第三話 裏社会の門
翌朝、私は再びあの裏通りを訪れていた。
昨日、片耳の狼を見かけた場所だ。
古びた雑居ビルが立ち並び、壁には色褪せた落書きが残っている。昨夜は不規則に明滅していたネオン看板も、今は灯りを消していた。
通りには配送用のトラックが停まり、作業着姿の男たちが忙しなく荷物を運んでいる。
昼間の街は、昨夜とはまるで別の顔をしていた。
「……ここだったな」
私は足元のアスファルトに目を落とした。
昨日、男が膝をついていた場所。
そして、黒塗りの車が停まっていた場所。
当然ながら、そこにはもう誰もいない。
(……まずは、居場所を探さなければ)
灰色の毛並み。傷だらけの顔。そして、途中から失われた片方の耳。
あれほど特徴的な姿なら、見たことのある者もいるはずだ。
問題は、教えてもらえるかどうかだった。
私にはスマートフォンもなければ、頼れる知り合いもいない。持っているのは、わずかな金と自分の足だけだ。
「……やるしかないか」
私は通りへ歩き出した。
***
最初に訪れたのは、裏通りに面した小さな飲食店だった。
店内には数人の客が座り、壁に掛けられたテレビからニュースが流れている。
私はカウンターの奥にいる店主へ声をかけた。
「……すみません。少し、お尋ねしたいことがあるのですが」
「ん? 何だ?」
中年の男が顔を上げる。
だが、その視線はすぐに私の背中へと向けられた。
片翼を見た瞬間、男の眉間に皺が寄る。
「……何だ、お前」
いつもの反応だった。
私は表情を変えずに続ける。
「人を探しているんです。昨日、この辺りで片耳のない狼の獣人を見かけたのですが、その人がどこにいるか、ご存じありませんか?」
その瞬間だった。
男の手が止まった。
カウンターを拭いていた布巾が、同じ場所で動かなくなる。
ほんの一瞬。
だが、私には十分だった。
「……知らねえな」
男はそう答え、再びカウンターを拭き始めた。
先ほどよりも、少しだけ乱暴な手つきで。
(……何か知っている)
もちろん、手が止まったというだけで嘘だと決めつけることはできない。
だが、男は私の質問を聞いた途端、明らかに態度を変えた。
そして今は、こちらを見ようともしない。
「黒いスーツを着ていて、車には何人か……」
「知らねえって言ってんだろ」
男の声が低くなった。
近くに座っていた客が、ちらりとこちらを見る。
私はそれ以上、尋ねなかった。
(……ここで問い詰めても、何も得られない)
相手が警戒している以上、無理に聞き出そうとすれば、かえって口を閉ざすだけだ。
「……失礼しました」
私は頭を下げ、店を出た。
それからも、何軒かの店を回った。
しかし、結果は似たようなものだった。
「知らないね」
「そういう話はよそでしてくれ」
「悪いけど、うちは関係ないから」
ある者は露骨に嫌な顔をし、ある者は私の背中を見るなり会話を打ち切った。
中には、片耳の狼の話をした途端、店の奥へ引っ込んでしまう者までいた。
(……やはり、簡単には教えてくれないか)
全員が知っているとは限らない。
だが、少なくとも何人かは、あの狼について心当たりがあるようだった。
そして、もう一つ。
(……この翼も、邪魔になっている)
私は近くの店のガラスに映った自分の姿を見つめた。
黒い髪。黒い瞳。
そして、背中に生えた、たった一枚の翼。
人々の視線は、まずそこへ向けられる。
話を聞いてもらう前に、気味悪がられる。
昨日と同じだった。
(……隠せば、少しは変わるのか)
その考えが浮かんだ瞬間、胸の奥に不快なものが込み上げた。
翼を隠す。
それは、私を蔑んできた連中の言い分を認めることではないか。
この翼は恥ずべきものだと。
人前に晒してはいけないものだと。
自分自身で認めることになるのではないか。
「……ふざけるな」
私は小さく吐き捨てた。
この翼は、私の身体の一部だ。
誰に何と言われようと、それだけは変わらない。
それに、あの人は言ってくれた。
『翼が一枚だからって、何か変わるの?』
あの人は私の翼を見ても、気味悪がらなかった。
笑いもしなかった。
あの人が否定しなかったものを、なぜ私が否定しなければならない?
だが、このままでは何も聞き出せない。
ここで意地を張り続ければ、力を手に入れるための道も開けない。
私はしばらく考えた末、着ていた大きめの上着を脱いだ。
翼を身体に沿わせるように畳み、再び上着を羽織る。
背中に布が触れた。
窮屈だった。
まるで、自分自身を無理やり押し込めているようだった。
「……今だけだ」
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。
これは、恥じているからではない。
目的を果たすために、必要だから隠すのだ。
いつか、誰の前でも堂々とこの翼を広げてやる。
誰にも笑われず、誰にも見下されず、誰にも隠せと言われないほどの力を手に入れて。
そのためなら、今はこの屈辱さえ利用してやる。
***
次に訪れたのは、裏通りの外れにある小さな食堂だった。
昼時を過ぎた店内には客がおらず、カウンターの奥では年配の男がテレビを眺めていた。
「……すみません」
「ん? 何だい」
男が顔を上げる。
私の姿を見ても、特に嫌な顔はしなかった。
(……翼が見えていないから、か)
背中の窮屈さを意識しながら、私は口を開いた。
「……人を探しているんです」
「人?」
「はい。片耳のない狼の獣人です。以前、父がお世話になったそうで、お礼を伝えたいんです」
もちろん、嘘だ。
私に父と呼べる存在などいない。
だが、相手に警戒されないためには、もっともらしい理由が必要だった。
「……そうかい」
男は曖昧に頷いた。
「黒い車に乗っていると聞いたんですが、何かご存じありませんか?」
「さあねえ。そういう人は、この辺りにも結構いるからな」
男はそう答え、テレビへ視線を戻した。
私はその横顔を観察した。
先ほどの店主とは違う。
声が強張ることもなければ、露骨に会話を打ち切ろうとする様子もない。
(……本当に知らないのか?)
いや、まだ分からない。
私は少しだけ質問を変えることにした。
「そうですか。父からは、近くの事務所に行けば会えるかもしれないと聞いたのですが……」
「事務所?」
男の眉がわずかに動いた。
「……ああ、いや。そんな話は知らないね」
「そうですか」
私は残念そうに肩を落とした。
そして、何気ない調子で続ける。
「では、駅の向こう側でしょうか。あちらにも大きなビルがあると聞いたので」
「……そっちには行かない方がいい」
男は反射的に答えた。
その直後、口を閉ざす。
「……いや、今のは忘れてくれ」
(……なるほど)
私は表情を変えなかった。
男が何を知っているのかは分からない。
ただ、少なくとも駅の向こう側には、私が探している相手と関わりのある何かが存在するのかもしれない。
「……分かりました。ありがとうございました」
私は頭を下げ、店を出た。
外へ出ると、道路を走る車の音が耳に入ってきた。
(……駅の向こう側、か)
まだ確証はない。
だが、何も手がかりがないよりはましだ。
私は歩き出した。
***
駅を越えた先には、古い雑居ビルが密集する地区が広がっていた。
表通りには飲食店や小さな会社が並んでいるが、一本裏へ入ると雰囲気が変わる。
昼間だというのに薄暗い路地。
シャッターの下りた店舗。
壁に貼られた、色褪せた広告。
私は周囲を観察しながら歩いた。
(……どこだ?)
当然ながら、マフィアの事務所などと書かれた看板があるはずもない。
かといって、手当たり次第に建物へ入るわけにもいかなかった。
私は通りを何度か往復し、建物の様子を確かめた。
すると、一つ気になる場所があった。
六階建ての雑居ビル。
周囲の建物と比べ、外壁はきれいに手入れされている。
一階には飲食店が入っているが、上の階には目立った会社名が表示されていない。
それ自体は、珍しいことではなかった。
だが。
(……車が多いな)
建物の前には、黒塗りの高級車が二台停まっていた。
さらに、入り口にはスーツ姿の男が一人立っている。
ただの警備員かもしれない。
そう考えながら、私は少し離れた場所で様子を窺った。
数分後。
買い物袋を持った女性が、建物の前を通りかかった。
女性は入り口の男を見るなり、わずかに歩調を速めた。
その後ろを歩いていた会社員らしき男も、建物へ視線を向けかけて、すぐに顔を逸らす。
(……妙だな)
一人や二人なら、偶然かもしれない。
だが、その後も似たような反応をする者が続いた。
近くの店員も、入り口の男とは目を合わせようとしない。
まるで、そこに何があるのかを知っているかのように。
(……少なくとも、普通の事務所ではなさそうだ)
私はさらに観察を続けた。
入り口の男は、建物へ入る者を誰でも通しているわけではなかった。
スーツ姿の男が近づくと、短く言葉を交わして中へ通す。
一方、配達員らしき男が訪れた際には、入り口で荷物を受け取り、建物の中へは入れなかった。
(……出入りする人間を選んでいる)
それだけでマフィアの事務所と断定することはできない。
だが、気になる点が多すぎた。
そのときだった。
低いエンジン音が近づいてきた。
通りの向こうから、一台の黒い車がゆっくりと走ってくる。
私は歩道の端へ寄り、その行方を目で追った。
車は、例の六階建てのビルの前で停まった。
後部座席のドアが開く。
降りてきたのは、黒いスーツを着た男だった。
片耳の狼ではない。
だが、その顔には見覚えがあった。
(……昨日の男だ)
間違いない。
昨日、借金を返せない男を車へ押し込んでいた構成員の一人だった。
男は周囲を軽く見回すと、入り口へ向かった。
警備をしていた男が姿勢を正す。
二人は短く言葉を交わし、そのまま建物の中へ消えていった。
私は小さく息を吐いた。
(……ここか)
ようやく、確かな手がかりを掴んだ。
昨日見た男たちは、ほんの一部にすぎなかったのだろう。
あの狼の背後には、もっと大きな組織がある。
その規模も、どれほどの力を持っているのかも、今の私には分からない。
だが、少なくとも一つだけ確かなことがあった。
(……見つけた)
私は建物を見上げた。
***
建物の入り口には、防犯カメラが設置されていた。
その下には、黒いスーツ姿の男が二人。
一人は入り口の横に立ち、もう一人はスマートフォンを操作している。
どう見ても、気軽に立ち寄れる場所ではない。
私は建物へ向かおうとして、足を止めた。
背中に、上着の布が触れる。
「…………」
私はゆっくりと上着を脱いだ。
押さえつけられていた翼が、外気に触れる。
黒い羽が、夕暮れの風に小さく揺れた。
情報を集めるために、私は翼を隠した。
嘘もついた。
自分の誇りを押し殺してまで、ここへ辿り着いた。
だが、これから先まで隠すつもりはない。
私は片翼のカラスだ。
それを恥じるつもりなど、最初からなかった。
(……どうせ、いずれ知られる)
仮に翼を隠したまま中へ入れたとしても、いつかは見つかる。
そのとき、また出来損ないと呼ばれるかもしれない。
だが、それなら最初から見せておけばいい。
私がどんな姿をしているのか。
そのうえで、何ができるのか。
それを認めさせればいい。
「……行くか」
私は上着を腕に抱え、建物の入り口へ向かって歩き出した。
歓迎などされないだろう。
また笑われるかもしれない。
殴られるかもしれない。
それでも、足を止めるつもりはなかった。
あの人を守れるだけの力が欲しい。
そのために、私はここまで来たのだから。
建物の入り口に立つ男たちが、こちらに気づいた。
二人の視線が、近づいてくる私へ向けられる。
そして、その目が私の片翼を捉えた。
一人の男が眉をひそめる。
「……何だ、お前?」
私は立ち止まり、男たちを真っ直ぐに見つめた。
「……話があります」
「話?」
「はい」
私は一度だけ深く息を吸った。
そして、告げた。
「……ここで、働かせてください」
男たちは一瞬、顔を見合わせた。
次の瞬間、片方の男が吹き出した。
「……おいおい、聞いたか?」
「ああ。面白い冗談だな」
二人の視線が、私の片翼へ向けられる。
「お嬢ちゃん。ここがどういう場所か、分かって言ってんのか?」
私は目を逸らさなかった。
「……分かっています」
「へえ?」
男が口元を歪める。
「じゃあ、言ってみろよ。ここが何の会社か」
私は男の目を見つめた。
わざわざ会社という言葉を使ったのは、私が何も知らずに来たと思っているからだろう。
ここで曖昧に答えれば、追い返される。
だから、私ははっきりと告げた。
「……マフィアの事務所、ですよね」
男たちの笑みが消えた。
先ほどまでの軽い雰囲気が、一瞬で変わる。
「……お前、どこでそれを聞いた?」
声が低くなった。
私はその変化を見逃さなかった。
少なくとも、彼らは私の言葉を冗談として聞き流さなかった。
だが、それが正解だったという保証はない。
ここで余計なことを話せば、かえって危険になる。
「……それは、言えません」
「何?」
「ですが、私は本気です」
私は一歩も退かなかった。
「ここで働きたいんです」
男の一人が、舌打ちした。
「……面倒なガキが来やがったな」
私は黙っていた。
ここが、私の選んだ道だ。
たとえその先に何が待っていようとも、もう引き返すつもりはない。
片翼のカラスは、自らの意志で裏社会の門を叩いた。