その血は、まだ走っている ~転生した俺が紡ぐ、もう一つの競馬史~ 作:ねるすと
カゼノミヤコが無事に出産を終えてから、数日が過ぎた。
生まれた牝馬は、今のところ順調に成長している。
朝の仕事が一段落した頃、俺は母仔の様子を見るため、小さな放牧地へ足を運んだ。
そこでは、まだ生まれて間もない仔馬が、母親の周りを元気に動き回っていた。
長い脚を持て余しているのか、時々妙なところで足をもつれさせている。
それでも、すぐに体勢を立て直し、何事もなかったかのように歩き始める。
「……元気だなぁ、お前」
思わず笑みがこぼれた。
カゼノミヤコは、そんな娘の様子を気にしているのかいないのか、のんびりと草を食んでいる。
もっとも、仔馬が少し離れると、すぐに顔を上げて様子を確かめていた。
母親というのは、案外そういうものなのかもしれない。
俺は柵の外から、その姿をしばらく眺めていた。
父ダイコーター、母カゼノミヤコ。
去年の春、父が考えた配合から生まれた一頭の牝馬。
今はまだ、どんな競走馬になるのか想像もつかない。
それでも、こうして無事に成長している姿を見るだけで嬉しくなる。
以前の俺なら、血統表を眺めて「この配合なら距離はどのくらい持つだろう」とか、「どんな種牡馬を付ければ次の世代で面白い馬が出るだろう」などと、先のことばかり考えていたかもしれない。
もちろん、今でもそういうことを考えるのは大好きだ。
だが、目の前で元気に走り回る仔馬を見ていると、まずはこの馬自身がどんなふうに育つのか、それを見守りたいと思う。
未来を知っている俺にも、分からないことはいくらでもある。
そして、その分からないことが、今はたまらなく楽しかった。
「……比呂!」
背後から、父の声がした。
振り返ると、源がこちらへ歩いてきていた。
「ここにいたのか。探したぞ」
「ごめん。ミヤコの仔が気になってさ。ちょっと様子を見てたんだ」
「そうか。……どうだ、元気にしとるか?」
「うん。さっきから母親の周りを歩き回ってるよ。まだ脚の使い方が下手だけど、見てて飽きないな」
父は柵の向こうへ目を向け、小さく笑った。
「生まれて数日であれだけ動けるんだから、馬というのは大したもんだ。人間の赤ん坊とはずいぶん違う」
「確かにね。楓なんか、四歳になっても時々転んでるし」
「それはお前も同じだっただろうが。小さい頃なんか、何もないところで転んで泣いとったぞ」
「……それ、今言う必要ある?」
父は大きな声で笑った。
まったく。
こういうところだけは、いつまで経っても敵わない。
「それより比呂。今日は午後から少し時間を空けておけ」
「午後? 何かあったっけ」
「例の種牡馬だ。先方と話がついたから、見学に行こうと思っとる」
その言葉に、俺は思わず顔を上げた。
「……えっ、もしかしてサンシャインボーイ?」
「ああ。見せてもらえることになった。お前も一緒に行くだろう?」
「行くに決まってるだろ!」
思わず声が大きくなった。
すると、放牧地の仔馬がこちらへ顔を向けた。
俺は慌てて声を落とした。
「……ごめん」
父は呆れたように笑った。
「まったく。馬のことになると、お前も子供みたいになるな」
「親父にだけは言われたくないよ」
「それもそうだな」
父は、悪びれもせずに笑った。
こうして、俺たちはサンシャインボーイを見に行くことになった。
◇
車に乗り込むと、父は慣れた手つきでエンジンをかけた。
俺は助手席に座り、持ってきた資料を膝の上へ広げる。
サンシャインボーイ。
一九七四年生まれ、栃栗毛の牡馬。
父テスコボーイ、母ソーダストリーム。
朝霧牧場にとって馴染み深いアローエクスプレスの半弟である。
種牡馬入りしたのは昨年のこと。
当然ながら、日本での産駒が競馬場を走るのは、まだ先の話だ。
だが、俺は知っている。
この馬が、後にステートジャガーやスターサンシャインといった活躍馬を送り出すことを。
特にステートジャガーは、地方競馬で実績を積み上げた後、中央競馬の強豪たちを相手に重賞を勝つことになる。
そうした未来を知っているからこそ、俺はこの種牡馬に注目していた。
もっとも、だからといって、アサギリカスミとの配合から強い馬が生まれるとは限らない。
サンシャインボーイが優れた産駒を出すことと、カスミとの相性がいいことは、別の問題なのだ。
「……比呂」
「ん?」
「さっきから、ずいぶん熱心に見とるな」
運転席から、父が声をかけてきた。
「まあね。せっかく見に行けるんだから、もう一度ちゃんと確認しておこうと思って」
「血統表なんぞ、昨日も一昨日も見とっただろうが」
「それはそうだけどさ。何回見ても面白いんだよ」
父は、声を立てて笑った。
「ははは! それは分かる。俺も昔は、気になる種牡馬を見つけると、血統表を何度も眺めたもんだ」
「昔は?」
「今でも見とるよ。ただ、若い頃ほど一つの血統表に夢中にならんようにはなったな。実際に何頭も仔馬を見てきたから、血統表だけで思い描いていたようにはいかんことも、少しは分かるようになった」
父は、窓の外へ一瞬目を向けた。
「とはいえ、面白い血統を見つけると、今でも胸が躍るがな」
「……やっぱり親父も同じだな」
「ああ。そういうところは、親子なんだろうな」
俺は、思わず笑った。
そうなのだ。
俺は前世から競馬が好きだった。
血統を調べ、配合を考え、まだ存在しない馬の可能性を想像する。
そんな時間が何より好きだった。
だが、今の父も同じなのだ。
いや、父は俺よりもずっと長い時間、実際の馬を見ながら同じことを考えてきた。
そして、その知識と経験で、朝霧牧場を支えてきたのである。
「……そういや親父」
「なんだ?」
「サンシャインボーイのことって、いつ頃から気になってたの?」
父は少し考えてから答えた。
「そうだな。現役の頃から、名前は気にしとったよ。何しろアローエクスプレスの半弟だ。気にならんわけがない」
「やっぱりそうか」
「ただ、俺が注目しとったのは、兄弟だからという理由だけじゃない。父親がテスコボーイだろう。あの組み合わせから、どんな馬が出てくるのか興味があったんだ」
父の声には、隠しきれない楽しさがあった。
「アローエクスプレスの仔を何頭か育てて、あの血統の良さは実感しとる。だからこそ、違う父親を持つ半弟が、どんな特徴を伝えるのか見てみたいんだよ」
「……なるほど」
俺は頷いた。
父は未来を知らない。
だが、自分の経験から、ちゃんと次の可能性を探している。
そのことが、何だか嬉しかった。
「それで、カスミとの配合を考えたわけか」
「ああ。あいつは今まで何頭も仔を産んでくれたが、比較的気性の素直な馬が多い。それに、丈夫な仔を出してくれるのもありがたい」
父は、少しだけ笑った。
「昭和五十年に生まれたアローエクスプレスの牡馬も、なかなかいい馬だったろう。中央で三つ勝ってくれたし、馬主さんにも喜んでもらえた。ああいう馬を、また出したいんだ」
「……うん」
「もちろん、今度はもっと上を目指してみたいという気持ちもあるがな」
その言葉を聞いて、俺は父の横顔を見た。
源は、決して大きな夢を持っていないわけではない。
重賞を勝つ馬を作りたい。
いつかはダービーを勝つ馬を育てたい。
そんな気持ちは、父の中にも確かにある。
ただ、それ以上に大切なものがあることを知っているだけなのだ。
だからこそ、俺はこの人と一緒に馬を作りたい。
改めて、そう思った。
◇
見学先へ到着すると、俺たちは先方の担当者に案内された。
厩舎の周囲には、春の柔らかな陽射しが降り注いでいる。
まだ冷たい風の中に、乾いた草と馬の匂いが混じっていた。
しばらくして、サンシャインボーイが姿を現した。
栃栗毛の馬体。
落ち着いた足取り。
それでいて、周囲の様子を確かめるように、時折鋭い視線を向けている。
「……おお」
思わず、声が漏れた。
写真や血統表で知っている馬。
だが、実際に目の前へ現れると、受ける印象はまるで違った。
呼吸に合わせて動く腹。
地面を踏みしめる蹄。
手綱を持つ人間の動きに応じて、わずかに変わる表情。
当たり前のことだが、そこにいるのは一頭の生きた馬だった。
父は挨拶を済ませると、少し距離を取って馬体を眺め始めた。
横から。
前から。
そして、歩かせてもらいながら、脚の運びを確かめていく。
俺も隣で、その様子を見つめていた。
「……比呂。実際に見て、どう思う?」
父が、静かに尋ねてきた。
俺は、もう一度サンシャインボーイへ目を向けた。
「正直、思ってたより印象がいいよ。写真で見ていたときは、もう少し軽い感じの馬を想像してたんだけど、実際に見るとしっかりしてる。それに、歩いているときの動きも悪くないと思う」
父は小さく頷いた。
「俺も、そこは気に入った。ただ、写真だけで馬体を判断するのは難しいからな。こうして動いているところを見ると、また違うものが見えてくる」
「……そうだね」
「それに、カスミと合わせて考えたときにどうか、というのが大事だ。種牡馬自身が立派でも、うちの牝馬と合うとは限らんからな」
父は、サンシャインボーイの脚元へ目を向けた。
「カスミは丈夫な仔を出してくれるが、体の大きさには少しばらつきがある。今回は、ある程度しっかりした馬格の仔が出てくれれば嬉しいんだが……」
父は、そこで言葉を切った。
「……まあ、こればかりは生まれてみなければ分からんな」
その言葉に、俺も頷いた。
未来を知っている俺でさえ、そこは同じだった。
前世の競馬史には、サンシャインボーイの産駒について多くの記録が残っている。
だが、アサギリカスミとの仔馬については、当然ながら何の記録もない。
これから生まれる馬が、どんな馬体を持つのか。
どんな気性で、どんな走りを見せるのか。
それは、誰にも分からないのだ。
「朝霧さんは、こちらの馬を種付けにお考えなんですか?」
担当者が、父へ声をかけた。
「ええ。うちにチャイナロックの娘がいましてね。アローエクスプレスとの配合で、中央三勝を挙げる馬を出してくれた牝馬なんです」
「それは楽しみですね。こちらも、アローエクスプレスとは母親が同じですから」
「ええ。そこにも興味があるんですよ。ただ、父親はテスコボーイですし、兄とはまた違うところもあるでしょう。実際に見て、どういう馬なのか確かめたかったんです」
父は、嬉しそうに話を続けた。
カスミの馬体。
これまでに生まれた産駒の特徴。
気性や成長の傾向。
そして、今回の配合で期待していること。
その一つ一つを、父は実に楽しそうに語っていた。
俺は、その横顔を眺めながら、改めて思った。
父は、本当に優秀な生産者だ。
血統の知識が豊富だとか、馬を見る目があるとか、そういうことだけではない。
自分が育ててきた馬について、何を聞かれても答えられる。
長所も、欠点も。
そして、その馬がどんなふうに育ってきたのかまで。
それは、毎日馬と向き合ってきた人間にしかできないことだった。
「……比呂」
父が、こちらへ目を向けた。
「お前も、何か聞いておきたいことがあるなら聞いておけ。せっかく見せてもらっているんだからな」
「……うん」
俺は少し考えてから、担当者にいくつか質問した。
普段の気性。
種付けのときの様子。
そして、昨年からの供用状況。
担当者は、分かる範囲で丁寧に説明してくれた。
俺はその話を聞きながら、何度も頷いた。
こういう情報は、血統表の中には書かれていない。
だが、実際に繁殖を考える上では、大切なことばかりだった。
父が、隣で満足そうに笑っていた。
◇
見学を終えた後。
帰りの車の中で、俺たちはしばらくサンシャインボーイの話を続けていた。
「……で、親父。どう思った?」
「俺は気に入ったぞ。カスミとの配合なら、十分に考える価値があると思う」
「……よかった!」
思わず笑みがこぼれた。
父は、そんな俺を見て笑った。
「ずいぶん嬉しそうだな」
「そりゃそうだよ。俺が面白いと思った馬を、親父も気に入ってくれたんだから」
「ははは! 俺も、あの馬には前から興味があったんだがな」
「……それは分かってるって」
父は、楽しそうに笑った。
それから、少し真面目な顔になった。
「ただ、比呂。カスミとの配合を考えるなら、血統の重なりもよく見ておかんとな」
「ハイペリオンのこと?」
「ああ。四代目同士で重なるだろう。別に、それだけで悪い配合だとは思わんが、何を期待してその血を重ねるのか、ちゃんと考えておきたい」
俺は頷いた。
サンシャインボーイの父系には、テスコボーイの母方を通じてハイペリオンの血が入っている。
一方、カスミの父チャイナロックにも、ロックフェラを通じて同じ血が流れていた。
そのため、二頭を組み合わせれば、ハイペリオンの四代目同士のクロスが成立する。
もちろん、それだけで強い馬が生まれるわけではない。
血統表の中に同じ馬の名前があるからといって、その特徴が必ず産駒へ伝わるとは限らないのだ。
「……そこは俺も考えてたよ。近すぎるわけじゃないし、カスミの今までの産駒を見ても、試してみる価値はあると思う」
「そうだな。俺も同じ考えだ」
父は、静かに頷いた。
「……それにしても」
「ん?」
「お前とこうして種牡馬を見て回るようになるとは、昔は思わんかったな」
その言葉に、俺は思わず父の横顔を見た。
「……そう?」
「ああ。小さい頃から馬は好きだったが、お前は特に血統の話になると目の色が変わったからな。よく、まだ読めもしないような難しい名前を指差して、これは何という馬だと聞いてきたもんだ」
父は、懐かしそうに笑った。
「俺も、その頃は面白がって教えとった。まさか、こうして一緒に配合を考えるようになるとはな」
「……俺は、昔からそのつもりだったけどね」
「そうか?」
「うん。親父とじいちゃんが、いつも血統の話をしてたからさ。俺も、いつか二人と同じように話せるようになりたいと思ってたんだ」
口にしてから、少し照れくさくなった。
だが、それは本当のことだった。
前世の知識を持っていた俺にとって、血統は特別なものだった。
しかし、この世界で父と祖父が楽しそうに血統を語る姿を見ているうちに、その知識は単なる記憶ではなくなっていった。
自分も、この人たちと一緒に馬を作りたい。
そう思うようになったのだ。
父は、しばらく黙って運転していた。
やがて、小さく笑った。
「……そうか。それなら、これからも付き合ってもらわんとな」
「もちろん」
俺も笑った。
そのとき、不意に思った。
もし、俺がこの家に生まれていなかったら。
前世の知識を持ったまま、まったく別の家庭に生まれていたら。
果たして、今ほど馬産に夢中になっていただろうか。
競馬は、きっと好きだったと思う。
だが、馬を育てることの楽しさを、ここまで知ることはなかったかもしれない。
そう考えると、少し不思議な気持ちになった。
◇
それから数日後。
今度は、ブレイヴエストローマンを見学することになった。
こちらも、父が事前に連絡を取り、先方の都合に合わせて見せてもらえることになったのである。
ブレイヴエストローマン。
一九七二年生まれ、鹿毛のアメリカ産馬。
父ネヴァーベンド、母ローマンソング。
現役時代は短距離からマイルを中心に活躍し、アメリカで種牡馬として供用された後、今年から日本で新たな生活を始める馬だ。
その父ネヴァーベンドは、ミルリーフやリヴァーマンを送り出した名種牡馬として知られている。
血統だけを見ても、十分に魅力があった。
だが、俺がこの馬に注目している最大の理由は、もちろん前世の記憶にある。
後に、マックスビューティ、トウカイローマン、オグリローマン。
そして、数々の活躍馬を送り出すことになる種牡馬。
そんな馬が、今まさに日本での供用を始めようとしている。
興味を持たないはずがなかった。
ただし。
今回の見学は、サンシャインボーイのときとは少し意味が違っていた。
サンシャインボーイは、父も以前から興味を持っていた馬だった。
だからこそ、父の経験や考えを中心に配合を検討できた。
だが、ブレイヴエストローマンは、俺の方から強く希望した馬だ。
父は血統表を見て面白いと言ってくれた。
それでも、実際にコハルへ付けるかどうかは、まだ決まっていない。
俺自身が、その理由をきちんと説明できなければならなかった。
車の中で、俺は何度も自分の考えを整理していた。
コハルの長所。
足りない部分。
そして、ブレイヴエストローマンに期待すること。
未来の種牡馬成績を知っているからといって、その知識だけで父を納得させられるわけではない。
いや、そもそも父を納得させることが目的ではなかった。
俺自身が、目の前の馬を見て納得したいのだ。
そう思っていた。
◇
見学先で案内を受け、俺たちはブレイヴエストローマンと対面した。
鹿毛の馬体。
落ち着いた立ち姿。
それでいて、歩き始めると、体の動きにはどこか軽快さが感じられた。
俺は、しばらく言葉を忘れて見つめていた。
「……どうだ、比呂」
父が、隣で声をかけてきた。
「うん。いい馬だと思う」
そう答えると、父は少しだけ笑った。
「それは分かった。だが、お前がコハルに付けたいと思った理由は、実際に見てどうなった?」
俺は、もう一度ブレイヴエストローマンへ目を向けた。
その問いに、簡単には答えられなかった。
正直に言えば、俺はこの馬が将来成功することを知っている。
だからこそ、どうしても期待してしまう。
だが、それだけでは駄目なのだ。
目の前にいる馬を、きちんと見なければならない。
「……コハルとは、やっぱり違うタイプだと思う」
俺は、ゆっくりと言葉を選んだ。
「コハルは丈夫だし、馬格もある。でも、動きに少し重さがある。だから、相手にはもう少し軽さが欲しいと思ってたんだ」
父は黙って聞いていた。
「それに、コハルは気性が落ち着いてるだろ? そういう良さは残したい。もちろん、どんな気性の仔が生まれるかは分からないけど……今日見た限りでは、俺が考えていた配合の方向性は、そんなに間違ってない気がする」
父は、しばらくブレイヴエストローマンを眺めていた。
やがて、静かに頷いた。
「……なるほどな。お前が何を期待しているのかは、よく分かった」
「……うん」
「俺も、悪い組み合わせではないと思う。ただ、コハルの良さを消さんようにしたいな」
「良さを消さない?」
「ああ。あいつは丈夫で、真面目な馬だ。競走馬としては少し不器用だったが、だからといって、欠点ばかりを直そうとするのも違うと思うんだ」
父は、こちらへ目を向けた。
「俺たちは、コハルの悪いところをなくしたいわけじゃない。あいつの持っている良さを、次の世代へ残したいんだろう?」
その言葉に、俺は思わず息を呑んだ。
そうだ。
そのとおりだった。
俺は、コハルに足りなかったスピードや軽さを、どう補うかばかり考えていた。
だが、配合は欠点を直すためだけのものではない。
長所を生かし、次の世代へつないでいくこと。
それも、大切な目的なのだ。
「……親父」
「ん?」
「俺、やっぱり親父と一緒に考えてよかったよ」
父は、少し驚いたようにこちらを見た。
「何を急に言い出すんだ」
「いや、だってさ。俺一人だったら、きっとコハルに足りないものをどう補うか、そればっかり考えてたと思うんだ。でも、親父は違う。コハルのいいところを、ちゃんと見てる」
父は、少し照れくさそうに笑った。
「そんな大したことじゃない。俺は、あいつが生まれたときから見とるからな」
「……だからこそ、すごいんだと思う」
俺がそう言うと、父は少し困ったような顔をした。
「お前、今日は妙に素直だな」
「たまにはいいだろ」
「いや、悪いことじゃないが……何だか調子が狂うな」
俺は思わず笑った。
父も、つられて笑った。
その笑い声が、春の空気の中へ広がっていった。
◇
帰り道。
車内では、今日見たブレイヴエストローマンの話が続いていた。
父は、実際の馬体を見た上での印象を、丁寧に話してくれた。
俺も、自分が感じたことを一つ一つ伝えた。
不思議なことに、サンシャインボーイを見たときよりも、話が弾んでいた。
おそらく、今回は俺が強く希望した配合だったからだろう。
父も、俺が何を考えているのか知りたかったのかもしれない。
「……比呂」
しばらくして、父が口を開いた。
「コハルのブレイヴエストローマン、俺は候補として進めていいと思っとる」
その言葉に、俺は思わず顔を上げた。
「……本当?」
「ああ。今日見て、俺も面白いと思った。ただし、先方との条件が合えば、という話だ。まだ種付け料の確認も必要だし、実際に申し込めるかどうかも分からんからな」
「……うん。分かってる」
俺は頷いた。
それでも、嬉しかった。
父が、自分の目で見て、納得してくれた。
それが何より嬉しかったのだ。
「それに、環とも相談せんとな。今年は九頭の種付けを考えているんだから、コハル一頭に無理をするわけにはいかん」
「もちろん。そこは俺も分かってるよ」
父は、小さく笑った。
「まあ、環のことだから、俺たちが思ってるより、ずっと先のことまで考えとるだろうがな」
「……確かに」
俺も笑った。
母は、俺たちが血統表を眺めている間にも、牧場全体のことを考えている。
生産馬の販売。
休養馬の預託。
飼葉代や設備の維持費。
そして、何年も先まで続く牧場の経営。
そのすべてを考えた上で、俺たちの夢を支えてくれているのだ。
「……親父」
「ん?」
「俺さ、いつか、もっといろんな種牡馬を見て回りたいんだ」
父は、楽しそうに笑った。
「いいじゃないか。俺も付き合ってやるぞ」
「本当?」
「ああ。ただし、お前が一人前になるまでは、俺の方がいろいろ教えることになるだろうがな」
「……それは、どうかな」
「ほう? 言うようになったじゃないか」
俺は、にやりと笑った。
「血統の知識だけなら、俺も結構自信あるんだよ」
「ははは! 知っとるよ。お前が小さい頃から、どれだけ血統表を眺めてきたか、俺が一番よく知っとる」
父は、楽しそうに笑った。
「だからこそ、お前が面白いと思った馬は、これからも俺に教えろ。俺だって、知らん馬を見つけるのは楽しいからな」
「……もちろん!」
俺は、力強く頷いた。
その瞬間、妙な感覚に包まれた。
前世の俺は、血統について語り合える相手がいるだけで嬉しかった。
自分の好きな種牡馬の話をして、相手が興味を持ってくれる。
それだけで、何時間でも話していられた。
だが、今は違う。
俺が面白いと思った配合を、実際に試すことができる。
そして、その結果を、父と一緒に見届けることができる。
それが、どれほど贅沢なことなのか。
改めて、そう思った。
◇
牧場へ戻った日の夜。
俺と父は、母を交えて種付け費用の確認をしていた。
母は、俺たちが持ち帰った資料に目を通しながら、時折頷いている。
「……なるほどね。サンシャインボーイと、ブレイヴエストローマン。二頭とも、実際に見てきたのね」
「うん。どちらも、いい馬だったよ」
「そう。それはよかったわね」
母は、少しだけ笑った。
「でも、比呂。あなたが特に気に入ったのは、ブレイヴエストローマンの方なのね?」
「……分かる?」
「分かるわよ。帰ってきてから、ずっとその馬の話ばかりしているもの」
俺は思わず苦笑した。
父が、隣で笑っている。
「環、こいつはな、今日ずいぶん熱心に馬を見とったぞ。俺が何を聞いても、真剣に考えて答えとった」
「あら、そうなの?」
「ああ。まあ、まだまだ足りんところはあるが、面白い考え方をしとる」
父は、少し誇らしげだった。
その様子を見て、俺は何だか照れくさくなった。
「……親父、そんなに褒めなくてもいいって」
「何を言う。褒めてやっとるんだから、素直に喜べ」
「……はいはい」
母が、くすくすと笑った。
「二人とも、本当に楽しそうね」
それから、帳簿へ目を落とした。
「費用については、もう少し確認が必要ね。特にブレイヴエストローマンは、今年から日本で供用される馬でしょう? 条件も含めて、先方にきちんと確認しておかないと」
「うん。そこは親父と相談してる」
「分かったわ。じゃあ、条件が合えば、今年の挑戦枠として考えてもいいと思う」
その言葉に、俺は思わず顔を上げた。
「……本当?」
「ええ。ただし、無理はしないこと。ほかの牝馬たちの種付けにも必要なお金は残しておかないといけないし、来年のことも考えておきたいから」
「もちろん!」
俺は、力強く頷いた。
母は微笑んだ。
「そこまで楽しみにしているなら、私もどんな仔が生まれるのか見てみたいわ」
その言葉が、何より嬉しかった。
父が馬を見て、納得してくれた。
母が牧場の経営を考えた上で、挑戦を認めてくれた。
そして俺は、自分の知識を生かして、新しい配合に挑戦しようとしている。
まだ、何も生まれていない。
それでも。
俺たちは、確かに一歩前へ進んだのだ。
◇
それから、さらに数日が過ぎた。
アサギリカスミの状態を確認し、獣医師とも相談した上で、いよいよサンシャインボーイとの種付けに向かう日がやってきた。
馬運車の準備を整え、必要な書類を確認する。
父は、出発前にもう一度カスミの様子を確かめていた。
「……よし。行くぞ」
「うん」
俺は頷き、馬運車へ乗り込んだ。
カスミは、落ち着いた様子だった。
長年繁殖牝馬として過ごしてきたこともあり、輸送にもある程度慣れている。
それでも、馬にとって輸送は負担になる。
俺たちは、いつも以上に慎重に準備を進めた。
そして、種付け先へ向かった。
現地では、担当者たちが手際よく準備を進めていた。
牝馬の状態を確認し、安全に配慮しながら交配を行う。
俺は少し離れた場所から、その様子を見守っていた。
サンシャインボーイ。
アサギリカスミ。
二頭の名前は、これまで何度も血統表の上で並べてきた。
しかし、今は違う。
紙の上の配合が、実際の出来事になろうとしているのだ。
俺は、静かに息を吐いた。
父も、隣で黙って見守っていた。
やがて、交配が終わった。
「……終わったな」
父が呟いた。
「うん」
俺は、小さく頷いた。
まだ、受胎したわけではない。
これから確認しなければならないことはいくらでもある。
それでも。
今日、俺たちは確かに一歩を踏み出した。
未来を知る俺が考え、父が実際の馬を見て納得した配合。
その最初の一つが、現実になったのである。
「……親父」
「なんだ?」
「これで、来年が楽しみになったな」
父は、少しだけ笑った。
「ああ。だが、まだ気が早いぞ」
「……分かってる」
「ちゃんと受胎して、無事に生まれてきてからだ」
「……うん」
俺は頷いた。
それから、もう一度カスミの方へ目を向けた。
今はまだ、何も分からない。
牡馬が生まれるのか。
牝馬が生まれるのか。
どんな姿で、どんな性格を持った馬になるのか。
そして、将来どんな走りを見せるのか。
その答えは、誰にも分からない。
俺の前世の記憶にも、存在しない未来だ。
けれど。
「……楽しみだな」
思わず、声が漏れた。
父が、隣で小さく笑った。
「……そうだな」
春の陽射しが、静かに降り注いでいた。
昭和五十五年。
朝霧牧場の新しい繁殖計画が、ようやく動き始めた。
まだ、ほんの小さな一歩にすぎない。
だが、その一歩の先に、どんな未来が待っているのか。
それを確かめることができるのは、これからこの馬たちと生きていく俺たちだけだった。