セブンスヘブンに、ようやく落ち着きが戻り始めていた。
倒れていた椅子は元の位置へ戻され、散乱していた硝子の破片も片付けられている。ずれていたテーブルも整えられ、午前中の騒動が嘘のようだった。
もっとも、天井に残された弾痕だけはどうにもならなかったが。
「……ふぅ」
最後にモップをひと滑りさせたシオンは、磨き上げた床を眺め、満足そうに頷いた。
「これでどうかナァ、ティファちゃん」
「うん。もう大丈夫そう。ありがとう、シオン」
「いやぁ、どういたしましてェ……」
のんびりと返しながら、シオンは大げさに肩を落とした。
「……僕のお店なのにネェ」
「だから片付けてもらったんでしょ?」
「ですよネェ……」
にっこりと微笑むティファに、シオンは苦笑するしかなかった。
そんな二人のやり取りをよそに、バレットは店内を見回していた。
やがて、何かを決めたように口を開く。
「……おい。作戦の件で話がある」
その声に、ティファの表情が引き締まった。
バレットはマリンを店先へ向かわせると、地下の会議室へ降りていく準備を始めた。
クラウドも何か言いたげに口を開いたが、バレットは取り合わない。
どうやら報酬の話をするには、あまり良いタイミングではなかったらしい。
「…………」
クラウドの眉間に皺が寄る。
それを横目に、シオンは使い終わったモップを片付けた。
(………やれやレ、難儀だネェ)
くすりと笑い、洗い場へ向かう。
石鹸で丁寧に手を洗い、清潔な布で水気を拭き取ると、今度は厨房へ足を向けた。
作業台には、まだ仕込み途中の食材が残っている。
昼間から随分と予定が狂ってしまった。
「……さァて。僕は僕のお仕事でもしますかネェ」
包丁を手に取り、野菜を刻み始める。
とん、とん、とん。
小気味よい音が厨房に響いた。
その間にも、ティファとクラウドはカウンターの方で何やら話している。
作戦会議に参加する前に、ティファは少しでもクラウドの機嫌を直したかったらしい。
やがて、シェイカーを振る軽快な音が聞こえてきた。
「……お?」
シオンが顔を上げる。
カウンターでは、ティファが慣れた手つきで酒を作っていた。
銀色のシェイカーが店内の明かりを反射し、彼女の手の中で軽やかに踊る。
「おぉー」
ぱちぱちぱち。
厨房から、小さな拍手が起こった。
ティファが視線を向けると、シオンがにこにこと笑っている。
「んふふ。相変わらず見事な手つきだネェ」
「もう、シオンったら」
ティファは照れたように笑い、クラウドの前へグラスを置いた。
クラウドは差し出された酒を口に運ぶ。
どうやら気に入ったらしい。
先ほどまで険しかった表情が、ほんのわずかに和らいだ。
その様子を見たティファは、もう一杯作ることにしたようだった。
次に現れたのは、鮮やかな赤色のカクテル。
セブンスヘブンでも人気のある、コスモキャニオンだった。
赤い液体が店内の明かりを受け、グラスの中で静かに輝いている。
クラウドはそれを眺めながら、今度はゆっくりと口をつけた。
「…………」
そんな二人を眺めていたシオンは、ふっと目を細めた。
(……ま、少しは気が紛れたかナァ)
ティファはバレットたちの会議が気になっているのか、ときおり店の奥へ視線を向けていた。
クラウドも、その様子には気づいているようだった。
やがてティファは名残惜しそうにカウンターを離れ、地下へ向かった。
昇降機の駆動音が止む。
店内に残されたのは、クラウドとシオンの二人だけだった。
厨房からは、包丁がまな板を叩く音が続いている。
しばらくして、入口の扉が開いた。
「おっ、クラウド。ここにいたのか」
入ってきたのはビッグスとウェッジだった。
「お疲れッス!」
「ああ」
クラウドは短く答える。
二人はそのまま奥へ向かおうとしたが、ウェッジが途中で足を止めた。
「……ん?」
鼻をひくつかせる。
そして、ゆっくりと厨房へ顔を向けた。
「……めちゃくちゃいい匂いがするッス」
「んふふ。よく気づいたネェ」
鍋の火加減を確かめながら、シオンが笑う。
「今日の煮込み料理だヨォ」
「うおお……!」
ウェッジの目が輝いた。
「シオンさん! 後でオレにも食わせてほしいッス!」
「はいはァい。ちゃんと用意してるかラ、先に会議へ行っておいデ」
「絶対ッスよ!」
「んふふ。約束ネェ」
その言葉に満足したウェッジは、ビッグスに促されて地下へ降りていった。
再び静けさが戻る。
その後、ジェシーも店に顔を出した。
彼女は街で流れている魔晄炉爆破の報道について触れながら、神羅の宣伝がますます激しくなっていると話した。
どうやら、世間はアバランチを一方的な悪者として受け止め始めているらしい。
もっとも、ジェシー自身はそれだけで怯むつもりはないようだった。
彼女はクラウドにも次の作戦への期待を向けていたが、話の途中で少しだけ表情を曇らせた。
ティファのことが気になっているのだろう。
爆破作戦に対する考え方は、仲間内でも必ずしも同じではない。
そのことをジェシー自身も理解していた。
「…… こっちも命を預けるわけだからさ」
ぽつりと漏らした言葉には、先ほどまでの明るさとは違う響きがあった。
しかし、ジェシーはすぐに顔を上げる。
「ま、考えてても仕方ないか!」
そう言って地下へ向かう彼女を、シオンは静かに見送った。
「…………」
店内に残されたクラウドは、カウンターへ視線を戻す。
シオンは洗い終えたグラスを布巾で磨いていた。
「……お前は行かないのか」
「んー?」
「会議だ」
「あァ、そっちネェ」
シオンはくすりと笑った。
「僕はここの店主兼薬屋だヨォ。協力はするけド、メンバーではないヨ」
「……そうか」
「んふふ。僕まで口を出し始めたら、旦那がうるさそうだシ」
想像したのか、シオンは楽しそうに肩を揺らす。
クラウドは何も答えなかった。
ただ、ピンボール台へ一度だけ視線を向ける。
地下からは、まだ誰かが話し合っている気配があった。
報酬の話ができるようになるには、もう少し時間がかかりそうだ。
クラウドは席を立ち、壁際に置かれたダーツボードへ向かった。
暇を潰すつもりらしい。
しばらくして、乾いた音が店内に響き始める。
シオンはその音を聞きながら、作業を続けた。
やがて煮込み料理の火加減を確認すると、手を洗い、カウンターの奥へ移動する。
客席から少し離れた場所に椅子を置き、懐から一冊の本を取り出した。
続いて、いつもの煙草。
一本を唇にくわえ、火をつける。
ゆっくりと吐き出した紫煙が、照明の下で薄く広がった。
ページをめくる音。
ダーツが的に刺さる音。
そして、厨房から聞こえる鍋の煮える音。
騒がしかった午前中とは違い、今は穏やかな時間が流れていた。
やがて、地下から昇降機の駆動音が響く。
戻ってきたのはティファだった。
その表情は、先ほどよりも沈んでいる。
シオンは本から視線を上げたが、何も言わなかった。
ティファは水を飲んでから、クラウドの隣に腰を下ろす。
二人は小さな声で話し始めた。
作戦についての迷い。
自分たちのやり方に対する疑問。
それでも、何もしないままではいられないという気持ち。
シオンは、その会話へ割り込まなかった。
「…………」
ただ一度だけ、ページをめくる手を止める。
(……ティファちゃん)
彼女が何を悩んでいるのか、すべてを理解しているわけではない。
それでも、簡単に割り切れる話ではないことくらいはわかる。
シオンは小さく息を吐くと、再び本へ視線を戻した。
しばらくして、ジェシーが地下から戻ってきた。
どうやら話し合いは一区切りついたらしい。
「おやァ、終わったのかイ?」
「うん。もうみんな上がってくると思う」
「そっカァ」
シオンは本を閉じた。
煙草の火を灰皿で確実に消し、椅子を立つ。
手洗い場で丁寧に手を洗ってから、厨房へ向かった。
「……さて、と」
鍋の蓋を持ち上げる。
温かな湯気とともに、煮込まれた肉や野菜の香りが広がった。
「んー、いい感じだネェ」
用意しておいた皿へ料理を盛りつける。
さらに揚げ物を温め直し、次々と皿を並べていった。
ほどなくして、地下から仲間たちが戻ってきた。
最後に姿を現したバレットは、何やら吹っ切れたような顔で仲間たちを見回す。
「よし! 難しい話はここまでだ! 今夜の景気づけに、ひとつ決起会でもやるぞ!」
その声に、ジェシーたちが顔を上げた。
「おっ、いいね!」
「飯も食えるッスか!?」
「当然だ! 腹が減ってちゃ、気合いも入らねえだろ!」
バレットは豪快に笑うと、厨房へ顔を向けた。
「シオン! そういうわけだ! みんなで食えるもん、頼めるか?」
「はいはイ、出来てるヨォ」
「……あ?」
バレットが思わず目を丸くした。
シオンはにこにこと笑いながら、作業台に並べていた料理を指さす。
「んふふ。そろそろお腹を空かせて帰ってくる頃だと思ってネェ」
「なんだ、もう用意してたのかよ!」
「店主の勘ってやつですヨォ」
「……ったく、抜け目のねえ奴だ!」
呆れたように笑うバレットに、シオンは楽しそうに肩をすくめた。
ティファも厨房に並んだ料理を見て、笑顔を浮かべる。
「シオン、私も運ぶね!」
「ありがとネェ。じゃあ、そっちお願いできるかナァ?」
「うん!」
二人は手分けして皿を運び始めた。
「おおっ! 待ってたッス!」
ウェッジが嬉しそうに身を乗り出す。
「ちゃんとウェッジ君の分もあるからネェ」
「やったッス!」
ビッグスが呆れたように笑い、ジェシーもつられて吹き出した。
地下での張り詰めた空気が、料理の香りとともに少しずつほどけていく。
こうしてセブンスヘブンでは、アバランチの決起会が始まろうとしていた。
だが、その輪から少し離れたところにいるクラウドへは、別の話が待っていた。
バレットは彼との仕事をここで一区切りにするつもりらしい。
報酬が支払われ、今後の依頼についても話がついた。
クラウドも、必要以上に食い下がる様子はなかった。
雇い主と傭兵。
最初からそういう関係だったのだから、契約が終わればそれまでだ。
シオンは厨房から、その様子をちらりと眺めた。
(……ふぅン)
金髪の青年は相変わらず感情を表に出さない。
けれど、ティファの表情を見る限り、彼女は少し複雑な気持ちのようだった。
そこへジェシーも声をかける。
先ほどまでクラウドの参加を期待していた彼女だったが、仲間たちとの話し合いを経て、考え直したところもあるのだろう。
シオンは何も言わず、残りの料理を運んだ。
ふと、天井の隅を黒い影のようなものが横切った。
「…………?」
ほんの一瞬だった。
視線を向けたときには、もう何も見えない。
(……見間違いかナァ?)
シオンはわずかに首を傾げたが、すぐに仕事へ戻った。
その間にも、アバランチの面々は食卓を囲み始めている。
誰かがグラスを掲げた。
それを合図に、賑やかな声が一斉に重なる。
先ほどまでの険しい雰囲気が嘘のようだった。
仲間たちは食事を楽しみ、互いに軽口を叩き合っている。
そんな様子を横目に、クラウドは静かに席を立った。
誰かに呼び止められることもなく、入口へ向かう。
扉が開き、外の喧騒が一瞬だけ流れ込んだ。
やがて、その姿は七番街の通りへ消えていった。
「…………」
シオンは閉じた扉へ一度だけ視線を向ける。
それから、何事もなかったように手を洗った。
そろそろ、自分も出かける時間だ。
「んじャ、僕もそろそろ出かけてくるヨォ。あとはお願いするネェ」
ティファが顔を上げた。
「あ、そうだったね。気をつけて」
「はぁーイ」
「ん? お前もどっか行くのか?」
バレットが尋ねる。
「んふふ。ちょっと出張だヨォ」
「出張?」
「まァ、薬屋のお仕事ってやつですネェ」
シオンは楽しそうに肩をすくめた。
「夕方には戻る予定だから、何かあったらよろしくネェ」
「おう。妙なことに巻き込まれるなよ」
「んふふ。それはこっちの台詞だヨォ、旦那」
「何だと?」
バレットが眉を吊り上げたところで、シオンはひらひらと手を振った。
「冗談、冗談」
その背中へ、ジェシーが声をかける。
「あっ、シオン!」
「んー?」
「帰ってきたら、ちょっと相談したいことがあるんだけど」
「おや、何かナァ?」
「それは帰ってきてから!」
「んふふ。了解だヨォ」
軽く片手を上げ、シオンは入口の扉を開いた。
午後の陽射しが差し込み、藍黒色の髪を留めた二本の簪が小さく輝く。
背後からは、まだ仲間たちの笑い声が聞こえていた。
シオンは振り返らず、七番街スラムの通りへ足を踏み出した。
* * *
午後の七番街スラムは、相変わらず落ち着きがなかった。
壱番魔晄炉の爆発について話す住民たち。
店先から流れる神羅の報道。
行き交う人々の表情にも、どこか落ち着かないものがある。
「……やれやレ」
シオンは小さく息を吐いた。
午前中の騒動のおかげで、予定はすっかり押してしまっている。
そんなことを考えながら歩いていたときだった。
「……ん?」
人混みの向こうに、見覚えのある金色の髪が見えた。
クラウドだ。
大きな剣を背負った青年が、三人の男たちと向かい合っている。
男たちの態度を見る限り、友好的な会話ではなさそうだった。
シオンは足を止めた。
(……あの顔、どこかで……)
男たちの一人に見覚えがある。
だが、すぐには思い出せなかった。
何を話しているかまでは聞こえない。
しばらく様子を見ていたシオンは、ふと時計へ目を落とした。
「……っと」
思っていたより、時間が経っている。
これ以上遅れるわけにもいかなかった。
もう一度だけクラウドへ目を向ける。
青年は相変わらず落ち着いた様子で、男たちと向き合っていた。
「……ま、クラウド君なら大丈夫でしょォ」
小さく呟き、シオンは肩をすくめる。
そして、その場を離れた。
ほどなくして、藍黒色の髪は人々の往来に紛れていった。
伍番街スラム。
七番街スラムとはまた違った賑わいを見せる通りに、小さな飲食店があった。
店先にはいくつかのテーブルが並び、客たちは往来を眺めながら、思い思いに食事や飲み物を楽しんでいる。食器の触れ合う音に店員の呼び声が重なり、通りから流れ込む話し声と混じり合っていた。
シオンはそのうちの一席を選び、何食わぬ顔で腰を下ろした。
「コーヒー、ひとつお願いネェ」
「はい、かしこまりました!」
愛想よく応じた店員が店内へ戻っていくのを見送り、シオンはゆったりと足を組んだ。
懐から煙草の箱を取り出して一本抜き、唇にくわえる。
火をつけると、細い紫煙が午後の空気へゆっくりと立ちのぼった。
「……ふぅ」
深く吸い込み、静かに吐き出す。
いつもの煙草だ。
慣れ親しんだ香りが、午前中から続いていた騒がしさを、ほんの少しだけ遠ざけてくれる。
背後の席では、一人の男が新聞を広げていた。
深くかぶったハンチング帽の下には、年季の入った皺と鋭い眼差し。小柄な体をくたびれた上着に包み、飲みかけのコーヒーを傍らに置いている。
どこにでもいそうな、暇を持て余した年配の客。
少なくとも、傍目にはそう見えた。
男は紙面から目を離さぬまま、新聞を一枚めくった。
「……遅かったな、お前さん」
低い声が、背中越しに届く。
シオンも振り返らず、煙草を指に挟んだ。
「んー?」
のんびりと首を傾げる。
「思った以上に、やんちゃされたからネェー」
まるで近所の悪戯小僧にでも手を焼いたような口ぶりだった。
シオンは鞄から一冊の本を取り出すと、適当なページを開いて膝の上へ置いた。
「……まさか、本当にお前さんの読み通りになるとはな」
新聞をめくる音がした。
「少々、驚かされたぞ」
「んふふ。どうだろうネェ?」
「……相変わらず、何を考えているんだか」
男の呆れた声を聞きながら、シオンは本のページをめくる。
それから、煙草を口元へ運んだ。
「……で?」
ゆっくりと煙を吐き出す。
「どうだったノ?」
男は新聞の端を持ち直した。
すっかり冷めたコーヒーを一口飲み、周囲の喧騒に紛れるよう声を落とす。
「……ああ。養豚場に、蝿が集っていたな」
「……へェ?」
シオンは本から目を離さない。
「豚の周りで、何やら盛んに飛び回っているようだ」
新聞の紙面が、かさりと音を立てた。
「……それデ?」
「どうやら、右腕が銃の男を嗅ぎ回っているらしい」
ページの端を押さえていたシオンの指が止まった。
右腕が銃の男。
思い浮かぶ顔は、一人しかいない。
同時に脳裏をよぎったのは、先ほど七番街スラムの通りで見かけた光景だった。
金髪の青年と、三人のギャング。
「……あァ」
眼鏡の奥で琥珀色の瞳を細め、納得したように呟く。
「さっき、店前に子豚が三匹集ってたネェ」
「……何!?」
男の声がわずかに鋭くなった。
反射的に振り向きかけた、その瞬間。
「お待たせいたしましたー!」
明るい声が、二人の間に割って入った。
店員だった。
人のよさそうな笑顔を浮かべ、シオンのテーブルへコーヒーを運んでくる。
「こちら、コーヒーになります!」
「わぁ、ありがとうネェ」
シオンはぱっと顔を上げた。
先ほどまでの含みのある態度など微塵も感じさせない、人懐っこい笑顔だった。
店員もつられるように微笑む。
「ごゆっくりどうぞ!」
「はぁーい」
店員が離れると、シオンは何事もなかったように本へ視線を戻した。
背後では、新聞を持ち直す小さな音がした。
男が姿勢を整えるまでの間、シオンはただ静かにページを眺めていた。
「……子豚が三匹、だと?」
やがて、押し殺した声が届く。
「いくら何でも、動きが早すぎるな」
シオンはくすりと笑った。
「豚も、早く蝿をどうにかしたいのサ」
本の文字を目で追いながら、のんびりと続ける。
「……近々、まーた番(つがい)見つけをするっては聞いてるしネェ」
短くなった煙草を最後に深く吸い込むと、細く吐き出した煙が午後の空気へ溶けていった。
灰皿で火を消し、シオンは運ばれてきたコーヒーに口をつける。
「……まぁ」
カップを静かにソーサーへ戻した。
「あれで、時間稼ぎにはなると思うけどネェ」
背後の男は何も答えなかった。
その言葉が、午前中の出来事を指していることくらいは察している。
蝿がどこまで嗅ぎつけたのか。
そして、背中合わせに座る青年がどこまで計算して動いているのか。
後者については、長い付き合いのある男ですら、時折わからなくなることがあった。
男は新聞を少し持ち上げ、通りの向こうへ目を走らせた。
新しい客が店先のテーブルに腰を下ろす。その様子を何気なく確認してから、男は再び紙面へ視線を戻した。
「……それにしても、昨日の爆発だ」
低い声が届く。
「被害があまりにも大きすぎる。お前さんも、そう思わんか」
シオンはコーヒーカップを持ち上げかけたまま、一瞬だけ手を止めた。
「……そうだネェ」
いつもの間延びした声から、先ほどまでの笑いが薄れていた。
「改めて計算したけどサァ……」
カップをゆっくりとテーブルへ戻す。
「あれがあったとしても、あそこまでいかないはずなんだよネェ」
あれ――壱番魔晄炉に存在していた、魔晄の溜まり。
気化していることも考慮に入れてもなお、爆発の規模が合わない。
シオンはすでに何度か計算をやり直していたが、導き出される答えは変わらなかった。
「……となると」
男が何かを言いかけ、途中で口を閉ざす。
「……多分ネェ」
シオンも、それ以上は言わなかった。
確証はない。
推測だけで誰かの名前を口にするほど、彼は不用心ではなかった。
短い沈黙が落ちる。
その隙間を埋めるように、通りを行き交う人々の話し声や、食器の触れ合う音が聞こえていた。
やがて、男が静かに新聞をめくる。
「……もう一つ、気になる話がある」
「……んー?」
「伍番魔晄炉のことだ。神羅が試作の大型兵器を用意しているらしい」
シオンは本から目を離さなかった。
「……ほォ?」
「名はエアバスター。まだ試作段階の代物だが、配備を急いでいるという話だ」
ページの端を押さえていたシオンの指先に、わずかに力がこもった。
「……妙だネェ」
「何がだ?」
「爆破予告から、まだ大して時間も経ってないはずだけド……」
眼鏡の奥で、琥珀色の瞳が細められる。
「試作段階の玩具を持ち出すなんテ……まるで予告される前から準備していたみたいじゃないカ」
シオンは、ふっと小さく笑った。
「随分と用意周到だネェ」
「……考えすぎではないのか?」
「……かもしれないネェ」
返答はあっさりしたものだったが、ページを押さえる指先は動かなかった。
壱番魔晄炉の不自然な爆発規模といい、今回の兵器配備といい、どうにも引っかかるものがある。
もっとも、それだけで何かを断定するつもりはなかった。
「まァ……頭の片隅にでも置いておくヨ」
シオンはようやく指を離し、本のページをめくった。
「……後は?」
男は新聞の端を持ち直した。
「異国の鼠が、一匹入り込んだらしい」
「……ふぅん?」
「恐らく、先に入った鼠と合流するつもりだろうな」
紙面の向こうから淡々とした声が続く。
「もっとも、こいつはお前さんのところとは関係のない話だろう。一応、耳に入れておけ」
シオンはコーヒーを一口飲み、それからふっと笑った。
「……鼠さんも、ずいぶん諦めが悪いネェ」
その声は、どこまでも穏やかだった。
まるで困った子供の話でもしているような、柔らかな響き。
けれど。
「……まぁ」
本のページを撫でていた指先が、ゆっくりと止まる。
「邪魔だと感じたら、その時さ」
背後で、新聞の動きが止まった。
男は何も言わず、ただ静かに目を細めた。
長い付き合いの中で、シオンがこういう声を出す場面を何度か見てきた。
穏やかな声で、何でもないことのように言う。
しかし、その言葉には冗談も躊躇いもない。
男は短く息を吐いた。
「……お前さんのそういうところは、相変わらずだな」
「んふふ。そうかナァ?」
「褒めているわけではないぞ」
「おやァ、残念」
軽い笑い声が背中越しに聞こえた。
男は眉間を指で押さえた。
理解していないわけではない。
この青年は、何を言われているのかも、その言葉にどんな意味があるのかも、十分に理解している。
そのうえで、笑っているのだ。
「……まったく。困った若造だ」
「んふふ」
シオンは何事もなかったかのようにページをめくった。
「……さて。ありがとうネェ」
男は新聞を畳みかけながら、鼻を鳴らした。
「礼はいい。後で寄越してもらうぞ」
「んふふっ。いつものところに置いたから、ご自由ニ」
「……用意がいいな」
「商売上手と言ってほしいナァ」
「口だけは達者なものだ」
男は小さく苦笑した。
新聞を畳み終えようとしたところで、ふと手を止める。
「……そうだ。一つ、伝え忘れていた」
「ん?」
「お前さんが大切にしろと言っていた花だが、元気にしている」
シオンの指先が、ほんの一瞬だけ止まる。
男はそれに気づかぬふりをして、新聞を整えた。
「相変わらず、蝿は遠巻きに集っているようだがな」
シオンは何も答えなかった。
ただ、本に落としていた視線をわずかに細める。
「……今のところ、手出しはされていない」
男は静かに付け加えた。
シオンの唇に、かすかな笑みが浮かぶ。
「……そう」
それだけだった。
男も、それ以上は尋ねなかった。
新聞を畳んでテーブルへ置き、飲み終えたコーヒーの代金を添える。
椅子を静かに引き、立ち上がった。
「……二度も言いたくはないが」
背中越しに、最後の声が届く。
「気をつけるんだな、お前さん」
シオンは振り返らなかった。
「んふふ。わかってるヨォ」
「……どうだかな」
男は小さく首を振り、その場を離れた。
人々の話し声に紛れ、足音が遠ざかっていく。
シオンはしばらく本のページを見つめていた。
やがて小さく息を吐き、残っていたコーヒーをゆっくりと飲み干す。
空になったカップをソーサーへ戻し、顔を上げた。
「……ご馳走様ァー」
そこには、いつもの人懐っこい笑顔があった。
シオンは本を閉じ、鞄へしまって席を立つ。
コーヒーの代金をテーブルに置き、何気ない足取りで通りへ出た。
向かう先は、伍番街スラムの孤児院。
午後の陽射しが藍黒色の髪を照らし、二本の簪から垂れる飾りをきらりと光らせる。
その背後では、店員が新しい客を迎える明るい声が聞こえていた。
シオンは一度も振り返ることなく、人々の行き交う通りへ紛れていった。
* * *
伍番街スラムの通りを、シオンはゆっくりと歩いていた。
建物の隙間から差し込む午後の陽射しが、煤けた壁や錆びた鉄骨を淡い金色に染めている。足元の乾いた土は歩くたびに細かな砂埃を立て、古びた家々の間を抜ける風が、それを静かに運んでいった。
通りには買い物帰りの住民や、元気よく駆け回る子供たちの姿があった。
露店から聞こえてくる威勢のいい呼び声に、遠くで金属を打つ音が重なる。どこかの家では食事の支度でもしているのだろう。焼いたパンの香ばしい匂いに、油の焦げる匂いや湿った木材の匂いが混じり合い、スラム特有の生活の気配が辺りに満ちていた。
シオンは、片手を上着のポケットに入れて歩いている。
長い藍黒色の髪をまとめた二本の簪からは、細かな飾りが垂れていた。歩みに合わせてそれらが揺れ、時折、陽射しを受けてきらりと光を返す。
先ほど情報屋と交わした話が、頭の片隅に残っていた。
神羅の動き。
不自然な規模の爆発。
そして、伍番魔晄炉に配備されるという試作兵器。
気になることは多かったが、今ここで考えたところで答えが出るわけではない。
シオンは小さく息を吐き、顔を上げた。
やがて、通りの先に町内会館が見えてくる。
古びた建物の前には使い込まれた木箱や薬草の入った籠が置かれ、その傍らでは白衣を着た男が何やら書類に目を通していた。
近づいてくる足音に気づいたのか、男がふと顔を上げる。
目が合った瞬間、シオンはぱっと人懐っこい笑顔を浮かべた。
「やぁやァ、先生。お久しぶりだネェ」
軽く片手を上げて歩み寄ると、町医者も穏やかに微笑んだ。
「シオン君。元気そうだね」
「おかげさまでェ」
いつもと変わらない、のんびりとした挨拶。
けれど町医者は、その声に以前にはなかった柔らかさが混じっていることに気づいていた。
少しの間シオンの顔を眺め、それから傍らの籠へ手を伸ばす。
「これ、頼まれていたものだよ」
差し出された籠には、丁寧に摘み取られた花が収められていた。
淡い色の花弁が午後の光を受け、柔らかな色合いを浮かび上がらせている。そっと近づければ、かすかに甘い香りがした。
煤や鉄の匂いが染みついたスラムの中では、その香りだけが別の場所から運ばれてきたもののように感じられる。
シオンは籠を覗き込み、満足そうに目を細めた。
「おぉー。いつもありがとうございまス」
籠を片腕に抱え直すと、上着の内側から二枚の封筒を取り出す。
一枚は薄く、もう一枚には明らかな厚みがあった。
さらに鞄から、小瓶や容器の収められた紙袋を取り出し、町医者へ差し出す。中で瓶同士が触れ合い、かすかな音を立てた。
「……シオン君、これは……」
町医者は手渡された品々を見比べる。
シオンは薄い方の封筒を指先で示した。
「そっちは花屋さんに渡してくださいイ」
それから、厚い封筒と薬の袋へ目を向ける。
「そちらは……いつものですヨ」
町医者が紙袋を覗くと、子供たちにも使える軟膏や風邪薬が、それぞれ丁寧に分けられていた。
小瓶には簡単な説明が添えられ、軟膏の容器にも綺麗な封が施されている。どれもシオンが調合し、用意したものだった。
そして、厚い封筒の中身が何のためのものなのかも、町医者はよく知っている。
この青年は以前から、こうして孤児院の子供たちのために薬や寄付を届けていた。
ただし、それが自分からのものだとは決して伝えないように、と念を押して。
町医者は手元の品々へ視線を落とし、何か言いかけた。
そのときだった。
少し離れたリーフハウスから、子供たちの明るい声が聞こえてきた。
古い扉が勢いよく開き、何人かの子供が笑いながら外へ駆け出してくる。裸足の足音が土を叩き、一人が何かにつまずいてよろけると、周囲から楽しそうな笑い声が上がった。
シオンは自然とそちらへ顔を向けた。
眼鏡の奥の琥珀色の瞳が、駆け回る子供たちの姿を静かに追う。
風が通り抜け、軒先に吊るされた布が揺れた。
その向こうでは、何も知らない子供たちが、ただ目の前の遊びに夢中になっている。
「……ありがとう」
町医者がぽつりと呟いた。
「……そして、本当にいつもすまない」
シオンはゆっくりと首を横に振った。
「……将来(子ども)は守らなきゃいけないですかラ」
普段と変わらない、少し間延びした口調。
けれど、その言葉には冗談めいた響きがなかった。
町医者は黙ってシオンの横顔を見つめた。
片腕に抱えられた花の甘い香りが、薬草の匂いと混じって二人の間を漂っている。
少し離れたところから聞こえる子供たちの笑い声が、その静かな時間を穏やかに包んでいた。
やがて町医者は、ためらいがちに口を開く。
「……シオン君」
「んー?」
「最近、何かあったのかい?」
シオンが振り返った。
眼鏡の奥で、琥珀色の瞳が不思議そうに丸くなる。
「エ?」
町医者は少し困ったように笑った。
「いや……こういうことを言うのも失礼かもしれないが」
言葉を探すように、一度口を閉じる。
遠くでは誰かが店先で作業をしているらしく、金属を打ち合わせる規則的な音が響いていた。
町医者はそんな音を聞きながら、改めて目の前の青年を見つめた。
「最近の君は、優しいというか……雰囲気が丸くなった気がしてね」
シオンは不思議そうに瞬きをした。
何を言われているのかわからない、とでもいうような表情だった。
町医者は小さく息を吐き、瞼を伏せる。
脳裏に浮かんだのは、ずっと以前に見たシオンの姿だった。
「……あの時の君は、その……」
少しだけ言い淀む。
「刺々しくて、触れれば砕けてしまいそうでね……」
シオンは首を傾げた。
「……そうでしたっケ?」
本当に覚えがないとでもいうような声だった。
町医者は思わず小さく笑った。
「いや、私がそう思っただけだよ。気を悪くしたならすまない」
「いエ……」
シオンはゆっくりと片手を振り、気にしていないと伝える。
その仕草に合わせて、簪の垂れ飾りが小さく揺れた。
それから、再びリーフハウスの方へ視線を向ける。
先ほど飛び出してきた子供たちは、今度は追いかけっこを始めていた。
友達を追いかけて走る子供の傍らでは、何かを見つけたのか、地面にしゃがみ込んでいる子もいる。
そんな仲間たちの声に誘われ、リーフハウスの中からさらに何人かの子供たちが顔を出した。
開いた扉の向こうからは、木の床を踏む足音と、誰かを呼ぶ声が聞こえてくる。
その光景をしばらく眺めていたシオンは、やがて花の籠を持ち直した。
「……さぁテ」
顔には、いつもの笑みが戻っている。
「僕はお暇するヨ」
町医者に背を向け、右手をひらひらと振った。
「また、頼むよ」
「はぁーイ」
軽やかな返事を残し、シオンは午後の陽射しが差す通りを歩き出した。
長い藍黒色の髪を留める二本の簪が、歩みに合わせて揺れている。
片腕に抱えた花の籠からは、かすかに甘い香りが漂っていた。
町医者は、そんな青年の後ろ姿を静かに見送っていた。
やがてシオンの姿が人々の往来に紛れ、藍黒色の髪も、簪から垂れる飾りも見えなくなる。
それでも、町医者はしばらくその場を離れなかった。
脳裏には、昔の光景が浮かんでいた。
神羅から姿を消した後、再び自分の前に現れた青年。
あの頃のシオンは、今とはまるで違っていた。
必要なことだけを淡々と話し、交渉の場でも笑みひとつ浮かべない。
何かを拒むような、冷たい眼差し。
誰にも踏み込ませまいとする、見えない壁。
そして、その壁の向こうにあるものは、ひどく脆いようにも思えた。
触れれば、砕けてしまいそうなほどに。
町医者は、ふっと息を吐いた。
目の前に広がる景色は、あの頃とそう変わらない。
古びた建物に、錆びた鉄骨。
薄汚れた壁を照らす午後の陽射し。
けれど、先ほど見送った青年は違っていた。
人懐っこく笑い、冗談めいた口調で話し、子供たちの未来を気にかける。
もちろん、彼のすべてを知っているわけではない。
それでも。
何かが、確かに変わったのだろう。
町医者はゆっくりと目を細めた。
「……きっと、周りの影響だろうね」
誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。
返事の代わりに、リーフハウスの方から子供たちの明るい笑い声が届いた。
その声は古い建物の壁や細い路地の奥へ反響し、午後のスラムへ溶け込んでいく。
町医者はその声に穏やかに微笑み、手元の封筒と薬の袋へ視線を落とした。
封筒の重みが、掌に確かに伝わる。
それらを大切そうに抱え直すと、町医者はゆっくりと町内会館へ戻っていった。
今日から月曜日頑張りましょう
だいぶ詰め込みすぎてしまいました……次回もまた