その血は、まだ走っている ~転生した俺が紡ぐ、もう一つの競馬史~ 作:ねるすと
1982年10月。
朝霧牧場では、2歳馬を送り出す準備が進んでいた。
その中に、ナギがいた。
1981年にシノノメが産んだ牡馬で、父はシーホーク。
生まれた頃からおっとりした性格で、ほかの馬が騒いでいても、少し離れたところで平然としていることが多かった。
だが、走るのが遅いわけではない。
放牧地では、大きな歩幅で悠々と走り、気がつけばほかの馬を追い抜いていることもあった。
そんなナギを、浜田宗一郎さんが買ってくれることになった。
浜田さんは、トビことミナトカゼの馬主でもある。
以前から朝霧牧場の馬を気にかけてくれていて、今回も何度か牧場へ足を運び、父さんと話をしたうえで購入を決めてくれた。
「比呂、馬運車が来る前にもう1回確認しておいてくれ」
「わかった。書類と荷物はもうまとめてあるよ」
父さんに答え、俺はナギの馬房へ向かった。
必要な準備は済ませてある。あとは体調と脚元を確かめ、送り出すだけだ。
馬房を覗くと、ナギはいつもどおり、のんびりと飼葉を食べていた。
「お前、今日から新しいところへ行くんだぞ」
声をかけても、耳が少し動いただけだった。
「……相変わらずだな」
俺は苦笑した。
ナギは、1980年に俺と父さんが考えた配合から生まれた馬だ。
あの年から、俺は種牡馬の選定や種付け料の計算など、繁殖計画に本格的に関わるようになった。
シノノメにシーホークを選んだのも、その中での判断だった。
父さんが長年培ってきた馬を見る目と、俺が前世の知識をもとに考えた配合。
その両方を合わせて生まれたのが、このナギだ。
これから育成先で調教を受け、競走馬としての準備を進めていく。
どんな競走馬になるのかは、まだわからない。
ただ、丈夫に育ってくれたことは嬉しかった。
「お兄ちゃん」
振り返ると、楓が馬房の入口に立っていた。
「ナギ、もう行っちゃうの?」
「うん。もうすぐ車が来るよ」
楓はナギを見つめた。
「競馬場で走るため?」
「そうだよ。これからいっぱい練習するんだ」
「そっか……」
楓は少し考えてから、俺の顔を見た。
「競馬場で走ったら、見に行ける?」
「北海道で走るなら、行けるかもしれないね」
「じゃあ、頑張ってほしいな」
そう言って、楓はナギへ顔を向けた。
「ナギ、競馬場でも頑張ってね」
ナギは一度こちらを向いたが、すぐにまた飼葉へ戻ってしまった。
「……聞いてないみたい」
「聞こえてるよ、きっと」
「本当かなあ」
楓が少し不満そうに言うので、俺は笑ってしまった。
やがて馬運車が到着した。
父さんと俺は担当者と確認を済ませ、ナギを車へ誘導する。
少し立ち止まる場面はあったものの、大きく手を焼くこともなく乗ってくれた。
扉が閉まり、車がゆっくりと動き出す。
「ナギ、またね!」
楓が大きく手を振った。
俺も小さく手を上げる。
車が見えなくなるまで、父さんは黙って見送っていた。
「……寂しくなるね」
俺が言うと、父さんは笑った。
「毎年のことだろ」
「それはそうだけどさ」
「寂しいくらいでちょうどいい。何とも思わなくなったら、それはそれで困る」
そう言って、父さんは厩舎へ向かった。
「ほら、仕事に戻るぞ」
「はいはい」
俺もそのあとに続いた。
* * *
11月7日。
朝食を終えた頃、父さんが競馬新聞を持って居間へ入ってきた。
「比呂、これ見てみろ」
「何かあった?」
「岡本さんのところにいた馬だ」
新聞を受け取り、見出しに目を落とす。
東京競馬場、3歳新馬戦。
芝1,600メートル。
勝ち馬、ミスターシービー。
「……勝ったんだ」
思わず声が出た。
1982年11月6日。
あの黒鹿毛の牡馬が、ついに競馬場でデビューしたのだ。
「昨日、岡本さんから電話があってな」
父さんが嬉しそうに言った。
「シービークインの仔が勝ったって、わざわざ教えてくれたんだよ」
「そりゃ嬉しいだろうね」
「ああ。あそこにいた頃から期待されてた馬だからな」
俺は新聞に載った名前を眺めた。
ミスターシービー。
去年の春、浦河の岡本牧場で楓が「風みたいに速い」と言った、あの馬だ。
あれから1年半。
今では立派な競走馬となり、東京競馬場で最初の勝利を手にした。
「楓にも教えてやるか」
父さんが言った。
「あの馬、ずいぶん気に入ってただろ」
「うん。きっと喜ぶよ」
ちょうどそのとき、楓が廊下から顔を出した。
「何の話?」
「楓、去年岡本牧場で見た黒い馬、覚えてる?」
俺が尋ねると、楓はすぐに頷いた。
「覚えてるよ! すごく速かった子でしょ?」
「そう。その馬が昨日、競馬場で勝ったんだ」
「えっ、本当に?」
「ミスターシービーっていう名前になったんだよ」
「ミスターシービー……」
楓は、ゆっくりと名前を繰り返した。
「新聞に載ってる?」
「ここだよ」
俺が指差すと、楓は新聞を覗き込んだ。
「この馬なんだ!」
「そうだよ」
「次も勝てるかな?」
「どうだろうね。でも、楽しみだな」
楓は嬉しそうに笑った。
「次のレースも教えてね!」
「ああ、わかった」
俺が答えると、楓はもう一度新聞を眺めてから、満足そうに居間を出ていった。
父さんが笑う。
「すっかりファンだな」
「そうだね」
俺も笑いながら、新聞を畳んだ。
* * *
年が明け、1983年。
朝霧牧場は、今年も慌ただしい春を迎えた。
繁殖牝馬の出産予定を確認し、種付けに向けた準備を進める。
毎年のこととはいえ、この時期は気を抜けない。
母さんは馬たちの体調を細かく確認し、父さんは種付けの段取りや外部との交渉に追われていた。
俺も、現場の仕事をこなしながら繁殖計画の帳面と向き合う時間が増えていた。
種付け料をどこまでかけられるか。
今年の産駒をどう売っていくか。
1頭ごとの判断が、その後の牧場の経営にも関わってくる。
未来の名馬を知っているからといって、好きな種牡馬を何でも付けられるわけではない。
それが、小さな牧場の現実だった。
そんな春、競馬新聞を賑わせていたのがミスターシービーだった。
2月の共同通信杯4歳ステークス。
3月の弥生賞。
重賞を続けて勝ち、クラシックの有力候補として名前が挙がるようになっていた。
「いやあ、あの馬は本物だな」
父さんも、新聞を見るたびに嬉しそうだった。
「岡本さんも喜んでるだろうね」
「ああ。今度会ったら、ゆっくり話を聞いてみたいもんだ」
俺は新聞に載った写真へ目を向けた。
放牧地で見た頃とは、ずいぶん姿が変わっている。
あの黒鹿毛の若駒は、もうクラシックの主役になろうとしていた。
* * *
4月17日。
第43回皐月賞。
中山競馬場は不良馬場だった。
朝霧家の居間では、テレビから流れる実況に家族が耳を傾けていた。
ミスターシービーは1番人気。
レースが始まると、いつものように後方から進めていく。
「また後ろだね」
楓が言った。
「そうだな」
父さんが頷く。
「でも、シービーは後ろから追いかけるんでしょ?」
「おっ、よく覚えてるな」
「だって、ずっと応援してるもん」
楓は少し得意そうに答えた。
不良馬場の中、各馬が泥を跳ね上げながら進んでいく。
ミスターシービーは、まだ後方。
しかし、勝負どころに入ると、少しずつ前との差を詰め始めた。
『ミスターシービーが上がってきました! 外から一気に進出していく!』
実況の声が大きくなる。
「来たぞ」
父さんが身を乗り出した。
最後の直線。
前を行く馬たちも懸命に粘っている。
その外から、ミスターシービーが迫る。
『ミスターシービー! ミスターシービーが先頭へ!』
「頑張れ!」
楓が叫んだ。
黒鹿毛の馬は、泥を跳ね上げながら力強く脚を伸ばしていく。
そして、そのまま先頭でゴールを駆け抜けた。
「勝った!」
楓が歓声を上げる。
「やった! シービー勝ったよ!」
「ああ、強いな!」
父さんも笑っていた。
祖父ちゃんは、何度も頷いている。
「たいした馬だ。あの馬場で、よくあれだけ走ったな」
俺も思わず笑っていた。
ミスターシービーが皐月賞を勝った。
クラシックの1冠目だ。
* * *
それから約1か月半。
5月29日。
今度は日本ダービーだった。
東京競馬場、芝2,400メートル。
ミスターシービーは、この日も後方からレースを進めた。
楓は、テレビの前で落ち着かない様子だった。
「お兄ちゃん、まだ後ろ?」
「うん。でも、そろそろ動くんじゃないかな」
「間に合うかな……」
楓は心配そうに画面を見つめている。
3コーナーを過ぎたあたりから、ミスターシービーが動き出した。
馬群の外を回りながら、次々と前の馬を抜いていく。
そして最後の直線。
黒鹿毛の馬が力強く先頭へ迫った。
「来た!」
父さんが声を上げる。
ミスターシービーが先頭に立った。
後続も追いかける。
だが、差は詰まらない。
そのままミスターシービーがゴールを駆け抜けた。
二冠達成。
「すごい!」
楓が歓声を上げた。
「また勝った!」
祖父ちゃんも満足そうに頷いている。
「秋が楽しみだな」
その言葉に、楓が顔を上げた。
「秋?」
「ああ。菊花賞がある」
「勝ったらどうなるの?」
父さんが答えた。
「皐月賞とダービー、それから菊花賞。全部勝てば三冠馬だ」
「三冠馬……」
楓は少し考えてから、俺の顔を見た。
「そんなにすごいことなの?」
「すごいよ。これまでに2頭しか達成していないんだから」
「じゃあ、シービーが勝ったら3頭目?」
「そういうこと」
楓は嬉しそうに笑った。
「秋も絶対に応援しなきゃ!」
俺は笑って頷いた。
ミスターシービーは、いよいよ三冠に王手をかけた。
だが、朝霧牧場にとって楽しみな馬は、あの黒鹿毛だけではなかった。
* * *
夏。
浜田さんからナギの近況が届いた。
競走馬として登録された名前は、ミナトナギ。
牧場で呼んでいた名前を、そのまま使ってくれたのだ。
父さんはそれを聞いたとき、ずいぶん喜んでいた。
「ミナトカゼにミナトナギか。浜田さんも気に入ってくれたんだな」
「ありがたいね」
俺も頷いた。
ただ、ナギの競走生活は、ミスターシービーのように順調というわけではなかった。
すでにデビューしていたものの、まだ勝てていない。
前走も最後まで脚を使ったが、先頭には届かなかった。
調教師からは、使うごとに走りが安定してきていると聞いていた。
「前よりはよくなってるみたいだね」
俺が言うと、父さんが頷いた。
「ああ。まだ3歳だ。慌てることはない」
「調教でも動きがよくなってるみたいだし、そろそろ結果が出てもおかしくないと思う」
「そうだな。あとは競馬場でうまく力を出せるかだ」
父さんは、手元の近況報告を畳んだ。
俺も、ナギの走りを想像した。
競走馬としての経験は、まだ浅い。
それでも、少しずつ成長しているのなら、楽しみに待ちたい。
それからしばらくして、浜田さんから連絡があった。
ナギが9月の函館で走るという。
父さんと俺は、仕事の都合をつけて競馬場へ行くことにした。
* * *
9月。
函館競馬場。
パドックには、これからレースに出走する馬たちが集まっていた。
その中に、ミナトナギがいた。
「……大きくなったな」
俺は思わず呟いた。
牧場にいた頃よりも胸が深くなり、後肢にはしっかり筋肉がついている。
まだ幼さは残っているものの、以前とは明らかに違う。
父さんも、じっとナギを眺めていた。
「いい体になってきたな」
「うん。ずいぶん締まってる」
「脚の運びも悪くない。調子はよさそうだ」
ナギは周囲の馬を気にする様子もなく、落ち着いて歩いていた。
あの、のんびりした性格は変わっていないらしい。
やがて、浜田さんがこちらへ歩いてきた。
「源さん、比呂君。今日はありがとう」
「こちらこそ、お声がけいただいてありがとうございます」
父さんが挨拶した。
「ナギ、どうですか?」
俺が尋ねると、浜田さんは少し笑った。
「先生は、前走よりよくなってるって言ってるよ。追い切りでも動きが変わってきたそうだ」
「それは楽しみですね」
「ああ。まだこれからの馬だとは思うけどね」
そう言ってから、浜田さんはナギへ目を向けた。
「……そろそろ1つ勝たせてやりたいな」
俺も、同じ気持ちだった。
ミナトナギ。
1980年に俺と父さんが選んだ配合から生まれた馬。
無事に生まれ、育ち、競走馬としてデビューしてくれた。
そのことだけでも嬉しい。
けれど、競馬場へ来れば、やはり勝ってほしいと思う。
勝つところを見たい。
その気持ちは、どうしても抑えられなかった。
* * *
3歳未勝利戦。
芝1,200メートル。
各馬がゲートへ収まっていく。
ナギも落ち着いた様子でゲートに入った。
「……頼むぞ」
父さんが小さく呟いた。
俺も、スタートを待った。
ミスターシービーのレースを見るときとは、まったく違う緊張だった。
あの馬については、前世の記憶がある。
だが、ナギの未来は知らない。
この世界で生まれた、俺たちの馬だ。
ゲートが開いた。
『スタートしました!』
各馬が一斉に飛び出す。
ナギはまずまずのスタートを切った。
先頭を争う馬たちの少し後ろ。
無理に前へ出ようとはせず、集団の中で脚をためている。
「いい位置だな」
父さんが言った。
「ああ。このまま折り合ってくれれば」
俺もナギから目を離さなかった。
3コーナーを回り、各馬が少しずつ動き始める。
先頭の馬がペースを上げた。
ナギも、それに合わせて前との差を詰めていく。
『ミナトナギも上がってきています! 先頭集団の後ろから進出!』
「よし……」
父さんが身を乗り出した。
4コーナー。
ナギは内側を回り、前の馬を追っている。
外から別の馬も上がってきた。
先頭争いが激しくなる。
ナギはまだ、その後ろだ。
そして、最後の直線。
前を走る馬が、少しだけ外へ進路を取った。
内側に隙間ができる。
ナギの鞍上が手綱を動かした。
その瞬間、ナギが前へ出た。
『内からミナトナギ! ミナトナギが伸びてくる!』
「行け!」
俺は思わず叫んだ。
ナギが先頭へ迫る。
残り200メートル。
まだ半馬身ほど届かない。
「ナギ!」
父さんの声が響く。
ナギは懸命に脚を伸ばしている。
残り100メートル。
ついに先頭の馬に並んだ。
だが、外の馬も必死に粘っている。
どちらが前かわからない。
『ミナトナギ! 外の馬も譲らない! 2頭並んでゴールへ!』
「頑張れ……!」
最後の数完歩。
ナギの鼻先が、わずかに前へ出た。
そして――。
ゴール板を駆け抜けた。
「……どっちだ?」
父さんが呟いた。
「最後、ナギが出たように見えたけど……」
俺にも、すぐにはわからなかった。
ほんのわずかな差だった。
俺たちは、着順が確定するのを待った。
やがて、場内に結果が伝えられた。
1着、ミナトナギ。
「……よしっ!」
思わず拳を握りしめた。
「やったな、比呂!」
父さんが、俺の肩を強く叩いた。
「ああ! やってくれた!」
競走馬として初めての勝利。
生まれた日のことが頭に浮かんだ。
シノノメのそばで、まだ頼りない脚を踏ん張っていた姿。
放牧地で、ほかの馬と一緒に走っていた姿。
そして、去年の秋。
馬運車に乗せて送り出した日のこと。
あのナギが、今、競馬場で勝ったのだ。
「源さん!」
浜田さんが、こちらへ駆け寄ってきた。
「やりましたよ!」
「ええ! おめでとうございます!」
父さんが嬉しそうに頭を下げる。
浜田さんは、その手をしっかり握った。
「いい馬をありがとう」
「こちらこそ。大事に育てていただいて、本当にありがとうございます」
父さんの声には、いつもより力がこもっていた。
俺も浜田さんへ頭を下げた。
「ありがとうございました。こんなに嬉しい勝利は、なかなかないです」
浜田さんは笑った。
「まだ1つ目だよ。これからも楽しませてもらわないと」
「もちろんです」
俺も笑って答えた。
コースへ目を向けると、ナギは騎手に促され、ゆっくりと引き揚げていくところだった。
首筋には汗が浮かび、息も少し荒い。
それでも、あののんびりした顔は変わっていなかった。
「……よく頑張ったな」
俺は小さく呟いた。
その声が届く距離ではない。
けれど、どうしても言ってやりたかった。
* * *
函館から戻った翌日。
朝食の席では、早速ナギの話になった。
「お兄ちゃん、ナギ勝ったんでしょ?」
「勝ったよ。最後に前の馬を追い抜いたんだ」
「すごい! ナギ、速くなったんだね!」
楓が嬉しそうに笑った。
「うん。ずいぶん成長してたよ」
「見たかったなあ」
「今度、近くで走ることがあったら、楓も一緒に行こうな」
「本当? 約束だよ!」
楓が小指を差し出してきた。
俺は笑いながら、その指に自分の小指を絡めた。
「約束」
祖父ちゃんも満足そうに頷いていた。
「浜田さんも喜んでただろう」
「ええ。それはもう」
父さんが答える。
「また朝霧牧場の馬を見に来たいとも言ってくれました」
「そうか。それはよかった」
祖父ちゃんは湯呑みに口をつけた。
「馬が勝つのはもちろん嬉しいが、また買いたいと言ってもらえるのはありがたいことだ」
「そうですね」
父さんも頷いた。
朝霧牧場は、決して大きな牧場ではない。
毎年生産できる頭数にも限りがある。
1頭の勝利で、急に経営が楽になるわけでもない。
それでも、こうして次の仕事につながるきっかけができた。
ナギの1勝は、朝霧牧場にとって確かな前進だった。
* * *
10月。
浜田さんから、1通の手紙が届いた。
中には、競馬場で撮影したナギの写真が入っていた。
レースを終えて引き揚げてくるところだろうか。
騎手を背にしたナギが、汗を浮かべながら歩いている。
手紙には、今後も大事に使っていきたいことや、また朝霧牧場へ馬を見に行きたいことが書かれていた。
「浜田さんも律儀な人だな」
父さんが嬉しそうに言った。
「そうだね」
「せっかくだ。これは大事に取っておこう」
「うん」
俺は写真を受け取り、自分の部屋へ戻った。
机の引き出しには、1980年の天皇賞で手に入れたプリテイキャストの単勝100円馬券がしまってある。
あの日、結果を知っていながら、ラジオの実況に胸を熱くした。
だが、ナギの勝利は少し違った。
俺は、あの馬が勝つことを知らなかった。
そもそも、前世の競馬史にミナトナギという馬はいない。
俺たちが考えた配合から生まれた、この世界だけの競走馬だ。
そのナギが、競馬場で勝った。
俺は写真をしばらく眺めたあと、大切に引き出しへしまった。
* * *
11月13日。
京都競馬場。
第44回菊花賞。
朝霧家の居間では、家族全員がテレビを囲んでいた。
ミスターシービー。
皐月賞、日本ダービーを制した二冠馬が、19年ぶりの三冠達成に挑む。
だが、秋初戦の京都新聞杯では4着に敗れていた。
それでも、1番人気。
競馬ファンは、あの豪快な走りをもう一度見たがっている。
そして、それは俺たちも同じだった。
「シービー、今日勝ったら三冠馬なんだよね?」
隣に座っていた楓が尋ねてきた。
「そうだよ」
「皐月賞もダービーも勝ったんだから、きっと大丈夫だよね」
俺が答えるより先に、父さんが笑った。
「そう簡単にはいかんぞ。菊花賞は3,000メートルもあるからな」
「でも、シービーは後ろからすごい速さで来るでしょ?」
「そうだな。ただ、長い距離を走るんだから、いつもと同じようにはいかんかもしれんぞ」
楓は少し考えてから、テレビに目を向けた。
「……それでも、シービーなら勝つと思う」
その言葉に、祖父ちゃんが笑った。
「はっはっは。すっかり信じ切っとるな」
「だって、強いもん!」
楓は得意そうに答えた。
7歳になった妹は、すっかり競馬を見るのが好きになっていた。
特にミスターシービーのレースは欠かさない。
テレビの中では、出走馬たちがゲートに収まっていく。
俺は画面を見つめた。
1981年の春。
岡本牧場の放牧地で見た黒鹿毛の牡馬。
あのときはまだ、競馬場を走ったことさえなかった。
それが今、日本中の期待を背負っている。
ゲートが開いた。
『スタートしました! 第44回菊花賞!』
各馬が一斉に飛び出していく。
真っ先に先頭を奪ったのはアスコットエイトだった。
後続との差を広げ、ぐんぐん前へ進んでいく。
一方、ミスターシービーは最後方。
「また一番後ろだ」
楓が呟いた。
「いつもの競馬だな」
父さんはそう答えたが、目はテレビから離さなかった。
京都の芝3,000メートル。
長い距離を走る菊花賞では、どこで脚を使うかが重要になる。
仕掛けが遅ければ届かない。
早すぎれば、最後に脚がなくなる。
まして、ミスターシービーは後方から追い込む馬だ。
簡単な競馬ではなかった。
レースは進む。
アスコットエイトは依然として大きく逃げている。
後続の馬たちは、それぞれの位置で脚をためていた。
そして、向こう正面の終わり。
ミスターシービーが動いた。
『おっと、ミスターシービーが上がっていく! 外から一気に進出だ!』
画面の後方で、黒鹿毛の馬が外へ持ち出される。
最後方にいたはずのミスターシービーが、馬群の外を一気に上がっていく。
「……おい」
父さんが身を乗り出した。
「まだ早いだろ!」
俺も思わず膝に力を込めた。
京都競馬場の3コーナー。
ここには坂がある。
上りでは無駄な力を使わず、下りでも勢いをつけすぎない。
それが、京都の長距離戦で大切だとされていることだった。
だが、ミスターシービーは、そんな常識など知らないかのように加速していた。
『ミスターシービーが外から進出! 次々と前の馬をかわしていく!』
1頭。
また1頭。
黒鹿毛の馬が、次々と前の馬を抜いていく。
「すごい……!」
楓が小さく声を漏らした。
テレビの中で、ミスターシービーが坂を上っていく。
その背中には、低く身を伏せた騎手の姿があった。
大きく動く馬体。
その動きに合わせ、鞍上の体も動いている。
馬と騎手が、ひとかたまりになって前へ進んでいく。
「おいおい、本当に行くのか……!」
父さんが唸った。
その声には、驚きと期待が混じっていた。
坂を越えた。
今度は下りだ。
普通なら、ここで呼吸を整えて最後の直線に備えるところ。
しかし、ミスターシービーはさらに勢いを増していく。
『先頭との差がどんどん縮まる! ミスターシービーが止まらない!』
祖父ちゃんも椅子から腰を浮かせている。
ミスターシービーが前の馬に並ぶ。
そして――。
抜いた。
4コーナー。
ミスターシービーが先頭に立っていた。
「もう先頭!?」
楓が驚いたように叫ぶ。
俺も思わず声を上げた。
「行け、シービー!」
最後の直線。
京都競馬場の観客席から、凄まじい歓声が湧き上がった。
ミスターシービーは馬場の中央へ進路を取り、力強く脚を伸ばしていく。
後ろから、ほかの馬たちが追ってくる。
だが、差が縮まらない。
それどころか、広がっている。
先頭に立つまで、あれだけ長く脚を使ったというのに。
ミスターシービーは、まだ伸びていた。
そのとき、テレビから実況の声が響いた。
『大地が、大地が弾んでミスターシービーだ!』
その瞬間、背筋が震えた。
前世で何度も耳にした、あの名実況。
記録の中に残っていた言葉が、今、目の前のレースと重なった。
画面の中で、黒鹿毛の馬が走っている。
背中の騎手は身を低く保ち、馬の動きを妨げることなくゴールへ向かう。
馬と騎手。
まるで1つになって、ゴールを目指しているようだった。
「シービー!」
楓が立ち上がった。
「頑張れ! あと少し!」
残り200メートル。
後続は届かない。
残り100メートル。
ミスターシービーが、なおも力強く地面を蹴る。
そして――。
ゴール!
ミスターシービー、1着!
2着のビンゴカンタに3馬身差。
シンザン以来19年ぶり。
史上3頭目の三冠馬が誕生した。
父、トウショウボーイ。
かつて「天馬」と呼ばれ、皐月賞を制した名馬。
しかし、日本ダービーでは2着。菊花賞では3着。
あれほどの名馬でさえ、三冠には届かなかった。
そして今、その息子が父の届かなかった頂点に立った。
天馬と呼ばれた父でさえ届かなかった三冠。
その夢を、息子が叶えたのだ。
俺は、その結果を知っていた。
前世で何度も記録を読み、レース映像も見てきた。
ミスターシービーが三冠馬になることも、父トウショウボーイが果たせなかった偉業を成し遂げることも。
知識としては、ずっと前から知っていたはずだった。
それなのに今、目の前のテレビで、その歴史が生まれる瞬間を見届けた途端、胸の奥から熱いものが込み上げてきた。
結果を知っているからといって、感動まで先に味わえるわけじゃない。
俺はいつの間にか立ち上がり、拳を強く握りしめていた。
「やった!」
楓が歓声を上げる。
「シービー、勝ったよ!」
「ああ! 強すぎるぞ、あの馬!」
父さんも興奮した様子で叫んでいた。
祖父ちゃんは、画面を見つめたまま何度も頷いている。
「……いやあ、見事なもんだ」
その顔には、少年のような笑みが浮かんでいた。
長い間、数え切れないほどの競走馬を見てきた祖父ちゃん。
それでも、今日のミスターシービーには驚かされているらしい。
父さんも、まだ興奮が収まらないようだった。
「あの坂で動いて、最後まで止まらんとは……」
「本当にすごかったね」
「ああ。岡本さんのところで見た馬が三冠馬か。信じられんな」
父さんはそう言って、嬉しそうに笑った。
だが、その隣で。
楓だけは、いつの間にか静かになっていた。
テレビには、ゴール後のミスターシービーが映っている。
観客の歓声を浴びながら、騎手を背に歩く黒鹿毛の馬。
楓は、その姿をじっと見つめていた。
「……楓?」
俺が呼ぶと、楓はゆっくり振り返った。
「お兄ちゃん」
「どうした?」
「すごかったね」
「ああ。本当にすごかった」
楓は頷いた。
けれど、すぐにテレビへ視線を戻した。
「私、前にあの子を見たとき、風みたいだと思ったんだ」
「覚えてるよ」
「今日も、風みたいだった」
「そうだね」
楓はしばらく画面を眺めていた。
ちょうど、レースの映像がもう一度流れ始める。
3コーナーから一気に進出していくミスターシービー。
その背中に、騎手がいる。
「……お兄ちゃん」
「ん?」
「さっきね、乗ってる人をずっと見てたんだ」
俺は少し驚いた。
「騎手を?」
「うん」
楓は画面を指差した。
「あんなに速く走ってるのに、馬の動きにぴったり合わせてるでしょ?」
「そうだね」
「前はシービーばっかり見てたんだけど、今日はあの人もすごいなって思ったの」
俺は、もう一度テレビに目を向けた。
坂で一気に加速するミスターシービー。
その背中で、騎手は馬の動きに合わせながら、最後の直線へ向かっている。
確かに、あれだけ激しい走りをする馬の背中で、動きを合わせ続けるのは簡単なことではない。
「……かっこいいよね」
楓が呟いた。
「ああ、かっこいいな」
「ねえ、お兄ちゃん」
「どうした?」
「私も、あんなふうに走ってみたい」
俺は楓を見た。
「馬に乗って?」
「うん。でも、ただ乗るだけじゃなくて……」
楓は少し考え込んだ。
うまく言葉が見つからないらしい。
そして、もう一度画面を指差した。
「あの人みたいに、馬と一緒に走りたい」
その言葉に、俺は思わず黙った。
「シービーみたいに速い馬に乗って、一緒に風を切って走ってみたいんだ」
楓は真剣な顔をしていた。
俺は、2年前の春を思い出した。
岡本牧場の放牧地。
黒鹿毛の若駒が走る姿を見て、目を輝かせていた5歳の楓。
あのときは、ただ走る馬が好きだった。
けれど、今は違う。
楓は、その背中に乗る人間に憧れていた。
「楓」
父さんが声をかけた。
「それは、騎手になりたいってことか?」
楓は父さんを見た。
少しだけ考えてから、頷いた。
「うん」
そして、真っすぐ父さんを見つめた。
「私、騎手になりたい」
父さんは驚いたように目を見開いた。
祖父ちゃんも、黙って楓を見ている。
だが、楓の表情に迷いはなかった。
そのとき、母さんが口を開いた。
「楓」
「何、お母さん?」
「騎手になるのは、簡単なことじゃないわよ」
「……うん」
「馬に乗るのは楽しいけれど、危ないこともあるの。落ちて怪我をすることだってあるわ」
楓は黙って聞いていた。
「それでも、やってみたい?」
少しの沈黙。
やがて、楓は頷いた。
「やってみたい」
母さんはしばらく娘を見つめていた。
それから、小さく笑った。
「そう。じゃあ、まずはできることから始めましょうか」
「本当!?」
「ええ。でも、いきなり馬に乗るのは駄目よ。体の使い方も、馬との接し方も、覚えることがたくさんあるんだから」
「お母さんが教えてくれるの?」
「私に教えられるところまではね。ちゃんと乗る練習は、経験のある人についてもらわないと」
楓は嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、頑張る!」
父さんが苦笑する。
「おいおい。本気か、環」
「本人がやってみたいって言うんだもの。最初から駄目とは言いたくないわ」
「そりゃそうだが……」
「もちろん、危ないことはさせませんよ」
母さんはそう言って笑った。
楓が母さんの手を取る。
「ねえ、いつから?」
「そうねえ……まずは、明日の仕事が終わってからかしら」
「やった!」
楓が嬉しそうに笑った。
祖父ちゃんが、とうとう声を出して笑い始めた。
「はっはっは! こりゃあ、朝霧家から騎手が出るかもしれんな!」
「じいちゃん、まだ早いよ」
俺が言うと、楓が口を尖らせた。
「早くないよ。私、なるんだから!」
その言葉に、家族みんなが笑った。
楓も、つられて笑った。
けれど、もう一度テレビへ振り返ったとき、その表情は真剣なものに戻っていた。
画面の中では、三冠を達成したミスターシービーが、騎手を背に歩いている。
「……いつか、私も」
その小さな声は、隣にいた俺にだけ聞こえた。
俺は何も言わず、妹の隣に座った。
2年前。
楓は、風のように走る馬に出会った。
そして今日、その風を自分も感じたいと思った。
それが、朝霧楓の新しい夢になった。
* * *
夕食を終え、父さんと一緒に厩舎の見回りをしていると、自然と菊花賞の話になった。
「……しかし、あの馬は本当にすごかったな」
父さんが呟く。
「うん。あんな競馬、なかなかできないよ」
「坂で動いて、そのまま押し切るんだからな。あれは驚いた」
父さんは笑いながら、シノノメの馬房の前で足を止めた。
シノノメがこちらへ顔を向ける。
「お前の仔も、今年は頑張ったぞ」
父さんはそう言って、その首筋を撫でた。
ナギが勝ってから、もう2か月ほど経つ。
「浜田さん、またうちの馬を見たいって言ってくれてるんだよね」
「ああ。今度は知り合いも連れてきたいそうだ」
「それはありがたいね」
「うん。ナギが勝ってくれたおかげで、少しずつ話が広がってきたな」
父さんはシノノメの首から手を離した。
「今年は、いい年になったな」
「うん」
ナギの初勝利。
浜田さんとの縁。
そして、今日のミスターシービーの三冠達成。
牧場の経営に関しては、まだまだ考えなければならないことが多い。
けれど、少しずつ前に進んでいる実感はあった。
見回りを終えて外へ出ると、日高の夜空には星が出ていた。
11月の風は冷たく、吐く息も白い。
父さんは歩きながら、来年の種付けについて話し始めた。
俺もいくつか考えている配合があったので、意見を交わした。
しばらく話してから、父さんがふと思い出したように笑った。
「そういえば、楓には驚かされたな」
「騎手のこと?」
「ああ。まさか、あんなことを言い出すとは思わなかった」
「本気みたいだったね」
「そうだな」
父さんは少し考え込んだ。
「環も、しばらくは付き合ってやるつもりらしい」
「母さん、昔から馬の扱いには慣れてるからね」
「ああ。ただ、本当に騎手になりたいなら、それだけじゃ足りんだろうな」
「うん。ちゃんとした指導も必要になると思う」
父さんは頷いた。
「まあ、今すぐ何もかも決める必要はないか」
「そうだね。まずは、楓がどこまで本気なのか見てみようよ」
「……そうだな」
父さんは笑った。
俺も、少しだけ笑った。
あの小さな妹が、いつか本当に騎手になったら。
俺たちの育てた馬の背中に乗って、競馬場を走る日が来たら。
そんなことを考えると、自然と笑みがこぼれた。
「何笑ってるんだ?」
父さんが不思議そうに尋ねてきた。
「いや、楓が騎手になったところを想像してた」
「気の早い話だな」
「父さんだって、ちょっと考えたでしょ?」
「……まあな」
父さんは照れくさそうに笑った。
俺たちは並んで家へ向かった。
* * *
家に戻り、自分の部屋へ入った俺は、壁に飾ってある単勝馬券のコレクションに目を向けた。
これまでに集めてきた馬券が並ぶ中、自然と目が留まったのは、隣り合わせに飾られた2枚だった。
1982年11月6日。
東京競馬場、3歳新馬戦。
ミスターシービー。
今日、三冠馬となったあの馬が、初めて競馬場を走った日の単勝100円馬券だ。
俺はしばらく、その名前を眺めた。
天馬トウショウボーイの息子が、父の届かなかった三冠を達成した。
前世で結果を知っていた俺でさえ、あの瞬間は胸が震えた。
そして、隣の馬券へと視線を移す。
1983年7月23日。
新潟競馬場、3歳新馬戦。
シンボリルドルフ。
今年デビューしたばかりの、鹿毛の牡馬だ。
現在2戦2勝。
今日の三冠達成で競馬界はミスターシービー一色だが、その陰では、もう1頭の名馬が静かに歩みを進めていた。
ミスターシービー。
シンボリルドルフ。
俺は隣り合う2頭の名前を見つめた。
この2頭が、やがて同じ舞台で激突することを知っている。
そして来年、日本競馬に再び三冠馬が誕生することも。
「……次は、お前の番だな」
ルドルフの馬券を眺めながら、自然と笑みがこぼれた。
未来を知っていたって、実際に見てみなければ味わえない興奮がある。
それに、ナギのように俺の知らない歴史を走る馬だっている。
今日のミスターシービーの走りを見て、楓にも新しい夢が生まれた。
これから朝霧牧場の馬たちは、どんな走りを見せてくれるだろう。
楓はいつか、本当に騎手になれるだろうか。
そして、シンボリルドルフは。
来年、どんな走りで俺たちを驚かせてくれるだろう。
考え始めると、楽しみは尽きなかった。
俺はもう一度、並んだ馬券を眺めた。
「……これだから、競馬は最高なんだよな」