フランドール・スカーレットになるために。
そのためには、まず自分の力を知らなければならない。
そう決めてから、私は毎日のように自分の身体に意識を向けていた。
指先。手のひら。腕。頬。
目を閉じて、身体の内側に意識を向ける。
そこには、目に見えない何かがある。
前世の知識を借りるなら、魂と呼ぶのが一番近いのだろう。
指先に意識を集中させる。
少しだけ、形を変える。
伸ばす。縮める。元に戻す。
最初のうちは、指先だけを変えるつもりが、指全体が歪んでしまうこともあった。力を込めすぎれば関節の位置までずれる。反対に慎重になりすぎると、ほとんど何も変化しない。
何度も繰り返すうちに、少しずつ調整できる範囲が分かってきた。
身体の構造を理解することと、実際に形を変えることは別だった。
分かっているつもりでも、思い通りにはならない。
それでも、自分の身体なら何度でもやり直せる。
無理をして元に戻せなくなってしまえば困るけれど、今のところ、そこまでの失敗はしていない。
私はこの身体が気に入っている。
いつかフランドール・スカーレットになるための、大切な身体だ。
壊してしまうわけにはいかなかった。
だから、自分に対する実験は慎重に進める。
その一方で、自分以外のものに対しては、そこまで慎重になる必要がなかった。
*
庭の隅で捕まえた虫を、机の上に置く。
小さな虫だった。
羽を押さえると、脚が忙しなく動いた。
私はその様子を眺めながら、指先を近づける。
虫の身体の中にある、ぼんやりとした輪郭。
以前は、ただそこに何かがあると分かるだけだった。今は、少しずつ形の違いも見えるようになっている。
どこまでが身体で、どこからが魂なのか。
魂の形を変えたとき、身体のどこが変化するのか。
試したいことは、いくらでもあった。
指先で触れる。
少しだけ、形を変える。
虫の脚が不自然な方向に曲がった。
それでも虫は動いていた。
私はもう一度、今度は別の場所に意識を向ける。
身体の一部を変えれば、別の部分にも影響が出る。思ったよりも複雑なつながりがあるらしい。
虫が激しく動き始めた。
机の上を這い回ろうとする。
逃げられると困るので、指で押さえた。
しばらく観察していると、動きが鈍くなった。
私は手を止めなかった。
動かなくなってからも、まだ確認できることはある。身体の形が変わったことで、どの機能が失われたのか。魂の輪郭はどうなっているのか。変化を戻せば、元通りに動くのか。
ひとつずつ確かめていく。
最後には、もう何も反応しなくなった。
私は虫を見下ろした。
もう実験には使えない。
それだけだった。
別の虫を用意する。
今度は、先ほどとは違う箇所を変えてみよう。
同じように触れて、同じように観察する。
失敗したら、次は条件を変える。
それを繰り返した。
虫が苦しそうに動いても、死んでしまっても、私の手が止まることはなかった。
苦しんでいることは分かる。
死んでしまったことも分かる。
けれど、それは実験をやめる理由にはならなかった。
結果が得られたなら、次に活かせばいい。
結果が得られなかったなら、別の方法を試せばいい。
それだけのことだった。
*
虫だけでは、分からないことも多かった。
もう少し大きな身体なら、どんな変化が起きるのか。
複雑な器官を持つ生き物なら、魂の構造にも違いがあるのか。
屋敷の周辺で手に入る小動物も、実験の対象にした。
最初は、身体の一部を変えるだけだった。
次は、複数の箇所を同時に変えてみる。
さらに、身体の形を大きく変えてみる。
うまくいくこともあれば、思ったようにいかないこともあった。
形を変えた結果、動けなくなったもの。
変化の途中で死んでしまったもの。
元の形に戻そうとしても、戻せなくなったもの。
どれも、私にとっては大切な結果だった。
特に興味深かったのは、魂の形と身体の機能が、必ずしも単純に対応しているわけではないことだった。
見た目を元に戻したつもりでも、動きまで元通りになるとは限らない。
逆に、外見が大きく変わっていても、以前と同じように動くこともある。
何をどのように変えたのか。
どこまで変えれば、元の機能が失われるのか。
その境界を探る。
失敗した個体を見ていると、次に試したいことが浮かんでくる。
だから、次の個体を用意した。
途中で動かなくなったものは、もう使えない。
まだ動いているものなら、別の条件を試せる。
それだけの違いだった。
あるとき、変化させた小動物が、私の手の中で動かなくなった。
私はしばらくその様子を眺めた。
もう一度触れてみる。
反応はない。
魂の輪郭も、先ほどまでとは違っていた。
私はそれを脇に置き、次の個体を取り出した。
今度は、さっきの失敗を踏まえて、変化させる範囲を狭くしてみよう。
そちらの方が、きっと分かりやすい。
*
秋が近づく頃には、実験の対象も少しずつ変わっていた。
虫や小動物だけではない。
屋敷の外に出れば、呪霊もいる。
最初に見つけたのは、蠅頭だった。
四級にも満たない、極めて弱い呪霊。
私でも容易に対処できる相手だった。
近づいて、触れる。
その内側にある輪郭は、人間や動物のものとは違っていた。
けれど、何もないわけではない。
魂と呼べるものがある。
私はそこに意識を向けた。
少しだけ形を変える。
蠅頭の身体が歪んだ。
もう一度。
今度は、もっと大きく。
呪霊は奇妙な音を立てながら、形を崩していった。
私は手を離さず、変化を見続ける。
やがて、蠅頭は消えた。
祓ったというより、形を保てなくなったように見えた。
別の蠅頭でも試した。
結果は同じだった。
魂の輪郭を変えることで、呪霊の身体も変わる。
対象が人間でも、動物でも、呪霊でも。
少なくとも、私が触れてきたものには、そうした共通点があった。
私は自分の手を見つめる。
身体の形を変える力。
魂に干渉する力。
そして、魂の形を変えることで、身体そのものを変えてしまう力。
ここまで分かれば、もう偶然とは考えにくい。
前世の記憶にある術式の中で、これほど条件が一致するものはひとつしかなかった。
真人の術式。
――無為転変。
私の力は、それと同じものなのだろう。
最初に思い浮かべたときは、似ているだけかもしれないと思った。
けれど、実験を重ねるほどに、その可能性は小さくなっていった。
私は、自分の手のひらを握る。
この力があれば。
フランドール・スカーレットに近づける。
そう考えると、胸の奥が少しだけ熱くなった。
*
人間の魂についても、知りたいことはあった。
ただし、屋敷にいる人間を実験に使うつもりはなかった。
少なくとも、今は。
私が何をしているのか知られれば、面倒なことになる。
子供の遊びや偶然の出来事で済ませられる範囲には限界がある。
だから、人間に対して無為転変を使うことは避けた。
代わりに、観察した。
父親だけではない。
使用人や、屋敷に出入りする人たち。
元気に働いている人。疲れている人。年齢の違う人。体格の違う人。
人間の魂は、ひとりひとり違っている。
形も、厚みも、細かな部分も同じではない。
それでも、共通している部分はあった。
大きな違いがあるように見えても、基本的な構造には似通ったところがある。
健康な人間の魂とは、どういう形をしているのか。
それを知るために、私は何人もの人を観察した。
特別な目的があったわけではない。
人間の魂を知りたかったからだ。
そして、観察を続けるうちに、私はひとつのことに気づいた。
人間の魂は、身体の状態によっても変化する。
疲労や体調の悪さが、魂の輪郭に影響を与えているように見えることがあった。
もちろん、見ただけですべてが分かるわけではない。
人によって違いもある。
けれど、健康な人間の魂には、共通する特徴がある。
そのことが分かっただけでも、十分な収穫だった。
*
年の瀬が近づいていた。
春から始めた実験は、ずいぶんと進んでいた。
自分の身体についても、ある程度のことが分かった。
虫や小動物で試せることは、ほとんど試した。
低級呪霊にも干渉できることが分かった。
もちろん、すべてが思い通りにできるわけではない。
細かな操作にはまだ失敗も多いし、複雑な変化を安定させるには技術が足りない。
けれど、今の環境で試せることは、ひと通りやり尽くしたと思う。
そろそろ、次の段階に進んでもいい頃だろう。
人間の魂について、もっと詳しく調べたい。
実際に無為転変を使って、どこまで変化させられるのかを確かめたい。
そう考えていたときだった。
ふと、父親のことを思い出した。
そういえば、父親はまだ寝たきりだった。
病気で長く床についている。
普段は部屋から出ることもなく、誰かが世話をしなければ生活できない。
……ちょうどいいのではないだろうか。
私は少し考えた。
人間に無為転変を使うのは、まだ危険が大きい。
健康な人間を対象にするのは、特に問題がある。
何かあったときに、隠し通せるとは限らないからだ。
その点、父親なら事情が違う。
すでに病気で寝込んでいる。
治療を試みて、うまくいけば病気が治る。
そうなれば、私の力は病気を治療できる特殊な能力だと説明できるかもしれない。
今後、ほかの患者を紹介してもらうこともできるだろう。
人間を対象にした研究を進めるには、都合がいい。
もちろん、失敗する可能性もある。
けれど、成功する見込みは高いと思う。
健康な人間の魂を何人も観察してきた。
共通する構造は、ある程度分かっている。
父親の魂をそれに近づけることができれば、病気によって生じた異常も改善できるのではないだろうか。
もし失敗しても。
もともと病気で寝込んでいるのだから、急に容体が悪化したということにすればいい。
それで説明はつくだろう。
父親が死んでしまったら、そのときはそのときだ。
もちろん、死んでほしいわけではない。
多少は親しみもある。
私のことを可愛がってくれた人だし、一緒に暮らしてきた家族なのだから。
けれど、それとこれとは別の話だった。
実験を諦めるほどの理由にはならない。
私は父親の部屋へ向かうことにした。
*
夜。
屋敷の中は静まり返っていた。
父親の部屋の前まで来ると、私はそっと扉を開けた。
部屋の中は暗い。
父親はベッドに横たわっていた。
規則的とは言い難い呼吸。
痩せた身体。
長い間、病気と付き合ってきた人間の姿だった。
私はベッドのそばに立つ。
父親の魂を見る。
やはり、健康な人たちとは違っていた。
全体の構造には共通点がある。
けれど、一部の形が歪み、流れが滞っているように見える。
病気の影響なのだろう。
私は、これまで観察してきた人間たちの魂を思い出す。
健康な人間に共通する形。
個人差を残しながらも、異常のない部分。
それを参考にして、父親の魂に手を伸ばした。
触れる。
無為転変。
父親の魂の形が、少しずつ変わっていく。
最初は、どこをどう直せばいいのか分からなかった。
無理に形を整えようとすると、かえって別の部分が歪む。
私は一度手を止め、改めて全体を観察した。
病気によって崩れている部分と、もともとの個人差。
その二つを見分ける必要がある。
健康な人間の形をそのまま当てはめればいいわけではない。
父親自身の魂を残しながら、異常な部分だけを修正する。
何度か調整を繰り返す。
少しずつ、歪みが消えていく。
乱れていた輪郭が整い、滞っていた部分が滑らかになる。
それに合わせて、身体にも変化が起きていた。
呼吸が落ち着いていく。
顔色が変わる。
固くなっていた身体から、少しずつ力が抜けていく。
私は手を離さず、最後まで確認した。
魂の形に大きな異常はない。
身体も、問題なく機能しているように見える。
これなら大丈夫だろう。
手を離した。
父親は、静かに眠っていた。
私はしばらくその様子を眺めていた。
成功した。
人間に対しても、無為転変を使うことができた。
しかも、病気を治すことができた。
これは大きな成果だ。
今後の研究にも役立つだろう。
そう考えていると、父親の身体が動いた。
「……ん」
目が開く。
父親はぼんやりと天井を見つめていた。
それから、ゆっくりと身体を起こす。
「……あれ?」
自分の手を見る。
腕を動かす。
何度か指を握ったり開いたりして、確かめるように身体を動かした。
「身体が……」
父親は、驚いたように自分の胸元に手を当てた。
いつも感じていた重苦しさがない。
身体が軽い。
呼吸も楽になっている。
ゆっくりとベッドから足を下ろす。
立ち上がろうとする。
その動作は、以前のように苦しそうではなかった。
「どうして……」
父親は周囲を見回した。
そして、ベッドのそばに立っている私を見つけた。
「フランドール……?」
私は父親を見上げた。
成功した。
人間の病気を治せた。
父親は元気になった。
それは、私にとって嬉しいことだった。
父親がどんな顔をするのか、私は知っている。
どんな言葉をかければ喜ぶのかも。
だから、私は笑った。
「お父さん、よかったね」
父親は、目を見開いたまま私を見つめていた。