FINAL FANTASYⅦ〜怪しい薬屋〜   作:薬師丸

4 / 4
今回長いです


第4話 蛇の眼差し

 

 

 七番街の夜は、まだ落ち着きを取り戻していなかった。

 

 壱番魔晄炉の爆発は、プレートの下に広がる街にも不安をもたらしていた。通りのあちこちで人々が足を止め、遠くの出来事について声を潜めて話し合っている。

 

そんな街の中を、クラウドとティファは並んで歩いていた。

 セブンスヘブンを出てから、ティファは何度かクラウドへ顔を向けている。

 何か聞きたいことがあるようにも見えたが、そのたびに当たり障りのない話題へ移ってしまう。

 

 クラウドもまた、何を尋ねればいいのかわからなかった。

 五年という時間は、思っていたより長いのかもしれない。

 やがて二人は、古びた集合住宅の前で足を止めた。

 

「ここが天望荘だよ」

 

 ティファが建物を見上げる。

 

「シオンもここに住んでるの。部屋は一階だけどね」

 

「……あいつもか」

 

「うん。お店にも近いから」

 

 クラウドは建物へ目を向けた。

 

 古びた壁に、ところどころ塗装の剥げた階段。ごく普通の集合住宅だ。

 あの胡散臭い眼鏡の男が、ここで暮らしている。

 そう聞いても、どうにも想像がつかなかった。

 

 二人は階段を上がり、二階へ向かった。

 ティファの部屋は201号室。そして、その隣の202号室がクラウドに用意された部屋だった。

 廊下には、さらにもう一つ扉が並んでいる。

 クラウドが203号室へ目を向けると、ティファは少しだけ表情を曇らせた。

 

「あそこには別の人が住んでるんだけど……その話は、また明日にしようか」

 

「……わかった」

 

 クラウドはそれ以上尋ねなかった。

 

 案内された室内は、必要最低限の家具が置かれただけの簡素なものだった。

 寝台と小さな棚。窓から入る街の明かりが、薄暗い床へ淡く落ちている。

 ひと晩休むには十分だ。

 

 ティファは部屋の説明を終えると、今夜の報酬についても切り出した。

 どうやら作戦の出費が重なったらしく、約束の金額をすべて渡すことは難しいらしい。

 クラウドは不足分の支払いが翌日になることを確認し、ひとまず了承した。

 

「……じゃあ、また明日ね」

 

 ティファが扉へ向かう。

 

 その背中を見ていたクラウドは、ふと思い出したように口を開いた。

 

「……ティファ」

 

「ん? どうしたの?」

 

 クラウドは少しだけ言葉を探した。

 セブンスヘブンで耳にした、奇妙な声。

 あの痛みとともに浮かんだ、輪郭の見えない誰かの姿。

 そして、目の前にいたあの男。

 

「……さっき、店にいたやつ」

 

「シオンのこと?」

 

「ああ」

 

 ティファは小さく首を傾げた。

 

「シオンがどうかした?」

 

「……何者なんだ、あいつは」

 

「何者って……」

 

 少し考えたあと、ティファは微笑んだ。

 

「セブンスヘブンの店主だよ。それから、薬屋もやってるの」

 

「……薬屋?」

 

「うん。薬のことなら本当に詳しいし、近所の人たちの手当てもしてるんだ。私もいろいろ助けてもらってるよ」

 

 クラウドは黙って聞いていた。

 

 薬屋。

 色付きの丸眼鏡。

 白い手の甲に刻まれた蛇の刺青。

 そして、あの笑い声。

 どれもひとつに結びつかない。

 

「ちょっと変わってるけど、頼りになる人だよ」

 

 ティファはそう言って、穏やかに笑った。

 

「どうして気になったの?」

 

「……いや。ただ、聞いただけだ」

 

「そっか」

 

 ティファはそれ以上追及しなかった。

 

「今日はもう休んでね。おやすみ、クラウド」

 

「ああ。おやすみ」

 

 扉が閉まり、足音が廊下の向こうへ遠ざかっていく。

 クラウドはしばらく、その場に立っていた。

 

 薬屋。

 ただの薬屋にしては、妙に印象に残る男だった。

 クラウドは壁際にバスターソードを立てかけ、寝台へ腰を下ろした。

 

 壱番魔晄炉での任務。

 

 爆発で傷ついた八番街。

 

 そこで出会った、黄色い花を売る女性。

 

 そして、久しぶりに再会したティファ。

 

 今日はあまりにも多くのことがあった。

 けれど、思考の端には別のものが引っかかっている。

 

 

 

 

『ふふ、お疲れ様だね。――――の世話、大変だったでしょ?』

 

 

 

 

 セブンスヘブンで頭をよぎった声。

 

 シオンのものに似ていた。

 だが、どこか違う。

 あの声の向こうには、もうひとり誰かがいたはずだ。

 思い出そうとすると、頭の奥が鈍く疼く。

 

「……なんなんだ、あいつ」

 

 独り言は、薄暗い部屋に吸い込まれた。

 

 クラウドは寝台へ身体を倒す。

 身体の奥に蓄積した疲労が、ゆっくりと思考を鈍らせていった。

 今は休もう。

 

 そう思ったときには、もう意識が眠りへ沈み始めていた。

 

 *

 

 

 

 

 

 ――ガタンッ!

 

 

 

 

 

 

 突然の物音に、クラウドは目を開けた。

 

 暗い室内。

 壁の向こうから、何かが床へ倒れるような鈍い音がした。

 

「……う、ぁ……」

 

 続いて聞こえたのは、押し殺したようなうめき声だった。

 

 隣の203号室。

 

 ティファが説明を避けた部屋だ。

 再び、何かを引きずるような音が響く。

 クラウドは寝台から起き上がり、バスターソードを手に取った。

 

 廊下へ出ると、建物は静まり返っていた。

 203号室の扉は、わずかに開いている。

 

「……おい。大丈夫か?」

 

 声をかけても、返事はない。

 代わりに、荒い息遣いが聞こえた。

 クラウドは扉を押し開ける。

 

 薄暗い室内。

 

 倒れた椅子と、乱れた寝具。

 

 その傍らに、黒いローブをまとった男がうずくまっていた。

 

「……う……あぁ……」

 

 男の肩が、小刻みに震えている。

 

「おい、どうした」

 

 クラウドが一歩近づいた、その瞬間。

 

 

 

 ――ザザッ。

 

 

 

 視界の端を、黒いものが走った。

 

 頭の奥に鋭い痛みが突き抜ける。

 

「……っ!」

 

 目の前の光景が歪んだ。

 黒いローブが、別の色へ塗り替えられていく。

 俯いていた顔が上がる。

 

 長い銀髪。

 

 冷たい眼差し。

 

 口元に浮かぶ、薄い笑み。

 

「……セフィロス……?」

 

 喉から漏れた声は、自分でも驚くほど掠れていた。

 

 あり得ない。

 

 ここにいるはずがない。

 

 それでも目の前には、忘れようのない男が立っていた。

 男がふらつきながら腕を伸ばす。

 クラウドは反射的に距離を取ろうとしたが、背中が扉の枠へぶつかった。

 

「……来るな!」

 

 伸ばされた手が、クラウドの襟元を掴む。

 クラウドは相手の腕を振り払い、力任せに押し返した。

 男の身体が廊下へ倒れ込む。

 その音が、建物の静けさを破った。

 クラウドは荒く息を吐き、バスターソードを握り直した。

 視界の奥では、まだ銀色の髪が揺れている。

 

 セフィロス。

 

 この男を、ここで――。

 

 刃を振り上げた、そのときだった。

 

「――やめるんだ!! クラウド!!」

 

 鋭い声が廊下に響いた。

 

 クラウドの腕が止まる。

 

 弾かれたように振り返ると、階段を駆け上がってきたシオンが立っていた。

 片手には医療鞄。藍黒色の長い髪が肩へ流れ、色付きの丸眼鏡の奥から琥珀色の瞳がクラウドを見据えている。

 

 いつもの薄い笑みは、どこにもなかった。

 

「……シオン?」

 

 その名前を口にした途端、張りつめていた意識がわずかに緩んだ。

 

 クラウドは足元へ視線を戻す。

 そこに倒れていたのは、黒いローブをまとった痩せた男だった。

 銀色の髪も、冷たい眼差しも消えている。

 

 自分は、いったい何を……。

 

「……クラウド君。その剣、少し下ろしてくれるかナァ」

 

 シオンが穏やかに声をかける。

 

 クラウドは戸惑いながらも、ゆっくりと剣先を下げようとした。

 

 そのときだった。

 

「……う、あぁ……」

 

 床に倒れていた男が、苦しげに身をよじった。

 痩せた腕が伸び、クラウドの足首を掴む。

 

「……っ!」

 

 反射的に視線を落とした瞬間、頭の奥で鋭い痛みが弾けた。

 

 

 

 

 ――ザザッ。

 

 

 

 

 廊下の景色が歪む。

 

 視界を覆う黒いノイズの向こうに、いくつもの人影が浮かび上がった。

 

 黒いローブをまとった者たち。

 

 誰もが俯き、顔を隠している。

 

 そのうちのひとりが、ゆっくりと顔を上げた。

 

 

「リ……ユニ……オン……」

 

 

 掠れた声が響く。

 

 意味を捉えようとした瞬間、頭の奥をさらに強い痛みが貫いた。

 

「ぐっ……!」

 

 クラウドは片手でこめかみを押さえた。

 足元の感覚が遠のき、思わず身体が傾ぐ。

 

「クラウド君!」

 

 シオンの声が聞こえた。

 遠くから響いているようで、妙にはっきりとしていた。

 

「……僕の声が聞こえるかナァ?」

 

「……あ、ああ……」

 

「うん。よかった。無理に動かなくていいからネェ」

 

 シオンはゆっくりと近づいた。

 クラウドを刺激しないよう、落ち着いた声で語りかける。

 

「ちょっとだけ、そこの人を診させておくれ。いいかナァ?」

 

 クラウドは答えられなかったが、剣を持つ腕を下げたまま、小さく頷いた。

 シオンはその様子を確かめてから、床に倒れた男のそばへ膝をついた。

 

「……マルカートさん」

 

 呼びかけながら、その手首に指を添える。

 脈は速く、呼吸も荒い。

 顔色も悪かった。

 

「マルカートさん。僕の声が聞こえるかイ?」

 

「……う、ぁ……」

 

「うん。大丈夫だヨ。今、診るからネェ」

 

 シオンは呼吸の様子を確かめ、男の肩へそっと手を添えた。

 その瞬間だった。

 

「――っ、あ……!」

 

 マルカートの身体が、びくりと大きく跳ねた。

 

 クラウドの肩が反射的に強張る。

 次の瞬間、下げていたバスターソードの刃が持ち上がった。

 

「……っ!」

 

 金属がかすかな音を立てる。

 

 シオンはその動きに気づき、顔を上げた。

 

「……クラウド君」

 

 静かな声だった。

 シオンはマルカートのそばから離れず、クラウドを見据える。

 

「君が何を見ているのか、僕にはわからない」

 

 責めるでもなく、ゆっくりと言葉を続けた。

 

「何に見えているのかもネェ」

 

 クラウドの指が、柄を強く握り込む。

 

「……だけど、違うんだヨ」

 

 シオンはマルカートの肩を支えたまま、もう一度クラウドへ目を向けた。

 

「ここにいるのは、病気で苦しんでいるマルカートさんなんだ」

 

 色付きの丸眼鏡の奥で、琥珀色の瞳がすっと細められる。

 

 その眼差しに、クラウドは一瞬、息を呑んだ。

 相手のわずかな動きさえ見逃さない、蛇のような眼差しだった。

 鋭く、冷ややかで、それでいて少しも揺らがない。

 白い手の甲に刻まれた蛇の刺青が、妙に鮮明に目に映った。

 

 シオンはクラウドの握るバスターソードへ視線を落とし、ゆっくりと顔を上げた。

 

「……その剣で、いったい何を斬るつもりなんだい?」

 

 静かな問いかけだった。

 けれど、その眼差しからは逃れられないような気がした。

 クラウドは答えられなかった。

 視線が、剣の先へ落ちる。

 そこにいるのは、セフィロスではない。

 苦しげに呼吸を繰り返す、ひとりの人間だった。

 

 クラウドの指から、少しずつ力が抜けていく。

 やがて、バスターソードの切っ先が静かに床へ下がった。

 

 シオンはそれを見届け、ようやく小さく息を吐いた。

 

「……ありがとうネ」

 

 そう告げると、再びマルカートへ向き直った。

 シオンは医療鞄を開き、マルカートの状態をもう一度確かめた。

 荒い呼吸。小刻みに震える手足。額には脂汗が滲んでいる。

 これまでにも何度か発作を診てきたが、今夜はいつもより症状が強い。

 男の身体が再び小さく震える。

 シオンはその肩を支え、穏やかに声をかけた。

 

「マルカートさん。……少し、眠ってもらおうかネェ」

 

 医療鞄から、鎮静剤の入った小さな薬瓶を取り出す。

 以前からマルカートの発作に備えて用意していた薬だった。

 シオンは薬瓶と注射器を確かめ、手慣れた動作で準備を整えた。

 

「ちょっとだけ痛いけど、我慢しておくれ」

 

 マルカートの腕へそっと触れ、鎮静剤を注射する。

 処置を終えると、シオンは針を抜き、刺した場所を押さえた。

 薬が作用するまで、傍らで呼吸と脈を見守る。

 やがて、マルカートの身体から徐々に強張りが抜けていった。

 浅く乱れていた呼吸も少しずつ落ち着き、閉じかけた瞼が静かに下りる。

 シオンはもう一度脈を確かめ、呼吸が安定していることを確認した。

 

「……うん。ひとまず、落ち着いたみたいだネェ」

 

 その間、クラウドは剣を下げたまま立ち尽くしていた。

 

 自分が何を見たのか。

 

 なぜ、あの男がセフィロスに見えたのか。

 

 何ひとつ説明できなかった。

 

 やがて階段から、慌ただしい足音が聞こえてきた。

 

「クラウド!? 今の音、何が……」

 

 姿を現したティファは、床に横たわる男を見て息を呑んだ。

 

「マルカートさん!?」

 

 駆け寄る彼女へ、シオンが穏やかに声をかける。

 

「今は落ち着いているヨ。発作がひどくてネェ。鎮静剤で少し眠ってもらったところなんだ」

 

 ティファはほっと息を吐き、床に横たわるマルカートを見つめた。

 シオンは医療鞄を閉じると、彼女へ顔を向けた。

 

「ティファちゃん。悪いけど、手を貸してくれるかナァ」

 

「うん!」

 

 二人でマルカートの身体を支え、203号室へ運ぶ。

 

 クラウドはしばらくその場に立っていたが、やがて二人のあとを追った。

 

 寝台へマルカートを横たえ、掛け布団を整えようとしたとき、黒いローブの袖がずり上がった。

 痩せた上腕に、数字が刻まれている。

 

 ――49。

 

 クラウドの視線が、その数字へ吸い寄せられた。

 

 なぜ、そんなものが。

 

 考えをまとめる前に、シオンがそっと袖を元へ戻す。

 

「……シオン」

 

 ティファが心配そうに声をかけた。

 

「今夜は、いつもより苦しそうだったけど……」

 

「そうだネェ。少し様子が違った」

 

 シオンは眠るマルカートの顔色を確かめた。

 

「今夜はもう少し診ておいた方がよさそうだヨ」

 

「……うん。お願い」

 

「任せておきなさイ」

 

 シオンは頷き、クラウドへ視線を向けた。

 

 その手には、まだバスターソードが握られている。

 クラウドはその視線に気づき、無言で剣を背負い直した。

 

 シオンは何も言わなかった。

 ただ、少し間を置いてから口を開く。

 

「ティファちゃん。クラウド君を部屋へ連れていってあげてくれるかナァ」

 

「えっ……でも、シオンは?」

 

「僕はマルカートさんの様子を診ておくヨ。こっちは大丈夫だから」

 

 ティファは迷うように二人を見比べ、やがて小さく頷いた。

 

「……わかった」

 

 クラウドのそばへ歩み寄る。

 

「行こう、クラウド」

 

 クラウドはすぐには答えなかった。

 寝台に横たわる男。

 その傍らにいるシオン。

 つい先ほどまで見えていた銀髪の男は、もうどこにもいない。

 

「……ああ」

 

 ようやく頷き、ティファのあとに続いた。

 部屋を出る直前、一度だけ振り返る。

 

 シオンはマルカートの手首に指を添え、その状態を確かめていた。

 

 薄い笑みは戻っていた。

 

 けれど、眼鏡の奥の瞳は、まだどこか鋭かった。

 

 *

 

 202号室へ戻ったクラウドは、閉じた扉をしばらく見つめていた。

 ティファは何かを尋ねたそうにしていたが、結局、無理に聞き出そうとはしなかった。

 

 今夜はもう休んだ方がいい。

 

 そう言い残し、自分の部屋へ戻っていった。

 クラウドは壁際のバスターソードへ目を向ける。

 

 あの瞬間。

 

 確かに、セフィロスがいた。

 長い銀髪も。

 冷たい眼差しも。

 

 すべて、はっきりと見えていた。

 だが、剣を向けていた相手は、病気で苦しんでいるひとりの男だった。

 

 クラウドは手のひらを見つめた。

 まだ、柄を握り締めていた感覚が残っている。

 

『……その剣で、いったい何を斬るつもりなんだい?』

 

 シオンの声が、耳の奥に蘇った。

 あの男は、クラウドが何を見ていたのか知らない。

 それでも、剣の前にいる人間を守ろうとした。

 

「……くそ」

 

 クラウドは寝台へ腰を下ろした。

 自分の目に映ったものが何だったのか。

 

 答えは出ないままだった。

 

 

 

***

 

 

ティファとクラウドが去ったあと、203号室には静けさが戻っていた。

 シオンはベッドの傍らに腰を下ろし、眠るマルカートの脈を確かめた。

 

「……ふむ。ひとまず、大丈夫そうだネェ」

 

 鎮静剤のおかげで、今は穏やかに眠っている。

 シオンは医療鞄を開いた。

 以前の検査では、マルカートの血液から通常とは異なる細胞が確認されていた。

 だが、今夜はそれだけではなかった。

 あの異様な興奮。

 これまでとは明らかに異なる、激しい発作。

 

「……いつもとは、少し違ったネ」

 

シオンは採血用の器具を取り出しマルカートの腕を取った。

 

 以前から継続して検査を行うことについて、本人からは了承らしき反応を得ている。もっとも、明確な返事と呼べるものではなかったが。

 

「マルカートさん。少しだけ、血をもらうヨ」

 

 眠っている相手に声をかけ、袖をまくる。

 細い腕には血管が浮き上がっていた。

 シオンは手早く採血の準備を整え、必要な量の血液を採取した。

 針を抜いたあと、刺した場所を押さえる。

 出血が止まったことを確かめてから、袖を元に戻した。

 

「……よし」

 

 採取した血液を専用の容器へ収め、蓋を閉める。

 シオンは容器を目の高さまで持ち上げた。

 薄暗い部屋の明かりを受け、赤い液体がわずかに揺れる。

 見た目だけで何かが分かるわけではない。

 

 今回の血液にも、以前と同じ異常が見られるのだろうか。

 それとも、何か変化が起きているのか。

 

「……さて、どう出るかナァ」

 

 シオンは容器を医療鞄へ収めた。

 

 そのとき、ふとクラウドの顔が脳裏をよぎった。

 剣を振り上げたときの表情。

 何かを恐れ、同時に激しく憎んでいるようにも見えた。

 マルカートを見ていたはずなのに、まるで別の誰かを相手にしているようだった。

 

 シオンには、クラウドが何を見ていたのか分からない。

 ただ、あのまま誰も止めなければ、取り返しのつかないことになっていただろう。

 

 そして、もうひとつ。

 

 マルカートの隣室に、今夜越してきたばかりのクラウド。

 その夜に限って、マルカートはこれまでにないほど激しい発作を起こした。

 

「……偶然、かネェ?」

 

 二つを結びつける根拠は、まだない。

 シオンは医療鞄へ視線を戻す。

 

 まずは、目の前のことからだ。

 

 眠るマルカートへ向き直り、掛け布団を整えた。

 

「……今夜は災難だったネェ、マルカートさん」

 

 穏やかな声でそう告げる。

 

「ゆっくり休んでおくれ」

 

 もう一度呼吸を確かめ、シオンは立ち上がった。

 部屋の明かりを少し落とし、扉へ向かう。

 出ていく前に、一度だけ振り返った。

 

 ベッドの上で眠るマルカート。

 その呼吸が落ち着いていることを確かめてから、シオンは静かに203号室をあとにした。

 医療鞄の中には、採取したばかりの血液が収められている。

 

 シオンは足音を忍ばせ、一階へ続く階段を下りていった。

 

 *

 

 階段を下りたシオンは、廊下の奥にある自室へ戻ってきた。

 扉を開けると、薬草と消毒液の入り混じった、馴染みのある匂いが鼻をくすぐる。

 部屋の片側には簡素なベッドと小さな机。反対側には薬品棚や調合台、卓上型の分析装置が所狭しと並んでい

 

 机に収まりきらない紙の束は、ベッドの上にまで積み重なっている。

 紙面を埋め尽くすのは、奇妙な形をした図形の数々だった。

 丸い頭に手足が生えたようなもの。いびつな線が絡まり合ったもの。何かの模様にも見えるそれらは、文字というより子供の落書きに近い。

 

 シオンはベッドの上から一枚を何気なく取り上げ、さっと目を走らせると、元の場所へ戻した。

 

「さて、と……」

 

 医療鞄を机に置き、採取した血液の入った容器を取り出す。

 容器に記録用の札を付け、以前の検査記録を確かめてから、卓上型の分析装置へ向き直った。

 必要な準備を整え、検体をセットする。

 

 装置を起動すると、低い駆動音とともに、小さな表示灯が点滅を始めた。

 結果が出るまでには、しばらく時間がかかる。

 

「……相変わらず、のんびり屋さんだネェ」

 

 シオンは装置に向かって軽口を叩き、椅子の背にもたれた。

 

 机の端に置かれた煙草の箱へ手を伸ばす。

 一本取り出して唇にくわえ、火をつけた。

 ゆっくりと煙を吐き出す。

 薄い煙が、天井へ向かって揺らめいていった。

 

 シオンは煙草を指に挟み、傍らに広げた検査記録へ目を落とした。

 以前見つけた異常な細胞が、今のマルカートの身体にどんな影響を及ぼしているのか。

 

「……困ったものだネェ」

 

 呟いて、煙草の灰を落とす。

 シオンは記録の端に短く何かを書きつけた。

 小さな丸と、折れ曲がった線。それを囲むように、奇妙な形がいくつか並ぶ。

 書き終えると、紙を他のメモの間へ滑り込ませた。

 

 分析装置の表示灯は、まだ点滅を繰り返している。

 今は結果を待つしかない。

 シオンは煙草をもう一口吸い、机の隅に積まれた帳面へ手を伸ばした。

 明日の納品予定が書かれた帳面だ。

 アイテム屋へ届けるポーション。

 自警団から頼まれている分も、まだ残っている。

 

「……おやおや。こっちも待ってはくれないか」

 

 苦笑しながら帳面を閉じる。

 

 やることはいくらでもあった。

 

 シオンは吸いかけの煙草を灰皿へ押しつけ、火が消えたことを確かめた。

 それから手を洗い、調合台へ向かう。

 小さな容器から錠剤を一粒取り出し、口に含んだ。

 傍目には、ミント菓子でも口に放り込んだような何気ない仕草だった。

 

 シオンは袖をまくり、調合台に並んだ器具を確かめる。

 露わになった白い腕には、深い葵色の蛇の刺青が刻まれていた。

 細い胴をくねらせた蛇が、肌の上を這うように描かれている。袖口から覗くその姿は、まるで衣服の奥へと潜り込んでいるかのようだった。

 

 シオンは気に留める様子もなく、材料を量り、順番に加えていく。

 ガラス容器の中で液体が混ざり合い、淡い色を帯びた。

 慎重にかき混ぜながら、シオンはふと窓の方へ目を向けた。

 

 外はすっかり静まり返っている。

 

 七番街の夜も、今頃は深くなっているのだろう。

 上の階では、クラウドもティファも眠っている頃かもしれない。

 マルカートも、今夜はこのまま穏やかに休めるといい。

 

「……みんな、よく眠れるといいネェ」

 

 誰に聞かせるでもなく呟き、シオンは手元へ視線を戻した。

 調合台の上で、小さなガラス瓶がかすかに触れ合う。

 

 分析装置は、まだ低い音を立てて動き続けていた。

 シオンは時折その表示灯を確かめながら、黙々と作業を進めた。

 

 寝台はすぐそこにある。

 もっとも、その上には書きかけの紙束が積まれ、今すぐ横になれるような状態ではなかった。

 けれど、片付けたところで簡単に眠れるわけでもない。

 それは今夜に限ったことでもなかった。

 だからといって、特別に嘆くつもりもない。

 眠れないなら、できることをしていればいい。

 

 やがて、天望荘の窓という窓から明かりが消えていった。

 

 それでも一階の廊下の奥、小さな部屋にだけは、まだ灯りがともっていた。

 

 静かな夜の中で、分析装置の駆動音とガラスの触れ合う音が、いつまでも小さく響いていた。




この子はどこまで知ってるんでしょうね(すっとぼけ)
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※評価値0,10は一言の入力が必須です。参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。