「乗り換えだな」
あっけらかんと父は言った。
帰宅した私は、父に事のあらましを話した。
父は何のこともないという様子で、いい加減買い替え時であると私に告げた。随分と長く乗ったのだし、ハンドルと前輪を繋ぐカーボン製のフォークも塗装が剥げ、風雨にも晒され雪でも走り、日光を浴び続けてもおり危険であると、私に告げた。
翌日、近所にある大型の自転車店へと向かうことにした。実際にはまだ分からない。恐らく明日の私は行くのだろうと、他人のように予想した。しかしそうなると、やはりいくらまで出すかという問題は避けられなかった。
冷静に感傷を排して、愛車のどこを修理することになるかと考えてみる。
まず、当然にリアディレイラーだろう。
この捻れ方が簡単にどうにか出来るものだろうか?
できるなら良いが、できないなら交換になる。避けたかった“原型”の崩壊。しかし、ことここに至っては致し方ないと思うより他になかった。この固執こそが、今回の事態を招いているに違いないのだから。
となれば、ここでリアギア……つまりはスプロケットも交換すべきだろう。これも原因の一端であり得る。そうなると噛み合わせの問題からチェーンも交換。同じ理由でフロントギアも、そのチェーンリングを交換することになるかもしれない。いや、なると思うべきである。
私の思考は、ここで止まった。一体これでどれだけかかるか分からなくなったのだ。これだけでなく、実際フォークも交換となり得ることも考えなければならなかった。これをこのまま放置することを、父は承諾しないだろうし、何かあれば致命的なパーツでもある。
そのとき後悔するのは恐らく父で、私は後に悔いるための“後”すら失うかもしれない。
「…………」
修理すれば乗れるのだから、ならばいくらでも出せば良いと主張する私がいる。随分と昔から育まれた、私の“原型”の主張がそれだった。
しかし、私ではなく社会へと向けられる方の私は、かなり冷徹な事を口にした。
「割に合わない」
そういうような事だった。
これを、私は恐れていたのである。
私は私を斟酌しない。身も蓋もない方向へ、一度でも傾けば、冷め切った納得に囚われてしまう。
“原型”も失い、多額の修理費用が見積もられ、今後もメンテナンス費用は嵩んで行くであろう見立てもある。そうなったとき、なってしまったとき、私は結局その答えに行き着くに決まっていた。だから避けたかったのだ。私自身に、金銭という数値で見せることだけは、どうしても避けたかったのだ。
その日の夕食、父の頭の中には愛車を一瞥するまでもなく状況が浮かび、大体整備員はどういった事を言うだろうということが分かっているような口ぶりをした。
そうして私を理解している父は、私がそれでも乗り続けようとするとは全く考えず、もはや勝手に次はどんなクロスバイクが良さそうであるといったことを、楽しげに探し、解説し、多少の金銭的援助すらも口にするのだった。
喜ぶべきことかもしれなかった。
口を閉ざし、食事を終え、家事を済ませる。口はほとんど閉ざしていた。久しく感じなかった痛みと、それ以上の熱がある。余計なことを言う前に、私は夢へと意識を放った。
翌日、浅い眠りから目覚めたような、ずっと目覚めていたような頭で、私は家族LINEに貼られたURLをタップしていた。送信主は父である。
もはや心は息切れしており、こうしてむしろ自身を納得させようとしている節がある。一目惚れなどできはしないかと、アルファベットだらけの製品名と、さらに数字まで乱入するスペック表を流し見る。目はよく滑った。
「…………」
一応は想像してみるのだ。これに乗った自分。無理に大きなフレームのバイクに乗っていた分、乗りやすくて軽くもなるのだろう。最近はタイヤ幅も広くなり、かなりディスクブレーキが流行っているらしいことが、製品一覧画面から察せられる。
ふーん、である。
身体を起こし、出掛ける準備をする。
「っぱ修理だ」
7万まで出せる。そう決めた。私と私が鬩ぎ合い、譲歩の末に合意した数字。
もはや新しいのを買った方が良いだろうと、他人にならば言っただろう。そんな額である。
だが、出せる。そしてこれを超えたなら、それはそういうことである。
レッドラインを決めたことで、私はどこか楽になる部分と、緊張を強いられる部分とがあった。
直すなら当然、元のグレードも維持した上でだ。いくらでも安いパーツに変えて間に合わせることを、私は直すとは言わない。
家を出る。ステムを二度叩き、自転車店への道を歩き出した。
しばらく歩くと、長く緩やかな上り坂になる。
私が初めて自転車を買い与えられ、乗るための練習をした場所だった。真っ白の金属フレームが特徴的な自転車で、黒い前かごが付いていた。シルバーのスタンドがお気に入りで、強いバネによるギシャムとした音と振動が好きだった。軽量化などと無縁な、純然たる自転車である。
次にのったのは、確かマウンテンバイクだったか。
深い紫の、金属製フレーム。……いや、どうだったか。アルミだったかも分からない。イボイボのついたグリップが気持ち良く、もらったグローブなんてついに使わなかったことだけは確かだ。
そして3台目には、フォークにサスペンションのついた
譲れたのは、遂にこの愛車を受け継ぐとなったからである。
「…………」
信号を待つ。車はほとんどなかった。何も通らない中、赤信号だけを見つめていた。
白状すれば、この愛車が第一候補ではなかった。
受け継ぎたかったのは本心で、実際そうできたことには満足していたのであるが、私の頭の中には“次”があったのである。
父は、もう一台愛車を持っていた。それは完全に趣味用の、父が手ずから組み上げた、真っ黒なフレームのロードバイクだった。いつかのときに、お前が大きくなったらこれにも乗れると言ってくれてより、私はあの黒に跨ることを夢見ていた。
クロスバイクは、どこかそれまでの繋ぎの面を宿していたのである。
しかし、私は一向に育たなかった。
そうこうするうちに月日は流れて、もはや望みは絶たれていた。
父は、捨てるのは勿体無いと、誰かへ譲ることとしてしまった。この頃には、父は事故により首を痛め、趣味のサイクリングを諦めざるを得なくなっていたのである。
私は頑として譲らなかった。確か当時は高校生だったと思う。子供の頃より憧れた自転車を、みすみす他所へやりたくなかった。
今の愛車に親愛を向けていたなら、父の愛車には憧憬を抱いていたのだ。
銀杏並木を歩く。
風は冷たく、しかしどこか柔らかさを持っていた。
信号はまた赤を灯していた。
頑なな私に、父は最後の機会を与えてくれた。
久々に、乗ってみろと言うのである。乗れたなら、お前が乗れと頷いたのである。
それが一番なんだと。
私はなにやら気炎を吐いて、入念なストレッチの末に、父の力すら借りて跨った。
細く、硬いサドルは痛かった。
足はそのつま先すらもペダルへ届かず、立ち漕ぎをしてようやく、それですら股下をフレームに打たれながら、どうにか前へと進む有様だった。
もはや、サドルとかステムとかの話ではない。50万円以上を費やして父に最適化されたそのバイクは、フレームからして私を拒んでいた。
私には、何らの資格もないことを、痛みと共に知ったのである。
それを見た父の顔は、覚えていない。
ただ悲しく、悔しく、股下の痛みのみによらない涙を堪えたものだった。
信号が変わっている。
いつの間にか渡っていた。
店のある通りは、もう目の前だった。