その血は、まだ走っている ~転生した俺が紡ぐ、もう一つの競馬史~ 作:ねるすと
1981年4月下旬。
日高の春は、少しずつ深まっていた。
朝霧牧場では、カスミの仔が生まれてからも慌ただしい日々が続いていた。ほかの繁殖牝馬の出産を控え、今年の種付けの準備も進めなければならない。
そんな中、アカリは順調に育っていた。
生まれたばかりの頃は立ち上がるのもひと苦労だったのに、今では母親の周りを歩き回り、ときには思い出したように跳ねることもある。
その様子が面白くて仕方ないらしく、楓は日に何度もカスミの馬房を覗きに来ていた。
「お兄ちゃん、見て!」
その日も、楓が俺の袖を引っ張った。
「アカリ、ぴょんってした!」
「ああ、見てたよ」
「もう一回するかな?」
「どうだろう。アカリに聞いてみないとわからないな」
「アカリ、もう一回!」
楓が小さな声で呼びかける。
しかし、当のアカリは母親のそばに落ち着き、こちらへ尻を向けてしまった。
「あーあ」
「今日はもうおしまいみたいだね」
「もっと見たかったのに」
楓は残念そうに口を尖らせたが、すぐにカスミへ向かって手を振った。
「またあとで来るね!」
その言葉を聞いているかのように、カスミがこちらへ顔を向けた。
俺は軽く首筋を撫でてから、楓と一緒に馬房を離れた。
厩舎の外では、父さんが車の荷台を片づけていた。
「比呂、ちょうどよかった」
「どうしたの?」
「明日、浦河まで行くぞ。岡本さんのところへ顔を出してくる」
「岡本牧場?」
「ああ。前から寄るって言ってたんだが、なかなか時間が取れなくてな」
父さんは荷台の戸を閉めながら続けた。
「今年の一歳馬も見せてもらえるそうだ。お前も来るか?」
「行くよ。ちょうどほかの牧場も見てみたいと思ってたんだ」
「そうか。じゃあ朝の仕事を早めに片づけよう」
俺が頷くと、隣にいた楓が顔を上げた。
「お父さん、かえでも!」
「ん?」
「かえでもおうまさん見に行きたい!」
父さんは一瞬考え、それから俺を見た。
「比呂、楓も連れていけそうか?」
「俺が見てるよ」
「そうか。なら母さんに聞いてみるか」
「やった!」
「まだ決まってないぞ」
父さんがそう言っても、楓はすっかり行く気になっているらしい。
俺の手を引っ張りながら、早く母さんのところへ行こうと急かしてきた。
結局、母さんからも許しが出た。
ただし、よその牧場では勝手に馬へ近づかないこと。仕事の邪魔をしないこと。
そう何度も念を押され、楓は神妙な顔で頷いていた。
* * *
翌朝、厩舎の仕事をひと通り片づけてから、俺たちは浦河へ向かった。
父さんが運転する車の窓から、春の海が見えた。
日差しは暖かいものの、窓を少し開けると冷たい風が入ってくる。
楓は後部座席から身を乗り出しそうになりながら、道沿いの放牧地を眺めていた。
「あっ、あそこにもおうまさん!」
「見えてるよ」
「こっちにも!」
「うん」
「あの子、白いね!」
「芦毛だな」
父さんが言うと、楓は首を傾げた。
「あしげ?」
「そう。馬の毛色の名前だよ」
「白じゃないの?」
「白っぽく見えるけど、毛色にはいろんな呼び方があるんだ」
「ふうん……」
楓はわかったような、わからないような顔で窓の外へ戻った。
少しすると、また別の馬を見つけて声を上げる。
まったく飽きないらしい。
「元気だなあ」
父さんが笑った。
「昨日からずっと楽しみにしてたからね」
「そうか。連れてきてよかったな」
俺もそう思った。
自分の家にも馬はいる。
けれど、楓にとっては知らない馬に会うことそのものが楽しいのだろう。
俺だって、ほかの牧場へ行くのは好きだった。
何頭も馬を育てている人の話を聞けば、自分たちだけでは気づかなかったことが見えてくる。
父さんも、きっとそうして長い間、人との付き合いを続けてきたのだ。
俺は窓の外へ目を向けた。
遠くの牧草地には、数頭の馬が並んで草を食んでいる。
ああいう景色を見るたび、日高という土地が馬とともにあることを実感する。
* * *
岡本牧場に到着すると、作業着姿の男性が出迎えてくれた。
「おお、源さん。よく来たな」
「岡本さん、ご無沙汰してます」
父さんは笑顔で頭を下げた。
「息子の比呂です。こっちは娘の楓」
「今日はお邪魔します」
「こんにちは!」
楓が元気よく挨拶する。
岡本さんは目を細めた。
「これはまた、かわいいお客さんだ」
「おうまさん、見に来ました!」
「そうかそうか。うちにはいっぱいるぞ」
「ほんと?」
「ああ。ただし、大きい馬もいるから、お父さんたちの言うことをちゃんと聞くんだよ」
「はい!」
楓の返事に、岡本さんが笑った。
父さんは手土産を渡し、今年の出産状況を尋ねた。
岡本さんも仕事の合間だったようで、長話はせず、まずは馬を見ながら話そうということになった。
俺たちは厩舎のほうへ歩いていった。
朝霧牧場とは馬房の配置が違い、通路にも余裕がある。
壁に掛けられた道具の置き方や、馬房の出入り口の造りにも目が向いた。
「何をそんなに見てるんだ?」
父さんが尋ねた。
「いや、うちの厩舎と結構違うなって」
「そりゃ、牧場ごとに違うさ」
岡本さんが笑った。
「昔から使ってるところを少しずつ直してるんだよ。新しいものを何でも買えるわけじゃないからな」
「うちも同じですよ」
父さんが苦笑する。
そのあと二人は、最近直した馬房の仕切りの話を始めた。
俺も実物を見せてもらったが、確かに使いやすそうだった。
毎日の仕事に関わることだから、小さな工夫でも助かる。
帰ったら一度、うちの馬房でも試してみよう。
そんなことを考えていると、楓が俺の手を握った。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「おうまさん、まだ?」
「もう少しだよ」
楓には、馬房の造りの話など退屈だったらしい。
父さんと岡本さんもそれに気づいたようで、今度は放牧地へ案内してくれることになった。
* * *
少し歩くと、柵の向こうに若駒たちの姿が見えた。
何頭かが草を食み、別の一頭は少し離れたところでこちらを見ている。
まだ一歳。
体つきには幼さが残るが、春に生まれたばかりのアカリとは比べものにならないほど大きい。
「わあ……!」
楓が歓声を上げた。
柵へ近づこうとしたので、俺は手を握ったまま足を止めた。
「ここから見ような」
「うん!」
楓は素直に頷き、柵の向こうを見つめた。
岡本さんが、遠くの一頭を指差した。
「あの黒鹿毛、わかるかい?」
俺は目を向けた。
少し離れた場所に、黒鹿毛の牡馬がいた。
ほかの馬と並んでも、すらりとした体つきが目に入る。
首を上げ、こちらの様子を窺っているようだった。
「あれは千明さんのところから預かってる馬なんだ」
岡本さんが言った。
「シービークインの仔でね。父親はトウショウボーイだ」
俺は思わず、もう一度その馬を見た。
シービークイン。
トウショウボーイ。
そして、千明牧場。
聞き間違えるはずがなかった。
「……去年の春に生まれた牡馬ですか?」
「ああ。四月の初めだったかな」
岡本さんは頷いた。
「ここで生まれて、ずっと見てきたんだよ。もうすぐ群馬のほうへ移る予定になってる」
「そうなんですね」
俺は返事をしながら、馬から目を離せなかった。
ミスターシービー。
まだその名前で競馬場を走ってはいないが、間違いない。
1983年。
シンザン以来、十九年ぶりの三冠馬になる牡馬だ。
前世の俺は、もちろんその名前を知っている。
皐月賞、日本ダービー、菊花賞。
後方から馬群をのみ込んでいくような、あの豪快な走りも。
だが、今、目の前にいるのは、まだ一歳になったばかりの若駒だった。
こんなふうに放牧地で過ごしていたのか。
そう思うと、何とも不思議な気分になった。
「比呂?」
父さんに呼ばれて顔を上げる。
「どうした?」
「いや……」
俺は少し考え、それから答えた。
「いい馬だなと思って」
父さんも黒鹿毛の牡馬を眺めた。
「ああ。よくまとまってるな」
岡本さんが嬉しそうに笑った。
「源さんもそう思うかい?」
「ええ。まだこれから変わるでしょうけど、楽しみな馬ですね」
「そうなんだよ。こっちも期待してるんだ」
岡本さんの声には、預かっている馬への愛着がにじんでいた。
「送り出したあとも、元気に育ってくれるといいんだがな」
父さんが頷く。
「そうですね」
俺はそのやり取りを聞きながら、黒鹿毛の牡馬を見つめていた。
この人たちは、あの馬が三冠を取ることを知らない。
それでも、ずっと世話をしてきた一頭として、心から将来を楽しみにしている。
俺にはそれが、なんだか嬉しかった。
* * *
やがて、一頭の若駒が放牧地の奥で動き出した。
最初は軽い駆け足だったが、すぐに別の馬もあとを追い始める。
黒鹿毛の牡馬が顔を上げた。
少しの間、仲間たちの動きを見ていたかと思うと、自分もその後を追って走り出した。
長い脚が伸びる。
草地を蹴り、体が前へ進む。
競馬場のレースとは違う。
速さを競っているわけでもなければ、決まった方向へ走るわけでもない。
ただ、仲間が走り始めたから、自分も走っている。
それだけのことだ。
それでも、俺は思わず見入ってしまった。
黒鹿毛の牡馬は、先を行く馬に追いつくと、少し大きく弧を描いて向きを変えた。
肩から首へ、そして背中から後肢へ。
まだ若い体が、走るたびにしなやかに動いている。
「ほう……」
父さんが小さく声を漏らした。
岡本さんも馬の動きを目で追っている。
そのとき、俺の手が急に引っ張られた。
「お兄ちゃん!」
「どうした?」
「あの子!」
楓が黒鹿毛の牡馬を指差していた。
「すごいね!」
「うん。よく走るね」
楓は大きく頷いた。
その顔が、ぱっと明るくなる。
「風みたいにはやい!」
そう言うと、楓は片手を前へ伸ばし、空気を切るように動かした。
「ぴゅーって!」
岡本さんが笑った。
「風みたいか。そりゃいいな」
「うん!」
楓はもう一度、放牧地へ顔を向けた。
若駒たちはしばらく走り回ったあと、ゆっくりと速度を落とした。
黒鹿毛の牡馬も歩き始め、やがて草のある場所で立ち止まった。
「……ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
「あの子、走るの好きなのかな」
「どうして?」
「だって、楽しそうだったから」
楓は不思議そうに俺を見上げた。
「お兄ちゃんは、そう思わない?」
俺は、もう一度馬を見た。
さっきまで勢いよく走っていた牡馬は、何事もなかったように草を食んでいる。
「……そうだね」
俺は笑った。
「楽しそうだったな」
楓も嬉しそうに笑った。
大人は馬体を見て、脚の動きを見て、血統を考える。
俺も父さんも、自然とそういう見方をしていた。
楓は違う。
目の前の馬が走る姿を見て、ただ楽しそうだと思ったのだ。
まだ小さな妹には、そういう見方がある。
俺は、何となくそれを忘れたくないと思った。
* * *
そのあと、岡本さんはほかの一歳馬も見せてくれた。
父さんは一頭ずつ歩様を確かめ、気になったところを岡本さんに尋ねていた。
俺もできるだけ話を聞いた。
血統の話は、ある程度なら自分でもできる。
だが、実際に馬を育てている人の話は、それだけでは足りないことを教えてくれる。
同じ年に生まれた馬でも、成長の早い仔もいれば、時間のかかる仔もいる。
食べ方も、性格も、体の使い方も違う。
だからこそ、毎日見ている人の言葉には重みがあった。
「比呂君は、配合を考えるのが好きなんだって?」
岡本さんが尋ねた。
「はい。去年から父と一緒に考えさせてもらってます」
「そりゃいいな。どんな馬をつくりたいんだい?」
突然そう聞かれて、俺は少し考えた。
「……丈夫で、長く走れる馬ですかね」
岡本さんが頷く。
「それが一番だな」
「もちろん、速い馬が生まれてくれたら嬉しいですけど」
「ははは。そりゃ俺たちみんな同じだ」
父さんも笑った。
「こいつは結構、夢が大きいんですよ」
「いいじゃないか。若いんだから」
岡本さんはそう言ってから、放牧地へ目を向けた。
「ただ、こうして見てると、馬は一頭ずつ違うってのがよくわかるだろう」
「はい」
「期待したとおりに育つ仔もいれば、そうじゃない仔もいる。何年やってても、簡単にはいかんよ」
俺は頷いた。
その言葉は、よくわかった。
未来の競馬史を知っている俺でも、これから朝霧牧場で生まれる馬がどうなるかまではわからない。
血統だけで結果が決まるなら、馬づくりに苦労する人間はいないだろう。
父さんが、隣で静かに口を開いた。
「だから毎年、懲りずにやるんでしょうね」
岡本さんが笑う。
「違いない」
二人は顔を見合わせた。
俺も、つられて笑った。
* * *
帰る前に、岡本さんはもう一度、シービークインの仔がいる放牧地へ案内してくれた。
楓が、どうしても最後に見たいと言い出したからだ。
「気に入ったんだなあ、あの黒い仔が」
岡本さんが言う。
「うん!」
楓は迷わず頷いた。
「でもね、もう行っちゃうんでしょ?」
「ああ。来月には群馬へ行く予定だよ」
「そっか……」
楓は少し寂しそうな顔をした。
「もう会えないの?」
「そんなことないさ。いつか競馬場で走るかもしれないからね」
「競馬場?」
「ああ。立派な競走馬になってくれたら、俺も嬉しいよ」
楓はそれを聞くと、黒鹿毛の牡馬へ向き直った。
「じゃあ、かえでも応援する!」
「おお。そいつは心強いな」
父さんが笑いながら言った。
「名前も知らないのに、もう応援するのか?」
「うん!」
「どうしてだ?」
「だって、好きだもん!」
あまりに迷いのない答えだったので、俺まで笑ってしまった。
父さんは楓の頭を撫でた。
「そうか。なら、いつか競馬場で走るようになったら、ちゃんと応援してやろうな」
「約束ね!」
「ああ、約束だ」
楓は満足そうに頷いた。
それから柵の向こうへ、小さく手を振った。
「ばいばい!」
黒鹿毛の牡馬は、こちらを見ていなかった。
草を食べるのに夢中のようだった。
楓は少し残念そうにしたが、すぐに笑った。
「またね!」
その言葉が、春の風に乗って放牧地へ流れていった。
* * *
帰り道。
楓は窓の外を眺めながら、時折、今日見てきた馬の話をしていた。
「あの黒い子、いっぱい走ってたね」
「そうだね」
「お兄ちゃんは、どの子が好きだった?」
「俺も、あの黒鹿毛かな」
「いっしょだ!」
楓が嬉しそうに笑った。
「父さんは?」
俺が尋ねると、父さんは少し考えた。
「俺もあの馬はよかったと思うぞ。ただ、ほかにも面白そうな仔がいたな」
「えー、どの子?」
「最後に見せてもらった鹿毛の牡馬も、なかなかよかった」
「あの子?」
「そうだ」
楓はしばらく考えていたが、やがて首を横に振った。
「かえでは黒い子が好き!」
「ははは。そうかそうか」
父さんは楽しそうに笑っていた。
俺は窓の外へ目を向けた。
今日、俺たちが見てきた黒鹿毛の牡馬。
あと二年もすれば、日本中の競馬ファンがその名前を知ることになる。
ただ、あの馬が三冠を取ると知っているのは、今この車の中では俺だけだ。
父さんも、楓も知らない。
もちろん、岡本さんだってそうだろう。
それでも、みんながあの馬の将来を楽しみにしていた。
俺は、そこがいいと思った。
未来を知らなくても、人は馬に期待する。
どんな競走馬になるだろう。
どんな走りを見せてくれるだろう。
そんなふうに想像しながら、毎日世話をして、やがて送り出していく。
考えてみれば、俺たちがやっているのも同じことだ。
「……比呂」
父さんに呼ばれ、顔を上げた。
「今日はどうだった?」
「うん。来てよかったよ」
「そうか」
「馬も見られたし、いろいろ勉強になった」
「それならよかった」
父さんは前を見たまま言った。
「岡本さんとは、これからも付き合いがあるだろうからな。お前も顔を覚えてもらって損はないぞ」
「うん。また行きたいね」
「ああ」
俺は、その言葉に頷いた。
いつか自分が牧場の仕事を中心になって進めるようになったとき、こうした付き合いも引き継いでいくのだろう。
まだ、父さんに教わることは山ほどある。
* * *
牧場へ戻ると、楓は真っ先に母さんのところへ駆けていった。
「お母さん!」
「あら、お帰り。楽しかった?」
「うん! すっごく速いおうまさんがいたの!」
「そうなの?」
「黒い子でね、風みたいに走るんだよ!」
楓は両手を広げ、走る真似をした。
母さんが笑う。
「そんなに速かったの?」
「うん! かえで、あの子が好き!」
父さんが靴を脱ぎながら言った。
「すっかり気に入ったみたいでな。帰る前にも、もう一回見たいって言い出したんだ」
「まあ」
母さんは楓の頭を撫でた。
「いい馬に会えてよかったわね」
「うん!」
ひとしきり話したあと、楓は俺のほうへ振り向いた。
「お兄ちゃん、アカリ見に行こう!」
「もう行くのか?」
「うん! アカリにもお話しする!」
俺は笑って頷いた。
「じゃあ、ちょっとだけな」
二人で厩舎へ向かうと、カスミは落ち着いた様子で立っていた。
そのそばでは、アカリが小さな脚を動かしている。
「アカリ、ただいま!」
楓が声をかけた。
アカリは一度こちらへ顔を向けたが、すぐに母親のほうへ歩いていった。
「今日ね、黒くて速いおうまさんを見たんだよ」
楓は楽しそうに話し始めた。
「すっごく走るのが好きみたいだったの!」
もちろん、アカリに言葉が通じるわけではない。
それでも楓は、一生懸命話しかけている。
俺は、その隣でカスミの様子を確かめた。
母仔ともに変わったところはなさそうだった。
「ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
「アカリも、いつか競馬場で走るの?」
「そうなるといいね」
「そしたら、かえでが応援する!」
「ああ。きっと喜ぶよ」
楓は満足そうに頷いた。
俺は馬房の中へ目を向けた。
今日見てきたシービークインの仔は、やがて群馬へ渡る。
そして、このアカリもいつか、朝霧牧場を離れる日が来るのだろう。
そのとき、俺はどんな気持ちで送り出すのだろうか。
父さんや岡本さんのように、笑って送り出せるだろうか。
「お兄ちゃん?」
楓の声に、我に返った。
「どうした?」
「アカリ、眠そう」
見ると、アカリが母親のそばで落ち着き、じっとしていた。
「そうだね。今日はそろそろ戻ろうか」
「うん」
楓は馬房へ小さく手を振った。
「アカリ、また明日ね」
俺もカスミの首を軽く撫で、楓と一緒に厩舎を出た。
外はまだ明るく、春の風が牧草地を渡っていた。
楓が俺の手を握り直す。
「お兄ちゃん」
「何?」
「いつか、あの黒い子が走るところ、また見ようね」
「ああ」
俺は頷いた。
「約束だ」
楓は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見ながら、俺は二年後のことを思った。
あの黒鹿毛の牡馬が、どれほど多くの人を驚かせるのか。
今の楓には、まだ想像もできないだろう。
だが、そのときが来たら。
今日のことを話してやろうと思う。
まだ名前も知らなかった頃、浦河の放牧地で走るあの馬を見て、風みたいだと言ったことを。
その馬が、のちにミスターシービーと呼ばれるようになったことを。
そして、何より。
楓があの馬の走る姿を、本当に楽しそうに見ていたことを。
春の風が、俺たちの間を吹き抜けていった。