バイオパンク・ヴィラン ~金と家の名前で好き勝手する、兵器王のドラ息子~ 作:泥酔ネコ
「今夜七時、陸軍調達局のアッシュポート出張所で、所長の大佐がお催しになる晩餐会がございます。旦那様の名代として、レオン様にご出席いただきます」
朝の八時で、僕の頭はまだ半分寝ている。
屋敷の朝食室でようやく一杯目のコーヒーに口をつけたところへ、ミス・ケンドリックが入ってきて、挨拶より先にそれを読み上げた。
いつもの黒い服の襟は糊まで、もうすっかり乾いていて、手にはまたしても書類の束を抱えている。
この女はたぶん眠るときも書類を抱いているのだろう。
日曜から三日がたっていた。
あの日曜は競鳥場に行かなかった。
昼まで港のホテルで眠り、午後はベティの帽子を買いに中央通りへ付き合わされ、夕方に届いた新聞でケスラーの牧場の鳥が二着を六身も離して勝ったと読んだ。
昼のうちに一度だけ、ラジオの競鳥の中継を探しかけた。つまみに指が触れたところでやめた。
聞いてはいない。決して。
その晩トビーは気を遣って株の話を一言もしなかったが、一言もしないので、ケスラーの株は上がったに決まっていた。
それから三日、あの女の名前は一度も口にしなかったし、モナークでも奥の席から一歩も動かなかった。
あの女の土俵には上がらないと決めたら上がらない。我ながら見事な逃げっぷりである!
それなのに朝の八時にこれだ。
「……名代? 僕が!?」
「さようでございます」
「父さんは?」
「旦那様は首都で議員の先生方との昼食会がございます。今夜の汽車には間に合いません」
「兄さんがいるだろ! 兄さんは?」
「ローランド様はアッシュクロフト生体機械の社長として、入札の当事者のお席にお着きになります。本社の、旦那様のお席にお座りになるのは、レオン様です」
ミス・ケンドリックの声は天気の話でもするように平らで、その平らさがどんな言い訳も受け付けないと告げている。
彼女は話しながら、書類の束から厚い紙を一枚抜き出して、卓の上の僕の皿の横に置く。
浮き彫りの金の縁取りに陸軍の紋章。
大佐の名前の下に父の名前があり、その横に手書きの小さな字で、名代、と書き足してある。
書き足した字はこの女の字だった。
「入札に出る兄さんを、父さんの代わりに大佐のそばへ座らせる訳にはいかない、ってこと?」
「さようでございます。かといって本社のお席を空けておけば、アッシュクロフトは大佐の晩餐会を軽く見た、と申す方が必ず出てまいります」
なるほど、と思った。
誰かが座らなければならない椅子で、その誰かがたまたま僕しか残っていなかったのだ。
父にしてみれば、椅子に花瓶を一つ置いたくらいのつもりだろう。
ふん、花瓶か。
「お断りは出来ないんだよね?」
「旦那様のお言いつけでございます」
ミス・ケンドリックはそれだけ言って口を閉じた。
この女が口を閉じると、朝食室の空気までなぜか一緒に固くなるのだ。
それに来週の頭には今月の封筒の日が来る。
その日この女は、封筒を渡すときのいつもの一呼吸を、たぶん三呼吸くらいに延ばすだろう。
「……分かったよ! 行けばいいんだろ、行けば」
「新しい
ミス・ケンドリックは書類の束を揃え直しながら、ほんの一言付け足す。わざと最後に回したのだろう。
意地の悪い女だ。
「ケスラー・インダストリーズのご一家も、お見えになります。マックス様と、イザベラ様が」
コーヒーが急に苦くなる。
冗談じゃない! と叫びたかったが、ミス・ケンドリックの前で叫べる人間はこの屋敷にはいない。
◇
仕立て下ろしの三つ揃いというのは、人を罰するために作られた服だと思う。
仕立て屋が三人がかりで寸法を直していったのに、糊で板のように固めた付け襟は、首を回すたびに顎の下へ食い込んでくる。
チョッキは胸を締めつけ、座れば腹の前で釦が突っ張り、腕を上げれば上着の背中が引きつれる。
おまけに靴は今日おろしたばかりのエナメルで、玄関の石段を降りただけで、もう右の小指が泣き始めている。
クソ、痛い。
こんな格好でモナークの席に座りたいとは誰も思わないだろう。
運転手の車で丘を下り、中央通りへ出る。
日の暮れかけた通りは、勤め帰りの帽子の群れで黒く詰まっている。
角の広告塔の前で、糊の桶を提げた貼り屋の小僧が刷毛を振るっている。
塔に貼られているのは父の運動の看板だ。白い地に黒い太い字で「人の形を守れ」。
その「守れ」の上へ、小僧が新しい紙をべたりと貼りつける。
ケスラーの社章と、袖をまくった工員の太い腕の絵だ。肘の繋ぎ目には、隠すどころか金色の線まで引いてある。
残ったのは「人の形を」の四字と、その横で拳を握る作り物の腕だけだった。
少し開けた窓から、煮た小麦糊の酸っぱい匂いが車の中まで入ってくる。
「おい! あれ、父さんのとこの看板だろ」
「さようでございますな。あの角は、今週に入ってもう三度目でございます」
運転手はハンドルを握ったまま、少しも驚かない声で答えた。屋敷に四十年仕えている白髪の痩せた男で、毎朝ここを通るのだから、もう珍しくもないのだろう。
父が首都で議員を口説いて回っているあいだに、この街では刷毛一本で看板が負けている。
ケスラーの社章を見たとたん、今夜はあの女の顔を見ずには済まないのを思い出して、胃の底がずしりと重くなる。
それもこれも、あの社章のせいだ。
あの小僧の糊の桶を蹴り倒してやらなければ、気が済みそうにない。
「おい、ちょっと止めろ!」
「お降りになりますので?」
「あの桶を蹴っ飛ばしてくる」
「……そのお召し物で、でございますか」
運転手は前の鏡の中で、僕の膝のあたりにちらりと目を落とす。諫めるとも諫めないとも言わない、いつもの年寄りの目つきだった。
言われてみれば、この
無理に上げて股の縫い目が裂けたら、今夜は尻を半分出して大佐に挨拶する羽目になる!
「……いい。出してくれ」
「かしこまりました」
陸軍調達局の出張所は父の会社の本社ビルのちょうど真向かいにある。
灰色の石造りの三階建てで、窓という窓に灯がともり、正面の石段の両脇には銃を立てた兵隊が二人ずつ並んでいる。
向かいの本社ビルのほうが倍は背が高く、毎朝この役所の窓から見上げられているのかと思うと、大佐の機嫌を取りたくなる父の気持ちも少しは分かる。
広間にはもう客が集まっている。
軍服の胸に勲章を並べた将校たちと、黒い
軍楽隊の弦楽の四人組が隅で品のいい曲を弾いているが、音の大きさはモナークの楽団の三分の一くらいしかない。
煙草の煙さえ、ここではどこか遠慮がちに天井へ昇っていく。
「やあ、レオンくんじゃないか!」
入口で外套を預けたとたん、太い声が飛んで来た。この広間で僕をそんな風に呼ぶ男は一人しかいない。
ブラッドリー少佐だ。
出張所で父の会社の担当をしている将校で、三十を幾つか出たばかりの赤ら顔の陽気な男だ。
その歳で少佐の肩章を付けていられるのは父親が陸軍省の中将だからだと、出張所の誰もが知っている。
大佐より上の椅子に座る親父がいるのだから、この出張所で彼に強く出られる者はいない。
昼間は調達局の書類に判を押し、夜はときどき僕の集まりに顔を出して、カードで負けては頭を掻いていく。
要するに、軍服を着たドラ息子だ。軍というところにも、うちと同じような家の息子はちゃんといるのだ。
この広間で僕の顔を見て本気で嬉しそうな顔をしたのは、たぶんこの男だけだった。
「お父上の名代だって? ケンドリック女史から聞いたよ。いや、立派なもんだ。その
「首が絞まって死にそうですよ、少佐!」
「はは、みんなそうさ。俺なんか、この軍服の詰め襟で十年死にかけてる」
少佐は僕の肩を気安く叩き、それから声を落として、悪だくみでもするように片目をつぶってみせる。
「ところで次の集まりはいつだい? この前の負けをまだ取り返してないんだ」
「そのうちに。……今夜は父の名代なので」
「おっと、そうだった。こいつは失礼」
少佐は大げさに敬礼の真似をして、笑いながら将校たちの輪へ戻っていった。
こういう男が一人いるだけで、息が少し楽になるのだから、ありがたいものだ。
その楽になった息は三秒しか続かなかった。
広間の奥、大きな暖炉の前に背の高い男が二人立っている。一人は兄だ。
黒い三つ揃いをまるで生まれたときから着ていたように着こなして、将校たちと何か話している。
もう一人は兄よりさらに頭半分背が高く、肩幅が広く、金茶色の髪をきれいに撫でつけた男だった。
笑うと白い歯が見え、その笑顔が周りの将校たちにも次々にうつっていく。
マックス・ケスラー。
その腕に手を添えて、深い葡萄酒色の絹の服を着た娘が、広間を見回している。
まずい。
僕はそっと柱の陰へ回った。
◇
逃げる、というのは技術である。
僕は柱の陰から、飲み物の盆を持った給仕の陰へ、給仕の陰から、勲章を山ほど付けた老将軍の背中の陰へと、目立たないように移っていった。
屋敷の廊下で十九年かけて磨いてきた技術だ。兄の足音を聞き分けて角を一つ早く曲がる。
食堂の扉が開く前に使用人の通路へ逃げ込む。あの女から逃げるくらい訳はない。
その筈だった。
「レオン。そんな所で将軍閣下の背中に何か用?」
声は真後ろからした。心臓が喉まで跳ね上がる。
振り返ると葡萄酒色の絹が目の前にあった。
イザベラは細いグラスを片手に、首を傾げて僕を見下ろしている。並ぶとこの女のほうが、指二本ぶん背が高いのだ。
「……別に。将軍閣下の勲章を数えてた」
「何個あった?」
「十一個」
「十四個よ。背中からじゃ、三つ見えないもの」
イザベラは得意げにグラスを揺らしてみせる。
老将軍が振り返って僕たちを見ると、孫でも眺めるような顔で頷いてから、また前を向いた。
頷かれても困る。
「日曜、来なかったのね」
「用事があった」
「どんな?」
「寝てた」
「そう。うちの鳥、勝ったわよ。六身差。あなたが来ていたら、目の前で見せてあげられたのに。賭ける相手がいなくて、つまらなかったわ」
イザベラは本当につまらなそうにグラスの縁を指でなぞる。
その顔がほんの一瞬だけ拗ねた子供のように見えた。
もっとも次の瞬間にはもう、いつもの意地の悪い笑い方に戻っているので、たぶん見間違いだろう。
「今夜は一人なのね。お人形さんも歌い手さんも踊り子さんも連れてこられない場所だと、あなた、ずいぶん小さく見えるわ」
相手にしない、と決めたのだ。口から出かかった言葉を、シャンパンと一緒に飲み込む。
一杯目だ。ミス・ケンドリックとの約束では、あと一杯しか残っていない。
「やあ、君がレオン君か!」
助け舟は思いがけない方から来た。
マックス・ケスラーが兄を置いて、大股でこちらへ歩いてくる。
間近に立たれると見上げるほど大きく、それでいて少しも威張ったところが無い。差し出された手は大きくて、乾いていて、温かかった。
「マックス・ケスラーだ。妹がいつも世話になってるそうだね。いや、世話をかけてるのかな。この子は昔から、気に入った相手ほど構いたがる癖があってね」
「兄さん」
イザベラが低い声で兄の袖を引いたが、マックスは妹の抗議など聞こえないという顔で、僕の手を二度、力強く振る。
気に入った相手ほど構いたがる。つまり僕は、あの女の暇つぶしの相手に選ばれたということだろう。
選ばれたところでびた一文の得にもならない。
「お父上には、首都で何度かお目にかかってる。立派な方だ。考え方はうちとはずいぶん違うけどね。……今夜は仕事の話は抜きにしよう。大佐の料理は仕事の話より消化に悪いから」
マックスは片目をつぶって笑う。
ブラッドリー少佐とそっくりの仕草なのに、こちらのほうがずっと品よく見えるのだから、育ちというのは不公平なものだ。
「ああ、そうだ。仕事じゃない頼みを一つだけ」
マックスは思い出したように、気さくに僕の肩へ手を置いた。
大きな手で僕の肩が半分隠れる。
「君の行きつけの店の、奥の席。一晩だけ、妹に譲ってやってくれないか。この子、あの席がずいぶん気に入ったらしくてね。舞台が一番よく見えるって、帰ってきてからその話ばかりなんだ」
「兄さん。頼んでないわ」
イザベラが兄の袖をさっきより強く引いて、不機嫌そうに眉を寄せる。
頼み方まで感じのいい男だった。
生まれてこのかた、頼みごとを断られるとは一度も思ったことのない男の頼み方だ。
背が高くて、育ちがよくて、会う人みんなに好かれて、そのうえ僕の席まで欲しがるのか!
誰がやるか。
僕はにっこり笑う。自分でも感心するくらい、愛想のいい笑顔が出た。
「あの席は売り物じゃないんです。すみませんね」
マックスは一瞬だけ目を丸くし、それから声を立てて笑った。
「そりゃそうだ。大事な席を、一晩でも人に貸す奴はいないな。無理を言った」
あっさりと手を引っ込めたマックスの目だけが、笑い声より少し長く僕の顔に留まっていた。
「ほらね、兄さん。この人、自分の物は椅子一脚だって人に貸さないのよ」
イザベラが勝ち誇ったように顎を上げる。断られたのは自分のくせに、なぜこの女が得意げなのかは分からない。
貸さないとも。あの席は僕の物だ!
いい人だ、と思った。少なくとも妹よりはずっといい。
兄の入札の敵だということを、うっかり忘れそうになるくらいには。
だからこそ、この男の欲しがる物は、何一つ渡してやりたくなかった。
肩に残った大きな手の温かさまで、なんだか癪に障る。