七番街スラムに、夕暮れが訪れようとしていた。
頭上を覆う巨大なプレートの隙間から、わずかに差し込む夕陽が、錆びついた鉄骨や継ぎ接ぎだらけの建物を赤く染めている。
仕事を終えた人々が家路を急ぎ、通りには夕食の支度をする匂いが漂い始めていた。遠くから聞こえる子供たちの声に、誰かの笑い声が重なる。
忙しなくも、どこか穏やかな七番街の夕暮れ。
そんなスラムの一角に、まだ明かりの灯っていない酒場があった。
セブンスヘブン。
夜になれば仕事帰りの客や常連たちで賑わうその店も、開店前の今は静かなものだった。
カウンターの内側では、一人の青年が小さな革鞄を広げている。
藍を溶かし込んだような黒髪を、装飾の施された二本の簪で緩くまとめ、顔の両側には長い髪を残していた。鼻梁には色付きの丸眼鏡が乗り、その奥から覗く琥珀色の瞳が、手元の小瓶へと注がれている。
色白で細身の、すらりと背の高い青年だった。
白く長い指先が、鞄に収められた小瓶を一本ずつ取り上げていく。
その両手には、蛇を象った精緻な刺青が施されていた。
右手の甲には、濃い葵色の墨で描かれた蛇の頭。その閉じた口には、小さな赤い彼岸花が一輪、そっと咥えられている。
対する左手には、同じ色の蛇の尾が伸び、細い中指へ絡みつくように刻まれていた。
白い肌に浮かび上がる深い葵色と、鮮やかな赤。
小瓶を持ち替えるたびに指先の模様がわずかに形を変え、まるで蛇が静かに身じろぎしているかのように見えた。
青年はそんな刺青など気に留める様子もなく、小瓶の中身を光に透かし、封を確かめ、問題がなければ元の場所へ戻していった。
慣れた手つきで最後の一本を収めると、満足そうに頷く。
「……うん。こんなものかナァ」
青年――シオンは鞄の留め具を閉じ、カウンターの下へしまい込んだ。
ここは酒場だ。薬品を客の目につく場所へ広げておくわけにもいかない。
もっとも、開店準備より先に仕事道具の確認をしているあたり、どちらが本業なのか少々怪しいところではあったが。
「さて、と。そろそろグラスでも――」
入口の扉が、小さく軋んだ。
シオンが顔を上げると、半開きになった扉の向こうから、一人の男が通りを窺っていた。
深くかぶったハンチング帽に、くたびれた上着。小柄な体つきと皺の刻まれた顔は、どこにでもいそうな年配の男を思わせる。
しかし、帽子の陰から覗く目だけは妙に鋭かった。
男は通りを行き交う人々を何気なく眺め、ようやく店内へ足を踏み入れた。
「……邪魔するぞ」
「おやァ。ずいぶん慎重なご来店だネェ」
シオンはカウンターに頬杖をつき、のんびりと笑った。
「今日はお酒? それとも、また面倒な相談かナァ?」
「開店前から飲みに来るほど、暇ではないのでな」
「んふふ。それは残念」
「お前さん、少しは人の話を聞く気にならんのか」
「聞いてるじゃないカァ。で、今日は何を持ってきたの?」
男は呆れたように鼻を鳴らすと、懐から小さなガラス瓶を取り出した。
カウンターに置かれた瓶の中で、白く濁った液体がゆっくりと揺れる。
「……また妙なものを持ってきたネェ」
「妙なものだから、お前さんに見せに来たんだろう」
「それもそうだネ」
シオンは瓶を手に取り、夕陽へかざした。
「どこから?」
「ウォール・マーケットだ。近頃、質の悪い連中が流しているらしい」
「へェ……」
「何人かの手を経由している。製造元はまだわからんが、使った者の話では、ひどく気分がよくなるそうだ」
「……ふぅん?」
「嫌なことも忘れられる。何も考えずにいられる。そんな触れ込みらしいな」
シオンは瓶を傾けた。
白濁した液体が硝子の内側をゆっくりと伝い、薄い膜を残す。
「ずいぶん都合のいいお薬だネェ」
「そういうものほど、裏がある」
「んふふ。違いない」
男はカウンターへ肘をつき、声を落とした。
「効き目が早いという話もある。妙に手放せなくなる者もいるようだ」
「なるほどネェ……」
シオンはしばらく瓶を眺めていたが、やがて先ほど片づけた革鞄を引き寄せた。
中から小さな試験紙と器具を取り出し、採った液体をわずかに調べる。
目立った反応はない。
それでも、シオンの視線は瓶の中身から離れなかった。
「……ふぅん」
「どうだ?」
「この場じゃ詳しいことまではわからないネェ」
瓶を光に透かしながら、シオンは小さく首を傾げる。
「ただ、ちょっと気になるかナァ」
「何がだ?」
「んー……」
シオンは答えず、瓶の蓋を開けた。
ほんのわずかな液体を取り、そのまま舌先へ触れさせる。
「――おいッ!」
ばんっ、と男の手がカウンターを叩いた。
「何をしておるんだ、お前さんは!」
「ん?」
「ん、じゃない! 今、それを舐めただろう!」
「うん。確認したくてネ」
「正体もわからん薬だぞ!」
「だから確認してるんだけどナァ」
「そういう問題ではない!」
男は額に手を当て、深々と息を吐いた。
目の前の青年は、叱られているというのに涼しい顔をしている。
それどころか、口の中に残る感覚を確かめるように、ゆっくりと舌を動かしていた。
嫌な甘みがあった。
舌先をじわりと痺れさせるような、まとわりつく感覚。その奥を、一瞬だけ奇妙な心地よさがかすめていく。
けれど、それもすぐに薄れてしまった。
「……あァ」
シオンは小さく頷いた。
「なるほどネェ」
「なるほど、ではない。大丈夫なのか、お前さん」
「んー? 今のところはネ」
「今のところ、とは何だ!」
「心配性だネェ」
「お前さんが無頓着すぎるんだ!」
もっともな言い分だった。
しかし、シオンはくすくすと笑っている。
「……まったく。頭の切れる馬鹿ほど厄介なものはないな」
「おやァ。褒め言葉かナ?」
「どこをどう聞けばそうなる」
「んふふ」
男が盛大なため息をつくのを横目に、シオンは瓶の蓋を閉めた。
それから懐から薄い布を取り出し、口元を丁寧に拭う。
「……あァ、これネェ」
その声に、男が顔を上げた。
「ずいぶんと質が悪いネェ」
「……そこまでか?」
「うん。あんまり感心しないナァ」
シオンは布を畳みながら、何でもないことのように続ける。
「気分をよくするだけなら、まだしもネ。考える力まで鈍らせて、それに慣れさせようとしてる」
「……依存させるための薬、ということか」
「その可能性は高いネェ。しかも、効き始めるのが早そうだ」
男は懐の瓶を見下ろし、低く唸った。
「……思っていた以上に厄介な代物だな」
「んふふ。僕なら、早々に手を切った方がいいと思うけどネェ」
「お前さんにそう言われると、さすがに笑えんな」
「そう? 僕、結構真面目に言ってるんだけどナァ」
「……それはわかっている」
男は瓶を懐の奥へしまい込んだ。
「こちらでも扱っている連中には近づかんようにする。出所については、もう少し探ってみよう」
「助かるヨォ。ほかにも何かわかったら教えてネ」
「わかった。ただし、お前さんも変な真似は控えることだ」
「はいはァい」
「……返事だけはいいな」
男は小さく首を振った。
それでもシオンの腕を疑っているわけではないのだろう。男はそれ以上何も言わず、ハンチング帽をかぶり直すと入口へ向かった。
外では夕陽がさらに傾き、通りを行き交う人々の影が長く伸びていた。
男が扉に手をかけた、そのとき。
「……ああ、そうそう」
背後から、のんびりとした声がかかる。
「ん?」
「そういえば、あの話はどう流れた?」
男の手が止まった。
半開きの扉から通りの様子を確かめ、近くに人影がないことを見届ける。
それから、振り返らないまま声を落とした。
「……言われた通りにしてある」
「ふぅん?」
「仲介屋を何人か挟んだ。情報屋にも、それぞれ別の筋から話を流させている」
シオンは黙って耳を傾けていた。
「今のところ、不自然な広まり方はしていない。誰が最初に口にした話なのかも、簡単にはわからんだろう」
「……そっカァ」
「ただし、どこまで届くかは保証できんぞ。噂というものは、そう都合よく動いてはくれんからな」
「んふふ。構わないヨ」
シオンはカウンターの下から煙草を一本取り出した。
唇にくわえ、慣れた手つきで火を灯す。
ゆっくりと煙を吸い込み、細い紫煙を吐き出した。
「自然に流れてくれれば、それでいいのサ」
「……お前さん、本当にそれでいいのか」
「うん?」
男は振り返った。
帽子の陰から覗く目が、カウンターの向こうにいる青年をまっすぐ捉える。
「今の話が、どういう結果を招くか。わかっていないわけではあるまい」
「もちろん」
シオンは煙草を指先に挟んだ。
その口元が、ゆっくりと持ち上がる。
「……それに食らいついてくれればいいんだからサ」
いつもと変わらない、柔らかな声だった。
けれど。
色付きの丸眼鏡の奥で、琥珀色の瞳が細められる。
笑みを深くしたその顔には、先ほどまでの人懐っこさとは異なる、どこか底知れない愉悦が滲んでいた。
男の背筋に、ひやりとしたものが走る。
この青年が、何を流させたのか。
そして、その先に何を待っているのか。
男は知っている。
少なくとも、その企みが決して穏やかなものではないことくらいは。
それでも、シオンの胸の内までは読めなかった。
「……まったく」
男は帽子を目深にかぶり直した。
「お前さん、いつか痛い目を見るぞ」
シオンはくすりと笑った。
「んふふ。そうかナァ?」
「忠告だ。少しは覚えておけ」
「はいはァい」
男は呆れたように息を吐いたが、それ以上は何も言わなかった。
扉を押し開け、夕暮れの通りへと姿を消す。
シオンはその背中を静かに見送った。
やがて扉が閉まると、店内には再び静けさが戻った。
カウンターに軽く腰を預け、指先の煙草を口元へ運ぶ。
「……さて」
白い煙が、薄暗い店内をゆっくりと漂っていく。
噂というものは、不思議なものだ。
誰かの口から、誰かの耳へ。
そこからまた別の誰かへと渡るうちに、話は少しずつ形を変えていく。
誰が拾い、どこへ運んでいくのか。
そのすべてを思い通りにすることなど、できはしない。
だが、拾う人間によっては、ほんの些細な話が思いもよらない意味を持つ。
シオンは細く煙を吐いた。
脳裏に浮かんだのは、一人の男。
慎重で、抜け目がなく、仕事となればどこまでも手を伸ばしてくる。
疑わしいものを見つければ、見過ごすことはないだろう。
たとえ、最初は取るに足らない噂だったとしても。
シオンの唇に、かすかな笑みが浮かぶ。
「……あいつなら、きっと来るだろうネェ」
その声には、どこか待ち遠しそうな響きさえあった。
もっとも、期待通りに事が運ぶかどうかは別の話だ。
シオンはもう一度煙を吸い込み、やがて短くなった煙草を灰皿へ押しつけた。
ふと、カウンターへ目をやる。
グラスは、まだ半分しか並んでいない。
「…………あ」
すっかり忘れていた。
そのとき、入口の扉が開いた。
「ただいま、シオン」
買い物袋を抱えたティファが、店内へ入ってくる。
「おかえり、ティファちゃん」
いつもの調子で迎えると、ティファはカウンターに並んだグラスを見て、小さく首を傾げた。
「……あれ? 準備、まだ途中?」
「いやァ、ちょっと考え事をネ」
「もうすぐ開店よ?」
「おっと。そりゃいけないネェ」
シオンは何事もなかったようにグラスを手に取った。
その様子に、ティファは呆れたように笑う。
「もう。じゃあ、私は買ってきたものを片づけるね」
「助かるヨォ」
「あとでちゃんと手伝ってよ?」
「もちろん。僕、一応ここの店主だからネェ」
「一応、なの?」
「んふふ。そこは気にしない、気にしない」
ティファは思わず吹き出した。
店の奥へ向かう彼女の背中を見送り、シオンも残りのグラスを並べ始める。
その口元には、先ほどとは違う、柔らかな笑みが浮かんでいた。
外では夕暮れの赤い光が薄れ、七番街の通りにぽつぽつと明かりが灯り始めている。
仕事帰りの人々が行き交う足音に、どこかの家から響く夕食の呼び声。
間もなく、この店にも馴染みの客たちが顔を見せることだろう。
シオンは最後のグラスを棚へ収め、店内を見渡した。
「……さァて。今夜も忙しくなるかナァ」
「シオン、そっちの準備が終わったら手伝ってくれる?」
奥からティファの声が飛んでくる。
「はいはァい。今行くヨォ」
返事をしながらカウンターを離れるシオンの足取りは、いつもと変わらず軽やかだった。
やがて、セブンスヘブンの明かりが灯る。
七番街スラムの夜が始まろうとしていた。
その穏やかな日常の外側で、小さな噂が少しずつ人々の間を渡り歩いていることなど、まだ誰も知らない。
はじめまして!
そして、始めましたFF7小説w
作成はAiと主につくってますので、読み直して編集してますが誤字脱字あるやもしれません。その時は優しく指摘してくださると助かります。感想はもっと舞い上がります←
一応原作沿いにしてシオンを物語に馴染ませていますが、所々設定をいじってる部分はありますがご了承ください。
それに伴い、1話ごと長さもまちまちです。
わたくしめの妄想に暫しお付き合いくださいませ
では、次回もお楽しみに