七番街の夜は、まだ落ち着きを取り戻していなかった。
壱番魔晄炉の爆発は、プレートの下に広がる街にも不安をもたらしていた。通りのあちこちで人々が足を止め、遠くの出来事について声を潜めて話し合っている。
そんな街の中を、クラウドとティファは並んで歩いていた。
セブンスヘブンを出てから、ティファは何度かクラウドへ顔を向けている。
何か聞きたいことがあるようにも見えたが、そのたびに当たり障りのない話題へ移ってしまう。
クラウドもまた、何を尋ねればいいのかわからなかった。
五年という時間は、思っていたより長いのかもしれない。
やがて二人は、古びた集合住宅の前で足を止めた。
「ここが天望荘だよ」
ティファが建物を見上げる。
「シオンもここに住んでるの。部屋は一階だけどね」
「……あいつもか」
「うん。お店にも近いから」
クラウドは建物へ目を向けた。
古びた壁に、ところどころ塗装の剥げた階段。ごく普通の集合住宅だ。
あの胡散臭い眼鏡の男が、ここで暮らしている。
そう聞いても、どうにも想像がつかなかった。
二人は階段を上がり、二階へ向かった。
ティファの部屋は201号室。そして、その隣の202号室がクラウドに用意された部屋だった。
廊下には、さらにもう一つ扉が並んでいる。
クラウドが203号室へ目を向けると、ティファは少しだけ表情を曇らせた。
「あそこには別の人が住んでるんだけど……その話は、また明日にしようか」
「……わかった」
クラウドはそれ以上尋ねなかった。
案内された室内は、必要最低限の家具が置かれただけの簡素なものだった。
寝台と小さな棚。窓から入る街の明かりが、薄暗い床へ淡く落ちている。
ひと晩休むには十分だ。
ティファは部屋の説明を終えると、今夜の報酬についても切り出した。
どうやら作戦の出費が重なったらしく、約束の金額をすべて渡すことは難しいらしい。
クラウドは不足分の支払いが翌日になることを確認し、ひとまず了承した。
「……じゃあ、また明日ね」
ティファが扉へ向かう。
その背中を見ていたクラウドは、ふと思い出したように口を開いた。
「……ティファ」
「ん? どうしたの?」
クラウドは少しだけ言葉を探した。
セブンスヘブンで耳にした、奇妙な声。
あの痛みとともに浮かんだ、輪郭の見えない誰かの姿。
そして、目の前にいたあの男。
「……さっき、店にいたやつ」
「シオンのこと?」
「ああ」
ティファは小さく首を傾げた。
「シオンがどうかした?」
「……何者なんだ、あいつは」
「何者って……」
少し考えたあと、ティファは微笑んだ。
「セブンスヘブンの店主だよ。それから、薬屋もやってるの」
「……薬屋?」
「うん。薬のことなら本当に詳しいし、近所の人たちの手当てもしてるんだ。私もいろいろ助けてもらってるよ」
クラウドは黙って聞いていた。
薬屋。
色付きの丸眼鏡。
白い手の甲に刻まれた蛇の刺青。
そして、あの笑い声。
どれもひとつに結びつかない。
「ちょっと変わってるけど、頼りになる人だよ」
ティファはそう言って、穏やかに笑った。
「どうして気になったの?」
「……いや。ただ、聞いただけだ」
「そっか」
ティファはそれ以上追及しなかった。
「今日はもう休んでね。おやすみ、クラウド」
「ああ。おやすみ」
扉が閉まり、足音が廊下の向こうへ遠ざかっていく。
クラウドはしばらく、その場に立っていた。
薬屋。
ただの薬屋にしては、妙に印象に残る男だった。
クラウドは壁際にバスターソードを立てかけ、寝台へ腰を下ろした。
壱番魔晄炉での任務。
爆発で傷ついた八番街。
そこで出会った、黄色い花を売る女性。
そして、久しぶりに再会したティファ。
今日はあまりにも多くのことがあった。
けれど、思考の端には別のものが引っかかっている。
『ふふ、お疲れ様だね。――――の世話、大変だったでしょ?』
セブンスヘブンで頭をよぎった声。
シオンのものに似ていた。
だが、どこか違う。
あの声の向こうには、もうひとり誰かがいたはずだ。
思い出そうとすると、頭の奥が鈍く疼く。
「……なんなんだ、あいつ」
独り言は、薄暗い部屋に吸い込まれた。
クラウドは寝台へ身体を倒す。
身体の奥に蓄積した疲労が、ゆっくりと思考を鈍らせていった。
今は休もう。
そう思ったときには、もう意識が眠りへ沈み始めていた。
*
――ガタンッ!
突然の物音に、クラウドは目を開けた。
暗い室内。
壁の向こうから、何かが床へ倒れるような鈍い音がした。
「……う、ぁ……」
続いて聞こえたのは、押し殺したようなうめき声だった。
隣の203号室。
ティファが説明を避けた部屋だ。
再び、何かを引きずるような音が響く。
クラウドは寝台から起き上がり、バスターソードを手に取った。
廊下へ出ると、建物は静まり返っていた。
203号室の扉は、わずかに開いている。
「……おい。大丈夫か?」
声をかけても、返事はない。
代わりに、荒い息遣いが聞こえた。
クラウドは扉を押し開ける。
薄暗い室内。
倒れた椅子と、乱れた寝具。
その傍らに、黒いローブをまとった男がうずくまっていた。
「……う……あぁ……」
男の肩が、小刻みに震えている。
「おい、どうした」
クラウドが一歩近づいた、その瞬間。
――ザザッ。
視界の端を、黒いものが走った。
頭の奥に鋭い痛みが突き抜ける。
「……っ!」
目の前の光景が歪んだ。
黒いローブが、別の色へ塗り替えられていく。
俯いていた顔が上がる。
長い銀髪。
冷たい眼差し。
口元に浮かぶ、薄い笑み。
「……セフィロス……?」
喉から漏れた声は、自分でも驚くほど掠れていた。
あり得ない。
ここにいるはずがない。
それでも目の前には、忘れようのない男が立っていた。
男がふらつきながら腕を伸ばす。
クラウドは反射的に距離を取ろうとしたが、背中が扉の枠へぶつかった。
「……来るな!」
伸ばされた手が、クラウドの襟元を掴む。
クラウドは相手の腕を振り払い、力任せに押し返した。
男の身体が廊下へ倒れ込む。
その音が、建物の静けさを破った。
クラウドは荒く息を吐き、バスターソードを握り直した。
視界の奥では、まだ銀色の髪が揺れている。
セフィロス。
この男を、ここで――。
刃を振り上げた、そのときだった。
「――やめるんだ!! クラウド!!」
鋭い声が廊下に響いた。
クラウドの腕が止まる。
弾かれたように振り返ると、階段を駆け上がってきたシオンが立っていた。
片手には医療鞄。藍黒色の長い髪が肩へ流れ、色付きの丸眼鏡の奥から琥珀色の瞳がクラウドを見据えている。
いつもの薄い笑みは、どこにもなかった。
「……シオン?」
その名前を口にした途端、張りつめていた意識がわずかに緩んだ。
クラウドは足元へ視線を戻す。
そこに倒れていたのは、黒いローブをまとった痩せた男だった。
銀色の髪も、冷たい眼差しも消えている。
自分は、いったい何を……。
「……クラウド君。その剣、少し下ろしてくれるかナァ」
シオンが穏やかに声をかける。
クラウドは戸惑いながらも、ゆっくりと剣先を下げようとした。
そのときだった。
「……う、あぁ……」
床に倒れていた男が、苦しげに身をよじった。
痩せた腕が伸び、クラウドの足首を掴む。
「……っ!」
反射的に視線を落とした瞬間、頭の奥で鋭い痛みが弾けた。
――ザザッ。
廊下の景色が歪む。
視界を覆う黒いノイズの向こうに、いくつもの人影が浮かび上がった。
黒いローブをまとった者たち。
誰もが俯き、顔を隠している。
そのうちのひとりが、ゆっくりと顔を上げた。
「リ……ユニ……オン……」
掠れた声が響く。
意味を捉えようとした瞬間、頭の奥をさらに強い痛みが貫いた。
「ぐっ……!」
クラウドは片手でこめかみを押さえた。
足元の感覚が遠のき、思わず身体が傾ぐ。
「クラウド君!」
シオンの声が聞こえた。
遠くから響いているようで、妙にはっきりとしていた。
「……僕の声が聞こえるかナァ?」
「……あ、ああ……」
「うん。よかった。無理に動かなくていいからネェ」
シオンはゆっくりと近づいた。
クラウドを刺激しないよう、落ち着いた声で語りかける。
「ちょっとだけ、そこの人を診させておくれ。いいかナァ?」
クラウドは答えられなかったが、剣を持つ腕を下げたまま、小さく頷いた。
シオンはその様子を確かめてから、床に倒れた男のそばへ膝をついた。
「……マルカートさん」
呼びかけながら、その手首に指を添える。
脈は速く、呼吸も荒い。
顔色も悪かった。
「マルカートさん。僕の声が聞こえるかイ?」
「……う、ぁ……」
「うん。大丈夫だヨ。今、診るからネェ」
シオンは呼吸の様子を確かめ、男の肩へそっと手を添えた。
その瞬間だった。
「――っ、あ……!」
マルカートの身体が、びくりと大きく跳ねた。
クラウドの肩が反射的に強張る。
次の瞬間、下げていたバスターソードの刃が持ち上がった。
「……っ!」
金属がかすかな音を立てる。
シオンはその動きに気づき、顔を上げた。
「……クラウド君」
静かな声だった。
シオンはマルカートのそばから離れず、クラウドを見据える。
「君が何を見ているのか、僕にはわからない」
責めるでもなく、ゆっくりと言葉を続けた。
「何に見えているのかもネェ」
クラウドの指が、柄を強く握り込む。
「……だけど、違うんだヨ」
シオンはマルカートの肩を支えたまま、もう一度クラウドへ目を向けた。
「ここにいるのは、病気で苦しんでいるマルカートさんなんだ」
色付きの丸眼鏡の奥で、琥珀色の瞳がすっと細められる。
その眼差しに、クラウドは一瞬、息を呑んだ。
相手のわずかな動きさえ見逃さない、蛇のような眼差しだった。
鋭く、冷ややかで、それでいて少しも揺らがない。
白い手の甲に刻まれた蛇の刺青が、妙に鮮明に目に映った。
シオンはクラウドの握るバスターソードへ視線を落とし、ゆっくりと顔を上げた。
「……その剣で、いったい何を斬るつもりなんだい?」
静かな問いかけだった。
けれど、その眼差しからは逃れられないような気がした。
クラウドは答えられなかった。
視線が、剣の先へ落ちる。
そこにいるのは、セフィロスではない。
苦しげに呼吸を繰り返す、ひとりの人間だった。
クラウドの指から、少しずつ力が抜けていく。
やがて、バスターソードの切っ先が静かに床へ下がった。
シオンはそれを見届け、ようやく小さく息を吐いた。
「……ありがとうネ」
そう告げると、再びマルカートへ向き直った。
シオンは医療鞄を開き、マルカートの状態をもう一度確かめた。
荒い呼吸。小刻みに震える手足。額には脂汗が滲んでいる。
これまでにも何度か発作を診てきたが、今夜はいつもより症状が強い。
男の身体が再び小さく震える。
シオンはその肩を支え、穏やかに声をかけた。
「マルカートさん。……少し、眠ってもらおうかネェ」
医療鞄から、鎮静剤の入った小さな薬瓶を取り出す。
以前からマルカートの発作に備えて用意していた薬だった。
シオンは薬瓶と注射器を確かめ、手慣れた動作で準備を整えた。
「ちょっとだけ痛いけど、我慢しておくれ」
マルカートの腕へそっと触れ、鎮静剤を注射する。
処置を終えると、シオンは針を抜き、刺した場所を押さえた。
薬が作用するまで、傍らで呼吸と脈を見守る。
やがて、マルカートの身体から徐々に強張りが抜けていった。
浅く乱れていた呼吸も少しずつ落ち着き、閉じかけた瞼が静かに下りる。
シオンはもう一度脈を確かめ、呼吸が安定していることを確認した。
「……うん。ひとまず、落ち着いたみたいだネェ」
その間、クラウドは剣を下げたまま立ち尽くしていた。
自分が何を見たのか。
なぜ、あの男がセフィロスに見えたのか。
何ひとつ説明できなかった。
やがて階段から、慌ただしい足音が聞こえてきた。
「クラウド!? 今の音、何が……」
姿を現したティファは、床に横たわる男を見て息を呑んだ。
「マルカートさん!?」
駆け寄る彼女へ、シオンが穏やかに声をかける。
「今は落ち着いているヨ。発作がひどくてネェ。鎮静剤で少し眠ってもらったところなんだ」
ティファはほっと息を吐き、床に横たわるマルカートを見つめた。
シオンは医療鞄を閉じると、彼女へ顔を向けた。
「ティファちゃん。悪いけど、手を貸してくれるかナァ」
「うん!」
二人でマルカートの身体を支え、203号室へ運ぶ。
クラウドはしばらくその場に立っていたが、やがて二人のあとを追った。
寝台へマルカートを横たえ、掛け布団を整えようとしたとき、黒いローブの袖がずり上がった。
痩せた上腕に、数字が刻まれている。
――49。
クラウドの視線が、その数字へ吸い寄せられた。
なぜ、そんなものが。
考えをまとめる前に、シオンがそっと袖を元へ戻す。
「……シオン」
ティファが心配そうに声をかけた。
「今夜は、いつもより苦しそうだったけど……」
「そうだネェ。少し様子が違った」
シオンは眠るマルカートの顔色を確かめた。
「今夜はもう少し診ておいた方がよさそうだヨ」
「……うん。お願い」
「任せておきなさイ」
シオンは頷き、クラウドへ視線を向けた。
その手には、まだバスターソードが握られている。
クラウドはその視線に気づき、無言で剣を背負い直した。
シオンは何も言わなかった。
ただ、少し間を置いてから口を開く。
「ティファちゃん。クラウド君を部屋へ連れていってあげてくれるかナァ」
「えっ……でも、シオンは?」
「僕はマルカートさんの様子を診ておくヨ。こっちは大丈夫だから」
ティファは迷うように二人を見比べ、やがて小さく頷いた。
「……わかった」
クラウドのそばへ歩み寄る。
「行こう、クラウド」
クラウドはすぐには答えなかった。
寝台に横たわる男。
その傍らにいるシオン。
つい先ほどまで見えていた銀髪の男は、もうどこにもいない。
「……ああ」
ようやく頷き、ティファのあとに続いた。
部屋を出る直前、一度だけ振り返る。
シオンはマルカートの手首に指を添え、その状態を確かめていた。
薄い笑みは戻っていた。
けれど、眼鏡の奥の瞳は、まだどこか鋭かった。
*
202号室へ戻ったクラウドは、閉じた扉をしばらく見つめていた。
ティファは何かを尋ねたそうにしていたが、結局、無理に聞き出そうとはしなかった。
今夜はもう休んだ方がいい。
そう言い残し、自分の部屋へ戻っていった。
クラウドは壁際のバスターソードへ目を向ける。
あの瞬間。
確かに、セフィロスがいた。
長い銀髪も。
冷たい眼差しも。
すべて、はっきりと見えていた。
だが、剣を向けていた相手は、病気で苦しんでいるひとりの男だった。
クラウドは手のひらを見つめた。
まだ、柄を握り締めていた感覚が残っている。
『……その剣で、いったい何を斬るつもりなんだい?』
シオンの声が、耳の奥に蘇った。
あの男は、クラウドが何を見ていたのか知らない。
それでも、剣の前にいる人間を守ろうとした。
「……くそ」
クラウドは寝台へ腰を下ろした。
自分の目に映ったものが何だったのか。
答えは出ないままだった。
***
ティファとクラウドが去ったあと、203号室には静けさが戻っていた。
シオンはベッドの傍らに腰を下ろし、眠るマルカートの脈を確かめた。
「……ふむ。ひとまず、大丈夫そうだネェ」
鎮静剤のおかげで、今は穏やかに眠っている。
シオンは医療鞄を開いた。
以前の検査では、マルカートの血液から通常とは異なる細胞が確認されていた。
だが、今夜はそれだけではなかった。
あの異様な興奮。
これまでとは明らかに異なる、激しい発作。
「……いつもとは、少し違ったネ」
シオンは採血用の器具を取り出しマルカートの腕を取った。
以前から継続して検査を行うことについて、本人からは了承らしき反応を得ている。もっとも、明確な返事と呼べるものではなかったが。
「マルカートさん。少しだけ、血をもらうヨ」
眠っている相手に声をかけ、袖をまくる。
細い腕には血管が浮き上がっていた。
シオンは手早く採血の準備を整え、必要な量の血液を採取した。
針を抜いたあと、刺した場所を押さえる。
出血が止まったことを確かめてから、袖を元に戻した。
「……よし」
採取した血液を専用の容器へ収め、蓋を閉める。
シオンは容器を目の高さまで持ち上げた。
薄暗い部屋の明かりを受け、赤い液体がわずかに揺れる。
見た目だけで何かが分かるわけではない。
今回の血液にも、以前と同じ異常が見られるのだろうか。
それとも、何か変化が起きているのか。
「……さて、どう出るかナァ」
シオンは容器を医療鞄へ収めた。
そのとき、ふとクラウドの顔が脳裏をよぎった。
剣を振り上げたときの表情。
何かを恐れ、同時に激しく憎んでいるようにも見えた。
マルカートを見ていたはずなのに、まるで別の誰かを相手にしているようだった。
シオンには、クラウドが何を見ていたのか分からない。
ただ、あのまま誰も止めなければ、取り返しのつかないことになっていただろう。
そして、もうひとつ。
マルカートの隣室に、今夜越してきたばかりのクラウド。
その夜に限って、マルカートはこれまでにないほど激しい発作を起こした。
「……偶然、かネェ?」
二つを結びつける根拠は、まだない。
シオンは医療鞄へ視線を戻す。
まずは、目の前のことからだ。
眠るマルカートへ向き直り、掛け布団を整えた。
「……今夜は災難だったネェ、マルカートさん」
穏やかな声でそう告げる。
「ゆっくり休んでおくれ」
もう一度呼吸を確かめ、シオンは立ち上がった。
部屋の明かりを少し落とし、扉へ向かう。
出ていく前に、一度だけ振り返った。
ベッドの上で眠るマルカート。
その呼吸が落ち着いていることを確かめてから、シオンは静かに203号室をあとにした。
医療鞄の中には、採取したばかりの血液が収められている。
シオンは足音を忍ばせ、一階へ続く階段を下りていった。
*
階段を下りたシオンは、廊下の奥にある自室へ戻ってきた。
扉を開けると、薬草と消毒液の入り混じった、馴染みのある匂いが鼻をくすぐる。
部屋の片側には簡素なベッドと小さな机。反対側には薬品棚や調合台、卓上型の分析装置が所狭しと並んでい
机に収まりきらない紙の束は、ベッドの上にまで積み重なっている。
紙面を埋め尽くすのは、奇妙な形をした図形の数々だった。
丸い頭に手足が生えたようなもの。いびつな線が絡まり合ったもの。何かの模様にも見えるそれらは、文字というより子供の落書きに近い。
シオンはベッドの上から一枚を何気なく取り上げ、さっと目を走らせると、元の場所へ戻した。
「さて、と……」
医療鞄を机に置き、採取した血液の入った容器を取り出す。
容器に記録用の札を付け、以前の検査記録を確かめてから、卓上型の分析装置へ向き直った。
必要な準備を整え、検体をセットする。
装置を起動すると、低い駆動音とともに、小さな表示灯が点滅を始めた。
結果が出るまでには、しばらく時間がかかる。
「……相変わらず、のんびり屋さんだネェ」
シオンは装置に向かって軽口を叩き、椅子の背にもたれた。
机の端に置かれた煙草の箱へ手を伸ばす。
一本取り出して唇にくわえ、火をつけた。
ゆっくりと煙を吐き出す。
薄い煙が、天井へ向かって揺らめいていった。
シオンは煙草を指に挟み、傍らに広げた検査記録へ目を落とした。
以前見つけた異常な細胞が、今のマルカートの身体にどんな影響を及ぼしているのか。
「……困ったものだネェ」
呟いて、煙草の灰を落とす。
シオンは記録の端に短く何かを書きつけた。
小さな丸と、折れ曲がった線。それを囲むように、奇妙な形がいくつか並ぶ。
書き終えると、紙を他のメモの間へ滑り込ませた。
分析装置の表示灯は、まだ点滅を繰り返している。
今は結果を待つしかない。
シオンは煙草をもう一口吸い、机の隅に積まれた帳面へ手を伸ばした。
明日の納品予定が書かれた帳面だ。
アイテム屋へ届けるポーション。
自警団から頼まれている分も、まだ残っている。
「……おやおや。こっちも待ってはくれないか」
苦笑しながら帳面を閉じる。
やることはいくらでもあった。
シオンは吸いかけの煙草を灰皿へ押しつけ、火が消えたことを確かめた。
それから手を洗い、調合台へ向かう。
小さな容器から錠剤を一粒取り出し、口に含んだ。
傍目には、ミント菓子でも口に放り込んだような何気ない仕草だった。
シオンは袖をまくり、調合台に並んだ器具を確かめる。
露わになった白い腕には、深い葵色の蛇の刺青が刻まれていた。
細い胴をくねらせた蛇が、肌の上を這うように描かれている。袖口から覗くその姿は、まるで衣服の奥へと潜り込んでいるかのようだった。
シオンは気に留める様子もなく、材料を量り、順番に加えていく。
ガラス容器の中で液体が混ざり合い、淡い色を帯びた。
慎重にかき混ぜながら、シオンはふと窓の方へ目を向けた。
外はすっかり静まり返っている。
七番街の夜も、今頃は深くなっているのだろう。
上の階では、クラウドもティファも眠っている頃かもしれない。
マルカートも、今夜はこのまま穏やかに休めるといい。
「……みんな、よく眠れるといいネェ」
誰に聞かせるでもなく呟き、シオンは手元へ視線を戻した。
調合台の上で、小さなガラス瓶がかすかに触れ合う。
分析装置は、まだ低い音を立てて動き続けていた。
シオンは時折その表示灯を確かめながら、黙々と作業を進めた。
寝台はすぐそこにある。
もっとも、その上には書きかけの紙束が積まれ、今すぐ横になれるような状態ではなかった。
けれど、片付けたところで簡単に眠れるわけでもない。
それは今夜に限ったことでもなかった。
だからといって、特別に嘆くつもりもない。
眠れないなら、できることをしていればいい。
やがて、天望荘の窓という窓から明かりが消えていった。
それでも一階の廊下の奥、小さな部屋にだけは、まだ灯りがともっていた。
静かな夜の中で、分析装置の駆動音とガラスの触れ合う音が、いつまでも小さく響いていた。
この子はどこまで知ってるんでしょうね(すっとぼけ)