父が目を覚ました。
それは、私が自分の術式を使って行った実験が、初めて人間に対して成功したということだった。
「……お父さん?」
父はベッドの上で上半身を起こし、自分の手を見つめていた。
長い間、病床に伏せっていた人間の動きではない。顔色も、呼吸も、以前とはまるで違う。
自分の身体に何が起きたのか理解できず、何度も手を握ったり開いたりしている。
やがて父は、部屋の中にいる私に気づいた。
「フランドール……?」
「お父さん、よかったね」
私は笑った。
父が元気になったことは嬉しい。もちろん、それだけではない。
人間の魂を観察し、そこに生じた異常を修正する。理論上の可能性を、実際に確かめることができた。
しかも、成功した。
これまで虫や小動物を相手にしてきた実験とは違う。人間の身体を、魂から変えることができたのだ。
もっと知りたい。
もっと試したい。
目の前で父が何かを言おうとしている。けれど、私はその言葉を待つよりも先に、自分の中で膨らんでいく期待を抑えることに意識を向けていた。
「フランドール……お前が?」
父の声は震えていた。
私は小さく頷く。
「うん。お父さん、ずっと苦しそうだったから」
その言葉に嘘はない。
父が苦しんでいたことは知っていたし、元気になった姿を見るのは嬉しい。
ただ、それが私の行動の理由のすべてではなかった。
父は私を抱きしめた。
少し強すぎるくらいの力だったけれど、私はそのまま身を任せた。
「ありがとう……ありがとう、フランドール」
何度も繰り返される感謝の言葉。
褒められるのは好きだ。
誰かに喜んでもらえるのも、嬉しい。
私は父の背中に手を回しながら、そんなことを考えていた。
そして、同時に思う。
これなら、もっとたくさんの人を診ることができるかもしれない。
もっと多くの魂を観察できる。
人間の身体について、魂について、まだ知らないことは山ほどあるのだから。
⸻
父の回復は、紅月家にとって大きな転機になった。
長年病床にあった当主が、突然健康を取り戻した。
しかも、その原因が幼い娘の力だという。
最初は身内の間で広まった話だったが、やがて父の知人や、以前から付き合いのあった人々にも伝わっていった。
父はその機会を逃さなかった。
私の力を利用して、紅月家を立て直そうと考えたのだろう。
治療を望む人間がいれば、父が話を聞く。
そして、私に会わせる価値があると判断した相手を選び、家に招いた。
誰でもよいわけではない。
紅月家にとって有益な人間。あるいは、その親族や関係者。
父はそうした相手を優先していた。
私にとっても、それは都合がよかった。
人間の身体を調べる機会が増える。
病気や怪我によって、魂がどのような影響を受けるのか。どこまで変形しているのか。どのように修正すれば元の状態に戻るのか。
対象が増えるほど、分かることも増えていく。
父は私の力を奇跡だと言った。
周囲の人々も、私を褒めてくれた。
「素晴らしい力だね」
「こんな幼い子が、これほどのことをできるなんて」
「紅月家にとって、まさに救世主だ」
私はそのたびに笑顔を返した。
褒められるのは嬉しい。
感謝されるのも嬉しい。
だから、相手が喜ぶような言葉を返すこともあった。
それが計算だったのか、自然に出た言葉だったのか、自分でもよく分からないことがある。
ただ、少なくとも、笑顔を向けられることを嫌だと思ったことはなかった。
父は私のことを誇らしげに語った。
私の力を紅月家の再興に役立てようとしていた。
それは父にとって、娘の能力を正しく活用することだったのだろう。
そして、私にとっても悪い話ではなかった。
父が患者を集めてくれる。
私はその患者を診ることで、研究を進められる。
互いの目的は違っていても、利害は一致していた。
⸻
もちろん、父に私の研究内容を話すつもりはなかった。
私が何を見ているのか。
何を操作しているのか。
これまで何を実験してきたのか。
そうしたことを正直に説明すれば、今の環境を維持できなくなる可能性が高い。
私が扱っているのは、単なる治療能力ではない。
魂そのものに触れ、その形を変える力だ。
虫や小動物を使った実験も、父には知られていない。
人間の魂を観察し、病気によって変形した部分を修正していることも、もちろん説明していない。
周囲に知られているのは、私が不思議な力で病気や怪我を治せるということだけ。
それで十分だった。
研究に必要なものがあれば、父に頼む。
ただし、用途は説明しない。
説明が必要なら、治療に使うものだと伝える。
父は私を特別な力を持った娘だと考えていたが、それでも中身は年相応の幼い子供だと思っている。
欲しいものをねだれば買ってくれるし、必要なものを頼めば用意してくれる。
父にとって、それは娘を大切にすることの一つだったのだろう。
私も、その好意を拒む理由はなかった。
けれど、父が用意してくれるものだけで、私の望みがすべて満たされるわけではない。
だから、別の方法も必要だった。
父の目の届かないところで、少しずつ人とのつながりを作っていく。
治療に訪れた人間の中には、私自身が興味を持つ相手もいる。
その人がどんな仕事をしているのか。誰とつながりがあるのか。何を知っているのか。
会話の中で分かることを覚えておく。
時には、父が紹介する相手とは別の人物に興味を示すこともあった。
もちろん、露骨なことはしない。
私はまだ子供なのだから。
父にとっては、娘が人懐っこく振る舞っている程度に見えていたはずだ。
けれど、私にとっては違う。
いつか、この家を離れる。
そのときに困らないように、今のうちから自分の居場所を作っておく。
父の庇護は便利だった。
生活に困ることはないし、研究に必要なものも手に入る。私の能力を求める人間が、父を通じてやってくる。
けれど、いつまでも父の管理下にいるつもりはなかった。
私が自由に研究できる環境を、自分の手で手に入れる。
そのための準備は、少しずつ進めていた。
⸻
六歳。
父の回復から一年が経つ頃には、紅月家を訪れる人間も増えていた。
私の治療を受けた人間が、別の患者を紹介することもあった。
父はその流れを喜んでいた。
紅月家の名前が再び人々の口に上るようになり、以前よりも多くの人間が父を頼ってくる。
その一方で、私の研究も進んでいた。
病気や怪我によって変形した魂は、一つとして同じではない。
同じような症状を持っていても、魂の形には個人差がある。
健康な人間の魂を参考にしながら、異常のある部分を修正する。
その繰り返しによって、以前よりもずっと正確に人間の身体を扱えるようになっていた。
もちろん、何もかもが分かったわけではない。
むしろ、知れば知るほど分からないことが増えていく。
それが楽しかった。
七歳、八歳、そして九歳。
年月が過ぎるにつれて、私の扱える範囲は広がっていった。
父のもとには相変わらず患者が訪れ、私はその中から自分に必要な経験を積み重ねていく。
父は私の力を誇りに思っていた。
私も、父の期待に応えているように見えることを嫌だとは思わなかった。
ただ、私が本当に望んでいるものは、父が考えているものとは違う。
紅月家の再興にも、名声にも、特別な地位にも、それほど興味はない。
私が欲しいのは、もっと別のものだ。
鏡の前に立つ。
そこにいるのは、まだ幼い少女。
けれど、私の目には、その姿の先にあるものが見えていた。
金色の髪。
赤い瞳。
背中に広がる、宝石のような翼。
フランドール・スカーレット。
私が何よりも愛している存在。
私は、あの姿になりたい。
あの存在そのものになりたい。
そうすれば、きっと。
みんな、私を好きになってくれる。
そんなことを、どこかで当たり前のように考えていた。
⸻
十歳の春。
その日、父から来客があると告げられた。
「お前の力に興味を持っている人がいる。少し話をしてみたいそうだ」
「私に?」
「ああ。以前から付き合いのある人を通じて、こちらの話を聞いたらしい」
父の話では、相手は私の治療能力に興味を持っているらしい。
私の力について、どこまで知っているのかは分からない。
「どんな人?」
「虎杖香織さんという方だ。こちらの知人から紹介を受けたそうだ」
「女の人?」
「そうだよ」
「ふーん」
私は軽く返事をした。
父の知人を介して、私の力に興味を持った人間が訪ねてくること自体は珍しくない。
けれど、今回は少しだけ気になった。
どんな人なのだろう。
私の力を知って、何を考えているのだろう。
やがて、客人が部屋に通された。
現れたのは、女性だった。
落ち着いた雰囲気で、物腰も柔らかい。
年齢はよく分からない。若く見えるが、どこか不思議な印象もある。
「初めまして。虎杖香織です」
女性は穏やかに微笑んだ。
「フランドールさん、今日はよろしくね」
「よろしくお願いします」
私は挨拶を返した。
そして、女性の顔を見た。
額。
そこに、縫い目がある。
一瞬、思考が止まった。
――縫い目?
私は女性の顔を見つめる。
額を横切るような傷跡。
いや、傷跡というよりも、何かを縫い合わせたような痕。
頭の中に、前世の記憶が浮かぶ。
呪術廻戦。
羂索。
肉体を乗り換え、脳を移し替えることで他人の身体を利用する存在。
そして、その額に残る縫い目。
もちろん、縫い目がある人間など他にもいるだろう。
それだけで決めつけることはできない。
けれど。
もしかして、この人が――。
私は改めて女性を見た。
虎杖香織。
その名前にも、覚えがある。
原作に登場する人物の名前だ。
ただ、私の記憶にある虎杖香織は、羂索が乗っ取った肉体の持ち主だったはず。
今、目の前にいるのは、その虎杖香織を名乗る女性。
額の縫い目。
名前。
そして、時期。
偶然にしては、できすぎている。
――もしかして、本当に羂索なのかな?
確信はない。
そもそも、原作で描かれていた情報だけで、目の前の人物が本当にそうだと断定できるわけではない。
それでも、警戒するには十分だった。
「フランドールさん?」
「え?」
「どうかした?」
「あ、ごめんなさい。ちょっと見ちゃってた」
私は慌てて笑顔を作った。
「おでこ、珍しい傷だなって」
「ああ、これ?」
虎杖香織は自分の額に軽く触れた。
「ちょっとした事情があってね。あまり気にしないで」
「うん」
そう答えながら、私は相手の様子を観察した。
どこまで踏み込んでいいのかは分からない。
今の段階で正体を確かめようとするのは危険だろう。
まずは、相手が何を目的に来たのかを知るべきだ。
「それで、今日はどうしたの?」
私が尋ねると、虎杖香織は少しだけ目を細めた。
「君の力について、少し興味があってね」
「私の力?」
「そう。病気や怪我を治せるんでしょう?」
「うん」
「それは、どうやって使っているのかな?」
私は少し考えた。
どこまで答えるべきだろう。
もちろん、魂を操作していることなど話すつもりはない。
「よく分からないけど、悪いところを元気にできるの」
「悪いところを?」
「うん。痛いところとか、具合が悪いところとか」
私は曖昧に答えた。
嘘ではない。
ただ、何をしているかを説明していないだけだ。
虎杖香織は、私の言葉を聞いて少し考えるような仕草をした。
「そうなんだね。君は、自分の力について詳しく調べたりしたことはある?」
「うん。ちょっとだけ」
「どうして?」
「もっと上手に使えるようになりたいから」
これも嘘ではない。
相手は私の顔をじっと見ていた。
「なるほどね」
やがて、虎杖香織は穏やかに微笑んだ。
「実は、この世界には君のように不思議な力を持つ人間がいるんだ」
「そうなの?」
「うん。そうした人間を、呪術師と呼ぶ」
その言葉に、心臓がわずかに跳ねた。
呪術師。
やっぱり。
「呪術師は、呪力という力を使う。そして、生まれつき備わった特殊な能力を持つ者もいる。それを術式と呼ぶんだ」
術式。
その言葉を聞いた瞬間、頭の中で何かがつながった。
私の力。
魂に触れ、形を変える力。
そして、前世の記憶にある、あの術式。
無為転変。
私は女性を見つめた。
「虎杖さんも、呪術師なの?」
「そうだよ」
女性は微笑んだ。
「私も、呪術に関わる人間なの」
その答えを聞きながら、私は考える。
この人は何を知っているのだろう。
私の力をどこまで理解しているのだろう。
そして、何を目的にここへ来たのだろう。
もし、本当に羂索なら。
この世界のことを、私よりもずっと多く知っているはずだ。
呪術についても、術式についても。
それに、私の力を見れば、何か気づくかもしれない。
「私の力も、術式なの?」
「その可能性は高いと思うよ」
虎杖香織は、少し楽しそうに答えた。
「君のような能力は、呪術の世界でも珍しいものかもしれないね」
「そうなの?」
「うん。だから、君と少しお話がしたかったんだ」
女性は私の目を見た。
「君は、これからどうしたい?」
「どうしたい?」
「その力を使って、何をしたいのかな?」
私は少しだけ考えた。
何をしたいのか。
答えは決まっている。
「もっと知りたいことがあるの」
「知りたいこと?」
「うん。いろんなことを調べたい。今よりもっと、いろんなものを作ったり、できるようになったりしたい」
「たとえば?」
「それは……まだ秘密」
私は笑った。
研究の内容を話すわけにはいかない。
けれど、必要なものを手に入れるために、相手の興味を引くことはできる。
虎杖香織は、私の返答を聞いてしばらく黙っていた。
それから、柔らかく笑う。
「そう。秘密なんだね」
「うん」
「いいよ。無理に聞くつもりはないから」
その言葉に、私は少しだけ警戒を緩めた。
もちろん、信用したわけではない。
ただ、相手は私の答えを無理に聞き出そうとはしなかった。
「でも、もし君が望むなら、力を伸ばすための手伝いができるかもしれない」
「手伝い?」
「そう。君が今よりも自由に研究できる環境を用意したり、必要なものを手に入れる手助けをしたりね」
私は女性を見つめた。
その言葉は、魅力的だった。
父のもとにいる限り、私の行動には制限がある。
研究に必要なものを手に入れるにも、父に頼らなければならない。
自分の力を自由に試すためには、いずれ今の環境を離れる必要がある。
そのための手段が、目の前に現れたのかもしれない。
ただし、相手が本当に羂索なら、無条件に信用するわけにはいかない。
むしろ、慎重に利用しなければならない相手だろう。
私は笑顔を浮かべた。
「本当に?」
「もちろん。君が何を望んでいるのか、もう少し聞かせてくれたら、考えられることもあると思うよ」
「そっか」
私は小さく頷いた。
この人は何を考えているのだろう。
私の力に興味があるのは確かだ。
けれど、それだけではないようにも感じる。
額の縫い目が、どうしても頭から離れなかった。
――もしかして、羂索。
もしそうなら、これは大きな機会かもしれない。
そして同時に、とても危険な出会いでもある。
「うん。お話、してみたい」
私はそう答えた。
虎杖香織は、穏やかな笑顔を浮かべた。
「ありがとう。私も、君と話せて嬉しいよ」
そのときの私は、まだ知らなかった。
この出会いが、私の研究を大きく変えることになる。