その血は、まだ走っている ~転生した俺が紡ぐ、もう一つの競馬史~ 作:ねるすと
1981年4月。
北海道・三石町。
長かった冬が、ようやく終わろうとしていた。
放牧地を覆っていた雪はほとんど消え、土のあちこちから若草が顔を出し始めている。朝晩はまだ冷え込むものの、日中の日差しには確かな暖かさが感じられるようになっていた。
そんな春の訪れとともに、朝霧牧場は一年で最も慌ただしい季節を迎えようとしていた。
繁殖牝馬たちの出産が始まるのだ。
「比呂、カスミの様子はどうだった?」
朝の仕事を終え、厩舎の通路で道具を片づけていると、父さんが声をかけてきた。
「さっき見てきたよ。飼い葉は食べてるけど、いつもより少し落ち着かない感じかな。乳房もかなり張ってきてる」
「そうか。なら、そろそろかもしれんな」
父さんは手を止め、カスミのいる馬房へ目を向けた。
アサギリカスミ。
1968年生まれ、父チャイナロックの繁殖牝馬だ。
朝霧牧場では長年大切にしてきた一頭で、俺にとっても馴染み深い馬だった。
去年の春、俺が配合相手として選んだのはサンシャインボーイ。
父テスコボーイ、母ソーダストリーム。
あのアローエクスプレスと母を同じくする種牡馬だ。
カスミには以前、アローエクスプレスを配合している。そのとき生まれたのが、去年の夏、函館で俺たちを夢中にさせてくれたミナトカゼ――幼名トビだった。
そして今、カスミのお腹には、トビの弟か妹になる仔が宿っている。
「……楽しみだな」
思わず呟くと、父さんがこちらを見た。
「何がだ?」
「カスミの仔だよ。トビみたいな馬になるのかなって」
「気が早えなあ、お前は。まだ生まれてもいないんだぞ」
「それはわかってるけどさ」
「だったら、まずは無事に生まれてくることを考えろ。走るかどうかなんて、そのあとだ」
父さんはそう言って笑った。
その言い方に、責めるような響きはなかった。俺が何を楽しみにしているのか、父さんにもわかっているのだろう。
ただ、父さんの言うことはもっともだった。
俺は未来の競馬史を知っている。
どの種牡馬が成功するか、どんな血統が後に評価されるか。そうした知識を利用して、去年は自分なりに精一杯の繁殖計画を立てた。
けれど、血統表の上でどれだけ理想的な配合を考えたとしても、無事に仔馬が生まれてくれなければ何も始まらない。
「……そうだね。まずは無事に、か」
「ああ。それに、カスミだって大仕事なんだ。あいつの体のことも忘れるなよ」
「うん」
俺は頷き、カスミの馬房へ足を向けた。
中では、大きなお腹を抱えたカスミが静かに立っていた。
「よう、カスミ。調子はどうだ?」
声をかけると、ゆっくりとこちらへ顔を向ける。
俺が手を伸ばすと、カスミは鼻先を寄せ、作業着の匂いを嗅ぎ始めた。
「もうすぐだな。去年はトビが頑張ってくれたんだぞ。今度はお前の番だな」
もちろん、言葉が通じるはずはない。
それでも、なんとなく話しかけたくなる。
去年の函館で見た、泥だらけになりながら最後まで走ったトビの姿。その母親が今、こうして新しい命を宿している。
競馬場で走る馬と、牧場で仔を産む馬。
考えてみれば当たり前のことなのに、この二つがつながっているのだと実感すると、胸の奥が少し熱くなった。
「……頑張れよ、カスミ」
俺がそう声をかけると、カスミは小さく鼻を鳴らした。
その日の夕食は、いつもより少し早かった。
父さんと祖父ちゃんは交代でカスミの様子を見ることになっており、母さんも夜中に備えて簡単な食事を用意してくれている。
「比呂、あんたも今夜は厩舎に泊まるの?」
食卓で母さんに尋ねられ、俺は頷いた。
「そのつもり。父さんたちだけじゃ大変だろうし、俺も見ておきたいから」
「そう。だったら、これ持っていきなさい」
母さんは台所から小さな包みを持ってきた。
中には握り飯がいくつか入っている。
「夜中にお腹が空いたら食べなさい。それから、あんまり無理しないこと。眠れるときにはちゃんと寝るのよ」
「ありがとう、母さん」
「お礼はいいから、ちゃんと休んでね。あんた、好きなことになると時間を忘れるんだから」
横で聞いていた父さんが笑った。
「環の言うとおりだ。最近の比呂は、馬を見てるか血統を考えてるか、どっちかだからな」
「父さんだって似たようなもんじゃないか」
「俺は仕事だ」
「俺も仕事だよ!」
そのやり取りに、祖父ちゃんが声を上げて笑った。
「はっはっは! 二人とも似た者同士だ。環も諦めろ」
「本当にねえ」
母さんは呆れたように笑っている。
すると、隣で黙々とご飯を食べていた楓が顔を上げた。
「お兄ちゃん、あかちゃん生まれるの?」
「ああ。今夜かもしれないぞ」
「カスミの?」
「そうだよ」
「みたい!」
予想どおりの反応だった。
俺が何か言うより先に、母さんが楓の茶碗を受け取った。
「楓はもうすぐ寝る時間でしょう。赤ちゃんが生まれたら、明日の朝に見に行こうね」
「えー! いまがいい!」
「まだ生まれてねえんだから、今行っても赤ちゃんはいないぞ」
父さんがそう言うと、楓は少し考え込んだ。
どうやら、そのことには気づいていなかったらしい。
「……じゃあ、生まれたらおこして?」
「夜中だったら起こさないよ」
「なんでー!」
楓が頬を膨らませる。
俺は笑いながら、その頭を撫でた。
「生まれたばかりの赤ちゃんは、まだ立つのも大変なんだ。カスミだって疲れてるだろうし、静かにしてあげたほうがいいんだよ」
「……カスミ、つかれるの?」
「そりゃあ疲れるさ。赤ちゃんを産むんだから」
楓はしばらく考えてから、小さく頷いた。
「……じゃあ、がまんする」
その素直な返事に、思わず笑ってしまった。
「いい子だな、楓」
「でも、あしたはみる!」
「うん。一緒に見に行こうな」
楓はようやく納得したらしく、またご飯を食べ始めた。
そんな妹の姿を見ながら、俺は少しだけ考えていた。
去年の函館でトビを応援していたときもそうだったが、楓は本当に馬が好きだ。
まだ四歳だから、牧場の仕事がどういうものなのか、すべてを理解しているわけではないだろう。
それでも、馬に会えば嬉しそうに駆け寄ろうとするし、俺たちが馬の話をしていれば、必ず聞き耳を立てている。
いつか、この子はどんなふうに成長するのだろう。
そんなことを考えていると、隣で祖父ちゃんが楓に話しかけていた。
「楓。明日の朝、赤ちゃんが生まれてたら、一緒に名前を考えてやるか?」
「なまえ?」
「ああ。牧場で呼ぶ名前だ。まだ決まってねえからな」
「楓がつけてもいいの?」
「もちろん。いい名前を考えてくれよ」
楓の顔がぱっと明るくなった。
「うん! かわいいなまえにする!」
「はっはっは! そりゃ楽しみだ」
祖父ちゃんの笑い声が食卓に響く。
いつもと変わらない、朝霧家の夕食。
けれど、その夜は家族の誰もが、これから生まれてくる小さな命のことを考えていた。
* * *
午後十一時を過ぎた頃だった。
厩舎の奥から、父さんの声が聞こえた。
「比呂! ちょっと来い!」
俺は飲みかけのお茶を置き、すぐに立ち上がった。
カスミの馬房へ向かうと、父さんが柵越しに中を覗き込んでいる。
「どうした?」
「そろそろ始まるかもしれん。さっきから落ち着かなくてな」
馬房の中では、カスミがしきりに体勢を変えていた。
後ろを振り返り、腹を気にするような仕草を見せる。しばらく立っていたかと思うと、ゆっくり横になり、また起き上がる。
「……本当だ」
俺も思わず身を乗り出した。
父さんは落ち着いた様子でカスミを見つめていたが、その表情にはいつもとは違う緊張感があった。
「親父を呼んできてくれ。それから、環にも伝えてこい」
「わかった!」
俺は急いで厩舎を飛び出した。
夜の空気は思っていた以上に冷たく、家までの短い距離を走るだけで頬が痛くなる。
それでも、不思議と寒さは感じなかった。
胸の奥が、妙に熱かったのだ。
去年の春。
俺たちが初めて本格的に取り組んだ繁殖計画。
その結果が、いよいよ形になろうとしている。
楽しみだった。
早く会いたかった。
けれど、それと同じくらい、不安もあった。
無事に生まれてくれるだろうか。
カスミの体は大丈夫だろうか。
そうしたことばかりが、頭の中を巡っていた。
「じいちゃん!」
家へ戻るなり声をかけると、居間で新聞を読んでいた祖父ちゃんが顔を上げた。
「なんだ、騒々しい」
「カスミが始まりそうだって!」
その一言で、祖父ちゃんの表情が変わった。
「そうか。行くぞ」
新聞を畳み、すぐに立ち上がる。
母さんも台所から顔を出した。
「カスミ?」
「うん。父さんが、始まるかもしれないって」
「わかったわ。必要なものを持っていくから、あんたは先に戻ってなさい」
「うん!」
俺は祖父ちゃんと一緒に、再び厩舎へ向かった。
さっきまで静かだった牧場が、急に慌ただしくなったように感じる。
けれど、祖父ちゃんの歩き方は落ち着いていた。
急いでいるのに、慌ててはいない。
その横顔を見ているうちに、俺も少しだけ冷静になれた。
「……じいちゃん」
「なんだ?」
「やっぱり、何度経験しても緊張するもの?」
祖父ちゃんは一度こちらを見て、それから前を向いた。
「当たり前だ」
「……そうなんだ」
「むしろ、緊張しなくなったら危ねえよ。慣れてきた頃が一番怖いんだ」
祖父ちゃんは白い息を吐きながら続けた。
「馬は、人間の都合なんぞ考えちゃくれん。こっちがどれだけ準備しても、何が起きるかわからん。だからこそ、ちゃんと見てやらなきゃならんのだ」
「……うん」
「ただし、見てるからって、何でも手を出せばいいわけじゃない。馬が自分でできることは、できるだけ任せてやる。わしらは、何かあったときに助けられるようにしておけばいい」
俺は黙って頷いた。
知識だけでは足りない。
実際に馬のそばにいて、見て、触れて、経験を積んでいく。
父さんや祖父ちゃんが当たり前のようにやっていることの重みを、俺はまだ十分に理解できていないのかもしれなかった。
厩舎へ戻ると、カスミは横になっていた。
父さんは馬房の中で様子を見守っており、祖父ちゃんもすぐにそばへ向かった。
俺は入口近くに立ち、二人の動きを見つめた。
出産が始まったからといって、むやみに騒いだり、馬に触れたりしていいわけではない。
父さんはカスミの様子を確かめながら、落ち着いた声で話しかけていた。
「大丈夫だぞ、カスミ。ゆっくりでいいからな」
カスミが小さく首を動かす。
父さんは首筋を撫で、祖父ちゃんと短く言葉を交わした。
「……今のところ、順調そうだ」
「ああ。前脚も見えてきたな」
俺は思わず一歩近づいた。
白っぽい膜の向こうに、小さな蹄が見えた。
続いて、もう一本。
そして、その間から仔馬の鼻先が現れる。
「……すごい」
口から漏れたのは、それだけだった。
頭では知っている。
本でも読んだ。
映像で見たことだってある。
だが、こうして目の前で新しい命が生まれようとしている光景は、想像していたものとはまるで違っていた。
カスミが大きく息をする。
父さんが優しく声をかけ、祖父ちゃんがそばで見守る。
俺には、祈ることくらいしかできなかった。
(……頑張れ)
馬房の中に響く、カスミの荒い息遣い。
時折聞こえる父さんの声。
それ以外は、驚くほど静かだった。
時間が随分と長く感じられた。
実際には、それほど長い時間ではなかったのかもしれない。
けれど、俺にとっては一分一分が妙に長かった。
やがて。
「……よし!」
父さんが声を上げた。
「出たぞ!」
仔馬の体が、敷き藁の上へと現れた。
濡れた体。
細く折りたたまれた脚。
まだ自分の体をどう動かせばいいのかもわからないような、小さな命。
「……生まれた」
俺は、思わず呟いた。
父さんと祖父ちゃんが仔馬の様子を確かめる。
鼻先や口元を確認し、呼吸の状態を見守っていた。
「……息は?」
俺が尋ねると、父さんが頷いた。
「してる。大丈夫だ」
その言葉を聞いた瞬間、俺の肩から力が抜けた。
「……よかった」
気がつけば、手のひらに汗をかいていた。
寒いはずなのに、背中までじっとりしている。
少し遅れて、母さんが厩舎へ入ってきた。
「どう? 無事に生まれた?」
「うん!」
俺は振り返った。
「生まれたよ、母さん!」
母さんはほっとしたように息を吐いた。
「よかった……。カスミも大丈夫?」
「今のところは大丈夫だ。よく頑張ってくれたよ」
父さんが答えると、母さんは馬房の外からカスミを見つめた。
「……お疲れさま、カスミ」
その声が、とても優しく聞こえた。
カスミはしばらく横になっていたが、やがて体を起こし、生まれたばかりの仔馬に鼻先を寄せ始めた。
濡れた体を、ゆっくりと舐めていく。
俺はその光景を、ただ黙って見つめていた。
何か特別なことが起きているわけではない。
母馬が、自分の仔を舐めている。
ただ、それだけのことだ。
けれど、どうしてだろう。
胸の奥が、どうしようもなく熱くなった。
「……じいちゃん」
「ん?」
「こういうの、何回くらい見てきた?」
祖父ちゃんは少し考えるように目を細めた。
「さあな。数えたこともない」
「そっか」
「だが、一頭一頭覚えてるもんだぞ。不思議とな」
祖父ちゃんは仔馬を見ながら、静かに続けた。
「難産だった馬もいるし、生まれたときから元気いっぱいだった馬もいる。母親にそっくりな仔もいれば、いったい誰に似たんだって仔もいた」
「……うん」
「ただ、どんな仔でも、生まれてきたときは嬉しいもんだ」
その言葉に、俺はもう一度仔馬を見た。
まだ立ち上がることもできない、小さな馬。
この仔が将来、どんな馬になるのかはわからない。
競馬場で勝つのか。
どこまで走れるのか。
そもそも、競走馬になれるのか。
そんなことは、今は何ひとつわからない。
けれど、それでも。
(……生まれてきてくれて、ありがとう)
そんな気持ちになった。
* * *
仔馬が初めて立ち上がろうとしたのは、それからしばらくしてのことだった。
母馬に体を舐められていた小さな仔は、突然、細い前脚を敷き藁に突っ張った。
「おっ」
父さんが声を漏らす。
「立とうとしてるな」
「もう?」
「仔馬は早いぞ。生まれて間もなく立ち上がる」
俺は思わず身を乗り出した。
仔馬は前脚に力を込め、何とか体を持ち上げようとしている。
しかし、後脚がうまく動かない。
ぐらりと体が傾き、再び藁の上に崩れ落ちた。
「あっ……!」
俺が声を上げると、父さんが振り返った。
「慌てるな。最初から上手に立てるわけじゃない」
「いや、わかってるけど……」
「だったら、黙って見てろ」
父さんは笑っていた。
俺は少し恥ずかしくなって、口を閉じた。
仔馬は諦めなかった。
しばらく休んだあと、また前脚を動かす。
今度は少しだけ体が上がった。
だが、やはり後脚が滑ってしまう。
「……頑張れ」
俺は小さく呟いた。
不思議なものだ。
競馬場で最後の直線を走る馬に向ける声と、今、生まれたばかりの仔馬に向ける声が、同じなのだから。
行け。
頑張れ。
あと少しだ。
去年の夏、函館でトビに叫んだ言葉を思い出す。
あのときは、何とか前の馬を捕まえてほしかった。
今は、ただこの仔が立ち上がってほしい。
それだけだった。
何度目かの挑戦だった。
仔馬が前脚を伸ばし、後脚を踏ん張る。
ぐらぐらと揺れながら、少しずつ体が持ち上がっていく。
「……おっ」
祖父ちゃんが声を漏らした。
「いいぞ。そのままだ」
細い四本の脚が、ようやく体を支えた。
まだふらついている。
今にも倒れそうだ。
それでも。
仔馬は、立っていた。
「……立った!」
俺は思わず声を上げた。
「父さん! 立ったぞ!」
「見りゃわかる」
父さんはそう答えながらも、嬉しそうに笑っていた。
祖父ちゃんも大きく頷く。
「うん。いいぞ、いいぞ」
仔馬はしばらくその場で踏ん張り、やがて母馬のほうへと、ぎこちない一歩を踏み出した。
一歩。
また一歩。
脚はまだ頼りない。
けれど、その姿には不思議な力強さがあった。
生まれてきたばかりなのに、自分の脚で立ち、自分の力で母親のもとへ向かおうとしている。
「……すげえな」
俺は、思わず呟いた。
「何がだ?」
父さんが尋ねる。
「いや……生まれたばかりなのに、もう歩こうとしてるんだなって」
「そういう生き物だからな」
「それはそうなんだけどさ」
うまく説明できなかった。
人間の赤ん坊は、生まれてすぐに立ち上がったりしない。
けれど、馬は違う。
生まれたその日から、自分の脚で立たなければならない。
きっと、長い進化の歴史の中で身につけてきた、生きるための力なのだろう。
そんなことを考えていると、仔馬が母親の腹の下へと顔を寄せ始めた。
「ああ、そこだ。もう少しだな」
祖父ちゃんが見守る中、仔馬は何度か場所を探し、やがて母馬の乳を飲み始めた。
「……飲んだ」
俺が呟くと、父さんが頷いた。
「よし。まずは一安心だ」
ただし、父さんはすぐに付け加えた。
「まだ終わりじゃないぞ。初乳をちゃんと飲めたか、カスミの後産は問題ないか、ほかにも確認することはある。明るくなったら獣医さんにも診てもらおう」
「うん」
俺はもう一度頷いた。
生まれてきたから、それで終わりではない。
むしろ、ここから始まるのだ。
* * *
夜が明ける頃には、空が少しずつ白み始めていた。
カスミと仔馬の状態を確かめながら過ごしたせいで、ほとんど眠っていない。それでも、不思議と眠気は感じなかった。
父さんが馬房の外で大きく伸びをした。
「……いやあ、無事に生まれてよかったな」
「うん」
「それにしても、元気な仔だ。あれだけ立つのに苦労してたくせに、もう随分としっかりしてきた」
俺は馬房の中へ目を向けた。
そこには、母馬のそばで立つ小さな栗毛の仔馬がいる。
牝馬だった。
父サンシャインボーイ。
母アサギリカスミ。
俺たちが選んだ配合から、初めて生まれてきた一頭だ。
「……ねえ、父さん」
「なんだ?」
「この仔、将来は繁殖に残すことも考えられるかな」
父さんは少し驚いた顔をしたあと、呆れたように笑った。
「お前なあ。まだ生まれて一晩だぞ」
「いや、もちろん今すぐって話じゃないけどさ」
「わかってるよ。牝馬だから、そういう可能性はあるだろうな」
父さんは仔馬を見つめながら続けた。
「ただ、それを決めるのはまだまだ先だ。どんな馬に育つかもわからんし、競走馬としてどうなるかだって、これからだろう」
「……うん」
「お前が頭の中でどれだけ立派な血統表を描いても、あの仔は今、立って歩くので精一杯なんだ。まずは元気に育ててやれ」
その言葉に、俺は笑った。
「……そうだね」
俺はもう一度仔馬を見た。
小さな体。
まだ頼りない脚。
母親のそばに寄り添う姿。
そこには、血統表の文字だけでは決してわからない、確かな命があった。
「……でも、楽しみだな」
俺が呟くと、父さんも小さく頷いた。
「ああ。そりゃそうだ」
そのときだった。
厩舎の入口から、元気な声が響いた。
「お兄ちゃーん!」
振り返ると、楓が母さんに手を引かれながらやってきた。
「赤ちゃん! 赤ちゃん生まれた!?」
「ああ。無事に生まれたぞ」
「どこ!?」
「こっち。でも、静かにな」
俺がそう言うと、楓はぴたりと足を止めた。
そして、両手で自分の口を押さえる。
その仕草があまりにも可愛らしくて、思わず笑いそうになった。
「こっちだよ」
俺は楓の手を引き、カスミの馬房へ案内した。
中では、母馬のそばに小さな仔馬が立っていた。
まだ脚元は頼りないが、夜中に何度も転びそうになっていた姿が嘘のように、しっかりと四本の脚で立っている。
「……わあ」
楓が小さな声を漏らした。
「ちっちゃい……」
「そうだな」
「かわいい……」
楓は、しばらく黙って仔馬を見つめていた。
そして、俺の服の裾を引っ張った。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「このこ、なんてなまえ?」
「まだ決めてないよ」
「えっ」
楓が驚いた顔をする。
「なまえ、ないの?」
「生まれたばかりだからな。正式な名前はもっと大きくなってから決めるけど、牧場で呼ぶ名前はそろそろ考えてもいいかな」
そう言うと、楓は真剣な顔で考え始めた。
「……うーん」
俺も、しばらく仔馬を眺めた。
春の朝。
窓から差し込む朝日が、そのまだ柔らかな毛並みを照らしている。
その光景を見ていると、ふと、ある名前が浮かんだ。
「……アカリ」
「え?」
楓が顔を上げる。
「アカリってどうかな」
「アカリ?」
「うん。朝の光みたいだから」
楓は仔馬を見つめ、それから嬉しそうに笑った。
「かわいい!」
「そう?」
「うん! アカリちゃん!」
楓が小さく手を振る。
「アカリちゃん、こんにちは!」
仔馬は、まるでその声に反応したかのように、ゆっくりとこちらへ顔を向けた。
「……おっ」
俺が声を漏らすと、楓は目を丸くした。
「お兄ちゃん! アカリちゃん、こっち見た!」
「本当だな」
「なまえ、わかったのかな?」
「どうだろうな」
俺は笑った。
「これから何度も呼んであげれば、覚えるかもしれないぞ」
「じゃあ、いっぱいよぶ!」
「でも、カスミがびっくりしないようにな」
「うん!」
楓は大きく頷いた。
そして、さっきよりずっと小さな声で呼びかけた。
「……アカリちゃん」
その声に、仔馬がもう一度顔を向ける。
楓は嬉しそうに笑った。
その横顔を見ながら、俺はふと思った。
この仔がいつか競馬場に立つ日が来たら、楓はどんな顔で応援するのだろう。
去年、トビを応援したときのように、声を枯らして名前を呼ぶのだろうか。
それとも、もっと大きくなって、今とは違う気持ちで馬を見つめるようになるのだろうか。
そんな未来のことを考えていると、後ろから祖父ちゃんの声が聞こえた。
「名前は決まったのか?」
振り返ると、祖父ちゃんと父さんが立っていた。
「うん。アカリ」
「アカリ?」
「朝の光のアカリ。楓も気に入ってくれた」
「アカリちゃん!」
楓が得意そうに繰り返す。
祖父ちゃんは仔馬を見つめ、それからゆっくりと頷いた。
「……いい名前だ」
父さんも、少し笑った。
「まあ、悪くないな」
「父さんはいつもそれだな」
「何がだ?」
「素直にいい名前だって言えばいいのに」
「悪くないって言ってるだろ」
その言葉に、母さんが笑った。
「源さん、照れてるだけよ」
「照れてねえ!」
祖父ちゃんが声を上げて笑う。
楓も、何が面白いのかわからないまま一緒になって笑っていた。
そんな家族の声を聞きながら、俺は改めて仔馬を見つめた。
アカリ。
朝霧牧場で生まれた、1981年最初の仔馬。
父サンシャインボーイ。
母アサギリカスミ。
栗毛の小さな牝馬。
まだ何も知らず、ただ母親のそばに立っている。
その姿を見ていると、不思議と胸がいっぱいになった。
去年の春、俺たちが始めた繁殖計画。
あのときは、机の上の紙に書かれた種牡馬の名前と、帳面に記された牝馬たちの名前がすべてだった。
そこから一年。
今、目の前には確かに一頭の馬がいる。
俺たちが考えた配合から生まれた、新しい命が。
「……よろしくな、アカリ」
俺は小さく声をかけた。
仔馬は、こちらを見て鼻を鳴らした。
それが返事だったのかどうかは、もちろんわからない。
けれど、俺にはそれで十分だった。
これから、たくさんのことがあるだろう。
順調に育つとは限らない。
競走馬になれる保証もない。
まして、名馬になるかどうかなんて誰にもわからない。
それでも。
この仔が生まれたことで、朝霧牧場の未来は確かに一歩進んだ。
「比呂」
祖父ちゃんが俺の肩を叩いた。
「さあ、まだまだこれからだぞ」
「……うん」
「カスミだけじゃない。ほかの牝馬たちも、これから出産が続く。忙しくなるぞ」
「そうだね」
俺は笑った。
「でも、楽しみだよ」
「そうか」
祖父ちゃんも笑った。
「なら、しっかり働け」
「もちろん!」
父さんが横から口を挟む。
「その前に、少しは寝ろ。お前、昨夜からほとんど寝てねえだろ」
「父さんだって同じじゃないか」
「俺は慣れてる」
「だから、それは理由にならないって!」
母さんが呆れたようにため息をついた。
「もう。二人とも少し休んでちょうだい。倒れられたら困るのはこっちなんだから」
その言葉に、祖父ちゃんがまた笑った。
カスミの馬房では、アカリが母親の腹の下へと顔を寄せている。
外では、朝日が放牧地を照らし始めていた。
冬を越えた三石の大地に、少しずつ春が広がっていく。
俺は、もう一度だけアカリを見た。
その小さな背中の向こうに、まだ誰も知らない未来が続いている。
そして、その未来をつくっていくのは、俺一人ではない。
父さんがいて、母さんがいて、祖父ちゃんがいて、楓がいる。
何より、ここには馬たちがいる。
この一頭から、どんな物語が始まるのだろう。
その答えを知るのは、ずっと先のことだ。
けれど今は、それでいいと思った。
朝霧牧場に、春が来た。
そして、俺たちの新しい競馬史が、ようやく最初の一歩を踏み出した。