あの日から、数日が経った。
私は今日も、あの路地裏に足を運んでいた。
薄汚れた壁。積み上げられた木箱。鼻につく生ごみの臭い。
何一つ変わらない、ありふれた路地裏。
だが、私にとっては違った。
ここは、あの人と出会った場所だ。
「……今日もいない、か」
あの日、私の傷を手当てしてくれた少年。
自分も腹を空かせていたくせに、私に食べ物を譲ってくれたお人好し。
あれから何度も、この場所を訪れていた。
だが、一度も会えていない。
「……じゃあ、またね、か」
別れ際の言葉を思い出す。
あの人にとっては、何気ない挨拶だったのだろう。
けれど私は、その言葉を何度も思い返していた。
また会える。
そう思っていた。
いや、そう思いたかったのかもしれない。
「……名前くらい、聞いておけばよかった」
名前も知らない。
住んでいる場所も、何をしている人なのかも分からない。
知っているのは、私より少し年上の人間の少年だということだけ。
それだけで、この広い街から一人を見つけ出すなど、無理に等しかった。
私は懐から、一枚のハンカチを取り出した。
洗ってはみたものの、端には薄く赤い染みが残っている。
あの日、少年が私の傷を拭ってくれたものだ。
返そうと思って持ち帰った。
……本当は、返す口実が欲しかっただけなのかもしれない。
「……馬鹿な奴」
思わず、小さく笑ってしまった。
あの人も。
そして、何度も同じ場所を訪れている私も。
どちらも大概、馬鹿なのだろう。
私はハンカチを丁寧に畳み、懐へしまった。
いつか、必ず返そう。
このハンカチも。
あの人から受けた恩も。
***
「……仕事を、探しているんですが」
私は店の入り口に立ち、奥にいる男へ声をかけた。
男は面倒くさそうに顔を上げる。
「仕事?」
「はい。表に従業員募集の張り紙があったので……」
男の視線が、私の顔から背中へと移った。
片翼を見た瞬間、その表情が露骨に歪む。
「……何だ、お前。その翼は」
「生まれつきです」
「鳥の獣人のくせに、片方しかねえのか?」
「……はい」
男は鼻で笑った。
「悪いが、うちにお前みたいなのを雇う余裕はねえよ」
「……ですが、仕事なら何でもします。掃除でも、荷運びでも……」
「聞こえなかったのか?」
男の声が低くなる。
「お前みたいな気味の悪い奴を店に置けるかって言ってんだよ」
私は拳を握りしめた。
だが、ここで言い返せば、仕事を得る可能性は完全になくなる。
「……給料は、少なくても構いません」
「しつけえな!」
男が乱暴に立ち上がった。
私は反射的に身をすくめる。
「帰れ! 客が逃げちまうだろうが!」
「……失礼しました」
頭を下げ、店を後にする。
背後から、男の吐き捨てるような声が聞こえた。
「ったく、朝っぱらから縁起でもねえ」
私は振り返らなかった。
***
それからも、私は仕事を探し続けた。
倉庫では、話を聞いてもらう前に追い返された。
「飛べねえ鳥なんか、荷物運びの邪魔だ」
雑貨屋では、店先に立っただけで怒鳴られた。
「客が寄りつかなくなる! さっさと消えろ!」
どこへ行っても、私を見る目は変わらない。
誰もが、私の片翼を見る。
私自身を見ようとする者など、一人もいなかった。
それでも、私は頭を下げ続けた。
言い返せば、殴られるかもしれない。
怒りを見せれば、もっと酷い目に遭うかもしれない。
そんなことは、嫌というほど知っていた。
夕暮れが近づく頃には、足が棒のようになっていた。
朝から何も食べていない。
腹が鳴る。
私は懐から、硬貨を数枚取り出した。
今の私が持っている、すべての金だった。
(……これなら、パンの一つくらいは)
通りの向こうに、小さなパン屋が見えた。
店先には焼きたてのパンが並び、香ばしい匂いが漂っている。
しばらく迷った末に、私は店へ近づいた。
「……すみません」
店主の女が顔を上げる。
「はい、いらっしゃ……」
そこで言葉が途切れた。
女の視線が、私の背中へ向けられる。
「……何?」
露骨に嫌そうな顔だった。
私はできるだけ丁寧に声をかけた。
「……このパンを、一つください」
そう言って、硬貨を差し出す。
だが、女は受け取らなかった。
「……あんた、カラス?」
「……はい」
「しかも、片方しか翼がないじゃない」
「…………」
「気味が悪いねえ」
私は唇を噛んだ。
それでも、硬貨を差し出したまま答える。
「……お金なら、あります」
「だから何?」
「……パンを、一つ」
「売らないよ」
「……え?」
女は私を睨みつけた。
「あんたに売るパンなんかないよ」
「……ですが、そこに……」
私は店先に並ぶパンへ目を向けた。
その瞬間だった。
――パシンッ!
差し出していた手を、女が勢いよく叩いた。
硬貨が指先から弾かれ、石畳の上に散らばる。
乾いた音が、通りに響いた。
「何度言わせるんだい! さっさと消えな!」
私は地面に転がった硬貨を見つめた。
周囲には、何人もの通行人がいた。
だが、誰も声をかけてこない。
ちらりとこちらを見る者はいても、すぐに目を逸らして通り過ぎていく。
私はしゃがみ込み、一枚ずつ硬貨を拾った。
最後の一枚に手を伸ばした、そのときだった。
「……ちょっと、あれは酷いんじゃない?」
近くから、小さな声が聞こえた。
顔を上げると、通りに立つ獣人の女性がこちらを見ていた。
その表情には、戸惑いと怒りが浮かんでいる。
「お金を払おうとしてたのに……」
だが、隣にいた男が女性の腕を引いた。
「おい、関わるな」
「でも、あの子……」
「面倒になるぞ。行くぞ」
女性はなおも私を気にしていた。
だが、その視線が一瞬だけ、周囲へ向けられたことに私は気づいていた。
(……怖いんだな)
私を気の毒に思っているのは本当だ。
あの店主の振る舞いに怒っているのも、嘘ではない。
だが、それ以上に、自分が巻き込まれることを恐れている。
女性は何度かこちらを振り返りながら、男に連れられて通りの向こうへ消えていった。
私は最後の硬貨を拾い上げた。
(……あの女は、悪い人ではないんだろう)
少なくとも、私を気味悪がってはいなかった。
けれど。
(……それで、何が変わる?)
私の手には、硬貨がある。
目の前には、パンがある。
それでも、私は食べ物を買うことすらできない。
同情してくれたところで、腹が満たされるわけではなかった。
私は硬貨を握りしめ、立ち上がった。
「……失礼しました」
店主は返事もしなかった。
私はその場を後にした。
(……私は、何をした?)
盗もうとしたわけではない。
ただ、パンを買おうとしただけだ。
金だって、きちんと払おうとした。
それなのに。
働くことすら許されない。
金を持っていても、物を売ってもらえない。
私は、ただ普通に生きたかっただけなのに。
「……そうか」
ようやく、理解した。
群れを飛び出したとき、私は外の世界に希望を抱いていた。
同族でなければ、私を受け入れてくれる者もいるはずだと。
だが、そんなものは幻想だった。
群れの中でも。
外の世界でも。
私は、はぐれ者なのだ。
「……私の居場所は、ここにもないんだな」
誰に聞かせるでもなく、呟いた。
その言葉に返事をする者は、誰もいなかった。
***
「おい」
背後から声をかけられた。
振り返ると、そこには三人の獣人が立っていた。
犬の獣人が二人。
そして、体格のいい猪の獣人が一人。
見覚えがあった。
以前、私を痛めつけた連中だ。
「なんだよ。まだこの辺うろついてたのか」
「しぶといなあ、お前」
犬の獣人が笑う。
私は黙って連中を見つめた。
(……面倒な)
ようやく傷が塞がり始めたところだ。
ここでまた怪我をするわけにはいかない。
「……用がないなら失礼する」
横を通り抜けようとしたが、猪の獣人が道を塞いだ。
「随分と偉そうじゃねえか。片翼のくせによ」
私は返事をしなかった。
相手をすれば、余計に面倒なことになる。
そう分かっていた。
だが。
「そういやお前、こないだ誰かに助けてもらってたらしいな?」
その言葉に、足が止まった。
「……何?」
「路地裏で人間のガキに手当てしてもらってたんだろ?」
犬の獣人が、にやにやと笑っている。
「いやあ、よかったなあ。あんな出来損ないにも親切にしてくれる馬鹿がいてよ」
「…………」
「そいつも災難だよな。お前みたいな気味悪い奴に関わっちまって」
私は拳を握りしめた。
「……黙れ」
「あ?」
「その人のことを、悪く言うな」
一瞬、連中がきょとんとした。
そして、次の瞬間。
「ははははっ!」
大きな笑い声が上がった。
「何だよ! あの人だってよ!」
「お前、もしかして惚れたのか?」
「片翼のカラスが人間に恋かよ! 傑作だな!」
私は奥歯を噛みしめた。
自分が笑われることには慣れている。
罵られることにも。
だが、あの人まで馬鹿にされることだけは、我慢できなかった。
「……取り消せ」
猪の獣人が、鼻で笑った。
「嫌だと言ったら?」
私は一歩、前へ出た。
その瞬間。
「ぐっ……!」
腹部に強い衝撃が走った。
猪の獣人の拳だった。
私は身体を折り、その場に膝をつく。
「調子に乗ってんじゃねえぞ」
頭上から声が降ってくる。
「お前、自分がどんな立場か分かってんのか?」
私は地面に手をついた。
悔しかった。
言い返したかった。
殴り返したかった。
だが、身体が動かない。
一対一ですら勝てるか分からない相手が、三人もいる。
ここで逆らえば、また痛めつけられるだけだ。
連中はしばらく笑っていたが、やがて飽きたのか、その場を去っていった。
残された私は、地面に膝をついたまま動けなかった。
「……弱い」
思わず、言葉が漏れた。
弱い。
あまりにも弱い。
自分の身すら守れない。
それどころか、あの人を侮辱されても、何一つできなかった。
私は拳を地面に叩きつけた。
皮膚が擦れ、血が滲む。
それでも、悔しさは消えなかった。
「……力が、欲しい」
誰にも踏みにじられないだけの力が。
あの人を傷つけようとする者を、退けられるだけの力が。
私を見て笑わなかった者は、これまでもいた。
同情する者だって、いた。
けれど、誰も手を差し伸べなかった。
あの人だけだった。
私の片翼を見ても、何も変わらないと言ってくれたのは。
傷だらけの私に触れ、自分の食べ物まで分けてくれたのは。
あの人は、見返りなど求めていなかった。
だからこそ、私は返したい。
あの人が私にしてくれたように。
今度は、私があの人を守りたい。
「……どうすれば」
その答えは、まだ見つからなかった。
***
日が暮れた頃。
私は街の裏通りを歩いていた。
表通りに比べ、人通りは少ない。
店の看板は古び、建物の壁には落書きが目立つ。
治安が悪いことで知られる地区だった。
普段なら近づこうとも思わない場所だ。
だが、今の私には行く当てがなかった。
「……ん?」
前方から、何やら騒がしい声が聞こえてきた。
路地の先には、数人の男たちがいた。
一人の男が地面に膝をつき、その周囲を別の男たちが囲んでいる。
「頼む! もう少し待ってくれ!」
膝をついた男が、必死に頭を下げていた。
「次こそ必ず返す! だから……!」
「その話は先週も聞いたな」
低い声が響く。
声の主は、黒い上着を着た狼の獣人だった。
灰色の毛並みに、鋭い眼光。
顔には、いくつもの古傷が刻まれている。
そして。
(……耳が)
頭にあるはずの耳は、片方が途中から失われていた。
私は思わず、自分の背中へ目を向けた。
生まれつき、一枚しかない翼。
周囲から出来損ないと呼ばれ、気味悪がられてきた身体。
(……あいつも、欠けている)
だが、男は私とは違った。
傷を隠すこともなく、堂々と立っている。
周囲の者たちは、男の顔色を窺っていた。
「約束を破ったのはお前だ。違うか?」
「そ、それは……」
「違うのかと聞いている」
「……違いません」
「なら、話は早い」
狼の獣人が指を鳴らした。
すると、周囲の者たちが一斉に動いた。
膝をついていた男は、抵抗する間もなく両腕を押さえられた。
「ま、待ってくれ! 頼む!」
悲鳴のような声が響く。
「娘がいるんだ! 俺がいなくなったら、あいつは……!」
「だったら、約束を守るべきだったな」
狼は表情一つ変えなかった。
「連れていけ」
その一言で、男は引きずられていった。
「頼む! もう一度だけ! 頼むから!」
声が路地の奥へ消えていく。
狼は、その姿を見送ることすらしなかった。
(……恐ろしい連中だ)
私は物陰で身を縮めた。
そのとき、近くにいた通行人たちの会話が耳に入った。
「おい、見ろよ。あれ……」
「馬鹿、見るな。あいつら、マフィアだぞ」
「……マフィア?」
私は小さく呟いた。
名前くらいは聞いたことがあった。
街の裏側で金を動かし、暴力を振るい、時には命すら奪う者たち。
まともな人間なら関わろうとしない連中だ。
だが。
(……誰も、逆らわない)
通行人たちは、彼らを恐れている。
連れ去られた男も、必死に許しを乞うていた。
狼の獣人は、ただそこに立っているだけだ。
自分で拳を振るうこともない。
それでも、周囲の者たちは彼の命令に従っている。
そして、誰も彼の欠けた耳を笑わない。
誰も、出来損ないなどと呼ばない。
いや。
(……違う)
笑わないのではない。
笑えないのだ。
あの男には、それだけの力がある。
金。
立場。
組織。
そして、他人から向けられる恐怖。
それらすべてが、あの男の力なのだ。
(……あの狼が、一番強いのか?)
私は男の身体を観察した。
確かに、体格はいい。
顔の傷を見れば、幾度も争いを経験してきたのだろう。
だが、周囲にはあの男より大柄な獣人もいた。
それなのに、誰も逆らわない。
(……腕力だけじゃない)
あの男が命令すれば、周囲の者たちが動く。
自ら手を下さずとも、相手を屈服させられる。
(……そういう強さも、あるのか)
私は自分の片翼に目を向けた。
生まれつき、飛ぶことができない。
腕力もない。
金もない。
頼れる仲間もいない。
今の私には、何もない。
だが。
(……頭なら、ある)
他人の表情を読むこと。
嘘を見抜くこと。
相手の隠し事を見つけること。
それなら、昔から得意だった。
いや。
生き残るために、身につけざるを得なかった。
群れの中では、誰が私を嫌っているのか。
誰が私を騙そうとしているのか。
誰の言葉を信じてはいけないのか。
それを見誤れば、酷い目に遭った。
だから私は、相手を観察することを覚えた。
声の震え。
視線の動き。
言葉と表情の食い違い。
そうした小さな違和感から、相手の本心を探る。
私にとって、それは生き残るための手段だった。
(……もし、この力を使えば)
私は再び、狼の獣人を見つめた。
あの世界でなら、私にもできることがあるのではないか。
そう考えた瞬間、胸の奥で何かが動いた。
だが、すぐに別の考えが浮かんだ。
(……馬鹿な)
マフィアだぞ。
まともな連中ではない。
人を騙し、脅し、時には殺す。
先ほど連れていかれた男が、どうなるのかも分からない。
そんな世界に足を踏み入れれば、もう後戻りはできないかもしれない。
それくらいは、私にも分かる。
私はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
やがて、狼たちが立ち去っていく。
私は彼らの背中を見送りながら、ゆっくりと息を吐いた。
「……後戻り、か」
思わず、笑いが漏れた。
戻る場所など、最初からないではないか。
群れには居場所がなかった。
外の世界にも、居場所はなかった。
まともに働こうとしても、片翼を理由に追い返される。
ならば。
なぜ、まともな道にこだわる必要がある?
私は懐に手を入れた。
指先に、柔らかな布の感触が触れる。
あの日のハンカチだ。
そっと取り出し、手のひらに広げる。
洗っても消えなかった、小さな血の染み。
それを見ていると、少年の笑顔が浮かんできた。
『翼が一枚だからって、何か変わるの?』
あの言葉。
あの笑顔。
そして、あの優しい嘘。
私は目を閉じた。
もし、あの人がまた誰かに傷つけられていたら。
もし、私がそれを知ったとして。
今の私に、何ができる?
きっと、何もできない。
あの人を傷つけた相手を睨みつけることしか。
悔しさに拳を握ることしか。
できないのだろう。
「……嫌だ」
そんなのは、もう嫌だった。
私は何度も奪われてきた。
尊厳も。
居場所も。
明日への希望さえも。
だが、あの人だけは違う。
あの人がくれた温もりだけは、誰にも踏みにじらせたくなかった。
「……強く、ならなければ」
私はハンカチを握りしめた。
正しい道を歩いて、強くなれるのなら。
それが一番いいのだろう。
だが、この世界は私にその道を与えてはくれなかった。
ならば、別の道を選ぶしかない。
たとえ、その先が暗闇であろうとも。
血と欲望に塗れた世界であろうとも。
構わない。
私が欲しいのは、誰かに認められることではない。
群れに戻ることでもない。
ただ、あの人を守れるだけの力。
それだけだ。
「……決めた」
私はハンカチを丁寧に畳み、懐へしまった。
そして、先ほどの男たちが消えていった方角へ目を向ける。
あの連中が、どこにいるのか。
どうすれば近づけるのか。
まだ何も知らない。
だが、調べればいい。
探せばいい。
門が閉ざされているのなら、開かせればいい。
私には翼が一枚しかない。
空を飛ぶことはできない。
だが、足はある。
頭もある。
そして、何より。
決して忘れられない恩がある。
「……待っていてください」
誰もいない路地で、私は小さく呟いた。
いつか、必ずあなたを見つける。
そのときは、もう守られるだけの私ではいたくない。
今度こそ、私があなたを守る。
私は路地の奥へ目を向けた。
誰もが恐れ、目を背ける世界。
そこへ、自らの意志で踏み込んでいく。
「……この片翼で、必ず這い上がってみせる」