時代・舞台
大正14年(1925年)
旧城下町の面影を残す地方都市。鉄道が開通し、洋風の喫茶店や百貨店ができ始めている一方、名家では家柄や婚姻のしきたりが依然として強い力を持っている。
登場人物
・加納志津(16歳):主人公。高等女学校に通う。姉の澄江に憧れており、姉のようになりたいと思っていたが姉の秘密を知ってしまい…
・澄江(享年19歳):病気がちだが美しく凛とした才女。妹に優しい良き姉であった。
・青年(23歳):澄江と恋仲になり駆け落ちをしようと約束するが、わけあって叶わなかった。
旧城下町の面影を残す地方都市・B市。
大正時代、大都市ではレンガ造りや洋風建築のカフェや百貨店が立ち並ぶ繁華街にはモボとかモガと呼ばれる若者が闊歩する。
企業や役所に勤め月給をもらって生活する所謂「サラリーマン」が登場し、電話交換手、タイピスト、バスの車掌、百貨店の店員など女性が社会に出て働く姿が当たり前の光景となり始めた。
職業婦人をはじめとして、それまで長かった髪を切って洋装となった女性たちが街にあふれ、女性がこれまでになく積極的に行動するようになったのが大正時代である。
全国各地に鉄道網が張り巡らされ地方都市にもこの流行の風は吹き始めていたが、まだ木造家屋や茅葺き屋根に土間のある家が多く残っていて明治の余韻を色濃く残した素朴な暮らしが混在していた。
大都市の拡大には大量の労働力が必要となり、地方から大勢の若者が大都市を目指していくために、地方都市では若者の減少が目立つようになる。
都会への憧れと同時に地方の古く堅苦しい生活に耐えられなくなったのだ。
B市もその例にもれず、都会の風が吹き込む華やかな「光」の部分と、都会の華やかな生活に憧れた者や稼ぎの良い仕事に就きたいといって多くの若者が都会へと旅立つことで労働人口の減少という「影」の部分の対比が鮮明となっていた。
この町で加納志津は生まれ育った。
加納家は武士の家柄である。
御一新で武士は士族という名に変わったが、旧武士階級としての特権が消えて経済的・社会的基盤を失った多くの士族が没落した。
家禄を失い、生きていくために不慣れな商売に手を出した挙句、失敗して家産を失う。
士族の中にはこのような悲惨な境遇に落ちた者も少なくなかったが、加納家はそんな悲劇を免れた家のひとつである。
城下町の南東に未開拓の原野が広がっており、慶応年間に藩主は家臣に命じて原野を開墾して茶の栽培を行っていた。
明治になるとこれまで全部手作業だった製茶の工程を一部機械化し、品質の良い茶を輸出するというシステムを作り上げたのが当時の加納家の家長であった。
現在では「加納商会」という名で主にアメリカやイギリスの商人を相手に貿易を行っている。
しかしその経営状況は良好とはいえず、融資を受けた銀行への返済も滞りがちだ。
初めのうちは好調であったものの、当代の家長には商才がなかったらしい。
それでも名家としての矜持を保つために三人の子供たちには十分な教育を与えた。
特に高等師範学校に通う長男には大きな期待が寄せられている。
十六歳の志津には三歳年上の澄江という名の姉がいた。
澄江は才色兼備という言葉がふさわしい女性で女学校では級長を務めるほど人望もあった。
志津にとって彼女は憧れの女性であり、自分もそうなりたいと心から願っていた。
しかし生れつき病弱で季節の変わり目には体調を壊すことが多く、女学校を卒業してからは家で静かに過ごしていたのだった。
大正十四年の冬の初め、風邪をこじらせたことで澄江はあっけなく死んでしまった。
両親の嘆く様は尋常ではなく、周囲の人間は彼らにかける言葉が見つからなかった。
手塩にかけた自慢の娘を失ったのだからそれは当然のことだ。
おまけに来年の春には銀行の頭取の長男との結婚が決まっていて幸せの絶頂のはずだった娘に申し訳ないという気持ちが抑えきれないのだろう。
もちろん志津にとっても澄江の死は精神的打撃となり、初七日が終わるまでずっと泣き暮らしていた。
しかしいくら悲しんでも澄江が戻って来るわけでもないと理解しているものの、まだ子供の彼女には心の整理ができずにいた。
澄江の部屋では母親が遺品の片付けをしていた。
部屋の中は澄江の生前のままになっていたのだが、初七日を終えたことで片付けを始めたのだ。
母親は遺品の仕分けをしていて、澄江の使っていた机の引き出しを開けた。
するとそこには澄江の日記や手紙の束が整頓されて入っている。
それを漆塗りの手文庫に入れ、さらに鏡台に置かれていた手鏡と櫛とピンク色の胡蝶蘭の花の髪飾りも一緒に入れた。
そこに志津が扉を開けて入って来たのだった。
母親が手文庫のふたを閉めようとすると志津が言った。
「母様、その箱の中に入れた髪飾りを姉様の形見として私にくださいな」
すると母親は首を横に振って答えた。
「だめです。あなたは澄江のものに触れてはいけません。あの子はもうこちらの世界の人ではないのだから」
B市のあるこの地域では故人の遺品を燃やしてその灰を四十九日に遺骨と一緒に墓に納めるという慣習がある。
だから澄江の遺品に触れることを禁じているのだ。
澄江の生前に志津は胡蝶蘭の花の髪飾りを貸してほしいと言ったことがある。
外出する際には洋装が多かったのだが、和装が好きだった澄江は家にいる時には常に着物を着ていた。
その時に結った髪につけていたのがこのピンク色の胡蝶蘭の花の髪飾りだ。
美しいビロードの生地で作られた艶やかで美しい髪飾り。
その気品のある髪飾りを髪にさした澄江は儚げでありながらも凛としてとても美しいと志津は感じた。
だから自分もそうなりたいと思って貸してほしいとねだったが、澄江はにっこりと微笑むと「ダメ」と言った。
貸したくないというのではなく、まだ子供の志津には早いと考えていたからだ。
「箪笥に入っている着物や帯にも触れてはいけませんよ。いいですね?」
母親はそう言うと手文庫を持って澄江の部屋を出て行った。
ひとり残された志津は部屋の中を見回す。
部屋のどこかしこにも澄江の生きていた証が残っていて、文机を見れば勉強を教わった時のことを、またベッドを見れば嵐の夜に怯えた志津が澄江の布団に潜り込んで一緒に寝たことなどを思い出した。
「姉様…。私はこれからどうしたらいいのですか?」
悲しげにそう呟くが、当然澄江は何も答えてはくれない。
「私は姉様のようになりたかったのに…」
志津の目からは大粒の涙がこぼれた。
つらい時、悲しい時、そして怪我をして帰って来た時…いつでも澄江は優しく抱きしめて慰めてくれた。
それを思い出すと胸が絞めつけられてしまい、堰を切ったかのように大声で泣き出してしまう。
そんな慟哭する彼女の声を聞きつけた父親は部屋の扉を開けようとしてノブに手をかけたが、娘にかける言葉が見つからずに扉を開けずに立ち去ったのだった。
志津は澄江の位牌に手を合わせるたびにその横に置いてある手文庫のことが気になっていった。
ある夜、志津はこっそりと仏間へ忍び込み、手文庫を手にすると自分の部屋へと戻る。
そしてろうそくの明かりを頼りに蓋を開いた。
中には志津が欲しいピンク色の胡蝶蘭の髪飾りだけでなく、日記や手紙も入っている。
さっそく鏡台の前で髪を結い、髪飾りをさしてみた。
すると志津の部屋にかつて澄江が使っていた香水の匂いが漂い、鏡の中に澄江の姿が現れた。
ピンク色の胡蝶蘭の花の髪飾りをつけて、薄化粧をしているその姿は志津が憧れた澄江のままである。
「姉様…?」
澄江は生前と同じように微笑み、志津に語りかける。
「ええ、そうよ、志津。ずいぶんあなたを悲しませてしまったようね」
「うん。だけど姉様がこうして帰って来てくれたんだからもう大丈夫」
志津は嬉しそうに答える。
それからふたりは朝まで思い出話を語り合った。
鏡の中の澄江は生前の頃よりも饒舌で姿も健康そうに見えるものだから、志津には病弱だった澄江が死んで新たに健康な体に生まれ変わったように思えたのだった。
朝日が昇ると澄江は志津に別れを告げた。
「志津、お別れの時間になったみたい」
「姉様、また会える?」
「ええ。昨日と同じように夜になったらまた会いに来るわ」
そう言って澄江の姿は鏡の中から消えていった。
志津は澄江がまた会いに来ると約束してくれたことが嬉しかった。
しかしこのことが両親にバレると手文庫を取り上げられてしまうと考え、何事もなかったかのように元の場所に戻しておいたのだった。
その夜もまた深夜に澄江の手文庫を持ち出して自分の部屋で開き、前夜と同じくピンク色の胡蝶蘭の髪飾りを髪にさした。
すると澄江が鏡の中に現れ、ふたりだけの秘密の
次の日の夜、その次の日の夜…さらにまたその次の夜と、志津は毎晩徹夜で澄江と会っているので睡眠不足になっていく。
その様子を両親は訝しむが、姉が死んだのだから様子がおかしくなるのは当然だと特に気にしないようにしていた。
澄江が鏡の中に現れるようになって一週間が経った。
その間ずっと志津は澄江との楽しい時間を過ごしていたが、朝になれば消えてしまうことで「姉様はもうこちらの世界の人ではない」という事実を受け入れざるをえなくなっていった。
澄江の死を受け入れると同時に、今度は自分が澄江のように生きようと考えるようになった志津。
志津は澄江がどのように生きていたのかを知るために手文庫の蓋を開け、中に入っている日記を取り出すとそれを読み始めた。
澄江の生きていた世界は志津のそれとは共通する部分はあるものの、その多くは志津にとって新鮮なものばかりであった。
いくら姉妹だといっても別の人間なのだから当然だ。
澄江がどのような経験をし、どのように考え、どう感じたのか。
読み進めていくと彼女のその時々の思いが伝わってくる。
いや、そんな生易しいものではない。
澄江が経験したことは自分も経験したこと。
澄江の気持ちは自分の気持ち。
澄江が楽しければ自分も楽しいし、悲しいならば自分も悲しくなる。
読めば読むほど志津は自分が姉 ── 澄江になっていくと実感するのだ。
日記を読み進めていくうちに志津が想像もしていなかったことが書かれていた。
澄江が女学校に通っていた頃、彼女はとある青年と出会い恋をしたというのだ。
逢瀬を重ねて愛を育むが青年は貧しい農家の次男坊で、士族である加納家の娘とは身分が違いすぎる。
叶わぬ恋とは知りながらも止められないのが恋心というもの。
とうとうふたりは駆け落ちをすることを決めた。
ところが決行の日時まで決めたものの、その約束は果たされなかった。
そして澄江には縁談が持ち込まれ、親の決めた許婚と結婚をすることを決心する。
しかし風邪をこじらせたことで肺炎を併発してあっけなく逝ってしまったのだった。
日記を読み終えた志津は決心した。
翌朝、志津は澄江の部屋の箪笥から澄江のお気に入りの着物と帯を身に着けて、澄江と同じように髪を結った。
そしてピンク色の胡蝶蘭の髪飾りをさして鏡の前に立つと、そこ映っていたのは志津…ではなく澄江の姿であった。
志津は澄江の人生を共有し、澄江が生きられなかった人生を自分が代わりに生きようとしていた。
そのせいか自分と澄江との境界が曖昧になり、自分の姿であっても志津の目には在りし日の澄江の姿に見えたのだ。
もちろんこのことは家族に知られてはならない。
特に父親に知られたらただでは済まないだろう。
「だからこれは私と姉様、ふたりだけの秘密です」
鏡に映っている澄江 ── 志津にはそう見える ── に向ってそう言って志津は微笑んだ。
志津は澄江の手文庫の中の手紙を読むことにした。
いくら妹だといっても姉の手紙を読むなど言語道断だが、澄江としての人生を歩もうという志津にとって避けては通れない道がある。
それは姉の恋人であった青年を探し出し、なぜ駆け落ちする決行の日時まで決めたというのに約束が果たされなかった理由を突き止めること。
もし駆け落ちをしていたら、澄江には別の人生があったことは間違いない。
そして別の男性との縁談を受け入れた理由にも関係してくるのだ。
澄江の日記と青年からの手紙に書いてあった内容を手掛かりに人物像が浮かび上がってきた。
青年は二十三歳で、尋常小学校の教員として子供たちに読み書きを教えていたらしい。
ただ教員といっても平民の彼は正式な教員ではなく代用教員であったため、彼の給料では生活をしていくのが精一杯。
そんな青年が士族の娘と駆け落ちしたところで経済的に破綻するとわかって逃げたのではないかと志津は想像した。
青年の手紙には澄江に対する想いや愛の言葉が綴られていたが、愛や夢や希望だけでは現実の世界では生きていけないのだ。
志津は青年に会って澄江が死んだことを伝えようと考えた。
ただそれは親切心によるものではない。
澄江が死んだのは青年に捨てられたことで悲観し、それで家のために好きでもない男性と結婚をする道を選んでしまったのではないかと想像したからだ。
加納家の経済状況が決して好ましいものではないことを志津でも気がついていたし、銀行の頭取の息子との婚姻は両家のつながりを強めるにはうってつけであった。
澄江の命を奪ったのは病気であっても青年には間接的な責任があると考え、最愛の姉を奪われた恨み言を言って姉の無念を晴らそうというのだ。
とはいってもその青年がどこに住んでいるのかわからない。
手紙には住所は書かれておらず、郵便ではなく別の方法でやり取りをしていたようだ。
そうなると手がかりとなるのは「T」という署名と、尋常小学校の代用教員であるということだけ。
それでも探し出すのは不可能ではないと、志津はさっそく屋敷を抜け出したのだった。
市内にある尋常小学校へ赴き、該当する人物がいないかどうかを調べる。
手間はかかるものの、今の志津にとってはそんなことは気にならない。
その何かに憑りつかれたかの様子はまるで澄江が志津の体に乗り移って愛しい恋人に会おうとしているかのようであった。
青年の正体が判明したのは年が明けた一月九日。
くしくも澄江が死んでちょうどひと月経った「月命日」である。
それも澄江の導きだと信じ、志津は青年の住む家へと向かった。
志津の姿を見た青年は少し驚いたが、すぐに彼女の正体に気づいたようであった。
そして突然の訪問の理由にも心当たりがあったので、彼女を家の中に招き入れようとする。
しかし家の中は引っ越しの準備をしていて、玄関や廊下には荷造りされた木箱や旅行用トランクなどが置かれているので足の踏み場もない。
「すまない。引っ越しをすることになってね、荷物で散らかっているんだ。…縁側で話そう」
青年は志津を庭へと案内し、開け放たれた縁側に並んで腰かけた。
「引っ越しするというのは、この町から逃げようということなんですか?」
志津は嫌味を込めて訊く。
「いや、東京へ行って働くことは前々から決めていたことで逃げるという意味じゃない。ただ予定よりも半年ほど遅くなってしまったけどね」
「それは姉と駆け落ちして東京へ行くつもりだったということですか?」
「ああ。彼女と一緒に誰も知る者もいない新しい土地で生きていくつもりだったんだ」
「でもあなたと姉は別れることになってしまった。あなたは姉を捨てたんですか?」
志津がそう訊くと、青年は首を横に振って答える。
「違う。捨てられたのは僕の方だ。僕が彼女に相応しい男ではなかったから」
澄江が青年に捨てられたのではなく、逆に澄江が青年を捨てたという彼の言葉は信じがたく、志津は詰め寄った。
「姉があなたを捨てた? どういうことなんですか? 姉はあなたに捨てられたことでずいぶん気を病んでいたようでした。きっとそのせいで好きでもない男性との結婚をする気になったんですよ!」
すると青年は困ったような顔をし、立ち上がるとトランクの中から手紙の束を取り出して、その中から一番新しい日付のものを選んで志津に手渡した。
「これは?」
「君のお姉さん、澄江さんからの最後の手紙だ。これを読めば大体のことがわかるはず。読んでくれ」
澄江は封筒の裏を見てみた。
そこには「S」という署名が見慣れた澄江の筆跡で書かれている。
そして封筒の中から便箋を出す一瞬、澄江が好んで使っていた香水の香りが鼻をくすぐった。
駆け落ちをする予定だった日、澄江はこの手紙を教会の牧師に預けていた。
この教会というのは澄江と青年が逢引きをする際に使用していた場所で、ふたりの事情を知っている牧師が場所を提供し、手紙の取次をしていたという。
手紙の内容は志津にとって想像していないことが書かれていた。
青年のことは愛しているが、澄江はすべて ── 名家の家柄や誇りといったもの ── を失うことを恐れて自分から約束を破ったのだった。
さらにそれだけでなく経済的な不安を抱えて生きられるほど自分は強くない。
そんな弱い心に勝てず、裏切るような形になって申し訳ないと詫びの言葉が書かれている。
最後にもう二度と会えない、そして青年の幸せを祈るという言葉で結ばれていた。
手紙を読み終わった志津は言葉が出なかった。
自分の勘違いで青年を悪者だと思い込んでいて、すぐには謝罪の言葉が出てこなかったのだ。
青年も彼女の気持ちは理解できるからなのか、何も言わずにそばに寄り添っていた。
そして志津は短い時間ではあったが、なぜ澄江がこの青年に恋したのかがわかった。
彼がそばにいてくれるだけで気持ちが安らぎ、この人さえいれば何もいらないと錯覚を起こさせる男性なのだ。
だったらなぜ駆け落ちをしなかったのかと思うのだが、人は愛情がなければ生きていけないが、愛情だけでは生きていけないことも事実。
澄江はひとりになって冷静になるとその事実を思い出し、今の恵まれた生活を手放せなくなったのかもしれないと志津は想像した。
志津は青年に対して深々と頭を下げ、澄江の裏切りを謝罪した。
すると青年は一通の手紙を彼女に手渡して言う。
「これは僕から澄江さんへ渡そうと思っていた最後の手紙だ。その機会が訪れないままに彼女は逝ってしまったと新聞記事で知った。だから捨ててしまうつもりでいたがこうして今まで持っていた。未練…というのかな。これを君に託す。読んでもいいし、開封せずに捨ててしまってもいい。判断は君に任せる」
手紙をバッグに入れると志津は青年の家を後にした。
血のつながった姉妹であり、同じ家で暮らし同じ時間を過ごしていたといっても別の人格を持つ人間であることは確かで、志津は自分の知らなかった澄江の一面を知って動揺していた。
志津は澄江を完璧な女性として憧れていたが、澄江の人生には自分が知らなかった矛盾や弱さがあったのだ。
だからといって誰に罪があるわけではない。
ただ澄江にほんの少しの勇気があれば別の人生があったというだけのこと。
そして彼女が選んだ道を否定することのできる者など誰もいない。
志津は自分の気持ちにけじめをつけるため、夜になるのを待つことにした。
その晩、澄江の着物を着てピンク色の胡蝶蘭の髪飾りをつけた志津は鏡に映る澄江に言った。
「実は姉様の恋人…だった人に今日会って、その人からこれを預かったんですけど…」
青年からの手紙を澄江に見せる。
澄江は何もかもわかっているといった表情で答えた。
「それはそのまま焼いてちょうだい。手紙の内容は読まなくてもわかる。ここであの人の優しさに触れたらここから離れられなくなりそうだから」
「わかりました」
「それからこうしてふたりで会うのは今夜限りです。あなたは私がいなくても大丈夫だもの」
「姉様…」
「あなたはあなたらしく生きなさい。そして私の分も幸せになるのよ」
「…はい、わかりました」
志津がそう答えると澄江は満足したのか静かに微笑みながら消えていったのだった。
次の日から澄江は現れなくなった。
いくら志津が呼んでも反応はなく、鏡には自分の姿しか映らない。
それまでのことがまるで夢か幻であったかのように思えた。
(姉様に会えなくなってしまった…。寂しいけどもう悲しくはない。それに悲しんでばかりいたら姉様が成仏できなくなってしまう。きっと私が泣いてばかりいたから心配して会いにきてくれたに違いないわ)
この不思議な出来事が現実なのか幻だったのか志津にはわからない。
しかし少なくとも自分の愚かさに気づくことはできたことは確かだ。
志津は澄江が完璧な人間ではなかったのだとわかり、澄江のようになりたいという気持ちは変わらないが、澄江と自分は違う人間なのだから同じように生きることはできないと理解できた。
もし澄江の真実を知らないままでいたならば、志津も同じような道を歩いていたかもしれない。
もしこれが澄江の遺志によるものであれば、姉として己の愚かさを知ってもらうことで同じように身を亡ぼすことがないようにという澄江にできる妹への最後の贈り物であったといえよう。
翌朝、志津は澄江のように長く伸ばしていた黒髪を短く切った。
そして母に事実を告げ、手文庫の中にあった日記と手紙、そして青年から姉への最後の手紙を庭で一緒に燃やすことにした。
ピンク色の胡蝶蘭の花の髪飾りも手文庫の中に入っている。
髪を切ったのはもう髪飾りは必要ないという覚悟を形にし、毎日鏡を見ることで忘れないようにという意味だ。
(私は姉様のようになりたいと心から思っていました。でもあなたのように生きることはできません)
立ち上る煙を見上げ、心の中でつぶやく志津。
すると空の上から澄江の声が聞こえた気がした。
「そうね。あなたはあなたが正しいと思う道を進みなさい。勇気を持って何も恐れずに後悔のない人生を歩めばあなたは幸せになれるはずよ」
それが自分の願望による幻聴であったと志津はわかっているが、そっと背を押してもらえたような気持ちになり、空のかなたにいる最愛の姉に微笑むのだった。