セブンスヘブンは、その夜も賑わっていた。
店内には客たちの笑い声が重なり、グラスが触れ合うたびに澄んだ音が響く。厨房からは油のはねる音とともに、焼いた肉の香ばしい匂いが漂っていた。
開け放たれた扉から入り込む夜風が、酒と料理の匂いをわずかに揺らす。
カウンターの向こうではティファが手際よく注文をさばき、シオンは出来上がった料理を運びながら、店内の様子に目を配っていた。
「シオン、そっちの注文お願い!」
「はいはァい、ただいまァ」
シオンはカウンターに置かれたグラスを取り、待っていた客の前へ滑らせた。
「お待たせしましたァ。ごゆっくりどうゾ」
「おう、ありがとな!」
常連客の笑顔に、シオンもいつもの調子で微笑み返す。
仕事帰りの客たちは思い思いに酒を楽しみ、隣の席からは今日あった出来事を大げさに語る声が聞こえていた。
いつもと変わらない、セブンスヘブンの夜。
ただ、ティファは時折、入口へ視線を向けていた。
「……ティファちゃん」
「えっ? なに?」
「さっきから、ちょっと上の空だヨ?」
シオンがカウンター越しに首を傾げると、ティファは慌てて手元へ視線を戻した。
「そ、そんなことないよ」
「そうかナァ?」
「もう、シオンったら」
困ったように笑いながら、ティファは乾いた布でグラスを磨き始める。
シオンはその様子を眺めていたが、それ以上は追及しなかった。
「んふふ。なら、いいんだけどネェ」
ティファも小さく笑い返したものの、胸の奥に残る落ち着かなさは消えなかった。
クラウド。
久しぶりに再会した幼なじみの顔が、ふと浮かぶ。
もう一度会えるなんて、思っていなかった。
懐かしいはずなのに、実際に顔を合わせると、何から話せばいいのかわからなくなってしまう。
変わらないところもある。
けれど、昔の記憶とどこか噛み合わないような、不思議な感覚もあった。
それが何なのか、ティファ自身にもまだわからない。
今はただ、無事に帰ってきてほしかった。
クラウドも、バレットたちも。
ティファは小さく息を吐き、グラスを棚へ戻した。
そのときだった。
チン、と小さな音がした。
カウンターに置かれたグラスが、かすかに震えている。
「……ん?」
シオンが手元へ目を落とすと、グラスの中の酒に細かな波紋が広がっていた。
「おい、今揺れなかったか?」
近くにいた客が、テーブルの上を見下ろした。
「ん? そうか?」
別の客が笑いかけた、その瞬間。
遠くから、低い轟音が響いた。
腹の底を震わせるような重い音が、床を伝って店内へ押し寄せる。
棚に並んだ酒瓶がかすかに触れ合い、窓ガラスが細かく震えた。
「うわっ!」
入口近くの客が思わずテーブルへ手をつき、その拍子にグラスがひとつ床へ落ちた。
乾いた音を立てて硝子が砕け、こぼれた酒が床板へ広がっていく。
先ほどまでの笑い声が、ぴたりと途切れた。
「……なんだ、今の?」
「どっかで爆発でもあったのか?」
「いや、ずいぶん遠くから聞こえたぞ……」
客たちは互いの顔を見合わせた。
誰かが入口へ振り向き、別の誰かが椅子から腰を浮かせる。
シオンも手を止め、音のした方角へ目を向けた。
(……魔晄炉の方かナァ)
今夜、壱番魔晄炉へ向かった者たちがいる。
偶然にしては、あまりにも気になるタイミングだった。
「……シオン」
小さな声に振り返ると、ティファがこちらを見ていた。
磨きかけのグラスを手にしたまま、不安そうに眉を寄せている。
その視線が何を尋ねているのか、シオンにはすぐにわかった。
けれど、ここは客のいる酒場だ。
事情を知らない者たちの前で、迂闊なことを口にするわけにはいかない。
シオンはいつもの笑みを浮かべ、わずかに肩をすくめた。
「……まだ、何とも言えないネェ」
「……うん」
ティファは小さく頷いた。
それでも、不安げな表情は晴れなかった。
シオンはそれ以上何も言わず、床に散らばった硝子へ目を向けた。
「お怪我はありませんかァ?」
「あ、ああ。大丈夫だ」
「それならよかった。破片があるから、足元に気をつけてネェ」
近くの客へ声をかけ、シオンは片づけに取りかかった。
その間にも、店の外は少しずつ騒がしくなっていた。
通りを走る足音。
誰かを呼び止める声。
何が起きたのかと尋ね合う人々のざわめきが、開いた扉から流れ込んでくる。
「おい、外が騒がしいぞ」
「さっきの音と関係あるんじゃないか?」
「ちょっと様子を見てくる」
何人かの客が入口へ向かった。
シオンは床の破片を片づけながら、時折、店の外へ視線を向ける。
遠くで何が起きているのか、ここからは見えない。
聞こえてくるのも、誰かが誰かから聞いたという曖昧な話ばかりだった。
ティファも仕事を続けていたが、入口の扉が開くたびに顔を上げていた。
シオンはその様子に気づいていたものの、何も言わなかった。
今は、確かなことが何ひとつわからない。
ただ、時間だけが過ぎていく。
それから、しばらくして。
壁際のテレビから、短い電子音が鳴った。
『番組の途中ですが、緊急速報をお伝えします』
普段の番組が途切れ、画面が切り替わる。
神羅カンパニーのロゴが映し出されると、店内にいた客たちが一斉に顔を向けた。
『神羅カンパニー危機対策本部によりますと、先ほど壱番魔晄炉が何者かによる攻撃を受け、爆破されました』
アナウンサーの声が、静まり返った店内へ響く。
『現場では現在も火災が続いており、壱番街および八番街の一部では警戒が呼びかけられています』
『周辺地域の皆様は、今後の神羅カンパニーからの発表にご注意ください』
「……壱番魔晄炉?」
誰かが呟いた。
「おい、さっきの音って……」
「魔晄炉が爆発したっていうのか?」
「そんな馬鹿な……」
客たちのざわめきが広がっていく。
ティファは磨いていたグラスを静かに置いた。
壱番魔晄炉。
その名前を聞いた瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
バレットたちは、そこへ向かった。
クラウドも一緒に。
ティファは無意識に手元の布を握りしめていた。
その隣で、シオンは黙ってテレビを見つめている。
やがて画面が切り替わり、爆発現場周辺の映像が映し出された。
黒煙が立ち上り、崩れた構造物の間で炎が揺れている。
瓦礫が散乱した通路や破損した設備。周辺にも広がっているらしい被害の跡が、映像の中に次々と現れる。
「…………」
シオンの目が、すっと細められた。
(……おかしい)
以前、ジェシーと爆薬の威力について計算したことがあった。
使用する爆薬の性質や量、設置する場所によって生じる影響。
いくつかの条件を変え、慎重に計算を重ねたことを覚えている。
だが、画面に映る被害は、その想定を明らかに超えていた。
(……あの程度の量で、ここまで?)
シオンは眼鏡の奥で目を細めた。
魔晄炉内部に存在する高濃度の魔晄。
その一部が気化していた可能性まで考慮すれば、爆発の規模が大きくなること自体は不思議ではない。
しかし、それでも何かが合わない。
(……魔晄の影響か。それとも……)
そこで思考を止めた。
映像だけでは、実際に何が起きたのか判断できない。
爆発の正確な位置も、現場の状況もわからない。
今はまだ、答えを出すには材料が足りなかった。
「……妙だネェ」
誰にも聞こえないほど、小さく呟く。
ティファが隣で息を呑む気配がした。
シオンはそっと視線を向ける。
テレビを見つめる彼女の顔には、隠しきれない不安が浮かんでいた。
今、彼女に話すべきことではない。
爆発の規模がどうであれ、まずは仲間たちが無事に帰ってくることが先だった。
そのとき、店の隅から小さな声が聞こえた。
「……ねえ、ティファ」
マリンだった。
いつもなら店内の賑わいにも慣れている少女が、今は椅子の端に座り、落ち着かない様子で入口を見つめている。
「どうしたの、マリン?」
ティファがそばへ歩み寄る。
「……とうちゃん、まだ帰ってこないの?」
ティファは一瞬、言葉に詰まった。
マリンは、バレットたちが今夜どこへ向かったのか知らない。
ただ、父親の帰りが遅いことはわかっていた。
それに、さっきの大きな音。
店にいた大人たちが急に騒ぎ始め、テレビからは怖いニュースが流れている。
何が起きているのかわからないからこそ、不安だった。
「……とうちゃんも、あの音、聞いたかな?」
マリンは入口へ目を向けた。
「怖くなかったかな……」
「マリン……」
ティファがしゃがみ込み、マリンの小さな手を握った。
「大丈夫。きっと帰ってくるよ」
「……ほんと?」
「うん」
ティファは優しく微笑んだ。
シオンも二人のそばへ歩み寄り、長い身体を屈めてマリンと目線を合わせる。
「んふふ。旦那なら、ちょっとやそっとじゃへこたれないからネェ」
「……うん」
マリンは小さく頷いたものの、まだ少し元気がない。
シオンはその様子を眺め、ふと思いついたように首を傾げた。
「そういえばサァ、マリン」
「……なあに?」
「旦那が帰ってきたら、いっぱいお話ししてあげないとネェ」
「お話?」
「今日も何か楽しいことがあったんじゃないカァ? 旦那、マリンのお話を聞くのが大好きでしょ?」
マリンは少し考えるように目を伏せた。
それから、ぱっと顔を上げる。
「あっ! 今日ね、ベティの猫と遊んだの!」
「おやァ、猫ちゃん?」
「うん! 三匹とも白くってね、すっごく可愛いの!」
マリンは両手を広げ、身振りを交えながら話し始めた。
「それでね、一匹がぴょーんって跳んでね! もう一匹が追いかけて……!」
「へェ、そりゃ賑やかだっただろうネェ」
「うん! とっても!」
シオンは楽しそうに頷いた。
「んふふ。じゃあ、旦那にも教えてあげないとネェ」
「うん! いっぱいお話しする!」
マリンの顔に、ようやく明るい笑顔が戻った。
ティファもその様子を見て、ほっとしたように微笑む。
「ふふっ。バレット、きっと喜ぶね」
「うん!」
マリンは元気よく頷いた。
シオンはその頭をそっと撫でる。
その指先には、濃い葵色の蛇の刺青が覗いていた。
「じゃあ、帰ってきたら忘れずにお話ししようネェ」
「うん、約束!」
「はいはァい。約束だヨォ」
マリンは今度はティファにも猫の話を始めた。
シオンは二人の様子を見届けると、静かに立ち上がった。
店内では、まだ緊急速報が続いていた。
「被害はどのくらいなんだ?」
「神羅は何も説明しないのか?」
「……アバランチの仕業なんじゃないかって話もあるぞ」
客たちは不安そうに声を潜め、互いに顔を見合わせている。
シオンはカウンターへ戻ると、いつもの柔らかな笑みを浮かべた。
「皆さん、ひとまず落ち着いてくださいネェ。まだ詳しいことはわかっていないみたいですかラ」
努めて穏やかな声で呼びかける。
「続報が入れば、こちらでも確認しますヨ。ひとまず、お怪我がなければ何よりです」
その言葉に、客たちも少しずつ落ち着きを取り戻していった。
シオンは片づけた硝子の破片が残っていないか床を確かめ、こぼれた酒を拭き取る。
ティファもマリンにひと声かけてから、店の仕事へ戻ってきた。
「ティファちゃん、棚の方は大丈夫だった?」
「うん。こっちは平気みたい」
「そっカァ。よかった」
短い会話を交わし、二人はそれぞれの仕事へ戻る。
けれど、いつもの賑やかさは戻らなかった。
テレビから流れるニュースに耳を傾けながら、客たちは少しずつ店を後にしていく。
残った客も、先ほどまでのように大きな声で笑うことはなかった。
シオンは空いたテーブルを拭き、使い終えた皿を重ねていく。
ティファはカウンターの奥でグラスを磨いていた。
何度か入口の扉が開いたが、入ってくるのは通りの騒ぎを気にする常連客ばかりだった。
そのたびに、ティファの視線がわずかに動く。
シオンはそれに気づいていた。
けれど、今は何も言わなかった。
やがて、店内の時計が静かに時を刻む音が聞こえるようになった。
シオンは磨き終えたグラスを棚へ戻し、入口へ目を向ける。
扉の向こうでは、夜のざわめきがまだ続いていた。
マリンは時折、父親が帰ってこないかと外を気にしている。
ティファも、何度目かになる入口への視線をそっと手元へ戻した。
シオンは二人の姿を眺め、静かに息を吐いた。
今はただ、帰ってくるのを待つしかない。
いつもと変わらない店の明かりを灯したまま。
まだ、誰も帰ってこなかった。
次回クラウドが出ますよー