バイオパンク・ヴィラン ~金と家の名前で好き勝手する、兵器王のドラ息子~   作:泥酔ネコ

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第8話 口の軽い取り巻き

 モナークの奥の席はすっかり白けていた。

 取り巻きと女たちの目の前で、隣の卓のケスラーの娘に散々にやり込められた後である。

 やり込める種の一つは、取り巻きのネッドが自分からあの女に喋っていた。当のイザベラはこちらを見もしない。見もしないくせに、卓の六本の空き瓶は、僕の席から数えられる向きにきちんと揃えてある。

 

 取り巻きたちがぞろぞろと自分の椅子に腰を下ろす。誰も何も言おうとしない。

 

 支配人が運んで来た二番目に高いシャンパンを、フレッドが気まずそうに抜いた。

 栓は天井まで飛ばず、ぽんと間の抜けた音を立てて卓の上に転がる。

 

 楽団が思い出したようにさっきの曲の続きを弾き始める。

 

「……レオン。気にすんなよ。あれ、ただの性悪女だろ」

 

 フレッドがグラスを僕の前に置きながら、顔色をうかがうように小声で言ってきたが、肝心のネッドはさっきから卓の端で小さくなって、一言も喋らない。

 

「気にしてない」

 

「首都の集まりでもさ、あいつ、ああなんだよ。誰彼構わず噛みついて――」

 

「気にしてないって言ってるだろ!」

 

 フレッドはひっと首をすくめて口をつぐんだ。ネッドたちが目を見交わしてそれぞれ自分のグラスに逃げ込む。

 頼りにならない連中だ。

 

 気にしていない訳がない!

 

 僕はフレッドが注いだグラスを一息に空けた。二番目に高いシャンパンはいつものより酸っぱい。

 

 おまけにイザベラの後ろに戻った筈の大男の片方が、なぜかまた僕の椅子の真後ろに立っていて、振り返るたびに金色の目が僕の頭の上から店の中を見張っている。

 

 こんな所で飲む酒がうまい訳がない! 僕は続けて三杯、自分で注いだ。

 昼間、溝に向かって立てた四度目の誓いは、四杯目の泡と一緒に消えていった。

 

「レオン。……あのお嬢様、六本で六万、その場で払ったんだって。店じゅうのもう一本ずつも、その場で。支配人が言ってた」

 

 トビーが隣の卓の空いた瓶をちらりと見て小声で耳打ちしてきた。

 両替屋の倅はこういう時でも数字が気になるらしい。

 

「知ってる」

 

「六本だけで、工場の人の二十か月分だよ。一晩で。……すごいね、ケスラーって」

 

「だから何だ! 僕だって払った。先に払ったのは僕だ」

 

「う、うん。そうだよね。レオンが先だったよね」

 

 トビーは慌てて何度も頷いてグラスの陰に顔を隠した。

 機嫌を取っているつもりらしいが、先だった先だったと繰り返されるほど、僕の一本ずつが前座だったことのほうが目立つ。

 

 それに店じゅうに奢った当の本人が、いつもの銘柄を今夜まだ一滴も飲めていないのだ。

 

 棚に無かったんだ、と言いかけてやめた。

 それを言えばあの女に買い占められたと自分の口で認めることになるし、今夜これ以上、あの女に点をやるのは御免だった。

 

 ルシールは僕の膝から降りて隣の椅子に移り、黙ってコートの襟を握りしめている。

 一本の酒より安い、と言われた狐の襟だ。

 

 さっきは自分から膝に乗ってきたくせに、もう自分の椅子から動かない。

 

「ねえ、レオン」

 

 しばらくしてルシールが襟に顔を半分埋めたままぽつりと口を開いた。

 拗ねているのとも違う、聞いたことのない寂しげな声だ。

 

「あたし、安いの?」

 

「安くない!」

 

 僕は即座に答えたが、答えてからそれだけでは足りないと思って慌てて付け足した。

 

「今度、もっと高いのを買ってやるよ。貂でも、黒豹でも、何でもだ!」

 

 ルシールがゆっくりと顔を上げて僕を見た。それから何とも言えない顔で長い溜め息をついた。

 

「……そういうところよ、レオン」

 

 ベティが横を向いてぷっと噴き出した。噴き出してから慌ててルシールの肩に手を置く。

 慰めているつもりらしいが、置いた手ごとベティの肩が小刻みに揺れている。

 

「ご、ごめん、ルシール。でも今の、あんまりレオンらしくて」

 

 ベティは目尻の涙を指で拭いながらまだ笑いの残る声で謝った。

 謝っているのか、とどめを刺しているのか分からない謝り方である。

 

 何が「そういうところ」なのか僕にはさっぱり分からなかったし、高いのを買ってやると言ってあんな顔をされたのは生まれて初めてだ。

 

「あの女」

 

 ジーナが僕の反対隣の椅子に乱暴に腰を下ろして低い声で吐き捨てた。

 鞄を卓の上にどんと音を立てて置くと、給仕がその音を怖がって飛び上がり、盆の上のグラスを鳴らした。

 

「あたしのこと、お人形だって。レオンの着せ替え人形だって。……レオンが止めなかったら、あのでかいの二人、まとめて床に這わせてやったのに」

 

「這わせたら、その次の日はどうなる」

 

「知らない」

 

「僕は知ってる。僕の小遣いが止まる。そうしたら、お前の薬代も止まる」

 

 ジーナは黙り込み、黙ったままテーブルの下で自分の白い膝を拳で一度だけ叩いた。

 作り物の拳と作り物の膝がぶつかって、骨とも木ともつかない鈍い音がする。

 

 叩かずにはいられないらしい。

 

 悔しいのは僕も同じだ。いや、たぶん僕のほうが悔しい。

 ジーナは殴れなかっただけだが、僕は口で一つ残らず言い負かされたのだから。

 

    ◇

 その晩ルシールは舞台で一曲だけ歌ったが、いつもなら歌の終わりに奥の席で止まるあの目が、今夜は一度もこちらへ来なかった。

 

「ほらね、ルシール、一回もこっち見なかった。レオン、なんでか分かってる?」

 

「何もしてない。狐の代わりを買ってやるって言っただけだ」

 

 ベティは呆れ顔で首を振ってそれ以上は何も言わなかった。

 理由が分からないまま、僕は手だけは誰より大きく叩いておいた。

 

 トビーがおずおずとグラスを差し出してくる。

 

「レオン。……あの、さ。日曜、走鳥(ストライダー)のレースがあるだろ。郊外の競鳥場で。気晴らしに行かない? 親父の店に両替に来る賭け屋から、いい鳥の噂を聞いてて――」

 

「うるさい、トビー」

 

 言ってから、しまった、と思った。ゆうべも同じ言葉で黙らせたのだ。

 トビーは慣れているという顔で肩をすくめて自分のグラスに口をつけたが、慣れられているのもそれはそれで面白くない。

 

 夜中の十二時を回った頃、隣の卓がざわざわと動いた。

 

 どうやらイザベラが帰るらしい。

 

 やっとか。

 

 銀狐ではなく白い貂の毛皮の肩掛けを、お付きの社員に肩へ掛けさせて、悠々と立ち上がる。

 大男二人がその前後を挟んだ。卓の上には、あの空き瓶が並んだまま残されている。

 

 立ち上がったイザベラはすぐには出口へ向かわず、僕の椅子の横で足を止めた。

 

「レオン。今夜は楽しかったわ。お隣、座り心地がよかった。また来るわね」

 

「二度と来るな!」

 

「来るわよ。兄の入札が終わるまで、私、この街にいるんだもの。退屈な街だけど、あなたがいるから、少しはましね」

 

 イザベラは楽しそうに目を細めた。それからふと思いついたように付け足した。

 

「そうだ。日曜日、郊外の競鳥場で走鳥(ストライダー)のレースがあるでしょう。うちの牧場の鳥が出るの。父が自慢してる、新しい血統の鳥。……あなたも来れば? 賭ける相手がいないと、つまらないのよ。生身の人でも、賭けくらいは出来るでしょう?」

 

 そこでイザベラは僕の両隣のルシールとジーナを、それからベティを順に眺めた。

 

「ああ、その子たちは置いてきてね。鳥が驚くから」

 

 両脇の社員たちがまた笑った。この連中は主人の娘が口を開くたびに笑うのが仕事らしい。

 

 イザベラは返事を待たずに白い貂の肩掛けを翻して出ていった。

 

 右の大男が扉のところで振り返ってジーナを一度だけ見ると、ジーナは鞄の留め金に指をかけたまま、その金色の目を真っすぐに見返す。

 それから店の重たい扉が閉まった。

 

 店の中に音が戻ってくる。楽団の曲、客の笑い声、グラスの触れ合う音。

 

 さっきまで息を詰めていた客たちが、何事も無かったようにまた自分の酒に戻っていく。

 その酒の半分は僕の奢りで、もう半分はあの女の奢りだ。

 

 三つ向こうの卓では、株屋らしい二人連れがもう別の話を始めていた。

 

「首都の法案が通ったら、ケスラーは半値だな。腕が売れなくなる」

 

「通るもんか。港の人足の腕を、誰が一本ずつ外して回るんだ。会社の警察か?」

 

 二人は声を揃えて笑い、グラスを鳴らした。

 その法案を首都で押して回っているのが奥の席の誰の父親なのか、もうすっかり忘れているらしい。

 

 父の法案が通ろうが通るまいが、僕の知ったことではない。

 ただ、ケスラーが半値というところだけは、悪くない響きだ。

 

 店じゅうの何事も無かったような顔の一つ一つが、明日の朝には、床屋の椅子や港の酒場で、アッシュクロフトの次男坊がケスラーの娘に言い負かされて黙っていた、と誰かに話すのだろう。

 

 ついでにあの次男坊は移民の娘の手足を好きなだけ取り替えさせて連れ歩いている、という話も一緒に。

 それが父の秘書の耳に届くまで何日かかるのか、考えたくもない。

 

 その顔の一つ一つをなんとなく目でなぞっていって、カウンターの端で止まった。

 

 黒い外套の女が一人で座っている。前に置いたグラスには口もつけていないらしい。

 

 暗い色の髪を無造作にまとめた白い顔の女だ。

 その女だけが何事も無かったような顔をしていない。

 

 笑ってもいないし、哀れんでもいない。珍しい虫でも見つけたような目で、まっすぐ僕を見ている。

 

 きれいな顔だったので、一瞬息をするのを忘れた。

 

 あのクソ女に散々な目に遭わされた晩でも、きれいな顔はきれいな顔だ。

 いや、こういう晩だからこそ、ああいう顔が要るのだ。

 

 欲しい。

 

「フレッド! カウンターの端の、黒い外套の女。名前を訊いてこい」

 

「え、今?」

 

「今だ。ケスラーの娘の前で天井ばかり見てた分、少しは役に立て」

 

 フレッドは「なんで俺が」と顔に書いたまま渋々席を立った。

 客の間を縫ってカウンターへ歩いていくその前を、盆を抱えた給仕が横切った。

 

 給仕が通り過ぎたとき、女の席には口をつけていないグラスだけが残っていた。

 

 フレッドはカウンターの前できょろきょろと辺りを見回し、空っぽの椅子と僕の顔を何度か見比べてから、手ぶらで戻ってきた。

 

「……いなかった。グラスだけ」

 

「見れば分かる! この役立たず」

 

 フレッドは首を縮めて自分の椅子に逃げ込んだ。

 それを見てベティが椅子の上で噴き出し、肩を揺らしながら僕を覗き込む。

 

「レオン、もう次の子? さっきのお嬢様の言ったとおりじゃない」

 

「うるさい」

 

 腹は立ったが、欲しいものが一つ減った訳ではなかった。

 口をつけていないグラスがやけに目について、僕はしばらく空っぽの椅子を眺めていた。

 

 明日の晩もきっと、店に入ったらまずカウンターの端を見てしまうのだろう。

 

 これもそれも、全部あのイザベラとかいうクソ女のせいだ。ああ、気分が悪い!

 

 僕は飲みかけのグラスを卓の上で回した。

 

 日曜日。郊外の競鳥場。

 ケスラーの新しい血統の鳥。

 

 気がつくとグラスを回していた手が止まっていた。

 

 行くもんか、と思った。

 

 行けば、あの女は僕の隣に陣取って、レースが終わるまで喋り続けるだろう。

 こっちは言い返して、また言い負かされ、帰りの車でトビーに当たり散らし、夜はまたどこかの店で瓶を抱えることになる。

 

 今夜と同じ晩がもう一度来るだけだ。

 

 あの女の誘いには、乗らないに限る。

 

 モナークは僕の店だ。

 あの女が隣の卓に陣取ろうが、僕のほうが尻尾を巻いて逃げる筋合いは無いし、今夜だってそう思って来たのだ。

 

 だが、わざわざあの女の用意した場所まで、のこのこ出かけていくのは話が別だ。

 

 口では勝てない。手も出せない。

 金を積んでも、向こうは平気な顔でもっと積んでくる。行けば、また恥をかくだけだ。

 逃げるが勝ちというやつだ! ……勝ち負けで言えば、今夜はもう負けているが。

 

「……トビー」

 

「なに」

 

「日曜の競鳥場、行かないからな。さっきの鳥の噂ももういい」

 

 トビーはグラスを持ったまましばらく僕の顔を見ていた。それからほっとしたように肩の力を抜いた。

 何を言いつけられるかと身構えていたらしい。

 

「うん。……そのほうがいいと思う。ケスラーの株、来週もまだ上がりそうだし、あの人たちとは揉めないほうがいいよ」

 

「……それも言わなくていい」

 

 自分が売った株がまだ上がる話は、今夜はもう聞きたくなかった。

 トビーは慌てて口をつぐみ、それでも安心したような顔のまま、グラスの酒をちびりと舐めた。

 

 ジーナがつまらなそうに鞄を膝の上に戻した。せっかくの店の外の喧嘩を取り上げられた、という顔だ。

 

「行かないんだ。あの右のでかいの、あたしが靴に唾吐いたとき、口の端を下げたんだよ。顔に出る奴は、殴り合いになると先に頭に血が上るの。店の外でなら、そこから崩せたのに」

 

「もう決めたんだよ」

 

 ジーナは残念そうに小さく舌打ちした。

 睨み合っていたあいだに、この娘は相手の口の端の動きまで見ていたらしい。殴れなかった相手の殴り方をもう考えてあるのだ。

 

 頼もしいより先に、少し背筋が冷えた。

 

 ルシールはまだ襟に顔を埋めていたが、ベティは聞き捨てならないという顔で身を乗り出してきた。

 

「えー! レオン、日曜、競鳥場に行かないの? あたし、鳥が走るとこ、一回見てみたかったのに。競鳥場にかぶっていく帽子だって、もう決めてあったんだから」

 

「決めてあったって、どれを」

 

「中央通りの帽子屋の飾り窓の、つばの広い白いの。レオンに買ってもらうつもりだったの」

 

 ベティは本気でがっかりした顔で唇を尖らせた。

 この女にとってはケスラーの娘より、新しい帽子のほうがよほど大事らしい。

 

「帽子は買ってやる。でも、競鳥場には行かない。あの女の顔を見ながら鳥を眺めるくらいなら、屋敷で兄さんの食前の祈りを聞いてるほうがまだましだ」

 

 ベティは「ふうん」と気のない返事をして、それでも帽子の約束だけは忘れないという顔でこくこくと首を縦に振った。

 ルシールは返事をしなかったが、襟の陰からちらりと僕のほうを見た。

 

 行かない、と言ったときだけ、その目が少し和らいで見えたのは、たぶん酒のせいだろう。

 

 僕は酸っぱいシャンパンの残ったグラスを、卓の端へ押しやった。

 

 押しやった先にネッドの顔があった。

 

 卓の端で小さくなったまま、イザベラが出ていった扉のほうをほっとした顔で眺めている。

 嵐は過ぎた、と思っているのだ。

 

 手の傷の話もジーナの換装(グラフト)の話も、自分の口から出たことは、あの重たい扉と一緒に閉まってしまったと思っているのだ。

 

 そうはいくか!

 

「支配人! 一番きついジンを一本。それと、小さいグラスを一つ」

 

 支配人は何も訊かずに透明な瓶と小さなグラスを盆に載せて運んで来た。

 この店で僕の無茶な注文を何百と聞いてきた男である。

 

 僕がその瓶をネッドの前に置かせると、ネッドの顔からさっきまでの安堵がすっと消えた。

 

「ネッド。飲め」

 

「え、いや、レオン、俺、ジンは――」

 

「お嬢様の前では、ずいぶん口が回ったじゃないか。その口なら、ジンくらい楽に通るだろ? ほら、ぐっといけよ!」

 

 ジーナがぱっと顔を輝かせて瓶を取り上げた。殴れない晩に殴る代わりになる物を見つけた顔だ。

 杜松の匂いがつんと立つグラスをなみなみと満たして、ネッドの鼻先に突き出す。

 

「はい、一杯目。一気だよ。こぼしたら、もう一杯」

 

 ネッドは泣きそうな顔で僕を見て、それからグラスを持つジーナの白い手を見た。

 さっきまでケスラーの大男二人と睨み合っていた手だ。断れる訳がない。

 

 ネッドは目をつぶってグラスを呷る。喉が三度鳴り、顔が見る見る赤くなって、激しく咳き込む。

 

 胸がすく。

 

「いいぞ、ネッド! 男だ!」

 

 真っ先に手を叩いたのはフレッドだった。

 さっきまで天井の飾り灯ばかり見上げていたのが嘘のような大声である。

 

 自分の番が回ってこないうちに、全部ネッドにかぶせてしまうつもりらしい。

 親の肩書きの陰に隠れるのと同じくらい、人の陰に隠れるのも上手い男だ。

 

「二杯目だ!」

 

「レ、レオン、頼む、もう――」

 

「お嬢様に何を喋ったか、一つずつ言いながら飲め。手の話で一杯、ジーナの換装(グラフト)で一杯だ」

 

「はーい、手の話のぶん」

 

 ジーナがけらけらと笑いながら注ぐ。グラスの縁ぎりぎりまで注いで一滴もこぼさないのが、妙に上手い。

 

「ネッド、ジンはね、息を止めて飲むと楽なんだって。港の船乗りが親父の店でそう言ってた」

 

 トビーが身を乗り出して小声で教えた。

 親切のつもりなのか面白がっているのか、たぶん本人にも分かっていない。

 

「ほ、本当か、トビー」

 

「たぶん。その人、飲んだ後で床に寝てたけど」

 

 ネッドは半泣きで「て、手の話……」と呟いて息を止め、二杯目を呷ったが、飲み干したところで止めていた息が、げほっと盛大に噴き出した。

 

「一気! 一気! ネッド、一気!」

 

 ベティが椅子の上に膝で立って手拍子を打ち始めた。踊り子の手拍子は楽団の太鼓よりよく通る。

 ほかの卓の客までが何事かとこちらを振り返る。

 

「ベティ、行儀が悪いわよ」

 

 ルシールが襟から顔を上げて姉さんぶった顔でベティをたしなめた。

 それからネッドのほうへ顔を向けて、舞台で客にしなだれかかるときの甘ったるい声で付け足した。

 

「でも、ネッド。あたしの狐が酒一本より安いって笑われてたとき、あんたは後ろで突っ立ってただけ。そのくせ、あの女に何をぺらぺら喋ったの? ……三杯目、あたしが注いであげる」

 

 ルシールはジーナの手から瓶を取り上げて白い指でグラスに注いだ。

 注ぐ手つきは優しいのに、縁からあふれるまで注いでからにっこりと笑う。

 

 今夜初めて見るルシールの笑い顔だ。狐を笑われた仕返しを、この女はちゃんと自分の手でやる。

 

 そういうところが僕は嫌いではない。

 

「ル、ルシールまで……」

 

「あら、あたしの注いだお酒が飲めないの?」

 

 ネッドは救いを求めるように卓を見回した。

 フレッドは手を叩き、残りの二人は目を逸らし、トビーは息を止める真似をしてみせ、ベティは手拍子をやめず、ジーナは次の一杯を待ちきれないように瓶を抱えている。

 

 味方はどこにもいない。

 

 ネッドは三杯目を呷り、今度は呟く声も出なかった。

 

「四杯目はジーナの換装(グラフト)のぶん!」

 

 ジーナが自分のことなのに一番嬉しそうに宣言して、瓶を傾けた。

 

「それ飲んだら、許してあげる。あたしの目の色まで喋ったんでしょ?」

 

「しゃ、喋って、ない……目の色はたぶん……」

 

「たぶん、ね」

 

 ジーナがにいっと笑った。ネッドはそれ以上何も言わずに四杯目を呷った。

 

 飲み干したところでネッドは椅子からずるずると滑り落ち、床の上に大の字になると、卓じゅうからわっと拍手が起きた。

 フレッドが口笛を吹き、ベティが椅子から跳び下りて床のネッドの頬を指でつつく。

 

 給仕が慌てて水差しを抱えて駆けてきた。

 

 僕は新しいグラスにシャンパンを注いで一口飲んだ。

 

 酸っぱくなかった。

 

 あの女には手を出さない。出せばどうなるかは、さっきジーナに言って聞かせたとおりだ。

 だが忘れてやるつもりも無い。

 

 いつかケスラーの株が半値になった日には、あの女の澄ました顔を思い浮かべながら、この店で一番高いのを開けてやる。

 棚に戻ってきたら、真っ先に、僕が。

 

 床の上でネッドが呻いた。明日の朝、あいつはきっともう二度と飲まないと誓うのだろう。

 今日の僕と同じように。

 




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