もしも異能がディスクロージャーされたら?   作:パラレル・ゲーマー

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第6話 政府、どこまで公表するかで揉める

 二〇二六年十月三十日、金曜日。午前九時ちょうど。

 渋谷スクランブル交差点の上空で男女二人が衝突したあの日から二日が経ち、内閣総理大臣が「異能」の実在を公式に認めた緊急会見からは丸一日半が経過していた。

 

 港区にある大手民放キー局・東都テレビの本社ビル五階。

 報道局のフロア奥にある第一会議室には、異様なまでの熱気と、徹夜明け特有の淀んだ空気が立ち込めていた。

 長机をコの字型に並べた室内には、社会部、政治部、経済部、外報部のデスクやキャップ、そして現場の最前線を走り回っている中堅・若手の記者たち三十名あまりが詰めかけている。誰もが目の下に濃い隈を作り、シワの寄ったシャツやジャケットを着ていたが、その眼光だけはギラギラと冴えわたっていた。

 

 正面の壁に据え付けられた四面の大型モニターには、一昨日自社の中継クルーが渋谷の現場で撮影した映像と、他局の特番映像が音声を絞った状態で映し出されている。

 宙に浮くフードの男。急降下して半透明の防壁を張るトレンチコートの女。そして、現場を封鎖する黒スーツの集団。

 

「おい、今日の緊急招集って、やっぱり政府に対する合同追及キャンペーンの編成会議だよな?」

 会議室の隅の席で、社会部の若手記者・瀬川が、隣に座る政治部の同期・篠田に小声で囁いた。瀬川の手元には、一昨日から寝ずに書き溜めた取材メモと、ネット上で発掘された『過去の不自然なガス爆発事故』のスクラップ資料が分厚い束になって握られている。

「当然だろ。昨日の今日まで、官邸は『詳細は関係省庁で整理中』の一点張りで追加のブリーフィングすら開いてないんだぞ」

 政治部の篠田も、眼鏡の奥の目を鋭く光らせて頷いた。

「内閣総理大臣が『以前より認識し、専門の機関を通じて対応してきた』なんて爆弾を落としたんだ。国会への報告もなしに予算と人員を使って秘密組織を動かしていたとなれば、憲法違反どころか戦後最大の隠蔽スキャンダルだ。俺たちメディアが政権の喉元に食らいつかないでどうする」

「だよな! 俺、昨日渋谷の被災者に何人も当たり直したんだけど、警察の初動も黒服の連中の動きも、明らかに最初からマニュアルがある動きだったんだよ。どこまで政府が隠してたのか、今日こそ洗いざらい暴いてやる」

 

 若手記者たちの間には、世間を揺るがす未曽有の大事件に立ち会っているという高揚感と、長年国民を欺いてきた国家権力の闇を自分たちのペンとカメラで白日の下に晒すのだという、純粋で猛烈な正義感が渦巻いていた。

 その時、会議室の重い扉が開き、報道局長の鶴見が、報道局法務室の責任者である白髪交じりの男を伴って室内へと入ってきた。

 

 鶴見局長は五十代半ば。かつては社会部の敏腕事件記者として鳴らし、今は報道局全体を統括する巨漢の男だ。だが、今朝の彼の顔には、世紀のスクープを前にした報道マンの闘志はなく、まるで鉛を呑み込んだかのような重苦しい疲労が張り付いていた。

 鶴見は演壇の中央に立つと、手元のバインダーを机に置き、会議室に居並ぶ部下たちの顔を端から順番に見渡した。

 

「――全員、揃っているな。定刻だ、緊急編成会議を始める」

 低く嗄れた声が、静まり返った会議室に響く。

「本日は、一昨日の渋谷事案および政府の『異能』公表を受け、我が局として今後どのような報道姿勢を取るか、その基本方針を通達する。……ただ、具体的な編成の話に入る前に、大前提としてお前たちに伝えておかなければならない事実がある」

 

 鶴見はそこで一度言葉を切り、奥歯を噛み締めるようにして息を吸った。

 若手記者たちが「いよいよ政権追及の檄が飛ぶぞ」と身を乗り出した、次の瞬間だった。

 

「まず、くれぐれも誤解のないように聞いてほしい。……我が東都テレビを含む国内の主要報道機関の上層部、および一部の担当ラインは、政府が一昨日公表した『異能』ならびにそれを行使する能力者が実在することを、以前より認識していた」

 

 ピタリ、と。

 会議室の中の空気が、文字通り氷結した。

 メモを取ろうとしていた瀬川のボールペンが紙の上で止まり、政治部の篠田の口が半開きのまま固まる。一秒、二秒、三秒。誰も言葉の意味を脳内で処理できず、空調の乾いた風音だけがやけに大きく響いた。

 

「…………は?」

 

 誰かの喉から、裏返ったような声が漏れた。

 それを合図に、鶴見局長は淡々と、しかしどこか腹を括ったような口調で言葉を継いだ。

 

「これは我が局だけの話ではない。戦後、正確には昭和三十年代に締結された政府・関係専門機関と主要報道機関代表者との間の『特殊事案報道に関する非公開共同協定』に基づき、我が局の歴代報道局長および法務・編成の極秘ラインは、超常的事象に関する情報の取り扱いについて、一定の協力と調整を行ってきた。……以上が、前提となる事実だ」

 

 ガタァッ!!

 パイプ椅子が後ろへ蹴倒される激しい音が響き、社会部の瀬川が顔を真っ赤にして立ち上がった。

 

「な、なんですかそれ!! ちょっと待ってください局長!!」

 瀬川の怒声が、会議室のガラス窓をビリビリと震わせた。

「以前から認識していたって……じゃあ、政府が国民に隠していたことを、うちの局の上層部も最初から知っていたってことですか!?」

「そうだ。今そう言ったはずだ」

「それを知りながら、何十年もニュースで一行も報じずに黙っていたんですか!?」

「結果として、そういうことになる」

「ふざけないでくださいッ!!」

 

 瀬川が机の上の資料の束を叩きつけ、吠えた。

「俺たち報道機関には、国民の『知る権利』に奉仕し、権力が隠す真実を白日の下に晒す使命があるはずでしょう!? 一昨日の昼、現場の中継クルーは命がけで渋谷の空をカメラに収めたんですよ! それなのに、局の上層部が政府と裏で手を組んで、何十年も世界の真実を揉み消す片棒を担いでいたなんて……そんなの、報道機関の自殺じゃないですか!!」

 

 真っ直ぐな正義感から放たれた痛烈な弾劾。周囲の若手や中堅記者たちからも「そうだ!」「説明してください局長!」「俺たちが今までやってきた取材は何だったんですか!」と、一斉に怒号が沸き起こった。

 だが、演壇の鶴見は、縮こまるどころか、血管が浮き出るほど顔を紅潮させて机をドンと拳で叩き返した。

 

「こらあっ!! だから最初に『誤解のないように聞け』と言っただろうが!!」

 地鳴りのような局長の怒鳴り声に、若手たちがビクッと肩を揺らす。

「何が報道機関の自殺だ! 昨日の今日まで、世界の裏側がどう回っているかも知らなかった若造が、聞きかじりの正義感だけでイキり散らすんじゃない!! こっちだってな、政権に媚びを売るためや小遣い稼ぎのために黙っていたわけじゃねえ! この社会がぶっ壊れないために、どうしても必要だと判断したから泥を被って蓋をしてきたんだろうが!!」

「だったら、その『必要な理由』ってやつを今ここで納得できるように説明してくださいよ!!」

 

 瀬川が負けじと睨み返す中、その隣で冷静さを保とうとしていた政治部の篠田が、冷ややかな声で挙手した。

「局長。今の瀬川の感情論は措くとしても、報道倫理上の重大な疑義があります。その『非公開共同協定』というのは、実質的な政府による検閲、あるいは報道機関と国家権力との癒着ではありませんか?」

「癒着などではない! 誘拐事件における報道協定と同じ、人命と社会秩序を守るための自主規制の枠組みだ!」

「誘拐事件の協定は、被害者が解放されれば解除されてすべて報道されます! ですがこの協定は、一昨日渋谷で生中継されるまで、半世紀以上も国民から『現象そのもの』を隠蔽し続けてきたじゃないですか!」

 

 篠田は手元のタブレット端末を操作し、昨日ネット上で大騒ぎになっていた過去記事のデータを画面に表示させた。

「ここ数年だけでも、三年前の横浜埠頭の倉庫爆発や、昨年の西新宿の道路陥没など、現在ネット上で『異能事件の隠蔽だったのではないか』と指摘されている不審な事故がいくつもあります。お聞きしますが、我が局が過去にそれらの事案を『ガス爆発』や『突風による事故』として政府発表通りに報じた際、上層部はそれが異能によるものだと知っていて現場の取材を止めたのですか? 答えてください!」

 

 会議室の全員の視線が、鶴見局長と、その隣に立つ法務室長へと突き刺さった。

 鶴見はぐっと唇を噛み、数秒間だけ重い沈黙を落とした後、隣を見ることもなく自分の口で答えた。

 

「……すべてのガス事故がそうだというわけではない。だが、過去に我が局の社会部や地方支局が奇妙な事故や目撃証言を掘り下げようとした際、関係者の生命の保護、および重大な二次被害の防止を理由として、専門機関からの要請を受け入れ、報道内容を通常の事故扱いに調整・差し止めした事例は……確かに存在する」

 

「やっぱり隠蔽じゃないですか!!」

「政府に都合の悪い事実を、報道局長自らが握り潰していたってことですか!?」

「一昨日の渋谷の生中継だって、もし俺たちが現場から勝手に電波を飛ばさなかったら、局長が止めていたんじゃないですか!?」

 

 再び会議室が蜂の巣を突いたような大騒ぎになる。

「裏切りだ」「ジャーナリズムの死だ」と叫ぶ若手たちの声に、鶴見は額に青筋を浮かべ、再び大音声で一喝した。

 

「物事の表層だけを見て同じ袋に放り込むなと言っているんだ、馬鹿野郎どもが!!」

 鶴見は演壇の前に歩み出ると、瀬川と篠田を真っ直ぐに指差した。

「いいか、お前たちはさっきから『政府の秘密を暴くこと』ばかりを正義だと言っているが、一番根本的なことを忘れているぞ! そもそも、その『異能者』というのは誰のことだ!? 宇宙から侵略してきたエイリアンか? どこか特定のテロ組織の戦闘員か? 違うだろうが! 彼らもまた、俺たちと同じ戸籍を持ち、同じ街で暮らしている普通の日本国民なんだぞ!!」

 

 鶴見の言葉に、瀬川が一瞬だけ言葉に詰まった。

「そ、それは……そうでしょうけど、でも……」

「『でも』じゃない! 彼らにだって普通の家族がいる! ランドセルを背負って小学校へ通う子供もいれば、毎日満員電車に揺られて会社で働いているサラリーマンも、商店街で店を開いている店主もいるんだ! そいつらが、自分の意思で選べたわけでもない特殊な体質や能力を持っているというだけの理由で、お前たちのスクープ欲のために世間の好奇と恐怖の目に晒されていいわけがないだろうが!!」

 

「だ、誰も個人の名前や住所を晒せなんて言ってませんよ!」

 瀬川が反論する。

「個人情報は伏せた上で、『この世界には異能という現象が存在し、政府が管理している』という客観的な事実だけを報じればよかったじゃないですか!」

「本当にそれだけで済むと、お前は本気で思っているのか!?」

 

 鶴見は机の上から一束のプリントアウトを取り上げ、瀬川の目の前に突きつけた。

 それは、一昨日の午後から昨夜にかけて、SNSや匿名掲示板で繰り広げられた「特定作業」の記録だった。

「これを見ろ! 一昨日、渋谷の映像が流れてからわずか数時間で、ネットの連中が何をやった!? 渋谷で暴れた男に顔が似ているというだけの無関係な大阪の大学生の写真を『犯人だ』と決めつけて拡散し、その学生の実家や大学に何百件もの殺害予告や脅迫電話を浴びせた! さらには、自分の命を張って一般人を守ったあのトレンチコートの女性の身元まで特定して晒し上げようとする動きが、今もネット中で続いているんだぞ!」

 

 瀬川と篠田が、気まずそうに視線を落とした。連日の取材で、その騒動は彼らも把握していた。

「いいか、政府が公式に管理体制を認めた今ですら、たった一日でこれだけのヒステリーと魔女狩りが起きているんだ。もし十年や二十年前、まだ法整備も世間の受け入れ準備も何一つ整っていない時代に、我が局が単独で『実はあなたの隣人に超能力者がいます!』なんて特種を打ってみろ! 全国の学校や職場で何が起きたと思う!? 疑心暗鬼になった大衆による吊るし上げと差別、そしてパニックになった能力者自身の暴発だ! 報道機関が正義のツラをして引き金を引いた結果、何万人もの無辜な市民の生活が破壊されるのを、誰が責任を取れるんだ!?」

 

 老練な報道マンが吐き出した重く現実的な問いかけに、会議室の温度がわずかに下がった。

 最前列に座る若手の一人が、反論しかけて開いた口を閉じた。誰もすぐには言い返せず、紙をめくる小さな音だけが聞こえた。

 

 だが、それで引き下がるほど、現場の記者たちも単純ではなかった。

 数秒の沈黙を破り、社会部の瀬川が悔しそうに拳を握りしめて顔を上げた。

 

「……局長の言う、能力者の人権やパニックの危険性については、一理あると思います。ですけど!」

 瀬川は背後のモニター――渋谷の交差点で割れたガラスにまみれ、血を流して救急隊員に手当てされている市民たちの映像を指差した。

「一昨日の渋谷で、理由も分からないまま巻き込まれて怪我をした四十一人の市民はどうなるんですか!? 現地にいた人たちは、最初、男が空に浮いたのを見ても『映画の撮影だ』『手品だ』と笑って、逃げるどころかスマホを構えて近づいていったんですよ! なぜですか!? 『人間が空を飛んで攻撃してくるはずがない』って、俺たちメディアと政府がずっと信じ込ませてきたからじゃないですか!!」

 

 鶴見の眉がピクリと動いた。

「もし、この世界にそういう危険な能力が存在することや、遭遇した時には撮影などせずに直ちに建物の中へ退避すべきだという最低限の知識が国民に共有されていれば、一昨日の被害者はもっと少なくて済んだはずです! 警察や消防の一部にだけこっそり秘密の研修を受けさせて、一般市民には目隠しをしたまま危険な交差点の上を歩かせていたことに、本当に何の責任もないって言えるんですか!?」

 

「……それは、警察の現場指揮官が特別研修を受けていたからこそ、無理な発砲を控えて迅速に避難誘導を行い、死者を一人も出さずに済んだという側面もある」

 隣にいた法務室長が、苦渋の色を滲ませながら口を挟んだ。

「ですが、瀬川記者の指摘する通り、結果として一般市民の初期避難が遅れたこともまた否定できない事実です。私どもとしても、従来の完全秘匿主義に限界があったことは認めざるを得ません」

 

「そうですよ! 行政の準備が整うまで黙っていろなんて言っていたら、百年経っても準備なんか整いません! 大衆がパニックになるから隠すなんていうのは、結局、国民を愚民扱いしているのと同じじゃないですか!」

「なんだと! 現実のネットの暴走を見てもまだそんな綺麗事が言えるのか!」

「綺麗事を言わなくなったらジャーナリズムはおしまいでしょうが!!」

 

 再び瀬川と鶴見が真正面から怒鳴り合いを始め、政治部の篠田が「過去の協定文書の全文開示を求めます!」と畳み掛け、ベテランの編集委員が「今は目の前の特番編成が先だろう!」と怒声を被せる。

 どちらも自分の信じる「報道の責任」を背負っているがゆえに、一歩も引かない泥沼の平行線。時計の針が午前九時四十分を回り、同じような主張の応酬が三周目に突入しかけた、その時だった。

 

 パン、パン、と。

 会議室の中央付近で、乾いた拍手の音が二回鳴り響いた。

 全員がギョッとしてそちらを見ると、社会部のナンバーツーである四十代の中堅デスク・佐久間が、実にうんざりした顔でホワイトボードの前に立っていた。

 

「……あのですね、局長も、瀬川も篠田も、いい加減にしてもらえませんか。俺たちは一昨日の昼から四十時間以上ろくに寝てないんですよ。これ以上怒鳴り合って酸素を消費するなら、全員医務室に運ばれますよ」

「佐久間、俺はまだ――」

「局長! 『俺はまだ』じゃありませんよ! さっきから同じ説教を三回繰り返してます!」

 佐久間デスクは鶴見局長の言葉をピシャリと遮ると、ホワイトボードのマーカーを手に取り、キュキュッと音を立てて三つの箇条書きを書き殴った。

 

『① 過去:政府と報道機関が秘匿協定を結んでいたことの是非・検証』

『② 現在:異能が公表された今、国民が今日明日を安全に生きるために必要な情報』

『③ 原則:善良な能力者の個人情報や平穏な生活を破壊しないための報道倫理基準』

 

 佐久間はマーカーでボードをトントンと叩き、室内を見回した。

「いいですか。この三つは、時間軸も性質もまったく別の問題です。それを全部ごちゃ混ぜにして『隠していたのは悪か正義か』なんて神学論争をやってるから、いつまで経っても一歩も前に進まないんですよ」

 

 ぐうの音も出ない正論に、鶴見局長も、息を荒らげていた瀬川たち若手も、気まずそうに口を閉じた。

 佐久間はため息を吐き、落ち着いた声で続けた。

「まず、過去数十年の秘匿体制の蓋は、一昨日の渋谷中継と、その夜の総理会見で、もう完全に吹っ飛びました。元には戻りません。ですから三本柱を分けます。①過去の協定と報道判断の是非は、資料と証言を集め、我々自身の責任として検証する。

②現在、政府がまだ公表していない情報――国内にどれだけの能力者がいて、どのような管理体制と安全対策があるのかについては、国民の安全に関わる課題として、徹底的に取材し説明を求める。

③原則、ネットの特定班のような『個人の晒し上げ』や『異能者に対する差別・偏見を煽る報道』は、我が局では一切行わない。

少なくとも②と③については、局長も若手も異論はありませんね?」

 

 鶴見が「……ああ、そこは異論ない」と低く頷き、瀬川も少し考えてから「……はい」と答えた。

 すると、政治部の篠田がすかさず手を挙げた。

「佐久間デスク。では一番上の『① 過去に報道機関の上層部が秘匿に協力していた事実』については、いつ、どのように視聴者へ説明するのですか? それとも、政府の隠蔽だけを叩いて、自分たちの過去の協力は棚に上げて頬かむりするつもりですか?」

 

 室内が再びピリッと張り詰める。

 佐久間デスクがちらりと演壇の鶴見局長を見た。

 鶴見はしばらくの間、腕を組んでモニターの中の渋谷の映像を見つめていたが、やがてゆっくりと口を開いた。

 

「……頬かむりなどせんよ。協定に基づいて何を報じず、何を通常の事件として扱ったのか。我々自身の判断を検証し、必要なら第三者委員会も立ち上げる。守るべき個人情報は慎重に扱うが、俺自身の言葉で視聴者に説明し、批判も受ける。責任問題になれば、俺の首を差し出して済むならいくらでも差し出すさ」

 鶴見はそこで一度言葉を区切り、瀬川と篠田の目を強い光で見据えた。

「だがな、その前にまず、目の前で不安に震えている一億二千万の国民に、これからこの国がどうなるのかを正確に伝えるのが先決だ。いいか、政府の言いなりになれと言っているんじゃない。ただ、お前たちがこれからマイクを向ける『異能者』という存在が、化け物でも記号でもなく、俺たちと同じように笑い、悩み、生活している生身の人間だということだけは、絶対に忘れるな」

 

 瀬川は唇を引き結び、握り締めた取材メモを机に置いた。今すぐ答えの出ない問題があると認めても、質問まで引っ込めるつもりはなかった。

「……分かりました。その代わり、政府と専門機関に対しては、遠慮なく一番痛いところまで斬り込ませてもらいますからね!」

「ああ、勝手にしろ! それが今日からのお前たちの仕事だ!」

 

 午前十時十五分。

 完全な和解には程遠く、組織の内部に深い問いと亀裂を残したままではあったが、報道局の記者たちはそれぞれの持ち場へと一斉に飛び出していった。

 彼らが向かう先は、永田町。

 そしてまさにその同じ時刻、記者たちの追及の矢面に立たされている総理官邸の奥深くでは、報道局の会議とはまた別次元の、気が遠くなるような「情報公開会議」が幕を開けようとしていた。

 

*

 午前十時三十分。総理官邸・地下危機管理センター会議室。

 厳重な電磁シールドと防音壁に守られたこの部屋には、内閣総理大臣、内閣官房長官をはじめとする主要閣僚、警察庁・防衛省・外務省・法務省のトップ、そして日本の超常行政を一手に担う秘匿機関「八咫烏」の統括幹部および各部門の責任者たちが、重い面持ちで長机を囲んでいた。

 

 机の上には、今朝までに各省庁と全国の自治体、そして報道機関から寄せられた膨大な質問状と報告書の束が、まるで白い山脈のように積み上げられている。

 上座に座る内閣総理大臣は、こめかみに指を当てながら、疲れ切った声で切り出した。

 

「……では、関係省庁合同の追加情報公開に関する検討会議を始める。まず官房長官、一昨日の私の会見以降、国民および各機関から寄せられている反響の現状を整理してくれ」

 

「はい、総理」

 官房長官が手元のタブレット端末をタップし、眼鏡の位置を直して報告を始めた。

「一昨日の夜八時に総理が『異能の実在』および『専門機関による対応』を公表して以降、官邸の意見募集フォーム、各省庁の代表電話、ならびに全国の警察・自治体窓口への問い合わせは、通常の約五十倍という前代未聞の規模に達しております。現在、一般窓口では到底処理しきれず、各省庁の臨時対応班へ振り分けている状況です」

「五十倍か……。具体的に、国民からはどのような質問が来ている?」

 

 総理の問いに、官房長官は一覧表の上から順番に読み上げた。

「最も多いのは、やはり安全保障と日常生活に関する疑問です。『国内に異能者は何人存在するのか』『どのような種類の能力があるのか』『渋谷のような事案が再び起きた際、警察はどう対応するのか』『子供の通う学校に能力者がいた場合、保護者に通知されるのか』『隣の部屋の住人が能力者だと分かったら、110番通報すべきなのか』『自分や家族に異能があるかどうか、保健所や病院で検査してもらえるのか』……といった切実な問い合わせが殺到しております」

「……うむ、どれも国民としては当然抱く疑問だな」

 総理が重々しく頷くと、官房長官は全く表情を変えずに次の行を読み上げた。

 

「なお、その他にも『異能を使ってロト6や年末ジャンボ宝くじの当選番号を予知・操作することは可能なのか』『可能である場合、これまでの当選者は全員異能者だったのか』『今から修行すれば会社まで空を飛んで通勤できるようになるのか、その場合の通勤手当は非課税になるのか』といった問い合わせも、昨日だけで一万件以上寄せられております」

 

 会議室に、なんとも言えない微妙な沈黙が流れた。

 総理は眉間の皺を深くし、隣を見るようにして呟いた。

「……それは、一国の政府に電話して聞くことなのか?」

「分かりません。ただ、国民の関心があらゆる方向へ爆発していることだけは確かです」

 

 官房長官の淡々とした返答に、何人かの閣僚から乾いた苦笑いが漏れた。

 だが、ここに集まっている面々は、ただパニックに陥って右往左往しているわけではなかった。

 政府の中枢と八咫烏の間には、平時から超常災害や高Tier事案に対処するための高度な危機管理マニュアルが存在している。しかし、今回の問題は「現場の事件をどう鎮圧するか」ではない。「これまで何百年も『存在しないもの』として秘匿を前提に組み立てられてきた制度や世界の裏事情を、一般国民に向けてどこまで、どのような言葉で翻訳して開示するか」という、人類史上誰も経験したことのない行政課題なのだ。

 

「笑っている場合ではないな」

 総理は気を取り直すように背筋を伸ばし、会議室の全員を見渡した。

「一昨日の会見では、取り急ぎ『異能が実在する』という大枠だけを認めた。だが、いつまでも詳細を伏せたままにしておけば、世間の憶測とパニックは膨らむ一方だ。今日中に、政府として国民に追加公表する情報の範囲と、その基本方針を決定する。まずは世論の動向から確認しよう」

 

「はい。官邸広報室および内閣情報調査室で分析した、現在の国民世論の主な傾向をお配りした資料の1ページ目にまとめております」

 官邸の広報担当官が立ち上がり、モニターに集計表とテキストを表示させた。

「SNSやニュースコメント、電話窓口に寄せられた声からは、主に四つの傾向が見て取れます。ただし、これらは無作為抽出の世論調査ではなく、国民全体の割合を示すものではありません。

第一に、『とにかく得体が知れなくて怖い』という恐怖層。渋谷の男のような危険人物が街中を歩いているのではないか、自分の子供が巻き込まれるのではないかという強い不安です。

第二に、『もっと詳しく知りたい』という好奇心・実用層。能力の仕組みや人数、自分が使えるようになる方法などを求める声です。

第三に、『政府に対する強い不信感』を持つ層。なぜ今まで隠していたのか、過去の事故も隠蔽だったのではないか、他にもまだ重大な秘密を隠しているのではないかという追及の声で、今朝から報道各社もこの論調を強めています。

そして第四に、『能力者への理解・擁護』を示す層です。渋谷で市民を守ったトレンチコートの女性の映像が拡散されたことで、能力者を一括りに危険視すべきではないという冷静な意見も一定数存在しております」

 

 広報担当官の説明が終わるなり、閣僚たちの間から次々と意見が飛び出した。

「やはり一番深刻なのは第一の『恐怖』と、第三の『政府への不信』だろう! 今朝のワイドショーを見ても、政府が情報を小出しにして隠蔽を続けているという批判ばかりだ!」

「しかしだな、国民が怖がっているからといって、手の内を全部晒すわけにはいかんだろう。安全保障上の機密もあるんだぞ」

「だから、その『どこまで晒してどこから隠すか』の境界線を決めるための会議でしょうが!」

 

 開始早々、議論が熱を帯び始める中、以前から行政の透明化を掲げている情報公開推進派の大臣――総務系統を受け持つ閣僚が、力強く手を挙げた。

「総理! 国民の不信感を払拭し、無用なパニックを抑えるためには、まず何よりも『基本的な統計データ』を包み隠さず公表すべきです! 今、世間では『日本に能力者が何人いるのか』という一点だけでも、百人説から数万人説までデマが飛び交っています。まずは国内に存在する異能者の正確な人数を、今日中に発表しようではありませんか!」

 

 その提案には、他の数人の閣僚も「確かに、人数くらいなら個人情報にも関わらんし、基礎データとして出すべきだな」と頷いた。

 実のところ、この場にいる閣僚たちの中にも、昨日まで「異能者と八咫烏という専門機関が存在する」という概略しか知らされておらず、具体的な内部統計までは把握していない者が少なくなかったのだ。必要最小限の情報だけを共有し全体像を分断する――それがこれまでの秘匿行政の鉄則だったからである。

 

「ふむ。能力者の人口、か」

 総理は長机の向かい側に座る、黒いスーツを着た初老の男――八咫烏の中央本部統括幹部へと視線を向けた。

「現在の正確な数字を、ここで全員に共有してくれ」

 

「承知いたしました」

 八咫烏の統括幹部は、感情の読めない静かな声で頷き、手元の分厚い黒表紙のファイルを1ページめくった。

「当機関の登録・査定部門の記録と、各種人口統計に基づきますと、現代日本国内における覚醒済み能力者――すなわち実階位であるTier1からTier4までに該当する者の総数は、推計で『約三百四十二万人』でございます」

 

 会議室が、しん、と静まり返った。

 先ほど威勢よく「まず人数を発表しよう!」と提案した公開推進派の大臣が、自分の耳を疑うように目をパチクリとさせた。

 

「…………え? 今、何万人と言ったかね?」

「約三百四十二万人です。日本の総人口に対して、およそ『三十六人に一人』の割合に相当いたします。高等学校の規模で換算いたしますと、一校あたり平均して十名前後の覚醒済み能力者が在籍している計算になります」

 

「さ、三百四十二万人だと!?」

 公開推進派の大臣が、椅子から腰を浮かせて素っ頓狂な声を上げた。

「ちょっと待て、多すぎないか!? 私が昨日秘書官から聞いたネットの予測では、せいぜい数千人か一万人程度だろうという話だったぞ! 三百四十二万人と言ったら、静岡県の全人口とほぼ同じじゃないか!!」

「大臣、多いと仰られましても、統計を取り始めてから長らくその程度の人口比率で安定して推移しておりますので」

「い、いや、八咫烏の調査ミスだと責めているわけではなくてだな……!」

 

 大臣がハンカチで額の汗を拭う姿に、以前から数字を知っていた総理と官房長官が、かすかに苦笑いを漏らした。

 すると、すぐさま警察・治安担当の慎重派の閣僚が、顔色を険しくして異を唱えた。

 

「総理、この数字をそのまま公表するのは極めて危険です! 国民は今、異能者といえば『一昨日の渋谷で空を飛んでビルを破壊した男女』のイメージしか持っていません。そこへいきなり『実はそういう人間が日本国内に三百四十二万人、三十六人に一人います』などと発表してみなさい! 全国民が『自分の隣の席の同僚も、同じマンションの住人も、いつ爆発を起こすか分からない能力者かもしれない』と恐怖に駆られ、全国の学校や職場で魔女狩りのような異能者探しが始まりますぞ!」

 

「いや、しかしですね」

 公開推進派の大臣も、最初の驚きから立ち直って食い下がった。

「逆に人数を伏せたままだからこそ、世間は『異能者=ごく少数の特殊な怪物』だと思い込んで孤立させてしまうのではありませんか? 三十六人に一人、どこの学校にも会社にも普通にいるのだと知らせることこそが、過度な特別視をなくす第一歩になるはずです!」

 

「双方が仰る懸念は、いずれももっともでございます」

 そこで発言を求めたのは、八咫烏の法務・国際部門を束ねる女性幹部だった。彼女は凛とした、しかしどこか温かみのある声で閣僚たちを見渡した。

「当機関といたしましても、三百四十二万人という人口推計を公表すること自体には、原則として反対いたしません。ただし、公表にあたっては、能力者の法的立場と権利保護について、政府から極めて明確なメッセージを同時に出していただくことが絶対条件となります」

「権利保護、というと?」

「国民の皆様にまず理解していただきたいのは、この数字を知ったからといって、誰かに能力の有無を問いただす権利が生まれるわけではない、ということです」

 

 女性幹部の言葉に、会議室の空気が少し引き締まった。

「数字だけが独り歩きすれば、職場で申告を迫られたり、学校で『能力者ではない証明』を求められたりするおそれがあります。個人の登録情報はこれまでどおり保護すべきですし、能力を持つこと自体は違法ではありません。公表するなら、その原則と、不当な詮索や差別に対処する行政の姿勢を数字と同じ重さで伝えていただきたいのです」

 

「……なるほど。人数を発表するだけでなく、発表後に何を許さないかも示さなければならん、と」

 総理が深く頷いた。

「よし。登録者個人の名簿などは絶対に開示しないこと、能力者への不当な詮索や差別を容認しない方針を明確にすることをセットにして、『国内約三百四十二万人・三十六人に一人』という数字は公表する方向で固めよう。これで一つ決まったな。……では、次の項目に移ろう」

 

 最初の議題がわずか三十分ほどで綺麗にまとまったことで、閣僚たちの顔に「なんだ、この調子なら午前中に終わるじゃないか」という安堵の色が浮かんだ。

 だが、彼らがその甘い見通しを後悔するまでには、五分とかからなかった。

 

「総理! 今の三百四十二万人という数字に関連して、もう一歩踏み込んだ提案があります」

 勢いづいた情報公開推進派の大臣が、手元の資料をめくりながら言った。

「今、八咫烏の法務担当から『能力を持つこと自体が危険を意味するわけではない』という話がありましたね。であれば、国民の安心のために、能力者のランク分け――資料にある『Tier(ティア)制度』とやらも一緒に公表すべきではないですか? 大多数が下位ランクなのだと説明すれば、国民も納得するでしょう!」

 

「Tier制度の公表、でございますね」

 八咫烏の統括幹部が、眼鏡のブリッジを指で押し上げながら静かに応じた。

「結論から申し上げますと、現段階でのTier制度の詳細公表には、看過できない重大な問題が複数ございます」

「なぜだ? 一から四までの危険度ランキングのようなものだろう?」

「いいえ、大臣。そこが最大の誤解を招く点なのです。Tierとは、個々の能力の攻撃力や単純な勝敗の強さを示す戦闘力ランキングではございません。その人物の魂がどれほど大規模な因果律改変を安定して支えられるかという『魂の定数』の総合階位であり、しかも一段階上がるごとに必要な規模が文字通り『二乗』になるという指数関数的な基準をとっております」

 

 統括幹部は、ホワイトボードの端に簡単な図を示しながら説明を続けた。

「たとえば、三百四十二万人の圧倒的多数を占める最下位の『Tier4』であっても、条件や自己制約によっては、一般人の数倍の身体能力を発揮したり、人を殺傷し得る現象を起こす者は存在します」

「……一番下のTier4で、すでに人間の数倍の力が出るのか?」

「はい。さらにその上の『Tier3(戦術級)』は局地的な戦闘を左右する規模の現象を起こし得ます。一昨日の渋谷の二人が見せた現象は『Tier2(特殊作戦級)』相当にも見えますが、映像だけで本人の階位を確定することはできません。……そして、通常の覚醒済み能力者の階位として最高位が『Tier1(国家戦略級)』です」

 

「国家戦略級」という穏やかならぬ単語に、防衛担当の閣僚が眉をひそめた。

「なんだその物騒な呼称は。具体的にはどの程度の規模なんだ?」

「単独で一国の軍事・外交バランスに直接的な影響を及ぼし得る規模の因果干渉力を持つ者を指します。現在、日本国内で公式に確認・登録されているTier1能力者は、約二十名です」

 

「…………二十名?」

 閣僚たちが顔を見合わせた。

「その二十人のうちの誰かが本気で暴れたら、どうなるんだ?」

「能力の性質にもよりますが、一個師団規模の通常戦力の無力化、あるいは大都市圏のインフラ機能の完全停止などが単独で可能です。したがいまして、我が国が保有するTier1の正確な人数、能力の性質、配置状況などは、自衛隊の最高機密や核抑止力と同等の国家安全保障情報であり、これを公表することは外国勢力に対して我が国の戦略的手の内を晒すことに直結します」

 

「……そ、その二十人という数字は、公表するのか?」

「安全保障上、断固として推奨いたしません」

「だろうな!! そんなもの発表したら、国民が安心するどころかパニックが百倍になるわ!」

 

 公開推進派の大臣が慌てて頷きながら、ふと手元の資料の表の一番上にある記述に目を留めた。

「……あれ? ちょっと待て、統括幹部。今、君は『Tier1が通常の覚醒済み能力者の最高階位だ』と言ったよな? だがこの資料の端の欄外に、『Tier0(規格外)』という文字が小さく書いてあるぞ。一の上になぜゼロがあるんだ?」

 

 その瞬間、八咫烏の統括幹部と法務担当、そして事情を知る官房長官の顔から、スッと表情が消えた。

 統括幹部は二秒ほどの間を置いてから、極めて慎重な声で答えた。

「……大臣。その『Tier0』につきましては、今回の公表対象からは完全に除外していただきたいと考えております」

「な、なぜだ? Tier1よりさらに強い超能力者ということか?」

「いいえ。Tier1以下に分類される能力者は、人間か人外かを問わず、それぞれ固有の能力形式と成立条件を通じて因果を改変する存在です。一方Tier0は、自らが司る世界の《理》や法則そのものに直接的な権限を持つ……人類側の測定体系では通常の階位に収まらない『神格級』の存在です」

 

「…………しんかく、きゅう?」

 大臣の口から、間の抜けた声が漏れた。

「神格って、比喩表現だよな? すごく強いという意味の……」

「比喩ではございません。文字通り、世界の物理法則や概念の権限を掌握している存在です。なお、さらにその上には、三次元宇宙の外側から法則をソースコードのように読み書きする『高次元Tier(マイナス階位)』の存在も確認されておりますが、人類の観測機器ではすべてTier0として飽和するため――」

 

「ストーップ!! その話は後にしましょう!!」

 官房長官が、立ち上がらんばかりの勢いで両手を振って割って入った。

「しかし官房長官、今、高次元とか宇宙の外側とか聞き捨てならない言葉が――」

「後です!! 今ここで神様や宇宙の話を始めたら、昼になっても最初の1ページ目から進みません! とりあえず『Tier制度をそのまま出すと、上の方の階位の説明が人間の理解を超えていて大混乱を招く』ということは分かりましたね!? ですから今回は『能力には様々な種類と規模があり、専門機関が個別に危険度を評価している』という定性的な説明に留める! いいですね!?」

 

 官房長官の気迫に押され、閣僚たちは目を白黒させながらも「う、うむ……」「そうしよう」と頷いた。

 広報担当官が、青い顔でメモ帳に『Tier0および高次元:絶対に触れない』と太字で書き込む。

 

「……よし、では次に移る」

 総理がコップの冷水を一口飲み、外務・安全保障担当の閣僚へと視線を向けた。

「国際関係および出入国管理についての論点だ。一昨日の渋谷の映像では、犯人の男が空を飛んで交差点から離脱したが、諸外国や国民からは『空を飛ぶ異能者がそのまま国境を越えて密出入国したらどうするのか』という疑問が出ている。現状はどうなっているんだ?」

 

「はい、総理。その点につきまして、外務省の特別連絡室と八咫烏の国際部門で整理いたしました」

 外務担当の幹部が資料を開いた。

「まず事実関係として申し上げますと、能力を使って国境を越えること自体は、技術的に十分可能です。しかも渋谷の男のような単純な飛行能力だけでなく、上位の空間系能力者の中には、『空間転移』や『遠隔空間接続』によって、物理的な距離を無視して一瞬で他国へ移動できる者も存在します」

 

「い、一瞬で他国へ移動だと!?」

 法務・入管担当の閣僚が目を剥いた。

「ちょっと待て! 羽田や成田のイミグレーション(出入国審査場)を通らずに外国へ行くというのか!? パスポートのスタンプや税関はどうなるんだ!?」

「能力の行使そのものには、当然ながら旅券も航空券も必要ございません。自宅の居間から一歩踏み出してパリの路地裏に出ることも、原理的には可能です」

「それでは国家の出入国管理法が根底から成立しないではないか!!」

 

 顔を真っ赤にして怒鳴る法務担当閣僚に対し、八咫烏の国際担当が落ち着いた口調で補足した。

「ご安心ください、大臣。無法地帯になっているわけではございません。我が国の八咫烏と、米国の『MAJESTIC-12』、欧州の『Ordo Chronos』をはじめとする各国の管理機関との間では、非公開の『国際超常越境協定』が締結されております。正規の越境には事前の申請と認証が必要で、無断越境が確認されれば各国の法令と協定に基づいて対処いたします。ただし、都市観測網が検知できるのは一定規模以上の因果反応が生じた場所・時刻・おおよその規模であり、個人の識別や移動経路の常時追跡ができるわけではございません。感知系能力者の協力も含め、複数の手段で警戒しております」

 

「……つまり、一般の空港や港とは全く別の『裏のイミグレーションと国際条約』が、何十年も前から世界中で動いていたというのか?」

「その通りでございます」

 

 閣僚たちが呆然と顔を見合わせる中、官邸の広報担当官が、泣きそうな顔で手を挙げた。

「あの……もし、その『空間転移で国境を越えられる能力者がいる』という事実を国民に公表した場合、記者会見で何が起きるか申し上げますと……まず間違いなく『日本の国境警備はザルなのか!』と袋叩きにされます。次に『外国の工作員が能力で総理官邸にワープしてきたらどうやって防ぐんだ、具体的な防衛設備とセンサーの場所を公表しろ!』と迫られます」

「そ、そんな防衛センサーの仕様や配置を公表できるわけがないだろう! テロリストに抜け道を教えるようなものだ!」

 安全保障担当の閣僚が即座に叫んだ。

「では、越境能力の具体的な形式や、各国機関との非公開協定の詳細についても、安全保障上の機密として今回は『非公表』ということでよろしいですね!?」

「……ああ、そうしてくれ。国際協調を行って万全を期している、の一文だけで済ませよう」

 

 また一つ、公開できる項目が音を立てて削り落とされた。

 だが、外務担当の幹部は、まだ資料のページを閉じようとしなかった。それどころか、一段と声を潜めて次の行を指差したのだ。

 

「なお、総理。今の『国境と外交』に関連いたしまして、もう一点、どうしても判断を仰がなければならない案件がございます」

「……まだ何かあるのか?」

「はい。通常の三次元空間上の外国――アメリカや中国といった国々とは別に、我が国が長年にわたり公式な外交関係を結んでいる『異次元国家』の存在について、今回の公表に含めるかどうかでございます」

 

 ピタリ、と。

 会議室全体の動きが、今日二度目の完全停止を迎えた。

 情報公開推進派の大臣が、持っていたボールペンを机の上にポロリと落とした。

 

「…………今、何と言った?」

「日本国内の特定の接続領域(ゲート)を介して隣接している、通常空間の外側に存在する『異次元国家』でございます」

「……待て」

「はい」

「日本に隣接する、なんだって?」

「異次元国家です」

「……それは、比喩ではなくて、文字通りの『異世界にある国』という意味か?」

「はい。独自の領土、生態系、統治機構、ならびに主権を有する独立国家であり、我が国とは歴史的な不可侵および通商・通行に関する政府間協定を継承しております。定期的な外交使節の往来や、特殊資源の取引も存在します」

 

 会議室の中で、数人の閣僚が同時に天井を仰いだ。

 一昨日の昼までは「人間が空を飛ぶはずがない」と思っていた政治家たちの脳内に、わずか五分間で「神格」「空間転移」「異次元国家との国交」という情報が次々と流し込まれ、理解のキャパシティが限界を突破しつつあった。

 

「……お、おい。そんな『実は日本政府は異世界の国と国交があります』なんて話を今日発表したら、国民はどう受け止めると思う?」

 総理が引きつった頬を押さえながら広報担当官を見ると、広報担当官は魂の抜けたような目で答えた。

「……まず、間違いなく『異世界転生は実在した』とネットが大爆発します。次に、旅行会社や国民から『観光ビザはどうすれば取れるのか』『エルフや魔法使いはいるのか』『日本のパスポートで行けるのか』という問い合わせが外務省に一億件ほど殺到し、同時に経済界から『異次元との貿易関税はどうなっているんだ、なぜ国会承認なしに条約を結んでいるんだ』と憲法論争が起きます」

「入国管理はどうなってるんだ!?」

「双方の協定に基づき、八咫烏の特殊事象管理部門が検疫と通行証の発行を――」

「分かった! もういい、それ以上言うな!!」

 

 公開推進派の大臣が、自分の頭を両手で抱え込んで叫んだ。

 すると、隣に座っていた国土交通系統の閣僚が、ふと現実的な疑問を思いついたように手を挙げた。

「あ、あのだな、一つだけ参考までに聞いておきたいんだが……その『日本に隣接する異次元国家』というのは、地図でいうと日本のどのあたりにあるんだ? 排他的経済水域(EEZ)の外側か?」

「いいえ、大臣。位相の異なる別次元空間に存在しておりますので、通常の三次元地図(緯度・経度)の上には表示できません。接続口自体は国内の山間部や霊場など複数箇所に存在いたしますが、その向こう側の領土面積は日本の国土面積とは無関係に広がっております」

「……国なのに、地図に描けないのか?」

「はい」

「じゃあ、我が省の国土地理院はどうすればいいんだ!?」

「通常の測量および地図作成の管轄外となっております」

「じゃあ一体どこが境界線を管理してるんだ!!」

「主として当機関・八咫烏の特殊事象管理部門と、外務省特命連絡室の共同管轄でございます」

「なんでそんな訳の分からない面倒なことになっているんだ!!」

 

 八咫烏の統括幹部は、怒鳴る大臣を前にしても眉一つ動かさず、極めて事務的に答えた。

 

「異次元ですので」

 

 そのあまりにも簡潔で反論の余地がない一言に、会議室の全員が完全に黙り込んだ。

 やがて、官房長官が魂をすり減らしたような掠れ声でマイクを引き寄せた。

「……異次元国家との外交関係につきましては、今回の公表対象から完全に外すということで、全会一致でよろしいですね?」

 

 情報公開推進派の大臣を含め、誰一人として反対する者はいなかった。

 総理が重い腕を上げて腕時計を見た。針は午後零時五十分を指している。

「……まだ、昼か」

 総理の呟きは、まるでフルマラソンを走り終えた老人のように虚ろだった。

 

*

 午後一時十五分。

 会議室には官邸職員によって幕の内弁当と緑茶のペットボトルが配られ、二十分間の短い昼食休憩に入った。

 当初の予定では、午前中のうちに公開項目の仕分けをすべて終え、午後は記者会見で読み上げる発表文の「てにをは」を推敲するだけのはずだった。しかし現実には、机の上の資料の山はまだ半分も消化されておらず、むしろ開けてはならないパンドラの箱を次々と覗き込んだせいで、閣僚たちの精神的疲労だけが極限に達していた。

 

「……おかしいな」

 情報公開推進派の大臣が、弁当の煮物に箸をつけたまま、遠い目で独り言のようにぼやいた。

「今日の朝、この部屋に入った時は、ただ『異能者の人数を発表して、クリーンな政府をアピールしよう』というだけの単純な話だったはずなんだが……どうしてわずか二時間で、神様だの異次元国家の地図だのの話になっているんだ……?」

「一つ事実を公表しようとすると、その背景にある制度や関連事象まで芋づる式に説明責任が生じるからでしょうな」

 隣で茶を啜っていた官房長官が、胃薬の錠剤を口に放り込みながら答えた。

「今まで八咫烏が裏で一括して引き受けていた『世界の複雑さ』を、表の法律と言葉に置き換えるというのが、これほど大仕事だとは……」

 

 午後一時三十五分。

 総理が弁当の蓋をパチンと閉め、手を叩いて会議の再開を告げた。

「よし、食事はそこまでだ。午後はもう少し手際よく、サクサクと仕分けを進めていこう」

「承知いたしました、総理」

 八咫烏の統括幹部が、変わらぬ姿勢で頷き、新しいファイルを開いた。

「では午後の最初の議題として、『人外共同体』に関する情報開示の是非からご説明いたします」

 

 総理の箸を片付ける手が、ピタリと止まった。

「……まだ、そういう大きなのがあるのか?」

「はい。国内の神秘社会を構成する主要素の一つでございますので」

「……そうか。続けてくれ」

 

 促された八咫烏の法務・国際担当の女性幹部が立ち上がり、モニターに新たな資料を表示させた。

「国内で登録・管理されている超常的存在の中には、後天的に異能へ覚醒した『人間』の能力者だけでなく、生まれつき人間とは異なる身体構造・寿命・生態・因果構造を持つ人格的存在――総称して『人外(じんがい)』と呼ばれる種族が複数含まれております。これの公表には、各共同体との事前の高度な政治的調整が不可欠です」

 

「人外、というと……具体的にはどういう連中なんだ?」

 恐る恐る尋ねたのは、午前中に散々痛い目を見た公開推進派の大臣だった。

 女性幹部は、こともなげに答えた。

「代表的な例といたしましては、吸血鬼、人狼、鬼族、天狗や妖狐の血を引く長命種などでございます」

 

「…………」

 大臣は数秒間、虚空を見つめた後、消え入るような声で呟いた。

「……本当に、いたのか」

「はい」

「映画や小説に出てくる、あの吸血鬼も?」

「実在いたします」

「満月になると変身する、あの人狼も?」

「実在いたします」

「……まさかとは思うが、幽霊や妖怪まで実在すると言わんだろうな?」

「感情や場所、伝承や呪物から成立する『怪異』と総称される現象・存在の中には、一般に幽霊や妖怪と呼ばれる類型も多数含まれております」

 

 公開推進派の大臣は、無言で背もたれに深く身を沈め、再び天井の木目を数え始めた。もはや驚くためのエネルギーすら残っていないようだった。

 

 女性幹部は、そのまま淡々と実務上の課題を説明していく。

「特に吸血鬼につきましては、仮に政府が『吸血鬼の実在』を一般社会へ公表する場合、国内の共同体を代表する自治組織である『日本吸血鬼委員会』との事前協議および合意形成が、従来の協定上、不可欠となります」

 

「……日本吸血鬼委員会?」

 法務担当の閣僚が、聞き間違いかと思って聞き返した。

「なんだその、妙に役所みたいな名前の組織は」

「明治期の近代行政移行に伴い、国内に居住する吸血鬼の氏族・共同体が、日本政府および八咫烏との間で権利保護、戸籍・行政調整、血液供給ルートの適法管理、ならびに対外折衝を行うために設立した公式の代表機関でございます」

「……吸血鬼にも、委員会があるのか」

「はい。非常に規律正しい合議制の組織です。なお、もし我が国が世界で初めて『吸血鬼の実在』を公式に世界に発信することになる場合、国内委員会だけでなく、ジュネーブとトランシルヴァニアに連絡事務局を置く『世界吸血鬼委員会』、および欧州の『Ordo Chronos』との国際協議も必要になります」

 

「せ、世界吸血鬼委員会だと!?」

 外務担当の閣僚が椅子からずり落ちそうになった。

「日本の国内発表なのに、なぜ日本吸血鬼委員会だけでは駄目なんだ!?」

「当然ながら、吸血鬼という種族は日本国内だけに存在するわけではございませんので。日本で『吸血鬼は実在する』と政府が公認すれば、その瞬間に世界中の吸血鬼共同体の秘匿環境と安全に影響いたします。事前通告なしに我が国が単独で暴露すれば、世界吸血鬼委員会および欧州の古い血統組織から、重大な協定違反として抗議や対抗措置を受けるおそれがあります」

 

「……ま、待て。そもそもその日本吸血鬼委員会というのは、八咫烏の下部組織ではないのか? 政府の命令で従わせることはできんのか?」

「できません。彼らは独自の歴史と自治権を持つ共同体代表であり、日本政府とは『対等な協定関係』にございます。もちろん、国内法を遵守する義務は負っておりますが、政府の一存で彼らの種族全体の秘密を同意なく世間に晒すことは、協定の根本的な破棄を意味します」

 

 総理が顎に手を当て、唸るように言った。

「なるほど……。要するに、長年の約束で静かに暮らしている当事者たちの意見を聞かずに、政府が勝手に『お前たちは実在するぞ』とバラすわけにはいかない、という極めて真っ当な政治手続きの話だな」

「総理の仰る通りでございます」

 

 すると、警察・治安担当の閣僚が、別の角度から懸念を口にした。

「しかしだな、そもそも吸血鬼なんてものが実在すると発表したら、国民はパニックになるどころではないぞ! 夜道で首筋を噛まれて血を吸われ、自分も吸血鬼にされるのではないかと恐怖するだろう!」

「はい、そこも大きな問題です。実際には、彼ら人外の能力や生態は系統や個体によって大きく異なり、世間のフィクションや民間伝承をそのまま当てはめることはできません。適法な供給経路で得た血液や代替手段を利用する者もいれば、吸血を生存の必須条件としない系統もございます。他人に危害を加えたり、本人の意思に反して眷属化したりする行為については、委員会側にも厳格な規律が設けられております」

「に、日光に当たると灰になるというのは?」

「日光への耐性は系統や個体によります。対策を取って昼間の丸の内を歩いている者もおります」

「ニンニクや十字架は!?」

「一律の弱点ではございません。特定の系統や、宗教的象徴と結びついた能力の成立条件には関わる場合もございますが、すべての吸血鬼に当てはまるわけではありません」

「……じゃあ、一体どこまでが本当なんだ!?」

「ですから、そういった世間の誤解や偏見を取り除くための正確な啓発資料を、共同体側とすり合わせて作成する時間が必要なのです」

 

 さらに八咫烏の統括幹部が、静かに言葉を添えた。

「付け加えますと、国内に居住する吸血鬼や長命種の中には、正式な日本国籍や永住権を持ち、一般企業に就職したり、自ら会社を経営して働いている者も多数おります」

「……日本国民なのか? 税金も払っているのか?」

「もちろんです。彼らも所得税や住民税、厚生年金まで適正に納めております。ただ、寿命や身体特性が一般人と異なるため、一定年数ごとに戸籍上の世代交代処理や転職のサポートを八咫烏の支援部門で行っているに過ぎません」

 

 ――異能者だけでなく、吸血鬼まで普通に会社に行って税金を払っているのか。

 閣僚たちの脳裏に、なんだかもう自分たちの方が常識知らずなのかもしれないという奇妙な感覚が芽生え始めた。

 

「……では、もう一つの『人狼』についてはどうなんだ? そっちも吸血鬼委員会でまとめて話を通してもらえるのか?」

 誰かが尋ねると、女性幹部はピシャリと首を横に振った。

「いいえ。人狼は吸血鬼とは全く異なる種族・文化圏でございますので、別途『極東人狼氏族連盟』および北方系の各部族長との個別協議が必要となります。なお、吸血鬼委員会と人狼連盟は歴史的に折り合いが悪いため、同じテーブルに呼ぶと会議室が物理的に全壊いたします。別々に交渉しなければなりません」

「…………」

「さらに、国内の鬼族の里や、天狗・妖狐系の伝統共同体につきましても、それぞれ個別の評議会や神社仏閣との協定が存在しますので――」

 

「……統括幹部」

 総理が、深く、どこまでも深い溜息とともに口を開いた。

「委員会や連盟との調整が必要な案件が、あまりにも多すぎないか?」

「総理、これらは今回新しく発生した業務ではございません。当機関の法務および地方支部が、平安の昔より、また近代以降は内務省や各省庁の連絡室を通じて、日常業務として連綿と調整を続けてきた事案でございます」

「……八咫烏は、今までこれを全部、俺たちに愚痴一つこぼさずに裏で処理していたというのか?」

「それが我々の職務ですので」

 

 その瞬間、午前中まで「八咫烏は何を秘密主義で隠しているんだ」と批判的だった閣僚たちの目に、初めて「この怪物じみた超常官僚組織を敵に回したり解体したりしたら、日本政府そのものが三日で過労死する」という畏敬の念が宿った。

「……本当に、今までご苦労だったな。人外共同体の件は、各委員会との協議が整うまで今回は非公表としよう」

 

 こうして「吸血鬼・人狼の公表」も満場一致で見送られ、時計は午後二時を回った。

 官房長官が次のページをめくる。

 

「えー、次は……午前中に後回しにした『神格級存在(Tier0)』および国際委員会『ARC』について、だな」

 その言葉に、閣僚たちがゴクリと唾を呑み込んだ。

 情報公開推進派の大臣が、今度は極めて控えめに手を挙げた。

「午前中の説明では、Tier0というのは『世界の法則そのものに権限を持つ、人類が神と呼び得る存在』だという話だったが……本当に、この地球上に神様がいるのかね?」

 

「はい。世界で複数柱の存在が公式に確認されております」

 八咫烏の統括幹部が答える。

「彼らは普段、人間社会の下位存在でも認識して会話ができるよう、自らの魂の格と能力上限を引き下げた『化身(アバター)』を用いて接触してくることがありますが、その本体は単一宇宙の《理》を掌握する絶対的な存在です」

 

「……あの、それはつまり、キリスト教や仏教、あるいは日本の神道で祀られている『あの神様』が実在するということなのか?」

 文部・宗教行政に関わる閣僚が、青ざめた顔で尋ねた。

「そこが行政上、最もデリケートな問題でございます」

 法務担当の女性幹部が引き取って説明する。

「確認されているTier0や神格の中には、歴史上の神話や信仰と深く結びついている存在もおりますが、必ずしも現在地球上にあるすべての宗教の教義や神々と一対一で一致するわけではございません。

もし日本政府が公式会見で『神は実在します』と発表すればどうなるか。翌朝から国内のあらゆる宗教法人、さらにはバチカンや中東の宗教指導者から、『日本政府が認めた神とはどの宗教の神なのか』『我々の信仰する神の実在証明を出せ』『うちの教祖はTierいくつなんだ』という猛烈な抗議と質問が殺到し、世界規模の宗教戦争の火種になりかねません」

 

「そ、そんなものに一国の政府が答えられるわけがないだろう! 政教分離の原則以前の問題だ!」

「はい。さらに国内の一般市民からも、『神様が実在するなら、どこに行けば会えるのか』『病気の治癒や商売繁盛の願い事を政府の窓口で神様に取り次いでくれるのか』という要望が殺到すると予想されますが、当然ながら、行政窓口で神格への陳情や願い事を取り次ぐ業務は行っておりません」

「当たり前だ!! 市役所に神様への直通ポストなんか作ってたまるか!」

 

 閣僚たちが一斉にツッコミを入れたところで、総理が真剣な表情で統括幹部に尋ねた。

「だが、逆に聞くぞ。その神格たち――Tier0で構成されている国際委員会『ARC(神々の円卓)』は、今回我が国が異能の実在を公表したことや、今後の追加発表について、何か圧力をかけてきたり、介入してくることはないのか?」

 

「ございません」

 統括幹部は断言した。

「ARCは世界政府ではなく、構成員であるTier0同士の全面衝突を防ぎ、惑星規模の危機に備える『超国家的な安全保障盟約』でございます。その基本原則は三つ。『惑星の存続』『大規模因果災害の防止』『破損した世界の修復』です。

我が国が今後どこまで情報を公表するかについては、それ自体が惑星存続や大規模因果災害に関わらない限り、ARCが介入する理由はございません。各国が抱える混乱は、基本的に人類側で対処すべき問題とされます」

 

「……なるほど。国民の不安を収めることまで、神々の円卓に頼むわけにはいかんということだな」

「はい。そのための政府と行政でございますので」

 

 総理が深く頷きかけた、その時だった。

 会議室の端でずっと黙って話を聞いていた経済担当の閣僚が、先ほどの統括幹部の言葉の端々に引っかかりを覚えたように、ふと顔を上げた。

 

「……おい、ちょっと待て。今、ARCの三原則の中に、サラッと聞き捨てならない言葉が入っていなかったか?」

「どれのことだ?」

「三つ目だよ。『破損した世界の修復』って言ったよな? ……世界を修復するって、どういう意味だ? まさか、過去にこの世界が壊れたことがあるとでも言うのか?」

 

 その質問が投げかけられた瞬間。

 八咫烏の統括幹部は、今日初めて、ほんのわずかだけ視線を伏せ、重い沈黙を落とした。

 そして、静まり返った会議室に、淡々とした声が響いた。

 

「……ございます」

 

「…………は?」

「過去の歴史において、Tier0級事象や宇宙外要因などにより、重大な世界法則の損傷が発生し、ARCの加盟存在によって世界規模の因果修復が行われた記録が、当機関の最高機密アーカイブに存在いたします」

 

 ガタガタッ! と、複数の閣僚が同時に椅子を鳴らして立ち上がった。

「ちょ、ちょっと待て!! 世界が壊れたことがあるだと!?」

「地球が滅亡したことがあるという意味か!?」

「厳密には、世界そのものの完全な消滅と、世界法則・歴史因果の大規模な損傷は区別する必要がございます。ただ、人類の文明や歴史の連続性が危機に瀕し、上位存在の権限によって『修復(リライト)』された事例があったことは事実です」

 

「どう違うかなんてどうでもいいわ!! いつの話だ!? 何年前のことなんだ!?」

 取り乱す閣僚たちに、八咫烏の情報分析部門の責任者が、補足するように口を開いた。

「正確な年代や回数を断定することは、我々人類側には不可能です。修復の規模や方法によっては、人間の記憶や物理的な歴史記録まで影響を受け、何が変わったのかを事後的に確かめられない場合もございます。

ただ、高次の結界領域に保管されていた古い記録文書や、一部の長命種・神格の化身の証言を照合しますと、現在の表の歴史教科書には存在しない大戦や、不自然に空白となっている年代の断片が複数確認されております」

 

 それを聞いた一人の閣僚が、血の気の引いた顔で震える声を上げた。

「……おい、まさかとは思うが、実はこの世界は数年おきに滅亡していて、そのたびに神々が時間を巻き戻したり作り直したりしている……なんてオカルトじみた話ではないだろうな!?」

「そのような周期的な全面滅亡が起きているという確証は、人類側では得られておりません。ですが、過去に修復が行われた記録が存在する以上、その可能性を科学的に百パーセント否定することもまた、不可能でございます」

「否定もできんのかよ!!」

「はい。なお、誤解のないよう申し添えますと、Tier0だからといって全員が都合よく時間を巻き戻したり、死者を蘇らせたりできるわけではございません。修復の方法も、それを担う存在が司る《理》や損傷の内容によって異なります。次回もし世界規模の損傷が起きたとして、人類が昨日と同じ形で復元されるという保証はどこにもございません」

 

 会議室は、もはやパニックを通り越して、深海の底のような絶望的な静寂に包まれた。

 そんな話を国民に公表したらどうなるかなど、広報担当官に聞くまでもなかった。

 

「……もし政府が『実はこの世界は過去に何度か壊れて修復されており、明日また壊れても神様が直してくれる保証はありません』などと記者会見で発表したら……」

 官房長官が、乾ききった唇を舐めて呟いた。

「国民は明日から仕事にも学校にも行かなくなり、貯金を全部引き出して終末カルトに入信するか、暴動を起こすだろうな」

「はい。しかも、何をどこまで修復できるかは事案ごとに異なります。国民へ安心を約束する材料として使える情報ではございません」

 

 総理は目を閉じ、長い、本当に長い沈黙のあとで、絞り出すように言った。

「……世界という箱そのものを守る神様と、その中で暮らす国民の今日と明日を守る政府とでは、こんなにも見ている景色と仕事が違うものなんだな」

「はい、総理」

「……分かった。世界の修復記録およびARC、Tier0に関する情報は、最高機密として完全非公表とする。墓場まで持っていきなさい」

「承知いたしました」

 

 統括幹部が、資料の該当項目に赤い斜線を引いた。

 時計の針は、すでに午後三時を指そうとしていた。

 

*

 重苦しい空気を振り払うように換気システムのファンが回る中、午前中からずっと「非公表」の連発で打ちのめされていた情報公開推進派の大臣が、深く息を吸い込み、震える手でマイクのスイッチを入れた。

 今度は、先ほどまでの軽薄な思いつきではない、政治家としての真剣な眼差しだった。

 

「……総理、ならびに八咫烏の諸君。午前中からの説明で、あなた方が抱えている秘密がどれほど途方もないものであり、そのすべてを国民に晒すことがなぜ不可能なのか、痛いほど理解しました」

 大臣は会議室の面々を見回し、静かに、しかし強い語調で続けた。

「ですが、あえてもう一度申し上げます。だからといって『あれも危険だ』『これも混乱を招く』とすべてに蓋をしてしまったら、一昨日までの隠蔽体制と一体何が違うのですか? 国民のためだ、社会秩序のためだと言い訳をして情報を隠し続けた結果、一昨日の渋谷で突然その蓋が吹き飛び、今、国民は政府に対する信頼を完全に失いかけているのです! ここで我々が具体的な説明から逃げれば、日本という法治国家の統治そのものが崩壊します!」

 

 その言葉には、誰もすぐには反論できなかった。

 すると、向かい側に座っていた八咫烏の統括幹部が、ゆっくりと深く頭を下げた。

 

「……大臣の仰る通りでございます。我々八咫烏も、一昨日の生中継をもって、従来の『社会的な否認に依存した秘匿運用』が歴史的役割を終えたことは明確に認識しております。百かゼロか、すべてを晒すかすべてを隠すかという二択ではなく、これからの開かれた社会において、国民の安全と能力者の人権を両立させるための『新しい開示の基準』を作らなければなりません」

 

 その言葉に、推進派の大臣もホッとしたように表情を緩めた。

 そこへ、八咫烏の情報分析担当が、もう一つだけ重要な実務上の注意点を付け加えた。

「なお、公表の文面を作成するにあたり、超常現象の成立条件に関わる重要な変化をご報告いたします。一昨日、政府が異能の実在を認めて以降、多数の人々が超常現象について現実のものとして語り始めました。それに伴い、全国各地で、人々の恐怖や噂、共有された物語を成立基盤とする一部の『怪異』が活性化した事案が確認されております」

「なんだと? 政府の発表が、化け物を元気づけているというのか?」

「はい。怪異のすべてに当てはまるわけではございませんが、噂や恐怖が広まること自体を成立条件とする類型では、人々が具体的な存在を信じ始めることで活動が活発になる場合がございます。政府が『神格や恐ろしい怪異が実在する』と不用意に煽れば、そうした類型の活動をさらに刺激するおそれがあります。何をどのように説明するかが重要なのです」

 

「……公表する言葉そのものが、物理的な災害の引き金になり得るのか」

 総理が唸った。

「つまり、必要な安全情報は伝える一方で、確認の取れない伝承や恐怖を煽る話題まで政府が広めるべきではない、ということだな」

 

「よし、すべての論点が出揃ったな!」

 官房長官が立ち上がり、ホワイトボードの全面を使って、ここまでの5時間に及ぶ激論の結論を三つのカテゴリーへと一気に書き上げていった。

 

 一つ目、【本日ただちに公表するもの】。

 国内の覚醒済み能力者人口が「約三百四十二万人(日本人の約三十六人に一人)」であること。能力を持つこと自体は犯罪ではなく、当事者の基本的人権とプライバシーは法的に保護されること。そして政府の専門機関が登録・相談・安全管理を行っており、異能事案に遭遇した際は不用意に近づかず警察・消防へ通報すること。

 

 二つ目、【今後、法整備や事前協議を経た上で段階的公表を検討するもの】。

 誤解を招かない形に整理した能力の評価基準(Tier制度の概要)、個人情報保護を徹底した上での登録・相談窓口の案内、現在調整中の特殊役務契約や労務・税務上の取り扱い、そして日本吸血鬼委員会をはじめとする人外共同体との合意に基づく将来的な存在開示。

 

 三つ目、【国家安全保障および社会秩序への影響を踏まえ、当面非公表とするもの】。

 国内約二十名のTier1(国家戦略級)の戦力詳細、Tier0(神格級)および国際委員会ARCの存在、空間転移等の具体的な越境手段、隣接する異次元国家との外交関係、ならびに過去の世界法則修復の記録。そして、個々の登録能力者の氏名・住所等の個人情報。

 

「……以上だ! この三段階の仕分けで、異論はないな!?」

 官房長官の確認に、すべての閣僚と八咫烏の幹部たちが深く頷いた。

 官房長官はハンカチで額の汗を拭うと、心底疲れ切った声で八咫烏の統括幹部に尋ねた。

「……これで、今日の議題はすべて終わりだな?」

 

「はい。本日の夕方に行う追加公表の方針につきましては、以上でございます」

 統括幹部は恭しく一礼し、そして自分の横に積まれた別の分厚いバインダーの束に手を置いた。

「それでは引き続き、関連する行政実務の改定――登録能力者の一般企業における就労権利と差別禁止法制、既存の秘密保持契約の緩和範囲、民間実働協力者に対する特定特殊役務報酬の税務処理スキーム、全国の小中高校における覚醒児童の保護通知手順、ならびに日本吸血鬼委員会および極東人狼氏族連盟への特使派遣日程につきまして――」

 

「分かった!! それは全部、別の実務者会議でやってくれ!!」

 官房長官が悲鳴のような声で遮った。

「承知いたしました」

「……ちなみに聞くが、その『別の会議』というのは、今日明日で何件くらい予定されているんだ?」

「現在、各省庁の局長級および当機関の各部門で立ち上がっている分科会を含めますと、四十八件ほどが同時並行で動いております」

「…………」

 

 総理は背もたれに頭を預け、小さく呟いた。

「……俺の任期中に、全部終わるんだろうな、これ」

 

 午後四時二十分。

 官邸広報室が急ピッチで夕方の記者会見用の発表原稿を清書する中、総理は手元のファイルを一度静かに閉じ、正面に座る八咫烏の統括幹部へと向き直った。

 

「最後に一つだけ、行政の長としてではなく、一人の人間として君たちに聞いておきたい」

 総理の静かな声に、統括幹部が背筋を正した。

「これから我々は、国民に向けて『三百四十二万人』という数字を公表する。世間は必ず大きく揺れるだろう。……八咫烏として、君たちはこれからこの国をどうしたい?」

 

 統括幹部は、一拍の迷いもなく真っ直ぐに総理の目を見つめ返した。

「我々の基本理念は、古代よりただ一つ。『調和と秩序の維持、および保護』でございます。我々はこれからも、これまで通りに日本国民を保護したいと考えております」

「異能を持たない、一般の国民を、か?」

「いいえ、総理」

 

 統括幹部は、静かに、しかし力強く首を横に振った。

 

「異能を持つ三百四十二万人の国民も、すべて含めて、でございます。

我々が守ってきたのは、秘密そのものではありません。その秘密の向こうで暮らす人々です。昨日までは彼らの名前や能力を伏せることで、平穏な暮らしを守ってまいりました。しかし今は、秘密の存在を知られた彼らが、明日からも安心して学校や職場へ通えるようにする。そのための仕組みを作らなければなりません。

ですから、どうか公表する数字の先にいる一人ひとりの生活を、政策の中心に置いていただきたい。それが、これからも現場を支えていく我々の願いでございます」

 

 渋谷の空で、自分のコートが裂けるのも構わずに見ず知らずの市民たちの頭上に防壁を張り続けた、あの女性要員の姿が総理の脳裏に浮かんだ。

 総理はゆっくりと頷き、立ち上がった。

 

「……分かった。国民に伝えるべきは、三百四十二万人というただの数字ではない。彼らもまた、ずっとこの国を一緒に支えてきた私たちの隣人であり、同じ日本国民だということだ。……官房長官、夕方の会見、頼んだぞ」

「はい。必ず、その通りに伝えてまいります」

 

*

 午後五時十分。東都テレビ・報道局フロア。

 夕方ニュースの放送が始まる直前の慌ただしいフロアに、官邸記者クラブに詰めていた政治部の篠田から、デスク直通の内線電話が飛び込んできた。

 

『佐久間デスク! たった今、官邸から緊急の通達が出ました! 午後五時三十分から、内閣官房長官が臨時記者会見を開きます! テーマは「国内における異能者の規模および政府の基本方針に関する追加説明」です!』

 

「よし、きたぞ!!」

 受話器を置いた佐久間デスクが大声でフロアに檄を飛ばす。

「五時半から官房長官の緊急会見だ! 夕方ニュースの特集コーナーを飛ばして、会見場からの完全生中継に切り替えるぞ! テロップ班、いつでも数字を出せるように待機しろ!」

 

 フロア中が戦場のように色めき立つ中、社会部の瀬川が、デスクの後ろで腕を組んでモニターを睨んでいた鶴見局長のもとへと駆け寄った。

「局長! 『異能者の規模』ってことは、ついに政府が国内の能力者の人数を発表するってことですか!?」

「……ああ、そういうことだろうな。官邸もようやく腹を決めたか」

「局長は、その人数も前から知っていたんですか!?」

「おおよその推計値なら、聞かされている」

「な、何人くらいなんですか!? 千人ですか、一万人ですか!?」

 

 食い気味に詰め寄る瀬川に対し、鶴見局長はジロリと睨みつけて一喝した。

「あと二十分で政府が公式発表するんだから、自分の耳で聞いて確認しろ!」

「ま、また隠すんですか!?」

「隠してるんじゃねえ、馬鹿野郎! これからお前自身が記事を書いて国民に伝える重大な数字なんだぞ! 上司からの又聞きで済ませるな。記者なら会見場の言葉を直接聞いて、その裏を取れと言っているんだ!」

「……っ、分かりましたよ!」

 

 瀬川は悔しそうに唇を噛むと、メモ帳とICレコーダーを握りしめて中継モニターの前へと走っていった。

 その若い背中を見送りながら、鶴見局長は誰にも聞こえないように小さく息を吐いた。

 ――千人や一万人、か。あの数字を聞いたら、あいつら腰を抜かすだろうな。さて、ここからが本当の正念場だぞ。

 

*

 午後五時三十分。

 一昨日の夜と同じく、立錐の余地もないほど詰めかけた記者たちの熱気の中、内閣官房長官が会見室の演壇へと歩み出た。

 全国のテレビ局、ネット配信、そして街頭の大型ビジョンが一斉にその姿を映し出す。

 

「――ただいまより、一昨日公表いたしました『異能』に関し、現在政府として国民の皆様へお伝えすべき追加の情報と、今後の基本方針についてご説明いたします」

 

 官房長官は、手元の原稿を一字一句噛み締めるように、落ち着いた力強い声で読み上げ始めた。

「まず初めに、政府として最も強く申し上げたいのは、異能を有することによって法の保護から排除される者はいない、という点です。能力者の方々も、すべての国民と同様に基本的人権を有し、平穏に暮らす権利を持つ存在です。

一昨日の渋谷における事案は、特定の個人による極めて悪質な違法行為であり、異能を持つこと自体が犯罪や危険を意味するものでは断じてありません。政府はこれまで、専門の行政機関を通じて能力の登録や安全管理、生活支援を行ってまいりましたが、今後も個人のプライバシーを厳格に保護しつつ、必要な法整備を進めてまいります」

 

 会見場の記者たちが、ペンを走らせながら息を呑んで次の言葉を待つ。

 官房長官は一度顔を上げ、カメラのレンズを真っ直ぐに見据えた。

 

「その上で、国民の皆様が抱いておられる過度な不安や憶測を解消するため、現在、政府および専門機関が把握している、日本国内における覚醒済み異能者の推計人口を公表いたします」

 

 記者たちが一斉に身を乗り出した。

 百人か。千人か。それとも一万人か。

 静まり返った会見室に、官房長官の声が明確に響き渡った。

 

「現在、我が国において確認・推計されている異能者の総数は――『約三百四十二万人』です」

 

 …………。

 一瞬、会見場の時間が完全に止まった。

 最前列に座っていた新聞記者が、自分のメモ帳に『342』と書いてから、ペン先を止めて隣の記者と顔を見合わせた。

 三百四十二人、の間違いではないのか。あるいは三万四千二百人と言おうとして、単位を言い間違えたのではないか。誰もがそう思って壇上を見つめた。

 

 しかし、官房長官は言い直さなかった。それどころか、凍りつく記者たちに向けて、さらに決定的な言葉を付け加えた。

 

「繰り返します。約三百四十二万人です。これは、日本の総人口に対して、およそ『三十六人に一人』の割合に相当いたします」

 

 ドォォォォッ!! と、会見場全体が地面から揺れ動くような凄まじいどよめきに包まれた。

「さ、三百四十二万人!? 聞き間違いではありませんか長官!!」

「三十六人に一人って、学校のクラスに一人はいる計算じゃないですか!!」

「そんなに大量の超能力者が、私たちのすぐ隣に紛れ込んでいたということですか!?」

 

 パニックに近い記者たちの怒号が飛び交う中、官房長官はマイクの前で一歩も引かず、よく通る声で会見室を制した。

 

「皆様、どうか冷静にお聞きください! その三百四十二万人の方々は、一昨日の夜に突然この国に現れたわけではありません! しかも、その大多数は渋谷の事案のような大規模な破壊力を持つものではなく、日常生活の中で能力を適切に管理し、これまで何十年もの間、皆様と同じ学校に通い、同じ職場で働き、同じ街で共に暮らしてきた、私たちの家族であり、友人であり、隣人なのです!」

 

 官房長官の言葉が、電波に乗って日本全国のオフィスへ、教室へ、リビングへと駆け巡っていく。

 

 同じ時刻。東都テレビの報道局フロアでも、すべての社員が仕事の手を止め、壁の大型モニターに映し出された速報テロップを呆然と見上げていた。

 

『【速報】政府発表:国内の異能者は「約342万人」――国民の「36人に1人」』

 

 その巨大な文字の前で、朝一番にあれほど激しく局長に食ってかかっていた社会部の若手記者・瀬川が、メモ帳を握りしめたまま立ち尽くしていた。

 彼のすぐ隣に、鶴見局長がゆっくりと歩み寄り、並んでモニターを見上げた。

 

「……そんなにいるんですか」

 瀬川の唇から、ようやく掠れた声が漏れた。

「ああ。それが現実の数字だ」

「三十六人に一人って……じゃあ、俺が今まで街頭インタビューでマイクを向けてきた人たちの中にも、学生時代のクラスメイトの中にも……いや、今この東都テレビの社員の中にも、普通にいるってことじゃないですか」

「計算上は、この報道局のフロアの中だけでも二人か三人はいるだろうな」

 

 瀬川は反射的に周囲の同僚たちの顔を見回し、そしてハッとして自分の視線を引っ込めた。

 その割合を聞いて、瀬川は無意識に同僚たちの顔を見回してしまった。十年前にこの事実を知っていたとして、自分ならどう報じただろう。隠してきた側の事情を理解し始めた今も、もっと早く伝えられたことがあったのではないかという疑問までは消えなかった。

 

 画面から目を離せないまま固まっている瀬川の肩を、鶴見局長がバンと大きな手で叩いた。

 

「――おい瀬川。いつまでボサッと突っ立ってる。仕事だぞ」

「……え?」

「朝の会議で自分で言っただろうが。『国民に真実を知らせるのが俺たち報道機関の使命だ』ってな」

 鶴見局長は、モニターの中の『約342万人』という数字を顎でしゃくってみせた。

「政府が数字を出したぞ。だったら、これから世間がパニックになって隣人を魔女狩りし始める前に、その三百四十二万人が一体どういう人たちで、どうやって俺たちと同じ社会で生きてきたのか、自分の足でキッチリ取材して国民に伝えてこい。……それが、お前がやりたかったジャーナリズムってやつだろうが」

 

 瀬川は数秒間だけ局長の顔を見つめ、それから自分の頬を両手でパチンと強く叩いた。

 迷いの消えた目で、深く、力強く頷く。

 

「……はいっ! 行ってきます!!」

 

 上着を掴んでフロアを飛び出していく若手記者の背中に、夕方のニューススタジオからの喧騒が重なる。

 神様も、異次元国家も、世界の修復も、まだ分厚いベールの向こう側に隠されたままだ。それでも、「日本人の三十六人に一人が異能者である」という第二の巨大な真実が世に放たれたことで、日本社会はもう二度と、一昨日までの無邪気な日常へ戻ることはできなくなったのだった。







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