時代・舞台
昭和38年(1963年)
地方の旧城下町。駅前では新しい商店街やビルの建設が進み、若者たちは都会へ出ていく。古くから続く商家の中には家業を畳み、土地を手放す家も増えている。
登場人物
・斎藤達彦(22歳):主人公。斎藤家の次男で嫡子。父親が他界したことで家を継ぐことになる。
・秀雄(享年18歳):達彦の腹違いの兄で19年前に病死したとされている。母親は妾で認知した父親に引き取られ母親とは別れて暮らしていた。
・清隆(享年62歳):達彦の父。斎藤商会社長。ある秘密を抱えていたが病死する。
「空が広いな…」
Ⅾ駅のホームに降り立った達彦は空を見上げて呟いた。
前夜に上野発の夜行列車に乗り、久しぶりに故郷の土を踏んだ達彦は空を仰いだ。
高度経済成長期の真っただ中、東京には高層ビルの建設ラッシュとなっていて、空の面積が日々減っていくのを肌で感じるのだが、彼の故郷のⅮ市はそんなことはなく彼が上京した時とあまり変わりはない。
それでも駅前は乗客待ちの箱型タクシーが駅前広場を
しかし気のせいかどうかわからないが、若者の姿は減ったように感じる。
来年には東京でオリンピックが開催されるということで東海道新幹線や首都高速道路などの交通網の整備が進められ、これに伴い関連する建設需要が急増した。
だからこの町からも多くの若者が自分の夢を叶えるべく大都会へと旅立って行ったのだった。
達彦が故郷に戻ったのは単なる里帰りではない。
故郷の父親が急逝したという電報を受け取って大急ぎで帰って来たのだ。
ただ故郷の空気が彼の気持ちを落ち着かせてくれた。
タクシーの運転手に「斎藤商会まで」と言うと、すぐに発車した。
この町で斎藤商会の名前や場所を知らない者はいないというほど有名だからそれだけで十分だ。
「斎藤商会といえば社長さんがお亡くなりになったそうですけど、お客さんはその関係でいらっしゃったんですか?」
運転手がそう聞くものだから達彦は普通に答える。
「はい。僕は息子の達彦です。葬儀のために帰ってきたんです」
すると驚いた運転手は慌てて返事をした。
「そ、そうですか。…ご愁傷様です」
「恐れ入ります」
会話はそこまでで、目的地に着くまでの約10分はふたりとも黙り込んでしまった。
商会の建物の裏にある屋敷では葬儀の準備が行われていた。
達彦を迎えてくれたのは彼の母親の美佐子で、正月に里帰りした時とはまるで別人のようにやつれてしまっている。
それは仕方がないこと。
社長の清隆が病に伏してからは彼女が社長代行として商会を運営していたのだから。
それでも元士族の娘だというだけあって気丈に振舞っている。
弔問客が後を絶たないため、親子の会話も後回しにして美佐子はすぐに葬儀会場となっている商会の建物へと行ってしまったのだった。
達彦は自分の部屋で荷物を紐解き、箪笥の中にある喪服を取り出してハンガーを鴨居に掛ける。
そして喪服の樟脳のにおいを消そうとして窓を開けた。
東京よりも空気は冷たく清々しくて
高度経済成長期の東京では大気汚染が深刻な問題となっていて、達彦は久しぶりに本物の空気を味わった気がした。
清隆の葬儀はつつがなく執り行われた。
戦後の復興に尽力した町の名士であったことから参列者は仕事の関係者だけでなく世話になった市民など合わせて500人以上の大規模なものとなった。
一時は焼香の列が100メートルを超え、それだけ別れを惜しむ人がいるのだと思うと達彦は胸が熱くなった。
達彦にとって父親は尊敬すべき偉大な人物であったが、それが自分でも簡単に抱えられるほどの大きさの箱に収まってしまったのを見て悲しいというよりも人というものがあまりにもあっけなく
仏間には先祖代々の位牌が並ぶ大きな仏壇があり、生前の清隆は毎朝線香をあげて拝んでいた。
「これからは拝まれる側になってしまったね、父さん」
達彦がそう言って手を合わせると、美佐子が部屋に入って来た。
彼女も達彦同様に喪服は脱いで普段着になっている。
「お疲れさま、母さん」
「ええ、あなたも昨日帰って来たばかりなのに休む間もなく大変だったわね」
「僕はたいしたことはしていないからね、疲れてなんかいないよ。それよりも母さんは喪主という大役を務めあげたんだから、今日はゆっくりと休んでよ」
「そうさせてもらうわ。あー、もうこんなことは二度とゴメンよ」
それは達彦を見送る側にはなりたくないという意味にもとれる。
もとよりそんなことをさせる気は達彦には微塵もない。
「それよりもあなたはいつまでこっちにいられるの? 学校は?」
「大学の方は問題ないよ。教授には事情を説明してあるから、しばらくはこっちにいるつもりだ」
「そう…それならお父さんの遺品の整理を手伝ってもらおうかしら」
「わかった。じゃあ、夜も遅いし今夜はこれで寝るよ。おやすみ、母さん」
「おやすみなさい、達彦」
達彦はおやすみを言うと自分の部屋に戻って行った。
初七日を終え、達彦と美佐子は清隆の遺品の整理を始めた。
清隆の部屋には彼の人柄を表すようなものがたくさんある。
大量の書籍や趣味で聞いていたレコードと蓄音機。
昭和初期に発売されたN社の電気蓄音機でクラシック音楽を聴いていた父親の姿を達彦は今でも覚えている。
それらは達彦が譲り受けるとし、サイズの合わない衣類や靴などは処分することにした。
続いて敷地の奥にある古い蔵の中にあるものを片付けようとしてふと父の言葉を思い出した。
清隆は生前、達彦にこう言っていた。
「蔵の二階にある長持は絶対に開けてはいけない。お前には関係のないことだ」
長持とは衣類や寝具の収納に使用された長方形の木箱で、達彦は父が古い帳簿や若い頃に行った大陸の土産などを入れてあるだと思いさほど気に留めなかった。
しかし美佐子が蔵の鍵を見つめながら呟く。
「お父さんは、最後まであの人のことを忘れられなかったのかしらねぇ…」
達彦が尋ねても、母はそれ以上何も答えない。
達彦は年の離れた兄がいた。
しかし自分が幼い頃に病死したと聞かされていて、顔すら覚えていない。
たぶんその兄のことであろう。
父の遺言に背くことへのためらいはあるが、だからといっていつまでもそのままにしておくことはできない。
ついに達彦は蔵の二階へと足を踏み入れた。
そこには清隆が開けるなと言っていた長持が置かれていて、開けると中には古い玩具、子供の書いた絵、そして父のものと思しき日記と書類の束が納められていた。
さらに戦前の日付が記された手紙の束が出てきた。
手紙の差出人の名前は達彦が知らない女性のもので「妙子」とだけ書かれていて住所はなかった。
その手紙には妙子という女性の父への愛情と、子供の成長を案じる言葉が書かれている。
日付からすると達彦の生まれる前のものだから、その子供とは達彦ではない。
そうなると兄の秀雄のことだと推測される。
達彦は自分と兄が腹違いの兄弟であったことに少しショックを受けたが、それ以上にショックなことが続いた。
古い新聞の切り抜きには、清隆が戦時中にこの町で起きた事件の関係者であると書かれていた。
しかし証拠はなく戦中の混乱の中でうやむやになってしまい、そんな事件があったことすら忘れ去られて今では誰も覚えていないようである。
そしてその事件が起きたタイミングと兄の死亡時期が妙に近いということに気がついた。
達彦は兄の死が単なる病死ではなかったのではないかと疑う。
そして独自に調査をすることにした。
長持の中の仕事関係の書類と日記を持ち出し、自分の部屋で調べ始めた。
さらに町の中で当時のことを知っていそうな年寄りにさりげなく訊いてみた。
しかし調査を進めるほど、証言は食い違う。
秀雄は病死したという者、徴兵されて町を出たという者、仕事関係で清隆と対立していたという者もいる。
母は「家のためには仕方がないことだった」と言うだけで、真相を明かさない。
そして「あなたは何も知らない方がいい」と言って口を噤んでしまうのだ。
尊敬する父。
そんな父がある事件の容疑者だと疑われ、同時期に兄が死亡しているというのだから真実を知りたいと思うのが人としての性分というもの。
とうとう達彦は父の日記を開くことにした。
父親のプライバシーを暴くようで心苦しいのだが、目を瞑って耳を塞ぐことは達彦にはできなかったのだ。
そしてそこには信じがたいことが書かれていた。
斎藤家は大陸との交易を行うことで事業を拡大してきた貿易商である。
祖父が父に当主を譲り、父はそれを受け継ぎ、さらに秀雄に当主を譲るつもりでいた。
兄は優秀で、父の望むような後継者になりつつあった。
しかし兄は本妻の子ではなく、芸者に産ませた庶子である。
ただ当時はまだ達彦が生まれる前で、自分の後継者を欲した父が認知して斎藤家に引き取った。
戦前の日付が記された手紙の束の差出人・妙子は秀雄の実母だった。
本妻である美佐子はわが子同様に秀雄を可愛がり、清隆は後継者にと厳しく育てた。
ところが昭和16年12月8日 ── 日本軍がハワイの真珠湾を攻撃して太平洋戦争が開戦したまさにその日に達彦は生まれた。
当時15歳の兄は達彦の誕生を喜び、大きくなったら一緒に遊んだり勉強を教えてやるのだと張り切っていたらしい。
それから3年経ち、戦争は日本国民を追い詰めていった。
昭和19年の冬に秀雄にもとうとう召集令状が届いた。
その翌日に悲劇は起きたようだ。
それからしばらく清隆は日記を書いていなかった。
そして10日ほど経って日記は再開した。
その内容は信じがたいものであった。
日記とはその日の出来事や感想を記録するものなのだが、そこには清隆の懺悔ともいうべき告白が記されていたのだ。
斎藤商会は表向き
秀雄は清隆や自分の仕事が正しいことだと信じ切っていた。
薬は戦場で苦しむ兵士を助けるものだと言われていて、それを疑うことなく銃後の守りとして精一杯働いていた。
ところがその薬で父親と軍の一部の人間が利益を得ていたのだと知ってしまった。
「必要悪」という言葉があり、もちろん秀雄はその意味も知っている。
しかし彼の正義はそれが許せなかった。
公にすべきだという秀雄だが清隆はそれに反対し、言い争いになって清隆は秀雄の言葉に理性を失い殴りつけてしまった。
ところが倒れた秀雄は運悪く部屋にあったレンガ造りの暖炉の角に頭を強打してしまい、そのまま死んでしまったのだった。
いくら過失の事故であっても父親が息子を殴って死なせてしまったっことには変わりない。
秀雄の死が病死ということになったのは、清隆がいろいろと手を回して真実を隠蔽したからである。
家名を守るためだといいながらも、結局は自分の身可愛さから嘘をついた。
秀雄には申し訳ないことをしたという言葉で締めくくられていた。
達彦は父の名誉を守るべきか、それとも真実を公にするべきか迷った。
そして彼は後者を選んだ。
秀雄と同じくそれが彼の正義であったからだ。
蔵から持ち出した書類を町の新聞社へ渡すことに決めた。
高校の同級生の父親が記者をやっている新聞社へ言って事情を話すが、記者は記事にすることをためらう。
清隆は町の復興に尽くした人物として知られており、今さら故人の過去を掘り返すような非礼はできないし、町全体の傷を広げることになるというのだ。
しかしここで退くことはできないと、達彦は一編の短編小説を書きあげた。
登場する人物や団体などはすべて架空のものにしたが、清隆の日記と残されていた帳簿などを精査した結果であるから内容はほぼ事実のフィクションである。
タイトルは『白い粉の勘定書』。
内容は昭和十八年から昭和二十年の終戦まで、地方の貿易商と軍部の癒着を描く
昭和十八年、初夏。
北陸のとある港町に貿易会社「鷹司商会」があった。
かつて藩主に仕えた鷹司一族は明治維新で禄を失い、やがて薬種や織物、機械部品を扱う商人へと転じた。
社長の鷹司俊光は四十二歳。
時勢を読むことに長け、軍需の拡大を機に会社を急成長させていた。
その繁栄の陰には陸軍少将・黒田重蔵の存在があった。
彼は五十四歳。
黒田もまた旧士族の出で、地元の駐屯部隊を取り仕切る立場にあった。
軍服の襟には長年の功績を示す徽章が光っている。
二人の関係は表向きには軍需物資の調達をめぐる協力にすぎない。
鷹司商会は医薬品や包帯、保存食を軍へ納め、黒田はその便宜を図る。
しかし帳簿に記された取引の一部は実際に運ばれた品とは一致していなかった。
ある夜のこと、俊光の執務室に黒田が訪ねて来た。
「今回の荷はいつもの薬種とは違うな」
黒田が低い声で言う。
「アヘンです。加工前のものと、モルヒネ。それに少量のヘロインも」
俊光は平然と答えた。
「医務局への納入という名目にしてあります。しかしすべてが軍の医療施設へ届くわけではありません」
黒田は窓の外を見た。
港には夜陰に紛れて荷を積む船の影がある。
「戦争には金がかかる。中央から降りてくる予算だけでは現場は回らん。お前も商売人ならわかるだろう」
「もちろんです。軍が私どもの荷を必要とし、私どもが軍の信用を必要とする。それだけのことです」
俊光の言葉には罪悪感の響きはなかった。
しかし扉の向こうで俊光の十八歳の息子・修一が立ち尽くしていた。
父の書斎に届ける書類を手にしたまま彼は二人の会話を聞いてしまったのである。
修一は俊光を尊敬していた。
古い家柄の誇りを守りながら時代に合わせて商売を切り開く父は彼にとって成功者そのものだった。
だが薬物の名を聞いた瞬間、胸の奥に冷たいものが走った。
「父上……あの薬は何に使われるのですか?」
翌朝、新聞を読んでいた俊光に修一が尋ねると、俊光は新聞から目を上げた。
「傷ついた兵士の痛みを和らげるために決まっている」
「ではなぜ医務局に届かない分があるのですか?」
俊光の顔から笑みが消えた。
「お前はまだ世の中を知らん。戦争はきれいごとだけでは動かない。軍が求めるものを用意し、こちらが利益を得る。それが商売というものだ」
「人を救う薬で誰かが利益を得るのは悪いことではないと思います。でも必要な人に届かないのなら…」
「黙れ」
俊光の声が鋭く響いた。
「鷹司の名を守るとはそういうことだ。家を守り、従業員を食わせ、取引先を生かす。お前の正義だけで何百人もの暮らしが成り立つと思うな」
修一は返答できなかった。
戦況は悪化の一途をたどっていた。
鷹司商会の倉庫には軍用の薬品が次々と運び込まれた。
モルヒネの小瓶は木箱に収められ、アヘンは薬種の荷に紛れ込む。
帳簿の上ではすべてが軍の管理下にあることになっていた。
だが黒田の指示で一部の荷は別の船へ移され、行き先を記さぬまま港を離れていった。
俊光はその利益で倉庫を増築し、従業員の家族に配給物資を融通した。
町の人々は彼を頼り、軍も彼を重宝した。
誰もが彼を立派な実業家と呼んだ。
修一だけが帳簿の数字を見るたびに疑念を深めていた。
昭和十九年の冬、彼は倉庫の奥で破棄されるはずの書類の束を見つけた。
そこには医務局への納入量と実際に受領された量の食い違いが記されていた。
さらに薬品の売却益の一部が黒田の関係者へ渡ったことを示す覚書もあった。
薬は負傷兵のためだけに動いていたのではない。
軍の権威を借りて荷を通し、会社の利益を膨らませ、その一部を軍の責任者へ還流させる。
旧士族という共通の出自と地元の人間関係がその仕組みを支えていたのだ。
修一は書類を父の前に置いた。
「これを公にしてください」
俊光は長い沈黙の後に言った。
「公にすれば会社は潰れる。従業員も路頭に迷う。黒田はお前を反逆者として扱うだろう」
「このまま隠し続けるおつもりですか?」
俊光は書類を握りしめた。
「…お前には私が悪人に見えるか?」
「わかりません。ただ父上が何を守ろうとしているのかわからなくなりました」
俊光は答えなかった。
昭和二十年八月。
終戦の報が届いた日、港町は奇妙な静けさに包まれていた。
軍の倉庫では書類が焼かれ、鷹司商会でも帳簿の一部が炉にくべられた。
黒田は俊光を訪ね、炉に書類を放り込む俊光の背後に立って言う。
「時勢が変わったな」
「ええ」
「これまでのことは互いに忘れるべきだろう。国のために必要だった。それだけだ」
俊光は机の上に置かれた一冊の帳簿を見つめた。
それは修一が隠し持っていたものだった。
薬品の数量、日付、船の名、金の流れ。
そこには俊光と黒田が歩んだ五年間の痕跡が残されていた。
「国のため、ですか…」
俊光は初めてその言葉を疑うように口にした。
「兵士のためと言い、会社のためと言い、家のためと言う。だがその陰で何が失われたのか私は考えようともしなかった」
黒田の目が細くなった。
「鷹司、お前も同じ穴のムジナだ。今さら正義漢ぶるな」
「その通りです」
俊光はうなずいた。
「だからこそ、せめて記録は残します」
黒田は何も言わず部屋を去った。
その後、鷹司商会は軍との関係を追及されたが証拠不十分でうやむやとなってしまう。
しかし事業の縮小は免れず、俊光は修一に商会を託してビジネスから引退した。
修一は父を許せなかったが、それでも父が何を恐れていたのかを理解しようとした。
焼け跡の広がる港で修一は小さな薬瓶を拾った。
ラベルは剥がれ瓶の底には白い粉がわずかに残っていた。
それが何の薬だったのか、もう確かめる術はなかった。
ただ戦争が終わっても薬の行き先を決めた人間たちの責任まで消えるわけではない。
修一は瓶を布に包み帳簿とともに箱へ収めた。
箱の蓋には父の筆跡で短く記されていた。
「利益は数字に残る。罪は誰の帳簿に残るのか?」
昭和二十年の夏の終わり、港を吹き抜ける風は何も答えなかった。
書き終えた達彦は原稿用紙を封筒に入れ、同じものを二部作った。
一部は出版社へ持ち込んで、それを何等かの手段で上梓するため。
もう一部は清隆と秀雄に捧げるためだ。
達彦は蔵へと行くと持ち出した清隆の書類や日記、子供の頃の兄の玩具、兄の母親からの手紙など彼らの
なぜこのようなことをしたのかというと、それは父の遺したものを守るためではなく何があったのかを忘れないためだ。
そして物語では息子は死なずに商会を継ぐことになっている。
それは現実世界で若くして亡くなった兄への手向けというか、救いがあってもいいではないかという達彦の想いによるものだ。
作業を終えると扉の鍵をかけて、達彦は蔵を後にした。
それからしばらくして秀雄の月命日だからと墓参りをするために出かけた達彦。
菩提寺の墓地へ行くと斎藤家の墓を前に還暦を少し過ぎたくらいの年齢と思われる女性が手を合わせていた。
彼女は妙子と名乗り、息子の月命日だからと墓参りに来たのだと言う。
初めて顔を合わすふたり。
達彦は自分が秀雄の弟だと言うと、妙子は複雑な笑みを浮かべた。
妙子は息子が病死したという話を信じていて、戦争に行って南の島や大陸で苦しんで死んだのではなく家で家族に看取られて死ねたのだから幸せだっただろうと言う。
真相を知っている達彦は複雑な気持ちだったが「そうですね」とだけ答えて去って行った。
ひとりになった達彦は花屋で買った花を墓前に供えた。
きれいな青紫色のリンドウの花。
この花を選んだ理由は他でもない。
生前の秀雄が一番好きだった花だからだ。
晴れた秋の日、鐘形の花が上向きに咲いている姿が力強くて美しく、自分もそうありたいのだと言っていた。
そう清隆から教えてもらったことがあった。
たしかに清隆は墓参りの時だけでなく仏壇にもよくこの花を供えていた。
だから達彦も迷うことなくこのリンドウの花を選んだのだった。
「兄さん、あなたの遺志は僕が継ぎます。もうすぐ父さんがそちらへ行きますけど、もう言い争いなんかしないで仲良くしてください」
達彦の声が秀雄に届いたのか、リンドウの花が返事をするように風に揺れていた。