「……面倒なガキが来やがったな」
男の一人が、苛立たしげに舌打ちした。
私は黙って二人を見つめていた。ここまで来るのに、どれだけ歩き回ったことか。今さら追い返されるわけにはいかない。
「おい、聞いてんのか? ここはガキの遊び場じゃねえんだよ。さっさと帰れ」
「……帰りません」
「はあ?」
「私は、ここで働きたいんです」
男は呆れたようにため息をつき、隣に立つ仲間へ顔を向けた。
「どうするよ、こいつ」
「放っとけ。どうせそのうち帰るだろ」
二人は私を無視して、元の位置へ戻ろうとした。
(……駄目だ。このままでは、話すら聞いてもらえない)
彼らにとって、私は突然現れた身元不明の少女にすぎない。それも、組織の存在を知っている不審者だ。何の価値も示せなければ、相手にされないのは当然だった。
「……私には、人の嘘を見抜く力があります」
男たちの足が止まった。
「……あ?」
「相手の表情や声、仕草を観察すれば、隠し事をしているかどうか、ある程度は分かります」
一瞬の沈黙の後、男たちは顔を見合わせて笑い出した。
「ははっ! 何だそりゃ。占い師にでもなるつもりか?」
「嘘を見抜く、ねえ。じゃあ俺が今、何を考えてるか当ててみろよ」
「……それは分かりません」
「はあ?」
「人の心が読めるわけではありません。言葉や行動に不自然なところがあれば、そこから考えるんです」
「なんだよ、つまんねえな。そんなこと、誰だってできるだろ」
(……確かに、そう思われても仕方がない)
私は唇を噛んだ。実際、私にできるのは観察して考えることだけだ。何も知らない相手の秘密を、見ただけで言い当てられるわけではない。
それでも、何かを証明しなければならない。
私は改めて、男たちの様子を観察した。
先ほどから、一人の男が何度も建物の中へ視線を向けている。もう一人も、私と話しながら時折、その男の顔色を窺っていた。
(……何か、気にしている?)
ただ、建物の入り口を警備しているのだから、中の様子を気にするのは当然かもしれない。私という不審者が現れた以上、仲間の反応を確認することも不自然ではない。
それでも、男たちの態度にはどこか落ち着きのなさがあった。先ほどまでの嘲笑とは違う。何かを警戒しているような、あるいは恐れているような。
確証などない。だが、このまま黙っていても追い返されるだけだ。
「……あなたは、先ほどから何度も建物の中を気にしていますね」
「……あ?」
男の眉が動いた。
「それに、隣の方も私よりあなたの様子を気にしている。何か、知られたくないことがあるんじゃないですか?」
男たちの笑みが消えた。
「……お前、何を知ってやがる?」
声が低くなる。
(……反応した)
私はわずかに希望を抱いた。少なくとも、先ほどまでのように笑い飛ばされることはなくなった。
だが、それは大きな勘違いだった。
「……詳しいことは分かりません。でも、何かを隠しているように見えます」
「誰に聞いた?」
「……誰にも」
「ふざけんな」
男が一歩近づいた。その表情には、先ほどまでの嘲笑はなかった。
「お前、どこの差し金だ?」
「……違います。私はただ、ここで働きたくて……」
「だったら、何でそんなことを知ってる?」
「だから、私は……!」
男の手が伸び、私の腕を掴んだ。
「っ……!」
思わず顔をしかめる。振りほどこうとしたが、力の差は歴然だった。
「正直に言え。誰に頼まれて来た?」
(……まずい)
ようやく、私は自分が失敗したことに気づいた。相手の反応を見ようとしただけだった。自分の観察力を証明できれば、話を聞いてもらえると思っていた。
だが、男たちは私を信用するどころか、さらに警戒している。
(……私は、何をしているんだ)
せっかく気づいたことを、何の考えもなく相手に教えてしまった。その結果が、これだ。
私は痛む腕を押さえようとした。だが、男の手は離れない。
「……何の騒ぎだ?」
そのとき、建物の奥から低い声が響いた。
「……あ、兄貴!」
二人の構成員が、一斉に姿勢を正した。
建物の入り口から現れたのは、灰色の毛並みをした狼の獣人だった。顔にはいくつもの傷が走り、片方の耳は途中から失われている。
黒いスーツを着たその男は、こちらへゆっくりと歩いてきた。その背後には、もう一人の構成員が控えている。どうやら、入り口での騒ぎを報告していたらしい。
(……あいつだ)
昨日、裏通りで見かけた男。借金を返せない獣人を、部下たちに連れていかせた人物だ。
私は思わず息を呑んだ。
狼は私を一瞥すると、腕を掴んでいる男へ視線を向けた。
「……説明しろ」
「それが、このガキが突然やって来て、ここで働かせろって言い出しまして……」
「ほう」
「しかも、うちのことを知ってやがるんです。どこの差し金か問い詰めていたところで……」
狼は私へ視線を戻した。鋭い目だった。だが、私の翼を見ても、眉一つ動かさなかった。
「……お前、名前は?」
「……クロウです」
「クロウ、か。誰にここを教えられた?」
「……誰にも。自分で探しました」
「どうやって?」
私は昨日の出来事から順番に説明した。
片耳の狼を目撃したこと。今日になって周辺の店で聞き込みをしたこと。そして、建物の前を通る人々の反応や、出入りする車を観察していたこと。
最後に、昨日見かけた構成員がこの建物へ入っていく姿を確認したことも話した。
狼は口を挟まず、黙って聞いていた。
「……なるほどな」
話し終えると、狼は小さく息を吐いた。
「お前、随分と物好きだな。普通は俺たちを見たら、近づこうなんざ思わねえ」
「……私は、ここで働きたいんです」
「理由は?」
私は少しだけ迷った。あの人のことを話すべきだろうか。
だが、名前も知らない少年のためにマフィアへ入りたいなどと言って、信じてもらえるとは思えなかった。
「……強くなりたいからです」
「強く?」
「はい。誰にも、見下されないくらいに」
狼の視線が、私の片翼へ向けられた。
「……なるほど。そういうことか」
私は身構えた。また、出来損ないと呼ばれるのだろうか。
だが、狼の口から出たのは、予想とは違う言葉だった。
「翼が一枚だろうが、二枚だろうが、俺には関係ねえ」
「……え?」
「使えるか、使えねえか。それだけだ」
私は言葉を失った。
あの人も、私の翼を気にしなかった。けれど、目の前の男の言葉は、あの人のものとはまるで違っていた。
あの人は、私自身を見てくれた。
この狼は、私に利用価値があるかどうかを見ている。
(……それでいい)
私はここへ、優しさを求めに来たわけではない。力を手に入れるために来たのだから。
「……私には、人の嘘を見抜く力があります」
狼が片方の眉を上げた。
「ほう?」
「相手の表情や仕草、言葉の矛盾を観察すれば、隠し事をしているかどうか、ある程度は判断できます」
「……で、そいつを証明しようとして、うちの連中を怒らせたわけか」
私は目を見開いた。
狼は私の腕を掴んでいる男へ視線を向けた。
「おい。離してやれ」
「し、しかし兄貴……」
「二度言わせんな」
男は慌てて手を離した。私は痛む腕を押さえながら、狼を見上げた。
「……お前、あいつが何か隠していると思ったんだな?」
「はい。私が話しかけてから、何度も建物の中を確認していました。それに、もう一人の方も……」
「で、それを本人に教えたわけか」
「……私が役に立つと、証明したかったので」
狼は呆れたように息を吐いた。
「頭は回るようだな。だが、使い方が下手くそだ」
「……どういう意味ですか」
「相手の弱みを見つけたからって、馬鹿正直に教えてどうする。お前が何を知っているか、相手に知らせただけじゃねえか」
「…………」
「それに、お前の推測が正しいとは限らねえ。たまたま中を見ていただけかもしれねえだろ」
私は言葉に詰まった。
確かに、その可能性は考えていた。それなのに、証明しようと焦るあまり、確かめもしないまま口にしてしまった。
「お前が本当に何か掴んでいたとしても、相手に知られた時点で警戒される。証拠を隠されるかもしれねえし、口を塞がれるかもしれねえ」
私は思わず、先ほど腕を掴まれた場所に目を落とした。
「……では、どうすればよかったんですか?」
「まず黙ってろ。相手が何を隠しているのか、確かめるまではな。知らねえふりをしていりゃ、向こうから尻尾を出すことだってある」
狼は私を見下ろした。
「頭がいいことと、頭を使えることは別だ。覚えとけ」
「……はい」
私は小さく頷いた。
相手の秘密に気づくことと、それを利用することは違う。知っていると告げた瞬間、相手は警戒する。場合によっては、こちらを排除しようとするかもしれない。
(……見抜くだけでは、駄目なのか)
私は今まで、相手の嘘や隠し事に気づくことばかり考えていた。だが、それを知った後にどうするべきなのかまでは、考えていなかった。
目の前の狼は、私よりもずっと多くのことを知っている。
(……ここでなら、学べるかもしれない)
私は改めて狼を見つめた。
「……お願いします。ここで働かせてください」
狼はしばらく私を見下ろしていた。やがて、口元に薄い笑みを浮かべる。
「……お前、本当にここがどういう場所か分かってんのか?」
「はい」
「人を脅すこともある。金を奪うこともある。場合によっちゃ、誰かを傷つけることだってある」
「……分かっています」
「いや、分かってねえな」
狼は即座に言い切った。
「お前は、昨日うちの連中を見ただけだろ。実際に何をするのか、何も知らねえはずだ」
私は言い返せなかった。
確かに、その通りだった。昨日、目にしたのは、借金を返せない男が連れていかれる光景だけだ。
その先で何が起きたのかも、この組織がどんな仕事をしているのかも、私は知らない。
「……それでも、知りたいんです」
「ほう?」
「何も知らないからこそ、ここで学びたいんです」
狼は私をじっと見つめた。その視線から、何を考えているのかは読み取れなかった。
やがて、狼は隣の構成員へ声をかけた。
「おい。明日の予定は?」
「へい。午前中に取り立てが一件あります。例の、支払いを渋ってる獣人のところです」
「そうか」
狼は再び私へ向き直った。
「クロウ、と言ったな」
「……はい」
「お前を信用したわけじゃねえ。どこの馬の骨とも分からねえガキを、いきなり組織に入れるつもりもない」
私は黙って聞いていた。
「だが、少なくとも自分の足でここまで辿り着いた。それに、失敗した理由を考える頭もあるようだ」
狼は薄く笑った。
「使える可能性があるなら、試す価値くらいはある」
「……それは」
「明日、うちの連中についていけ」
狼は淡々と告げた。
「取り立てだ。相手が金を隠してねえか、お前の目で確かめてみろ」
「……私が、ですか?」
「ああ。お前は人の嘘を見抜けるんだろ?」
私は思わず息を呑んだ。
初めて、自分の能力を試す機会が与えられた。
「ただし、勘違いするなよ」
狼の声が低くなる。
「これは採用じゃねえ。試験だ。使えねえと分かれば、そこで終わりだ」
「……分かりました」
「それと、勝手な真似はするな。明日は部下の指示に従え」
「……はい」
「お前が何かを見抜いたとしても、勝手に相手を問い詰めるなよ。今日みたいな真似をすれば、取り立てが失敗するだけじゃ済まねえかもしれねえ」
私は腕に残る痛みを思い出した。
「……肝に銘じます」
狼はそれ以上何も言わず、建物へ戻ろうとした。
私は慌てて声をかける。
「……あの!」
狼が足を止めた。
「何だ?」
「……ありがとうございます」
狼は振り返らなかった。
「礼なら、役に立ってから言え」
そう言い残し、建物の中へ消えていった。
私はしばらく、その背中を見つめていた。
ようやく、ここまで来た。
まだ組織の一員になれたわけではない。明日の仕事で失敗すれば、すべてが終わるかもしれない。
それでも、何もできずに追い返されるよりはずっといい。
私は腕に抱えていた上着を握り直した。
(……必ず、認めさせてみせる)
あの人を守れるだけの力を手に入れる。そのために、私はこの場所を選んだ。
明日、初めて裏社会の仕事を目にすることになる。それがどんなものなのか、今の私にはまだ分からない。
ただ、私はまだ気づいていなかった。
明日の試験で問われるのは、嘘を見抜く力だけではない。
その嘘の向こうにあるものを知ったとき、何を選ぶのか。
それこそが、この世界で生きていくために必要なことなのだと。