その血は、まだ走っている ~転生した俺が紡ぐ、もう一つの競馬史~ 作:ねるすと
翌朝。
朝霧家の食卓には、いつもの朝食に加えて、何枚もの紙が並んでいた。
昨夜、父と祖父を交えて話し合った繁殖計画。その内容を、俺なりに整理し直したものだ。
九頭の繁殖牝馬と、それぞれに考えている種牡馬の名前。
その隣には、別の候補を記入するための空欄も設けてある。
もっとも、まだ完成というわけではない。
種付け料を確認できていない馬もいるし、実際に交配を申し込めるかどうかも分かっていない。
だから今朝は、母に相談するつもりだった。
「……なるほどね。昨日の話を、ちゃんと整理してきたのね」
母の環は、俺の書いた計画表を一通り眺めると、そう言って頷いた。
「うん。親父と話して、考え直したところもあるんだ。特にコハルの配合は、実際に種牡馬を見てから決めた方がいいと思ってる」
「それはいい考えね。でも、これだけ候補があると、全部希望どおりにいくとは限らないでしょう?」
「もちろん。相手の種牡馬にも都合があるし、うちの牝馬たちだって、必ず予定どおりに発情が来るとは限らないからね。そこは親父とも相談して、予備の候補を用意するつもり」
母は感心したように目を細めた。
その様子を見て、俺は少しだけ安心する。
昨日、血統の話に夢中になりすぎた自覚はあった。
母も馬が好きなことに変わりはないが、牧場の経理を預かる立場としては、俺たち親子の夢に無条件で付き合うわけにはいかない。
そして、それは当然のことだった。
「それなら、次はお金の話をしましょうか」
母は手元の帳簿を開いた。
「今年の種付けに使える金額は、源さんとも相談して決めてあるわね。ただ、予定している九頭が全部受胎した場合のことも考えておきたいの」
「そこなんだけど、俺も少し気になってたんだ」
俺は、別に用意していた紙を取り出した。
「今年の種付けに必要な金額だけなら、ある程度は見通しが立つと思う。でも、来年の春に九頭とも無事に生まれたら、それだけ育成費も増えるだろ? 今いる若馬たちが予定どおりに売れるとは限らないし、休養馬の預託頭数だって毎年同じじゃない」
母は黙って聞いていた。
「それに、今後は牧場に残す牝馬も増やしたいと思ってるんだ。そうなると、生まれた仔を全部売る前提では計算できない。今のうちから少し余裕を見ておいた方がいいんじゃないかって」
そこまで話すと、母はふっと笑った。
「比呂、なかなかいいところに気がついたわね」
「……そんなに珍しい?」
「珍しいというより、嬉しいのよ。昨日は三人でずいぶん楽しそうに血統の話をしていたから、今日は私の出番がないかと思っていたもの」
「いや、母さんの出番がないわけないだろ。むしろ、一番相談したかったんだけど」
「あら、そうなの?」
母は笑いながら、帳簿を俺の方へ向けた。
「じゃあ、ここを見てちょうだい。昨年の収入と、今年ここまでの支出。これから必要になるものも含めて、少し余裕を持たせてあるの」
俺は数字を追いながら、思わず頷いた。
飼葉代、敷料代、獣医師への支払い、放牧地や厩舎の修繕費。
生産馬の販売収入に、休養馬の預託料。
そして、突然の病気や怪我に備えた予備費。
どれも、日頃から見慣れた項目だった。
それでも、年間の数字として並べられると、また違った重みがある。
「……さすが母さん。俺が考えてたより、ずっと細かいところまで計算してる」
「何年この仕事をしていると思ってるの?」
母は、少し得意げに笑った。
「牧場のお金はね、増えたから全部使っていいというものじゃないの。調子のいい年もあれば、思うように馬が売れない年だってある。だから、いいときほど次のことを考えておかないと」
その言葉には、長年牧場を支えてきた人間の実感があった。
父は馬を見る。
母は牧場全体を見る。
どちらが欠けても、朝霧牧場は今の姿ではいられなかっただろう。
「それで、比呂。あなたが一番挑戦したいのは、やっぱりコハルなのね?」
「うん。ブレイヴエストローマンは、どうしても一度試してみたい。ただ、ほかの配合を犠牲にしてまで無理に付けたいわけじゃないよ」
「分かってるわ。そこまで考えているなら、私は反対しない。ただし、費用が予想以上にかかるようなら、もう一度三人で相談しましょう」
「ありがとう。そうしてもらえると助かる」
母は頷くと、もう一枚の紙を引き寄せた。
「それと、これは種付けとは別の話なんだけど……」
そこには、今年中に修繕しておきたい設備が書き出されていた。
古くなった牧柵の一部。
厩舎の扉。
雨が続いたときに水のたまりやすい通路。
どれも今すぐ大きな問題になるわけではないが、後回しにし続けていいものでもない。
「……なるほどな。種付けにお金をかけすぎると、こっちに響くわけか」
「そういうこと。馬が安全に暮らせる場所を整えるのが先。新しい仔馬を迎えるなら、なおさらね」
そのとき、隣で黙って新聞を読んでいた父が口を開いた。
「そこは心配せんでいい。柵の方は、今週中に手を入れるつもりだ」
「源さん、先週も同じことを言ってませんでした?」
「……今週はやる」
俺は思わず吹き出しそうになった。
父が一瞬、こちらを睨む。
「お前も手伝うんだぞ、比呂」
「えっ、俺も?」
「当たり前だろう。お前も新しい仔馬を増やしたいんだからな」
「……はいはい、分かってるよ」
母がくすくすと笑った。
「二人でやれば、早く終わるわね」
こうして、俺の繁殖計画には、新しい仕事が一つ加わった。
血統表の上には載っていない仕事。
だが、そこで生まれる馬たちにとっては、何より大切な仕事だった。
◇
午前中は、父と一緒に放牧地の柵を確認して回った。
日差しは春らしく柔らかかったが、風はまだ冷たい。
牧柵に沿って歩きながら、傷んだ箇所を調べ、交換が必要な場所に印をつけていく。
「……ここも直した方がいいな」
俺が一本の柱を指差すと、父が近づいてきた。
「どれ。……ああ、確かに緩んどるな。馬が体を擦りつけたりするから、こういうところは傷むのが早い」
「新しい板だけじゃなくて、柱も替える?」
「そうだな。どうせやるなら、まとめて直してしまおう。中途半端に直して、あとで馬が怪我をしたら目も当てられん」
父は印をつけると、放牧地の奥へ目を向けた。
そこで草を食んでいるのは、アサギリコハルだった。
父タケシバオー、母アサギリサクラ。
朝霧牧場で生まれた牝馬で、今年は当時の数え方で八歳になる。
現役時代は目立った競走成績を残せなかったが、馬格があり、丈夫さが取り柄の馬だった。
「……親父、コハルのことなんだけどさ」
「ん?」
「昨日の配合、まだ考えてたんだ。ブレイヴエストローマンのことを調べれば調べるほど、やっぱり面白そうに思えてきて」
父は柵に腕を乗せ、コハルを眺めた。
「お前、よほどあの馬が気に入ったんだな」
「まあね。もちろん、日本でどんな産駒を出すかは、これからだけど。血統も競走成績も魅力があるし、コハルの長所を生かせる可能性があると思うんだ」
「俺も悪い組み合わせだとは思っとらんよ。ただ、昨日も話したが、コハルの丈夫さだけ見て決めるわけにはいかん。あいつは少し動きが重いところがあるし、産駒に何が伝わるかは分からんからな」
「……そこは俺も気になってる」
父は、しばらくコハルの歩く姿を見つめていた。
「コハルはな、現役の頃から、もう少し軽さがあればと思っとったんだ。走る気がないわけじゃない。むしろ真面目な馬なんだが、どうにも器用に動けんところがあった」
「うん。追われても、すぐに反応できないことが多かったよね」
「ああ。ただ、そういう馬だから駄目だとも思わん。競走馬として足りなかったものが、繁殖で補えることだってある」
父は、こちらを見て笑った。
「それを考えるのが、俺たちの仕事だろう?」
俺も笑った。
「……そうだね」
目の前のコハルは、そんな俺たちの会話など知る由もなく、のんびりと草を食んでいた。
その姿を眺めながら、俺は改めて思う。
前世では、血統表に書かれた名前を追い、種牡馬の成績を調べるだけで、何時間でも楽しめた。
だが、今は違う。
その血統表の向こう側に、実際の馬がいる。
毎日顔を合わせ、世話をし、時には体調を崩し、時にはこちらの心配などお構いなしに元気よく走り回る。
そんな馬たちの姿を知っているからこそ、配合を考える時間が、以前にも増して楽しかった。
「……ところで比呂」
「何?」
「さっきからコハルばかり見とるが、柵の修理は終わっとらんぞ」
「……分かってるって」
「なら、その板を運んでこい。話の続きは手を動かしながらでもできる」
父は、そう言って笑った。
俺は苦笑しながら、資材を取りに戻った。
まったく。
この人は、馬の話をするときだけは、本当に楽しそうなのだから。
◇
夕方になり、仕事が一段落した頃。
父が、繁殖牝馬のいる厩舎から顔を出した。
「比呂。ちょっと来てくれ」
普段よりも、少し低い声だった。
「どうした?」
「カゼノミヤコだ。そろそろ近いかもしれん」
その言葉に、俺は手を止めた。
カゼノミヤコ。
昭和四十六年生まれ、父マロット、母ミヤコグモ。
朝霧牧場で繁殖生活を送っている牝馬の一頭で、昨年はダイコーターを種付けしていた。
今年は出産予定日も近づき、すでに分娩の準備を整えている。
「……予定日まで、もう少しあったよね?」
「ああ。ただ、あくまで予定日だ。さっきから様子を見とるが、落ち着かんらしい。乳房の張りも気になるし、今夜は注意しておいた方がよさそうだ」
父の後について馬房へ向かうと、カゼノミヤコは普段より頻繁に体の向きを変えていた。
時折、自分の腹の方を振り返るような仕草も見せる。
いつものように、のんびりと飼葉を食べている姿とは違っていた。
「……確かに、少し落ち着かないね」
「そうだろう。まあ、こういう様子を見せたからといって、すぐに生まれるとは限らん。だが、準備しておいて困ることはないからな」
父は馬房の状態を確認しながら、必要なものを揃え始めた。
俺もそれを手伝う。
新しい敷料を十分に敷き、道具を確認し、何かあったときにすぐ獣医師へ連絡できるようにしておく。
出産は、何度経験しても緊張する。
朝霧牧場では毎年何頭もの仔馬が生まれる。
だからといって、すべてが同じように進むわけではない。
母馬の状態も違えば、仔馬の大きさも違う。
無事に生まれてくるまでは、誰にも分からないことが多いのだ。
「……親父」
「なんだ?」
「ミヤコ、去年より少し落ち着かない気がするんだけど」
父は、カゼノミヤコを見つめた。
「そうだな。だが、今のところ明らかにおかしいというほどでもない。しばらく静かに見守ろう」
「……うん」
俺は頷いた。
そのとき、背後から母の声がした。
「ミヤコ、どう?」
「まだ始まっとらん。ただ、今夜あたりは気をつけた方がよさそうだ」
「そう。じゃあ、夕飯は交代で食べられるようにしておくわね。獣医さんにも、念のため連絡しておきましょうか」
「ああ、頼む」
母はそれだけ聞くと、すぐに家へ戻っていった。
慌てる様子はない。
だが、必要なことは一つも忘れていない。
この人もまた、長年馬と暮らしてきた人間なのだと感じた。
夕方の厩舎には、いつもと変わらない音が響いていた。
飼葉を噛む音。
蹄が敷料を踏む音。
時折聞こえる、馬の小さな鼻息。
その中で、カゼノミヤコだけが、何かを待つように落ち着かない様子を見せていた。
俺は馬房の外に腰を下ろし、その姿を眺めながら、今日の朝のことを思い返していた。
九頭の繁殖牝馬。
九通りの配合。
そして、来年生まれるかもしれない仔馬たち。
朝から、その未来についてずっと考えていた。
けれど。
今、目の前にいるカゼノミヤコのお腹の中には、去年の春、父が考えた配合から生まれようとしている命がある。
俺たちがこれからやろうとしていることを、父はもう何十年も続けてきたのだ。
その積み重ねが、今の朝霧牧場を作っている。
「……親父」
「ん?」
「何でもない。ちょっと考え事」
父は、こちらへ目を向けると小さく笑った。
「どうせ、また血統のことだろう」
「……ばれた?」
「お前が馬房の前で妙に静かなときは、大体そうだ」
俺は思わず笑ってしまった。
確かに、否定できない。
「でも、今はそれよりもミヤコだな」
「ああ。まずはこの親子を無事に迎えてやらんとな」
父はそう言って、静かに馬房へ目を戻した。
◇
日付が変わる少し前。
カゼノミヤコの出産が始まった。
夜の厩舎に、馬の荒い息遣いが響く。
分娩の兆候がはっきりしてから、父は時間を確認し、母馬の様子を注意深く見守っていた。
獣医師にも連絡がつくようにしてある。
俺は必要な道具を手元に揃え、父の指示を待っていた。
カゼノミヤコは横たわり、懸命に腹へ力を込めている。
俺は何度も出産に立ち会ってきた。
それでも、この時間だけは慣れない。
母馬が苦しそうに体を動かすたび、胸の奥が締めつけられる。
何事もなく終わってほしい。
元気な仔馬が生まれてきてほしい。
ただ、それだけを願っていた。
「……よし」
父が、小さく呟いた。
破水の後、見えてきたのは仔馬の前脚だった。
父は慎重に様子を確かめ、鼻先が続いて見えるのを確認した。
「今のところ、向きはよさそうだ。比呂、時間を見ておいてくれ。進み方がおかしければ、すぐ連絡するぞ」
「分かった」
俺は時計へ目を向けた。
針の動きが、普段よりもずっと遅く感じられた。
実際には、それほど長い時間ではなかったのだと思う。
けれど、待っている間の一分一分は、ひどく長く感じられた。
やがて。
カゼノミヤコが、最後の力を振り絞るように体を動かした。
そして、敷料の上に、小さな命が姿を現した。
「……生まれた」
思わず、声が漏れた。
濡れた毛。
細く折りたたまれた脚。
まだ、自分の体をどう動かせばいいのかも分からないような、小さな姿。
だが、確かに生きている。
父はすぐに仔馬の呼吸と様子を確かめ、鼻先を覆っていた膜を取り除いた。
仔馬が小さく体を動かす。
その姿を見て、俺はようやく息を吐いた。
「……牝馬だな」
父が呟いた。
「女の子か」
「ああ。よく頑張ったな、ミヤコ」
カゼノミヤコは、まだ疲れた様子で横たわっていた。
それでも、しばらくすると首を伸ばし、生まれたばかりの仔馬へ鼻先を近づけた。
匂いを確かめるように鼻を動かし、濡れた体を舐め始める。
俺は、その姿から目を離せなかった。
何度見ても、不思議な光景だった。
血統表に書かれていた名前。
去年の春に交わされた、父と母の配合の話。
それから、長い時間をかけて母馬のお腹の中で育ってきた命。
そのすべてが、今、目の前の一頭につながっている。
「……すごいな」
気づけば、そんな言葉が漏れていた。
父がこちらを見た。
「何がだ?」
「いや……何度見ても、仔馬が生まれる瞬間って、すごいと思ってさ」
父は、少しだけ笑った。
「そうだな。俺も、そこは何年やっても変わらんよ」
それから、すぐに表情を引き締めた。
「ただ、まだ終わりじゃない。母馬の方も、後産がきちんと出るまで見ておかんとな。仔の方も、ちゃんと立って初乳を飲めるか確認するぞ」
「うん」
俺も気持ちを切り替えた。
新しい命が生まれた。
だが、無事に出産を終えることと、その後の健康を守ることは、別の仕事だ。
生まれたばかりの仔馬は、まだ頼りない。
立ち上がることも、乳を飲むことも、これから覚えていかなければならない。
仔馬は、しばらく横になっていた。
やがて、長い脚を動かし始める。
最初はうまく体を支えられず、何度も敷料の上へ崩れ落ちた。
それでも、諦めない。
前脚を突っ張り、後脚を踏ん張り、ゆっくりと体を持ち上げようとする。
「……頑張れ」
俺は、小さく呟いた。
仔馬が、もう一度立ち上がろうとする。
細い脚が震える。
体が傾く。
それでも、何とか踏みとどまった。
「……立った」
思わず、笑みがこぼれた。
父も、満足そうに頷いた。
「よし。あとは、ちゃんと乳を飲んでくれるかだな」
仔馬は、まだ不安定な足取りで母親の腹の下へ鼻先を伸ばした。
何度も位置を間違えながら、懸命に乳を探している。
俺は、思わず手を貸したくなった。
だが、父は無理に近づこうとはしなかった。
必要があれば手を貸す。
しかし、母馬と仔馬が自分たちでできることまで、すべて人間が取り上げる必要はない。
そんな父の姿勢を、俺は昔から見てきた。
やがて、仔馬が無事に乳を飲み始めた。
父は、その様子を注意深く確認すると、ようやく表情を緩めた。
「……まずは一安心だな」
「うん」
俺は、大きく息を吐いた。
時計を見ると、いつの間にかずいぶん時間が過ぎていた。
それでも、不思議と眠気は感じなかった。
目の前の小さな命が、自分の脚で立ち、母親の乳を飲んでいる。
たったそれだけのことが、嬉しくて仕方なかった。
◇
その後、母馬の胎盤がきちんと排出されたことも確認し、仔馬の様子を記録した。
もちろん、これで完全に安心できるわけではない。
これからも体調や哺乳、排泄の状態を注意深く見ていく必要がある。
それでも、無事に新しい命を迎えられたことに、家族全員がほっとしていた。
「二人とも、お疲れさま」
母が、温かいお茶を持ってきてくれた。
「ありがとう、母さん」
俺は湯呑みを受け取り、ゆっくりと口をつけた。
温かいお茶が、冷えた体に染み渡る。
母は馬房の中を覗き込み、優しく微笑んだ。
「可愛い牝馬ね。ミヤコも、よく頑張ったわ」
「うん。本当に、よかった」
俺がそう答えると、背後から聞き慣れた声がした。
「……ほう。無事に生まれたようじゃのう」
振り返ると、祖父の清蔵が立っていた。
「じいちゃん、起きてたの?」
「何を言う。仔馬が生まれると聞いて、寝ておれるか」
「いや、もう夜中だぞ」
「わしが若い頃はな、夜中に馬が生まれるのなんぞ珍しくもなかったわい」
祖父はそう言って笑いながら、ゆっくりと馬房を覗き込んだ。
小さな牝馬は、母親のそばに寄り添っている。
その姿を見た祖父の表情が、ふっと柔らかくなった。
「……ええ仔じゃな」
「まだ生まれたばっかりなのに、もう分かるの?」
俺が尋ねると、祖父は楽しそうに笑った。
「分からんよ。分からんが、そう思って何が悪い」
「……それもそうだな」
「生まれたばかりの仔馬を見て、よくないと思う方が難しいわい」
その言葉に、父まで笑い始めた。
「親父は昔からそうだからな。どんな仔が生まれても、まずはええ仔じゃと言う」
「当たり前じゃろう。これから育てるんじゃ。最初くらい、褒めてやらんでどうする」
祖父は、もう一度仔馬を見つめた。
「それに、源。お前だって同じようなもんじゃろう」
「……まあな」
父は、照れくさそうに笑った。
俺はそのやり取りを眺めながら、今日一日のことを思い返していた。
朝は、九頭分の繁殖計画について母と話し合っていた。
どの種牡馬を選ぶのか。
どの配合に挑戦するのか。
どこに予算を使い、何を優先するのか。
それは、どれも大切なことだ。
だが。
今、目の前にいる仔馬は、去年の春に父が考えた配合から生まれた馬だった。
ダイコーターとカゼノミヤコ。
二頭の血を受け継いで、この世界に生まれてきた一頭の牝馬。
この馬が将来どうなるのか、俺は知らない。
前世の競馬史に、この馬の名前は存在しなかった。
そもそも、まだ名前すら決まっていない。
中央競馬で勝ち上がるのか。
地方競馬で走ることになるのか。
競走馬として結果を残せず、別の道を歩むのか。
あるいは、繁殖牝馬として、次の世代へ血をつないでくれるのか。
何一つ、分からない。
けれど。
そんなことは、今はどうでもよかった。
「……よろしくな」
俺は、馬房の中の仔馬へ小さく声をかけた。
仔馬は当然、返事などしない。
ただ、母親のそばで、まだ頼りない脚を踏ん張っていた。
その姿を眺めていると、不思議と胸が温かくなる。
未来の競馬史を知ることと、未来の競走馬を育てること。
その二つは、まったく違う。
前世の俺は、競馬の結果を知ることが楽しかった。
どの馬が勝ち、どの血統が繁栄し、どの種牡馬が成功するのか。
そうしたことを調べ、覚え、語るのが好きだった。
だが、今は違う。
まだ名前もない一頭の仔馬を前にして、俺はその未来を知りたいと思っている。
勝つから育てるのではない。
強い馬になるから、大切にするのでもない。
この馬がどんな未来を歩むのか。
それを、できるだけ近くで見守っていたいのだ。
「……比呂」
父が、静かに声をかけてきた。
「そろそろ戻るぞ。明日も仕事があるんだからな」
「……うん」
俺は、もう一度だけ仔馬を見つめた。
そして、父の後を追って厩舎を出た。
外には、春の冷たい空気が広がっていた。
空を見上げると、雲の切れ間から星が覗いている。
明日になれば、またいつもの仕事が始まる。
飼葉を配り、馬房を掃除し、放牧地を見回る。
そして、来年生まれてくるかもしれない仔馬たちのために、配合を考える。
そんな毎日の繰り返しだ。
けれど。
その一日一日が、新しい命の未来につながっている。
「……親父」
「なんだ?」
「俺、やっぱりこの仕事が好きだわ」
父は、一瞬だけこちらを見た。
そして、何も言わずに笑った。
その笑顔を見て、俺も笑った。
昭和五十五年、春。
朝霧牧場に、また一頭の新しい命が加わった。
繁殖台帳には、まだ名前のない牝馬として記録される。
けれど俺にとっては、すでに特別な一頭だった。
この仔がどんな馬になるのか。
その答えを知るのは、まだずっと先のことだ。
だからこそ、楽しみで仕方がなかった。