その血は、まだ走っている ~転生した俺が紡ぐ、もう一つの競馬史~   作:ねるすと

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第二話 九頭の未来

 翌朝。

 

 朝霧家の食卓には、いつもの朝食に加えて、何枚もの紙が並んでいた。

 

 昨夜、父と祖父を交えて話し合った繁殖計画。その内容を、俺なりに整理し直したものだ。

 

 九頭の繁殖牝馬と、それぞれに考えている種牡馬の名前。

 

 その隣には、別の候補を記入するための空欄も設けてある。

 

 もっとも、まだ完成というわけではない。

 

 種付け料を確認できていない馬もいるし、実際に交配を申し込めるかどうかも分かっていない。

 

 だから今朝は、母に相談するつもりだった。

 

「……なるほどね。昨日の話を、ちゃんと整理してきたのね」

 

 母の環は、俺の書いた計画表を一通り眺めると、そう言って頷いた。

 

「うん。親父と話して、考え直したところもあるんだ。特にコハルの配合は、実際に種牡馬を見てから決めた方がいいと思ってる」

 

「それはいい考えね。でも、これだけ候補があると、全部希望どおりにいくとは限らないでしょう?」

 

「もちろん。相手の種牡馬にも都合があるし、うちの牝馬たちだって、必ず予定どおりに発情が来るとは限らないからね。そこは親父とも相談して、予備の候補を用意するつもり」

 

 母は感心したように目を細めた。

 

 その様子を見て、俺は少しだけ安心する。

 

 昨日、血統の話に夢中になりすぎた自覚はあった。

 

 母も馬が好きなことに変わりはないが、牧場の経理を預かる立場としては、俺たち親子の夢に無条件で付き合うわけにはいかない。

 

 そして、それは当然のことだった。

 

「それなら、次はお金の話をしましょうか」

 

 母は手元の帳簿を開いた。

 

「今年の種付けに使える金額は、源さんとも相談して決めてあるわね。ただ、予定している九頭が全部受胎した場合のことも考えておきたいの」

 

「そこなんだけど、俺も少し気になってたんだ」

 

 俺は、別に用意していた紙を取り出した。

 

「今年の種付けに必要な金額だけなら、ある程度は見通しが立つと思う。でも、来年の春に九頭とも無事に生まれたら、それだけ育成費も増えるだろ? 今いる若馬たちが予定どおりに売れるとは限らないし、休養馬の預託頭数だって毎年同じじゃない」

 

 母は黙って聞いていた。

 

「それに、今後は牧場に残す牝馬も増やしたいと思ってるんだ。そうなると、生まれた仔を全部売る前提では計算できない。今のうちから少し余裕を見ておいた方がいいんじゃないかって」

 

 そこまで話すと、母はふっと笑った。

 

「比呂、なかなかいいところに気がついたわね」

 

「……そんなに珍しい?」

 

「珍しいというより、嬉しいのよ。昨日は三人でずいぶん楽しそうに血統の話をしていたから、今日は私の出番がないかと思っていたもの」

 

「いや、母さんの出番がないわけないだろ。むしろ、一番相談したかったんだけど」

 

「あら、そうなの?」

 

 母は笑いながら、帳簿を俺の方へ向けた。

 

「じゃあ、ここを見てちょうだい。昨年の収入と、今年ここまでの支出。これから必要になるものも含めて、少し余裕を持たせてあるの」

 

 俺は数字を追いながら、思わず頷いた。

 

 飼葉代、敷料代、獣医師への支払い、放牧地や厩舎の修繕費。

 

 生産馬の販売収入に、休養馬の預託料。

 

 そして、突然の病気や怪我に備えた予備費。

 

 どれも、日頃から見慣れた項目だった。

 

 それでも、年間の数字として並べられると、また違った重みがある。

 

「……さすが母さん。俺が考えてたより、ずっと細かいところまで計算してる」

 

「何年この仕事をしていると思ってるの?」

 

 母は、少し得意げに笑った。

 

「牧場のお金はね、増えたから全部使っていいというものじゃないの。調子のいい年もあれば、思うように馬が売れない年だってある。だから、いいときほど次のことを考えておかないと」

 

 その言葉には、長年牧場を支えてきた人間の実感があった。

 

 父は馬を見る。

 

 母は牧場全体を見る。

 

 どちらが欠けても、朝霧牧場は今の姿ではいられなかっただろう。

 

「それで、比呂。あなたが一番挑戦したいのは、やっぱりコハルなのね?」

 

「うん。ブレイヴエストローマンは、どうしても一度試してみたい。ただ、ほかの配合を犠牲にしてまで無理に付けたいわけじゃないよ」

 

「分かってるわ。そこまで考えているなら、私は反対しない。ただし、費用が予想以上にかかるようなら、もう一度三人で相談しましょう」

 

「ありがとう。そうしてもらえると助かる」

 

 母は頷くと、もう一枚の紙を引き寄せた。

 

「それと、これは種付けとは別の話なんだけど……」

 

 そこには、今年中に修繕しておきたい設備が書き出されていた。

 

 古くなった牧柵の一部。

 

 厩舎の扉。

 

 雨が続いたときに水のたまりやすい通路。

 

 どれも今すぐ大きな問題になるわけではないが、後回しにし続けていいものでもない。

 

「……なるほどな。種付けにお金をかけすぎると、こっちに響くわけか」

 

「そういうこと。馬が安全に暮らせる場所を整えるのが先。新しい仔馬を迎えるなら、なおさらね」

 

 そのとき、隣で黙って新聞を読んでいた父が口を開いた。

 

「そこは心配せんでいい。柵の方は、今週中に手を入れるつもりだ」

 

「源さん、先週も同じことを言ってませんでした?」

 

「……今週はやる」

 

 俺は思わず吹き出しそうになった。

 

 父が一瞬、こちらを睨む。

 

「お前も手伝うんだぞ、比呂」

 

「えっ、俺も?」

 

「当たり前だろう。お前も新しい仔馬を増やしたいんだからな」

 

「……はいはい、分かってるよ」

 

 母がくすくすと笑った。

 

「二人でやれば、早く終わるわね」

 

 こうして、俺の繁殖計画には、新しい仕事が一つ加わった。

 

 血統表の上には載っていない仕事。

 

 だが、そこで生まれる馬たちにとっては、何より大切な仕事だった。

 

     ◇

 

 午前中は、父と一緒に放牧地の柵を確認して回った。

 

 日差しは春らしく柔らかかったが、風はまだ冷たい。

 

 牧柵に沿って歩きながら、傷んだ箇所を調べ、交換が必要な場所に印をつけていく。

 

「……ここも直した方がいいな」

 

 俺が一本の柱を指差すと、父が近づいてきた。

 

「どれ。……ああ、確かに緩んどるな。馬が体を擦りつけたりするから、こういうところは傷むのが早い」

 

「新しい板だけじゃなくて、柱も替える?」

 

「そうだな。どうせやるなら、まとめて直してしまおう。中途半端に直して、あとで馬が怪我をしたら目も当てられん」

 

 父は印をつけると、放牧地の奥へ目を向けた。

 

 そこで草を食んでいるのは、アサギリコハルだった。

 

 父タケシバオー、母アサギリサクラ。

 

 朝霧牧場で生まれた牝馬で、今年は当時の数え方で八歳になる。

 

 現役時代は目立った競走成績を残せなかったが、馬格があり、丈夫さが取り柄の馬だった。

 

「……親父、コハルのことなんだけどさ」

 

「ん?」

 

「昨日の配合、まだ考えてたんだ。ブレイヴエストローマンのことを調べれば調べるほど、やっぱり面白そうに思えてきて」

 

 父は柵に腕を乗せ、コハルを眺めた。

 

「お前、よほどあの馬が気に入ったんだな」

 

「まあね。もちろん、日本でどんな産駒を出すかは、これからだけど。血統も競走成績も魅力があるし、コハルの長所を生かせる可能性があると思うんだ」

 

「俺も悪い組み合わせだとは思っとらんよ。ただ、昨日も話したが、コハルの丈夫さだけ見て決めるわけにはいかん。あいつは少し動きが重いところがあるし、産駒に何が伝わるかは分からんからな」

 

「……そこは俺も気になってる」

 

 父は、しばらくコハルの歩く姿を見つめていた。

 

「コハルはな、現役の頃から、もう少し軽さがあればと思っとったんだ。走る気がないわけじゃない。むしろ真面目な馬なんだが、どうにも器用に動けんところがあった」

 

「うん。追われても、すぐに反応できないことが多かったよね」

 

「ああ。ただ、そういう馬だから駄目だとも思わん。競走馬として足りなかったものが、繁殖で補えることだってある」

 

 父は、こちらを見て笑った。

 

「それを考えるのが、俺たちの仕事だろう?」

 

 俺も笑った。

 

「……そうだね」

 

 目の前のコハルは、そんな俺たちの会話など知る由もなく、のんびりと草を食んでいた。

 

 その姿を眺めながら、俺は改めて思う。

 

 前世では、血統表に書かれた名前を追い、種牡馬の成績を調べるだけで、何時間でも楽しめた。

 

 だが、今は違う。

 

 その血統表の向こう側に、実際の馬がいる。

 

 毎日顔を合わせ、世話をし、時には体調を崩し、時にはこちらの心配などお構いなしに元気よく走り回る。

 

 そんな馬たちの姿を知っているからこそ、配合を考える時間が、以前にも増して楽しかった。

 

「……ところで比呂」

 

「何?」

 

「さっきからコハルばかり見とるが、柵の修理は終わっとらんぞ」

 

「……分かってるって」

 

「なら、その板を運んでこい。話の続きは手を動かしながらでもできる」

 

 父は、そう言って笑った。

 

 俺は苦笑しながら、資材を取りに戻った。

 

 まったく。

 

 この人は、馬の話をするときだけは、本当に楽しそうなのだから。

 

     ◇

 

 夕方になり、仕事が一段落した頃。

 

 父が、繁殖牝馬のいる厩舎から顔を出した。

 

「比呂。ちょっと来てくれ」

 

 普段よりも、少し低い声だった。

 

「どうした?」

 

「カゼノミヤコだ。そろそろ近いかもしれん」

 

 その言葉に、俺は手を止めた。

 

 カゼノミヤコ。

 

 昭和四十六年生まれ、父マロット、母ミヤコグモ。

 

 朝霧牧場で繁殖生活を送っている牝馬の一頭で、昨年はダイコーターを種付けしていた。

 

 今年は出産予定日も近づき、すでに分娩の準備を整えている。

 

「……予定日まで、もう少しあったよね?」

 

「ああ。ただ、あくまで予定日だ。さっきから様子を見とるが、落ち着かんらしい。乳房の張りも気になるし、今夜は注意しておいた方がよさそうだ」

 

 父の後について馬房へ向かうと、カゼノミヤコは普段より頻繁に体の向きを変えていた。

 

 時折、自分の腹の方を振り返るような仕草も見せる。

 

 いつものように、のんびりと飼葉を食べている姿とは違っていた。

 

「……確かに、少し落ち着かないね」

 

「そうだろう。まあ、こういう様子を見せたからといって、すぐに生まれるとは限らん。だが、準備しておいて困ることはないからな」

 

 父は馬房の状態を確認しながら、必要なものを揃え始めた。

 

 俺もそれを手伝う。

 

 新しい敷料を十分に敷き、道具を確認し、何かあったときにすぐ獣医師へ連絡できるようにしておく。

 

 出産は、何度経験しても緊張する。

 

 朝霧牧場では毎年何頭もの仔馬が生まれる。

 

 だからといって、すべてが同じように進むわけではない。

 

 母馬の状態も違えば、仔馬の大きさも違う。

 

 無事に生まれてくるまでは、誰にも分からないことが多いのだ。

 

「……親父」

 

「なんだ?」

 

「ミヤコ、去年より少し落ち着かない気がするんだけど」

 

 父は、カゼノミヤコを見つめた。

 

「そうだな。だが、今のところ明らかにおかしいというほどでもない。しばらく静かに見守ろう」

 

「……うん」

 

 俺は頷いた。

 

 そのとき、背後から母の声がした。

 

「ミヤコ、どう?」

 

「まだ始まっとらん。ただ、今夜あたりは気をつけた方がよさそうだ」

 

「そう。じゃあ、夕飯は交代で食べられるようにしておくわね。獣医さんにも、念のため連絡しておきましょうか」

 

「ああ、頼む」

 

 母はそれだけ聞くと、すぐに家へ戻っていった。

 

 慌てる様子はない。

 

 だが、必要なことは一つも忘れていない。

 

 この人もまた、長年馬と暮らしてきた人間なのだと感じた。

 

 夕方の厩舎には、いつもと変わらない音が響いていた。

 

 飼葉を噛む音。

 

 蹄が敷料を踏む音。

 

 時折聞こえる、馬の小さな鼻息。

 

 その中で、カゼノミヤコだけが、何かを待つように落ち着かない様子を見せていた。

 

 俺は馬房の外に腰を下ろし、その姿を眺めながら、今日の朝のことを思い返していた。

 

 九頭の繁殖牝馬。

 

 九通りの配合。

 

 そして、来年生まれるかもしれない仔馬たち。

 

 朝から、その未来についてずっと考えていた。

 

 けれど。

 

 今、目の前にいるカゼノミヤコのお腹の中には、去年の春、父が考えた配合から生まれようとしている命がある。

 

 俺たちがこれからやろうとしていることを、父はもう何十年も続けてきたのだ。

 

 その積み重ねが、今の朝霧牧場を作っている。

 

「……親父」

 

「ん?」

 

「何でもない。ちょっと考え事」

 

 父は、こちらへ目を向けると小さく笑った。

 

「どうせ、また血統のことだろう」

 

「……ばれた?」

 

「お前が馬房の前で妙に静かなときは、大体そうだ」

 

 俺は思わず笑ってしまった。

 

 確かに、否定できない。

 

「でも、今はそれよりもミヤコだな」

 

「ああ。まずはこの親子を無事に迎えてやらんとな」

 

 父はそう言って、静かに馬房へ目を戻した。

 

     ◇

 

 日付が変わる少し前。

 

 カゼノミヤコの出産が始まった。

 

 夜の厩舎に、馬の荒い息遣いが響く。

 

 分娩の兆候がはっきりしてから、父は時間を確認し、母馬の様子を注意深く見守っていた。

 

 獣医師にも連絡がつくようにしてある。

 

 俺は必要な道具を手元に揃え、父の指示を待っていた。

 

 カゼノミヤコは横たわり、懸命に腹へ力を込めている。

 

 俺は何度も出産に立ち会ってきた。

 

 それでも、この時間だけは慣れない。

 

 母馬が苦しそうに体を動かすたび、胸の奥が締めつけられる。

 

 何事もなく終わってほしい。

 

 元気な仔馬が生まれてきてほしい。

 

 ただ、それだけを願っていた。

 

「……よし」

 

 父が、小さく呟いた。

 

 破水の後、見えてきたのは仔馬の前脚だった。

 

 父は慎重に様子を確かめ、鼻先が続いて見えるのを確認した。

 

「今のところ、向きはよさそうだ。比呂、時間を見ておいてくれ。進み方がおかしければ、すぐ連絡するぞ」

 

「分かった」

 

 俺は時計へ目を向けた。

 

 針の動きが、普段よりもずっと遅く感じられた。

 

 実際には、それほど長い時間ではなかったのだと思う。

 

 けれど、待っている間の一分一分は、ひどく長く感じられた。

 

 やがて。

 

 カゼノミヤコが、最後の力を振り絞るように体を動かした。

 

 そして、敷料の上に、小さな命が姿を現した。

 

「……生まれた」

 

 思わず、声が漏れた。

 

 濡れた毛。

 

 細く折りたたまれた脚。

 

 まだ、自分の体をどう動かせばいいのかも分からないような、小さな姿。

 

 だが、確かに生きている。

 

 父はすぐに仔馬の呼吸と様子を確かめ、鼻先を覆っていた膜を取り除いた。

 

 仔馬が小さく体を動かす。

 

 その姿を見て、俺はようやく息を吐いた。

 

「……牝馬だな」

 

 父が呟いた。

 

「女の子か」

 

「ああ。よく頑張ったな、ミヤコ」

 

 カゼノミヤコは、まだ疲れた様子で横たわっていた。

 

 それでも、しばらくすると首を伸ばし、生まれたばかりの仔馬へ鼻先を近づけた。

 

 匂いを確かめるように鼻を動かし、濡れた体を舐め始める。

 

 俺は、その姿から目を離せなかった。

 

 何度見ても、不思議な光景だった。

 

 血統表に書かれていた名前。

 

 去年の春に交わされた、父と母の配合の話。

 

 それから、長い時間をかけて母馬のお腹の中で育ってきた命。

 

 そのすべてが、今、目の前の一頭につながっている。

 

「……すごいな」

 

 気づけば、そんな言葉が漏れていた。

 

 父がこちらを見た。

 

「何がだ?」

 

「いや……何度見ても、仔馬が生まれる瞬間って、すごいと思ってさ」

 

 父は、少しだけ笑った。

 

「そうだな。俺も、そこは何年やっても変わらんよ」

 

 それから、すぐに表情を引き締めた。

 

「ただ、まだ終わりじゃない。母馬の方も、後産がきちんと出るまで見ておかんとな。仔の方も、ちゃんと立って初乳を飲めるか確認するぞ」

 

「うん」

 

 俺も気持ちを切り替えた。

 

 新しい命が生まれた。

 

 だが、無事に出産を終えることと、その後の健康を守ることは、別の仕事だ。

 

 生まれたばかりの仔馬は、まだ頼りない。

 

 立ち上がることも、乳を飲むことも、これから覚えていかなければならない。

 

 仔馬は、しばらく横になっていた。

 

 やがて、長い脚を動かし始める。

 

 最初はうまく体を支えられず、何度も敷料の上へ崩れ落ちた。

 

 それでも、諦めない。

 

 前脚を突っ張り、後脚を踏ん張り、ゆっくりと体を持ち上げようとする。

 

「……頑張れ」

 

 俺は、小さく呟いた。

 

 仔馬が、もう一度立ち上がろうとする。

 

 細い脚が震える。

 

 体が傾く。

 

 それでも、何とか踏みとどまった。

 

「……立った」

 

 思わず、笑みがこぼれた。

 

 父も、満足そうに頷いた。

 

「よし。あとは、ちゃんと乳を飲んでくれるかだな」

 

 仔馬は、まだ不安定な足取りで母親の腹の下へ鼻先を伸ばした。

 

 何度も位置を間違えながら、懸命に乳を探している。

 

 俺は、思わず手を貸したくなった。

 

 だが、父は無理に近づこうとはしなかった。

 

 必要があれば手を貸す。

 

 しかし、母馬と仔馬が自分たちでできることまで、すべて人間が取り上げる必要はない。

 

 そんな父の姿勢を、俺は昔から見てきた。

 

 やがて、仔馬が無事に乳を飲み始めた。

 

 父は、その様子を注意深く確認すると、ようやく表情を緩めた。

 

「……まずは一安心だな」

 

「うん」

 

 俺は、大きく息を吐いた。

 

 時計を見ると、いつの間にかずいぶん時間が過ぎていた。

 

 それでも、不思議と眠気は感じなかった。

 

 目の前の小さな命が、自分の脚で立ち、母親の乳を飲んでいる。

 

 たったそれだけのことが、嬉しくて仕方なかった。

 

     ◇

 

 その後、母馬の胎盤がきちんと排出されたことも確認し、仔馬の様子を記録した。

 

 もちろん、これで完全に安心できるわけではない。

 

 これからも体調や哺乳、排泄の状態を注意深く見ていく必要がある。

 

 それでも、無事に新しい命を迎えられたことに、家族全員がほっとしていた。

 

「二人とも、お疲れさま」

 

 母が、温かいお茶を持ってきてくれた。

 

「ありがとう、母さん」

 

 俺は湯呑みを受け取り、ゆっくりと口をつけた。

 

 温かいお茶が、冷えた体に染み渡る。

 

 母は馬房の中を覗き込み、優しく微笑んだ。

 

「可愛い牝馬ね。ミヤコも、よく頑張ったわ」

 

「うん。本当に、よかった」

 

 俺がそう答えると、背後から聞き慣れた声がした。

 

「……ほう。無事に生まれたようじゃのう」

 

 振り返ると、祖父の清蔵が立っていた。

 

「じいちゃん、起きてたの?」

 

「何を言う。仔馬が生まれると聞いて、寝ておれるか」

 

「いや、もう夜中だぞ」

 

「わしが若い頃はな、夜中に馬が生まれるのなんぞ珍しくもなかったわい」

 

 祖父はそう言って笑いながら、ゆっくりと馬房を覗き込んだ。

 

 小さな牝馬は、母親のそばに寄り添っている。

 

 その姿を見た祖父の表情が、ふっと柔らかくなった。

 

「……ええ仔じゃな」

 

「まだ生まれたばっかりなのに、もう分かるの?」

 

 俺が尋ねると、祖父は楽しそうに笑った。

 

「分からんよ。分からんが、そう思って何が悪い」

 

「……それもそうだな」

 

「生まれたばかりの仔馬を見て、よくないと思う方が難しいわい」

 

 その言葉に、父まで笑い始めた。

 

「親父は昔からそうだからな。どんな仔が生まれても、まずはええ仔じゃと言う」

 

「当たり前じゃろう。これから育てるんじゃ。最初くらい、褒めてやらんでどうする」

 

 祖父は、もう一度仔馬を見つめた。

 

「それに、源。お前だって同じようなもんじゃろう」

 

「……まあな」

 

 父は、照れくさそうに笑った。

 

 俺はそのやり取りを眺めながら、今日一日のことを思い返していた。

 

 朝は、九頭分の繁殖計画について母と話し合っていた。

 

 どの種牡馬を選ぶのか。

 

 どの配合に挑戦するのか。

 

 どこに予算を使い、何を優先するのか。

 

 それは、どれも大切なことだ。

 

 だが。

 

 今、目の前にいる仔馬は、去年の春に父が考えた配合から生まれた馬だった。

 

 ダイコーターとカゼノミヤコ。

 

 二頭の血を受け継いで、この世界に生まれてきた一頭の牝馬。

 

 この馬が将来どうなるのか、俺は知らない。

 

 前世の競馬史に、この馬の名前は存在しなかった。

 

 そもそも、まだ名前すら決まっていない。

 

 中央競馬で勝ち上がるのか。

 

 地方競馬で走ることになるのか。

 

 競走馬として結果を残せず、別の道を歩むのか。

 

 あるいは、繁殖牝馬として、次の世代へ血をつないでくれるのか。

 

 何一つ、分からない。

 

 けれど。

 

 そんなことは、今はどうでもよかった。

 

「……よろしくな」

 

 俺は、馬房の中の仔馬へ小さく声をかけた。

 

 仔馬は当然、返事などしない。

 

 ただ、母親のそばで、まだ頼りない脚を踏ん張っていた。

 

 その姿を眺めていると、不思議と胸が温かくなる。

 

 未来の競馬史を知ることと、未来の競走馬を育てること。

 

 その二つは、まったく違う。

 

 前世の俺は、競馬の結果を知ることが楽しかった。

 

 どの馬が勝ち、どの血統が繁栄し、どの種牡馬が成功するのか。

 

 そうしたことを調べ、覚え、語るのが好きだった。

 

 だが、今は違う。

 

 まだ名前もない一頭の仔馬を前にして、俺はその未来を知りたいと思っている。

 

 勝つから育てるのではない。

 

 強い馬になるから、大切にするのでもない。

 

 この馬がどんな未来を歩むのか。

 

 それを、できるだけ近くで見守っていたいのだ。

 

「……比呂」

 

 父が、静かに声をかけてきた。

 

「そろそろ戻るぞ。明日も仕事があるんだからな」

 

「……うん」

 

 俺は、もう一度だけ仔馬を見つめた。

 

 そして、父の後を追って厩舎を出た。

 

 外には、春の冷たい空気が広がっていた。

 

 空を見上げると、雲の切れ間から星が覗いている。

 

 明日になれば、またいつもの仕事が始まる。

 

 飼葉を配り、馬房を掃除し、放牧地を見回る。

 

 そして、来年生まれてくるかもしれない仔馬たちのために、配合を考える。

 

 そんな毎日の繰り返しだ。

 

 けれど。

 

 その一日一日が、新しい命の未来につながっている。

 

「……親父」

 

「なんだ?」

 

「俺、やっぱりこの仕事が好きだわ」

 

 父は、一瞬だけこちらを見た。

 

 そして、何も言わずに笑った。

 

 その笑顔を見て、俺も笑った。

 

 昭和五十五年、春。

 

 朝霧牧場に、また一頭の新しい命が加わった。

 

 繁殖台帳には、まだ名前のない牝馬として記録される。

 

 けれど俺にとっては、すでに特別な一頭だった。

 

 この仔がどんな馬になるのか。

 

 その答えを知るのは、まだずっと先のことだ。

 

 だからこそ、楽しみで仕方がなかった。

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