「クロウ、今回は試験にしちゃよくやったな」
帰りの車内で、運転席の男が上機嫌に口を開いた。
「最初にあの女に騙されたときは、使えねえやつだと思ったが……まさか、逆に相手から情報を引き出すとはな」
男は愉快そうに笑った。
「しかも、出てきたのが他所の組織との取引記録だ。こいつは思わぬ収穫だぜ。この件は、しっかり上に伝えておいてやる」
「……ありがとうございます」
私は小さく頭を下げた。
男が上機嫌なのも当然だった。ただの借金の取り立てが、組織の情報漏洩を発見するという成果に変わったのだ。回収するはずだった金も確保できたうえに、組織にとって有益な情報まで手に入った。
だが、私の心は少しも穏やかではなかった。
(……今回は、運がよかっただけだ)
あの女性が、たまたま組織の情報を売っていたからよかった。もし金庫の中身が本当に夫の遺産で、棚のメモもただの家計簿だったなら、私は何の成果も上げられなかっただろう。
私は窓の外へ目を向けた。
先ほどの女性が、脳裏に浮かぶ。床に膝をつき、子供を抱き締めながら、必死に助けを求めていた姿。
あの人は、自分と子供を守るために私を利用しようとした。そして私は、自分の立場を守るために、あの人を利用した。
結果として、私はここにいる。
けれど、もし役に立つ情報を見つけられなかったら。今度は私が、誰かに見捨てられる側になっていたのかもしれない。
(……次は、ない)
今回の成功を、自分の実力だと思ってはいけない。偶然に救われただけの者が、次も同じように救われる保証などないのだから。
私は膝の上で、そっと拳を握った。
(……もっと、考えなければ)
相手の言葉だけではなく、その行動も、周囲の状況も。何が本当で、何が嘘なのか。そして、得られた情報をどう使えば、自分の利益につながるのか。
すべてを考えなければならない。
私は、もう二度と利用される側には戻りたくなかった。
***
建物へ戻ると、男は私を連れて奥の部屋へ向かった。
扉を開けると、昨日の片耳の狼が机の向こうに座っていた。灰色の毛並み、顔に刻まれた無数の傷、そして途中から失われた片方の耳。
狼は書類から顔を上げ、私たちを見た。
「……戻ったか」
「へい。取り立ては予定どおり済ませました。それと、少々面白いものが見つかりまして」
男は懐から手帳を取り出し、机の上に置いた。
狼はそれを手に取り、無言でページをめくった。最初は何の反応も示さなかったが、あるページで指が止まる。
「……こいつは、どこで手に入れた?」
「取り立て先の女が持っていました。どうやら、うちの車の出入りや構成員の動きを、他所へ流していたようです」
狼の目が細くなった。
「……相手は?」
「手帳に名前が残っています。まだ裏は取れてませんが、金の受け渡しも記録されてます」
「そうか」
狼は手帳を閉じた。
「すぐに記録を照合しろ。ここに書かれた連中の動きも確認する。情報が漏れていた前提で、予定を見直せ」
「へい」
「それと、女の話だけを鵜呑みにするな。誰に何を渡したのか、別口でも確かめろ」
「分かりました」
男が頭を下げる。
狼はしばらく手帳を見つめていたが、やがて私へ視線を向けた。
「……さて、クロウ」
「……はい」
「話は聞いた。試験は及第点だ」
私は思わず顔を上げた。
「……本当ですか?」
「ああ。相手の隠し事に気づき、それを利用して情報を引き出した。その点は評価してやる」
狼は椅子の背もたれに身体を預けた。
「観察力も、相手を利用する手腕も、悪くはねえ。だがな、それくらいのことは経験を積めばできるやつもいる」
「…………」
「それに、お前が売り込んできたのは、人の嘘を見抜く力だったはずだ」
狼の目が鋭くなる。
「その肝心の能力は、同情したせいで役に立たなかったみてえだな」
「……はい」
私は視線を落とした。
言い訳のしようがなかった。あの女性の言葉を信じたのは、私自身だ。相手の事情に同情し、確かめるべきことを確かめなかった。
「……私の判断が甘かったです」
「だろうな」
狼はあっさりと答えた。
「だが、今回の手帳には値打ちがある。これがなけりゃ、うちの動きが他所に筒抜けになっていることにも気づかなかったかもしれねえ」
狼は机の上の手帳を指で叩いた。
「襲撃される前に対策を打てるなら、それだけでも十分な利益だ」
「……はい」
「つまり、お前は試験で失敗したが、それ以上の成果を持ち帰った。だから、及第点だ」
狼はそこで言葉を切った。
私は黙って、その続きを待った。
彼の視線が、私の顔から細い腕へ、そして背中の片翼へと移る。そこに嘲笑はなかった。憐れみも、同情もない。
ただ、何かの価値を確かめるような目だった。
(……値踏みされている)
私はそう感じた。
このまま私を組織に置けば、どれほどの利益を生むのか。逆に、何も知らない少女を抱え込むことで、どれほどの危険を招くのか。
目の前の狼は、きっとその両方を考えている。
私の覚悟も、苦労も、ここまで来た理由も。この男にとっては、判断材料の一つにすぎないのだろう。
やがて、狼が口を開いた。
「……多少は、使えそうだな」
その言葉に、私は息を止めた。
だが、狼はまだ笑わなかった。
「だが、今回の件ではっきりしたこともある。お前の能力は、決して完璧じゃねえってことだ」
「……はい」
「どれだけ人を観察できようが、生き物である以上、感情には左右される。相手に同情すれば、普段なら気づけることも見落とす。ま、その辺りはお前が一番痛感してるだろうがな」
私は黙って頷いた。
あの女性の境遇に自分を重ね、言葉を信じたいと思ってしまった。その結果、目の前にあった嘘を見抜けなかったのだ。
最後には情報を引き出せたものの、それも偶然に助けられた部分が大きい。
狼は机の上に置かれた手帳へ目を落とし、しばらく考え込んでいた。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「……俺の判断は保留だ」
「……保留、ですか?」
「ああ。今回の一件だけじゃ、お前の能力が本当に使い物になるのか判断できねえ」
狼は机の上で指を組んだ。
「そこでだ。一か月だけ、うちで働かせてやる」
思いがけない言葉に、私は顔を上げた。
「……本当ですか?」
「喜ぶのはまだ早え」
狼の低い声に、私は思わず口を閉じた。
「その一か月は、うちの連中について仕事をしろ。そこで成果を上げられりゃ、お前の能力には価値があると認めてやる。組織の利益になると判断できれば、正式に迎え入れてやってもいい」
「……一か月、ですか」
「ああ。長いようで短えぞ」
狼は私を真っ直ぐに見据えた。
「だが、期間内に成果を上げられねえ役立たずや、こちらに損失を与えるような無能なら、不採用だ」
「……分かりました」
私は小さく頷いた。
役に立たなければ追い返される。それは、最初から覚悟していたことだった。
しかし、狼の次の言葉が、その考えを打ち砕いた。
「もっとも、不採用になったからって、ただ帰してやるわけじゃねえがな」
「……え?」
「お前はもう、うちの仕事を見た。それに、今日見つかった情報漏洩の件まで知っている」
狼は淡々と続けた。
「今、うちは内部の情報が外へ流れてるかもしれねえ状況だ。そんなときに、素性も知れねえやつを自由に帰すと思うか?」
背筋に冷たいものが走った。
「……それは」
「使えるなら置く。使えねえなら消す。それだけだ」
私は息を呑んだ。
その声には、怒りも脅しも感じられなかった。ただ、当然の決まりを説明しているような口調だった。
「……消す、ということですか?」
「他にどう聞こえた?」
狼の表情は変わらない。
冗談ではないのだと、すぐに理解できた。
この男にとって、私はまだ組織の一員ですらない。使えるなら残し、使えないなら消す。ただ、それだけの存在なのだ。
(……そういうことか)
昨日、狼は私に言った。
『翼が一枚だろうが、二枚だろうが、俺には関係ねえ。使えるか、使えねえか。それだけだ』
あの言葉の意味を、ようやく理解した気がした。
この男は、私を片翼だからと見下したりはしない。けれど、同情して助けてくれることもない。
ここでは、誰も私を守ってはくれないのだ。
私は膝の上で拳を握り締めた。
怖かった。
失敗すれば、死ぬ。
それは今まで経験してきた拒絶や嘲笑とは、比べものにならないほど重いものだった。
(……逃げるなら、今しかない)
そんな考えが頭をよぎった。
けれど、すぐに気づく。
ここまで来て、逃げられる保証などどこにもない。目の前の狼が、逃げようとする私を黙って見逃すとも思えなかった。
それに、たとえ逃げられたとしても。
私はまた、何もできない片翼のカラスに戻るだけだ。
(……それだけは、嫌だ)
私はここへ来た理由を思い出した。
あの日、傷だらけの私に手を差し伸べてくれた少年。自分も空腹だったはずなのに、食べ物を分けてくれた人。
『じゃあ、またね』
あの何気ない約束が、今も私の胸に残っている。
私は、もう一度あの人に会いたい。
そして、今度は私があの人を守りたい。
誰かに傷つけられたとき、何もできずに見ているだけの自分ではいたくない。
(……私は、強くならなければならない)
いつか再会したとき、あの人を守れるように。誰にも見下されず、大切なものを奪われないだけの力を手に入れるために。
私は顔を上げた。
「……分かりました」
狼の目が、わずかに細くなる。
「ほう?」
「必ず、成果を上げてみせます」
声は少し震えていた。それでも、目を逸らさなかった。
「……私には、強くならなければいけない理由がありますから」
狼はしばらく私を見つめていた。
やがて、口元に薄い笑みを浮かべる。
「……いいだろう」
狼は机の上の手帳を閉じた。
「なら、死にたくなけりゃ、死ぬ気で成果を持ってこい」
「……はい」
私は深く頭を下げた。
こうして私は、一か月という期限付きで組織に置かれることになった。
だが、それは居場所を与えられたということではない。
役に立つ限りは生かされ、価値がなくなれば切り捨てられる。
そんな世界に、私は自ら足を踏み入れたのだ。