バイオパンク・ヴィラン ~金と家の名前で好き勝手する、兵器王のドラ息子~ 作:泥酔ネコ
水曜の正午。港通りの角の指定薬局の前には、いつものように帰還兵の列が出来ていた。
硝子の扉には金の字で「退役軍人局指定」とある。
その下にヴァイス適合研究所の白い琺瑯の札が掛かっていて、「新処方取扱 名誉の特例の方はこちら」の矢印が、窓口の脇の小さな扉を指している。
旧大陸からの帰還兵サイラス・クレインは、列の一番後ろに並ぶ。
名誉の特例の者は脇の扉から先に入っていい決まりで薬剤師にも何度もそう言われているのに、クレインは毎週わざわざ最後尾に付く。
前に並んでいるのは、袖口から肌の色の合わない古い腕を覗かせた男や、松葉杖の男や、片袖を結んだ男たちだ。
この列の腕や脚はどれも灰色がかって、人の肌より一段くすんでいる。旧式の補助型の
その連中を追い越して先に入るのは、どうにも尻の据わりが悪い。
「軍曹、また後ろですかい」
前に並んだ片脚の男が振り返って、歯の抜けた口でにやにや笑う。
右脚の膝から下は木の棒で、左の腕だけが灰色の補助型である。からかう口ぶりのくせに、声はどこか嬉しそうだった。
「前に入れって言われてるんでしょう。勲章持ちの特例なんだから」
「勲章は塹壕を一晩守った褒美だ。薬屋の列に割り込む許しじゃない」
クレインが外套の襟を立ててむっつり返すと、男たちがげらげら笑った。
毎週同じやり取りで、毎週同じように笑う。口には出さないが、クレインはそれが少し嬉しい。
この列の中では、自分はまだ軍曹なのだ。
「軍曹がそう言うんじゃ、俺らも割り込めねえや」
「お前は去年、割り込もうとして窓口の硝子を割っただろう」
「ありゃ、松葉杖が滑ったんですよ」
松葉杖の男が情けない声を出して、列がまた沸く。クレインも襟の陰で唇の端だけを緩めた。
五十になり、髪の半分は白い。
それでも肩も胸も分厚く、外套の上からでも並の人足より一回り大きい。
外套の下の両脚と右腕は、肘と膝から先が人の物ではない。
二十四年前、前線の塹壕で砲弾に両脚と右腕を持っていかれた。
軍の病院で手足の無い体で寝ていたら、白衣の軍医が来て志願しないかと持ちかけてきた。
「新しい手足をやろう。前より強い手足だ。そのかわり、もう一度前線へ出てもらう」
軍医は配給の毛布の数でも数えるような顔で、そう言った。
手足の無い体で故郷に帰り、年老いた母親に寝たきりの息子の下の世話をさせるくらいなら、そのほうがよほどましだと思ってクレインは志願した。
「軍曹の顔なら、造兵廠の広告で毎日拝んでますぜ。この腕が国を守った、ってね」
片脚の男が自分の事のように得意げに胸を張る。
港通りの古い煉瓦の壁には、勲章を下げた兵が手袋の右手を高く挙げている色の褪せた広告が、今も貼ってある。
「あの絵の軍曹は髪がまだ黒かったよな」
後ろの片袖を結んだ男が、からかうように口を挟む。
「二十年もたてば、誰でも白くなる」
「腕のほうはちっとも年を取らねえのにな」
松葉杖の男が羨ましそうにクレインの右の袖を見る。
袖の中にあるのは、辺境の名前も知らないモンスターの肉と骨で作った腕だ。
手の甲の、指の付け根の骨の間には刃物のような爪が三本畳んで仕舞ってあって、拳を固く握り込めば皮を割って出てくる。
両脚は塹壕の縁を一息で跳び越えるための脚だ。背骨には骨の芯を打ち込まれ、首の後ろには反射を速める神経を通された。
目が覚めたとき、新しい右手は
自分の手のした事なのに、クレインはぞっとして声も出なかった。
爪は怪物兵の喉を裂くために付けられた物だった。講和の後は一度も出したことが無い。
前線の兵たちは、クレインのような者を「
三百人ほどいて、ほとんどが死んだ。拒絶で死んだ者もいたし、怪物兵と組み合って死んだ者もいた。
クレインは生き残った。塹壕を一晩守って勲章を貰い、講和の後の授与の行進では新聞の一面に顔が載った。
「羨ましがるな。こいつは外せない。外せば背骨も神経も持たんと、軍医に言われてる。死ぬまで毎週ここに並ぶ腕だ」
「その薬代が去年からタダなんでしょう。名誉の特例ってやつで。俺らは補助の残りを自分の財布から払ってるってのに」
片脚の男の声に、少しだけ棘が混じる。
クレインは言い返さなかったし、言い返せる事でもなかった。
拒絶を抑える新しい処方の
思うことにしていた。
「……悪かったよ、軍曹。言ってみただけだ」
「いいさ。俺がお前でも、そう言う」
片脚の男はばつの悪そうな顔で頭を掻く。
それから話を変えたいのか、木の脚の先で石畳をこつんと叩いた。
「それより軍曹、首都の法案の話、聞きましたかい。俺らの間じゃ義手取り上げ法って呼んでますがね」
「新聞で読んだ」
「こいつをちゃんとした脚に換えようと、三年貯めてきたんですよ。法が通りゃ、新しく入れるのは御法度だ。俺はこの棒っきれで棺桶まで行くことになる」
「俺らの腕まで取り上げようってんじゃねえのか」
片袖の男が不安そうに口を挟むと、列の何人かが思わず自分の袖口を押さえた。
「もう入れた物と薬は見逃すと、新聞には書いてあった。これから換える奴の分を取り上げる法だ」
「で、それを首都で押して回ってるのが、あの広告の会社の大旦那だってんだから」
片脚の男は壁の褪せた広告へ目をやって、笑いそこねたような顔をする。
クレインは広告のほうを見なかった。手袋の右手を挙げた自分がどんな顔で笑っているかは、見なくても知っている。
見たくもない。
「軍曹から一言言ってやれねえのかい。広告の英雄の言うことなら、あの会社も聞くだろうに」
「広告の絵は口を利かん」
松葉杖の男は何か言いかけて、クレインの顔を見てやめた。冗談で返したつもりの声が、思ったより苦く出たらしい。
列は黙って一人ぶん前へ進む。
「クレインさん、どうぞ」
窓口から顔なじみの薬剤師が呼ぶ。
眼鏡をかけた几帳面な男で、毎週同じ時刻に同じ言い方で呼ぶので、クレインはその声を聞くとなんとなくほっとする。
奥の小部屋でクレインは外套を脱ぎ、左腕の袖をまくった。換えていないほうの腕だ。
薬剤師が冷蔵の箱から小瓶を一本取り出す。名前を書いた札を輪ゴムから外して、瓶の首の封を確かめる。
「……ん?」
薬剤師が封の上の糊を爪の先でなぞった。
眉の間に細い皺が寄っているのを見て、クレインはなぜだか少し嫌な気がした。
「どうした」
「いえ。今週のは、封の糊の色が少し濃いような。……船の便が違ったんでしょう。ヴァイスの印はちゃんと押してありますから」
薬剤師は首を傾げながら注射器に薬を吸い上げる。気にしているふうではあったが、それ以上は口にしなかった。
「糊なんぞ、薄かろうが濃かろうが、中身が同じなら構わんさ」
「ええ、そうですとも。……少し、ちくりとしますよ」
「二十四年、ちくりとしてる」
薬剤師が珍しく声を立てて笑った。針が左腕の静脈に沈む。
冷たい物が腕の中を上っていき、それが毎週と同じ冷たさだったので、クレインはそれきり糊のことを忘れた。
薬剤師が薬手帳に今週の判を押して返してくる。
表紙の擦り切れた手帳には、退役軍人局の青い判が隙間なく並んでいる。
「来週も正午に」
「ああ。来週も一番後ろに並ぶ」
クレインは袖を下ろして外套を羽織り、帽子を軽く持ち上げた。
薬を打った後はいつも、一週間ぶんの荷を下ろしたような気分になる。
薬局を出ると、列の男たちがまた軍曹、軍曹と声をかけてくる。
「軍曹、来週もタダの薬で長生きしてくれよ。俺らの分までな」
片脚の男が木の脚で石畳を鳴らして笑う。今度は棘の無い声だった。
「お前こそ、脚の貯えを酒に回すなよ」
◇
会館は港通りから一本西に入った裏通りにある。
古い倉庫の二階を借りた、帰還兵の寄り合い所だ。
長い卓と壊れかけた長椅子と、薪の足りないストーブ。壁には前線の部隊の旗が三枚と、色の褪せた新聞の切り抜きが貼ってある。
切り抜きの一枚は二十二年前のクレインの顔だ。
クレインはここの二階の奥に住み、世話役をしている。
仲間の働き口を探し、施療院へ付き添い、喧嘩を止め、酔い潰れた者を担いで帰らせる。
夜は会館に泊まる者たちの見張りの頭もする。給金の出る仕事ではないが、ほかにすることも無かった。
その日の午後、会館の話題は一つしかなかった。
「聞いたか、軍曹。港通りの角の、片腕のハンクの話」
片目に眼帯をした男が長い卓に身を乗り出してくる。残った片目が怒りで赤く濁っている。
「先週死んだろう。施療院の記録じゃ、
「知ってる」
クレインは帽子を卓に置いた。苦い物を噛んだような声になったのが、自分でも分かった。
「本当は、丘の上の家の次男坊の連れの移民の娘に殴り殺されたんだ。次男坊の車に唾を吐いたからだそうだ。施療院の下働きの婆さんがそう言っていた。それを丘の上の家の秘書が来て、
眼帯の男が悔しそうに卓を拳で叩く。何人かの仲間が、やりきれない顔で目を伏せる。
「軍曹。あんたの顔は、あの家の広告に使われてるんだぜ。この腕が国を守った、だとよ」
眼帯の男は壁の切り抜きを顎でしゃくった。
前線で同じ中隊にいた男で、あの晩のことは新聞よりよく知っている。
「……ああ。俺がやったのは、砲弾で崩れた塹壕の穴一つを一晩守っただけだ。穴の縁に伏せて、朝まで撃っていた。怪物兵と組み合ったなんて話は、後から記者が書き足した」
クレインは切り抜きの中の、髪の黒い自分の顔から目を逸らす。
あの写真を撮られた朝のことは、今でも思い出すと首の後ろがむず痒くなる。
「勲章ってのはな、新聞と広告のために配るもんだ。手足を作り替えた兵が死なずに帰ってきて、旗の下で手を振っている。軍もあの家も、その絵が一枚欲しかっただけさ」
「だったら、なおさらだ。あの家が俺らを何だと思ってるか、これで分かったろう。下の扉に書きに来る若い連中のほうが、よっぽど話が早い」
「あれは消す」
思ったより硬い声が出て、眼帯の男が鼻白んだ顔で口をつぐむ。
「消さなきゃ、警備会社が来てここの鍵を持っていく。お前ら、冬にどこで寝る気だ」
今朝もクレインは階段の下の扉にしゃがみ込んで、夜のうちに書かれた「輪を割れ」の赤い字をテレビン油で拭いた。
いくら擦っても赤は木目に染みて残り、扉の下半分がうっすら桃色になっている。
「……分かってるさ。あの家のことは、前から分かってる」
そう言う声の底で、こめかみの奥がじわじわと脈打っている。
ハンクは一緒に列に並んでいた男だ。マッチを売り、酒を飲み、ときどき喧嘩をしては、クレインに担がれて帰った。
くだらない男だったが、
アッシュクロフト。その名前が胸の内で熱を持って転がる。
この腕が国を守った、と造兵廠の広告に書いたのはあの家の会社だ。列で聞いた法案を首都で通そうとしているのも、同じ家ではないか!
「……やめとけ。腹を立てても、ハンクは帰ってこない」
眼帯の男にというより、自分に言い聞かせるつもりの言葉だった。
クレインは立ち上がって、ストーブに薪を一本足す。
いくら薪をくべても部屋は暖まらないのに、胸の熱だけはなかなか引かない。
夕方になって、手が震え出した。
初めは怒りのせいだと思った。だが震えているのは換えていない左手のほうで、指の先から細かく震えている。
「軍曹、手が」
卓の向こうから、眼帯の男が目ざとく左手を見咎める。
「寒いだけだ。ストーブの薪が足りん」
クレインは左手を外套のポケットに突っ込んだ。自分でも信じていない言い訳だ。
それから首の後ろが熱くなった。神経を通した所だ。
熱は背骨に打ち込まれた骨の芯に沿って、じりじりと下りていく。
七時を過ぎると、匂いが分かるようになった。
階下の倉庫に積まれた塩漬けの肉の匂い。通りの向こうの肉の卸の店先に吊るした、枝肉の匂い。
「下の倉庫に、今日は肉を入れたか」
「塩漬けが三樽だ。昼に船から揚がった。……なんで分かる」
眼帯の男が怪訝そうに眉を寄せる。階下の荷の匂いなど、階段を下りて樽の蓋を開けなければ分かる筈が無い。
その塩漬けの肉が、たまらなく旨そうに思える。口の中に唾が湧いてくる。
クレインは自分の唾を飲み込む音にぞっとした。
知っている。この感じを知っている。
二十三年前の前線で薬が三日遅れたとき、同じ組の男がこうなって、四日目の朝に塹壕の中で仲間を三人殺して軍医に撃たれた。
まさか、俺が。
「軍曹、顔色が悪いぜ。飯でも食うか」
眼帯の男が心配そうにクレインの顔を覗き込む。
「……肉はやめてくれ」
「肉なんて、ここ一月、誰も食っちゃいねえよ」
眼帯の男は笑わせようとしたのだろうが、クレインは笑えなかった。震える左手を右手で押さえつける。
換えた右手は少しも震えていない。それが余計に恐ろしい。
「おかしい。今日、打ったんだ。正午に。一度も落としたことは無い。おかしい……」
仲間たちが不安げに顔を見合わせる。
九時を回った頃、クレインは自分から切り出した。声は自分でも驚くほど落ち着いていた。
「俺を縛れ」
誰もすぐには動かなかった。
眼帯の男が冗談だろう、と笑いかけ、クレインの目を見て笑うのをやめた。
「あんたが還るもんか。勲章の軍曹だぞ」
「勲章で薬の代わりが務まるなら、とっくにそうしてる。……縛れと言ってる。鎖がいい。倉庫の荷揚げの鎖が下にあるだろう。脚と、右腕だ。
「軍曹、そんな――」
「頼む」
仲間たちは青い顔で重い荷揚げの鎖を運んで来て、クレインの脚と右腕に巻き、
巻いている男の手のほうが、クレインの手よりひどく震えている。
「施療院を呼ぼうか、軍曹」
「呼ぶな。呼べば警官が来る。警官が来たら、俺は撃たれる。……朝まで持てば、薬が抜けるかもしれん」
クレインは
そうでもしていないと、怖くてたまらないのだ。
煤けた染みの縁がどこかの塹壕の線に似ている気がして、それがどこの塹壕だったかを、クレインは懸命に思い出そうとした。
「軍曹、何か喋っててくれ。黙ってられると、こっちが怖えよ」
鎖の端を握った若いほうの仲間が、歯の根も合わないまま頼む。
「……塹壕の名前を思い出してる。思い出せたら、真っ先にお前に教えてやる」
朝まで持てば。
十時を少し過ぎた頃だった。
クレインは自分の名前を、思い出せなくなった。
最初に切れたのは右腕の鎖だった。
鉄の輪がぱきんと乾いた音を立てて飛ぶ。次に
「軍曹! 俺だ、分かるか、軍曹!」
眼帯の男の叫ぶ声がして、誰かが階段を転げ落ちる。
握り込んだ右手の甲の皮が、内側から三筋に裂けた。
その男はもう、クレインではなかった。
◇
アッシュクロフト警備会社の警官ジョー・プラットが最初の銃声を聞いたのは、港通りの角の詰め所で冷めたコーヒーを飲んでいるときだった。
三十二で、警備会社に勤めて十二年になる。
娘が二人いて、上の娘の靴がもう小さくなっているので、来月の給料日には新しいのを買ってやると約束していた。
夜勤の手当てが付くので、水曜の夜の当番は進んで引き受けている。
港通りの角の水曜の夜は、帰還兵が薬を打ちに来て角の酒場で飲み、たいてい一つは喧嘩が起きる。手当ての分はきっちり働かされる晩だった。
この晩はその前に、日の暮れ方に港の溝から男を一人引き上げていた。
右腕が肘から先、きれいに無かった。刺青で縁取った繋ぎ目の線のとおりに、鋸を入れてある。
街の連中が「ばらし」と呼ぶ剥ぎ取りだ。
換えた腕や脚を死人や酔っ払いから外して、闇の施術所へ流すのだ。
「書き方はいつもと同じでいい。身元不明、所持品なし」
奥の机で散弾銃の手入れをしていた古株のオブライエンが、顔も上げずに面倒くさそうに言った。
五十を過ぎた前線帰りで、溝から上がる死体にはとうに飽きているのだ。
「腕の型番くらいは書いときますか。繋ぎ目の刺青も」
「書いてどうする。会社の物を盗られた訳じゃない。誰も読まん」
そのとおりだ。
警備会社が追いかけるのは、会社の倉庫と会社の車と会社の看板に手を出した者だけだ。看板に落書き一つされれば、夜通し走り回らされるくせに!
溝に浮いた男の腕がどこへ流れたかは、誰の仕事でもない。
馬鹿馬鹿しい。
「今月で四人目ですよ。四人とも、繋ぎ目から先が無い」
「五人目は来週だ。肉屋に回りゃ、あの腕一本で俺らの一月分だからな。明日には、どこかの誰かの肩にくっついて歩いてるさ」
「他人の腕ですよ。本当にまた使えるんですか」
「使えるさ。俺の前の相棒の脚なんざ、どこの誰の脚だったか分かったもんじゃない。本人も知らなかった」
オブライエンは散弾銃の筒を覗いたまま、つまらなそうに鼻を鳴らす。前の相棒がその後どうなったかは、訊いても言わない男だ。
プラットは言われたとおり「所持品なし」と書いてペンを置く。四枚とも、一字一句同じ文句だ!
そのくせ書き終えてみると、頭に残っているのは死人の顔より娘の靴の値段のほうだった。
銃声は二つ、詰め所の窓のすぐ外で続けて鳴った。
「出たぞ、裏通りからだ! ドイルとベイカーが角で――」
表で煙草を吸っていた相棒の若いハリスが、扉を開けて叫んだ。青ざめた顔で声が裏返っている。
ドイルとベイカーはこの晩の角の見回りの当番で、ついさっきまで酒場の前で煙草をふかしながら帰還兵の喧嘩が始まるのを待っていた筈である。
プラットは拳銃を抜いて詰め所を飛び出した。
角の街灯の下に、男が一人立っている。
外套を着ているが帽子は無い。白髪まじりの頭を低く下げて、肩で息をしている。
その外套の右の袖と、ズボンの両脛が内側から裂けている。
裂け目から覗く腕と脚は人の物の倍ほどに膨れ上がり、鉄の色をした筋肉が太い縄のように皮の下でうねっている。
だらりと開いた右手の、指の付け根の骨の間から、爪が三本、指の長さほども伸びていた。反りのある刃物のような爪で、街灯の光を鈍く返している。
その前にドイルが立ちはだかって、拳銃を構えている。
詰め所で一番体の大きい男で、酔った荷役を三人まとめて引きずってきたこともある。
「ただの
ドイルの声は落ち着いていて、むしろ面倒くさそうだった。
止まらないのは兵隊上がりの重い
詰め所の壁の貼り紙にもそう書いてある。プラットもこの十二年、それを疑ったことは一度も無かった。
ドイルがもう一発、膨れた脛を撃つ。
弾は当たってズボンの裂け目から血が跳ねたが、男は脚を引きずりさえしない。
その次の一瞬のことを、プラットは順に思い出せない。
男の右腕が横へ動く。ドイルの大きな体が真横に飛んで、頭から煉瓦の壁に当たり、壁の根元に落ちた。
それだけだった。
横へ回ろうとしていたベイカーは撃ちながら後ずさり、二発目を撃つ前に襟首を掴まれて詰め所の窓へ投げ込まれた。
硝子と窓枠がいっぺんに砕けた。中で机のひっくり返る音がして、それきりベイカーの声はしなかった。
プラットが狙いを付ける前に、二人だった。
プラットは拳銃を構えたまま一歩も動けなかった。貼り紙に書いてあった事が、何一つ当てはまらない!
冗談だろう、と言おうとした口が乾いて動かなかった。
裏通りの口から、誰かが這い出してくる。
会館の帰還兵だ。眼帯をした顔を血だらけにして、石畳を指で掻いている。
その後ろの暗がりには、もう一人、首のおかしな向きに曲がった男が転がっている。
「軍曹が……軍曹が還っちまった……」
軍曹。
その言葉を聞いた途端、プラットの首筋が冷たくなった。この裏通りで「軍曹」と呼ばれる男は一人しかいない。
十歳のとき、プラットは講和の後の授与の行進を父親の肩車で見た。
軍楽隊の後ろを勲章を胸に下げた兵たちが歩いていて、その中に、手袋をはめた右手を高く挙げて群衆に応えている軍曹がいた。
新聞は彼が塹壕を一晩守ったと書いた。
少年のプラットは、その手袋の右手が怪物兵と組み合ったのだと聞いて、ひどく興奮した。
その軍曹がこの会館に住んでいることは知っていた。水曜の正午に、薬局の列の一番後ろに並んでいることも。
「クレイン軍曹!」
プラットは拳銃を構えたまま、訓練で教わったとおりに名前を呼んだ。
呼ぶ声が震えているのが自分でも分かって、情けない。
それは一度だけ振り向いた。
目が角の街灯の光を返す。瞳が開ききって、黒目が白目を呑み込んでいる。
その目に、プラットの顔は映っていない。
答えは無かった。
「撃て!」
ハリスと二人で引き金を引いた。弾は当たって外套の胸と肩が跳ね、血が飛ぶ。
割れた窓の奥からオブライエンが散弾銃を突き出して、背中へ一発撃ち込む。
外套の背中が裂けて肉がえぐれた。
それは倒れない。
プラットはえぐれた肉を見た。噴いた血が見ている間に細くなって、糸のようになっていく。
それは撃たれたことにさえ気づいていないような顔で、通りの西へ首を向ける。
角の停留所を出たばかりの西行きの路面電車が、一つ先の辻で鐘を鳴らしている。
灯りのついた窓の中で、乗客たちの顔が何も知らずに揺れている。
それが電車のほうへ跳んだ。
一歩で通りの半分が消える。
三歩目にはもう電車の最後尾に追いついていて、換えた右手が昇降口の手すりを掴み、車体が大きく傾いて、乗客の悲鳴が窓という窓から溢れ出した。
電車は止まらなかった。運転士が足で鐘を踏み鳴らしながら、かえって速度を上げたのだ!
「……
割れた窓から転がり出てきたオブライエンの声が震えている。
溝の死体に飽きた顔をしていた古株が、膝を石畳についたまま、電車の消えたほうを見ている。
「
「戦争で軍が体を作り替えた兵だ。新聞はあの軍曹を塹壕を守った英雄だと書いたが、そんな話はどうでもいい。あの体は、怪物兵を素手で殺すために軍が作った物だ。……拳銃じゃ止まらん。散弾でも止まらん。小銃の数が要る。重い弾が要る」
「ベイカーは」
「首が折れてる。電話番は机の下で生きてる。……プラット、ぐずぐずするな」
オブライエンに肩を突かれて、プラットはようやく自分の足がまだ動くことを思い出した。
「車だ! 追うぞ!」
プラットは詰め所の前に停めた警備会社の車に飛び乗る。膝が笑っているが、構ってはいられない。
ハリスが運転席に、オブライエンが後ろの座席に転がり込む。プラットは窓から身を乗り出して、割れた窓の奥の電話番に叫んだ。
「本部に繋げ! ドイルとベイカーがやられた! 中央通り、西行きの電車に
中央通りに出ると、電車の灯りはもう二つ先の辻にある。
鐘は鳴りやまない。運転士が踏み板から足を離せずにいるのだろう。
後ろの昇降口にぶら下がった影が、窓を一つずつ外から叩き割っていくのがこちらからでも見える。
割れた窓へ腕が差し込まれて引き抜かれるたびに、何かが石畳へ落ちて車輪の脇を転がっていく。
プラットはそれが何なのか、考えないようにした。
「あの運転士、振り落とす気だ。速すぎる」
ハンドルにしがみついたハリスが、歯の間から怯えた声を漏らした。
「この先は曲がりだぞ……」
後ろの座席でオブライエンが呻く。繁華街の入口の手前で、中央通りはゆるく右へ曲がる。
電車はその曲がりへ、少しも速度を落とさずに入っていく。
影が外側の窓枠を両手で掴んで、体ごと外へ振った。
電車が傾く。
片側の車輪が線路から浮くのが、灯りの中にはっきり見えた。
傾いたまま何十歩か走り、それから腹に響く音を立てて横倒しになって、火花を散らして石畳を滑り、街灯を一本へし折ってようやく止まった。
鐘の音がぷつりと途切れた。
倒れた電車の灯りは、まだ点いている。
それは倒れた電車の横腹の上に、獣のように四つ足で這い上がる。上を向いた窓から、まず車掌の帽子が覗いた。
爪の生えた右腕が一度振られて、帽子だけが石畳に落ちてきた。次の窓から這い出してきた男も、その次の女も同じだった。
窓の割れた所から人が出てくるたびに腕が一度動き、それで終わる。
手際がいい、とプラットは思ってしまった。そう思った自分にぞっとした。
「止めろ、ハリス! まだ中に客が――」
プラットは扉の把手を掴んでいた。その肩を、後ろの座席からオブライエンの手が掴んで引き戻した。
骨が軋むほどの力だった。
「駄目だ。正面から行けば、俺たちも電車の客と同じになる。三人で何が出来る。線のほうへ回れ。線と挟むんだ」
ハリスが泣きそうな顔でハンドルを切る。
車は電車の手前で北の裏通りへ折れ、倒れた電車の灯りがプラットの肩越しに遠ざかっていく。
割れた窓から誰かの手が一本、こちらへ振られている。
その手が建物の陰に隠れて見えなくなるまで、プラットは振り返ったまま目を離せなかった。
すまん。
繁華街の表通りには、上の客の店が並んでいる。劇場と高い宿と、高いクラブ。
会社の幹部とその家族と、丘の上の家の者が夜を過ごす通りだ。
あそこへ
そういう計算が電車の客を置いていく自分の頭の中でちゃんと回っているのが、プラットにはたまらなく嫌だった。
娘の靴のことが一瞬だけ頭をよぎった。
線の向こうの中央通りには、今夜は陸軍の晩餐会から帰る車が何十台も詰まっている筈だった。夕方、本部の電話でそう聞いている。
どの車の窓にも、さっきの電車の乗客と同じ顔が何も知らずに並んでいるのだろう。