もしも異能がディスクロージャーされたら?   作:パラレル・ゲーマー

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第9話 アメリカ大統領、日本は大変だなあと他人事だった件

 二〇二六年十月三十日、金曜日。午後一時五十五分(米東部夏時間)。

 日本列島が土曜日の午前二時五十五分という深い眠りの底へ沈み込んでいたその時刻、地球の裏側にあるワシントンD.C.は、穏やかな秋の昼下がりを迎えていた。

 

 ホワイトハウス西棟、大統領執務室(オーバル・オフィス)。

 防弾ガラスの大きな窓からは、手入れの行き届いたローズガーデンの芝生と、黄金色に色づいた木々の葉が陽光を浴びて輝くのが見えた。

 歴史あるレゾリュート・デスクの後ろで、第48代アメリカ合衆国大統領ロバート・“ボブ”・ウォーレンは、革張りのチェアに深く身を沈め、手元の分厚いブリーフィング・バインダーをぱらぱらとめくっていた。六十代前半、銀髪を綺麗に撫でつけた温和な目尻には、歴戦の政治家特有の愛嬌と老獪さが同居している。

 

 バインダーの表紙には、国土安全保障省・先進因果脅威部門――通称『MAJESTIC-12(マジェスティック・トゥエルブ)』の黒い紋章と、『極東情勢報告:日本政府による因果律改変能力者(異能者)の人口統計公表と社会的影響について』というタイトルが印字されていた。

 

 今からおよそ九時間前(日本時間・金曜午後五時三十分)、日本の内閣官房長官が臨時記者会見を開き、「日本国内における覚醒済み異能者の推計人口は約三百四十二万人、総人口の三十六人に一人である」と公式に発表した。

 そのニュースは、太平洋を越えてアメリカの主要メディアやSNSにも巨大な衝撃波をもたらしていた。CNNやニューヨーク・タイムズは朝からその話題で持ちきりであり、テレビのコメンテーターたちは「もし日本と同じ比率なら、合衆国には九百万人以上の超能力者が潜んでいることになる」と目を剥いて議論している。

 

 だが、合衆国の最高権力者であるボブ自身は、その「三百四十二万人」という数字を見ても、眉一つ動かさなかった。

 驚くはずがない。彼が大統領就任の宣誓を行ったその日の夜、まさにこの執務室でMAJESTIC-12の長官から引き継ぎを受けた極秘ファイルには、アメリカ合衆国国内における登録済み能力者の集計と、未登録者・潜在的保有者に関する推計値が、区別して記されていたからだ。人間が空を飛ぶことも、物理法則を捻じ曲げる力があることも、ボブにとっては政権運営上の「既知の前提条件」の一つに過ぎなかった。

 

 そんな彼がいま、バインダーのページをめくりながら浮かべていたのは、国家安全保障上の危機感ではなく、純粋な「同業者への同情」だった。

 

「いやあ……しかし、日本は本当に大変だなあ」

 

 ボブはデスクの上の星条旗柄のマグカップを手に取り、ぬるくなったブラックコーヒーを一口啜りながら、心底気の毒そうに呟いた。

「一昨日の夜に『異能は実在します』と認めただけでも大騒ぎだったのに、そこからたった二日で『実は三百四十二万人います』と数字まで出してしまったか。日本の総理も思い切ったことをするねえ。これじゃあ当分の間、東京の官邸は記者会見と議会の答弁で寝る暇もないだろう」

 

 デスクの斜め前で、タブレット端末を抱えて直立していた黒スーツの男――MAJESTIC-12からホワイトハウスへ出向している主席連絡担当官のコールマンが、眼鏡の奥の目をわずかに細めて応じた。

 

「はい、大統領。東京の当機関連絡員からの報告によりますと、現在、日本政府およびカウンターパートである『八咫烏(ヤタガラス)』の中枢は、報道機関からの質問殺到、登録能力者のプライバシー保護法制の策定、ならびに既存の非公開契約や税務スキームの移行作業によって、文字通り不眠不休のパニック状態にあるとのことです」

「だろうなあ。何しろ、何百年も『存在しない』という建前で回してきた行政の裏帳簿を、いきなり国民の目の前で表の法律とすり合わせろというんだからね。八咫烏の官僚たちも、今ごろ胃薬を箱ごと飲んでいるんじゃないかい?」

「ええ。彼らの硬直的な官僚主義と保護偏重の体制では、この規模の急激な情報開示(ディスクロージャー)を処理しきるのは容易ではないでしょう」

 

 コールマン担当官はそこで一度言葉を区切り、軽く咳払いをしてから、手元のタブレットを操作して一枚の文書をデスクのモニターへと転送した。

 

「――もっとも、大統領。あまり他人事のように笑ってはいられない状況になりつつあります」

「ん? どういうことだい、コールマン」

「日本政府が具体的な人口比率まで踏み込んで公表した余波が、すでに我が国の国内共同体にも直接波及しております。今朝方、『全米魔女委員会(American Witches Council)』および『全米吸血鬼委員会(American Vampire Committee)』の双方から、当機関の法務窓口を通じて、合衆国政府の今後の情報公開方針に関する公式な照会状が届きました」

 

「ほう、魔女と吸血鬼からかい」

 ボブは興味深そうに身を乗り出し、モニターに表示された二つの書簡に目を走らせた。

「で、彼女たちは何と言っているんだい? 日本に倣って、私たちの存在も今すぐ世界に公表しろと要求しているのかね?」

 

「いえ、必ずしも一枚岩で開示を求めているわけではございません。そこがまた、調整を複雑にしております」

 コールマンは実務家らしい淡々とした口調で解説を始めた。

「まず『全米魔女委員会』ですが、内部で意見が真っ二つに割れている模様です。西海岸や都市部に多い若手世代の魔女たちは、政府が超常現象を公認すれば、これまでダミーのオカルトショップやセラピー名義で隠れて行っていた魔術工芸品や契約実務を、合法的なビジネスとして大々的に展開できると期待しております。

一方で、ニューイングランド地方などを拠点とする古い魔術師家系の長老層は、秘匿されてきた血統や聖遺物、地域結界の権利が一般社会の法規制や課税対象に組み込まれることを強く警戒しており、『合衆国政府が我々の事前同意なしに魔術体系の存在を開示することは、建国以来の不可侵協定に対する重大な侵害である』と牽制してきております」

 

「なるほどねえ。若手はベンチャー企業みたいに株式上場でも狙いたいけれど、古株の連中は既得権益と伝統を守りたい、と。どこの業界のロビー団体も、抱えている悩みは人間と大して変わらないじゃないか」

 ボブが苦笑すると、コールマンは頷いて次の資料を指し示した。

 

「そして、より強硬に『非公表の維持』を求めているのが『全米吸血鬼委員会』です。彼らからは、共同体の正式な同意を得ない一方的な情報公開を絶対に行わないよう、極めて強いトーンの要請書が提出されております」

「ふむ。まあ、吸血鬼の連中が神経質になるのも無理はないか」

「はい。日本政府は今回、あくまで『人間の異能者』の人口のみを公表し、日本吸血鬼委員会をはじめとする人外種族(ノン・ヒューマン)の存在については完全に伏せました。しかし、日本のメディアの一部ではすでに『人間以外にも何かいるのではないか』という憶測が出始めております。

全米吸血鬼委員会としては、もし合衆国政府が日本に引きずられて中途半端な情報開示を行えば、次に大衆とメディアの矛先が向かうのは間違いなく自分たち人外種族であり、全米各地でヒステリックな魔女狩りや暴動が起きると懸念しているのです」

 

「もっともな心配だよ」

 ボブは背もたれに体重を預け、深く頷いた。

「彼らだって、合衆国憲法の下で暮らし、ウォール街で投資ファンドを回したり、夜勤の病院で働いたりして、毎年きっちり内国歳入庁(IRS)に連邦税を納めてくれている立派なアメリカの住民だからね。昨日まで近所の人たちと仲良くやっていた吸血鬼が、政府の不手際で明日からニンニクや十字架を投げつけられるようになっては、大統領としても寝覚めが悪いよ」

 

 ボブにとって、魔女も吸血鬼も、映画の中の恐ろしい怪物などではなかった。

 合衆国政府は建国以来、さまざまな超常共同体と水面下で協定を積み重ねてきた。一九四七年に設立されたMAJESTIC-12は、その調整と保護の実務を引き継いでいる。時には国家の安全保障への協力を求め、時には権利と自治を保障してきた、少しばかり手のかかる「アメリカの構成員たち」である。全米ライフル協会や巨大製薬企業のロビイストを相手にするのと、政治的な気苦労の質としてはさほど変わりがなかった。

 

「では、大統領」

 コールマンが背筋を正し、本題を切り出した。

「日本がここまで踏み込んだ以上、我が国としても、異能およびMAJESTIC-12の存在について、段階的な公式発表(ディスクロージャー)の準備を開始いたしますか?」

 

 ボブは一拍だけ窓の外の秋空を眺め、それからゆっくりと人差し指を立てて左右に振った。

 

「いやいや、コールマン。そんなに慌てることはないさ」

「……と、申しますと?」

「氷の海に群がるペンギンの群れの中で、最初に海へ飛び込む一番危険な『ファーストペンギン』の役割は、ありがたいことに日本が全部引き受けてくれたんだ。東京が自分から氷の下に飛び込んでくれたのに、わざわざワシントンまで今日明日中に後を追って冷たい水に入る必要はないだろう?」

 

 ボブの口元に、老練な政治家特有のしたたかな笑みが浮かんだ。

「考えてもごらんよ。何千年も隠されてきた超常の秘密を、現代のSNSと民主主義の社会に放り込んだら一体どんな化学反応が起きるのか――今はまだ、世界中の誰にも正解が分からないんだ。

だったら、まずは先行した日本という実験場で、世論がどう揺れ、メディアがどう暴走し、法律や経済にどんなバグが出るのかを、特等席でじっくり観察させてもらおうじゃないか。日本が失敗した部分は反面教師にし、うまくいった制度だけをアメリカ流に洗練させてから取り入れる。それが超大国としての賢いやり方というものさ」

 

「……しかし、大統領」

 コールマンは納得しきれない様子で、タブレットの別の画面を示した。

「すでに昨日から、ホワイトハウスの記者クラブや連邦議会の複数の議員、さらにはSNS上の数千万人の合衆国市民から、『日本政府が認めた異能について、アメリカ政府は何を知っているのか』『アメリカ国内にも能力者はいるのか』という猛烈な問い合わせが殺到しております。いつまでも『日本の国内問題であり注視している』というコメントだけで押し通すのは――」

 

「もちろん、未来永劫隠し通せるとは思っていないよ」

 ボブは穏やかに手を挙げてコールマンを制した。

「議会やメディアの追及が限界に達したら、その時はその時で考えよう。最初から『絶対に隠す』と意地を張る必要もなければ、今日のうちに『全部晒す』と決める必要もない。状況を見ながら、一番国益に適うタイミングで臨機応変にカードを切ればいいのさ」

 

 ボブはそう言って、デスクの上の日本に関する分厚いバインダーをパタンと閉じた。

 そして、大きく伸びをすると、急に世俗的な笑顔になって腕時計をちらりと見た。

 

「さて、小難しい極東のニュースはこれくらいにして……コールマン、今日のホワイトハウスのディナーのメインは何だったかな? 確かシェフがテキサス産のいいリブアイ・ステーキが入ったと言っていた気がするが」

「……大統領。まだ午後の二時を少し回ったばかりでございますし、三時からは財務長官との――」

「楽しみな予定は早めに確認しておくに限るよ。人間、美味しいステーキのことを考えている時が一番平和なんだからね」

 

 呆れたように肩を落とすコールマンが、軽くため息を吐いて何かを言い返そうとした――まさにその瞬間だった。

 

ピピピピピッ!! ピピピピピッ!!

 

 コールマンのスーツの内ポケットから、通常の公務連絡とは明らかに周波数の異なる、鋭く甲高い電子警報音が鳴り響いた。

 ボブの顔から、のんびりとした笑みがスッと消える。

 コールマンは即座に内ポケットから黒塗りの暗号化端末を取り出し、赤い警告表示が点滅する画面に目を走らせた。その整った眉間に、一瞬にして深い皺が刻まれる。

 

「……大統領。MAJESTIC-12統合警戒網より、レベル1の緊急報告(フラッシュ)です」

「どこだね?」

「ニューヨーク市、マンハッタン島上空です。たった今、高度四百メートルの空間に、極めて大規模な因果歪曲および『召喚反応』が観測されました」

「召喚反応?」

「はい。空間亀裂より出現したのは、全長約四十五メートルの大型飛翔体――分類コード『竜型召喚存在(ドラゴン)』です!」

 

 その報告を聞いたボブは、片方の眉をピクリと跳ね上げた。

 だが、彼が一瞬見せた戸惑いは、「世界にドラゴンが現れたこと」に対する驚きではなかった。

 

「……ドラゴンかい? 待てよコールマン、今のニューヨークは午後二時十一分、平日の真っ昼間じゃないか」

「はい、その通りです」

「おかしいねえ。その手の違法召喚を仕掛けてくる連中は、いつも決まって人目のない深夜二時とか三時に、人気のない工業地帯や山奥でコソコソやるものだと思っていたんだが」

「はい。当機関の過去の交戦記録におきましても、これほどの大都市の中心部、ましてや白昼堂々の時間帯に大型の竜型が召喚された前例はございません。明らかに通常の襲撃パターンから逸脱しております」

「で、肝心の召喚者は?」

「現地班が残留術式と周辺の痕跡を調べておりますが、召喚者につながる手掛かりは幾重にも偽装されており、まだ特定には至っておりません。ただ、竜型個体はすでにマンハッタンの摩天楼上空を旋回しており、地上の大勢の市民に目撃され始めております!」

 

 ボブは椅子から立ち上がり、ローズガーデンに面した窓の方へとちらりと視線を向けた。

 つい一分前まで「ファーストペンギンは日本に譲って、アメリカは高みの見物を決め込もう」と笑っていた自分の言葉が、あまりにも皮肉なブーメランとなって頭上に突き刺さっていた。

 

「……よりによって、雲一つない金曜日の真っ昼間のニューヨーク・マンハッタン上空にドラゴン、か」

「はい、大統領」

「どうやら、日本の総理の苦労を他人事だなんて言っていたバチが、さっそく当たったらしいね」

 

 ボブは小さく肩をすくめて軽口を叩いたが、次の瞬間には、その瞳に合衆国最高司令官としての冷徹で鋭い光が宿っていた。

「よし、ディナーの話は後回しだ。まずはニューヨーク市民の命が最優先だ、執務室のメインモニターに現地のリアルタイム映像とMJ12の戦術回線を繋いでくれ!」

 

*

 午後二時十二分。

 オーバル・オフィスの壁面パネルがスライドし、現れた大型マルチモニターに、バージニア州の地下にあるMAJESTIC-12統合指揮所の戦術マップと、マンハッタン各所の高所監視カメラのライブ映像が一斉に映し出された。

 

 画面の中央、ワン・ワールド・トレード・センターやエンパイア・ステート・ビルディングが聳え立つ摩天楼の青空を、黒鉄のような鱗に覆われた巨大な双翼の竜が、大気を震わせながら悠然と滑空していた。

 これまでアメリカ国内においても、異能や古い魔術を悪用したテロや、異界からの召喚生物による襲撃事案は、年に数件から十数件のペースで発生していた。今回の個体と同系統の「竜型召喚存在」についても、MAJESTIC-12のデータベースには複数の交戦・撃破記録が存在している。

 

 だが、それまでの交戦記録に合わせて整えられてきた秘匿手順は、いま目の前の映像には適用しようがなかった。

 過去の竜型事案の多くは目撃者の少ない場所で処理され、世間には事故や訓練として説明されてきた。ところが今回は、無数のスマートフォンと報道カメラが現場を撮影し、映像がその場で世界中へ流れている。

 

 しかも、問題は秘密が漏れることだけではなかった。

 第一に、平日の午後二時過ぎ。周囲のオフィスビルには、まだ大勢の人間が残っている。

 第二に、超高層ビルが密集する空域であること。たとえ竜を撃ち落としても、巨体がそのまま地上へ落下すれば大惨事になりかねない。

 そして第三に――日本政府が世界で初めて「異能の実在」と「三百四十二万人の統計」を公表した、その直後に起きた事件であることだ。

 

「これまでの召喚事案と比較して、発生条件があまりにも露骨すぎます」

 モニターの数値を睨みながら、コールマンが低く張り詰めた声で言った。

「日本のディスクロージャーによって世界の共有認識が揺らいでいる隙を突いたのか、あるいは最初から『合衆国の秘匿体制もろとも白日の下に引きずり出すこと』自体を目的とした意図的な挑発工作の可能性があります」

「十分に考えられるね。ただ、犯人の動機をあれこれ推測するのは、目の前のトカゲを片付けてからにしよう」

 

 ボブは冷静に頷くと、戦術マップのマンハッタン上空を拡大させながら、最も重要な問いを口にした。

「それで、コールマン。ミサイルや戦闘機をマンハッタンのビル街に撃ち込むわけにはいかないが……ニューヨークにいる『彼』はどうしている?」

 

「ご安心ください、大統領。彼であれば、すでに現場上空へ到着しております」

「ほほう、もう出ているのかい?」

「はい。当機関のセンサーが空間歪曲の初期波形を検知したのとほぼ同時に、本人が自発的に転移で現場空域へ直行し、ドラゴンの出現から十二秒後には初期迎撃へ移行いたしました」

 

 コールマンが切り替えた高倍率の光学カメラ映像には、巨大なドラゴンの顎のわずか数十メートル正面の虚空に、ぽつんと浮かぶ一人の人間の後ろ姿が映し出されていた。

 防弾チョッキも、軍服も着ていない。どこにでも売っているような灰色のフード付きパーカーに、ジーンズとスニーカーというラフな私服姿。

 ちょうど午後二時十三分(日本時間・午前三時十三分)。ドラゴンが威嚇するように放った最初の魔力の奔流を、そのパーカーの人物が片手を振るだけで光の障壁に変えて正面から弾き返し、ドラゴンの進路をビル群の直上からイースト・リバー寄りの空域へと強引に押し戻す瞬間が、画面の中で鮮やかに捉えられていた。

 

「相変わらず、誰よりも仕事が早いねえ」

 ボブの口元に、心からの安堵と信頼の笑みが戻った。

「ホワイトハウスやMJ12の命令書を待ってから動いていたら、今ごろ最初のビルが焼かれていたところだ。彼が現場にいるなら、ひとまず最悪の惨事は避けられそうだね」

「はい。対大型召喚生物の実戦経験において、彼の右に出るアセットは合衆国には存在しません。ただし、今回は真下に数百万の市民と高層ビル群を抱えた状態での防衛戦となります」

「それは彼にとっては『いつものこと』だろう?」

「……確かに、その通りでございます」

 

 コールマンもわずかに口角を上げて頷いた。

 ボブはデスクに両手をつき、即座に大統領としての実務指示を飛ばし始めた。

 

「よし、関係各所へ順番に指示を出してくれ。

まずニューヨーク市警(NYPD)と市消防局(FDNY)の秘密研修ラインを全面稼働させ、マンハッタン全域の路上から市民を屋内および地下施設へ即時退避させること。破片の落下や衝撃波による二次被害を絶対に防ぐんだ。

次に連邦航空局(FAA)を通じて、JFK、ラガーディア、ニューアークの三空港の全発着便を緊急停止し、マンハッタン周辺空域を完全な飛行禁止区域(ノー・フライ・ゾーン)に指定しろ。

そしてMAJESTIC-12の現地工作班は、迎撃は彼一人に任せて、この召喚術式を起動させた術者の特定と拘束に全力を挙げるように」

 

「承知いたしました。直ちに伝達します」

 コールマンが端末に素早く命令を入力し、ふと顔を上げて尋ねた。

「大統領。上空で交戦中の彼自身には、ホワイトハウスからどのような指示を伝えますか?」

 

「彼にかい? 『いつもどおりでいいよ』と伝えてくれ」

「いつもどおり、でございますか?」

「そうさ。市民と街に傷一つつけず、あのドラゴンを綺麗に片付けて、無事に帰ってきてもらう。それが彼のいつもの仕事だろう?」

 ボブはそう言ってから、画面の隅に映り込んだ複数の報道ヘリの影と、地上から一斉に空へ向けられている無数のスマートフォンの光を見て、少しだけ苦笑いを浮かべて付け加えた。

 

「ああ、ただし一つだけ補足しておいてくれ。『今回は昼間でテレビカメラがたくさん回っているから、無理に隠れようとして手元を狂わせる必要はない。思う存分、派手にやってくれて構わない』とね」

「……よろしいのですか? 映像が全世界に流出いたしますが」

「コールマン、もう今の時点でCNNもFOXも生中継を始めているし、日本中のネット民までリアルタイムで見ているよ。これを後から記憶処理や映画の撮影だと言い張るのは、日本の渋谷の件以上に不可能だ」

 

 ボブは腹を括ったように深く頷き、明確な声で命じた。

「ホワイトハウス報道官を通じて、メディア各社へ緊急の第一報を出させよう。

『合衆国政府は現在マンハッタン上空で発生している事案を完全に把握している。現在現場で対処にあたっているのは、国土安全保障省の特殊部門・MAJESTIC-12の管理および協力体制下にある専門の実働者である。市民はパニックに陥ることなく、現地当局の避難指示に従って屋内へ退避されたい。詳細は安全が確認され次第、追って発表する』――そう公式に出してくれ」

 

「MAJESTIC-12のコードネームを、公式声明に出してしまいますか!?」

「ああ。正体不明の怪物と謎のパーカー男が空で戦っていると放置するより、『政府の専門機関がコントロールして撃退している』と宣言する方が、パニックを抑えるには百倍効果的だからね。……さあ、彼の仕事ぶりを見守ろうじゃないか」

 

*

 午後二時十三分過ぎ。ニューヨーク、マンハッタン上空四百五十メートル。

 ドラゴンが最初に放った魔力の奔流を光の障壁で弾き、ビル群の直上から押し戻したばかりの灰色パーカーの男は、ポケットに片手を突っ込んだまま、まるで地面の上に立っているかのように自然な姿勢で虚空に佇んでいた。

 足元のはるか下、碁盤の目のように走る五番街やブロードウェイのストリートでは、黄色いイエローキャブが急ブレーキを踏んで立ち往生し、パトカーのサイレンとクラクション、そして豆粒のような人々の悲鳴が幾重にも重なって響き上がってくる。

 

 そして男の正面、わずか五十メートル先の空間には、翼を広げれば旅客機ほどもある巨大な竜が、黄金色の双眸を爛々と輝かせながら滞空していた。鋼鉄の装甲板を思わせる分厚い鱗が太陽の光を鈍く弾き、その巨大な顎の隙間からは、周囲の大気を陽炎のように歪ませる高熱の魔力障気が漏れ出している。

 

グルルルルルァァァッ!!

 ドラゴンが威嚇するように喉を鳴らし、高層ビルの窓ガラスをビリビリと共振させるほどの咆哮を上げた。

 だが、その真正面に浮いているパーカーの男は、風でフードが脱げそうになるのを片手で軽く押さえただけで、怯える様子すら見せなかった。

 

『――こちらMJ12統合管制。ホワイトハウスのウォーレン大統領より、正式な交戦許可および対応指示が下りた』

 男の右耳に装着された極小の通信ピースから、管制官の緊迫した声が届いた。

「お、仕事早いね。で、ボブは何て言ってる?」

『「いつもどおりでいい。市民を守って、ドラゴンを片付けて帰ってきてくれ。ただし今回はカメラが多いから、無理に隠そうとする必要はない」とのことだ』

 

「……ははっ、また『いつもどおり』か」

 男は呆れたように苦笑し、肩をすくめた。

「あのおっさん、いっつも簡単に言うよなあ。こっちはせっかく金曜日の昼下がりに、ソーホーのベーカリーで焼きたてのベーグルサンドを買って公園のベンチでかじろうとしてたところだったのにさ。ドラゴンが出たらとりあえず俺を呼んどけばいい、みたいな便利屋扱い、そろそろ労働環境として改善してほしいんだけどなあ」

 

『文句を言うな。合衆国広しといえども、都市部のど真ん中でそのサイズの竜型召喚存在を、周囲への被害ゼロで単独処理できる実働者は君しかいないんだ。特別手当なら弾むと長官も言っている』

「はいはい、ありがたい評価で。いつも同じ口座に振り込んどいてよ」

 

 男はまるで週末の休日出勤を頼まれたエンジニアのような軽い口調で返すと、ふと視線を下げて眼下のマンハッタンの街並みを見下ろした。

 いつもの案件なら、眠い目をこすって人目のない場所へ飛び、誰にも見られないうちに片付けてベッドへ戻れば済んだ。だが今日は、眼下のビルには人影が溢れ、空には報道ヘリまで飛んでいる。

 

「……それにしても、本当に今日は真っ昼間だなあ」

 男は眩しそうに目を細めた。

「まあ、個人的には深夜三時にベッドから叩き起こされるよりは、昼間のぽかぽか陽気の中で仕事する方が健康的でありがたいんだけどさ。……いや、こんなこと言ったら、今ごろ下で交通整理と情報統制に走り回ってるMJ12の夜勤明けの連中に本気で怒られるかな」

 

グォォォォォッ!!

 目の前のドラゴンが、自分を無視して独り言を呟いている小さな人間に苛立ったように、巨大な翼を強く一振りして間合いを詰めてきた。

 男はひょいと顔を上げた。

「あ、ごめんごめん。ちゃんと聞こえてるって、本格的に相手するから、ちょっと待ってな」

 

 その時、男の視界の端――南東側のビル群の少し離れた空域を、ローター音を響かせながら旋回している一機の民間ヘリコプターの姿が入った。

 機体の側面には、ニューヨークのローカルテレビ局『FOX5』のロゴが描かれている。FAA(連邦航空局)の緊急退避命令が出る直前にたまたま近くを飛んでいた報道ヘリで、機首の下に搭載された高性能の防振ジャイロ付き超望遠カメラが、今まさにドラゴンの正面に浮くパーカーの男をドアップで捉えていた。

 

 ヘリの機内では、ベテランのカメラマンがファインダーを覗き込んだまま、信じられないものを見る目で声を震わせていた。

「……おい、嘘だろ。あの怪物の真ん前に浮いてる人間、防具もジェットパックも着けてないぞ。ただの灰色のパーカーを着た兄ちゃんだ……!」

 

 すると次の瞬間、モニターのど真ん中に映っていたパーカーの男が、くるりと報道ヘリのレンズの方へと顔を向けた。

 数百メートル離れた望遠レンズ越しに、男とカメラマンの視線がバッチリと合う。

 男は一秒ほど「おや?」というように目を丸くすると、すぐに人懐っこい満面の笑顔を浮かべ、カメラに向かって右手を大きく左右に振ってみせたのだ。

 

『――おい、こちら管制! 南東1.2マイルに未退避の報道ヘリがいるぞ! 今まさに君の映像が全米にライブで流れている、不用意に愛想を振りまくな!』

「あーあ、やっぱり生中継されちゃってるのか。見えてるよ、でもせっかく撮ってくれてるのに無愛想にするのも悪いでしょ」

『そういう問題ではない! 今FAAから強制退避命令を出させているが、流れ弾が向かわないよう十分に注意しろ!』

「分かってるって。まあ、日本があれだけ派手にやった後で、こんな真昼間のマンハッタンにドラゴンが出ちゃったんだ。もう隠すも何もないよね」

 

 男は笑って通信を聞き流すと、ヘリへのファンサービスを切り上げ、再び正面のドラゴンへと向き直った。

 その瞬間、彼の飄々とした雰囲気がわずかに変わり、熟練の職人にも似た静かで精緻な集中力が全身を包んだ。

 

「さて、と。ボブの注文通り、ニューヨークの街に傷一つつけないうちに、チャチャッと片付けますか」

 

 男はいきなり大火力でドラゴンを叩き始めたりはしなかった。

 彼が最初に動かしたのは、ドラゴンから視線を外さぬまま、軽く広げた両手の指先だった。

 ピアノの鍵盤を宙で叩くように、男の十本の指が滑らかに動く。

 すると、ドラゴンの巨体の真下――地上三百メートルの空間に、直径数十メートルに及ぶ淡い青白色の「光の円陣」が、音もなく浮かび上がった。円の外周には精緻極まりない幾何学図形と多重のリング、そして既存のどの言語とも異なる術式文字がびっしりと刻まれ、時計回りにゆっくりと回転している。

 

 一枚だけではない。

 男のすぐ背後にあるガラス張りの高層オフィスビルの壁面から十メートル手前の空間に、垂直の壁のように三枚の大型魔法陣が出現し、直後にはほとんど透明に近い光へと同化して待機状態に入る。さらに北側のビル群の前方に五枚、西側のタイムズスクエア方向への進路上に八枚、そして先ほどの報道ヘリが浮かぶ南東側の空域の手前にも二枚。

 

「まずは下の道路への遮断陣を三重に敷いて……ああ、あそこの角の古いビル、風圧だけで窓ガラスが割れそうだな。もう二枚重ねておくか」

 

 ブツブツと呟きながら、男はわずか十秒あまりの間に、マンハッタンの中心街をすっぽりと覆う巨大な「見えない防壁の籠」を、何十枚もの防御魔法陣によって立体的に組み上げてしまった。

 もしドラゴンが地上へ向けて火球や衝撃波を放っても、あるいは撃墜されたドラゴンの何十トンもの巨体がそのまま墜落しても、すべてこの事前配置された緩衝・遮断陣が受け止め、地上のビルや通行人には小石一つ落とさせないための布石である。

 

「――よし、現場の養生は完了っと」

 

 ドラゴンが全身の鱗を逆立て、突進の体勢に入る。

 パーカーの男はゆっくりと右腕を頭上へと掲げ、静かに告げた。

 

「それじゃ、始めようか」

 

*

 午後二時十六分。

 男が掲げた右手のひらをキュッと握り込んだ、その瞬間だった。

 

キィィィィン……ッ!!

 

 大気そのものが澄んだ弦楽器のように共鳴し、マンハッタンの青い空が、突如として無数の「光」によって埋め尽くされた。

 最初に現れたのは、男自身の足元を中心に広がった直径十メートルの黄金色の魔法陣だった。

 だが、それはほんの呼び水に過ぎなかった。

 ドラゴンの頭上百メートルの虚空に、巨大な紅蓮の魔法陣がパッと花開く。同時に、ドラゴンの左翼側に三枚、右翼側に五枚、背後の退路に八枚、斜め下方に十二枚――。

 十枚。二十枚。五十枚。百枚。

 瞬きをするたびに倍々ゲームで増殖していく大小さまざまな発光する円陣が、まるで万華鏡の内部か、あるいは神話の天球儀をそのまま空に投影したかのように、ドラゴンの周囲三百六十度の空間を隙間なく取り囲んでいく。

 

 それぞれの魔法陣は、決して同じ模様ではなかった。

 鋭い三角形と槍のような紋様が高速回転し、ドラゴンの急所へと正確に砲身を向ける「攻撃用の魔法陣」。

 六角形のハニカム構造が幾重にも重なり、市街地へのベクトルを完全に封鎖する「防御・空間固定用の魔法陣」。

 そして、鎖のような光の文字が外周を走り、ドラゴンの飛翔速度と空間移動を阻害する「捕捉・結界用の魔法陣」。

 数えることすら無意味なほどの高密度の術式群が、たった一人の青年の思考と演算によって、一ミリの干渉も起こすことなく完璧な立体包囲陣を形成していた。

 

 その光景を、退避空域のギリギリ外側から撮影し続けていた各局の報道ヘリと、地上のビル群から見上げていた数百万の市民のカメラが、余すところなく捉えていた。

 

『……な、なんということでしょう……! ご覧いただけますでしょうか!?』

 全米へ生中継されているニュース番組のスタジオで、アンカーマンが原稿を握りしめたまま、震える声でモニターを指差していた。

『現在、マンハッタンの上空……あの巨大な翼を持つ生物の周囲に、無数の……何十、いいえ、百を超える発光する幾何学的な円盤のようなものが次々と出現しています! まるで空間そのものに光の図面が描かれているかのようです! 軍の航空機やドローンではありません、あの灰色のパーカーを着た人物が、単独でこの現象を引き起こしています!!』

 

 解説席に座っていた軍事アナリストも、科学ジャーナリストも、誰一人としてマイクに向かって言葉を発することができなかった。

 三日前の東京・渋谷では、二人の人間が空を飛び、目に見えない衝撃波と透明な壁をぶつけ合った。それだけでも世界はひっくり返るほど驚いたというのに、今ニューヨークの空で起きているのは、そんなつつましい規模のものではなかった。誰の目にも明らかな、圧倒的で視覚的な「魔術(マジック)」そのものが、超大国の金融街の頭上で展開されていたのだ。

 

 上空四百五十メートル。

 無数の魔法陣の中心で、パーカーの男が軽く右手の指を鳴らした。

 パチン、という小さな音。

 

 次の瞬間、ドラゴンを包囲していた数十枚の攻撃魔法陣が一斉に眩い閃光を放ち、そこから無数の「光の槍」と「高密度魔力弾」が豪雨のように撃ち出された。

 

ドドドドドドドドッ!!

 

 大気を切り裂く轟音とともに、光の弾幕がドラゴンの巨体へと殺到する。

 ドラゴンは咆哮を上げ、その巨体に似合わぬ驚異的な敏捷性で双翼を羽ばたかせ、真上へと急上昇して第一波を躱そうとした。

 だが――ドラゴンが駆け上がったその頭上の空間には、すでに先回りして角度を変えていた十枚の魔法陣が、冷徹に銃口を揃えて待ち構えていた。

 

「おっと、上に逃げると思ったよ」

 

 男が人差し指をわずかに下へスライドさせる。

 頭上の魔法陣から極太の光の柱が垂直に撃ち下ろされ、ドラゴンの背中の分厚い鱗を直撃した。

 ガゴォンッ!! と、戦艦の主砲が装甲板を叩いたようなすさまじい金属音が響き、ドラゴンの巨体が空中で大きく押し戻される。

 たまらずドラゴンが右方向――イースト・リバー側へと進路を切って離脱しようとすれば、すぐさま右翼側の魔法陣群が連動して一斉射撃を浴びせ、強引に元の包囲網の中心へと押し返す。反撃のために首を巡らせようとすれば、死角であるはずの真後ろから飛来した魔力の槍が顎の横をかすめて炸裂し、視線を逸らすことすら許さない。

 

「残念、そっちのルートも最初から塞いでるんだなあ」

 男は空中で軽くステップを踏むように位置を変えながら、両手の指先を指揮者のように軽やかに動かし続けた。

 彼がやっているのは、単なる大火力による無差別な飽和攻撃ではなかった。

 ドラゴンの骨格と筋肉の動き、翼の角度から0.5秒後の移動先を完全に予測し、周囲の魔法陣からの射撃によって「見えない檻」を作り出すことで、ドラゴンを半径百メートルの空中領域から一歩も外へ出さないように空間ごとコントロールしているのだ。

 

「そうそう、いい子だ。よそ見しないで、ちゃんと俺の方だけ見ててくれないと困るんだよ」

 

 男の声は、まるで大型犬のしつけでもしているかのように余裕に満ちていた。

 決してこのドラゴンが弱いわけではない。通常の近代兵器――たとえば対戦車ヘリの機関砲や携行式地対空ミサイル(スティンガー)程度であれば、あの鋼鉄以上の硬度と魔力耐性を持つ鱗には傷一つつけられず、逆に一睨みで撃ち落とされていただろう。これほどの直撃弾を何十発も浴びながら、まだ翼を折られることもなく空中で暴れ回っていること自体が、この召喚生物の異常なタフネスを証明していた。

 ただ、相手が悪すぎた。

 

グガアアアアアッ!!

 全方位からの絶え間ない砲撃によって完全に退路を封じられたドラゴンが、怒りと焦燥に満ちた咆哮を上げた。

 そして次の瞬間、ドラゴンは目の前の厄介な小男を無視し、その凶暴な黄金の瞳を「真下の摩天楼と逃げ惑う群衆」へと向けた。

 自分を取り囲む檻を破れないなら、下の柔らかい人間どもとガラスの塔を叩き壊して術者の集中を乱せばいい――捕食者としての本能的な戦術転換だった。

 

 ドラゴンが空中で巨体を大きくひねり、鋼の鞭のような長さ二十メートルの尾を、すぐ横に聳える五十階建てのガラス張りのオフィスビルへ向けて、全力で叩きつけた。

 ビルの窓際に残っていた人々や、地上のストリートから見上げていた群衆から、引きつった悲鳴が上がる。

 

 だが、パーカーの男は眉一つ動かさなかった。

「……ああ、はいはい。俺に勝てないからって、すぐそっちを狙うわけね」

 

 ドラゴンの尾がビルのガラス壁面に到達するコンマ一秒前。

 男が戦闘開始前にあらかじめビルの手前に配置していた「透明な防御魔法陣」が、カッと青白く発光して実体化した。

ガァァァァンッ!!

 何十トンもの質量と速度を乗せたドラゴンの尾が、ビルのわずか十メートル手前の空間で、見えない鋼鉄の壁に激突したかのようにピタリと止められた。多重の六角形で構成された魔法陣が衝撃エネルギーを波紋のように吸収・分散し、背後のオフィスビルの窓ガラスにはヒビ一つ入らない。

 

 弾き返されたドラゴンは、さらに口を大きく開け、眼下の五番街の交差点へ向けて、直径数メートルの赤黒い魔力の火球を五発連続で吐き出した。

 男が左手を軽く払う。

 すると、ドラゴンの下方に敷かれていた水平の魔法陣がスライドするように重なり合い、落ちていく五発の火球を、まるで底なしのブラックホールのように音もなく吸い込んで消滅させてしまった。爆風すら地上へは届かない。

 

「だからさあ……」

 男は本当にやれやれといった調子で、空中で深いため息を吐いた。

「下の街を狙ったって無駄だって、もう今まで何度も言ってるじゃん。最初にちゃんと周りを囲ってから始めてるんだからさ」

 

 その頃、バージニア州のMAJESTIC-12統合指揮所およびホワイトハウスのモニター前では、オペレーターたちがその完璧すぎる防衛制御の数値を、驚嘆とともに読み上げていた。

『――対象による地上建造物および群衆への攻撃、すべて第1層防御陣にて完全遮断を確認! 余波の減衰率99.8パーセント、地上のビル群および市民への物理的被害、依然としてゼロです!』

『攻撃陣の展開数、現在148枚を維持! 術者のバイタルは正常、術式の因果反応量および展開安定度も極めて安定しております!』

 

 オーバル・オフィスでその映像を見つめていたボブ大統領は、感心したように大きく頷いた。

「いやはや、いつ見ても惚れ惚れする職人芸だねえ。あれだけの大火力を振り回しながら、下の街の街灯一つ壊さないんだから」

 

 そして午後二時二十分。

 マンハッタン上空の戦場は、最大の山場を迎えようとしていた。

 全方位からの魔力弾に全身の鱗を削られ、地上への攻撃もすべて無力化されたドラゴンが、不意に空中での暴れ回る動きをピタリと止めたのだ。

 

 ドラゴンが巨大な双翼を最大限まで大きく広げ、空気を吸い込むように胸郭を膨らませる。

 直後、その大きく開かれた顎の奥――喉元のあたりに、太陽を直視したかのような猛烈な黄金色の閃光が収束し始めた。

 ズズズズズ……ッ! と、周囲数百メートルの大気が電離して青白いスパークを散らし、高層ビルの屋上にある避雷針やアンテナが一斉に不気味な唸り声を上げる。先ほど吐き出した火球など比較にもならない、マンハッタンの数ブロックを丸ごと蒸発させかねないほどの超高密度エネルギーの充填だった。

 

 報道ヘリのカメラがその異常な発光を捉え、キャスターが悲鳴のような声で叫ぶ。

『きょ、巨大生物の動きが止まりました! 口元に、凄まじい光が集まっています! 何か……とてつもないエネルギーが放たれようとしています!! マンハッタンの皆様、窓から離れてください、伏せてください!!』

 

 画面の向こうの視聴者も、地上の市民たちも、誰もが「街が吹き飛ぶ」と死の恐怖に息を呑んだ、その極限の瞬間。

 ドラゴンの真正面に浮かぶ灰色パーカーの男だけは、信じられないほど気怠そうに首を傾げ、ボリボリと自分の頬をかいていた。

 

「……あーあ。またそれ?」

 

 男の口から漏れたのは、世界の終わりを前にした英雄の悲壮な叫びではなく、同じ手ばかり出してくるゲームの対戦相手に対する、心底うんざりしたようなぼやきだった。

 

「お前ら竜型の召喚獣ってさ、ほんっとうにいつも行動パターンが決まってるよなあ。こっちの包囲陣が抜けなくて手詰まりになったら、すぐその最大出力のブレスで全部まとめて吹き飛ばそうとするじゃん……」

 

 彼が過去に相手にしてきたのが、これと全く同じ個体だったのか、それとも同じ術式系統で召喚される竜型が共通して持つ習性なのかは定かではない。

 ただ一つ確実なのは、世界中の人間が初めて目にする「神話の怪物の必殺技」を、このパーカーの男だけは「見飽きたワンパターンな悪あがき」として完全に把握し、最初からその対策を手元に用意していたということだった。

 

 男はポケットから抜いた左手を前に出し、人差し指と中指の二本で、空中にくるりと小さな円を描いた。

 

 次の瞬間。

 ドラゴンが咆哮とともに、直径十メートルを超える極太の黄金色の熱線(ブレス)を斜め下方――市街地と男を諸共に呑み込む軌道で吐き出した。

 だが、その光の奔流が男に到達する寸前。

 男とドラゴンの間の空間に、今日展開されたどの魔法陣よりも巨大で、どの魔法陣よりも複雑怪奇な構造を持つ「白銀の多重魔法陣」が、巨大な盾のように立ち塞がった。

 その魔法陣は、外周の七つのリングがそれぞれ逆方向に超高速で回転し、中心部には空間そのものを磨き上げたかのような、完全な「鏡面」が形成されていた。

 

ドゴォォォォォォォンッ!!

 

 ドラゴンの巨大ブレスが、白銀の魔法陣の中心へと直撃する。

 空間が激しく歪み、耳をつんざくような衝撃音がマンハッタン全域を揺らしたが、魔法陣は一ミリたりとも後ろへ押されなかった。

 それどころか――魔法陣の表面に広がった七重の術式リングが、ブレスの莫大な運動エネルギーと魔力ベクトルをそのまま呑み込み、内部で百八十度反転させたのだ。

 

「はい、お返し」

 

 男が軽く指先を弾いた瞬間。

 白銀の鏡面魔法陣から、ドラゴンが吐き出したのと全く同じ太さ、同じ威力の黄金色の奔流が、一切の拡散も減衰も起こすことなく、吐き出した本人であるドラゴンの真正面へと真っ直ぐに跳ね返された。

 地上から見上げていた人々にとっては、空を焼き尽くすかと思われた巨大な光の柱が、空中の見えない鏡にぶつかってそのままUターンし、怪物の顔面へと逆流していくという、悪夢のように非現実的な光景だった。しかも反射の角度は男によって完璧に制御されており、周囲の高層ビルや上空の報道ヘリには熱風すら届かない。

 

グギャアアアアアアアッ!?

 

 まさか自分の最大火力がそのままの威力で真正面から返ってくるとは思っていなかったドラゴンが、慌てて翼を畳んで回避しようとした。

 しかし、その周囲の空間は、最初から男が展開していた百枚以上の魔法陣によって完全にロックされている。逃げ場はどこにもなかった。

 

ズガアアアアアアアンッ!!

 

 反射された極太のブレスが、ドラゴンの胸元から右翼の付け根にかけてをまともに直撃した。

 空中で凄まじい光の爆発が起き、誇っていた鋼鉄の鱗が何十枚も砕け散って光りながら舞い散る。ドラゴンの巨体が大きくのけぞり、黒煙を引きながら空中で激しく錐揉み回転して姿勢を崩した。

 

「ほらね。予備動作がデカくて分かりやすすぎるんだよなあ、お前のそのブレス」

 

 パーカーの男は軽く肩をすくめると、空中で苦悶の声を上げながらまだ羽ばたこうとしているドラゴンを見据え、もう一度、すっと右腕を高く掲げた。

 

「さて、と。あんまり長引かせて下のテレビ局の人たちを怖がらせても悪いし……そろそろ終わりにしようか」

 

 男が掲げた右手に呼応し、ドラゴンの周囲三百六十度を取り囲んでいた百数十枚の魔法陣が、一斉にギュンッと音を立てて高速回転を始めた。

 さらにその隙間を埋めるように、二回りほど大きな黄金色の収束魔法陣が新たに三十枚追加で展開され、傷ついたドラゴンの全身へ、逃げ場のない照準を完全に固定する。

 

 男は、まるで部屋の照明のスイッチでも切るかのような無造作な仕草で、掲げた右手をストンと下ろした。

 

 ――全魔法陣、一斉飽和砲撃(フル・バースト)。

 

 上空から。真横から。斜め下から。そして背後から。

 百七十八枚の攻撃魔法陣から同時に放たれた無数の光の槍と極太のレーザーが、空中のただ一点――ドラゴンの巨体へと隙間なく収束し、貫いた。

 昼間のマンハッタンの空の一角が、まるで小さな太陽がもう一つ生まれたかのように真っ白な閃光に包まれる。

 遅れて、遠雷のような低く重々しい衝撃音がビル群の間を吹き抜けていった。

 

 やがて、数秒後に眩い光がスッと収まった時。

 空中に浮かんでいたドラゴンの巨体は、全身の魔力構造を完全に破壊され、ピクリとも動かなくなっていた。

 

「おっと、そのまま下に落とすわけにはいかないね」

 

 力を失った何十トンもの巨体が、重力に従ってマンハッタンのビル街へと落下し始めた瞬間。

 男が左手をすっと持ち上げると、ドラゴンの真下に待機していた直径五十メートルの大型魔法陣がせり上がり、落ちてきた巨体をまるで巨大なハンモックのようにふわりと空中で受け止めた。

 さらに、その死骸の上下を挟み込むように、複雑な空間座標が刻まれた紫色の転送用魔法陣が幾重にも重なっていく。

 

 パァン、とガラスが弾けるような硬質な光が一閃したかと思うと、次の瞬間には、全長四十五メートルあったドラゴンの遺骸そのものが、血の一滴、砕けた鱗の一欠片すら地上に落とすことなく、空間ごと綺麗に消え去っていた。MAJESTIC-12がネバダ州の地下に保有する指定バイオ・超常管理区画へと、丸ごと空間転送されたのである。

 

 周囲の空を埋め尽くしていた攻撃魔法陣も、光の粒子となって一枚、また一枚と静かに消えていく。

 午後二時二十二分。

 交戦開始から、わずか十分足らず。

 パーカーの男は、何事もなかったかのように元の青空へと戻ったマンハッタンの空をぐるりと見回し、満足そうに頷いた。

 

「……よし。今日も綺麗に終わった終わった」

 

*

 ドラゴンの巨体と無数の光の円盤が消え失せたマンハッタン上空には、ただ秋風が吹き抜ける静寂だけが残されていた。

 地上のストリートやビルの窓から空を見上げていた数百万のニューヨーカーたちは、悲鳴を上げることすら忘れ、ただ口をあんぐりと開けて虚空にぽつんと浮かぶ灰色のパーカーの青年を見つめていた。

 

 神話の中から抜け出してきたような巨大なドラゴンが現れた。

 どこからともなく現れたパーカー姿の男が、空いっぱいに魔法陣を広げてそれを圧倒し、街を守り、ブレスを跳ね返し、最後には死骸ごと跡形もなく消し去ってしまった。

 ハリウッドのどんな超大作映画よりも派手で、しかも目の前で起きた紛れもない現実。

 

 パーカーの男は一度、真下の五番街や周辺のビル群を見下ろし、ガラス一枚割れていないことを確認すると、周囲に残していた透明な防御魔法陣もすべて解除した。

 そして、帰ろうと身体の向きを変えたところで、南東側の空域にまだ浮かんでいる『FOX5』と『CNN』の報道ヘリに気がついた。

 

「あ、まだあそこで撮ってたんだ」

 

 報道ヘリのカメラマンは、ドラゴンを消し去ったばかりの謎の男が再びこちらを向いたことに気づき、ゴクリと生唾を呑み込んでピントを合わせた。

 全世界の数億人がリアルタイムで見守る中継画面のど真ん中で。

 灰色のパーカーを着た青年は、今日一番の爽やかで屈託のない笑顔を浮かべると、カメラに向かって大きく両手を振った。

 

「ばいばーい!」

 

 音声はヘリのローター音にかき消されて届かなかったが、その唇の動きは、誰の目にもハッキリと『Bye-bye!』と読み取れた。

 直後、男の足元に、直径二メートルほどの小さな白い魔法陣がクルリと展開される。

 男は最後にもう一度だけカメラへ手を振ると、下から立ち昇った光の柱に包まれ――次のフレームでは、まるで最初からそこに誰もいなかったかのように、マンハッタンの空から忽然と姿を消していた。

 

 報道ヘリのカメラが、慌てて上下左右へとレンズを振って空を探す。

 だが、そこにはただ、白い秋の雲と、どこまでも青いニューヨークの空が広がっているだけだった。

 

 数秒間、全米のテレビ画面には、誰もいない青空の映像と、ヘリのプロペラ音だけが虚しく流れ続けた。

 やがて、CNNのスタジオのメインアンカーが、震える手で自分の眼鏡を外し、絞り出すような声でマイクに向かった。

 

『…………い、今、私たちの目の前で、一体何が起きたのでしょうか』

 

 隣に座る女性キャスターも、手元の原稿を落としたまま、呆然とモニターを見つめていた。

『わ、私たちがカメラで確認できた事実は……マンハッタンの上空に、伝説上のドラゴンのような巨大生物が出現したこと。そして、灰色のパーカーを着た一人の人物が空中に現れ、無数の発光する円盤を使ってその生物を完全に撃破し、街を守り抜いたということです……』

『そして、その人物は……?』

『……消えました。カメラに向かって笑顔で手を振り、光に包まれて、空中から突然姿を消しました……』

 

 それ以上、どんな言葉を継げばいいのか、ベテランの報道陣にも分からなかった。

 ただ一つだけ確実だったのは、東京・渋谷のスクランブル交差点で起きた「二人の異能者の空中戦」からわずか三日後、今度はニューヨーク・マンハッタンのど真ん中で、「ドラゴンと魔法使いによる大規模魔法戦」が全世界へフルハイビジョンで生中継されてしまったという、取り返しのつかない事実だけだった。

 

*

 午後二時二十五分。ホワイトハウス、大統領執務室。

 マルチモニターの中でパーカーの青年が光となって消えたのを見届け、コールマン担当官が耳元の通信機から手を離して大統領へと向き直った。

 

「――大統領。マンハッタン上空に出現した竜型召喚存在の完全無力化、およびネバダ管理区画への遺骸回収を確認いたしました。なお、彼による事前防壁の展開により、マンハッタン市街地の建造物への損壊はゼロ、市民の死傷者も現時点でゼロとの報告が入っております」

 

「うん! 死者も怪我人もゼロ、ビルも無傷! 本当に素晴らしい、見事な仕事ぶりじゃないか!」

 ボブ大統領はパチンと嬉しそうに手を叩き、心からの安堵の息を吐いた。どれほど秘密が漏れようと、合衆国大統領にとって最大の悪夢は「自国民が目の前で大量に殺傷されること」だ。それが完璧に防がれただけでも、彼にとっては百点満点の結果だった。

「彼には私から最大の感謝を伝えておいてくれ。中断させてしまったベーグルサンドの代わりに、今度ホワイトハウスのキッチンで最高級のステーキをご馳走するとね」

「承知いたしました、必ず伝えます」

 

 ボブは上機嫌で椅子に座り直し、コーヒーカップに手を伸ばした。

「いやあ、しかし相変わらず頼りになる男だねえ。蓋を開けてみれば、今回も『いつもどおり』、わずか十分で綺麗に片付いたじゃないか」

「……戦闘処理そのものにつきましては、おっしゃる通り完璧でございました」

「ん? なんだいコールマン、せっかく危機が去ったというのに、ずいぶん浮かない顔をしているじゃないか」

 

 コールマン担当官は、胃のあたりを軽く押さえながら、重苦しい声で答えた。

「大統領。本当の問題は、ここから始まる『事後処理』の方でございます。……こちらのモニターをご覧ください」

 

 コールマンがリモコンを操作すると、執務室のモニターに、現在全米および世界中のSNSで毎秒数十万回という爆発的なペースでリポストされ続けている「切り抜き動画」と、各局のニュース速報画面が並べて映し出された。

 空を埋め尽くす百七十八枚の攻撃魔法陣。

 鏡のように跳ね返されるドラゴンの極太ブレス。

 そして何より――戦闘の最初と最後に、報道ヘリの超望遠カメラに向かって「ばいばーい!」とばかりに満面の笑みで手を振り、魔法陣の光に包まれて消えていく灰色パーカーの青年のドアップ映像。

 

 それを見たボブは、思わず吹き出して腹を抱えて笑った。

「ははははっ! いやあ、実にいい笑顔じゃないか! カメラ映りもバッチリだ、ハリウッドの俳優よりよっぽどスター性があるよ!」

「大統領、笑っている場合ではございません!」

 コールマンが珍しく声を荒らげた。

「先ほどホワイトハウス報道官が出した『MAJESTIC-12の協力実働者が対処している』という声明と、この鮮明すぎる生中継映像が結びついた結果、現在、ホワイトハウスの広報室および国土安全保障省の回線は、世界中のメディアからの問い合わせで完全にパンクしております!

『あのパーカーの魔法使いは何者なのか』『なぜあのような幾何学模様で物理法則を無視した現象が起きるのか』『どこからドラゴンが現れたのか』『MAJESTIC-12とは1947年のUFO陰謀論の組織と同じなのか、これまでにも同様の怪物を秘密裏に処理してきたのか』――質問項目だけで、すでに数百ページに達しております!」

 

「……なるほどねえ」

 ボブは笑いを収め、顎に手を当ててモニターの中の騒乱を見つめた。

 東京の渋谷で起きたのは、生身の人間二人が空を飛んで目に見えない衝撃波を撃ち合うという、まだ「超能力(サイキック)」という言葉で説明がつく現象だった。

 ところが、今日のニューヨークで世界中が目撃したのは、全長四十五メートルの「ドラゴン」と、空を覆い尽くす「魔法陣」である。もはや科学の延長線上にある突然変異などという言い訳すら通用しない、純然たる「魔術と神話の領域」が、合衆国政府の公認のもとでテレビに映ってしまったのだ。

 

 その時、コールマンの端末が再び着信音を鳴らした。

 画面を確認したコールマンの顔が、さらに一段と険しくなる。

 

「……大統領。今朝方照会状を送ってきた『全米魔女委員会』の議長から、緊急の抗議および協議要請のホットラインが入っております」

「おや、早いな。今度は何だい?」

「『先ほどマンハッタン上空で全世界に向けて生中継された高密度の複合術式(魔法陣)について、一般社会に魔術体系の存在が完全に露見した以上、合衆国政府は魔女および魔術師の歴史的地位と権利をどのように公式定義するつもりなのか、本日中に回答を求める』とのことです」

「まあ、彼女たちからすれば、自分たちの専売特許である魔法がテレビで披露されたわけだから、黙ってはいられないだろうねえ」

 

 ボブが頷く間もなく、コールマンの端末にもう一件の割り込み通知が入った。

「さらに『全米吸血鬼委員会』の評議会からも緊急連絡です! 『白昼のニューヨークに竜型召喚生物が出現し、政府がMAJESTIC-12の名称を公表したことで、ネット上ではすでに吸血鬼や人狼を含むすべての超常存在の実在が確実視され始めている。協定に基づき、我々人外共同体の安全保障に関する政府の公式方針を直ちに提示せよ』と……!」

 

「いやはや、吸血鬼の連中は今回のドラゴンとは何の関係もないだろうに、随分とまた気が早いねえ」

「直接の関係はございませんが、大衆の想像力という点では直結しております。現に今のSNSのトレンドワードは『#NYCDragon』『#MagicCircle』『#Majestic12』に次いで、『#VampiresAreReal(吸血鬼も実在する)』が急上昇しておりますので……」

 

 コールマンの報告を聞き終えたボブは、背もたれに深く身を沈め、今日一番の長く重いため息を吐き出した。

 

「……どうやら、日本の総理大臣のことを『大変だなあ』なんて他人事みたいに言っていられなくなったねえ、コールマン」

「はい。完全に我が国の番が回ってまいりました」

 

 ボブは姿勢を正し、デスクの上で両手を組んだ。

「さて、現実問題として、今日の夕方の大統領会見で国民とメディアにどこまで説明できるか、整理しようじゃないか」

「はい。まず、本日マンハッタン上空に出現した巨大生物およびそれを撃退した現象が、CGや演習ではなく『現実に発生した超常事案』であること。そして国土安全保障省の特殊部門であるMAJESTIC-12と、その協力実働者が対処し、市民への被害をゼロに抑えたこと。ここまではすでに映像が出ておりますので、公式に認めるほかございません」

「うむ。そこは堂々と我々の実績として胸を張ればいい。問題は、その先だね?」

 

「はい。記者からは間違いなく『今回のドラゴンは史上初めての出現なのか、それとも過去にも夜間に同様の事案が発生し、政府が隠蔽してきたのか』、ならびに『日本には36人に1人(342万人)の異能者がいると発表されたが、アメリカ国内には何人の能力者や魔法使いが存在するのか』という二点が集中して問われます」

 コールマンは慎重に言葉を選びながら続けた。

「彼の個人の身元やTier、固有術式の詳細、ならびに過去の夜間交戦記録や現在追跡中の召喚者の捜査情報につきましては、国家安全保障およびアセット保護の観点から、開示を控えるべきかと存じます。ただ、国内の能力者人口や過去の秘匿体制そのものについては、どこまで認めるか関係省庁との極めて慎重な調整が――」

 

 そこまで聞いて、ボブは思わず苦笑いを漏らした。

「……コールマン。君、今朝方届いた東京からの情勢報告を読んだだろう? 日本の『八咫烏』の官僚たちが首相への説明で頭を抱えていた問題と、今の君の話は驚くほど似ているじゃないか」

「…………はい。否定はいたしません」

「そうかあ。文化も組織の理念も全然違うと思っていたけれど、いざ秘密の蓋が外れてみると、どこの国の政府も官僚も、まったく同じことで頭を抱えることになるんだねえ」

 

 午後二時五十分。

 執務室のドアがノックされ、大統領補佐官とMJ12の法務・広報スタッフたちが、抱えきれないほど分厚いバインダーと資料の束をワゴンに乗せて次々と室内へと運び込んできた。

 レゾリュート・デスクの上には、つい一時間前までボブが余裕の顔で眺めていた「日本の異能公表に関する報告書」のすぐ隣に、その三倍以上の高さがある『ニューヨーク竜型召喚事案・緊急ディスクロージャー対応協議資料』『全米魔女・吸血鬼委員会との条約改定案』『連邦議会向け説明要旨』の山が、ドサリと音を立てて積み上げられた。

 

 山のような書類の壁の向こう側から、コールマン担当官が尋ねる。

「大統領。今後の情報公開のスケジュールと基本方針についてですが、いかがいたしましょうか」

 

 ボブは、自分の顔を隠すほど高く積まれたバインダーの山を見上げ、しばらく遠い目をしてから、しみじみと呟いた。

 

「……ファーストペンギンの役割は、日本に譲ったつもりだったんだけどねえ」

「はい」

「どうやら、岸の上でペンギンたちを眺めて笑っていたら、後ろから急に巨大なドラゴンの尻尾で背中を突かれて、気がついたら日本より深い氷の海のど真ん中へ頭から飛び込む羽目になっていたみたいだ」

「……誠に遺憾ながら、そのようでございます」

「まあ、仕方がないさ。もう海の中へ飛び込んで全身ずぶ濡れになってしまったものは、今さら陸の上には戻せないからね。アメリカ合衆国らしく、世界で一番派手に泳いでみせるとしようじゃないか」

 

 ボブはパンと自分の両膝を叩いて立ち上がると、室内に控えるスタッフたちを見渡して力強く指示を下した。

「よし、今から夕方の国民向け演説の原稿を作るぞ! MAJESTIC-12は、安全保障を損なわずに国民へ説明できる基礎データと法的な枠組みを直ちに整理してくれ。全米魔女委員会と吸血鬼委員会の代表には、今夜中に非公式のオンライン会談を設定し、合衆国政府は彼らの権利と協定を一方的に破棄するつもりはないと直接伝えよう」

「承知いたしました!」

「ただし、コールマン。今日のマンハッタンの事件の裏側については、絶対に目を光らせておいてくれよ。なぜ連中はこれまでのルールを破ってまで、真昼間のニューヨークにドラゴンを送り込んできたのか。誰が、何の目的で世界の秘匿体制をここまで強引に引き剥がそうとしているのか――その答えだけは、まだ霧の中だからね」

「はい、大統領。MJ12の全情報網を挙げて、必ず召喚者の尻尾を掴んでみせます」

 

 スタッフたちが一斉に動き出し、執務室が戦場のような慌ただしさに包まれる中、ボブはふと何かを思い出したように足を止め、コールマンを手招きした。

 

「……ところで、コールマン」

「はい、大統領。何でしょうか」

「確認なんだが、今日の私のディナーの予定はどうなったかな?」

 

 コールマンは手元のスケジュール端末を確認し、心底申し訳なさそうな、そして少しだけ呆れたような顔で額を押さえた。

「……大統領。本日午後六時から予定されておりました夕食会は、先ほど組まれた主要閣僚および連邦議会指導部との緊急安全保障会議、ならびに午後八時からの全米向けテレビ演説の準備のため、キャンセルとなりました。キッチンには、執務室で片手で召し上がれるサンドイッチを用意させております」

 

「なんと、テキサス産のリブアイ・ステーキがサンドイッチに格下げかい! ドラゴンめ、ニューヨークのビルは壊さなかったが、私のディナーを破壊していくとは許しがたいテロ行為だな!」

 ボブはおどけて肩をすくめ、周囲のスタッフたちの緊張をわずかに和ませるような明るい笑い声を上げた。

「まあいいさ、ハムとチーズをたっぷり挟んでおくようにシェフに伝えておいてくれ。空にドラゴンが飛ぼうが、魔法使いがテレビに手を振ろうが、人間、腹が減っては世界の危機とも戦えないからねえ!」







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