その血は、まだ走っている ~転生した俺が紡ぐ、もう一つの競馬史~   作:ねるすと

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第七話 風を追いかける仔馬

 

 1981年4月下旬。

 

 日高の春は、少しずつ深まっていた。

 

 朝霧牧場では、カスミの仔が生まれてからも慌ただしい日々が続いていた。ほかの繁殖牝馬の出産を控え、今年の種付けの準備も進めなければならない。

 

 そんな中、アカリは順調に育っていた。

 

 生まれたばかりの頃は立ち上がるのもひと苦労だったのに、今では母親の周りを歩き回り、ときには思い出したように跳ねることもある。

 

 その様子が面白くて仕方ないらしく、楓は日に何度もカスミの馬房を覗きに来ていた。

 

「お兄ちゃん、見て!」

 

 その日も、楓が俺の袖を引っ張った。

 

「アカリ、ぴょんってした!」

 

「ああ、見てたよ」

 

「もう一回するかな?」

 

「どうだろう。アカリに聞いてみないとわからないな」

 

「アカリ、もう一回!」

 

 楓が小さな声で呼びかける。

 

 しかし、当のアカリは母親のそばに落ち着き、こちらへ尻を向けてしまった。

 

「あーあ」

 

「今日はもうおしまいみたいだね」

 

「もっと見たかったのに」

 

 楓は残念そうに口を尖らせたが、すぐにカスミへ向かって手を振った。

 

「またあとで来るね!」

 

 その言葉を聞いているかのように、カスミがこちらへ顔を向けた。

 

 俺は軽く首筋を撫でてから、楓と一緒に馬房を離れた。

 

 厩舎の外では、父さんが車の荷台を片づけていた。

 

「比呂、ちょうどよかった」

 

「どうしたの?」

 

「明日、浦河まで行くぞ。岡本さんのところへ顔を出してくる」

 

「岡本牧場?」

 

「ああ。前から寄るって言ってたんだが、なかなか時間が取れなくてな」

 

 父さんは荷台の戸を閉めながら続けた。

 

「今年の一歳馬も見せてもらえるそうだ。お前も来るか?」

 

「行くよ。ちょうどほかの牧場も見てみたいと思ってたんだ」

 

「そうか。じゃあ朝の仕事を早めに片づけよう」

 

 俺が頷くと、隣にいた楓が顔を上げた。

 

「お父さん、かえでも!」

 

「ん?」

 

「かえでもおうまさん見に行きたい!」

 

 父さんは一瞬考え、それから俺を見た。

 

「比呂、楓も連れていけそうか?」

 

「俺が見てるよ」

 

「そうか。なら母さんに聞いてみるか」

 

「やった!」

 

「まだ決まってないぞ」

 

 父さんがそう言っても、楓はすっかり行く気になっているらしい。

 

 俺の手を引っ張りながら、早く母さんのところへ行こうと急かしてきた。

 

 結局、母さんからも許しが出た。

 

 ただし、よその牧場では勝手に馬へ近づかないこと。仕事の邪魔をしないこと。

 

 そう何度も念を押され、楓は神妙な顔で頷いていた。

 

     * * *

 

 翌朝、厩舎の仕事をひと通り片づけてから、俺たちは浦河へ向かった。

 

 父さんが運転する車の窓から、春の海が見えた。

 

 日差しは暖かいものの、窓を少し開けると冷たい風が入ってくる。

 

 楓は後部座席から身を乗り出しそうになりながら、道沿いの放牧地を眺めていた。

 

「あっ、あそこにもおうまさん!」

 

「見えてるよ」

 

「こっちにも!」

 

「うん」

 

「あの子、白いね!」

 

「芦毛だな」

 

 父さんが言うと、楓は首を傾げた。

 

「あしげ?」

 

「そう。馬の毛色の名前だよ」

 

「白じゃないの?」

 

「白っぽく見えるけど、毛色にはいろんな呼び方があるんだ」

 

「ふうん……」

 

 楓はわかったような、わからないような顔で窓の外へ戻った。

 

 少しすると、また別の馬を見つけて声を上げる。

 

 まったく飽きないらしい。

 

「元気だなあ」

 

 父さんが笑った。

 

「昨日からずっと楽しみにしてたからね」

 

「そうか。連れてきてよかったな」

 

 俺もそう思った。

 

 自分の家にも馬はいる。

 

 けれど、楓にとっては知らない馬に会うことそのものが楽しいのだろう。

 

 俺だって、ほかの牧場へ行くのは好きだった。

 

 何頭も馬を育てている人の話を聞けば、自分たちだけでは気づかなかったことが見えてくる。

 

 父さんも、きっとそうして長い間、人との付き合いを続けてきたのだ。

 

 俺は窓の外へ目を向けた。

 

 遠くの牧草地には、数頭の馬が並んで草を食んでいる。

 

 ああいう景色を見るたび、日高という土地が馬とともにあることを実感する。

 

     * * *

 

 岡本牧場に到着すると、作業着姿の男性が出迎えてくれた。

 

「おお、源さん。よく来たな」

 

「岡本さん、ご無沙汰してます」

 

 父さんは笑顔で頭を下げた。

 

「息子の比呂です。こっちは娘の楓」

 

「今日はお邪魔します」

 

「こんにちは!」

 

 楓が元気よく挨拶する。

 

 岡本さんは目を細めた。

 

「これはまた、かわいいお客さんだ」

 

「おうまさん、見に来ました!」

 

「そうかそうか。うちにはいっぱいるぞ」

 

「ほんと?」

 

「ああ。ただし、大きい馬もいるから、お父さんたちの言うことをちゃんと聞くんだよ」

 

「はい!」

 

 楓の返事に、岡本さんが笑った。

 

 父さんは手土産を渡し、今年の出産状況を尋ねた。

 

 岡本さんも仕事の合間だったようで、長話はせず、まずは馬を見ながら話そうということになった。

 

 俺たちは厩舎のほうへ歩いていった。

 

 朝霧牧場とは馬房の配置が違い、通路にも余裕がある。

 

 壁に掛けられた道具の置き方や、馬房の出入り口の造りにも目が向いた。

 

「何をそんなに見てるんだ?」

 

 父さんが尋ねた。

 

「いや、うちの厩舎と結構違うなって」

 

「そりゃ、牧場ごとに違うさ」

 

 岡本さんが笑った。

 

「昔から使ってるところを少しずつ直してるんだよ。新しいものを何でも買えるわけじゃないからな」

 

「うちも同じですよ」

 

 父さんが苦笑する。

 

 そのあと二人は、最近直した馬房の仕切りの話を始めた。

 

 俺も実物を見せてもらったが、確かに使いやすそうだった。

 

 毎日の仕事に関わることだから、小さな工夫でも助かる。

 

 帰ったら一度、うちの馬房でも試してみよう。

 

 そんなことを考えていると、楓が俺の手を握った。

 

「お兄ちゃん」

 

「ん?」

 

「おうまさん、まだ?」

 

「もう少しだよ」

 

 楓には、馬房の造りの話など退屈だったらしい。

 

 父さんと岡本さんもそれに気づいたようで、今度は放牧地へ案内してくれることになった。

 

     * * *

 

 少し歩くと、柵の向こうに若駒たちの姿が見えた。

 

 何頭かが草を食み、別の一頭は少し離れたところでこちらを見ている。

 

 まだ一歳。

 

 体つきには幼さが残るが、春に生まれたばかりのアカリとは比べものにならないほど大きい。

 

「わあ……!」

 

 楓が歓声を上げた。

 

 柵へ近づこうとしたので、俺は手を握ったまま足を止めた。

 

「ここから見ような」

 

「うん!」

 

 楓は素直に頷き、柵の向こうを見つめた。

 

 岡本さんが、遠くの一頭を指差した。

 

「あの黒鹿毛、わかるかい?」

 

 俺は目を向けた。

 

 少し離れた場所に、黒鹿毛の牡馬がいた。

 

 ほかの馬と並んでも、すらりとした体つきが目に入る。

 

 首を上げ、こちらの様子を窺っているようだった。

 

「あれは千明さんのところから預かってる馬なんだ」

 

 岡本さんが言った。

 

「シービークインの仔でね。父親はトウショウボーイだ」

 

 俺は思わず、もう一度その馬を見た。

 

 シービークイン。

 

 トウショウボーイ。

 

 そして、千明牧場。

 

 聞き間違えるはずがなかった。

 

「……去年の春に生まれた牡馬ですか?」

 

「ああ。四月の初めだったかな」

 

 岡本さんは頷いた。

 

「ここで生まれて、ずっと見てきたんだよ。もうすぐ群馬のほうへ移る予定になってる」

 

「そうなんですね」

 

 俺は返事をしながら、馬から目を離せなかった。

 

 ミスターシービー。

 

 まだその名前で競馬場を走ってはいないが、間違いない。

 

 1983年。

 

 シンザン以来、十九年ぶりの三冠馬になる牡馬だ。

 

 前世の俺は、もちろんその名前を知っている。

 

 皐月賞、日本ダービー、菊花賞。

 

 後方から馬群をのみ込んでいくような、あの豪快な走りも。

 

 だが、今、目の前にいるのは、まだ一歳になったばかりの若駒だった。

 

 こんなふうに放牧地で過ごしていたのか。

 

 そう思うと、何とも不思議な気分になった。

 

「比呂?」

 

 父さんに呼ばれて顔を上げる。

 

「どうした?」

 

「いや……」

 

 俺は少し考え、それから答えた。

 

「いい馬だなと思って」

 

 父さんも黒鹿毛の牡馬を眺めた。

 

「ああ。よくまとまってるな」

 

 岡本さんが嬉しそうに笑った。

 

「源さんもそう思うかい?」

 

「ええ。まだこれから変わるでしょうけど、楽しみな馬ですね」

 

「そうなんだよ。こっちも期待してるんだ」

 

 岡本さんの声には、預かっている馬への愛着がにじんでいた。

 

「送り出したあとも、元気に育ってくれるといいんだがな」

 

 父さんが頷く。

 

「そうですね」

 

 俺はそのやり取りを聞きながら、黒鹿毛の牡馬を見つめていた。

 

 この人たちは、あの馬が三冠を取ることを知らない。

 

 それでも、ずっと世話をしてきた一頭として、心から将来を楽しみにしている。

 

 俺にはそれが、なんだか嬉しかった。

 

     * * *

 

 やがて、一頭の若駒が放牧地の奥で動き出した。

 

 最初は軽い駆け足だったが、すぐに別の馬もあとを追い始める。

 

 黒鹿毛の牡馬が顔を上げた。

 

 少しの間、仲間たちの動きを見ていたかと思うと、自分もその後を追って走り出した。

 

 長い脚が伸びる。

 

 草地を蹴り、体が前へ進む。

 

 競馬場のレースとは違う。

 

 速さを競っているわけでもなければ、決まった方向へ走るわけでもない。

 

 ただ、仲間が走り始めたから、自分も走っている。

 

 それだけのことだ。

 

 それでも、俺は思わず見入ってしまった。

 

 黒鹿毛の牡馬は、先を行く馬に追いつくと、少し大きく弧を描いて向きを変えた。

 

 肩から首へ、そして背中から後肢へ。

 

 まだ若い体が、走るたびにしなやかに動いている。

 

「ほう……」

 

 父さんが小さく声を漏らした。

 

 岡本さんも馬の動きを目で追っている。

 

 そのとき、俺の手が急に引っ張られた。

 

「お兄ちゃん!」

 

「どうした?」

 

「あの子!」

 

 楓が黒鹿毛の牡馬を指差していた。

 

「すごいね!」

 

「うん。よく走るね」

 

 楓は大きく頷いた。

 

 その顔が、ぱっと明るくなる。

 

「風みたいにはやい!」

 

 そう言うと、楓は片手を前へ伸ばし、空気を切るように動かした。

 

「ぴゅーって!」

 

 岡本さんが笑った。

 

「風みたいか。そりゃいいな」

 

「うん!」

 

 楓はもう一度、放牧地へ顔を向けた。

 

 若駒たちはしばらく走り回ったあと、ゆっくりと速度を落とした。

 

 黒鹿毛の牡馬も歩き始め、やがて草のある場所で立ち止まった。

 

「……ねえ、お兄ちゃん」

 

「ん?」

 

「あの子、走るの好きなのかな」

 

「どうして?」

 

「だって、楽しそうだったから」

 

 楓は不思議そうに俺を見上げた。

 

「お兄ちゃんは、そう思わない?」

 

 俺は、もう一度馬を見た。

 

 さっきまで勢いよく走っていた牡馬は、何事もなかったように草を食んでいる。

 

「……そうだね」

 

 俺は笑った。

 

「楽しそうだったな」

 

 楓も嬉しそうに笑った。

 

 大人は馬体を見て、脚の動きを見て、血統を考える。

 

 俺も父さんも、自然とそういう見方をしていた。

 

 楓は違う。

 

 目の前の馬が走る姿を見て、ただ楽しそうだと思ったのだ。

 

 まだ小さな妹には、そういう見方がある。

 

 俺は、何となくそれを忘れたくないと思った。

 

     * * *

 

 そのあと、岡本さんはほかの一歳馬も見せてくれた。

 

 父さんは一頭ずつ歩様を確かめ、気になったところを岡本さんに尋ねていた。

 

 俺もできるだけ話を聞いた。

 

 血統の話は、ある程度なら自分でもできる。

 

 だが、実際に馬を育てている人の話は、それだけでは足りないことを教えてくれる。

 

 同じ年に生まれた馬でも、成長の早い仔もいれば、時間のかかる仔もいる。

 

 食べ方も、性格も、体の使い方も違う。

 

 だからこそ、毎日見ている人の言葉には重みがあった。

 

「比呂君は、配合を考えるのが好きなんだって?」

 

 岡本さんが尋ねた。

 

「はい。去年から父と一緒に考えさせてもらってます」

 

「そりゃいいな。どんな馬をつくりたいんだい?」

 

 突然そう聞かれて、俺は少し考えた。

 

「……丈夫で、長く走れる馬ですかね」

 

 岡本さんが頷く。

 

「それが一番だな」

 

「もちろん、速い馬が生まれてくれたら嬉しいですけど」

 

「ははは。そりゃ俺たちみんな同じだ」

 

 父さんも笑った。

 

「こいつは結構、夢が大きいんですよ」

 

「いいじゃないか。若いんだから」

 

 岡本さんはそう言ってから、放牧地へ目を向けた。

 

「ただ、こうして見てると、馬は一頭ずつ違うってのがよくわかるだろう」

 

「はい」

 

「期待したとおりに育つ仔もいれば、そうじゃない仔もいる。何年やってても、簡単にはいかんよ」

 

 俺は頷いた。

 

 その言葉は、よくわかった。

 

 未来の競馬史を知っている俺でも、これから朝霧牧場で生まれる馬がどうなるかまではわからない。

 

 血統だけで結果が決まるなら、馬づくりに苦労する人間はいないだろう。

 

 父さんが、隣で静かに口を開いた。

 

「だから毎年、懲りずにやるんでしょうね」

 

 岡本さんが笑う。

 

「違いない」

 

 二人は顔を見合わせた。

 

 俺も、つられて笑った。

 

     * * *

 

 帰る前に、岡本さんはもう一度、シービークインの仔がいる放牧地へ案内してくれた。

 

 楓が、どうしても最後に見たいと言い出したからだ。

 

「気に入ったんだなあ、あの黒い仔が」

 

 岡本さんが言う。

 

「うん!」

 

 楓は迷わず頷いた。

 

「でもね、もう行っちゃうんでしょ?」

 

「ああ。来月には群馬へ行く予定だよ」

 

「そっか……」

 

 楓は少し寂しそうな顔をした。

 

「もう会えないの?」

 

「そんなことないさ。いつか競馬場で走るかもしれないからね」

 

「競馬場?」

 

「ああ。立派な競走馬になってくれたら、俺も嬉しいよ」

 

 楓はそれを聞くと、黒鹿毛の牡馬へ向き直った。

 

「じゃあ、かえでも応援する!」

 

「おお。そいつは心強いな」

 

 父さんが笑いながら言った。

 

「名前も知らないのに、もう応援するのか?」

 

「うん!」

 

「どうしてだ?」

 

「だって、好きだもん!」

 

 あまりに迷いのない答えだったので、俺まで笑ってしまった。

 

 父さんは楓の頭を撫でた。

 

「そうか。なら、いつか競馬場で走るようになったら、ちゃんと応援してやろうな」

 

「約束ね!」

 

「ああ、約束だ」

 

 楓は満足そうに頷いた。

 

 それから柵の向こうへ、小さく手を振った。

 

「ばいばい!」

 

 黒鹿毛の牡馬は、こちらを見ていなかった。

 

 草を食べるのに夢中のようだった。

 

 楓は少し残念そうにしたが、すぐに笑った。

 

「またね!」

 

 その言葉が、春の風に乗って放牧地へ流れていった。

 

     * * *

 

 帰り道。

 

 楓は窓の外を眺めながら、時折、今日見てきた馬の話をしていた。

 

「あの黒い子、いっぱい走ってたね」

 

「そうだね」

 

「お兄ちゃんは、どの子が好きだった?」

 

「俺も、あの黒鹿毛かな」

 

「いっしょだ!」

 

 楓が嬉しそうに笑った。

 

「父さんは?」

 

 俺が尋ねると、父さんは少し考えた。

 

「俺もあの馬はよかったと思うぞ。ただ、ほかにも面白そうな仔がいたな」

 

「えー、どの子?」

 

「最後に見せてもらった鹿毛の牡馬も、なかなかよかった」

 

「あの子?」

 

「そうだ」

 

 楓はしばらく考えていたが、やがて首を横に振った。

 

「かえでは黒い子が好き!」

 

「ははは。そうかそうか」

 

 父さんは楽しそうに笑っていた。

 

 俺は窓の外へ目を向けた。

 

 今日、俺たちが見てきた黒鹿毛の牡馬。

 

 あと二年もすれば、日本中の競馬ファンがその名前を知ることになる。

 

 ただ、あの馬が三冠を取ると知っているのは、今この車の中では俺だけだ。

 

 父さんも、楓も知らない。

 

 もちろん、岡本さんだってそうだろう。

 

 それでも、みんながあの馬の将来を楽しみにしていた。

 

 俺は、そこがいいと思った。

 

 未来を知らなくても、人は馬に期待する。

 

 どんな競走馬になるだろう。

 

 どんな走りを見せてくれるだろう。

 

 そんなふうに想像しながら、毎日世話をして、やがて送り出していく。

 

 考えてみれば、俺たちがやっているのも同じことだ。

 

「……比呂」

 

 父さんに呼ばれ、顔を上げた。

 

「今日はどうだった?」

 

「うん。来てよかったよ」

 

「そうか」

 

「馬も見られたし、いろいろ勉強になった」

 

「それならよかった」

 

 父さんは前を見たまま言った。

 

「岡本さんとは、これからも付き合いがあるだろうからな。お前も顔を覚えてもらって損はないぞ」

 

「うん。また行きたいね」

 

「ああ」

 

 俺は、その言葉に頷いた。

 

 いつか自分が牧場の仕事を中心になって進めるようになったとき、こうした付き合いも引き継いでいくのだろう。

 

 まだ、父さんに教わることは山ほどある。

 

     * * *

 

 牧場へ戻ると、楓は真っ先に母さんのところへ駆けていった。

 

「お母さん!」

 

「あら、お帰り。楽しかった?」

 

「うん! すっごく速いおうまさんがいたの!」

 

「そうなの?」

 

「黒い子でね、風みたいに走るんだよ!」

 

 楓は両手を広げ、走る真似をした。

 

 母さんが笑う。

 

「そんなに速かったの?」

 

「うん! かえで、あの子が好き!」

 

 父さんが靴を脱ぎながら言った。

 

「すっかり気に入ったみたいでな。帰る前にも、もう一回見たいって言い出したんだ」

 

「まあ」

 

 母さんは楓の頭を撫でた。

 

「いい馬に会えてよかったわね」

 

「うん!」

 

 ひとしきり話したあと、楓は俺のほうへ振り向いた。

 

「お兄ちゃん、アカリ見に行こう!」

 

「もう行くのか?」

 

「うん! アカリにもお話しする!」

 

 俺は笑って頷いた。

 

「じゃあ、ちょっとだけな」

 

 二人で厩舎へ向かうと、カスミは落ち着いた様子で立っていた。

 

 そのそばでは、アカリが小さな脚を動かしている。

 

「アカリ、ただいま!」

 

 楓が声をかけた。

 

 アカリは一度こちらへ顔を向けたが、すぐに母親のほうへ歩いていった。

 

「今日ね、黒くて速いおうまさんを見たんだよ」

 

 楓は楽しそうに話し始めた。

 

「すっごく走るのが好きみたいだったの!」

 

 もちろん、アカリに言葉が通じるわけではない。

 

 それでも楓は、一生懸命話しかけている。

 

 俺は、その隣でカスミの様子を確かめた。

 

 母仔ともに変わったところはなさそうだった。

 

「ねえ、お兄ちゃん」

 

「ん?」

 

「アカリも、いつか競馬場で走るの?」

 

「そうなるといいね」

 

「そしたら、かえでが応援する!」

 

「ああ。きっと喜ぶよ」

 

 楓は満足そうに頷いた。

 

 俺は馬房の中へ目を向けた。

 

 今日見てきたシービークインの仔は、やがて群馬へ渡る。

 

 そして、このアカリもいつか、朝霧牧場を離れる日が来るのだろう。

 

 そのとき、俺はどんな気持ちで送り出すのだろうか。

 

 父さんや岡本さんのように、笑って送り出せるだろうか。

 

「お兄ちゃん?」

 

 楓の声に、我に返った。

 

「どうした?」

 

「アカリ、眠そう」

 

 見ると、アカリが母親のそばで落ち着き、じっとしていた。

 

「そうだね。今日はそろそろ戻ろうか」

 

「うん」

 

 楓は馬房へ小さく手を振った。

 

「アカリ、また明日ね」

 

 俺もカスミの首を軽く撫で、楓と一緒に厩舎を出た。

 

 外はまだ明るく、春の風が牧草地を渡っていた。

 

 楓が俺の手を握り直す。

 

「お兄ちゃん」

 

「何?」

 

「いつか、あの黒い子が走るところ、また見ようね」

 

「ああ」

 

 俺は頷いた。

 

「約束だ」

 

 楓は嬉しそうに笑った。

 

 その笑顔を見ながら、俺は二年後のことを思った。

 

 あの黒鹿毛の牡馬が、どれほど多くの人を驚かせるのか。

 

 今の楓には、まだ想像もできないだろう。

 

 だが、そのときが来たら。

 

 今日のことを話してやろうと思う。

 

 まだ名前も知らなかった頃、浦河の放牧地で走るあの馬を見て、風みたいだと言ったことを。

 

 その馬が、のちにミスターシービーと呼ばれるようになったことを。

 

 そして、何より。

 

 楓があの馬の走る姿を、本当に楽しそうに見ていたことを。

 

 春の風が、俺たちの間を吹き抜けていった。

 

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