FINAL FANTASYⅦ〜怪しい薬屋〜   作:薬師丸

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今回も長文です


第5話「招かれざる客」

 

 天望荘を出たクラウドは、建物の前で大家のマーレに声をかけられた。

 

 初対面だったが、ティファから話を聞いていたらしく、親しげに挨拶をしてくる。

 簡単に言葉を交わすと、クラウドは七番街の通りへ歩き出した。

 

 七番街スラムの朝は、いつもより騒がしかった。

 壱番魔晄炉の爆発から、一夜が明けた。

 道端では住民たちが顔を寄せ合い、昨夜の事件について話している。

 

「まったく、電車が止まっちまったら仕事に行けねえじゃないか」

 

「いつ動くんだろうねぇ……」

 

 不満と不安の入り混じった声が、あちこちから聞こえてくる。

 

 昨夜の爆破作戦。

 

 その影響は、思っていた以上に広がっているらしい。

 もっとも、今さら自分がどうこうできる話でもない。

 クラウドは歩調を変えず、見慣れた看板の前で足を止めた。

 

 セブンスヘブン。

 

 扉を開けると、店内には朝の柔らかな光が差し込んでいた。

 カウンターの向こうでは、ティファが棚を整えている。

 そのさらに奥では、シオンが酒瓶の在庫を確かめながら、一本ずつ棚へ並べ直していた。

 扉の音に、ティファが振り返る。

 

「あ、クラウド!」

 

 声をかけようとした、そのとき。

 

「ティファ、いってきまーす!」

 

 学校へ行く支度を終えたマリンが、元気よく声を上げた。

 

「いってらっしゃい、マリン。気をつけてね」

 

「うん!」

 

 マリンは続いて、カウンターの奥へ顔を向ける。

 

「シオンも、いってきます! ……煙草ダメだからね!」

 

「ハイハイ、わかってるヨォ」

 

「ほんとに?」

 

「信用ないネェ……」

 

 シオンが困ったように笑う。

 

 マリンは念を押すようにもう一度彼を見てから、出口へ向かった。

 そして、そこに立っていたクラウドに気づく。

 

「あ……」

 

 ぱちりと目を瞬かせる。

 

「……いってきます」

 

 先ほどまでの元気な声とは打って変わって、小さな挨拶だった。

 

「ああ」

 

 クラウドが短く答えると、マリンは少し照れたように頷き、足早に外へ駆けていった。

 

 扉が閉まる。

 

 クラウドはカウンターへ向かい、空いている席に腰を下ろした。

 

 ティファは棚の整理を終え、彼の正面へやってくる。

 これから七番街の住人たちのもとを回り、生活用フィルターの交換と代金の回収をするという。

 クラウドにも、その手伝いを頼みたいらしい。

 

 仕事内容を聞いたクラウドは、あからさまに気乗りしない様子だった。

 しかし、代金の支払いを渋る住人もいると聞き、結局は同行することになった。

 

 そんな二人のやり取りを聞いていたシオンが、ふと顔を上げる。

 

「……おや?」

 

 酒瓶を棚に収め終えると、カウンターへ歩み寄ってきた。

 

「ティファちゃん。そういえば、まだクラウド君に報酬渡してなかったのかイ?」

 

「うっ……」

 

 ティファの肩が、ぴくりと跳ねた。

 

「だって、ほら……準備でほとんどなくなっちゃったの……」

 

 困ったように眉を下げるティファを見て、シオンは小さく首を傾げた。

 

「ふーん……」

 

 それから、琥珀色の瞳をクラウドへ向ける。

 

「じゃあさ、クラウド君。お金、欲しいんだよネ?」

 

「……なんだ」

 

「ちょーっと、おつかい頼まれてくれないかイ?」

 

 にこり。

 

 実に人当たりのいい笑みだった。

 しかし、クラウドの表情は露骨に曇る。

 

「……雑用か」

 

「おやおや、そんな顔しないでヨォ」

 

 シオンは愉快そうに笑った。

 

「報酬は、薬を届けたときに受け取る代金を、まるっと君にあげるっていうのはどうだイ?」

 

「……何?」

 

「昨日の報酬、2000ギルと合わせれば、結構な金額になると思うけどネェ?」

 

 にんまりと、笑みが深くなる。

 

 クラウドはしばらくシオンを見つめていた。

 どうにも胡散臭い。

 だが、報酬が出るというのなら話は別だ。

 

「……金になるなら、引き受ける」

 

「本当かイ? いやぁ、助かるヨ〜」

 

 シオンは嬉しそうに両手を合わせると、すっとカウンターの下へ屈み込んだ。

 

 そして。

 

 ドンッ!

 

 カウンターの上に、大きな仕切り付きの運搬箱が置かれた。

 

 続けて。

 

 ドンッ!!

 

 もう一つ。

 

 二つの箱が、二段に積み重なる。

 

「…………」

 

「……えっ?」

 

 クラウドとティファが、揃って目を見開いた。

 

 箱の中には、整然と並べられた大量のポーション。

 小瓶が隙間なく詰め込まれている。

 

「いやぁ、注文が多くてネェ」

 

 シオンは悪びれもせず、頬に手を添えた。

 

「アイテム屋と自警団から、同じタイミングで頼まれちゃってサ。どうせ寄るところは一緒だし、お願いネェ?」

 

「……おい」

 

「ん?」

 

「この量を、俺一人で運べと?」

 

「うん?」

 

 さも当然とばかりに、シオンが首を傾げる。

 

 クラウドは言葉を失った。

 そんな彼を見て、ティファが慌てて口を開く。

 

「で、でもね! シオンが調合してくれるポーションって、本当に効き目がすごいんだよ? だからみんな買っていくの」

 

「そうそう。おかげで全っ然寝られなくて困ったヨォ」

 

 シオンは大げさに肩をすくめた。

 口調こそ軽いが、その目元にはうっすらと疲れの色が残っている。

 

「ま、そういうわけで」

 

 シオンがクラウドへ向き直る。

 

「一度引き受けてくれたんだから、お願いネェ?」

 

 にっこり。

 

 先ほどよりも、さらに笑みが深まった。

 

「…………」

 

 クラウドはしばらくその顔を見つめていたが、やがて諦めたように首を振った。

 

「……わかった」

 

 重い運搬箱を二段に重ねたまま持ち上げる。

 瓶がかすかに触れ合い、涼しげな音を立てた。

 

「じゃあ、行ってくるね。シオン、お店任せたよ?」

 

「はいはーい……あ、そうそう。ティファちゃん」

 

「ん?」

 

「僕、今日の午後からちょっと出かけるからネェ」

 

「午後から?」

 

「うん。ちょっと用事があってサァ」

 

「わかった。こっちもその頃には戻るからね」

 

「はぁーい」

 

 ティファがクラウドの後を追って出口へ向かう。

 

 シオンはカウンターに寄りかかり、一本の煙草を取り出した。

 細い指先で火をつける。

 

 ふわり、と。

 

 かすかに甘い香りを含んだ煙が立ちのぼった。

 

「んふふ。行ってらっしゃーイ」

 

 ひらひらと手を振るシオン。

 二人が店を出ていくのを、琥珀色の瞳が静かに見送っていた。

 

 *

 

 外へ出てしばらく歩いたところで、クラウドが口を開いた。

 

「……あいつ、最初から俺に運ばせるつもりだったな」

 

「ふふっ、そうかもね」

 

「……次は追加料金だ」

 

「シオンに言っておくね」

 

 ティファが笑う。

 

 クラウドは何も答えず、積み重ねた箱を抱え直した。

 

 そのまま二人は、七番街の通りを歩いていった。

 

 *

 

 

 

 一方、その頃。

 

 

 

 セブンスヘブンでは、シオンが一人、カウンターの内側に残っていた。

 煙草の先から、細い煙が立ちのぼる。

 

「…………」

 

 ふと、先ほどのクラウドの姿が脳裏をよぎった。

 

 昨夜、天望荘で起きた騒ぎ。

 マルカートに向けて剣を振り上げた、あのときの表情。

 何かを恐れ、同時に激しく憎んでいるような目をしていた。

 あの場にいたのは、病に苦しむ一人の男だった。

 けれど、クラウドには別の誰かが見えていたのかもしれない。

 

「……何を見ていたんだろうネェ」

 

 小さく呟き、煙を吐き出す。

 

 気にかかるのは、クラウドのことだけではなかった。

 

 マルカートの発作。

 

 これまでとは明らかに違う、異様な興奮状態。

 そして、昨夜採取した血液の検査結果。

 血液中に存在する、通常では見られない細胞。

 その数値は、以前の検査結果と比べて異様なほど高くなっていた。

 

 何度確認しても、結果は同じだった。

 発作による一時的な変化なのか。

 それとも、別の何かが影響しているのか。

 現時点では、判断するだけの材料が足りなかった。

 

 ただ、ひとつ気になることがある。

 

 マルカートの隣室へ、クラウドが越してきたこと。

 そして、その夜に限って起きた、これまでにない激しい発作。

 

「……偶然、かネェ」

 

 もちろん、二つを結びつける根拠はない。

 シオンはしばらく黙り込み、やがて小さく肩をすくめた。

 

「……ま、元気そうで何よりかナァ」

 

 今朝のクラウドは、少なくとも普段どおりに見えた。

 

 文句を言いながらも、あれだけの荷物を抱えて出ていったのだから。

 

 思い出して、口元にかすかな笑みが浮かぶ。

 だが、それも長くは続かなかった。

 

「……調べることが増えちゃったネェ」

 

 シオンは煙草を口元へ運び、もう一度、ゆっくりと煙を吸い込んだ。

 そして、細く長く吐き出す。

 淡い煙が、午前の陽射しの中を漂っていく。

 吐き出された煙はすぐには消えず、カウンターの内側でゆるやかに揺らめいていた。

 

 ふわり、と。

 

 どこか人を誘うような、ほのかに甘い香りが漂う。

 煙はシオンの肩先をかすめ、細い身体にまとわりつくように、ゆっくりとたゆたっていた。

 

 

 

 

 そのとき一一

 

 

 

 

 店の外から、複数の足音が近づいてきた。

 

 シオンの指先で、煙草の赤い火がかすかに揺れる。

 

 足音は次第に大きくなり、やがて店の前で止まった。

 

 シオンはゆっくりと顔を上げた。

 琥珀色の瞳が、閉じた扉へ向けられる。

 その口元に浮かんでいた笑みが、いっそう深くなった。

 甘い香りを含んだ煙が、彼の周囲を静かに漂っている。

 

 

 

 やがて。

 

 

 

 

 扉が押し開かれた。

 

 先頭に立つ黒いスーツの男。

 その後ろには、武装した兵士が二人。

 朝の酒場には、明らかに不釣り合いな客だった。

 

 男は店内を見渡した。

 客の姿はない。

 カウンターの奥に、ただ一人。

 両肘をカウンターにつき、紫煙をくゆらせながら、こちらを見ている男がいた。

 

 その顔を認めた瞬間、ツォンの目がわずかに見開かれる。

 

「……まさか」

 

 五年間、消息の掴めなかった人物。

 幾度となく追った手がかりの、その先にいるはずの男。

 それが今、目の前で笑っている。

 

 しかも、逃げる素振りすら見せずに。

 

「……お前は、」

 

 ツォンが言葉を続けようとした、そのとき。

 

 

 

「どうモー。薬屋シオンでス。はじめましテ」

 

 

 

 シオンはカウンターに両肘をついたまま、にっこりと微笑んだ。

 まるで、初めて訪れた客を迎えるように。

 その笑顔を前に、ツォンは口を閉ざす。

 背後の兵士たちは、二人の間に流れる奇妙な沈黙の意味を知らない。

 

 やがて、ツォンは静かに息を吐いた。

 

「……そうか」

 

 それだけ告げると、店内の中央付近まで歩を進めた。

 

 二人の兵士も、その少し後ろに続く。

 カウンターとの間には、まだいくつかのテーブルがあった。

 シオンは三人を眺めながら、楽しげに首を傾げる。

 

「それで? 今日は何のご用でしょウ? お薬のご相談? ……まさか、こんな朝っぱらからお酒かイ?」

 

 その言葉に、兵士の一人が眉をひそめた。

 

「貴様……!」

 

 苛立ちを隠さず、一歩前へ出ようとする。

 

 だが、その動きを遮るように、ツォンが片手を上げた。

 

「……控えろ」

 

 振り返ることすらしない、静かな制止。

 兵士は不満げに口を閉ざし、元の位置へ戻った。

 

 ツォンの視線は、シオンから一度も逸れていない。

 

「お前に確認したいことがある」

 

「おや、僕に?」

 

 シオンはわざとらしく目を丸くした。

 

 ツォンは構わず続ける。

 

「お前には、六番街スラムにおける違法薬物の製造、流通、売買取引への関与の疑いがある」

 

 店内に、低く落ち着いた声が響く。

 

「さらに、神羅カンパニーの機密情報の不正取得、不正保有、外部への漏洩に関与した疑いもある」

 

 シオンは黙って聞いていた。

 細い煙が、カウンターの上でゆっくりと揺れる。

 微かに甘ったるい香りが漂っていたが、店の中央に立つ三人に届くのは、その残り香ほどのものだった。

 

「以上の容疑について、事情を聞かせてもらう」

 

 

 一通り聞き終えたシオンは、小さく肩を揺らした。

 

「ふふっ……」

 

 煙草を口元へ運び、ゆっくりと煙を吐く。

 

「へぇ……ずいぶん盛りだくさんだネェ」

 

 その声には、恐れも動揺もない。

 

「でもサァ……」

 

 シオンはほんの少し身を乗り出した。

 

「それ、ぜーんぶ『疑い』なんでしょ?」

 

 ツォンは答えなかった。

 

「いやぁ、困っちゃうネェ。僕、こう見えて忙しいんだヨ?」

 

「……同行してもらおう」

 

「えー? 僕、まだ何もしてないんだけどナァ?」

 

 くすくすと笑いながら、シオンは煙草の灰を落とした。

 

「それとも神羅さんは、証拠がなくても連れていけちゃうのかナ?」

 

 ツォンは、しばらくその笑顔を見つめていた。

 

 ふと、脳裏に光景がよぎる。

 誰かと肩を並べ、悪戯っぽく笑っていた横顔。

 

 

 

 ――そして。

 

 

 

 

 見開かれた琥珀色の瞳。

 

 

 

 血の気の引いた顔。

 

 

 

 何かを言いかけたまま、動かなくなった唇。

 

 

 

「…………」

 

 ツォンは目の前の男を見据え直した。

 

 そこには、先ほどと変わらぬ笑顔があった。

 

「……捕縛しろ」

 

「はっ!」

 

 軍靴が床を鳴らす。

 先ほどシオンの軽口に腹を立てていた兵士が、真っ先にカウンターへ向かった。

 

「おい、貴様! さっさとそこから出ろ!」

 

 怒気を含んだ声が店内に響く。

 

 しかし、シオンは動かない。

 カウンターに両肘をつき、煙草を右手に挟んだまま、にこにこと兵士を見上げていた。

 

「おやおや、怖いネェ」

 

「ふざけるな! 大人しくしろ!」

 

「えー? 僕、何かしたっけ?」

 

「容疑は聞いただろう!」

 

「聞いたヨォ。ぜーんぶ『疑い』だったけどネ?」

 

 兵士の眉間に、深い皺が刻まれる。

 

「これ以上抵抗するなら、力ずくでも連行するぞ!」

 

 その言葉を聞いたシオンの笑みが、わずかに深まった。

 

「……ふふっ」

 

 細い煙が、二人の間をゆっくりと漂う。

 

「やれるならドーゾ……」

 

 シオンは、琥珀色の瞳を細めた。

 

 

 

「やれるならネェ?」

 

 

 

「……っ、この野郎!」

 

 兵士がカウンター越しに腕を伸ばした。

 

 その手が、シオンの肩へ届こうとした瞬間。

 

 

 

 ぐらり。

 

 

 

「……あ?」

 

 視界が、不意に傾いた。

 兵士は思わずカウンターの縁を掴む。

 

「……なん、だ……?」

 

 一度、強く瞬きをする。

 だが、焦点が合わない。

 目の前の男の輪郭が、妙に滲んでいた。

 

 甘い。

 

 鼻の奥に、まとわりつくような甘ったるい香りが残っている。

 

 

 

 いつから、こんな匂いがしていた?

 

 

 

「……おい?」

 

 背後から、もう一人の兵士の声がした。

 

 だが、それよりも、目の前の男が笑っている。

 

 ずっと、笑っている。

 

 カウンターに置かれた右手。

 

 その甲に刻まれた、蛇の頭。

 

 黒い模様が、ぼやけた視界の中で奇妙に歪んだ。

 

 まるで、目の前の男と一緒になって、自分を嘲笑っているように――。

 

 

 

「……っ!」

 

 兵士は息を呑んだ。

 

 シオンは何もしていない。

 ただ、頬杖をつくように肘を預け、愉快そうにこちらを眺めているだけだった。

 

「……どうしたのかナァ?」

 

 その声が、妙に遠く聞こえた。

 

「まだ、僕に触ってもいないヨ?」

 

 シオンの唇が、ゆっくりと弧を描く。

 

「……くそっ……」

 

 額にじっとりと汗が滲む。

 何度瞬きをしても、視界の歪みは収まらなかった。

 

「おい、どうした?」

 

 背後から声がした。

 

 もう一人の兵士が、不審そうに近づいてくる。

 

「何をしている。さっさと連行しろ」

 

 肩に手が触れた。

 

 その瞬間。

 

「……触るなッ!!」

 

 兵士は勢いよく振り向いた。

 振り払うように突き出した肘が、背後の兵士の胸元を強く打つ。

 

「ぐっ……!?」

 

 よろめいた相手に、さらに拳を振り上げる。

 

「お前……!」

 

「お前! 何してんだ!!」

 

 二人目の兵士が怒鳴った。

 

 だが、その声は、一人目の耳にはひどく歪んで届いていた。

 

 

 

 まるで、自分を嘲笑っているかのように。

 

 

 

「……笑ったな……」

 

「は?」

 

「お前が……オマエが俺をバカにしたなっ!!」

 

「何を言って――」

 

 言い終えるより早く、拳が飛んできた。

 鈍い音が響く。

 

 二人目の兵士は咄嗟に腕を上げ、顔を庇った。

 

「やめろ! 正気か、お前!」

 

「うるさいッ!!」

 

 もみ合う二人の身体が、近くの椅子にぶつかった。

 

 ガタンッ!

 

 椅子が横倒しになり、床を滑る。

 さらに一人目が相手の胸倉を掴み、力任せに押し込んだ。

 テーブルが大きくずれ、脚が床を引っ掻いた。

 

「……何をしている」

 

 ツォンの低い声が飛ぶ。

 

 しかし、二人は止まらない。

 

 

 

「やめろっ!」

 

 いつもなら、その一声で動きを止めるはずの兵士たちだった。

 だが、一人目は相手を睨みつけたまま、何かをぶつぶつと呟いている。

 二人目も、もはや命令を聞く余裕などなかった。

 

「くそっ……離せ!」

 

 相手の腕を振りほどこうとした、そのとき。

 

 

 

 ふわり、と鼻先を甘い香りが掠めた。

 

 

 

「…………?」

 

 二人目の兵士は、一瞬だけ動きを止めた。

 何だ、この匂いは。

 そう思った途端、目の前の相手の顔が、奇妙に歪んで見えた。

 怒鳴り声が、耳の奥で何重にも反響する。

 

 ――違う。

 

 こいつは、怒っているんじゃない。

 

 自分を責めている。

 

 何かを知っている。

 

 知られてはいけない、何かを。

 

「……やめろ……」

 

 兵士の唇が震えた。

 

「……あぁ……やめろ……!」

 

「何を――」

 

「俺は……オレは悪くない!!!!」

 

 絶叫とともに、二人目の兵士が相手を突き飛ばした。

 一人目の身体が椅子を巻き込み、床に倒れ込む。

 

 だが、二人目は止まらなかった。

 

 馬乗りになるように身を屈め、拳を振り下ろす。

 

 一度。

 

 二度。

 

「やめろッ!!」

 

 ツォンが鋭く命じた。

 

 その声すら、二人目の兵士には届いていない。

 

 

 カウンターの向こうで、

 

「…………んふふっ」

 

 小さな笑い声が漏れた。

 

 シオンだった。

 

 相変わらず両肘をカウンターに預け、右手に煙草を挟んだまま、目の前の騒動を眺めている。

 琥珀色の瞳が、愉快そうに細められた。

 

 

 まるで、ひどく出来のいい余興でも見せられているかのように。

 

 

 ツォンは、その笑い声に顔を向けた。

 

 シオンと目が合う。

 

 男は、にっこりと笑った。

 

 

「……あれ?」

 

 

 わざとらしく首を傾げる。

 

 

「主任さんも、大変だネェ」

 

 

 その瞬間、ツォンの目が鋭く細められた。

 

 床でもみ合う二人。

 つい先ほどまで、命令に従っていた部下たちだ。

 突然、二人とも正気を失うなど、あり得ない。

 

 ――いや。

 

 本当に、突然だったのか。

 ふと、鼻先を微かな香りが掠めた。

 

 甘い。

 

 酒場には似つかわしくない、妙にまとわりつくような甘さ。

 

 ツォンはゆっくりと視線を戻した。

 

 カウンターの向こう。

 シオンの右手には、細い煙草が挟まれている。

 その先端から立ち上る煙が、彼の周囲でゆるやかに揺れていた。

 

「…………」

 

 ツォンの表情が険しくなる。

 二人の兵士が異変を起こしたのは、カウンターへ近づいてからだった。

 

 

 そして、あの男は。

 

 

 

 最初から、そこを一歩も動いていない。

 

 

 

「……お前、何をした……!?」

 

 低く押し殺した声。

 

 シオンは、ぱちりと瞬きをした。

 

「おや?」

 

 わざとらしく首を傾げる。

 

「何のことかナァ?」

 

 くすくすと笑いながら、煙草を口元へ運ぶ。

 

 ツォンは答えなかった。

 ただ、その男を睨みつける。

 

 そのときだった。

 

「……あ、あぁ……!」

 

 背後から、引きつった声が上がった。

 

 振り返れば、先ほどまで仲間を殴りつけていた兵士が、何もない空間を見つめて後ずさっている。

 

「来るな……! 俺は……オレは悪くないッ!!」

 

 兵士は錯乱したまま立ち上がり、震える手を腰の拳銃へ伸ばした。

 

「……よせ!」

 

 ツォンの制止も虚しく、引き抜かれた銃口が不規則に揺れる。

 

「う、うわあああああッ!」

 

「やめろ!!」

 

 

 乾いた銃声が、一発。

 

 

 

 耳をつんざく音が、セブンスヘブンに響き渡った。

 

 

 

 ツォンの頬を、熱いものが掠める。

 

 

 直後、頭上で硬い音が弾けた。

 天井に、小さな穴が開いていた。

 

「…………」

 

 ツォンは動かなかった。

 

 頬に細い赤い筋が走り、一筋の血が伝う。

 

 兵士の手から、拳銃が滑り落ちた。

 床にぶつかる金属音。

 続いて、兵士自身も膝を折った。

 

「……あ……ぁ……」

 

 そのまま崩れるように倒れ込み、呻き声を漏らす。

 

 もう一人も床に横たわったまま、動こうとしない。

 荒い呼吸だけが、二人の間から聞こえていた。

 

 

 

 

 店内に、静けさが戻る。

 

 

 

 

 倒れた椅子。

 

 位置のずれたテーブル。

 

 天井に残された、一発の弾痕。

 

 そして。

 

 

「…………んふふ」

 

 

 カウンターの向こうから、小さな笑い声がした。

 

 ツォンはゆっくりと視線を上げた。

 

 シオンは、まだ笑っていた。

 

 両肘をカウンターに預け、右手には煙草。

 琥珀色の瞳が、まっすぐにツォンを見つめている。

 

 

 

 まるで、最初からこうなることを知っていたかのように。

 

 

 

「…………」

 

 シオンはゆっくりと右手を下ろした。

 短くなった煙草を灰皿に押しつけ、火を消す。

 それから、何事もなかったかのように再び両肘をカウンターに預けた。

 

「……お前の仕業か」

 

「おやおや」

 

 シオンは困ったように眉を下げた。

 

「さっきから僕ばっかり疑うネェ」

 

 灰皿には、火の消えた煙草が一本。

 

「僕はここで、ずーっと大人しくしてただけだヨ?」

 

「…………」

 

 それは事実だった。

 

 この男は、兵士に手を触れてすらいない。

 椅子を倒したのも、拳を振るったのも、銃を撃ったのも、すべて兵士自身だ。

 

 

 だが。

 

 

 ツォンの視線が、灰皿へ落ちる。

 微かに漂う甘い香り。

 

 兵士たちが異変を起こした場所。

 

 そして、何もかも見透かしたような男の笑顔。

 

 偶然だとは、到底思えなかった。

 

「……証拠は?」

 

 不意に、シオンが口を開いた。

 

 ツォンの眉が動く。

 

 シオンはにっこりと微笑む。

 

「僕が何かしたっていう、証拠」

 

「…………」

 

「ないんでしょ?」

 

 くすくすと笑う。

 

「困ったネェ、主任さん」

 

 ツォンは何も言わなかった。

 目の前にいる男を、改めて見つめる。

 

 

 五年前。

 

 あの頃も、この男はよく笑っていた。

 人をからかい、悪戯を仕掛け、こちらが眉間に皺を寄せるたびに、ますます楽しそうに目を細めていた。

 今も、その笑い方は変わらない。

 

 

 

 ――なのに。

 

 

 

 何かが、決定的に違っていた。

 

 

 

 

「……お前は、変わったんだな」

 

 ぽつりと落ちた言葉。

 

 シオンの笑みが、ほんのわずかに止まった。

 だが、それも一瞬。

 

「ふふっ」

 

 すぐに、いつもの調子で笑う。

 

「変わるでしょ? 五年経ってるんだからネェ」

 

 軽い口調だった。

 まるで、五年という歳月など、たいしたことではないとでも言うように。

 

 ツォンは、その笑顔を見つめていた。

 何かを言いかけて、やめる。

 今ここで問いただしたところで、目の前の男が素直に答えるとは思えなかった。

 それに、倒れた部下たちを放置するわけにもいかない。

 

「…………」

 

 ツォンは小さく息を吐いた。

 

「……わかった。ここは引こう」

 

 シオンが、わざとらしく目を丸くする。

 

「おや、もうお帰り?」

 

 ツォンは答えず、床に転がった拳銃を拾い上げた。

 安全を確認し、倒れた兵士たちへ視線を向ける。

 

 一人が、ぼんやりと顔を上げた。

 

「……しゅ、主任……?」

 

「撤収する」

 

 短く告げる。

 

 兵士たちは互いに顔を見合わせたが、先ほどの騒動を覚えていないのか、戸惑った様子で身体を起こした。

 ツォンは二人を促し、出口へ向かった。

 

 

 扉の前で、その足が止まる。

 振り返りはしなかった。

 

「……だが次は容赦しない」

 

 背中越しに告げられた言葉。

 

 

 カウンターの向こうから、楽しげな声が返ってきた。

 

「またのご利用はお待ちしませーン」

 

「…………」

 

 ツォンは何も答えなかった。

 扉が押し開かれる。

 兵士たちを連れた黒いスーツの男は、そのまま店の外へと姿を消した。

 

 扉がゆっくりと閉まる。

 

 

 

 カタン。

 

 

 

 セブンスヘブンに静寂が戻った。

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

「…………」

 

 シオンはしばらく、閉じた扉を眺めていた。

 

 先ほどまで響いていた怒号も、軍靴の音も、今はもう聞こえない。

 ただ、何事もなかったかのように、午前の陽射しが店内へ差し込んでいる。

 

「……やれやれ」

 

 小さく息を吐き、シオンはゆっくりと立ち上がった。

 まずは店内の窓を、ひとつ、またひとつと開けていく。

 最後の窓を開け放つと、七番街スラムの空気が一気に流れ込んできた。

 

 カーテンがふわりと揺れる。

 

 店内に残っていた甘ったるい香りが、風にさらわれ、少しずつ薄れていった。

 

「……まったく、騒がしいお客さんだったネェ」

 

 シオンは小さく肩をすくめると、カウンターへ戻った。

 

 煙草の箱を取り出し、一本を抜き取る。

 今度は、いつもの煙草だった。

 唇にくわえ、慣れた手つきで火をつける。

 

 すう、と深く吸い込んだ。

 

「……ふぅ」

 

 ゆっくりと吐き出された紫煙には、先ほどまでの妙な甘さはない。

 馴染みのある煙草の香りが、口の中に残っていた甘ったるさを上書きしていく。

 

「……やっぱり、こっちの方が落ち着くネェ」

 

 シオンはカウンターに寄りかかり、煙草を指に挟んだまま、ぼんやりと窓の外を眺めた。

 

 

 

 

 一一一五年。

 

 

 

 

 

 ずいぶん長い時間が経ったものだ。

 

 黒いスーツ。

 

 相変わらず生真面目な顔。

 

 そして、あの言葉。

 

 

 

 

『……お前は、変わったんだな』

 

 

 

 

「…………」

 

 シオンの口元から、笑みが消えた。

 

 変わった。

 そんなことは、言われなくても分かっている。

 

 五年も経てば、人は変わる。

 

 変わらずにいられるほど、穏やかな時間が流れていたわけではない。

 

 それに。

 

 変わっていないのは、むしろ――。

 

 

 

 

「……君たちの方じゃないのかネェ」

 

 

 

 

 声は、ひどく静かだった。

 

 人を使い、必要がなくなれば切り捨てる。

 都合の悪いものは覆い隠し、手に入れたいものには容赦なく手を伸ばす。

 

 

 あの頃から、何ひとつ。

 

 

「…………」

 

 シオンはゆっくりと目を伏せた。

 煙草を口元へ運び、もう一度、深く吸い込む。

 吐き出した煙が、開け放たれた窓から流れ込む風に乗って消えていく。

 脳裏に浮かびかけた何かを振り払うように、細く息を吐いた。

 

「……ま、今さらかァ」

 

 顔を上げたときには、いつもの飄々とした表情に戻っていた。

 窓から差し込む風が、長い藍黒色の髪を揺らす。

 

 シオンはしばらくそのまま外を眺めていたが、やがて時計へ視線を向けた。

 

「……ん?」

 

 もう、こんな時間か。

 ティファたちも、そろそろ戻ってくる頃だろう。

 

「さて、と」

 

 煙草を灰皿に押しつけて消すと、身体を起こし、何気なく店内を振り返った。

 

「…………」

 

 シオンの動きが止まった。

 

 

 倒れた椅子。

 

 

 斜めにずれたテーブル。

 

 

 床に散らばった小物。

 

 

 そして、天井。

 

 

 そこには、ぽつんと黒い穴が開いていた。

 

 

 

 

 

「…………あ」

 

 

 

 

 

 数秒。

 

 シオンは、ただその光景を見つめていた。

 

「……あー……」

 

 ゆっくりと、両手で顔を覆う。

 

「……あっちャー」

 

 神羅のタークスを前にしても崩れなかった余裕が、見る影もなく消えていた。

 

「これ……ティファちゃんに怒られるやつじゃん……」

 

 シオンは慌てて袖をまくる。

 

「いやいやいや、まだ間に合う。うん、間に合うヨォ……!」

 

 まずは椅子。

 それからテーブル。

 

 

 天井の穴は……。

 

 

「……どうしよっかナァ、あれ」

 

 見上げても、穴が塞がるわけではない。

 とりあえず椅子を起こし、床に散らばった小物を拾い集める。

 テーブルを元の位置へ戻そうとした、そのときだった。

 

 

 

 扉が開いた。

 

 

 

「ただいま!」

 

 

 

 聞き慣れた、明るい声。

 

 シオンの肩が、びくりと跳ねた。

 

「シオン、アイテム屋さん、ちゃんと受け取ってくれたよ。代金も――」

 

 ティファの言葉が途切れた。

 店内へ足を踏み入れたまま、ぴたりと動きを止める。

 

「…………」

 

 視線が、ゆっくりと店内を巡る。

 

 

 ずれたテーブル。

 

 

 倒れたままの椅子。

 

 

 散らばった小物。

 

 

 

 そして。

 

 テーブルに手をかけたまま、妙にぎこちない笑顔を浮かべている店主。

 

「…………シオン?」

 

「あ」

 

 シオンは顔を上げた。

 

「お、おかえりぃ、ティファちゃん」

 

「…………」

 

「いやぁ、早かったネェ。お仕事、順調だったかイ?」

 

「……シオン」

 

「ん?」

 

「これ、何?」

 

「えーっとぉ……」

 

 シオンは店内を見回した。

 まるで、自分も今初めて気づいたかのように。

 

「……ちょっと、お客さんと揉めちゃってぇ」

 

「……ちょっと?」

 

 ティファの声が、一段低くなった。

 

「ちょっとで、こんなことになるの?」

 

「……あはは」

 

 笑ってみせる。

 いつものように、適当に誤魔化せると思ったのかもしれない。

 

 しかし。

 

「シオン」

 

「……はぁい」

 

 

 

「怪我は?」

 

 

 

「……え?」

 

 予想外の質問に、シオンが瞬きをした。

 

 ティファは彼のそばへ歩み寄ると、腕や肩を確かめ始めた。

 

「どこか痛いところは? 血は出てない?」

 

「え、いや、僕は別に――」

 

「本当に?」

 

 顔を覗き込まれる。

 真剣な瞳だった。

 

 シオンは一瞬だけ言葉を詰まらせ、それから、ふっと笑った。

 

「……大丈夫だヨォ。僕、ぴんぴんしてるかラ」

 

「……そう」

 

 ティファは大きく息を吐いた。

 

 肩から、ようやく力が抜ける。

 

「……よかった」

 

 小さな声だった。

 

 

 

 けれど、次の瞬間。

 

 

 

「じゃあ、シオン」

 

「ん?」

 

「説明してくれる?」

 

「…………」

 

 シオンの笑顔が固まった。

 

「……何をかナァ?」

 

「何があったのか、全部」

 

「えーっと……」

 

 視線が泳ぐ。

 

「ちょっと、面倒なお客さんが来ちゃってネェ……」

 

「それで?」

 

「ちょーっと、揉めちゃって……」

 

「それで?」

 

「……椅子が倒れちゃったり……」

 

「…………」

 

 シオンはそっと天井を見上げた。

 

 ティファも、その視線を追う。

 

 黒い穴。

 

「…………シオン?」

 

「……はぁい」

 

「あれ、何?」

 

「……穴、かナァ」

 

「それは見れば分かるよ?」

 

「ですよネェ……」

 

 シオンは小さく肩を落とした。

 

 その様子を、少し離れたところからクラウドが眺めていた。

 

 帰ってきた途端、店内はこの有様。

 しかも当の店主は、妙に歯切れが悪い。

 

 クラウドは壁際に立ち、腕を組んだ。

 

「……何をどうしたら、こうなるんだ」

 

「いやぁ、それがネェ……」

 

 シオンが困ったように笑う。

 

「僕にもよく分かんないんだよネェ」

 

「……嘘をつけ」

 

「クラウド君、冷たいナァ……」

 

「自業自得だろ」

 

「うぅ……」

 

 シオンは助けを求めるようにティファを見た。

 

 しかし、そのティファは腕を組んでいる。

 

「シオン。ちゃんと聞いてる?」

 

「はいっ!」

 

 返事だけは、異様に早かった。

 

「まず、何があったのかはあとでちゃんと聞くからね」

 

「……はぁい」

 

「それから、危ないことがあったなら隠さないこと。怪我がなくても、心配するんだから」

 

「…………」

 

「分かった?」

 

 シオンは一瞬だけ目を伏せた。

 それから、いつもの笑顔を浮かべる。

 

「……うん。ごめんネ、ティファちゃん」

 

 ティファはしばらく彼を見つめていたが、やがて小さく頷いた。

 

「……うん」

 

 そして、改めて店内を見回す。

 

「じゃあ、片付けようか」

 

「……え?」

 

「片付け」

 

「……僕が?」

 

「シオンのお店でしょ?」

 

「…………」

 

 シオンはちらりとクラウドを見た。

 

 クラウドは腕を組んだまま、視線だけを返す。

 

「……俺を見るな」

 

「まだ何も言ってないヨォ……」

 

「言うつもりだっただろ」

 

「……バレた?」

 

「当たり前だ」

 

 ティファが、こほんと咳払いをした。

 

「シオン?」

 

「はいっ!!」

 

 びしっ、と背筋が伸びる。

 

「まず椅子を戻して、床をきれいにして。それから天井の穴も確認しないと」

 

「はぁい……」

 

「危ないものが落ちてないか、ちゃんと見てね?」

 

「分かってるヨォ……」

 

「本当に?」

 

「……信用ないネェ」

 

「今はないかな」

 

「ひどいっ!」

 

 ティファは笑わなかった。

 

 シオンはしょんぼりと肩を落とす。

 

 クラウドはその様子を眺めながら、呆れたように息を吐いた。

 

 朝はあれほど楽しげに自分へ大量の荷物を押しつけてきた男が、今はティファの前で小さくなっている。

 何とも調子の狂う光景だった。

 

「……まったく」

 

 シオンはモップを手に取り、床を拭き始めた。

 

「……僕、今日ついてないナァ」

 

「何か言った?」

 

「なーんでもありませーン!」

 

 

 その返事を聞いて、クラウドが小さく鼻を鳴らした。

 

 やがて、店内に少しずつ元の落ち着きが戻り始めた頃。

 

 再び、扉が開いた。

 

 

「ただいまー!」

 

 元気な声が飛び込んでくる。

 

 マリンだった。

 

 壱番魔晄炉の爆発事故の影響で、今日は念のため授業が早く終わったらしい。

 

 その後ろから、大柄な男が続いて入ってくる。

 

「おう、帰ったぞ! ……って」

 

 バレットの足が止まった。

 

「…………あ?」

 

 店内を見渡す。

 

 

 妙にずれた家具。

 

 

 床を拭いているシオン。

 

 

 腕を組んで呆れ顔のクラウド。

 

 

 そして、何やら険しい顔をしているティファ。

 

 

「……おい」

 

 バレットの眉間に、深い皺が刻まれる。

 

「なんじゃこりゃああああ!?」

 

 店内に怒号が響き渡った。

 

 マリンも目を丸くする。

 

「えっ!? どうしたの!? お店、どうしたの!?」

 

 そして、モップを持ったシオンを見つける。

 

「……シオン?」

 

「……はぁい」

 

「なにしたの!?」

 

「えーっとぉ……」

 

 シオンは困ったように笑った。

 

「ちょーっと、お客さんと揉めちゃってネェ……」

 

「ちょっとじゃねえだろうが!!」

 

 バレットの怒鳴り声が飛ぶ。

 

「誰がこんなことしやがった!?」

 

「……お客さん?」

 

「どんな客だよ!!」

 

「いやぁ、ちょっと変わったお客さんでサァ……」

 

「お前の方がよっぽど変わってんだろ!!」

 

「えぇー、ひどくなーい?」

 

「ひどいのは店の有様だろうが!!」

 

 バレットが天井の穴を見つける。

 

「……おい、待て」

 

 顔つきが変わった。

 

「あれ、銃で撃たれた跡じゃねえか!?」

 

「…………」

 

 シオンの笑みが、ぴたりと止まる。

 

 ティファも、改めて天井を見上げた。

 

「……シオン」

 

「……はぁい」

 

「あとで、ちゃんと全部話してね?」

 

「…………はい」

 

 今度の返事は、少しだけ小さかった。

 

 マリンが心配そうにシオンの顔を覗き込む。

 

「シオン、痛いことされなかった?」

 

「……ん?」

 

「けが、してない?」

 

 シオンは目を瞬かせた。

 それから、マリンの目線に合わせるように身を屈める。

 

「大丈夫だヨォ。ほら、どこも怪我してないでしょ?」

 

 両手を広げてみせると、マリンはようやく安心したように息を吐いた。

 

「……よかったぁ」

 

「心配してくれたのかイ?」

 

「当たり前でしょ!」

 

 マリンは頬を膨らませる。

 

「シオン、もう危ないことしちゃダメだからね!」

 

「……はぁい」

 

「約束!」

 

「うんうん、約束ネェ」

 

 シオンはにっこりと笑った。

 

 そのやり取りを見ていたバレットが、深いため息をつく。

 

「……ったく。何があったか知らねえが、あとで説明しろよ」

 

「はぁーい……」

 

 シオンはモップを握り直した。

 

 ティファは腕を組んだまま、その様子を見守っている。

 

 バレットはまだ納得がいかない様子で天井を睨み、マリンはシオンのそばで心配そうにしていた。

 

 クラウドだけが、少し離れた場所からその光景を眺めていた。

 

 ただの客だったのか。

 それとも、何か厄介な連中でも来たのか。

 事情は分からない。

 だが、ひとつだけ確かなことがある。

 

 

 あの胡散臭い薬屋は、どうやら相当な厄介者らしい。

 

 

「……あいつ、何なんだ」

 

 クラウドは、誰にともなく呟いた。

 

 そのとき。

 

「シオン、そこ! まだ汚れてるよ!」

 

 ティファの声が飛んだ。

 

「はいッ!!」

 

 反射的に背筋を伸ばすシオン。

 

 そのあまりにも素直な返事に、クラウドは思わず目を細めた。

 

 窓から差し込む昼下がりの陽射しの中、セブンスヘブンには、いつもの騒がしさが戻っていた。

 

 もっとも。

 

 その中心にいる店主だけは、まだしばらくモップを手放せそうになかった。




落差がすごいシオン君ですw

明日から今後ストックを増やしながら投稿します(構成は数話分組んではいるけど細かいとこ編集するので)
どうぞ長い目でお願いいたします(土下座)
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