その血は、まだ走っている ~転生した俺が紡ぐ、もう一つの競馬史~ 作:ねるすと
昭和五十五年、四月。
北海道日高地方、三石町。
日高の春は、本州よりもずっと遅い。
遠くの山々にはまだ雪が残り、夜明け前の牧場には、冬の名残のような冷たい空気が漂っている。
それでも、放牧地には少しずつ新しい草が顔を出し、繁殖牝馬たちの腹も日に日に大きくなっていた。
朝霧牧場に、今年も春がやってきたのである。
「比呂! そっちは後でいい! 先にサクラを見てこい!」
「分かってる! 昨日から飼葉の食いが悪いんだろ?」
「分かってるなら、さっさと行け! あと、走るなよ!」
「親父こそ、そんな大声出すなって! 馬が驚くだろ!」
「誰のせいだと思っとる!」
朝から親子の声が厩舎に響く。
もっとも、喧嘩をしているわけではない。
朝霧牧場では、これがごく普通の朝の風景だった。
父の朝霧源は、今年五十二歳になる。
日に焼けた顔には深い皺が刻まれ、太い腕と大きな手には、長年馬と向き合ってきた男の風格がある。
仕事に関しては恐ろしく厳しい。
特に息子である俺には、容赦がなかった。
小学生の頃、水桶の洗い方が雑だと、厩舎中の水桶を洗い直させられたことがある。
中学生になってからは、馬の脚元を確認する手順が甘いと叱られた。
高校を卒業して本格的に牧場の仕事を始めてからは、叱られる回数が減るどころか、かえって増えた気さえする。
けれど、父の厳しさには必ず理由があった。
馬の世話には、取り返しのつかない失敗がある。
そのことを、誰よりもよく知っているからだ。
「……おはよう、サクラ」
俺は一つの馬房の前で足を止めた。
中にいるのは、アサギリサクラ。
昭和四十年生まれ、今年で十六歳になる繁殖牝馬だ。
父はヒンドスタン。母はアサギリノハナ。
朝霧牧場で生まれ、競走生活を終えてからは、ずっとこの牧場で母親として過ごしてきた。
これまでに何頭もの仔馬を産み、その中には中央競馬で勝ち上がった馬もいる。
現在牧場にいるアサギリヒカリとアサギリコハルも、サクラの娘だった。
言うなれば、朝霧牧場を長年支えてきた功労馬の一頭である。
「どうした。今日は食欲がないのか?」
声をかけると、サクラはゆっくりとこちらへ首を伸ばした。
大きな鼻先を俺の胸元へ押しつけ、服の匂いを確かめる。
いつもと変わらない、甘えるような仕草だった。
しかし、飼葉桶には普段よりも多くの飼葉が残っている。
俺はサクラの様子を確認し、記録を取った。
昨年の出産後、この馬はどうにも調子が上がりきらない。
十五歳なら、繁殖牝馬としてまだ働ける年齢だ。もっと年を取っても、元気に仔馬を産む馬はいる。
だが、すべての牝馬が同じように繁殖生活を続けられるわけではない。
大切なのは年齢だけでなく、その馬自身の状態だった。
「……今年は休ませた方がいいかもしれないな」
思わず呟くと、背後から声がした。
「俺もそう考えとる」
振り返ると、父が立っていた。
「親父」
「どうだ?」
「食べ残しはあるけど、今のところ大きく様子が変わった感じはしない。ただ、ここ数日の食欲は気になる。獣医さんにも診てもらいたい」
「そうだな。今日のうちに連絡しておこう」
父は馬房の前に立つと、サクラの鼻面を優しく撫でた。
「……長いこと頑張ってくれたからな」
「今年は種付けしない?」
「ああ。少なくとも、今の状態で無理に付ける気はない」
その声に迷いはなかった。
繁殖牝馬を一年休ませるということは、その年の種付けを見送り、翌年生まれるはずだった仔馬を一頭諦めるということでもある。
小さな牧場にとって、それは決して軽い判断ではない。
だが、父は迷わない。
目先の一頭を惜しんで、長年牧場を支えてくれた馬の健康を損なうようなことはしないのだ。
「ヒカリもコハルもいるしな。サクラの血は、ちゃんと残ってる」
「……そうだな」
父は小さく頷いた。
「それでも、サクラ自身には長生きしてもらわんとな」
そう言って笑った父の手に、サクラが鼻先を押しつけた。
俺はその光景を眺めながら、改めて思う。
この人は、本当に馬が好きなのだ。
◇
朝霧牧場は、決して大きな牧場ではない。
繁殖牝馬は十頭。
毎年生まれる仔馬は、だいたい七、八頭ほど。
日高地方に数多く存在する、中小規模の競走馬生産牧場の一つにすぎない。
厩舎は古く、放牧地の柵も新しいものと古いものが入り交じっている。
それでも、壊れた場所がそのまま放置されることはないし、馬房はいつも清潔に保たれている。
水桶や飼葉桶の状態にも気を配り、馬の小さな変化を見逃さない。
何より、父は一頭一頭の性格を驚くほど細かく覚えていた。
人懐っこい馬。
気難しい馬。
ほかの馬が近くにいると落ち着かなくなる馬。
外では堂々としているくせに、厩舎へ戻ると途端に甘えてくる馬。
父に言わせれば、どれも当たり前のことらしい。
だが、俺にはそうは思えなかった。
朝霧牧場は競走馬の生産だけでなく、現役馬の休養も引き受けている。
競馬場やトレーニングセンターで走っていた馬が、一時的に体を休め、次の競走生活に備えるための場所。
その休養先として、朝霧牧場は関係者からなかなか評判がよかった。
設備が特別に優れているわけではない。
それでも、一度馬を預けた調教師や馬主から、再び依頼が来ることは珍しくなかった。
預けた馬を丁寧に扱ってくれる。
馬の状態について、いいことも悪いことも隠さず伝えてくれる。
何より、安心して馬を任せられる。
それが、父の築いてきた信用だった。
もちろん、生産者としての腕も確かである。
これまで朝霧牧場から送り出された馬の中には、中央競馬で二勝、三勝と挙げた馬が何頭もいる。
重賞を勝つような大物こそ出ていないものの、堅実に勝ち上がる馬が多く、長年付き合いのある個人馬主たちからは高く評価されていた。
特に、近年はアローエクスプレスの産駒で成果を挙げている。
アローエクスプレス。
現役時代、その圧倒的なスピードで名を馳せた快速馬だ。
父はこの馬が種牡馬入りして間もない頃から、その能力と血統に注目していた。
限られた予算の中で種付けを行い、実際に中央競馬で勝ち上がる産駒を送り出している。
そして、俺は知っていた。
アローエクスプレスが、この一九八〇年と翌一九八一年に、地方競馬を含めた総合の種牡馬成績で頂点に立つことを。
だが、父はそんな未来を知らない。
知るはずがない。
それでも結果を出しているのだから、俺は父を心から尊敬していた。
朝霧牧場は、決して裕福ではない。
しかし、資金繰りに追われて明日の飼葉代を心配するような牧場でもなかった。
生産馬の販売収入と休養馬の預託収入があり、馬たちに必要な金をきちんと使えるだけの経営基盤がある。
それは、父と母が長年かけて築き上げてきたものだ。
ただし、父には少々困ったところもあった。
馬を売る相手に、非常にうるさいのである。
もっとも、父に言わせれば、それは当然のことらしい。
「うちで生まれた馬が、どこへ行くのかくらい気にして何が悪い」
そう言われてしまえば、反論のしようもないのだが。
◇
昼過ぎ。
牧場に一人の男性が訪ねてきた。
昨年生まれたアローエクスプレス産駒の牡馬を見たいという、知り合いの個人馬主から紹介を受けた客だった。
父は男性を放牧地へ案内すると、牡馬の成長記録を見せながら、これまでの育成状況を説明した。
「いい馬ですね。歩き方も柔らかいですし、なかなか雰囲気がある」
「ありがとうございます。ただ、まだ全体的に幼さが残っていましてね」
「そうですか? 私はずいぶん良く見えるんですが」
「ええ。私も気に入っていますよ。ただ、トモがもう少ししっかりしてほしいんです。これからの成長が楽しみな馬ですね」
男性は頷きながら、牡馬を眺めていた。
「実は、できれば早い時期から競馬を使える馬を探していまして。順調なら来年の夏、三歳の新馬戦あたりから使えればと思っているんです」
父の表情が、わずかに変わった。
「なるほど。それでしたら、この馬については少し考えていただいた方がいいかもしれません」
「と、いいますと?」
「この馬は、あまり早く仕上げるつもりで育てていないんです。今の成長具合を見る限り、慌てずに体ができるのを待った方がいいと思っています」
「そうですか……。アローエクスプレスの仔ですし、早い時期から動けるのではと期待していたんですが」
「そう期待されるのも分かります。ただ、同じ父親でも、一頭一頭違いますから」
男性はもう一度、牡馬へ目を向けた。
「惜しいですね。馬自体は本当に気に入ったんですが」
「そう言っていただけるだけでも、ありがたいことです」
「少し考えさせてください。早いうちから使うことに、そこまでこだわっているわけでもありませんので」
「ええ。もちろんです。またいつでも見にいらしてください。成長した姿も見ていただきたいですから」
父はそう言って、丁寧に頭を下げた。
結局、その場で売買が決まることはなかった。
男性を見送った後、俺は父に声をかけた。
「親父、なかなかいい話だったんじゃないか?」
「そうだな。馬を見る目もあるし、何より馬が好きなのは伝わってきた」
「じゃあ、売ってもよかったんじゃない?」
「お前、話を聞いてなかったのか?」
「いや、聞いてたけどさ。別に、絶対早く使うって言ってたわけじゃないだろ?」
「だから、断ってないだろうが」
「……ああ、確かに」
父は呆れたように俺を見た。
「比呂。馬を買う人にも、それぞれ考えがある。早いうちから走る馬が欲しいというのも、別に悪いことじゃない」
「うん」
「だが、俺たちはこの馬が生まれてから、ずっと見てきたんだ。今の成長具合も、気性も、どんなところに気をつけて育ててきたかも知っている」
父は放牧地に目を向けた。
「だから、分かっていることは全部伝える。それでも気に入ってくれるなら、ありがたい話だ」
「……なるほどな」
「何も言わずに売ったところで、後で困るのは馬も馬主さんも同じだろう」
父はそう言ってから、少しだけ笑った。
「それに、あの馬はまだまだ良くなるぞ。俺はそう思っとる」
その顔は、息子を自慢する父親のようだった。
実際、似たようなものなのかもしれない。
父は、自分が育てた馬を心の底から信じているのだから。
ただ、一つだけ問題がある。
この人は、気に入った馬を褒め始めると、いつまで経っても話が終わらないのだ。
「そういや比呂。あいつの母親はな、現役時代も成長が遅くて――」
「親父、その話、昨日も聞いたぞ」
「昨日は母親の話じゃない。母親の姉の話だ」
「……そうだったっけ?」
「まったく。お前は血統表ばかり見とらんで、馬そのものをもっと覚えろ」
そう言って父は、嬉しそうに話を続けた。
俺は苦笑しながら、その話に耳を傾ける。
正直に言えば、こういう時間は嫌いではない。
父の昔話には、どんな血統書にも載っていない情報が詰まっているからだ。
◇
俺――朝霧比呂には、秘密がある。
それは、前世の記憶を持っていることだ。
気がついたときには、すでに覚えていた。
自分がかつて別の時代に生きていたこと。
日本競馬が、その後どのような歴史をたどるのか。
そして、数え切れないほどの競走馬たちの名前と、その血統や競走成績を。
前世の俺は、どうしようもないほどの競馬好きだった。
競馬場へ足を運び、レースを見て、血統を調べ、馬の過去を追いかける。
競馬ゲームにも、ずいぶん時間を費やした。
限られた資金の中で配合を考え、何代も先の繁殖計画を組み立てる。
期待どおりに強い馬が生まれれば喜び、うまくいかなければ配合を見直す。
そんなことを、飽きもせず繰り返していた。
そして今、俺は昭和五十五年の北海道にいる。
前世の記憶を持ったまま、朝霧牧場の息子として生まれ、今年で二十二歳になった。
どうしてこんなことになったのかは、分からない。
そもそも、前世の自分がどうして死んだのかさえ、はっきりとは覚えていない。
ただ、俺にとって何より幸運だったのは、生まれた家が牧場だったことだ。
おかげで、幼い頃から馬に触れ、父と祖父から馬産を学ぶことができた。
血統の知識だけなら、父にも負けない自信がある。
だが、実際に馬を育てる技術となれば、話は別だ。
馬の状態を見極めること。
繁殖牝馬の負担を考えること。
仔馬が無事に成長できる環境を整えること。
そして、一頭の馬の一生に責任を持つこと。
そうしたことを、俺は父から叩き込まれてきた。
前世の記憶があっても、馬の能力が数字で見えるわけではない。
どの種牡馬を付ければ、必ず強い馬が生まれるという保証もない。
現実の馬産に、リセットボタンなど存在しないのだ。
だからこそ、父の経験が必要だった。
もっとも、俺には父が絶対に持ち得ない強みもある。
それは、これからの競馬史を知っているということ。
例えば、今はまだ評価の定まっていない種牡馬が、数年後にどれほどの活躍馬を送り出すのか。
あるいは、競走馬として大きな期待を集めている馬が、種牡馬としては苦戦することになるのか。
そんな未来を、俺は知っている。
もちろん、それをすべて正確に再現できるわけではない。
俺が一頭の馬の運命を変えれば、その馬が出走するレースの結果も変わる。
その結果によっては、ほかの馬の競走生活や繁殖入りの時期まで変わってしまうかもしれない。
そもそも、これから俺が生み出す馬は、前世の競馬史に存在しない馬なのだ。
その馬がどんな能力を持ち、どんな成績を残すのか。
それだけは、俺にも分からない。
未来を知っているからといって、未来を自由に操れるわけではないのである。
それでも。
俺には、どうしてもやってみたいことがあった。
前世で見てきた競馬の歴史には、忘れられない馬が何頭もいる。
人々を熱狂させながら、その血を十分に残せなかった馬。
競走馬として輝かしい成績を残したのに、繁殖では思うような結果を得られなかった馬。
そして、志半ばで命を落としてしまった馬。
もし、そんな馬たちに別の未来があったなら。
もし、その血を次の世代へつなぐことができたなら。
どんな馬が生まれ、どんな競馬を見せてくれるのだろう。
俺は、それを見てみたい。
けれど、夢を見るだけでは何も始まらない。
まずは、今ある牧場を守り、育てること。
そして、父が長年培ってきた技術と信用に、自分の知識を加えること。
そのために、今年から本格的な繁殖計画を考え始めていた。
◇
夕食の時間。
食卓には、朝霧家の五人が揃っていた。
父の源、母の環、俺、妹の楓。
そして、祖父の朝霧清蔵。
「比呂、サクラはどうだった?」
食事を始めて間もなく、母が尋ねてきた。
「大きく変わったところはなかったよ。でも、親父と相談して、今年の種付けは見送ることにした」
「そう。あの子、去年からちょっと元気がなかったものね」
母は安心したように頷いた。
朝霧環。
今年四十四歳になる、俺の母親だ。
普段は穏やかで、どちらかといえば控えめな性格をしている。
だが、決して気の弱い人ではない。
特に、馬のこととなると。
若い頃、母は十勝の方で、地域の草ばん馬大会に参加していたらしい。
大きなばん馬が重いそりを曳き、力を競い合う。
公営のばんえい競馬ではなく、地域で行われる馬の催しだ。
母はそこで馬を扱い、実際にそりの上にも立っていたという。
おかげで、馬の呼吸や気性の変化を読み取るのが驚くほど上手い。
以前、預かっていた休養馬の様子を見て、母が「今日は何だかいつもと違うわね」と言い出したことがあった。
見た目には何の異常もない。
俺も父も、最初は首を傾げた。
しかし、念のため獣医師に確認してもらい、運動を控えて様子を見ることにした。
幸い、大きな問題にはならなかったが、母が普段から馬をよく見ていることを改めて思い知らされた出来事だった。
そして、牧場の経理を握っているのも母である。
父がどれほど血統の話で盛り上がろうと、母が首を縦に振らなければ新しい繁殖計画は進まない。
朝霧牧場で、ある意味一番強いのは母なのかもしれない。
「おかあさん!」
隣から、小さな声が上がった。
「かえで、おうまさんにニンジンあげたい!」
妹の朝霧楓だ。
まだ四歳の小さな女の子だが、牧場の馬たちが大好きで、暇さえあれば厩舎へ行こうとする。
「ご飯を食べてからね。それと、一人で勝手に馬房へ入っちゃ駄目よ」
「はーい!」
返事だけは立派である。
「楓、お前はそんなに馬が好きか?」
祖父が笑いながら尋ねた。
「うん!」
「そうかそうか。じゃあ大きくなったら、牧場の仕事を手伝ってくれるか?」
「かえではね、おうまさんにのるの!」
「ほう?」
「はやく、はしるの!」
楓は両手を前に出し、何かを握るような仕草をしてみせた。
どうやら手綱を持っているつもりらしい。
祖父は嬉しそうに目を細めた。
「そうか。楓は馬に乗りたいのか」
「うん! いちばんになる!」
「はっはっは! そりゃあ頼もしいのう!」
母は苦笑していたが、その表情はどこか嬉しそうだった。
「楓、馬に乗るのは楽しいけど、ちゃんと馬の気持ちも考えてあげなきゃ駄目よ」
「おうまさんのきもち?」
「そう。疲れているときもあるし、嫌なことがあるときもあるでしょう?」
「うん!」
「だから、馬が何を考えているのか、よく見てあげるの」
楓は真剣な顔で頷いた。
その横顔を見ながら、俺は小さく笑う。
まだ幼い妹が、将来どんな大人になるのか。
さすがの俺にも分からない。
前世の記憶の中に、朝霧楓という騎手の名前は存在しないのだから。
もっとも、そんなことは当然だ。
この世界で生まれた朝霧楓は、俺の妹なのだから。
「ところで比呂」
祖父がこちらへ目を向けた。
「お前、最近また血統表を眺めとるそうじゃな」
「またっていうか、いつも見てるだろ」
「そうじゃったな」
祖父は楽しそうに笑った。
「それで、今年は何か面白いことを考えとるのか?」
「まあ、いくつかね」
「ほう。聞かせてみろ」
「親父にもまだ全部説明してないから、もう少しまとまってからにするよ」
「なんじゃ、つまらんのう」
残念そうに言う祖父に、父が口を開いた。
「親父。比呂のやつ、今年から本格的に配合を考えるつもりらしいぞ」
「それはええことじゃ」
「ただし、血統表だけで話をするなら却下だ」
「お前は相変わらず厳しいのう、源」
「当たり前だろう。馬を作るんだからな」
祖父は笑っていたが、父の言葉を否定することはなかった。
朝霧清蔵。
一九〇三年生まれ。
今年七十七歳になる、朝霧牧場の二代目だ。
この牧場は、祖父の父親の代から続いている。
創業は明治四十年頃。
当初は農耕馬や軍用馬なども扱っていたが、祖父の代から少しずつサラブレッドの生産へ力を入れるようになった。
そのきっかけとなったのが、一九三二年の第一回東京優駿大競走だった。
「……そういや、じいちゃん」
「ん?」
「じいちゃんが最初のダービーを見に行ったときって、何歳だったんだっけ?」
「二十九じゃったな」
「まだ若かったんだな」
「当たり前じゃろう。わしにも若い頃くらいあるわい」
祖父は笑いながら、湯呑みに手を伸ばした。
「昭和七年の四月二十四日じゃ。目黒の競馬場でな。あの日は雨で、馬場もひどい有様じゃった」
「ワカタカが勝ったんだよね」
「そうじゃ。お前は本当によう覚えとるのう」
祖父は嬉しそうだった。
「わしも、その頃には馬を育てる仕事をしとった。けれど、あんな光景は初めてじゃったよ」
祖父の声が、少しだけ変わった。
「それまで、わしが育てとった馬は、働くための馬が多かった。軍に買い上げられる馬もおった」
祖父は静かに湯呑みを置いた。
「立派に育てて、送り出す。けれど、その後どうなったか分からん馬も多い。戦争が激しくなってからは、なおさらじゃった」
誰も口を挟まなかった。
祖父は、馬を送り出すことが嫌だったわけではない。
育てた馬が人の役に立つことを、誇りに思っていた時代もあったのだろう。
だが、戦争が激しくなるにつれ、帰ってこない馬が増えていった。
その先で何が起きたのか。
自分の育てた馬が、どのような最期を迎えたのか。
知りたくても、知ることのできない時代だった。
「……馬というのはな、本当に美しい生き物なんじゃよ」
祖父は、ゆっくりと言葉を続けた。
「力強くて、賢くて、時には人間よりもずっと素直じゃ。あいつらが気持ちよさそうに走っとるところを見るのが、わしは昔から好きじゃった」
その顔に、わずかな笑みが浮かぶ。
「だから、あの日の競馬場は忘れられん」
祖父は遠い目をした。
「雨の中を、十九頭の馬が走っておった。周りの人間はみんな夢中でな。馬の名前を叫んで、拳を振り上げて……。あんなに大勢の人が、馬の走る姿を見て喜んどるんじゃ」
祖父は、そこで言葉を切った。
「……嬉しかったんじゃよ」
「嬉しかった?」
「ああ。わしが大好きな馬という生き物を、あんなにも大勢の人が見て、喜んでくれとる。馬の走る姿が、人をあれほど幸せにできるんじゃと思ったらな」
祖父は小さく笑った。
「わしも、ああいう馬を育てたいと思った」
その言葉を聞きながら、俺は一九三二年の目黒競馬場を思い浮かべていた。
雨に濡れた馬場。
泥を跳ね上げながら走る十九頭。
そして、ワカタカの優勝に沸く観衆。
俺は、そのレースを歴史として知っている。
だが、祖父はその光景を実際に見ていた。
競馬の歴史を覚えている人間と、競馬の歴史を生きてきた人間。
その違いを、俺は改めて感じていた。
「じいちゃんは、ダービーを勝ちたかったの?」
「もちろんじゃ」
祖父は即答した。
「今でも、勝てるもんなら勝ちたいと思っとるよ」
「七十七歳になっても?」
「何歳になろうが関係あるか。夢を見るのに、年齢制限なんぞあるまい」
俺は思わず笑った。
父も笑っていた。
「親父は昔からそうだからな。俺が子供の頃なんか、毎年ダービーを見ては、来年こそはうちの馬が走るって言っとった」
「それで、親父も同じようになったんだ?」
「……余計なことを言うな」
「はっはっは! 源、お前も大して変わらんじゃろう!」
祖父は声を上げて笑った。
それから、ふと真面目な顔になった。
「比呂」
「ん?」
「強い馬を作るのは、ええことじゃ。わしもそういう馬を育てたくて、ずっとこの仕事をしとる」
「うん」
「けれどな。勝った馬だけが、いい馬というわけではないぞ」
俺は、祖父を見つめた。
「競馬で勝てん馬もおる。生まれてすぐに病気になる馬もおる。競馬場へ行けん馬だっておる」
祖父は静かに続ける。
「そういう馬も、わしらが育てた馬じゃ。生まれてきた以上、みんな大切な命なんじゃよ」
「……分かってる」
「うむ。それならええ」
祖父は満足そうに頷いた。
「それにな、比呂。競馬に出た馬が、みんな無事に帰ってこられるわけではない」
その言葉には、先ほどまでとは違う重みがあった。
「勝って帰ってくる馬もおれば、負けて帰ってくる馬もおる。どちらでもええ。まずは無事に帰ってきてほしい。それが一番じゃ」
俺は黙って頷いた。
「この牧場が、あいつらにとって帰ってこられる場所であれば、わしはそれだけでも嬉しいんじゃよ」
その言葉は、父がいつも口にしていることと同じだった。
きっと父は、祖父から教わったのだろう。
そして俺もまた、二人から教わってきた。
馬を育てるということは、勝つ馬を作るだけではない。
生まれてきた命に、責任を持つことなのだ。
「それで、比呂」
父が話を戻した。
「お前の配合計画、今日の夜にでも見せてみろ」
「……いいの?」
「見るだけだぞ。採用するかどうかは別だ」
「分かってるって」
祖父が、また笑い始めた。
◇
その日の夜。
俺の部屋には、三人の男が集まっていた。
俺と、父と、祖父である。
机の上には、何枚もの血統表と、牧場の繁殖台帳が広げられていた。
「……まず、今年の繁殖牝馬は十頭」
俺は台帳を確認しながら言った。
「サクラは休養にするから、種付けを考えるのは残り九頭だね」
「ああ。サクラは今年は休ませる」
父が頷いた。
俺は一枚目の紙を机に置いた。
そこには、現在の繁殖牝馬たちの名前が並んでいる。
アサギリカスミ。
ユキシズカ。
アサギリヒカリ。
カゼノミヤコ。
アサギリトキ。
アサギリコハル。
シノノメ。
アサギリホノカ。
アサギリシズク。
この九頭が、今年の繁殖計画の中心になる。
「……ほう。ずいぶん細かく考えとるな」
祖父が感心したように呟いた。
「それで、比呂。一番自信があるのはどれだ?」
「自信というか、まず親父に相談したいのはこれかな」
俺は、アサギリコハルの血統表を差し出した。
昭和四十八年生まれ。
父タケシバオー、母アサギリサクラ。
朝霧牧場で生まれ、競走馬としては大きな成績を残せなかった牝馬だ。
ただし、体は丈夫で、馬格にも恵まれている。
父のタケシバオーは、短距離から長距離まで幅広く活躍した名馬だった。
その血を持つ牝馬なら、繁殖としてまだまだ可能性がある。
俺はそう考えていた。
「コハルか」
父は血統表を受け取り、しばらく眺めた。
「この馬なら、俺もいろいろ考えとったところだ」
「何を付けようと思ってた?」
「まだ決めとらん。お前の案を先に聞こう」
俺は、一枚の種牡馬の資料を差し出した。
「……ブレイヴエストローマン」
父の眉が、わずかに動いた。
「ほう」
その反応に、俺は少し嬉しくなった。
「どう思う?」
「ネヴァーベンドの仔か。今年から日本で供用される馬だな」
「そう。アメリカでも種牡馬をやっていたけど、日本での産駒がどう走るかは、これからだ」
ブレイヴエストローマン。
一九七二年生まれのアメリカ産馬。
現役時代は短距離からマイルを中心に活躍し、一九七六年からアメリカで種牡馬として供用されていた。
そして今年、一九八〇年から日本で新たな生活を始める。
俺は知っている。
この馬が、後にマックスビューティやトウカイローマンといった名牝を送り出すことを。
さらには、オグリローマンや数々の活躍馬を輩出することを。
もちろん、現時点で日本におけるその未来を知っている人間など、俺以外にはいない。
「……面白いところを持ってきたな」
父が呟いた。
「ただ、どうしてコハルなんだ?」
「コハルは丈夫だし、馬格もある。父親のタケシバオーから受け継いだ良さもあると思う。ただ、競走馬としては、もう少しスピードが欲しかった」
「それでブレイヴエストローマンか」
「うん。スピード面で補える可能性がある。それに、産駒が牝馬なら、将来の繁殖として残すことも考えたいんだ」
父は黙って血統表を見つめていた。
「……なるほどな」
しばらくしてから、顔を上げる。
「だが、比呂。お前は一つ、都合のいいことを考えとるぞ」
「え?」
「コハルの長所が、そのまま仔馬に伝わるとは限らん。丈夫な牝馬から、脚元の弱い仔が生まれることだってある」
「……うん」
「それに、スピードが欲しいからスピードのある種牡馬を付ける。それだけなら誰でも考えることだ」
父は血統表を指で叩いた。
「大事なのは、どんな馬が生まれる可能性があるか、もっと具体的に考えることだ。体のつくりも、気性も、血統の重なりもな」
俺は頷いた。
そのとおりだった。
前世の知識から、ブレイヴエストローマンが成功する種牡馬だと知っている。
だが、コハルとの産駒がどうなるかは分からない。
それは、まだこの世界に存在しない馬だからだ。
「……親父は、反対?」
「誰が反対だと言った?」
「いや、だって今、めちゃくちゃ駄目出ししたじゃん」
「駄目出しじゃない。考えが足りんと言っとるんだ」
「それを駄目出しって言うんじゃないの?」
「口答えする前に血統表を見ろ」
祖父が、腹を抱えて笑い始めた。
「はっはっは! 源、お前も若い頃は同じようなことを言われとったぞ!」
「親父は黙っててくれ!」
「何を言うか。わしも血統表を見たいんじゃ」
結局、祖父も加わり、三人でコハルの血統表を囲むことになった。
父は血統の重なりを確認しながら、コハル自身の馬体について話し始めた。
祖父は、母系に残る古い血について、昔の馬産の経験を交えながら説明する。
俺は二人の話を聞きながら、自分が考えていた配合の長所と短所を改めて整理していった。
「……しかし、こういう血の重なり方をするのか」
祖父が興味深そうに呟いた。
ブレイヴエストローマンの母方と、コハルの母方。
それぞれの血をたどっていくと、遠いところで同じ名牝へと行き着く。
「プラッキーリエージュか」
父が小さく呟いた。
「うん。五代目同士になる」
「なるほどな。これだけで強い馬が生まれるとは言えんが、面白い」
父はもう一度、血統表を見つめた。
「ただ、俺が気になるのはコハルのトモだな。あの馬は丈夫だが、もう少し柔らかさが欲しい」
「そこは俺も気になってる」
「なら、ブレイヴエストローマン自身の馬体も、できればよく見たいところだ」
「……やっぱりそうなるよな」
「当たり前だろう。血統表だけじゃ馬の脚の形までは分からん」
俺は思わず笑ってしまった。
父の言うとおりだった。
配合を考えていると、どうしても血統表の中だけで答えを探そうとしてしまう。
だが、実際に生まれてくるのは、血統表ではない。
一頭の、生きた馬なのだ。
それからも、三人であれこれと話し合った。
気づけば、一時間近くが経っていた。
「……まったく、お前らと血統の話をしとると、時間を忘れるな」
父が苦笑した。
「親父が一番楽しそうだったけどな」
「お前だって同じだろうが」
「まあね」
俺は笑った。
こういう時間が、たまらなく好きだった。
まだ存在しない一頭の馬について、三人で真剣に考える。
どんな姿で生まれてくるのか。
どんな走りを見せるのか。
牡馬なのか、牝馬なのか。
その答えは、誰にも分からない。
だからこそ、面白いのだ。
「……で、親父。どう?」
「候補には入れていい」
「本当!?」
「ただし、種付け料と、実際に種付けできるかどうかを確認してからだ」
「……ああ、そうだった」
「それに、コハルだけに金を使うわけにもいかん。ほかの牝馬のことも考えんとな」
父の言葉に、俺は頷いた。
もっともだ。
朝霧牧場は、少し余裕があるとはいえ、大牧場ではない。
種付け料だけでなく、輸送費や、その後の管理費も必要になる。
だからこそ、未来の名種牡馬を知っていることが役に立つ。
人気が出てからでは手が届かなくなる馬でも、評価が固まる前なら挑戦できる可能性がある。
ただし、そのためには限られた予算の中で、どこに金を使うべきか考えなければならない。
「分かった。費用も含めて、もう一度整理するよ」
「うむ。それでいい」
父は満足そうに頷いた。
「さて、次はどの牝馬だ?」
「次はカスミを考えてる」
「ほう。カスミか」
父の顔つきが変わった。
アサギリカスミ。
父チャイナロック、母アサギリハル。
朝霧牧場の主力繁殖牝馬の一頭で、これまでに堅実な産駒を送り出してきた。
特に、昭和五十年に生まれたアローエクスプレス産駒の牡馬は、中央競馬で三勝を挙げている。
その馬を買ってくれた個人馬主とは、今でもいい付き合いが続いていた。
「カスミには、何を付けたいんだ?」
「実は、サンシャインボーイを考えてる」
父は、一瞬だけ目を見開いた。
それから、にやりと笑った。
「……お前も、そこに目をつけたか」
「親父も?」
「ああ。考えとった」
俺は思わず身を乗り出した。
サンシャインボーイ。
父テスコボーイ、母ソーダストリーム。
アローエクスプレスと母親を同じくする半弟だ。
朝霧牧場にとって、アローエクスプレスの血はすでに馴染み深い。
その半弟であり、父にテスコボーイを持つサンシャインボーイは、源が興味を持つのも自然な種牡馬だった。
「……なるほど。カスミとの配合か」
父は血統表を見つめながら、小さく頷いた。
「ハイペリオンの血が重なるな」
「うん。四代目同士になる」
「それだけで良し悪しは決められんが、考える価値はある。それに、カスミの産駒は気性も比較的素直だ」
父は少し考えた。
「サンシャインボーイは、まだ種牡馬としての評価が定まっておらん。ただ、俺は現役時代の走りを見ても、悪い馬だとは思っとらん」
「俺もそう思う」
「……ふむ」
父は血統表を机に置いた。
「これは俺も気になるな。実際に見に行ってもいいかもしれん」
「だろ!?」
「ただし、お前」
「ん?」
「ホノカには付けようなんて考えるなよ」
俺は思わず笑った。
「分かってるって。あの馬の父親はアローエクスプレスだろ。サンシャインボーイを付けたら、ソーダストリームが近すぎる」
「分かっとるならいい」
父は満足そうに頷いた。
「血統表は、名前を並べて眺めるだけのもんじゃない。どこで血が重なって、どこに違う血が入るかを考えるためのもんだ」
「はいはい」
「はいは一回!」
「はい!」
また、祖父が笑い始めた。
そんなやり取りを続けながら、俺たちは残りの繁殖牝馬についても考えていった。
ユキシズカとアサギリトキには、タイテエム。
アサギリヒカリとアサギリホノカには、ダンシングキャップ。
カゼノミヤコとシノノメには、シーホーク。
そして、まだ若いアサギリシズクには、ダイコーター。
もちろん、すべてがそのまま決まるわけではない。
実際の馬の状態や種付け料、予約の状況によっては、変更する必要もあるだろう。
だが、少なくとも方向性は見えてきた。
父が長年育ててきた牝馬たちに、どんな種牡馬を組み合わせるのか。
それを考えるだけで、俺はどうしようもなく胸が躍っていた。
「……さて」
父がようやく血統表から顔を上げた。
「だいたい話はまとまったな」
「うん。あとは費用と、実際に種付けできるかどうかだね」
「そうだな」
父は頷いた。
「比呂。お前の考えは面白い」
「……え?」
思わず顔を上げた。
父が、俺の配合計画を素直に褒めることは滅多にない。
「ただ、まだまだ詰めが甘い。血統の知識だけで馬は作れん。実際に生まれてくる馬のことも、その馬を育てる人間のことも考えろ」
「……うん」
「だが、こういう配合を考えるのは悪いことじゃない」
父は血統表をもう一度眺めた。
「俺も、どんな仔が生まれるのか見てみたいと思った」
その言葉が、何より嬉しかった。
「親父」
「なんだ?」
「俺さ、これからもっといろんな配合を考えたいんだ」
「……ほう」
「今はまだ、うちみたいな牧場じゃ付けられない種牡馬もいる。でも、今のうちにいい牝馬を作っておけば、何年か後には、もっと面白いことができると思う」
父は黙って聞いていた。
「それに、まだ評価されていない種牡馬でも、将来いい産駒を出す馬はいるはずだ。そういう馬をうまく見つけられれば、うちの馬だって今より高く評価されるかもしれない」
「……なるほどな」
「そうすれば、牧場の経営にも少し余裕ができる。そしたら、親父が昔からやりたかった配合だってできるだろ?」
父は、しばらく俺を見つめていた。
やがて、口元を緩める。
「……お前、そんなことを考えとったのか」
「まあね」
「金を稼いで、また馬に使うつもりか」
「そういうこと」
父は大きな声で笑った。
「はっはっは! 馬鹿だな、お前は!」
「親父にだけは言われたくないよ」
「それもそうだな!」
祖父まで笑い始めた。
「いいじゃないか、源。比呂がそこまで考えとるなら、やらせてみればええ」
「親父、甘やかすな。まだ何も決まっとらん」
「しかし、お前も楽しそうじゃぞ」
「……それは、まあ」
父は少し照れくさそうに顔を逸らした。
「馬を作るんだ。楽しくないわけがないだろう」
その言葉に、俺は思わず笑ってしまった。
やっぱり、この人は俺の父親なのだ。
血統表を眺めて、まだ生まれていない馬の未来を想像する。
その楽しさを、誰よりも知っている。
だからこそ、俺はこの人と一緒に馬を作りたいと思ったのだ。
「……ところで」
背後から、静かな声がした。
俺たちは、揃って振り向いた。
部屋の入口に、母が立っていた。
手には、一冊の帳簿。
その顔には、穏やかな笑みが浮かんでいる。
「ずいぶん楽しそうね」
「……なんだ、環。まだ起きとったのか」
「ええ。あなたたちがいつまで経っても戻ってこないから」
母はそう言って、机の上の血統表を覗き込んだ。
「あら。コハルにはブレイヴエストローマンを考えているのね」
「うん。親父も面白いって言ってくれた」
「そう。それはよかったわね」
母はにっこりと笑った。
それから、手にしていた帳簿を開いた。
「それで、比呂。今年の種付け費用は、どのくらいになる予定?」
「……えっと」
「源さんから、今年使える予算の目安は聞いているでしょう?」
「聞いてる。ただ、まだ種付け料を全部確認できてなくて……」
「そうよね。候補が決まらないと、正確な金額も出せないものね」
母は頷いた。
「でも、最初に決めた予算の範囲で考えること。少し高い馬に付けたいなら、その分をどこで調整するのか、ちゃんと考えてね」
「……はい」
「それに、種付け料だけじゃないわ。輸送費もかかるし、預かっている馬たちの管理費もある。予定外の出費に備えるお金も残しておかないと」
「分かってるよ」
母は俺を見つめた。
「比呂。新しいことを考えるのは、とてもいいことだと思うわ」
「うん」
「でもね。今いる馬たちが安心して暮らせることが、一番大切なの。それを忘れなければ、私は応援するわよ」
その言葉に、俺は自然と頷いていた。
母は決して夢を否定しない。
ただ、夢を追うために必要な現実を、誰よりもしっかり見ている。
だからこそ、父も俺も安心して馬のことを考えていられるのだ。
「……環」
父が口を開いた。
「今年は一頭くらい、少し思い切った配合を試してもいいと思っとるんだが」
「ええ。私もそれくらいなら、いいと思いますよ」
「……本当か?」
「ただし、ほかの馬に無理が出ない範囲で、ですけど」
「それはもちろんだ」
父は大きく頷いた。
母はそんな父を見て、小さく笑った。
「まったく……三人揃って、馬のことになると子供みたいなんだから」
祖父が、また声を上げて笑った。
「はっはっは! 環さん、わしらにとって馬の話は、いつまで経っても楽しいもんなんじゃよ!」
「それは分かっていますよ、お義父さん」
母は優しく微笑んだ。
「だからこそ、ちゃんと牧場を続けられるようにしないといけませんね」
その言葉に、誰も反論しなかった。
いや、反論する必要などなかった。
父も祖父も、そして俺も。
みんな、同じことを願っているのだから。
◇
その夜。
父と祖父が部屋を出た後、俺は一人で机に向かっていた。
目の前には、今日話し合った繁殖計画が広がっている。
まだ、何も決まっていない。
種付けができるかどうかも分からない。
無事に受胎するかも分からない。
仔馬が生まれたとしても、その馬が競走馬として走れる保証など、どこにもない。
それでも、俺はワクワクしていた。
前世では、競馬の歴史を知ることが何より楽しかった。
名馬の競走成績を覚え、血統をたどり、過去のレースを何度も見返す。
もし、この馬に別の種牡馬が付けられていたら。
もし、あの名馬がもう少し長く現役を続けていたら。
もし、あの血統が途絶えずに残っていたら。
そんなことを考えるのが好きだった。
だが、今は違う。
俺は、その「もしも」を自分の手で確かめることができる。
もちろん、すべてがうまくいくとは思っていない。
むしろ、失敗することの方が多いのかもしれない。
けれど。
「……面白いな」
思わず、声が漏れた。
今、俺の目の前にあるのは、ただの紙だ。
そこに書かれているのは、繁殖牝馬と種牡馬の名前。
けれど、その組み合わせから、まだこの世に存在しない命が生まれるかもしれない。
そして、その仔馬がいつか競馬場を走る。
勝つかもしれない。
負けるかもしれない。
あるいは、競走馬として大成しなくても、繁殖として次の世代へ血をつないでくれるかもしれない。
その未来を、俺は見てみたい。
ふと、夕食の席で祖父が話していたことを思い出した。
一九三二年。
雨の目黒競馬場。
十九頭のサラブレッドが走り、大勢の観客が熱狂する。
その光景を見て、祖父は競走馬を育てる決意をした。
それから、四十八年。
祖父の夢は、まだかなっていない。
父もまた、その夢を追いかけている。
そして、今。
俺も同じ夢を見始めていた。
ただし、俺の夢はもう少し欲張りだ。
ダービーを勝つ馬を作りたい。
もちろん、それは大きな目標だ。
でも、それだけじゃない。
名馬の血を残したい。
本来なら消えてしまうはずだった血統を、未来へつなげてみたい。
そして、その血を受け継いだ馬たちが、どんな走りを見せるのか確かめたい。
そんなことを考えていると、自然と笑みがこぼれた。
「……まずは、一頭ずつだな」
俺はペンを取り、ノートの最初のページに書き込んだ。
――昭和五十五年、繁殖計画。
そこから、すべてが始まる。
もちろん、このときの俺には、まだ分からなかった。
この小さな牧場で積み重ねていく一つ一つの選択が、やがて日本競馬の歴史を大きく変えていくことを。
そして、いつか。
この牧場で生まれた馬たちが、祖父の夢を、父の願いを、そして俺自身の夢を背負って走る日が来ることを。
窓の外では、春の夜風が静かに吹いていた。
遠くの厩舎から、馬の小さないななきが聞こえる。
きっと、どこかの馬が寝返りでも打ったのだろう。
俺はその音に耳を傾けながら、夕食の席で祖父が口にした言葉を思い出していた。
――この牧場が、あいつらにとって帰ってこられる場所であれば。
「……そうだな」
どんなに強い馬でも、いつかは競走生活を終える。
どれほど速く走った馬でも、いつかは走ることをやめる。
けれど、その馬が残したものまで消えてしまうわけではない。
次の世代へ受け継がれた血は、また新しい馬となって走り始める。
それなら、俺たちの仕事にも終わりはない。
まだ知らない未来が、この先にはいくらでもある。
俺はもう一度、机の上の血統表に目を落とした。
そして、まだ見ぬ仔馬たちの姿を思い浮かべながら、静かにペンを走らせた。
昭和五十五年、春。
北海道の小さな牧場で、俺の新しい挑戦が始まった。