バイオパンク・ヴィラン ~金と家の名前で好き勝手する、兵器王のドラ息子~ 作:泥酔ネコ
晩餐の卓は長い一本の卓だった。
陸軍調達局のアッシュポート出張所で、所長の大佐が開く晩餐会だ。
来月には陸軍の新しい鎧の入札があり、兄が社長を務めるアッシュクロフト生体機械とケスラー・インダストリーズがその札を争っている。
今夜は札を入れる側の重役と札を受ける側の将校が、一つの卓で同じ料理を食べる晩なのだ。
父は首都の昼食会から戻れず、本社の椅子には父の名代として僕が座らされることになった。
糊で固めた付け襟は家を出てからずっと顎の下に食い込んだままで、おろしたてのエナメルの靴の中では右の小指がまだ泣いている。
こんな格好で一晩じゅう父の椅子の番をするのが、今夜の僕の仕事なのだ。
名札を探して歩いていくと、上座の大佐から三つ目の名札に父の名前があり、その下に「名代 レオン・アッシュクロフト」と書いてあった。
その右隣の名札にはイザベラ・ケスラーと書いてある。
僕は名札を二度見た。三度見ても字は変わらなかった。
ケスラーの会長の娘で、三年前の首都の晩餐会から、社交の季節のたびに僕を玩具にしてきて、近ごろはモナークの奥の席の隣にまで陣取っている女だ。
ついさっきも広間で、老将軍の勲章の数で一本取られたばかりだった。
「あら、お隣ね」
イザベラが当たり前のような顔で、隣の椅子に腰を下ろす。給仕が椅子を引くのを待ちもしない。
「……誰が決めたんだ、これ」
「席を決めるのは、大佐の副官よ。私じゃないわ」
イザベラはそう言って膝の上にナプキンを広げた。広げる手つきが妙に楽しそうだ。
副官が決めたのか、副官に誰かが何か言ったのか、僕には確かめようがない。
兄の席は卓の向かい側の少し下手にあったから、入札の当事者は大佐から一歩離れて座る決まりになっているのだろう。
兄は自分の名札を見て、それから向かいの僕の名札を見た。父の名前の下の、名代、の二字を見た。
見て、何も言わずに座った。
白くなった指の関節が、卓の上で組まれるのが見えた。
食事が始まる前に大佐の挨拶があった。
陸軍が国を守る話から始まって、前の大戦の話になり、調達局の仕事の尊さの話になり、新しい鎧が兵の命を救う話になり、それからまた前の大戦の話に戻った。
二十分かかった。
偉い人の挨拶が料理の冷めるまで続くのは、生まれ変わる前の世界でも同じだったらしい。
そのあいだ、僕は付け襟に顎を削られながら、目の前で冷めていくスープを眺めていた。
モナークなら、ルシールが二曲歌い終わっている。
ようやく運ばれてきた主菜は、脂の匂いのきつい羊の煮込みだった。軍の晩餐というのはどうやら料理まで軍隊式らしい。
肉は靴底のように固く、ソースは塩辛く、付け合わせの芋だけが妙に柔らかい。
父の料理人の鴨のスープが急に恋しくなったが、屋敷の食事を恋しいと思ったのは、生まれて初めてかもしれない!
卓の向かいでは、将校たちが羊と格闘しながら首都の話を始めている。
「首都の法案は、今度こそ通りそうですな。新聞はそういう書きぶりでした」
向かいの席の痩せた大尉が、羊の脂身を皿の端へよけながら口を開く。
言いながら僕の顔をちらりとうかがったのは、アッシュクロフトの名代の前でこの話をしていいのか、測りかねたからだろう。
「通ってもらわんと困る」
その隣の白髪まじりの中佐が、待っていたとばかりに苦い顔で鼻を鳴らす。
「連隊から来る報告じゃ、新兵の検査で袖をまくらせると、このごろは繋ぎ目がやけに目につく。港の人足あがりは特にひどい。腕を換えた者は取らんのが今の決まりだから、片端から追い返すしかない」
港の角で作り物の腕を見せびらかしていた連中が、兵隊の窓口でも袖をまくらされて追い返されているのだ。
羊は固いが、この話は悪くない。いい気味だ、港の見せびらかし屋どもめ。
「ですが中佐殿、オストマルクでは換えた兵ばかりの部隊を作っているという噂じゃありませんか。跳ぶわ走るわで、
向かいの若い将校が、身を乗り出して口を挟んだ。上官の話に割り込むのが楽しくて仕方がないという顔だ。
「速いだけだ」
中佐は若造の口出しが気に食わないらしく、じろりと睨んだ。
「大戦の頃は、こっちも人の足りん所へ換えた兵を回したことがある。薬が届いているうちは、確かに速かった」
中佐はそこで葡萄酒を一口含み、その味まで気に入らないように口をすぼめる。
また大戦の話か、と僕は腹の中でうんざりした。大佐の挨拶だけで腹いっぱいなのだ。
「だが前線じゃ、薬の箱より砲弾のほうが先に届く。補給の列が三日も途切れてみろ、換えた兵は味方に撃たれる兵になる。鎧は脱げば人に戻るが、換えた脚は一生脱げん。そんな兵を、誰が好きこのんで隊に並べる」
「ですが港の人足があの調子で換えていけば、そのうち袖をまくらせるたびに追い返す羽目になりますな」
大尉がおそるおそる言い添えると、中佐はナイフの先で羊の脂身を突き刺した。話がやっと本題に来た、という刺し方だった。
「だから法案だ。今はまだ生身のほうがずっと多いから、追い返しても代わりの若いのが来る。換えた者が国の半分にでもなってみろ。連隊の名簿が埋まらなくなる」
「そのくせ、腕を売っている会社が鎧の入札に出てくるんですからな」
大尉が声を落として、卓の下手のほうへ顎をしゃくる。イザベラの兄のマックスがいるあたりだ。
僕は羊を噛むのをやめて、耳だけ向かいの卓へ伸ばした。
ケスラーの悪口なら、大佐の挨拶の百倍は聞く値打ちがある。
面白くなってきた。
「港じゃ新しい作業用の鎧の半分が、もうケスラーの
そこで大尉の口が止まった。
僕の隣の名札に、ようやく目が届いたらしい。イザベラ・ケスラー、の字を読んだ大尉の顔から、見る見る血の気が引いていく。
「……いや、その。今夜の羊は、実に結構ですな」
大尉は大佐のほうへ取ってつけたようにそう言うと、残りの言葉を羊と一緒に口へ押し込んだ。
せっかくいい所だったのに、この腰抜けが!
当のイザベラは、顔色一つ変えずに羊を小さく切り分けている。聞こえていなかった筈が無い。
「入札の試験は来月の頭ですって」
隣でイザベラが、ナイフを動かす手も止めずに口を開いた。
誰に言うともなく、という声だったが、嫌な予感しかしない口の開き方だった。
「お父様の名代さんは試験に出る鎧のこと、何か一つでも言える?」
相手にしない、と決めたのだ。
僕は羊の肉を噛む。噛んでも噛んでも肉は一向に小さくならない。
羊のほうも僕に関わりたくないらしい。
「黙ってるのね。じゃあ、私が当ててあげる。……何も知らないんでしょう」
「知ってるよ!」
言ってしまった。
口から出た言葉はもう戻らない。向かいの席の何人かが、もうこちらを見ている。
名代が何も知らないと思われたまま黙っている訳にはいかないのは、父の名前の札が僕の皿の前に立っているからだ。
「生きた筋肉を着て、人の倍の力を出す鎧だ。筋肉は鳥から採る。それくらいは知ってる!」
「そう。鳥の筋肉ね」
イザベラは子供を褒めるように何度か頷いてみせる。それからナイフを置いて、指を一本ずつ折っていく。
嫌な数え方だ。
「それで骨は? 骨組みは何から作るの? 鎧の中を流れる液は何から作って、何を混ぜるの? 型は何種類あるの? 液が切れたら、中の兵隊はどうなるの?」
四本の指が全部折れた。僕の背中を冷や汗が一筋、伝っていく。
僕は一つも答えられなかった。
骨だの液だの、兄の会社の誰かが説明しているのを、何度か聞いたことはあるような、無いような。
聞いたような、というのは、つまり知らないということなのだ。
「骨は
イザベラは指を一本ずつ開きながらすらすらと並べてみせたが、得意そうな顔一つしないのが、また憎らしい。
この高慢ちきのアマめ。
「うちの兄の付き添いで来てる娘でも、これくらいは言えるのよ。アッシュクロフトの名代さん」
向かいの席で若い将校がナプキンで口元を押さえている。
その隣の重役の奥さんが扇の陰で連れ合いに何か囁き、大佐は聞こえないふりで羊の肉を切っている。
「付き添いの娘がずいぶん詳しいんだな。ブライトミアじゃ、嫁入り前の娘に鎧の作り方を教えるのか?」
今度こそ一本取ってやるつもりで、僕は声を張った。向かいの何人かが面白そうにこちらへ顔を向ける。
「教えないわ。自分で覚えたの」
イザベラは悠々とナプキンで口元を拭う。
「あなたのお家では、教えても覚えないんでしょう? お兄様は首席で大学を出たそうなのに」
向かいの席で兄の手がほんの一瞬だけ止まったのが見えた。
一本取るつもりが兄まで巻き込んで、また跳ね返されたのだ。
クソったれ。
「……鎧のことは、兄さんの仕事だ。僕の仕事じゃない」
「じゃあ、名代さんのお仕事は何?」
「父さんの椅子に座ってることだ」
「そう」
イザベラは僕の答えに、さも感心したように眉を上げてみせる。
「椅子に座るだけなら、お父様の外套でも掛けておけばよかったのにね。そのほうが、羊も一人分浮いたわ」
今度はさすがに誰も我慢しなかった。
向かいの若い将校がこらえきれずに噴き出す。重役の奥さんが扇の陰で肩を揺らす。
大佐でさえ、口髭の下でほんの少しだけ口元をゆるめた。
それから、僕は見てしまった。
卓の向かい、少し下手の席で兄がグラスを口元へ運んでいる。運ぶ前のほんの一瞬。
兄の唇の端が確かに持ち上がっていた。食堂で「お前の苦手な」と言ったときと同じ持ち上がり方だった。
兄はそのまま葡萄酒を一口含み、静かにグラスを置いて、隣の将校との話に戻った。
僕のほうはもう見なかった。
見なくても、分かった。
父の名代の椅子に座ったのは、兄ではなく僕だ。
兄はそれを、名札を見たときからずっと腹に溜めていたのだ。
その名代が商売敵の娘に言い負かされて将校たちに笑われているのだから、兄にしてみれば、これほど胸のすく見物は無かっただろう。
ケスラーは兄の入札の敵なのだ。兄の会社の鎧のことでアッシュクロフトの名代が笑われたのだ。
その兄が、敵の娘に言い負かされる弟を見て笑っている。
家の名前より弟の恥のほうが嬉しいのか、この石頭は。
羊の肉が喉の途中で止まった。
このまま黙って羊を噛んでいたら、僕は今夜、外套の代わりに座っていた名代で終わる。
言葉ではこの女に勝てない。それはもう、嫌というほど分かった。
だが、この卓にいるのはあの女だけではない。
卓の向こうの下手、軍服の並んだあたりに、見慣れた赤ら顔がある。
ブラッドリー少佐だ。広間の入口で、次の集まりはいつだと僕に訊いてきたのは向こうなのだ。
僕はその顔をじっと見る。
気づいた少佐に、指で卓の上にカードを配る真似をして片目をつぶってやる。
少佐の赤ら顔がにやりと崩れた。
軍服を着たドラ息子には、それだけで通じたらしい。
「そういえば、レオンくん!」
少佐が葡萄酒のグラスを持ったまま、卓じゅうに響く声を出した。
「さっきの話だがね、次の集まりはいつだい? この前の負けを、俺はまだ取り返してないんだ」
卓じゅうの顔が一斉に少佐を見て、それから僕を見る。
大佐の卓で、大佐を差し置いて酒盛りの話をする少佐。
ほかの将校がやれば翌日には辺境の駐屯地へ飛ばされるだろうが、この男だけは別だ。この男の親父は大佐の上の上の椅子に座っているのだ。
大佐は聞こえないふりで、皿の上の羊に目を落とした。
叱れないのだ。叱れないのを、僕はちゃんと知っている。
「今度の土曜ですよ、少佐。……ああ、そうだ! 皆さんもどうぞ」
僕は卓に並んだ軍服を、端から端までゆっくりと見渡す。
見渡しながら、口が勝手に動いた。
「今度の土曜、モナークの奥を朝まで借ります。歌うのはルシールです。酒は全部、僕が持ちます。カードもやりますけど、少佐の負けも僕が持ちますから、安心して負けてください!」
一瞬、卓が静まる。
それから、若い将校たちの顔つきが目に見えて変わった。
モナークの奥の席といえば、この街で知らない者のいない席だ。
金色に染めた髪の歌い手が卓の上で歌い、一本一万ダルのシャンパンの栓が天井まで飛ぶ、あの席。
将校の月給では、扉の前を通り過ぎるのが精一杯だろう。
「モナークの奥って、あの……」
「ルシールって、あの歌い手のか?」
あちこちで囁きが起きる。
隣と目を見交わしてにやにやしている者までいる。さっきまで僕を笑っていた口が、今は僕の酒の話をしているのだ。
「名代殿。……その、本当に朝まで、ですか」
卓の中ほどの鼻の大きな中尉が、半信半疑という顔で訊いてきた。
大佐の手前、喜んでいい話なのかどうか、まだ決めかねているらしい。
「朝までです。帰りたくなったら帰ってもいいですけど、帰った人の分の酒は、残った人が飲むことになります」
「そりゃあ、帰れませんな」
中尉が大真面目な顔で答えると、周りがまたどっと笑った。
「レオンくん、俺の負けまで本当に君持ちでいいのかい。俺は、負けるとなったら大きいぞ」
「知ってます! この前も見てましたから」
「はっはっは! こいつは参った!」
少佐は赤ら顔をさらに赤くして、自分の膝を叩く。
調達局の判子を握っている男が、この前の負けを思い出して、こんなに嬉しそうな顔をするのだ。
笑いの輪の真ん中で、背中を冷たい汗が一筋落ちていった。
大きいぞ、と少佐は言った。持つと言ったのは僕だ。
「聞いたか、諸君! 次男殿の号令だ!」
ブラッドリー少佐がグラスを掲げて囃し立てると、将校たちが笑いながら口々に応じた。
今度の笑いは僕を笑う笑いではない。
大佐は相変わらず聞こえないふりをしている。
肉を切る手だけが、さっきより遅い。少佐の親父の顔を立てて飲み込んだ分だけ、羊が固くなったのだろう。
僕は向かいの席に目をやる。
さっき誰よりも派手に噴き出した若い将校が、隣の連中と一緒になって身を乗り出している。
襟の階級章もまだ新しい二十そこそこの男で、さっきは中佐の話にまで割り込んでいた。
そうはいくか、マヌケ。
「ああ、君は来なくていい」
若い将校の顔が身を乗り出した形のまま固まる。
「さっき、ずいぶん楽しそうだったからね。土曜は下宿で、思い出し笑いでもしててくれよ」
一拍おいて、周りの将校たちがどっと笑った。
今度笑われているのはその若いのだ。
「そ、そんな……名代殿、さっきのはその、つい……」
「諦めろ。次男殿のご命令だ。土曜の晩は、俺がお前の分まで飲んでおいてやる」
少佐が卓の向こうから、気の毒そうな声で追い討ちをかけた。気の毒そうなのは声だけで、顔は笑っている。
隣の将校に肘で小突かれて、若い将校は耳まで真っ赤になってナプキンを握りしめる。
少しだけ噴水の晩の味がした。
「動物園の夜会ね」
隣でイザベラが羊の肉を口へ運ぶ手も止めずに、心底つまらなそうな声を出す。
「私は行かないわ」
「誘ってない」
「知ってるわ。だから先に断っておいたの」
かちり、と隣の皿に当たったナイフの音が、さっきまでより少し大きかった。固い羊に八つ当たりでもしたのだろう。
また向こうの言葉で締められた。
だが、今度は不思議と腹が立たない。この女が何を言おうと、卓の向こうの将校たちはもう、土曜のモナークの話しかしていないのだ。
金を出せば人はちゃんと寄ってくる。
偉そうにしていた連中が、名前と金一つで僕のほうへ顔を向け直すのだ。これだから、この家に生まれるのはやめられない!
卓の下手で、マックスだけが笑いもせずに、面白そうに僕と将校たちの顔を見比べている。
あの男が何を面白がっていようと、僕にはどうでもいいことだ。
それより向かいの少し下手の席だ。
兄がグラスを置いている。その唇の端はもう持ち上がっていない。それどころか心なしか下がって見えた。
いい顔だ。
羊の肉がようやく喉を通った。
靴底のように固いのは少しも変わらないのに、晩餐会が始まってから初めて、喉につかえずに落ちていった。
◇
晩餐会が終わったのは、夜の十時を過ぎてからだった。
帰り際、正面の石段の上で外套を受け取っていると、兄が隣に並ぶ。
兄は自分の外套に袖を通しながら、前を向いたまま低い声を出した。
褒める声ではなかった。卓の向こうで口の端を持ち上げたときほど愉快そうな声でもなかった。
「いい名代ぶりだったな。大佐の卓で、土曜の酒盛りの触れ回りとは。……調達局の少佐の負けまで持つと、大佐の前で言ったな」
「……はい、兄さん」
何がまずいのか、さっぱり分からなかった。分からないまま頭を下げるのは、子供の頃から慣れている。
「大佐は最後まで、お前に一言も口をきかなかった。入札の試験が来月だというのにだぞ。調達局の頭の前で、その部下を酒で釣ってみせる名代がどこにいる」
声は低いままだったが、兄は外套の釦を一つ掛け違えている。
焦っているのだ。
ああ、と腹の中で手を打った。
兄は、僕が大佐の機嫌を損ねたと思っているのだ。大佐が黙っていたのは怒っていたからで、その腹いせが入札の札に回ってくる、と。
この人は、あの少佐の親父が誰なのかを知らないのだ。
将校とカードも囲まないし、酒は二杯で切り上げて帰る人だから、知らなくて当たり前か。
僕のほうは、少佐本人から何度も聞かされている。
負けが込むたびに「なあに、大佐だって俺には文句を言えやしないさ」と赤い顔で笑うのだ。親父の名前を出さないところだけは、あの男にしては上品だった。
教えてやる気は少しも起きなかった。
来月の試験まで、兄が大佐の顔色を思い出して眠れずにいるのかと思うと、首に食い込む付け襟もそれほど気にならない。
勝手に青くなってろ。
「父さんには、ケンドリックが報告するだろう。羊の数まできちんとな」
兄はそれだけ言って、石段を降りていった。下には兄の会社の車が待っている。
乗り込むとき街灯の明かりで兄の横顔がちらりと見えたが、口の端は最後まで持ち上がらなかった。
ざまあみろ、と腹の中でだけ毒づいた。口に出すほど僕は馬鹿ではない。
もっとも、いい気分は長くは続かなかった。
羊の数と一緒に、土曜の酒盛りの話も父の耳に入るのだ。来週の封筒の日、ミス・ケンドリックの三呼吸は四呼吸になるかもしれない。
僕は石段の上でしばらく動けなかった。
通りの向こう側では、マックスが妹のために車の扉を開けている。
イザベラは乗り込む前に一度だけ振り返り、石段の上の僕を見つけて、小さく手を振った。
振り返すつもりなど無かったので、僕は付け襟の中に顎を埋めた。
「レオン様、お屋敷へ戻られますか」
運転手が車の扉を開けて待っている。屋敷の運転手はこういうとき、余計な顔をしないのがありがたい。
「モナークへ」
「……その、晩餐会のお姿のままで、でございますか」
「この服のままでだ」
屋敷へ帰れば、朝には父への報告を待つ兄と、同じ廊下ですれ違うことになる。
それくらいなら、
車が石段の前を離れると、運転手が前を向いたまま遠慮がちに口を開く。
「レオン様。中央通りは将校方のお車で詰まっております。一本裏の通りを回りましょうか。少し遠回りになりますが」
「まっすぐ行け! 早く着きたいんだ」
「かしこまりました。……それと、今夜は水曜でございますから、港のほうは少し物騒かと。港通りまでは、お出にならないほうがよろしいかと存じます」
「港までは行かないよ。モナークの前で降ろしてくれればいい」
「かしこまりました」
運転手はそれきり黙った。水曜の何が物騒なのかは、訊かなかった。
訊いて、また説明を聞かされるのは御免だ。今夜はもう、羊と挨拶と鎧の話で頭がいっぱいなのだ!
車は中央通りを東へ下り始めた。
窓の外では、勲章の将校たちを乗せた車が前にも横にも並んでのろのろと進んでいる。
角の広告塔の前を過ぎるとき、夕方に貼られたばかりのケスラーの腕が街灯の下で拳を握っていた。
行きに蹴りそこねた桶のことを思い出したが、今夜はもう蹴る気も起きない。羊と冷や汗で、膝どころか腹まで重かった。
僕は座席の背にもたれて、付け襟の留め金に指をかけた。外し方が分からない。
クソ、何だこれ。
仕立て屋が三人がかりで留めていったのだ。ルシールなら指一本で外してくれるだろう。
ジーナはモナークで待っている筈だった。名代の晩餐会に、拳銃を鞄に入れた移民の娘は連れて行けない。
ミス・ケンドリックが朝のうちにそう決めていた。
おろしたての靴の中で、右の小指が心臓と同じ拍子で脈を打っている。モナークに着いたらまず靴を脱ごう。
それから、ルシールに襟を外させて、ジーナに瓶を寄越させて、羊の味を忘れるまで飲んでやる!
土曜の奥の席のことを支配人に言いつけるのは、その後でいい。
運転席の向こうの闇の奥で、警笛が一つ、長く鳴った。