庭先で、虫が一匹、葉の上を歩いていた。
小さな黒い体に、細い脚。葉の縁まで進んでは触角を揺らし、何かを確かめるように向きを変えている。
私はそれを、ぼんやりと眺めていた。
ふと、違和感を覚えた。
虫の体の中に、何かがある。
光の加減だろうか。小さな体の内側に、霞のようなものが見えた。輪郭は曖昧で、色もはっきりしない。けれど、目を凝らしても消えなかった。
確かに、そこにある。
不思議と怖くはなかった。それどころか、触れてみたいと思った。
どうしてそう思ったのかは分からない。
ただ、触れられる気がした。
私は手を伸ばし、虫に触れた。
手のひらに、小さな感触が伝わる。
その瞬間、何かに触れたという感覚が、普段とは違う形で指先まで広がった。
私は、そこにあるものを動かそうとした。
何をどうすればいいのか、分かっていたわけではない。それでも、触れたものを変えられるという確信があった。
力加減を間違えた。
虫の中に見えていた霞が、ぐしゃりと歪む。
同時に、虫の体が不自然にひしゃげた。細い脚がばらばらに動き、やがて止まる。
私は手を離した。
何が起きたのだろう。
強く押したつもりはなかった。ただ触れただけなのに、虫は潰れてしまった。
どうして。
考えようとした、その瞬間だった。
頭の中に、何かが流れ込んできた。
*
知らないはずの記憶が、次々と蘇る。
見たことのない部屋。見覚えのある街並み。手にしたことのある道具。聞き慣れた声。
知らないはずなのに、知っている。
覚えていないはずなのに、思い出せる。
私は、しばらくその場から動けなかった。
頭が痛いわけではない。気分が悪いわけでもない。ただ、理解すべきことが多すぎた。
今までの私が、消えてしまったわけではなかった。
毎日見ている庭。家の中の様子。両親の顔。これまで過ごしてきた時間。それらは、今も確かに私の中にある。
そのうえで、もう一つの人生があった。
ここではない場所で過ごした、私の人生。
まるで、ずっと閉じられていた扉が開き、その向こうにあったものまで一度に見えるようになったかのようだった。
どちらかが偽物だとは思えない。
私は今も、この庭にいる。
そして同時に、ここではない場所を知っている。
二つの記憶が、私の中に並んでいた。
*
私は、もう一度、虫の死骸に目を向けた。
体の内側にあった、あの霞。
あれは何だったのだろう。
答えを探すように、周囲を見回す。
葉の上を這う別の虫。植え込みの向こうで動く小さな生き物。少し離れた場所にいる鳥。
見える。
それぞれの体の中に、あの霞のようなものがあった。
形も大きさも違う。けれど、どれも同じ種類のものだと、なぜか分かった。
触れれば、変えられる。
そう思えてしまう自分に、少しだけ戸惑った。
根拠はない。少なくとも、言葉にできるような根拠はなかった。
それなのに、先ほどの感覚を思い出すと、できるという確信だけが残っている。
私は自分の手を見た。
何かが、そこにある。
体の内側から湧き上がるような、奇妙な力の気配。今まで意識したこともなかったものが、突然、はっきりと感じられるようになっていた。
虫に起きた現象と、何か関係があるのだろうか。
私は、蘇った記憶の中から手掛かりを探した。
そして、一つの可能性に行き当たる。
呪力。
呪術。
術式。
知識の中にある言葉が、目の前の現象と結びついていく。
生き物の体内に見えた霞。肉体に触れた瞬間に起きた変化。そして、自分の中に生まれた力。
もし、記憶にある知識が正しいのなら。
もし、この現象が、あの物語で描かれていたものと同じなのなら。
私は、ある術式の名前を思い浮かべた。
無為転変。
魂の形を変えることで、肉体を変える術式。
もちろん、まだ断定はできない。知っている物語の設定に、目の前で起きたことを当てはめているだけかもしれない。
それでも、あまりにも符合していた。
そして、そうであるならば。
ここは、呪術廻戦の世界なのだろうか。
私は息を呑んだ。
記憶にある物語。そこに登場する人々。呪術師たち。そして、これから起こり得る出来事。
まだ確かなことは何一つない。
自分の術式が本当に無為転変なのかも、この世界が本当にあの物語の世界なのかも、今の私には証明できない。
けれど、もしそうなら。
私は、前の人生の自分についても思い出していた。
あちらの私は、男だった。
今の私は、この体で生まれ、少女として育ってきた。
どちらの記憶も、私のものだ。
そして、前の人生には、今の私がずっと好きだった存在がいた。
フランドール・スカーレット。
金色の髪に、赤い瞳。幼い外見に似合わない、底知れない力。
私にとって、特別な存在だった。
その姿を思い浮かべるだけで、胸の奥が熱くなる。
けれど、今までの私は、ただ憧れることしかできなかった。
どれほど彼女を好きでも、私が彼女になれるわけではない。
――そう思っていた。
もし。
もし、本当に自分の体を変えられるのなら。
私は、自分の手を見つめた。
今の私に宿った、この力で。
もしかしたら、今度こそ、彼女に近づけるのではないだろうか。
いや。
近づくのではなく。
私自身が、フランドール・スカーレットに。
その可能性を考えた瞬間、胸の奥で何かが静かに動き始めた。
まだ何も分からない。
この力が本当に無為転変なのかも、どこまで自分の体を変えられるのかも。
けれど、可能性はある。
私は、自分の小さな手を見つめた。
もしかしたら。
私は、本当に。
――フランドール・スカーレットになれるのかもしれない。