転生したら兵器王の次男だったので、二度目の人生は好き勝手に生きます~金持ちのクズになった僕は今日も楽しい。なお、周囲の人間は僕以上に倫理観が終わっている模様~ 作:泥酔ネコ
父の名代で出た陸軍の晩餐会の帰りだった。
モナークへ向かう僕の車は、中央通りを東へ下っていた。
会場を出てからまだいくらも走っていないのに、前の車がなかなか動かない。
将校たちの車が前にも横にも詰まっているのだ。モナークまでは歩いても十分ほどの道だ。
歩いたほうが早いのは分かっていたが、このおろしたてのエナメルの靴で十分も歩くくらいなら、車の中で一時間待つほうがまだいい!
目を閉じると、兄の口の端が浮かぶ。
羊の肉の向こうで、グラスの陰で、ほんの一瞬だけ持ち上がったあの口の端。
いい名代ぶりだったな、と言ったあの声。
胸糞が悪い。
僕は目を開けて窓の外を見た。見ていたほうがまだましだった。
腹の底では靴底のような羊の煮込みがまだ重たく居座っている。
あの卓で僕を笑った連中も、この同じ列の中で足止めを食っている。
そう思えば、腹もそれほどは立たない。
少なくとも土曜にはあの将校どもが僕の酒に群がる。
モナークの奥の席で僕の瓶が回ってくるのを、行儀よく待つことになるのだ。
「レオン様。前が止まっておりますな」
運転手が前を向いたまま困り果てた声を出す。
言われなくても見れば分かるのに、年寄りというのはどうして分かり切ったことをいちいち口にするのだろう。
だから裏の通りを回ろうと申し上げましたのに、と書いてあるような白髪の後ろ頭だった。
それを四十年仕えた行儀で飲み込んでいるのが、また癪に障る。
前の車の尾灯はさっきからちっとも動いていない。
この調子ではモナークに着く前に右の小指が靴の中で死んでしまう。冗談じゃない!
「警笛を鳴らせ!」
「は……?」
「紋章が見えないのか、って前の連中に教えてやれ! 列の脇から前へ出ろ」
運転手は一瞬、言われたことがよく分からないという顔をした。
それからいかにも気の進まない手つきで、警笛を二度短く鳴らす。
車が列の脇へはみ出して、止まった車と歩道の縁の間をそろそろとすり抜けていく。
すれ違いざまに前の車の運転手が窓から顔を出す。
何か罵りかけた口が扉の紋章を見たところでそのまま閉じた。
その車は黙って端へ寄った。次の車も、その次の車も寄る。
いい気分だ!
扉の紋章一つで車の列が目の前で割れていく。羊の卓で一度は縮こまった名代が、ここで改めてアッシュクロフトの次男に戻れたのだ。
転生する前の世界なら、列に割り込めば後ろから舌打ちが飛んで来て、下手をすれば怒鳴られた。
「旦那様のお耳に入りましたら……」
端へ寄っていく車を横目に、運転手が蚊の鳴くような声を出した。
四十年仕えた男が気にするのは、いつも僕の小指より父の機嫌のほうである。
「父さんは首都だろ。この列の誰が告げ口するんだよ。将校が? 土曜に僕の酒を飲む連中が?」
「……さようでございますな」
諦めた声だった。年寄りを黙らせるには、それで十分だ。
道を空けた車のどれかにはあの将校どもも乗っている筈だ。
そう思うと靴の中の小指の痛みまでいくらか引いていく。
列の先頭まで出て、ようやく前が見えた。
中央通りから繁華街の表通りへ曲がる角を、黒い車が三台斜めに塞いでいる。
その陰に警官が何人も立っていて、腕を振り回してこちらの車を止めている。
「何だよ、あれ! また誰か、店の前で喧嘩でもしたのか?」
苛々して、僕は座席の背を拳で叩いた。モナークはあの角を曲がって一本先だ。
ここまで割り込んできて足止めとは、話にならない。
「さあ……」
運転手は首を伸ばして前を窺ったきりで、その返事のあまりの頼りなさに、僕はますます苛々した。
こういうときに頼りになるのは、年寄りの運転手より名前のほうだ。
僕は窓を下ろして一番手前の警官を呼ぶ。
紺の制服の肩に叔父の会社の徽章が光っている。帽子の庇の下の顔はまだ若く、ひどく青い。
「おい、そこの! アッシュクロフトだ。通せ。モナークは一本先なんだよ」
この街の警官なら、この名前を聞けば帽子に手をやって道を空ける。
噴水の晩に呼ばれてきた連中も名前を聞いただけで帰っていったのだ。
「今は誰も通せません! 窓を閉めて、車の中にいてください!」
警官は僕の顔を見もしないで怒鳴り返すと、拳銃を握った手を細かく震わせながら、すぐに角の東のほうへ向き直った。
その目は僕の車でなく、通りの向こうの何かを見ている。
聞こえなかったのか、と思った。聞こえていて、これなのだ。
この街でこの名前を言って背中を向けられたのは、生まれて初めてだった。
顔に血が上った。叔父さんの払う給料で食っている下っ端のくせに、何様のつもりだ。
ドブネズミめ!
窓の外へそう吐き捨てて、僕は窓を上げた。明日、叔父さんにこいつの名前を言いつけてやる。名前は知らないが顔は覚えた。
そのとき通りの向こうから鐘の音が聞こえてきた。
路面電車の鐘だった。だがふだんの鐘の鳴らし方ではない。
鳴りっぱなしなのだ。かん、かん、かん、かん、と止まることなく、悲鳴のように鳴り続けながら近づいてくる。
その鐘がいきなり途切れた。
代わりに腹の底まで響く音がした。鉄の箱を石畳に叩きつけて、そのまま引きずっていくような音だ。
警官たちの車の向こう、繁華街の表通りの入口を過ぎたあたりで、灯りのついた電車が横倒しになって止まっている。
倒れた電車の腹の上で何かが動いている。
上を向いた窓から這い出してくる人の影が、灯りの中で一つ、また一つと崩れるように見えなくなっていく。
何が起きているのか分からないのに、見ているうちに胃の中の羊の煮込みが冷えた石のようにどんどん重くなっていく。
それから人が溢れ出してきた。
溢れ出した人の波がこちらへ向かって走ってくる。帽子を落とした男、靴を脱いだ女、子供を抱えた女給。
誰も後ろを振り返らない。振り返らずにただ走ってくる。
後ろに並んだ車の運転手たちが窓から身を乗り出して、何事かと叫んでいる。
その人の波の中に一人だけ、流れに逆らって歩いていく者がいた。黒い外套の細い影だ。
走ってくる人の肩にぶつかりもせずにすり抜けて、人の波が逃げてくるほうへ、散歩でもするような足取りで歩いていく。
おかしな奴だと思った次の瞬間には、もう人の波に紛れて見えなくなっていた。
「何だ……?」
人の波の後ろで銃声がした。
一発で終わらず、三発、四発と続いた。それからもっと重い音が一つ、腹に響いた。
銃声はそこでぷつりと途切れて、男の叫び声が二つ三つ、短く上がっては消えた。
今夜は水曜でございますから港のほうは少し物騒かと――晩餐会の石段を離れた車の中で、運転手はそう言っていた。
ここは港ではない。中央通りの繁華街の入口だ。
物騒なのが港だけなら、どうして銃声がこんなに近くで鳴るのだ!
近くて当たり前だった。僕の車は列の先頭にいる。
後ろに並んだ何十台の中で、銃声に一番近いのが僕の車なのだ。
クソ、クソ、クソ!
「下がれ! 後ろへ出せ!」
「後ろも横も、お車で塞がっております!」
運転手が鏡を覗いて、悲鳴のような声を上げた。
僕の車が割り込んだ列の脇の隙間は、僕が通った後ですっかり閉じてしまっていたのだ。
あのまま列の中ほどに並んでいれば、今頃は銃声から百歩も離れた所で、のんきに靴の文句を言っていられた。
前へ出ろと言ったのは確かに僕だ。だが言われたからといって、本当に一番前まで出る奴があるか。
四十年も仕えていて、そのくらいの気も利かないのか、この老いぼれは!
ジーナはいない。
ジーナは今頃、一本先の通りのモナークの奥の席で、ブランデーの瓶を膝に抱えて僕が来るのを待っている筈だ。
列の先頭まで出た今なら、ここから歩いて五分とかからない。
その五分の間に銃声の鳴っている通りがある。
隣の座席を見た。誰もいないのは、分かっていたのに。
倒れた電車の灯りの手前に、人が一人立っている。
逃げる人の波がすっかり過ぎた後の石畳に、そいつだけが動かずにいる。外套を着た白髪まじりの男だ。
帽子も無しにうつむいて肩を大きく上下させている。その右腕がおかしい。
外套の袖が肘のところで裂けて、裂け目から出た腕が僕の脚ほどの太さに膨れている。
その足元を燕尾服の太った男が這っている。
転んで逃げ遅れたのだろう、腰が抜けたように手だけで石畳を掻いて、こちらへ逃げてこようとしている。
白髪の男は太った男の燕尾服の襟をその腕で掴み、ごみでも払うように横へ放った。
太った男の体は石畳の上を転がって閉まった店の鎧戸にぶつかり、鎧戸を大きくへこませて、そのまま動かなくなった。
僕と同じようによその晩餐会から帰る途中だったのだろう。
燕尾服の裾が溝のほうへ広がって、白いシャツの胸だけが街灯の下でやけに白く見える。
窓から少しでも離れたくて背中が勝手に座席の背に張りつき、さっきまで何とも思っていなかった車の扉が、急にひどく薄く思えてきた。
こんな鉄板一枚であんなものが止まるものか! あの太った男は僕と何も変わらない。
燕尾服を着て、晩餐会の帰りで、たまたまあの辺りを歩いていただけだ。
あれが僕じゃなくてよかった、と真っ先に思った。
思ってから、ひどい男だな、と自分で思った。思っただけだ。口には出していない。
「……何だよ、あれ」
自分の声が情けないほどかすれて、ひどく遠くに聞こえた。運転手は答えなかった。
ハンドルを握った白髪の後ろ頭が小刻みに震えている。
年寄りのくせに、僕より先に震えるな。震えるのは僕の役だ。
◇
港通りの角の詰め所から
角を斜めに塞いでいるのは、警備会社の車が二台と市警の巡回の車が一台だ。
その陰に繁華街の詰め所の警官が五人いて、みな角の東へ拳銃と散弾銃を向けている。
市警の巡回の三人は、陰にいない。
三人とも車の陰から二十歩ほど前の石畳に、倒れた電車のほうを向いて転がっている。
その少し先に、前掛けを着けた女給が一人うつ伏せに倒れている。
倒れた電車の灯りの手前で、それは逃げ遅れた燕尾服の男を片手で掴んで横へ放ったところだった。
男の体が石畳を転がって、店の鎧戸にぶつかる。
プラットが車から飛び降りて警備会社の車の陰へ滑り込むと、班長のコリンズが横目でこちらを見て顎をしゃくった。
「港通りからか」
「ええ。ドイルとベイカーがやられました。十も数えないうちに、二人とも。オブライエンが言うには、
「……くそったれ」
コリンズは警官を二十年やってきた男だ。
その男が忌々しげに唾を吐いて、前の石畳に転がったままの市警の三人を、苦い顔で目で示した。
「市警の巡回が、電車の客を助けに前へ出た。ただの
プラットは何も言えなかった。港通りの角で見たのと同じことが、ここでも起きていたのだ。
ただの
そのとき、プラットは止まった車の列の先頭に場違いな物を見た。
黒く磨き上げた大きな車で、扉に小さな紋章が描いてある。アッシュクロフト家の紋章だ。
ほかの車より一台ぶん前へはみ出して、線の車のすぐ手前に止まっている。
運転席では白髪の運転手が凍りついたように座っている。
後ろの座席には上等な
紋章の車の後ろの座席に乗る若い男なら、丘の上の家の息子だ。
二人いる息子のうち上のほうは二十五で、もう父親の会社の一つを任されているという。
それが二十歳前に見えるのなら、道楽で名の知れた次男のほうだろう。よりによって、こんな晩に!
勘弁してくれ。
プラットはそれで全部を理解した。あの車の中の若様に何かあれば警備会社の首がいくつ飛ぶどころではない。
警備会社の社長はあの若様の叔父なのだ。
「班長、あれ」
「見えてる。警笛を鳴らして列の脇を先頭まで割り込んで来て、窓からミラーに、アッシュクロフトだ、通せ、と怒鳴っていた若様だ」
コリンズは顔をしかめた。こんな晩にまで道楽か、と言いたげな苦々しい顔だった。
「……行け、プラット。若様を車から出せ。あれは車ごと潰すぞ」
プラットは車の陰から飛び出した。
姿勢を低くして線の車から紋章の車までのほんの数歩を走り、アッシュクロフトの車の後ろの扉に取りついて把手を引き開けた。
道楽で名の知れた次男と聞いて思い描いていた、すました顔とはまるで違う、ただの怯えた子供の顔だ。
「若様! 出てください!」
「な、何だ、お前――」
「レ、レオン様を……どうか、レオン様を先に……」
運転席から白髪の運転手が震える声で口を挟んだ。
自分の身より先に若様の名を出すのだから、よほど長くこの家に仕えてきた年寄りなのだろう。
「車の中は駄目です! あれは車ごと潰します! 西へ……低くなって、車の陰から陰へ西へ逃げてください! 早く!」
若様は座席の背に張りついたまま動かない。腰が抜けて動けないのだ、とプラットは見た。
プラットは身を乗り入れて若様の
「さ、触るな! この
裏返った声が途中で切れた。
若様の目がプラットの肩の向こうへ吸い寄せられて、口を開けたまま止まっている。
振り返らなくても何を見たのかは分かった。
店の鎧戸にめり込んだまま動かない、燕尾服の太った男である。
「せ、千ダル出す! 僕を担いで逃げろ!」
若様はプラットの袖にしがみついてそう叫んだ。
千ダル。プラットの給料のほぼ一週間ぶんで、上の娘の靴なら十足は買える。
この若様は一番怖いときに一番先に出てくるのが金の話なのだ。
プラットは少し哀れになり、それから少し腹が立った。
撃ちながら死んでいったドイルとベイカーには、千ダルを出してくれる者など一人もいなかったのだ。
「這ってください!」
それだけ言うと、プラットは襟首を掴んだ手に力を込めて、若様を車から引きずり出した。
若様の膝が石畳に落ちて、上着の裾が溝の水に浸かる。
「低く! 頭を上げないで!」
若様は四つん這いになって、止まった車の陰から隣の車の陰へと這い始める。
這い方を知らない者の這い方だった。
上着の裾を溝の水に引きずり、膝で石畳を擦り、何度も前へつんのめりそうになりながら、それでも這っていく。
運転席の年寄りがまだレオン様、レオン様と呼んでいる。
先に、と頼んでくれたその年寄りのほうを、若様は一度も振り返らなかった。
プラットは運転席の扉を叩く。
「あんたも出ろ! 早く!」
白髪の運転手が扉を開けかけたが、指が把手の上で滑ってなかなか開かない。
歯の根が合っていない。
その背中で警官たちの叫び声が一斉に上がった。
「おい! そっちに行ったぞ!」
「来るな! 来るんじゃねえ! 撃つぞ、撃つぞおっ!」
去年入ってきたばかりのミラーが、裏返った声で叫びながら拳銃を三発続けて撃った。
それが倒れた電車の陰の暗がりから街灯の輪の中へ走り出てきたのだ。
プラットはアッシュクロフトの車の陰で膝をついて拳銃を構え、撃った弾は当たって外套の胸が跳ねたが、それだけだった。
「当たってる! 当たってるのに止まらねえんだよ!」
ナッシュが泣くような声で叫んだ。
「撃て! 頭だ、頭を狙え!」
コリンズが怒鳴った。撃たれた所から噴いた血は見ている間に細っていく。
それは撃たれた拍子に、ぐるりと首を回す。
それから、跳んだ。
警備会社の車の屋根に真上から落ちてきて、屋根が腹に響く音を立てて凹み、屋根の陰で撃っていたミラーが悲鳴を上げて這い出す。
プラットはそれを見ていることしか出来なかった。
這い出したミラーを膨れ上がった右腕が真横に払い、ミラーの体が石畳から離れて、角の街灯の柱までの数歩の間を宙を渡って飛んだ。
鈍い音が一つして、ミラーは柱の根元に落ちたきり動かない。
まだ二十を一つか二つ越えたばかりで、春に婚約したと詰め所で照れくさそうに話していた男だった。
「散弾! 散弾持ってこい! 早く!」
車の屋根から飛び降りたそれが車の陰のコリンズに組み付き、二十年の古株が換えた右腕に首を抱え込まれて、石畳の上で足をばたつかせる。
「班長! 班長が――」
「いいから撃て!」
コリンズが潰れかけた喉から叫んだ。
「俺ごとでいいから撃て!」
誰も撃てず、プラットも撃てなかった。拳銃の照星の向こうでコリンズの顔とそれの顔が重なっている。
オブライエンだけが撃った。散弾がそれの肩を後ろへ弾き、肉がえぐれた。
首を抱え込んでいた腕が緩んで、コリンズの体が石畳に落ちた。喉を押さえてひいひいと細い息をしている。
生きている、とプラットは思った。
えぐれた肩から噴いた血は、何十秒かのうちに細くなって止まった。
それでも、それは膝をつきさえしない。
えぐれた肩を気にもせず、それは一番近くで散弾銃に弾を込めていたロウに飛びかかる。
娘の誕生日に詰め所へ菓子を持ってきてくれた男だった。
指の付け根から伸びた爪がロウの喉を横に払い、叫び声が途中でぶつりと切れた。
切れたときには、それはもう次へ跳んでいた。
散弾銃を構え直したナッシュの顔の前へ降りて、右手を一度振る。
ナッシュの首が、人の首の曲がらない向きへ曲がった。
拳銃を捨てて逃げ出したペックは二歩目で背中から車の扉へ叩きつけられ、扉ごと内側へめり込む。
止まった車の列の中から客を乗せていなかったタクシーの運転手が悲鳴を上げて転がり出てきた。
這って逃げようとしたその背中を、膨れた足が上から踏む。
一人一発だ、とコリンズは言った。そのとおりだ。
それは人を殺すのに手間というものを少しもかけない。
前線で軍が欲しがったのはこれなのだと、プラットは歯の根を鳴らしながら思った。
プラットは震える手で弾を込め直そうとしたが、指が言うことを聞かず、弾が二発、乾いた音を立てて石畳を転がっていった。
この期に及んで自分の指が言うことを聞かない!
動け。動けよ、くそ。
顔を上げたとき、それはもうタクシーの運転手を見ていなかった。
開ききった瞳が、止まった車の列の間を見ている。
二台先の車の下から
車の下へ潜りかけた若様が上着の背を車の腹に引っかけてもがいているのだ。
あの貼り紙で当たっていたのは、たぶんその一行だけだ。
若様を車から出して這わせたのはプラット自身で、車ごと潰されるよりはましだと、ほんの少し前には確かにそう思ったのだ。
「若様! 止まって! 動かないで――」
プラットの声は、それの踏み切る音にかき消された。
石畳が割れた。
それは一歩でプラットの頭の上を越えてアッシュクロフトの車の屋根を蹴り、着地のついでのように運転席の窓硝子を肘で叩き割った。
運転手の悲鳴が短く上がって、途切れた。
二台先の車の下では若様の脚がまだ溝の中でばたついている。
あれでは見つけてくれと言っているようなものだ。
ハリスがたまらずに車の陰から飛び出して、反対の方向へ走り出した。逃げたのではない。
わざと足音を立ててそれの気を引こうとしたのだ。若いが、そういうことの出来る男だった。
それがハリスを追った。
プラットの目の前を膨れ上がった脚が二歩で通り過ぎ、角の向こうで銃声が一つ鳴った。
それきり、銃声は止んだ。
プラットは拳銃を握りしめたまま息を止めている。ハリスの足音はもう聞こえない。
角の手前で生きている警官は、プラットと、喉を押さえて転がったコリンズと、車の陰で弾を込めるオブライエンの三人だけだ。
ほんの何分か前には、この角に十人を超える警官がいたのだ。
しばらくして角の向こうから、それが戻ってくる。
今度は走らない。足の裏で石畳を確かめるように、ゆっくりと一歩ずつ歩いてくる。
裂けた靴の切れ端をまとわりつかせた足の指が、石をぎり、と掴む。
膝の下の繋ぎ目のあたりから湯気が立っていた。
それは、若様が潜り込んだ車の横で止まる。
プラットは拳銃を構えたが、撃てなかった。撃てば、弾が車の下の若様に当たるかもしれない。
若様に当たれば、プラット一人の首ではとても済まない。
そして何より、引き金にかけた指がどうしても動かない。
照星の向こうで、それが膝を折る。
車の下を覗き込もうとしているのだ。
倒れた電車の灯りが、まだ通りの向こうで点いていた。