バイオパンク・ヴィラン ~金と家の名前で好き勝手する、兵器王のドラ息子~ 作:泥酔ネコ
モナークの重たい扉が背中で閉まると、楽団の音がふっと遠くなった。
夜の風が冷たくて白い貂の肩掛けの毛が首筋でかすかに立つ。
車寄せで客を待っていたタクシーの運転手たちが、私の後ろの大男を見るなり慌てて車の陰へ引っ込んでいった。
あの人は追ってこない。
分かっていたのに、扉が閉まり切るまで耳を澄ませていた自分が少し可笑しかった。
「二度と来るな!」
最後に聞いたあの人の声がまだ耳の奥に残っている。
あれだけ怒鳴ってもあの声は裏返らなかった。今夜あの人の声が裏返ったのは、お人形さんを止めたあの一度きりなのだ。
あの一度を引き出したのは私だと思うと、胸の奥がじわりと熱くなる。
支社の緑の車に乗り込むと、大男の片方が運転席に、もう片方が助手席に収まった。
社員の二人にはタクシーで帰るように言ってある。後ろの座席には私と銀行家の娘の二人だけだ。
「楽しかったわね、イザベラ。最後のあの顔ったら。真っ赤になって『二度と来るな』ですって」
銀行家の娘が扇の陰で、さっきの店の中より遠慮なく声を立てて笑った。
この娘の名前を私はまだ覚える気になれない。今夜あの卓で笑っていたのも、私が笑うのに合わせて笑っていただけだろう。
「一番安いのを一本ずつ足したのは傑作だったわ。あの人のグラス、宙に浮いたまま止まってたもの。店じゅうが見てたわよ」
「そう。見てたのね」
「見てたわよ。あんなに恥をかかされた男の人、初めて見たわ」
娘は自分の手柄のように扇を鳴らしたが、私が嬉しかったのはそこではない。
店じゅうが見ていたのはどうでもいい。あの人が、私を見ていたのだ。
「狐のコートの子は、少し可哀想だったわね。お酒一本より安いなんて言われて。あの子、あれから一度も笑わなかったわよ」
「本当のことを言っただけよ。悔しいなら、二度とあの人の膝に乗らなければいいの」
娘は扇の陰で目を丸くして、それから困ったように笑った。
私の言葉を冗談と受け取ったらしいが、私は少しも冗談のつもりではなかった。あの膝の上はあの子が座っていい所ではないのだ。
「でも、顔だけは本当にいいのね、あの次男坊。首都の娘たちのあいだでも、顔だけは評判なのよ。あれで生身でさえなかったら、私、本気で――」
「やめて」
私の声はいつもと同じ高さで出たのに、扇がぴたりと止まった。
娘の目に何がいけなかったのか分からないという色が浮かぶ。分からなくていいし、この娘に分かってもらう気も無い。
「あの人の顔の話は、あなたの口からは聞きたくないの」
「ご、ごめんなさい。冗談よ。ほんの冗談」
冗談でも嫌だった。
あの顔を私のほかの誰かが欲しがるのは嫌だ。
ルシールとかいう歌い手が膝に乗った時も、あの人の目はむき出しの肩へ吸い寄せられていた。
だから言ってやったのだ。あなた、さっきから肩しか見ていないわね、と。
あの人は耳まで赤くして肩から目を引き剥がした。その目がまっすぐ私のほうへ来た時、やっと息が楽になった。
「ねえ、イザベラ。どうしてあんな人に構うの? あなたなら、首都にもっといい人がいくらでもいるでしょう」
「退屈しのぎよ。ブライトミアには、からかう相手もいないもの」
「そうよね。あんな素の体の人、本気で相手にする訳ないものね」
娘は安心したように笑い、私は窓の外へ目を逸らした。
嘘をつくのは簡単だった。本当のことを言えば、この娘は明日には首都の誰かに手紙を書くだろう。
「それにしても、よくあんなことまで知ってたわね。手を舐めて治してもらった話とか」
「訊いたら教えてくれたの。カウンターの陰で小さくなってた人よ」
あの人が来る前、私は社員に言って取り巻きの一人を卓まで呼ばせた。
ネッドとかいう総務部長の倅だ。あの人は元気、と一つ訊いただけなのに、あの男は十も答えてくれた。
手のひらの傷の話と、お人形さんの唾はどんなお医者様よりよく効くという、あの人の自慢。
それから、ゆうべの話も。
「ゆうべね、あの人、私が来るって聞いただけで、一番強いお酒を瓶で頼んだんですって」
「まあ。そんなに嫌われてるの、あなた」
「そうよ」
娘は気の毒そうな顔を作ってみせたが、私は窓のほうを向いて、口の端が上がりそうになるのを奥歯でこらえていた。
私の名前一つであの人の一晩がまるごと潰れたのだ。
それを聞いた時、グラスを持つ指が震えそうになったのを、あの口の軽い男は気づきもしなかった。
あの人の取り巻きは口が軽い。
あの人のことを教えてくれる耳はこの街にいくらでもあって、私はただ訊けばいいだけだ。
「じゃあね、イザベラ。日曜の競鳥場、私も一緒に行っていい? ケスラーの鳥が勝つところ、見てみたいの」
「どうぞ。父の鳥なら、たぶん勝つわ」
娘は嬉しそうに扇を振って車を降りていった。
あの娘が日曜に見たいのは鳥ではなく、私があの人をどうやり込めるかなのだろう。
娘を降ろすと、車の中は急に音が無くなった。
「お嬢様。このままお戻りになりますか」
「もう少し回って。まだ帰りたくないの」
運転席の男は何も訊かずに大きな手でハンドルを切った。
車は来た道とは違うほうへ曲がっていく。こういう時に何も訊かない男だから、父はこの二人を私に付けたのだろう。
助手席の男はさっきお人形さんの唾を靴に受けたほうだ。
膝の上に置いた灰色の鱗の手が、街灯の下を過ぎるたびに鈍く光る。
「あなた。靴、まだ拭いてないのね」
「は。……すぐに拭きます」
「いいのよ、そのままで。それより、あの子。強かった?」
男は少し黙ってから前を向いたまま答えた。
答えを選んでいる黙り方だった。十年これで食べてきたと言っていた男が言葉を選ぶのを、私は初めて見た気がする。
「店の中なら、二人で抑えられました。……外なら、分かりません。あれは飾りではありません」
「そう」
私は肩掛けの毛を指先でつまんで少しだけ引っ張った。
あの子の腕も脚も目も、あの人のお金で出来ている。どこの病院で替えさせるかを決めたのもあの人だ。
あの子は頭のてっぺんから足の先まであの人の物なのだ。
それが羨ましいとは思わない。私は人形にはならないし、私が欲しいのはその逆だ。
「それから、さっきはご苦労さま。最後まであの人の後ろに立っていてくれて」
「お言いつけでしたので。……あの方、何度も振り返っておられました」
「知ってるわ」
私が席を立つまで、あの人の後ろに一人立たせておけと言ったのは私だ。
お人形さんの見張りだとあの人は思っているだろう。
本当は違う。私があの人を見ていない間も、あの人が振り返ればケスラーの金色の目があるから、私のことを考えずには一杯も飲めない。
ついでにほかの誰もあの人の椅子に近づけない。
「あの方は、ケスラーは用心棒を二人雇い直さなきゃならなかった、と仰いましたが」
助手席の男が前を向いたまま珍しく自分から口を開いた。十年の誇りに小さな傷が付いたのかもしれない。
「気にしないで。あの人は、ああでも言わないと椅子に座っていられない人なの。言い負かされるたびに、最後に何か一つ言い返して、それで勝った気になってお酒を飲むのよ」
「よくご存じで」
「ええ。よく知ってるわ」
あの人のことなら、たぶんあの人の取り巻きよりもあの人の兄よりも、私のほうがよく知っている。
あの人が言い返すたびに後ろの取り巻きが笑うのも、笑われたあの人が一瞬だけ得意そうに顎を上げるのも、私は三年分、一つ残らず覚えているのだ。
車は川沿いの通りに出た。暗い水の上を川向こうの工場の灯りが細長く揺れている。
私は窓に額を寄せて今夜を初めからなぞり直す。
店で一番高いお酒を、と頼んだら、レオン様がいつもお飲みの銘柄で、と支配人が揉み手をしながら教えてくれた。だから棚の六本を全部出させて、全部空けさせた。
今夜あの人が何を飲んでも、口に入れるたびに私を思い出すように。
あの人は立ち上がって店じゅうに一本ずつ奢った。客の顔が一つ残らずあの人のほうを向いた。
あの人は店じゅうを見回して得意そうにグラスを掲げ、最後にほんの一瞬だけ、横目で私を見た。
一瞬では足りなかった。
だから一番安いのを一本ずつ足させた。客の拍手がこっちへ流れてきて、あの人のグラスが宙で止まって、それからあとあの人は何度も私を睨んだ。
あれでいい。
あの人は私を嫌っている。三年前に首都の晩餐会で初めて会った晩から、ずっとだ。
それでもいい。嫌いな物を見る時のあの人の目は、ほかの誰を見る時よりまっすぐだからだ。
好かれてあの歌い手と同じ目で見られるくらいなら、嫌われて私だけを睨まれるほうがずっといい。
夏の避暑地の舞踏会でもそうだった。
私はあの人の足を三度踏んだ。三度目でやっとあの人が私の顔を見たから、そこでやめた。
喧嘩を売っている間だけあの人は私だけを見る。
ほかの女の肩も取り巻きの顔も店の客も見ないで、言い返す言葉を探して私の口元だけを見ている。
その目が欲しくて私は何度でもあの人を言い負かす。
言い負かした晩はこうして一人で何度も思い出す。
人形じゃない、と叫んだ時の唇の形も、言葉が喉で止まった時の喉仏の動きも、こっちは何もしなくてもこの顔なんだよ、と言った時の得意げな眉も。
顔の話の時には、知っているわ、と危うく口に出しそうになったのだ。
あの歌い手も、ストッキングの踊り子も、値段の付く女だ。
狐一枚とストッキング四足で、あの人の隣に座っている。あの人が飽きれば次の女に替わるだけだろう。
私はあの人に何かを買ってもらいたいのではない。あの人を私のものにしたいのだ。
あの人は私より先に皺だらけになって、私より先に死ぬ。
今夜あの人に言ったのは嘘ではないし、言いながら喉の奥がひやりと冷えたのも本当だ。
だから急がなければいけない。
私のものになったら、毎年ヴァーナルを打たせる。白い輪のお父様が何と言おうと、あの人の顔をあのまま残しておく。
あの人がそれを嫌がっても構わない。
来月の入札で兄のマックスが勝てば、アッシュクロフトは今より少し傾く。
家が傾けば、あの人を守っている名前もお金も、今よりずっと軽くなる。
その時に手を伸ばすのは、私だ。
父も兄も、私が欲しいと言った物を今まで一度も断ったことが無い。
鳥でも、車でも、家でも。人一人くらい、どうということはないだろう。
窓に映った自分の顔が、ちっとも笑っていないのに気がついた。
灰色がかった緑の目が、ガラスの向こうの暗い川を見ている。
いつか、手に入れる。
焦りはしない。あの顔が崩れ始める前に、間に合えばいい。
「日曜、あの方はお見えになるでしょうか」
助手席の男が、だしぬけに口を開いた。長く私の後ろに立ってきて、私が何を考えているかくらいは分かる男らしい。
「来ないわ。あの人は、私の用意した場所には来ない」
「では、どうなさいます」
「次の場所を作ればいいの。あの人が逃げられない所を」
「あの娘はどうなさいます。次も、あの方の隣にいるでしょう」
「放っておいて。あの子はあの人の持ち物よ。持ち主ごと手に入れれば、それで済むもの」
男はそれ以上何も言わなかったが、ルームミラーの中の運転席の男の目が、一度だけ私を見て、すぐに前へ戻った。
瓶は六本とも、空のまま卓の上にきちんと並べて置いてきた。
あの人が隣の卓を見るたびに、目に入るように。