06:02
>>012
どこがだよ! こんなの会社でバレてみろ、来月のオフィス移転の時に「お前、身体強化あるなら金庫とコピー機一人で階段から運べるよな?」って引っ越し作業全部押し付けられる未来しか見えねえわ!
014 :名無しの登録者:2026/10/xx(木) 12:06:20
草。営業車じゃなくてお前が荷物背負って走らされそうだなww
015 :名無しの登録者:2026/10/xx(木) 12:06:55
いや、職場で雑用押し付けられるくらいならまだ可愛いもんだろ。
俺は本業のサラリーマンやりながら、週末に八咫烏の関連窓口から下請けの除霊・回収案件を受けて稼いでるんだけど、昨日の公表で今後の副業収入の税務処理とか契約がどうなるかの方が本気で心配だわ。
016 :名無しの登録者:2026/10/xx(木) 12:07:22
あー……それはガチで死活問題だな。
017 :名無しの登録者:2026/10/xx(木) 12:07:50
今まで「特殊清掃」「コンサル業務」って名目でダミー法人通して確定申告してた非公開案件の契約書とか、これから政府が法整備したら表の税務署とどうすり合わせるんだろうな。会社に副業の中身がバレたら一発でクビだぞ俺。
018 :名無しの登録者:2026/10/xx(木) 12:08:15
そういう実務系の話は、ここで聞くより八咫烏の法務・税務サポート窓口に直接聞いた方が早いぞ。
019 :名無しの登録者:2026/10/xx(木) 12:08:40
>>018
それがさ、朝から何回かけても窓口の回線が話し中で全く繋がらねえんだよ!!
今日ぜったい全国の兼業能力者からの問い合わせで窓口パンクしてるだろこれ!
020 :名無しの登録者:2026/10/xx(木) 12:09:05
それなwww 担当官の人も今ごろ過労死寸前だろうなww
――――――――――――――――――――
画面をスクロールしていた修一は、015と017の書き込みを見て、「ああ、やっぱり同じことで胃を痛めてる奴がいるんだな」と少しだけ安堵した。
だが同時に、最後の「窓口がパンクして全く繋がらない」という書き込みを見て、眉間に深い皺を寄せた。
運ばれてきたサバの塩焼きと味噌汁を手早く胃に収めながら、修一は頭の中でスケジュールを計算した。昼休みが終わるまであと三十分。一般の問い合わせ回線がパンクしているなら、普段の仕事で使っているTier2以上の実働者向けの直通ラインから、経理担当を直接捕まえるしかない。
*
午後零時三十五分。
定食屋を出た修一は、オフィスビルから少し離れた小さな区立公園のベンチに腰を下ろした。昼時の公園には、少し離れたベンチで鳩を眺めている老人が一人いるだけで、周囲十メートル以内に人の気配はない。
修一は念のため周囲の空間に不自然な感知系の反応や盗聴器がないことを肌感覚で確認してから、秘匿端末の暗号化通話アプリを起動し、自分が契約している仲介窓口の法務・会計担当者――宇佐美という男の直通番号をタップした。
プルルルル……と、いつもなら三コール以内に繋がるはずの呼び出し音が、十回、十五回と空しく鳴り続ける。
やはりこっちの回線もダメか、と諦めて切ろうとした二十五コール目。ガチャリ、と乱暴に受話器が上がる音がして、電話の向こうから戦場のような喧騒が飛び込んできた。
『――はいっ、第三契約管理室の宇佐美です! あっ、宮原さんですか!? お疲れ様です、すみません今ちょっと室内が騒がしくて!』
耳に飛び込んできた宇佐美の声は、いつもの落ち着いた慇懃なトーンとは似ても似つかず、一晩中怒鳴り続けた後のようにガラガラに嗄れていた。しかも受話器の向こうからは、「だから財務省主計局への説明資料はまだか!」「地方支部の回線を優先しろ!」といった怒号や、ひっきりなしに鳴り響く電話のベルの音が嵐のように聞こえてくる。
「あー、宇佐美さん、このクソ忙しい時に電話してすみません。完全に徹夜明けの声ですね」
『ええ、昨日の午後一時から一睡もせずにこの部屋に缶詰です……。それで宮原さん、本日はどういったご用件でしょうか。まさか渋谷の逃走犯とどこかで鉢合わせしたとかいう緊急案件では――』
「いや、全然そういうんじゃないです。もっと個人的で、かつ切実な話でして」
修一はベンチの上で背筋を伸ばし、声を潜めて切り出した。
「昨日の総理会見で、異能の存在と専門機関のことが公式に発表されましたよね。あれを受けて、俺が今までそちらを通じて請け負ってきた仕事の業務委託契約や、報酬の税務処理のスキームがどうなるのか、それだけ確認しておきたくて」
『……ああ、その件ですか!』
電話の向こうで、宇佐美が書類の束をめくるようなガサガサという音がした。
『結論から申し上げますと、現在まさに八咫烏の法務・国際部門と、財務省および国税庁の秘密研修受講ラインの幹部との間で、今後の制度設計についての緊急協議が行われている最中です』
「やっぱり、もう動き始めてるんですね」
『はい。ただ、宮原さんがご心配されているような「既存の契約が遡って無効になる」とか、「これまでに申告済みの報酬明細が一般の税務署員にそのまま開示されて、勤務先の会社に副業の内容が通知される」といったことは、現時点では万に一つもございませんのでご安心ください。そこを崩したら、国内の民間協力者の方々が誰一人として仕事を引き受けてくださらなくなりますから、当機関としても死守いたします』
「……それを聞いて、今日一番ホッとしましたよ」
修一は心の底から安堵のため息を吐いた。
『もっとも、これまでは「表向き存在しない現象」を処理していたため、民間の調査会社名義でコンサルティング報酬や特殊清掃費として計上していましたが、今後、国会で異能関連の法整備が進めば、公的な「特定特殊役務(仮称)」としての新しい契約書式や、専用の非公開納税証明制度へ切り替えになる可能性が高いです。そのための準備案自体は以前からありましたが、今回の公表で運用の見直しが必要になりました。具体的な手続きや来年の確定申告における必要書類の変更点につきましては、方針が固まり次第、改めて書面にて通知いたします』
「なるほど……つまり、いずれにせよ新しい書類の手続きは発生するわけですね」
『はい、恐れ入りますがそうなります。なお、本件に関しては今朝から全国の登録実働者の方々から何千件という問い合わせが殺到しておりまして、個別の契約内容に関する詳細な照会については、緊急性の低いものから順次回答までにお時間をいただく状況となっております……』
「分かりました。これ以上邪魔すると宇佐美さんが倒れそうなので、通知が来るまで大人しく待ってますよ。くれぐれも身体には気をつけてください」
『ありがとうございます……。あ、宮原さん、追って業務委託の件でもご連絡が行くかもしれませんが、その時はどうかよろしくお願いいたします!』
プツン、と通話が切れる。
修一は秘匿端末の電源を落とし、ジャケットの内ポケットへとしまい込みながら、公園の秋空を見上げてぼやいた。
「結局、まだ細部は何も決まってない、か。まあ、昨日の今日で税制まで全部切り替わるわけがないわな」
頭では理解している。だが、彼の中に残るモヤモヤとした不安は簡単には消えなかった。
昨日までの仕組みは、表と裏の社会を分けたまま、双方の手続きを滞りなく進めるために作られていた。修一はその恩恵を受けてきたが、境界線が公になった今、同じ仕組みをそのまま使い続けられる保証はない。
今後、契約の名目や証明書式が変われば、過去の帳簿や領収書と照合する作業も必要になるかもしれない。修一が勝手に書き換えられない情報が多いだけに、担当窓口の確認なしでは進められない。
「……まあ、俺は税務署に怒られるような脱税は一円もしてないはずなんだけどなあ」
その「はず」という部分に、どうしようもない居心地の悪さがある。
帳簿はつけている。領収書も保管している。税金も毎年きっちり納めている。
一般的な仕事なら、確認を求められた時に契約書と請求書を並べ、必要な範囲で取引内容を説明すればいい。
ところが修一の仕事は、案件名一つとっても公開可能な名称と秘匿記録上の名称が違う。古い契約を新しい書式へ移すとき、どの欄に何を書いていいのか、そのたびに宇佐美へ問い合わせることになりそうだった。しかも相手は既に徹夜明けである。
「……報酬の桁が増えても、書類が減るわけじゃないんだよな」
修一はベンチから立ち上がり、スーツの裾の埃を軽く払うと、午後の業務が待つオフィスビルへと足を向けた。
*
午後二時十分。
昼休みを終えてしばらく経った営業管理部のフロアに、一斉に社内メールの着信音が響いた。
修一が画面のポップアップをクリックすると、それは本社の『人事部・コンプライアンス推進室』から全社員に向けて一斉送信された重要通達だった。
少し離れた席で、谷口課長が老眼鏡をずらしながらその文面を声に出して読み上げる。
「えーっと、なになに……『昨夜の政府による「異能」に関する公式発表を受け、現在、当社におきましても関係法令および今後の行政指針の確認を進めております。現時点において、会社として従業員の皆様に対し、異能の有無に関する申告や調査を求める予定は一切ございません。また、社内において特定の個人に対し、根拠のない噂や憶測で異能者ではないかと詮索する行為、ならびに本人の意思に反して能力の開示・実演を強要する行為、差別的な言動等は、重大なハラスメント行為として厳しく対処いたします』……だそうだ。おい佐伯、お前さっき宮原に『能力者だったら教えてくれ』とか聞いてたな、人事部に突き出されるぞ」
「うわっ、あぶねー! 宮原さん、さっきのはただの冗談ですからね、訴えないでくださいよ!」
焦る佐伯に、修一は「訴えやしないから仕事しろ」と苦笑して返した。
午前中に篠原が指摘していた通りの、極めて真っ当で迅速な人事部の対応だった。まずは「異能ハラスメント」の芽を摘んで社内の混乱を防ぐ。自分の勤務先がこういう常識的な中堅企業で本当によかったと、修一は改めて胸を撫で下ろした。
だが、社内の秩序は人事部のメール一本で守られても、会社の外――すなわち取引先や顧客からの影響までは遮断できなかった。
午後二時三十分を過ぎたあたりから、営業管理部の外線電話が次々と鳴り始め、対応に出た社員たちの顔に困惑の色が広がり始めたのである。
「……はい、はい。弊社の納入しておりますオフィス用セキュリティパーティションおよび電子錠システムの耐衝撃性能について、でございますね……。えっ、昨日の渋谷の事案のような『目に見えない衝撃波』や『空間をすり抜ける異能者』の侵入に対して、保証が効くのか、ですか……? しょ、少々お待ちください!」
受話器を保留にした若手社員が、泣きそうな顔で谷口課長を振り返った。
すると別の席でも、篠原が受話器を片手に眉間を押さえている。
「課長、こっちの大手物流倉庫の総務部からも似たような問い合わせです。『来週からうちの倉庫に入る御社のメンテナンス作業員の中に、昨日の犯人のような危険な異能者が混ざっていないという証明書を出せるか』って、先方の役員が朝から騒いでるらしくて……」
「な、なんだそりゃあ!? そんなもん、うちのパーテーションが超能力の衝撃波に耐えられるかどうかなんて、JIS規格にも載ってねえぞ! 作業員の異能検査なんてどうやってやるんだよ!」
谷口課長が頭を抱えてうめく。
周囲の社員たちも「そりゃそうですよね」「普通のメーカーに超能力対策なんか聞かれても答えようがないですよ」と苦笑いを浮かべている。
修一は自分のデスクでそのやり取りを聞きながら、内心で静かに思考を巡らせていた。
――まあ、一般企業の総務や危機管理担当者がパニックになって、取引先に「とりあえず確認した」というアリバイ作りの電話をかけてくるのは当然の流れだな。
実際には、日本国内の主要なインフラ施設や一部の大企業・宗教法人などの上層部には、以前から八咫烏の連絡員や秘密研修を受けた法務担当者が配置されており、超常事象や認識汚染に対する特別なセキュリティ契約が存在している。
だが、修一の会社のような一般的なオフィス機器メーカーや、その通常の取引先の担当者レベルには、当然そんな裏の仕組みは知らされていない。ましてや、渋谷の男が放ったようなTier2クラスの因果律改変による破壊現象の前では、どれほど分厚い強化ガラスや電子錠を設置したところで、紙風船と大差ないという残酷な事実を教えてやるわけにもいかなかった。
「おい宮原、ちょっと来てくれ!」
困り果てた谷口課長が手招きをする。修一がデスクを立って歩み寄ると、課長はすがるような目で言った。
「こういう前例のない問い合わせが朝から何件も来てるんだが、営業管理としてどういう方針で取引先に回答させればいいと思う? 『そんなの分かりません』じゃ角が立つし、かといって適当な保証もできんだろう」
修一は一拍だけ考える素振りを見せてから、ごく穏やかな、どこからどう見ても優秀な中堅サラリーマンの口調で口を開いた。
「現時点では、一民間企業の判断で『異能に対する安全性』や『従業員の能力の有無』について保証や調査を行うことは、技術的にも法令的にも不可能であると正直にお伝えするのが一番誠実だと思いますよ」
「ふむ、まあそうだな」
「ただ、断るだけだと先方の担当者さんも社内で上役に報告しづらいでしょうから、『現在、昨日の政府発表を受けて、関係省庁および業界団体より新たな安全基準や防犯ガイドラインが示されるのを待っている段階です。国の指針が策定され次第、速やかにそれに準拠した対応をご案内いたします』という公式回答のテンプレートを作りましょう。その上で、『なお、従来の物理的な防犯性能や作業員の身元確認については、現行の基準に基づき万全を期しております』と一筆添えておけば、先方も稟議書や報告書にそのまま転記できて納得するはずです」
「……おお! なるほど、それなら角も立たないし、うちの責任問題にもならんな!」
谷口課長の顔がパッと明るくなった。
「さすが宮原だ、こういう時の整理の仕方が一番的確だな! よし、悪いが今言った内容で、すぐ取引先向けの回答文面のひな形を作ってフロア全体に共有してくれ!」
「分かりました。十五分ほどで作って回します」
修一は短く頷いて自席へと戻った。
裏の世界で「どこまでが表の制度で処理でき、どこからが行政(八咫烏)の管轄になるか」という境界線を嫌というほど見てきた経験が、まさか会社のクレーム対応マニュアルの作成に役立つとは皮肉なものだった。
*
午後三時四十分。
修一が作成した回答テンプレートのおかげで外線電話の混乱もようやく落ち着き、フロアにはキーボードを叩く乾いた音と、午後特有の少し気怠い空気が戻ってきていた。
一息ついた社員たちが、コーヒーを片手にまたぽつりぽつりと雑談を交わし始める。
話題は自然と、先ほど取引先から求められた「身の回りに異能者がいるかどうか」という疑問の延長線上へと移っていった。
「でもさあ、取引先の人が過剰反応するのも、ちょっと気持ちは分かる気がするんだよね」
斜め前の席の三十代の男性社員が、モニターから目を離さずに言った。
「もし仮にだよ、自分の昔からの親友とか、何年も同じ部署で机を並べて働いてた同僚とか、あるいは結婚を考えてる恋人がさ、実は『異能者』だったって後から分かったら、みんなどう思う?」
「えっ? そりゃあ、最初はめちゃくちゃ驚くでしょ」
「俺だったらちょっと羨ましいかな。どんな能力かにもよるけど」
周囲が軽く答える中、その男性社員は少し声を落として続けた。
「いや、俺が言いたいのは能力がすごいかどうかじゃなくてさ……『何年もすぐ近くにいたのに、昨日まで一言も言わずにずっと隠してた』って事実そのものなんだよ。別に能力があること自体は悪くないけど、そんなに長い間、一番身近な人間にまで秘密にされてたって知ったら、なんか『ああ、俺はこの人に全然信用されてなかったんだな』とか『ずっと騙されてたんだな』ってショック受けない? これから先も、本当に腹を割って付き合えるか自信ないわ」
カチ、と。
見積書の確認画面をスクロールしていた修一の右手の指が、マウスの上でわずかに止まった。
男性社員の声には、能力者を迫害しようというような悪意や攻撃性は少しも含まれていなかった。ただ、ごく普通の人間が、ごく普通の人間関係に照らし合わせて抱いた、あまりにも素朴で率直な感情だった。
――ずっと秘密にされてたら、信用できなくなる、か。
修一は画面を見つめたまま、心の中でその言葉を反芻した。
自分が佐伯や篠原、谷口課長、そして学生時代からの友人たちに、自分がTier2の能力者であることを一度も打ち明けたことがないのは、彼らを人間として信用していないからではない。ましてや、彼らを見下して騙そうとしていたわけでもない。
ただ、それがこの世界に生まれてからずっと定められていた「ルール」であり、相手の日常を壊さずに同じ社会で生きていくための唯一の作法だったからだ。個人の感情や信頼関係だけで、勝手に口にしていい種類の秘密ではなかった。
しかし、昨日までのルールを知らない一般の人々には、その事情は見えない。
「政府が隠していた」という大きな事実が明るみに出た今、これまで神秘社会の秩序を守るために課せられていた「沈黙」そのものが、明日からは家族や友人、職場の仲間との間に「嘘をついていた」という不信の楔を打ち込む原因になり得るのだ。
昨夜、帰宅してから目を通した裏掲示板で、「一般人の妻に自分がTier4だと打ち明けるべきか悩んでいる」と書き込んでいた誰かの姿が、ふと修一の脳裏をよぎった。
「――でも、それはちょっと相手が可哀想じゃないかしら」
静まりかけた空気に、向かいの席の篠原が落ち着いた声で言葉を挟んだ。
「だって、昨日の夜に総理大臣が『政府として以前から認識し、専門の機関で管理してきた』って発表したんでしょ? ってことは、能力を持ってる人たちだって、自分が好きで友達に嘘をついてたんじゃなくて、国の法律か何かの決まりで『絶対に周りの人に喋っちゃいけません』って厳しく口止めされてたのかもしれないじゃない」
「あ……まあ、確かに政府が隠してたってことは、本人たちにも秘密保持義務みたいなのがあったって考える方が自然か」
隣で聞いていた佐伯も、腕を組んで頷いた。
「それにさ、仮に国から口止めされてなかったとしても、昨日の渋谷みたいなことが起きる前の日本で、いきなり同僚から『実は俺、手から衝撃波が出せるんだよね』なんてカミングアウトされたら、言われた俺たちの方が『えっ、こいつ頭大丈夫か?』って引いちゃうか、怖がって距離置いちゃうと思うんですよ。だから、俺たちと普通に楽しく仕事したり飲みに行ったりするために、あえて言わないでいてくれたってこともあるんじゃないですかね」
「……そりゃそうか。いきなり超能力者ですって言われても、昨日までの俺たちなら誰も信じないしな」
最初に疑問を口にした男性社員も、納得したように苦笑して頷いた。
「むしろ、そんな特別な力を持ってるのに、それをひけらかしもせずに俺たちと同じように満員電車に乗って、課長に怒られながら地道に働いてたって分かったら、俺は逆に『真面目な奴だなあ』って好感度上がるかもしれないわ」
修一は誰にも気づかれないよう、肺の奥からゆっくりと息を吐き出した。
佐伯も、篠原も、その男性社員も、修一の正体など微塵も知らない。ただ、テレビのニュースを見て、自分たちの頭で普通に想像を巡らせただけだ。
それでも、世の中の人間すべてがパニックに陥ってヒステリックに能力者を拒絶するわけではなく、こうして顔も見えない誰かの「言えなかった事情」にまで想像力を働かせてくれる人間が、すぐ隣のデスクにいる。
――まあ、当事者じゃなきゃ分からない苦労は山ほどあるけどな。悪くない職場だよ、ここは。
修一はほんの少しだけ口元を緩め、再びキーボードの上で軽快に指を走らせ始めた。
*
午後五時三十分。
定時のチャイムがフロアに静かに流れ、修一は今日処理すべき発注データと、取引先向けの回答文面の送付状況の最終チェックをすべて完了させて、パソコンをシャットダウンした。
デスクの上のペン立てと書類を綺麗に整頓し、ビジネスバッグを手に立ち上がる。
「あ、宮原さん、もう上がりですか! お疲れ様です!」
同じように帰り支度をしていた佐伯が、コートを羽織りながら声をかけてきた。二人は並んでフロアを出ると、エレベーターホールへと歩いた。
「いやー、しかし今日は本当に朝から晩まで、社内外ずっと『異能』の話で持ちきりの一日でしたね」
「そうだな。取引先への説明文面まで作ることになるとは思わなかったよ」
「明日も、いや今週いっぱいはずっとこの話題になりそうですよね。政府もこれから少しずつ詳しい情報を出していくって言ってましたし、次は一体何が発表されるんですかねえ」
「さあな。俺たち一般の会社員には、しばらくはニュースを見て待つくらいしかできないさ」
エレベーターが到着し、二人はカゴの中へと乗り込んだ。一階へのボタンを押した佐伯が、ふといたずらっぽい顔をして修一の方を向いた。
「そういえば宮原さん。昼間はふざけて聞いちゃいましたけど、もし本当に神様から『今日から一つだけ好きな異能を授けてやろう』って言われたら、宮原さんならどんな能力が欲しいですか?」
国内でも希少なTier2の異能を保有している三十四歳の男に対する、あまりにも純粋な質問だった。
修一はエレベーターの階数表示が『4』から『3』へと降りていくのを眺めながら、三秒ほど真剣に考えてから口を開いた。
「……そうだな。月末の請求書の突き合わせと、年に一回の確定申告の帳簿づけと証憑整理が、指をパチンと鳴らすだけで全部適法かつミスなく自動的に終わる能力かな」
「ぷっ……なんですかその超絶所帯じみた能力はwww」
佐伯が腹を抱えて吹き出した。
「せっかく超能力が貰えるんですよ!? もっとこう、昨日の渋谷の人たちみたいにマッハで空を飛んで世界一周旅行するとか、時間を止めて宝くじ当てるとか、手から炎を出すとか、男ならもっと夢のある能力にしてくださいよ!」
「馬鹿言え。手から炎を出せてもオフィスじゃ消防法違反で怒られるだけだし、空を飛べても冬の風は冷たいだろ。それより、面倒な書類仕事と税金の手続きが一瞬で終わって定時で帰れる能力の方が、社会人にとってはよっぽど世界が救われるぞ」
「あはははっ! 宮原さんらしいなあ、どこまで行っても徹底してリアリストですね!」
一階でエレベーターの扉が開き、笑い合う二人はエントランスを抜けて、夕暮れの冷たい風が吹く神田の街へと出た。
「じゃあ、お疲れ様でした! また明日!」
「ああ、お疲れ。気をつけて帰れよ」
駅へと走っていく佐伯の背中を見送りながら、修一はコートの襟を立てて歩き出した。
――冗談抜きで、本当にそういう事務処理系の異能が開花しないもんかな。
あいにく、彼の魂に刻まれている因果律改変能力は、そういう平和なデスクワークには一ミリも役に立たない、純粋な現場実働向きの代物だった。どれだけ高いTierを持っていようが、エクセルの関数入力と税務署への提出書類は、自分の手でコツコツと作るしかないのである。
*
午後八時過ぎ。
最寄り駅のスーパーで買ってきた半額の惣菜と缶ビールをテーブルに広げ、修一は自宅のリビングで少し遅い夕食をとっていた。
テレビの画面の中では、昨夜の総理会見から丸一日が経過した今も、報道特番が組まれ続けている。スタジオに並んだ憲法学者や元警察官僚、科学ジャーナリストたちが、「異能者の人権と管理のバランス」「既存の刑法で裁けない超常犯罪への対処」「諸外国の反応」といったテーマで、終わりなき議論を戦わせていた。
修一が缶ビールを半分ほど空けたところで、テーブルの端に置いていた黒塗りの秘匿端末が、ブゥン、と低く重い振動音を立てた。
箸を置き、端末を手に取って画面を開く。
届いていたのは、昼間に電話で話した第三契約管理室の宇佐美からの、電子署名付きの公式通達メッセージだった。
『件名:【重要】異能公表に伴う民間協力者契約の運用改定、および今後の稼働要請に関する事前通告』
修一は画面の文字列を順番に目で追った。
『1.本日午後の関係省庁連絡会議におきまして、登録済みの民間実働協力者に対する報酬支払および税務証明に関する暫定指針の運用が決定されました。これらは秘匿制度の変更に備え、以前から準備・更新していた移行案を今回の政府公表に合わせて暫定適用するものです。これまでの申告分については従来の秘匿保護が維持されますが、来月以降の稼働分より「特定特殊役務契約」への移行手続きが必要となります。つきましては、明日中に改定版ガイドライン(全64ページ)および新規登録申請書類一式(計18枚)を暗号化便にて送付いたしますので、月末までにご記入・ご返送をお願いいたします』
「……六十四ページのガイドラインに、申請書類が十八枚……」
修一の口から、今日一番の深くて重い絶望のため息が漏れた。本業の会社の年末調整の書類ですら毎年面倒くさくて後回しにしているというのに、それとは比較にならない分量の行政文書が明日届くらしい。
しかも、メッセージにはまだ続きがあった。
『2.なお、昨夜の政府公表以降、全国の警察署および自治体窓口に対し、一般市民から「近所で超常現象が起きた」「不審な人物が異能を使っている」といった通報が通常の約40倍のペースで殺到しております。大半はパニックによる誤認や悪質なイタズラですが、その混乱に紛れて活動を開始した未登録能力者や、人々の恐怖や噂の広がりを成立条件とする一部の怪異が活性化した事案も複数確認されており、直轄の実働部隊だけでは手が回らない状況が生じつつあります。
つきましては、宮原様をはじめとするTier2以上の認定実働者の方々へ、今週末より緊急の現場確認および封鎖業務の委託件数が大幅に増加する見込みです。個別の案件詳細については、明日以降順次ご連絡いたします』
画面の最後まで読み終えた修一は、端末をテーブルの上にパタリと伏せ、残っていたぬるいビールを一息に煽った。
「……ああ、これ絶対に週末の休みが潰れるやつじゃないか」
思わず天井を仰ぐ。
昼間、会社のデスクで後輩の佐伯は、目を輝かせながらこう言っていた。
『もしあんな空飛んでビル壊せるような化け物が日本に何人もいたら、日本終わりますって!』と。
実際には、佐伯が恐れたような「化け物」と同水準の力を振るえる人間が、すぐ隣の席で普通に伝票を処理していたし、日本全国には三百四十二万人もの能力者が、それぞれの日常を抱えて暮らしていた。
それでも昨日まで日本という国が終わらずに済んでいたのは、誰かが超常の力を振るって世界を支配していたからではなく、修一やあのトレンチコートの女性、そして徹夜で電話を取り続けている宇佐美のような無数の実務者たちが、見えない場所で地道に綻びを縫い合わせ、書類を処理し、日常の平穏を維持してきたからだ。
そして今、数千年の秘密の帳が引き裂かれ、世界が「異能」という現実を知ってしまった結果として、Tier2能力者である修一の元へ最初に舞い込んできたのは、華々しい称賛でもなければ、世界を揺るがす神々の戦争への招待状でもなかった。
パニックになった世間が生み出す倍増したトラブルの尻拭いと、十八枚に及ぶ新しい税務・契約手続きの書類束だった。
修一はテーブルの端に積まれた会社の営業会議資料と、明日の朝までに目を通さなければならない稟議書の控え、そして秘匿端末の通知ランプを交互に見比べた。
「……で、これ全部、今月中に一人でどうしろって言うんだよ」
静かな練馬のアパートの一室に、三十四歳のサラリーマン兼・特殊作戦級能力者の切実なぼやきが溶けていく。
テレビの向こうでは、まだコメンテーターたちが「人類の新しい時代が始まった」と熱っぽく語っていたが、修一にとっては、とりあえず明日の朝も七時に起きて満員電車に乗り、来週の有給休暇の申請理由をどう捻り出すかを考えることの方が、よっぽど差し迫った現実なのだった。
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