その血は、まだ走っている ~転生した俺が紡ぐ、もう一つの競馬史~ 作:ねるすと
1980年8月30日、土曜日。
函館競馬場には、朝から冷たい雨が降り続いていた。
夏の終わりとは思えないほど空気は肌寒く、低く垂れ込めた雲が競馬場全体を覆っている。午前中のレースからすでに芝は水を含み、ゴール前を駆け抜けた馬たちは腹の下まで泥に染まっていた。
「こりゃあ、ひどい馬場になったな」
スタンドの軒先からコースを眺めていた父さんが、渋い顔で呟いた。
「不良馬場だもんね。午前中のレースも相当時計がかかってたよ」
「トビがどこまでこなせるかだな。あいつ、調教じゃ多少馬場が悪くても平気だったらしいが、今日みたいな状態はまた別だろう」
父さんはそう言って競馬新聞を折り畳むと、もう一度コースへ目を向けた。俺も隣に立って雨の降る芝を眺めたが、正直なところ、馬場状態以上に気になっていることがあった。
今日の函館第六競走、四歳以上四百万円以下条件、芝千八百メートル。
その出走馬の中に、朝霧牧場で生まれた一頭の牡馬がいる。
ミナトカゼ。
父アローエクスプレス、母アサギリカスミ。一九七七年生まれの鹿毛の牡馬で、現在は馬主の浜田宗一郎さんの所有馬だ。
そして、俺たち家族にとっては、正式な馬名よりもずっと馴染み深い呼び名がある。
「……トビも、もうこんなところまで来たんだな」
俺が何気なく呟くと、父さんがこちらを見た。
「なんだ、急に。もう四歳だぞ。いつまでも仔馬のままじゃねえんだから」
「それはわかってるけどさ。あのトビが競馬場で走るんだと思うと、なんか不思議で」
「ははっ、そりゃ俺も同じだ。あいつは本当に手のかかる仔だったからなあ」
父さんの表情が緩んだのを見て、俺も自然と笑ってしまった。
トビという幼名は、祖父ちゃんがつけたものだった。
生まれた頃から、とにかく落ち着きのない仔馬だったのだ。ほかの仔馬たちが母馬のそばで草を食んでいるときでも、あいつだけは放牧地を駆け回っていた。小さな水たまりを見つければ大げさに跳び越え、風に揺れる草に驚けば、今度は自分の跳ねた動きに驚いて走り出す。
一度など、柵の向こうで仕事をしていた俺の姿を見つけるなり、嬉しそうに駆け寄ってきたかと思うと、目の前で勢いよく跳ね上がったことがあった。
『なんだこいつは。馬というより、跳ねる兎じゃねえか』
それを見た祖父ちゃんが大笑いして、『トビ』と呼び始めたのである。
もっとも、本人はそんな名前をつけられたことなど知る由もなく、それからも毎日のように何かをやらかしていた。父さんが手入れをしようとすれば体を捻って逃げ、俺が近づけば鼻先を押しつけて遊びをねだる。
今にして思えば、随分と気の強い仔馬だった。
「……あの頃は、父さんもよく怒ってたよね」
「当たり前だ。こっちは仕事があるってのに、あいつときたら人の顔を見るたび遊んでもらえると思ってやがった」
「でも、父さんも結構構ってたじゃないか」
「そりゃ、放っておいたら何するかわからんからだ」
父さんはもっともらしく答えたが、俺は知っている。夕方の仕事が終わったあと、誰もいない放牧地でトビに話しかけていたのが誰だったのかを。
もっとも、それを口にすれば、また余計なことを言うなと怒られるに決まっている。
「さて、そろそろパドックへ行くか。浜田さんも来てるはずだ」
「うん」
俺たちは雨を避けながら、スタンドの通路へ向かった。
今年の春から、俺は牧場の繁殖計画に本格的に関わるようになった。
カスミにはサンシャインボーイ、ヒカリにはダンシングキャップ、コハルにはブレイヴェストローマン。限られた資金の中で、どの牝馬にどの種牡馬を配合するか、父さんや祖父ちゃんと何度も話し合って決めた。
だが、種付け相手を決めたからといって、すべてが思いどおりになるわけではない。
カスミの受胎が確認できたときは家族みんなで喜んだ一方、ヒカリは最初の種付けでは受胎せず、再び種付けの機会を待つことになった。馬の状態を見ながらの判断だったから仕方がないが、種付けや移動にかかる費用を考えれば、牧場にとって決して小さな問題ではない。
それでも父さんは焦らなかった。
『繁殖は、こっちが急いだところでどうにもならんことがある。無理をして牝馬を駄目にするほうがよっぽど損だ』
その言葉を聞いたとき、俺は初めて、父さんが一頭の繁殖牝馬をどれほど大切に考えているのかを、少し理解できた気がした。
前世では、血統表を眺めるだけでいくらでも夢を描けた。だが現実の牧場では、種付けから受胎、出産、育成まで、ひとつとして飛ばせる過程はない。
そうして育てた馬が、やがて競馬場に立つ。
その先に何があるのかを、今日は自分の目で確かめたかった。
「……比呂」
考え込んでいると、父さんに声をかけられた。
「ん?」
「お前、また難しい顔してるな。せっかく函館まで来たんだから、少しは楽しそうにしろ」
「楽しみだよ。だから色々考えちゃうんだって」
「まったく、お前は最近そればっかりだな」
父さんは呆れたように笑ったあと、少し声を落とした。
「まあ、今年は随分頑張ってると思うぞ。親父も、お前と血統の話をするのが楽しみみたいだしな」
「……そうなの?」
「そうだよ。もっとも、あの人も素直にそう言うような性格じゃねえけどな。ただ、あんまり一人で抱え込むなよ。牧場はお前一人でやるもんじゃねえんだから」
思いがけない言葉だった。
俺は少し驚いて父さんを見たが、父さんは何事もなかったように前を向いて歩いている。
「……うん。わかってるよ」
俺がそう答えると、父さんは短く頷いた。
その横顔を見ながら、俺は改めて思った。
未来の競馬史を知っているからといって、俺一人ですべてができるわけではない。馬の状態を見極めることも、繁殖牝馬の小さな変化に気づくことも、父さんや祖父ちゃんにはまだまだかなわない。
だからこそ、この二人と一緒に新しい牧場の未来をつくっていきたい。
そう思っていると、パドックの入口付近で見覚えのある男性が手を振っているのが見えた。
「おお、朝霧さん! よく来てくださいました!」
「浜田さん、ご無沙汰しています!」
父さんが笑顔で応じる。
浜田宗一郎さん。トビの馬主で、朝霧牧場とも以前から付き合いのある人だ。
「いやあ、今日はこの雨でしょう。せっかく来ていただいたのに、何とも残念な天気になってしまいましたね」
「いやいや、馬が走ることには変わりませんから。それに、あいつの晴れ姿を見るのを楽しみにしてたんですよ」
「それは嬉しいなあ。比呂君も久しぶりだね」
「ご無沙汰しています。トビ……いえ、ミナトカゼがお世話になってます」
幼名を口にしてしまった俺に、浜田さんは目を細めた。
「トビでいいよ。牧場ではそう呼んでいたんでしょう? 以前聞いたときから、いい名前だと思っていたんだ」
「いい名前というか、落ち着きがなさすぎてついた名前なんですけどね」
「はははっ、なるほど。実は今でも、厩舎ではなかなか気の強いところがあるらしくてね」
「やっぱり変わってないんですね」
「でも、その気の強さが走るほうに向いてくれれば面白い。今日は馬場が心配だけど、状態そのものはいいと聞いているよ」
浜田さんの言葉に、父さんの表情が少し引き締まった。
「そうですか。無理せず、いい競馬をしてくれるといいんですが」
「ええ。もちろん勝ってくれれば最高ですけど、まずは無事に走ってきてほしいですね」
俺は二人の会話を聞きながら、少しだけ安心していた。
トビはすでに朝霧牧場の所有馬ではない。それでも、浜田さんの言葉からは、一頭の馬として大切にしてくれていることが伝わってくる。
馬を売るということは、単に代金を受け取るだけではない。
自分たちが手をかけて育てた馬の、その先の人生を誰かに託すということなのだ。
* * *
パドックに出走馬たちが姿を現した。
雨に濡れた周回路を一頭ずつ歩いてくる馬たちの中に、見覚えのある鹿毛を見つけた瞬間、俺は思わず身を乗り出した。
「父さん、あれ!」
「ああ。トビだな」
三年前まで牧場で跳ね回っていた仔馬が、すっかり立派な競走馬になっていた。
首差しは逞しくなり、肩や胸にはしっかりと筋肉がついている。後肢の動きにも力強さがあり、歩く姿からは、もうあの頃の幼さは感じられなかった。
「……大きくなったなあ」
「ああ、本当にな」
父さんも目を細めていた。
だが、その直後。
トビが突然首を上げ、前を歩く馬との間隔を詰めようとした。引いている厩務員が手綱を調整すると、今度は不満そうに首を振っている。
俺は思わず吹き出した。
「……ははっ。全然変わってないじゃないか」
「まったくだ。見た目だけは立派になりやがって」
父さんも笑っている。
そのやり取りを聞いていた浜田さんが、楽しそうに言った。
「なるほど。牧場にいた頃も、あんな感じだったんですね」
「ええ。人を見ると遊びたがるし、ほかの馬より前に出たがるしで、本当に手がかかりましたよ」
「でも、競走馬としては、その前向きさがいいところでもあるんでしょうね」
「そうですね。ただ、前へ行きたがる気持ちを、うまく我慢できればいいんですが」
父さんの言葉どおり、トビにはまだ落ち着きのなさが残っている。
けれど、調教の中で覚えたこともあるのだろう。時折首を上げながらも、厩務員に促されると再び落ち着いた歩調へ戻っていった。
俺はその姿を見ながら、ふと、トビが一歳だった頃のことを思い出していた。
初めて人を背に乗せるための準備を始めた頃、あいつは鞍を見ただけで露骨に嫌そうな顔をしていた。背中に何かを載せられるのが気に入らず、父さんを随分と困らせたものだ。
それが今、騎手を背に乗せて競馬場を走ろうとしている。
「……なあ、父さん」
「なんだ?」
「トビ、ちゃんと競走馬になったんだな」
父さんは俺を見て、それからもう一度トビへ目を向けた。
「……ああ。そうだな」
その声が少しだけ柔らかく聞こえた。
俺たちはしばらく黙ってトビを眺めていた。
やがて騎手が跨がり、各馬が本馬場へ向かい始める。トビは一度だけ首を上げたが、すぐに促されるままコースへと進んでいった。
「よし、俺たちも行くか」
父さんの声に頷きながら、俺は最後にもう一度だけトビの背中を見た。
「……頑張れよ、トビ」
その声が届いたかどうかはわからない。
けれど、今日はどうしても、あいつの走りを最後まで見届けたかった。
* * *
午後二時三十五分。
函館競馬場、第六競走。
芝千八百メートル、不良馬場。
出走馬たちがゲートへ収まっていく。
俺たちはスタンドの前方に立ち、雨の降るコースを見つめていた。隣には父さんと浜田さんがいる。馬場はひどい状態だったが、トビの姿を目で追っているうちに、そんなことは気にならなくなっていた。
「……緊張するな」
俺が呟くと、父さんが横目でこちらを見た。
「お前が走るわけじゃねえんだぞ」
「わかってるよ。でも、なんか落ち着かなくてさ」
「まあ、気持ちはわかる」
父さんは小さく笑った。
「俺だって同じだからな」
その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。
『各馬、ゲートに収まりました。間もなくスタートです』
場内のざわめきが、少しずつ静まっていく。
そして。
『スタートしました!』
一斉にゲートが開き、馬たちが飛び出した。
トビはまずまずのスタートを決め、無理に先頭を争うことなく好位へ収まった。騎手が軽く手綱を抑えると、少し首を上げながらも、そのまま前の馬を追っている。
『ミナトカゼも好位につけています。前を見る位置で一コーナーへ向かいます!』
「よし、いいぞ!」
父さんが声を上げた。
俺も頷いた。
「思ったより落ち着いてるね」
「ああ。ちゃんと我慢できてる。厩舎で随分と教えてもらったんだろうな」
馬群が向こう正面へ入ると、馬場の悪さがいっそう目立ち始めた。先行する馬たちが蹴り上げた泥が、後ろの馬の顔や胸元へ容赦なく飛んでくる。
トビも何度か頭を振った。
そのたびに、騎手が手綱を通して落ち着かせている。
「……嫌がってるな」
俺が呟くと、父さんは少し身を乗り出した。
「そりゃ嫌だろうな。けど、今のところ走る気は失ってない。大丈夫だ」
確かに、トビは泥を被りながらも前の馬を追い続けていた。
俺は拳を握りしめる。
馬場を見たときは不安だったが、今はあいつの走りを信じるしかない。
やがて三コーナーが近づき、各馬が少しずつ動き始めた。
『ホースメンボーイが内から進出! 先行各馬の間隔が詰まってきました!』
「……来たな」
父さんの声に、俺も視線を向けた。
ホースメンボーイ。
今日の有力馬の一頭だ。
そして、前世の記録では、このレースを勝った馬でもある。
俺は、その事実を知っていた。
けれど、今のレースには、俺の知る記録にはなかったトビがいる。
その存在が結果にどんな影響を及ぼすのか、俺にはわからない。
何より、今はただ、トビに前を向いて走ってほしかった。
『さあ、三コーナーから四コーナーへ! ホースメンボーイが前へ上がっていきます! ミナトカゼも外から進出開始!』
「……よし、行け!」
父さんが叫んだ。
トビが動いた。
騎手の合図に応えるように、それまで抑えていた力を解き放ち、外から大きく脚を伸ばしていく。
一頭、また一頭。
泥だらけの鹿毛の馬が、懸命に前との差を詰めていった。
「トビ! いいぞ、そのまま!」
気がつけば、俺も声を上げていた。
四コーナー。
内からホースメンボーイ。
外からミナトカゼ。
二頭が並びかけたところで、最後の直線へ向いた。
『直線に入りました! ホースメンボーイが先頭! 外からミナトカゼが迫る!』
「行け、トビ!」
父さんの声が響く。
トビは懸命に脚を伸ばし、一瞬、ホースメンボーイの鼻先を捉えたように見えた。
俺は思わず身を乗り出した。
「よし! 行けるぞ!」
だが、内のホースメンボーイも簡単には譲らない。
追われると再び力強く脚を伸ばし、トビに並び返してきた。
『ホースメンボーイも粘る! ミナトカゼも譲らない! 二頭の激しい競り合いになりました!』
雨に濡れた芝を蹴り上げ、二頭が並んで走っている。
トビの顔も、胸も、脚も、泥だらけだった。
それでも前へ出ようとする。
前の馬を追い越そうとする。
まるで、子供の頃に放牧地を駆け回っていたときのように。
「……トビ!」
俺は叫んだ。
「負けるな! あと少しだ!」
父さんも、隣で何度も名前を呼んでいた。
浜田さんも声を張り上げている。
もう、未来の記録なんて考える余裕はなかった。
ただ、勝ってほしかった。
あいつが、こんなにも懸命に走っているから。
『ホースメンボーイ! ミナトカゼ! 並んで残りわずか!』
ゴール板が迫る。
ほんの数完歩。
トビがもう一度、頭を前へ突き出した。
「行けええっ! トビぃぃっ!!」
『二頭並んでゴールイン!』
ゴールの瞬間、俺にはどちらが前だったのかわからなかった。
馬たちは勢いを落としながら向こうへ走り去っていく。
「……どっちだ?」
父さんが呟いた。
「わからない。ほとんど同時だったように見えたけど……」
浜田さんも黙って掲示板を見つめている。
俺はまだ、胸の鼓動が収まらなかった。
最後の最後まで競り合った。
あと少しだった。
勝っていてくれと願う気持ちと、あそこまで頑張ったのだから十分じゃないかという気持ちが、胸の中で入り混じっていた。
やがて、掲示板に着順が示された。
一着、ホースメンボーイ。
二着、ミナトカゼ。
「……二着か」
父さんが小さく息を吐いた。
俺はしばらく掲示板を見つめたまま、何も言えなかった。
悔しかった。
あれだけ頑張ったのに、届かなかった。
ほんのわずかな差だったからこそ、なおさら悔しい。
「……くそっ」
思わず呟くと、父さんがこちらを見た。
「悔しいか?」
「……うん。あそこまで行ったら、勝ってほしかった」
「そうだな。俺もだ」
父さんは頷いたあと、もう一度コースへ目を向けた。
「でも、よく走ったよ。あいつ」
その声は、思っていたよりずっと穏やかだった。
「……父さん?」
「最後まで諦めなかっただろ。あの馬場で、勝ち馬にもう一度前へ出られても、ずっと食い下がってた。大したもんだ」
俺は父さんの横顔を見た。
悔しくないはずがない。
それでも、父さんの目には、悔しさとは別の感情が浮かんでいた。
「……ああいう走りを見せてもらえると、育てた甲斐があったって思うな」
その言葉を聞いた瞬間、俺の胸の中で何かがほどけた気がした。
そうだ。
負けたからといって、今日のトビの走りが消えるわけじゃない。
あいつは立派に走った。
俺たちが育てた馬が、競馬場で懸命に走ってくれたのだ。
「……そうだね」
俺は小さく頷いた。
「本当に、よく頑張ったよ」
隣で浜田さんが、深く息を吐いた。
「いやあ、惜しかった。でも、いい競馬でしたね」
「浜田さん……」
「勝てなかったのは残念ですけど、私はますます楽しみになりましたよ。あの子なら、まだまだやってくれると思います」
浜田さんは笑っていた。
その表情を見て、俺もようやく自然に笑うことができた。
「……はい。次はきっと」
父さんが俺の肩を叩いた。
「そうだな。次は勝とうぜ、トビ」
* * *
レースを終えたトビは、厩舎で念入りに手入れを受けていた。
浜田さんの厚意で、俺たちも少し離れたところから様子を見せてもらうことになった。
全身を覆っていた泥は少しずつ洗い落とされ、呼吸も落ち着いてきている。担当の厩務員さんが脚元を確認しながら話しかけると、トビはおとなしく世話を受けていた。
「……あいつ、随分落ち着いたな」
父さんが呟いた。
「パドックではあんなに騒いでたのにね」
「走って気が済んだんだろ」
「ははっ、そうかもしれない」
しばらくして、厩務員さんに声をかけてもらい、俺たちは馬房の前へ近づいた。
「……トビ」
名前を呼ぶと、トビがゆっくり顔を上げた。
泥を落としてもらったその顔は、子供の頃よりずっと大人びていた。けれど、こちらを見つめる目には、昔と変わらないものがあった。
「お疲れさま。よく頑張ったな」
俺がそっと声をかけると、トビは鼻先を伸ばしてきた。
作業着の匂いを確かめるように鼻を動かし、それから小さく息を吐く。
「……覚えてるのかな、俺のこと」
「さてな」
父さんが笑った。
「でも、嫌いな相手なら、そんなふうには寄ってこないんじゃねえか?」
「……そっか」
俺はトビの首筋をそっと撫でた。
温かかった。
競馬場の芝を全力で駆け抜けてきた馬の、確かな体温だった。
「父さん、俺さ……」
「ん?」
「もっと、いい馬をつくりたい」
父さんは少し意外そうな顔をした。
「なんだ、急に」
「いや、今日のトビを見て思ったんだ。俺、今まで血統のことばっかり考えてたけど、それだけじゃないんだなって」
「……ほう」
「どんな種牡馬をつければ強い仔が生まれるか、それを考えるのは楽しいよ。でも、その仔が育って、誰かの手に渡って、こうして競馬場を走るようになるまでには、俺たちだけじゃなくて、たくさんの人が関わってるんだよね」
父さんは黙って聞いていた。
俺はトビを見つめたまま続けた。
「今日、あいつが走ってるのを見て、それがすごく嬉しかった。負けて悔しいのに、それ以上に嬉しかったんだ」
しばらく沈黙があった。
やがて父さんが、ゆっくりと口を開いた。
「……そうか」
それから、少し照れくさそうに笑った。
「なら、今日ここまで来た甲斐があったな」
「うん」
「いい馬をつくるってのは、強い血を重ねるだけじゃねえ。生まれてくる仔を無事に育てて、次の人にきちんと託す。そこまでが、俺たちの仕事だ」
俺は頷いた。
「……うん。忘れないよ」
「それに、トビはまだまだこれからだ。二着で終わったわけじゃねえんだから、次を楽しみにしてりゃいい」
父さんがそう言うと、トビが小さく鼻を鳴らした。
まるで、自分もそのつもりだと言っているようだった。
「……ははっ。そうだな、トビ」
俺はもう一度、首筋を撫でた。
「次は勝とうな」
その日の夕方、宿へ戻る前に牧場へ電話をかけた。
受話器の向こうから母さんの声が聞こえる。
『はい、朝霧です』
「母さん、俺。トビのレース、終わったよ」
『あら、比呂。どうだった?』
「二着だった。最後まで勝ち馬と競り合って、あと少しだったんだ」
『そう……惜しかったのね。でも、無事に走り終えたならよかったわ』
「うん。厩舎でも元気そうだったよ」
『それなら安心ね。帰ってきたら、ゆっくり話を聞かせてちょうだい』
母さんと話していると、向こうから賑やかな声が聞こえてきた。
『お兄ちゃん!? トビは!?』
楓だった。
『もう、楓。そんなに大きな声を出さなくても聞こえるわよ』
電話の向こうで母さんが苦笑している。
やがて受話器が代わり、楓の元気な声が響いた。
『お兄ちゃーん! トビ、かった!?』
「惜しかったよ。二着だった」
『にちゃく?』
「うん。一番じゃなかったけど、すごく頑張ったんだ」
少し間があいた。
『……トビ、まけちゃったの?』
その声が、ほんの少し寂しそうになった。
俺は何と答えようか迷った。
四歳の楓にとっては、勝ったか負けたかが一番わかりやすいのだろう。けれど、今日のトビの走りを、ただ負けたという言葉だけで終わらせたくはなかった。
「そうだな。今日は勝てなかった。でもね、楓。トビ、最後まで一生懸命走ったんだよ。お兄ちゃんも父さんも、いっぱい応援したんだ」
『……ほんと?』
「本当。すごくかっこよかったぞ」
また少し、沈黙があった。
そして。
『……じゃあ、トビ、えらかった?』
俺は思わず笑った。
「ああ。すごく偉かったよ」
『そっかあ』
楓の声が明るくなる。
『じゃあ、こんどあったら、いっぱいよしよしする!』
「そうだな。いっぱい褒めてあげような」
『うん!』
その無邪気な返事に、胸の奥が温かくなった。
楓にとってトビは、ただ速い馬ではない。
牧場で一緒に過ごした、大好きな馬なのだ。
勝っても、負けても、その気持ちは変わらない。
やがて祖父ちゃんも電話に出て、トビの走りについてひとしきり尋ねてきた。泥だらけになりながら最後まで競り合ったことを話すと、祖父ちゃんは嬉しそうに笑った。
『そうか、そうか。あのトビがなあ……』
「うん。父さんも、随分立派になったって言ってたよ」
『そりゃそうだろう。わしらが育てた馬だぞ』
「……じいちゃん、ちょっと得意げじゃない?」
『当たり前だ。孫みたいなもんだからな』
その言葉に、俺も笑った。
『それで、比呂。お前はどうだった?』
「俺?」
『ああ。今日のレースを見て、何か思ったか?』
俺は少し考えてから答えた。
「……もっと馬を育てたいって思ったよ。勝つ馬だけじゃなくて、今日のトビみたいに、見てる人が応援したくなる馬を」
電話の向こうで、祖父ちゃんが小さく笑った。
『そうか。いいことを覚えたな』
それから少し間を置いて、静かに続けた。
『その気持ちは、大事にしておけよ』
「……うん」
『勝った馬にも、負けた馬にも、それぞれの一生がある。わしらは、その始まりを預かってるんだからな』
俺は、ゆっくりと頷いた。
「……忘れないよ」
電話を切ったあと、しばらく受話器を置いたまま、雨の弱まった窓の外を見つめていた。
今日、トビは勝てなかった。
けれど、あいつの走りは俺たち家族を夢中にさせ、馬主の浜田さんを喜ばせ、そして幼い楓にまで届いていた。
競馬場で走る一頭の馬には、こんなにも多くの人の思いが重なっている。
前世の俺は、名馬の名前を覚えるのが好きだった。重賞勝ち馬の血統を調べ、どの馬がどんな記録を残したのかを知ることに夢中になっていた。
もちろん、それは今でも変わらない。
ただ、今日からは少し違う。
これから俺たちが育てる馬のすべてが、名馬になるわけではないだろう。それでも、一頭一頭に物語があり、どこかでその馬を応援してくれる人がいる。
そういうことも、忘れずにいたい。
翌朝には、また三石へ帰る。
牧場では、カスミが新しい命を宿している。来年の春には、トビの弟か妹になる仔が生まれる予定だ。
その仔は、どんな馬になるのだろう。
トビのように落ち着きのない馬か、それとも母親に似た、おっとりした馬か。
今は、まだ何もわからない。
けれど、いつかその仔も競馬場へ送り出す日が来るかもしれない。
そのときには、またこうして家族で応援したい。
俺は最後にもう一度、函館競馬場の方角へ目を向けた。
「……次は勝とうな、トビ」
その声が届くはずはない。
けれど、あいつならきっと、次も懸命に走ってくれるだろう。
俺たちが大好きだった、あの放牧地を跳ね回っていた頃のままに。