その血は、まだ走っている ~転生した俺が紡ぐ、もう一つの競馬史~   作:ねるすと

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第五話 知っている結末、知らない鼓動

1980年11月23日、日曜日。

 

三石の朝は、もうすっかり冬の匂いがしていた。

 

放牧地を吹き抜ける風は冷たく、厩舎の屋根には薄く霜が降りている。馬たちの吐く息が白くなるたびに、今年もまた長い冬が始まるのだと実感させられた。

 

「……よし。今日も問題なし、と」

 

俺は繁殖牝馬たちの様子を確認し、手元の帳面を閉じた。

 

春に種付けを行った牝馬たちは、それぞれ冬を迎える準備に入っている。もちろん、すべてが計画どおりというわけではない。受胎の確認が取れた馬もいれば、今年はうまくいかなかった馬もいる。

 

ただ、カスミをはじめ、来春の出産を予定している牝馬たちが順調に過ごしてくれているのはありがたかった。

 

一頭の仔馬を生み出すために、どれだけの時間と手間がかかるのか。

 

今年は、それを嫌というほど思い知らされた一年だった。

 

「おーい、比呂!」

 

厩舎の入口から父さんの声がした。

 

「そろそろ上がれ。あとは俺が見とくから」

 

「まだ昼前だぞ?」

 

「今日は天皇賞だろうが。お前、朝からずっとそわそわしてるじゃねえか」

 

俺は思わず笑った。

 

「……そんなにわかりやすかった?」

 

「わかりやすいどころの話じゃねえ。新聞を見ては時計を気にして、馬の世話をしてても何か考え込んでるしな。どうせ今日の出走馬のことでも考えてたんだろ?」

 

「まあ、間違いじゃないけど」

 

「だったら、さっさと戻れ。親父も居間で新聞を広げて待ってるぞ」

 

父さんはそう言うと、俺が持っていた帳面を受け取った。

 

「……ありがと、父さん」

 

「ああ。ただし、今度の馬券は無茶するなよ」

 

「……え?」

 

「この前、静内まで買いに行ったって聞いたぞ。何を買ったのか知らんが、ほどほどにしとけよ」

 

俺は一瞬、返事に詰まった。

 

それを見た父さんが、嫌な予感がしたのか眉をひそめる。

 

「……おい。まさか、もう無茶してるんじゃないだろうな?」

 

「いや、まあ……」

 

「比呂?」

 

「それは、あとで話そうかなって」

 

「お前なあ……!」

 

父さんが頭を抱えたので、俺は笑いながら厩舎をあとにした。

 

作業着のポケットには、今日の天皇賞の馬券が入っている。

 

東京競馬場、第九競走。

 

第82回天皇賞。

 

単勝、三番。

 

プリテイキャスト。

 

千円券が五枚と、記念に取っておくつもりの百円券が一枚。

 

合計五千百円。

 

決して安い金額ではない。牧場の仕事をしていれば、五千円でどれだけのものが買えるのかも、嫌でもわかる。

 

それでも、今日だけはどうしても買っておきたかった。

 

なぜなら俺は、今日の勝ち馬を知っているからだ。

 

いや、正確には、知っているはずだった。

 

その結末が、本当にこの世界でも同じになるのかどうか。

 

それを確かめるのが、少し怖くもあり、どうしようもなく楽しみでもあった。

 

 

     * * *

 

 

朝霧家の居間では、祖父ちゃんが競馬新聞を広げていた。

 

「おう、比呂。やっと来たか」

 

「うん。父さんが交代してくれた」

 

「そうか。なら座れ。今日はなかなか面白い顔ぶれだぞ」

 

俺が腰を下ろすと、母さんが温かいお茶を運んできてくれた。

 

「はい、比呂。外は寒かったでしょう」

 

「ありがとう、母さん」

 

「お昼はもう少ししたらできるからね。競馬もいいけど、ちゃんと食べなさいよ」

 

「わかってるよ」

 

そう答えると、台所から母さんの笑い声が聞こえた。

 

四歳の楓は祖父ちゃんの隣に座り、競馬新聞を覗き込んでいる。何が書いてあるのかはよくわかっていないはずだが、馬の名前が並んでいることだけは理解しているらしい。

 

「じいちゃん、これ、トビ?」

 

楓が新聞を指差した。

 

「いや、今日はトビじゃないぞ」

 

「えー。トビ、走らないの?」

 

「今日は東京で大きなレースがあるんだ。トビはまた別の日だな」

 

祖父ちゃんがそう答えると、楓は少し残念そうな顔をした。

 

八月の函館でトビが走って以来、楓は競馬の話をするたびにあいつの名前を出すようになった。

 

あの日、俺たちが電話で伝えた話を、今でも覚えているのだろう。

 

「楓、今日もかっこいい馬が走るぞ」

 

俺が声をかけると、楓は顔を上げた。

 

「トビより?」

 

「どうだろうなあ。すごく強い馬もいるけど、トビとはまた違うんだ」

 

「ふーん……」

 

納得したのかどうかはわからないが、楓は再び祖父ちゃんの新聞へ顔を近づけた。

 

その様子を見ていると、父さんが居間へ入ってきた。

 

「お、もう始めてるのか」

 

「待ってたぞ、源。お前はどれだ?」

 

祖父ちゃんが新聞を差し出す。

 

父さんは腰を下ろし、しばらく出走表を眺めてから一頭の名前を指差した。

 

「俺はホウヨウボーイだな。ここでも十分やれると思う」

 

「ほう。カツラノハイセイコじゃないのか?」

 

「もちろん強い馬だが、俺はこっちを買いたい。前に出る馬も多いし、長い距離でどうなるかはわからんからな」

 

俺は小さく頷いた。

 

ホウヨウボーイ。

 

この年の有馬記念を勝つ馬だ。

 

父さんの見立ては悪くない。

 

いや、未来の結果を知っている俺が偉そうに言うのも変な話だが、少なくとも父さんは、ただ人気だけで馬を選んでいるわけではない。

 

「じいちゃんは?」

 

俺が尋ねると、祖父ちゃんは迷わず答えた。

 

「メジロファントムだ」

 

「へえ。どうして?」

 

「長い距離なら、ああいうしぶとい馬が怖い。今日みたいな重馬場じゃ、なおさらだな」

 

俺は思わず祖父ちゃんを見た。

 

メジロファントム。

 

今日の二着馬だ。

 

父さんも祖父ちゃんも、やはり長年競馬を見ているだけのことはある。

 

未来の結果を知らずに、ここまで考えられるのだから。

 

「それで、比呂」

 

父さんが俺を見る。

 

「お前はどれなんだ?」

 

「俺?」

 

「そうだよ。朝からずっと楽しみにしてたんだろ?」

 

俺は新聞へ目を落とし、三番の名前を指差した。

 

「これかな」

 

「……三番?」

 

父さんが目を細める。

 

「プリテイキャスト?」

 

「うん」

 

「お前、本気で言ってるのか?」

 

「もちろん」

 

「牝馬だぞ。それに、前走の目黒記念じゃ十一着だったじゃねえか」

 

「知ってるよ」

 

「人気だってないだろう。相手は牡馬の一線級だぞ?」

 

「それもわかってる」

 

俺が落ち着いて答えると、父さんは呆れたようにため息をついた。

 

「……何を考えてるんだ、お前は」

 

横で聞いていた祖父ちゃんが、新聞を覗き込んだ。

 

「プリテイキャストか。確かに、すんなり逃げれば面白いかもしれんな」

 

「おい、親父まで何言ってんだ。三千二百だぞ?」

 

「だから面白いんじゃないか」

 

祖父ちゃんが笑った。

 

俺も頷く。

 

「父さん、ちょっと考えてみてよ。三千二百メートルのレースで、逃げ馬がいきなり大きく飛ばしたら、後ろの騎手はどうすると思う?」

 

「そりゃ、無理して追いかけねえだろ。そんなことしたら自分の馬まで潰れちまう」

 

「だよね。じゃあ、その逃げ馬が思ったほど止まらなかったら?」

 

父さんは少し考えた。

 

「……後ろが困るだろうな」

 

「そういうこと」

 

「いや、理屈はわかるがな」

 

父さんは腕を組んだ。

 

「本当にそんな競馬ができるのか? あの距離を逃げ切るなんて、簡単じゃねえぞ」

 

「もちろん。だから、みんな追いかけないんだと思う」

 

祖父ちゃんが面白そうに俺を見た。

 

「ほう。随分と大胆なことを考えるな、比呂」

 

「……そうかな」

 

「そうさ。ただ、理屈と実際の競馬は違うぞ」

 

その言葉に、俺は素直に頷いた。

 

「うん。それはわかってる」

 

実際、俺にも不安がないわけではなかった。

 

前世で見た記録では、プリテイキャストが勝つ。

 

けれど、この世界ではすでに、俺の知っている歴史には存在しない馬が走り始めている。

 

八月の函館で、トビがホースメンボーイと競り合ったように。

 

今までとまったく同じ結果が、これからも続くという保証はどこにもない。

 

それでも。

 

今日のプリテイキャストだけは、どうしても信じてみたかった。

 

「……ところで」

 

父さんが、ふと思い出したように言った。

 

「お前、馬券はもう買ったんだよな?」

 

「……うん」

 

「いくら買った?」

 

俺は少し迷ってから、ポケットから馬券を取り出した。

 

「これ」

 

まず、千円の単勝馬券を五枚。

 

続いて、百円の単勝馬券を一枚。

 

全部、同じ三番だった。

 

父さんはしばらく馬券を見つめ、それからゆっくり顔を上げた。

 

「……比呂」

 

「何?」

 

「お前、五千円も買ったのか?」

 

「うん」

 

「五千円だぞ!?」

 

「わかってるよ。自分で買ったんだから」

 

「わかってる奴は、そんなに簡単に五千円も突っ込まねえんだよ!」

 

父さんの声が大きくなり、楓がびくっと肩を震わせた。

 

「おとうさん、こわい!」

 

「あ……悪い悪い」

 

父さんは慌てて楓の頭を撫でた。

 

その様子に、祖父ちゃんが声を上げて笑った。

 

「はっはっは! いいじゃねえか、源。比呂だってもう二十二だ。自分の金の使い道くらい、自分で決めさせてやれ」

 

「親父は甘いんだよ。こいつは最近、何かと気が大きくなってるんだから」

 

「確かに、五千円は安い金じゃないな」

 

祖父ちゃんはそう言って、俺を見た。

 

「ただし比呂、外れたら自分の責任だぞ。後悔するような金の使い方はするなよ」

 

「うん。もちろん」

 

俺は素直に頷いた。

 

未来の知識があるとはいえ、何でも思いどおりになるわけではない。馬券で大金を稼ぐことを当てにして、牧場の経営を考えるつもりもなかった。

 

今回の五千円は、自分で貯めていた金の中から出したものだ。

 

そして、何より。

 

今日のレースを、ただの過去の記録として終わらせたくなかった。

 

「……それで、比呂」

 

今度は母さんが声をかけてきた。

 

「その百円の馬券は何なの?」

 

「ああ、これ?」

 

俺は千円券とは別にしていた一枚を持ち上げた。

 

「これは記念用。もし当たっても、換金しないつもりなんだ」

 

「えっ?」

 

楓が真っ先に反応した。

 

「おかね、もらわないの!?」

 

「この一枚だけはね」

 

「なんで?」

 

俺は少し考えた。

 

そして、馬券を見つめながら答えた。

 

「……いつか、大切な思い出になると思うからかな」

 

「へんなの」

 

楓は不思議そうな顔をした。

 

その反応に、俺は思わず笑ってしまった。

 

前世で競馬の歴史を調べていた頃、昔の馬券を見るのが好きだった。

 

そこには、馬の名前が書いてある。

 

日付があり、競馬場があり、その日に確かにレースが行われたという証が残っている。

 

誰かがあの日、その馬を信じて馬券を買った。

 

たった一枚の小さな紙切れなのに、そんなことまで想像できるのが面白かった。

 

いつか朝霧牧場から、歴史に名を残すような馬が生まれたら。

 

その馬の馬券も、こうして残しておきたい。

 

その隣に今日の馬券を並べたら、きっと面白いだろう。

 

「まあ、五千円のほうは当たったら換金するけどね」

 

「勝てばな!」

 

父さんがすかさず突っ込んだ。

 

「そうだね」

 

俺が笑うと、祖父ちゃんまで楽しそうに笑い出した。

 

 

     * * *

 

 

午後三時を少し過ぎた。

 

朝霧家の居間では、ラジオから東京競馬場の様子が伝えられていた。

 

天候は晴れ。

 

しかし、芝は重馬場。

 

第82回天皇賞。

 

芝三千二百メートル。

 

出走馬は十一頭。

 

一番人気のカツラノハイセイコをはじめ、ホウヨウボーイ、メジロファントム、カネミノブなど、実力馬が顔を揃えている。

 

その中で、プリテイキャストは八番人気だった。

 

「……やっぱり人気ねえな」

 

父さんが新聞を見ながら呟いた。

 

「前走を考えれば仕方ないよ」

 

俺は答えた。

 

「でも、今日はそれがいい方向に働くかもしれない」

 

「まだ言ってるのか」

 

父さんは苦笑したが、俺は笑えなかった。

 

心臓が少しずつ速くなっている。

 

結果は知っているはずだった。

 

何度も記録を読み、映像を見返したレースだ。

 

それなのに、どうしてこんなにも緊張するのだろう。

 

『さあ、第82回天皇賞。各馬、ゲートに収まろうとしています』

 

ラジオから実況の声が聞こえる。

 

祖父ちゃんが湯飲みを置き、父さんも新聞から顔を上げた。

 

俺は自然と拳を握っていた。

 

『スタートしました!』

 

十一頭が一斉にゲートを飛び出した。

 

その中から、一頭の牝馬が勢いよく先頭へ立つ。

 

『まずはプリテイキャストが先手を取ります! 迷わず先頭へ出ました!』

 

「おっ、行ったな」

 

父さんが声を漏らす。

 

「まあ、逃げるのはわかってたけどな」

 

だが、プリテイキャストの逃げは、父さんが想像していたものとは少し違っていた。

 

先頭へ立ったあとも、鞍上は無理に抑えようとしない。

 

そのまま馬を走らせ、後続との差を広げていく。

 

五馬身。

 

十馬身。

 

さらに、その先へ。

 

『プリテイキャストが大きくリードを広げています! 後続は無理に追いかけません!』

 

「……おいおい」

 

父さんが呆れたように笑った。

 

「いくらなんでも飛ばしすぎだろ。三千二百だぞ?」

 

俺は答えなかった。

 

ただ、ラジオに耳を澄ませていた。

 

前世で映像を見たときも、同じことを思った。

 

あんなに飛ばして大丈夫なのか。

 

途中で脚が止まるんじゃないか。

 

そして、後続の騎手たちも、おそらく同じように考えていたのだろう。

 

三千二百メートルという長丁場。

 

しかも、今日は重馬場だ。

 

序盤からあれほど飛ばした馬が、最後まで脚を残せるとは思えない。

 

だったら、無理に追いかける必要はない。

 

後ろの騎手たちがそう判断するのも、決して不自然なことではなかった。

 

けれど、その判断が間違っていたとしたら。

 

「……比呂」

 

祖父ちゃんが口を開いた。

 

「お前、さっき言ってたな。後ろが追いかけなかったらどうなるかって」

 

「……うん」

 

「これのことか?」

 

俺は頷いた。

 

「そうだよ」

 

祖父ちゃんはしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。

 

「……面白い」

 

父さんが驚いたように振り返る。

 

「親父?」

 

「いやな、源。これだけ離されても、誰も慌てて追いかけようとせん。みんな、どうせ止まると思ってるんだろう」

 

「そりゃ、普通は止まるだろう」

 

「普通ならな」

 

祖父ちゃんは静かに言った。

 

「だが、普通じゃなかったらどうする?」

 

父さんは答えなかった。

 

ラジオから、蹄の音と場内のざわめきが聞こえてくる。

 

プリテイキャストは依然として先頭。

 

後続との差は、まだ大きい。

 

俺はその様子を聞きながら、前世で初めてこのレースを見たときのことを思い出していた。

 

あのときの俺は、結果を知ったうえで映像を見ていた。

 

どうせ勝つんだろう。

 

そう思いながら見始めたはずなのに、途中からは画面に釘づけになっていた。

 

なぜ、誰も追いかけないんだ。

 

なぜ、こんなに離れているんだ。

 

このまま本当に逃げ切ってしまうのか。

 

そして今。

 

俺は、そのレースが実際に行われている時間の中にいる。

 

前世で見た映像は、いつ再生しても同じ結果になった。

 

けれど、目の前の時間は一度しか流れない。

 

この世界では、何が起きるかわからない。

 

そう考えた瞬間、胸の鼓動がさらに速くなった。

 

 

レースは後半へ入った。

 

プリテイキャストは、まだ先頭を走っている。

 

後続は少しずつ差を詰めようとしているものの、先頭との差は簡単には縮まらない。

 

『各馬、三コーナーから四コーナーへ向かいます! プリテイキャストが先頭! 依然として大きなリードがあります!』

 

「……おい、源」

 

祖父ちゃんが呟いた。

 

「これ、まずいんじゃないか?」

 

「……ああ」

 

父さんも、もう笑っていなかった。

 

「後ろが間に合わんぞ」

 

普通なら、とっくに失速していてもおかしくない。

 

けれど、プリテイキャストはまだ走っている。

 

長い距離を逃げ続け、重い芝を踏みしめ、それでも懸命に前へ進んでいる。

 

『さあ、最後の直線に入りました! プリテイキャストが先頭! 後続との差はまだ大きい!』

 

「……来た!」

 

俺は思わず立ち上がった。

 

父さんも身を乗り出す。

 

「おいおい、本当に残っちまうぞ!」

 

祖父ちゃんが低い声で言った。

 

「まだ止まらん。あの馬、まだ走ってる!」

 

後ろからはメジロファントムが追い上げてくる。

 

だが、遠い。

 

あまりにも遠い。

 

『プリテイキャストが粘ります! メジロファントムも追い込んできますが、先頭との差はまだある!』

 

「……行け」

 

俺は小さく呟いた。

 

『プリテイキャスト! まだ先頭!』

 

「行け!」

 

今度は、はっきりと声が出た。

 

父さんも立ち上がった。

 

「そのままだ! 逃げ切っちまえ!」

 

祖父ちゃんも、いつの間にか拳を握っている。

 

「行け! 行けえっ!」

 

もう、誰の馬券を買ったかなんて関係なかった。

 

三人とも、あの小さな牝馬の走りに夢中になっていた。

 

長い直線。

 

重い芝。

 

必死に追いかける後続。

 

そのすべてを振り切ろうとする一頭の牝馬。

 

俺は、もう我慢できなかった。

 

「逃げろぉぉっ! プリテイキャスト!!」

 

そして。

 

『プリテイキャスト、先頭でゴールイン! 見事な大逃げ! 天皇賞を制しました!』

 

ラジオの向こうで、大歓声が響いた。

 

一瞬、居間が静まり返る。

 

次の瞬間。

 

「よっしゃあああっ!!」

 

俺は両手を突き上げていた。

 

父さんが頭を抱える。

 

「……嘘だろ。本当に勝っちまったぞ!」

 

祖父ちゃんは大きく息を吐き、それから声を上げて笑い出した。

 

「はっはっは! こりゃすごい! 大したもんだ!」

 

俺も笑っていた。

 

何度も見たはずのレース。

 

結末を知っていたはずの歴史。

 

それなのに、こんなにも嬉しかった。

 

プリテイキャスト。

 

八番人気の牝馬。

 

二着のメジロファントムに七馬身差。

 

勝ち時計は三分二十八秒一。

 

競馬史に残る大逃げが、今、確かに現実になったのだ。

 

「……すげえなあ」

 

父さんが呟いた。

 

その声には、もう呆れたような響きはなかった。

 

「本当に、こんな競馬があるんだな」

 

祖父ちゃんも頷いた。

 

「ああ。だから競馬は面白いんだ」

 

俺は二人の横顔を見た。

 

父さんも祖父ちゃんも、何十年も馬を見てきた人間だ。

 

そんな二人が、今日のたった一頭の牝馬の走りに、心から驚いている。

 

未来を知っている俺でさえ、胸が熱くなっている。

 

そのことが、何より嬉しかった。

 

 

     * * *

 

 

「……そういえば、比呂」

 

興奮が少し落ち着いた頃、父さんがこちらを向いた。

 

「ん?」

 

「お前、五千円買ってたよな?」

 

「ああ」

 

「単勝だよな?」

 

「そうだよ」

 

「……いくらになるんだ、これ?」

 

俺は笑った。

 

「まあ、払戻金が出ればわかるよ」

 

「もったいぶるな!」

 

しばらくして、ラジオから正式な払戻金が伝えられた。

 

単勝三番。

 

千七百九十円。

 

「……千七百九十円?」

 

父さんが呟く。

 

「百円に対して?」

 

「そう」

 

「じゃあ、五千円だと……」

 

父さんはしばらく考え込んでいた。

 

その横から、祖父ちゃんが口を挟む。

 

「五十倍すりゃいいだけだろうが」

 

「今、計算してんだよ!」

 

そして。

 

「……八万九千五百円?」

 

俺は頷いた。

 

「正解」

 

「はあああっ!?」

 

父さんの大声に、楓がびくっと肩を震わせた。

 

「おとうさん、うるさい!」

 

「……ああ、悪い悪い」

 

父さんは慌てて楓の頭を撫でたが、すぐに俺へ顔を向けた。

 

「お前、八万九千五百円って……! 五千円がそこまで増えたのか!?」

 

「うん。そうなるね」

 

「……俺が一生懸命考えて買った馬券は外れたってのに」

 

父さんがぼやくと、祖父ちゃんが腹を抱えて笑い出した。

 

「はっはっは! 源、お前の負けだ!」

 

「親父だってメジロファントムだったろ!」

 

「二着だったぞ」

 

「単勝じゃ意味ねえだろうが!」

 

二人のやり取りがあまりにもおかしくて、俺も笑ってしまった。

 

その声を聞きつけた母さんが、台所から顔を出した。

 

「何をそんなに騒いでるの?」

 

「環! 聞いてくれ! 比呂が馬券で九万円近く当てやがった!」

 

「あらまあ」

 

母さんは目を丸くした。

 

だが、すぐに俺を見て、少しだけ眉を上げた。

 

「……それで、いくら使ったの?」

 

「五千百円」

 

「五千百円?」

 

母さんは今度こそ呆れた顔をした。

 

「あんた、そんな大金を……。お小遣いの範囲なんでしょうね?」

 

「ちゃんと自分で貯めた金から出してるよ。今回だけのつもりだし」

 

「ならいいけど、馬券が当たることを当てにしてお金の使い道を考えちゃ駄目よ」

 

その言葉に、俺は素直に頷いた。

 

「うん。それはわかってる」

 

「だったら、当たったお金も大切に使いなさい」

 

「もちろん。とりあえず、今日はみんなで何か美味しいものでも食べようか」

 

そう言うと、今まで黙って聞いていた楓が勢いよく手を挙げた。

 

「ケーキ!」

 

「ははっ、やっぱりそうなるか」

 

「ケーキたべたい!」

 

母さんが笑った。

 

「それなら、私も食べたいわね」

 

「母さんまで!」

 

その場にいた全員が笑い出した。

 

さっきまでラジオに向かって叫んでいたのが嘘のように、いつもの朝霧家の居間へ戻っていた。

 

ただ、俺の手元には、今日の勝利を証明する馬券が残っている。

 

千円券が五枚。

 

そして、百円券が一枚。

 

「……比呂」

 

祖父ちゃんが、その百円券を見つめて尋ねた。

 

「それ、本当に換えないのか?」

 

「うん。こっちは取っておく」

 

「千七百九十円になるんだぞ?」

 

「わかってるよ。でも、残しておきたいんだ」

 

祖父ちゃんは、しばらく俺を見つめていた。

 

そして、静かに頷いた。

 

「……そうか。なら、大事にしろよ」

 

「うん」

 

前世では、歴史的な名馬の馬券が、大切に保管されているのを何度も見た。

 

その馬が走った日。

 

勝った日。

 

誰かがその馬を信じた日。

 

たった一枚の小さな紙切れに、それだけの思い出が詰まっている。

 

今日のプリテイキャストも、いつか多くの競馬ファンに語り継がれる馬になる。

 

そして俺は、いつの日か朝霧牧場からも、そんな馬を送り出したいと思っていた。

 

 

夕方。

 

俺は、もう一度厩舎へ戻っていた。

 

放牧地の向こうでは日が傾き始め、冷たい風が冬の訪れを知らせている。

 

馬房の中では、繁殖牝馬たちが静かに飼い葉を食べていた。

 

俺はカスミの前で足を止めた。

 

「……よう、カスミ」

 

声をかけると、カスミがゆっくり顔を上げた。

 

大きくなり始めた腹を見ながら、俺は首筋を撫でた。

 

「お前の息子、夏は本当に頑張ってたんだぞ。今日もすごいレースを見たけど、やっぱり俺にはトビの走りも忘れられないな」

 

カスミは何も答えず、ただ鼻先を寄せてきた。

 

俺は小さく笑った。

 

八月の函館では、トビが負けた。

 

今日の東京では、プリテイキャストが勝った。

 

どちらのレースも、俺の胸に強く残っている。

 

その違いは、勝ったか負けたかだけではなかった。

 

トビは、自分たちが育てた馬だった。

 

プリテイキャストは、前世から知っていた歴史の中の名馬だった。

 

二頭とも、俺に競馬の面白さを教えてくれた。

 

けれど、その面白さは少しずつ違っている。

 

「……比呂」

 

後ろから声がした。

 

振り返ると、祖父ちゃんが立っていた。

 

「じいちゃん。どうしたの?」

 

「いや、姿が見えんからな。どうせ厩舎だろうと思ったら、案の定だ」

 

「ははっ、よくわかったね」

 

「お前の考えることくらい、だいたいわかるさ」

 

祖父ちゃんは俺の隣に立ち、カスミの様子を見つめた。

 

「……今日のレース、すごかったな」

 

「うん。本当に」

 

「長いこと競馬を見てるが、あんな競馬はそうそう見られん」

 

祖父ちゃんは少しだけ笑った。

 

「比呂、お前はよくあの馬を選んだな」

 

「……たまたまだよ」

 

「そうかもしれんな」

 

祖父ちゃんは頷いた。

 

それから、少し間を置いて続けた。

 

「だがな。ああいう馬を見てると、やっぱり思うんだよ」

 

「何を?」

 

「馬ってのは、わからんもんだなってことさ」

 

祖父ちゃんはカスミの首に手を伸ばした。

 

「血統がよくても走らん馬はいるし、誰も期待していなかった馬が、とんでもないことをやってのけることもある。何十年もこの仕事をやってるが、いまだに驚かされることばっかりだ」

 

「……うん」

 

「今日の牝馬だってそうだろう。あれだけの相手を、あんな逃げ方で負かすなんて、誰が思った?」

 

俺は少し笑った。

 

「……俺は思ってたけどね」

 

「はっはっは! そうだったな」

 

祖父ちゃんは楽しそうに笑い、それから俺を見た。

 

「ただし、比呂。勝つ馬を当てるのと、勝つ馬をつくるのは違うぞ」

 

俺は黙って頷いた。

 

「どれだけ頭の中で立派な血統表を描いても、最後は馬が走るんだ。あいつら自身が、自分の脚でな」

 

「……そうだね」

 

「わしらにできるのは、その馬が持ってる力を、できるだけ引き出してやることだけだ」

 

俺はカスミを見た。

 

その腹には、来春生まれてくる仔馬がいる。

 

父サンシャインボーイ。

 

母アサギリカスミ。

 

俺が考えた配合から生まれてくる、最初の世代の一頭だ。

 

その仔がどんな馬になるのか、今の俺にはわからない。

 

けれど、それが楽しみだった。

 

「……じいちゃん」

 

「なんだ?」

 

「俺、いつか天皇賞を勝つ馬をつくりたい」

 

祖父ちゃんがこちらを見た。

 

「……ほう」

 

「もちろん、天皇賞だけじゃない。ダービーも、有馬記念も。日本中の競馬ファンが名前を覚えるような馬を、この牧場から送り出したい」

 

祖父ちゃんは、しばらく黙って俺を見つめていた。

 

やがて、大きな声で笑った。

 

「はっはっは! いいじゃねえか!」

 

「笑うところ?」

 

「いや、嬉しいんだよ」

 

祖父ちゃんは俺の肩を叩いた。

 

「牧場をやる人間が、それくらいでかい夢を見なくてどうする」

 

俺も笑った。

 

「……そうだよな」

 

「ああ」

 

祖父ちゃんは、少しだけ遠くを見るような目をした。

 

「わしもな。昔、初めてダービーを見たとき、同じことを思ったもんだ」

 

「……目黒の?」

 

「ああ。昭和七年の第一回だ」

 

祖父ちゃんが二十九歳だった頃。

 

一九三二年、目黒競馬場で行われた第一回東京優駿大競走。

 

そのレースを見た祖父ちゃんは、いつか自分たちの牧場からダービー馬を送り出したいと願うようになった。

 

それから半世紀近く。

 

戦争があり、馬を失い、牧場の経営に苦しんだ時代もあった。

 

それでも祖父ちゃんは、馬を育て続けてきた。

 

「……まだ、夢は叶ってねえけどな」

 

祖父ちゃんは、少し照れくさそうに笑った。

 

その横顔を見ながら、俺は胸の奥が熱くなるのを感じた。

 

「じいちゃん」

 

「ん?」

 

「いつか、絶対に叶えよう」

 

祖父ちゃんは俺を見た。

 

そして、ゆっくりと頷いた。

 

「……ああ。頼んだぞ、比呂」

 

その言葉は短かった。

 

けれど、俺には何よりも重く感じられた。

 

 

夜。

 

自室へ戻った俺は、机の引き出しから小さな封筒を取り出した。

 

そこに、今日の百円馬券を丁寧にしまう。

 

封筒の表には、万年筆でこう書いた。

 

『1980年11月23日 第82回天皇賞』

 

『プリテイキャスト 大逃げ・七馬身差』

 

そして、その下に一行を付け加えた。

 

『知っていたはずの勝利に、心が震えた日』

 

書き終えると、俺はしばらくその文字を眺めていた。

 

未来を知っているということは、確かに大きな武器だ。

 

これから活躍する種牡馬も、発展していく牝系も、俺はある程度知っている。

 

けれど、今日のレースで改めてわかった。

 

結果を知っていることと、その瞬間を生きることは違う。

 

馬が走る姿を見て、胸が熱くなる。

 

その興奮も、喜びも、悔しさも、知識だけでは得られないものなのだ。

 

俺は封筒を引き出しへ戻し、隣に置いてあった繁殖計画の帳面を開いた。

 

そこには、十頭の繁殖牝馬の名前と、今年の種付けの記録が並んでいる。

 

来年、何頭の仔馬が無事に生まれてくるのだろう。

 

その中から、どんな馬が育つのだろう。

 

そして、いつか。

 

今日のプリテイキャストのように、多くの競馬ファンの記憶に残る馬が、この牧場から生まれるだろうか。

 

そんなことを考えていると、自然と笑みがこぼれた。

 

俺は帳面の最後のページを開き、万年筆を走らせた。

 

『朝霧牧場から、日本一の競走馬を。』

 

今はまだ、小さな牧場の夢でしかない。

 

けれど、その夢を叶えるための最初の一歩は、もう踏み出している。

 

窓の外では、冷たい北風が吹いていた。

 

三石の冬は、もうすぐそこまで来ている。

 

そして、その冬を越えれば、俺たちが選んだ血統から新しい命が生まれる。

 

未来を知っている俺でさえ、まだ見たことのない馬たちが。

 

そのことを考えるだけで、胸が躍った。

 

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