バイオパンク・ヴィラン ~金と家の名前で好き勝手する、兵器王のドラ息子~ 作:泥酔ネコ
手の甲にまだあのおじさんの血が残っている。
毛皮屋を出て赤い車の後ろの座席に戻ってから、あたしはずっとそれを見ている。
ワンピースの裾で拭いたのに、指の付け根の皺に入りこんだ分が、乾いて茶色くなって取れない。
前の運転席でレオンが鼻歌を歌っている。
レオンの鼻歌はいつも同じ所で半音外れる。
歌い出しから三つ目の、高く上がる所だ。外れたあとレオンは決まって一度だけばつが悪そうに息を吸い直す。
あたしはそれをもう何十回も聞いているのに、外れるたびに胸の奥がくすぐったくなる。
いつから好きなのかは、もう覚えていない。
裏通りのあの晩、あたしが踏んでいた男の指の音を聞いて、レオンが手を叩いた時からかもしれない。気付いたら、もう好きだった。
レオンは顔がいいし、お金も持ってる。感性も合う。笑いのツボがあたしと同じ。
欲しいものは買ってくれるし、人を殴っていいとも言ってくれる。あたしの好きなことを好きにさせてくれる人だ。
もちろん、好きになった理由はそれ以外にもある。けど、理由なんて別にどうでもいい。
大事なのは、あたしはレオンのことが大好きで、きっとレオンもあたしのことが好きだということだ。
ハンドルを握る左手の手のひらには、あたしが舐めて塞いだ赤い線が一本残っている。
口の中には鉄の味と汗の塩気と、レオンの血の味がまだ残っている。
解体場で浴びるほど嗅いだ牛や豚の血とは、まるで違う。あの味を知っているのは、この街であたし一人だ。
その味をなくしたくなくて、あたしはさっきから水も飲まずに、舌の先で自分の奥歯をそっとなぞっている。
「レオン、手、まだ舐めてあげようか」
「いらない。もう塞がってる」
「残念」
「やめてよ、気持ち悪い。人の血なんか舐めて」
ルシールが銀狐の襟の陰で顔をしかめる。
何がいけないのか、あたしにはよく分からない。レオンの手はあたしが塞いだのだから、あたしが舐めるのが一番いいに決まっている。
「塞がってるなら、さっきのあれは何だったのよ。あんなに叫んでたくせに」
ルシールの言葉に、レオンが顔をしかめて言い返す。
「叫んでない」
「叫んでた」
あたしが言うと、助手席のトビーが号外の陰でこらえきれずに吹き出して、ルシールまで狐の襟の陰で肩を震わせた。
「叫んでたわよ。通りの端まで聞こえてた。あたしより半音高かったのよ、あの声。歌い手として聞き捨てならないわ」
「蒸し返すな、ルシール!」
レオンは前を向いたまま、耳の後ろから首筋のあたりまで、見ているこっちが心配になるくらい真っ赤にしていた。
先に半音高いって言い出したのは、あたしだ。
でも、黙っておく。ルシールに怒っている時のレオンの耳は、あたしに怒っている時よりずっと赤いから。
「レオン、耳まで赤いよ」
「うるさいトビー、前を見てるんだよ、僕は」
かわいい。
自分で叫んだくせに人に言われると怒る。
勝手な人だ。勝手なところまで全部好きだ。
港通りの角のおじさんを殴った時のことを、あたしは手の甲の血を見ながら、もう一度なぞる。
レオンの口から「やれ」が出る。
それだけであたしの体はもう車の縁を越えている。
レオンの「やれ」は解体場の親方の笛より、ずっと分かりやすい。
最初の一発は頬で、頬の骨が、牛の顎の骨を割る時と同じ乾いた音で鳴る。
木箱ごと後ろへひっくり返ったおじさんの腹に、靴の先を入れる。吊るした豚の脇腹を蹴った時と同じ手応えで、中の物がぐにゃりと逃げていく。
気持ちがいい。でも、殴りながらあたしが見ているのは、おじさんの顔じゃない。
運転席から身を乗り出しているレオンの顔だ。
腹を蹴った時より、腕を捻り上げた時のほうが、レオンの口の端が高く上がる。
だから腕を捻っている時間をわざと長くする。おじさんが潰れた蛙みたいな声を出すと、レオンは笑いをこらえるみたいに唇を噛む。
あの時のレオンは幸せそうで、あたしも幸せだった。
手の甲の血から目を上げると、車はもう毛皮屋の通りを抜けていた。
レオンはあたしが人を殴るのが好きだと思っている。
好きなのは本当だ。
でも、一番好きなのは、殴ったあとのレオンの顔だ。
「ねえ、レオン。さっき、楽しかった?」
「……何がだよ」
「おじさん殴ってた時。レオン、ずっと口の端が上がってた」
「上がってない」
「上がってた。運転席から、こーんなに身を乗り出してたもん」
「……まあ、唾を吐かれたままじゃ、格好がつかないからな。よくやった」
よくやった、とレオンの口から出た。
あたしだけに向けて、レオンが言ってくれた言葉だ。
言ってから、恥ずかしくなったみたいに咳払いをしている。
その咳払いの低さまであたしはちゃんと覚えておく。
よくやった。
それだけで今日は一日、いい日になった。
「次も、やる?」
「次があればな」
「あるよ。レオンだもん」
レオンはあたしに体をくれる。
解体場で機械に持っていかれた腕と脚の代わりを、一番いいのにしてくれたのもレオンだ。
この腕もこの脚もこの目も、レオンのお金で付け替えたものだ。
右手は先月替えたばかりで、手首の糸はまだ抜いていない。殴った時に縫い目が少し引きつったけど、レオンに褒められたら、どこが痛かったのか忘れた。
あたしの体の半分より多くは、もうレオンの物だ。
それが嬉しくてたまらない。
ナイフが出た時だけは少し遅れた。
あのおじさんは片手だったのに、懐に手を入れるまで、あたしには分からなかった。
レオンの手のひらに赤い線が走ってから、あたしの手が出た。手首を掴んで石畳に叩きつけたら、乾いた枝が折れるのと同じ音がした。
レオンに傷をつけた手だ。
だから、そのあとは少しやりすぎたかもしれない。
「あのおっさん、施療院まで持ったかなあ」
助手席のトビーが号外を膝に伏せて、思い出したようにどこか心配そうに呟く。
「まだ言ってるのか。知らないよ、そんなこと」
レオンが前を向いたまま、面倒くさそうに手を振る。
答えならあたしが知っているから、代わりに答えてあげる。
「持たないと思う。泡の色が、解体場で次の朝に吊るされる牛と同じだった」
「縁起でもないこと言わないで、ジーナ。せっかくの帰り道に」
「……ほんとに、あの右腕、肘から切っちゃうの?」
「切ると思う。施療院の医者なら、あれは肘から先を落とすしかない。どう折れてるかは、折ったあたしが一番よく知ってる」
トビーは何か言いかけて、黙って号外を持ち直した。
レオンは聞こえないふりで、鼻歌の続きを探していた。
持たなかったとしてもあたしは何も思わない。
レオンの手のひらを切ったのは、あのおじさんのほうだ。
「ねえ、ジーナ。さっきから自分の手ばっかり見て、何してるの」
ルシールが狐の襟の陰から、気味悪そうにあたしの手を覗き込む。
「血。取れないの」
「よしてよ、そういうの。せっかく新しいコートなのに、気分が悪くなるじゃない。……トビー、窓開けて。血の匂いがする」
「オープンカーだよ、ルシール。屋根も窓も無いって」
「あたしの手の血より、その狐の毛のほうが、よっぽど死んでるよ」
「……ほんとに口の減らない子ね。レオン、何とか言ってやって」
「ジーナ、やめとけ。せっかくの狐に、お前の手の血が付く」
レオンの一言で、あたしはすぐに口を閉じる。
「信じられない。あんたの言うことしか聞かないのね、この子。犬だってもう少し気まぐれよ」
「ほらな。こいつは僕の言うことしか聞かないんだ。……ルシールも、せっかくの買い物の帰りだぞ」
レオンはハンドルの縁を指先でとんとんと叩きながら、ルシールのほうは見もせずに、面倒くさそうに付け足す。
僕の言うことしか聞かない。
そう言った時のレオンの声が、少しだけ得意そうだったのを、あたしは聞き逃さない。胸の真ん中がじんわり温かくなる。
そうだよ。あたしはレオンの言うことしか聞かない。
ルシールは鼻を鳴らして通りのほうへ顔を向け、狐の頭を撫でた。
銀狐の襟の下の、白くて細い首が見える。
どこをどうすれば一番早いか、あたしは知っている。
でも、レオンがこの女の歌う声を気に入っているから、やらない。
それにあたしがこの女に手を出したら、レオンはきっとあたしを嫌いになる。
嫌われるくらいなら、我慢なんていくらでも出来る。
毛皮屋でルシールは銀狐を羽織ってレオンの腕に体を押しつけていた。
あの時の甘い薄っぺらい香水の匂いが、まだレオンの上着の襟に残っていて、前から風が吹くたびに後ろの座席まで流れてくる。
あたしの知っているレオンの匂いは、もっと違う。
朝は髭剃りの石鹸と、夜は葡萄酒と、冷えたハンドルの革の匂い。あの匂いの上に知らない女の匂いが乗っているのが、喉の奥に小骨みたいに刺さるけれど、あたしは何も言わない。
「レオン。今夜、遅れないでよ」
ルシールが通りのほうを向いたまま、さっきまでの不機嫌が嘘のような甘い声で念を押した。
「遅れるもんか」
「コート、着ていくわね」
「当たり前だろ。そのために倍払ったんだ」
レオンの返事が、いつもより心なしか早くて、楽しそうに弾んでいる。
あたしに向ける声とは違う弾み方なのを、あたしはちゃんと聞き分けている。
今夜、約束があるんだと思う。
あたしはそれを知っていて、知っていることを誰にもレオンにも何一つ言わない。
大丈夫、レオンが楽しいなら、それでいい。
ルシールも店の踊り子たちも、レオンにとっては毛皮と同じで、飽きたら奥の箱へしまわれる。
でも、あたしはしまわれない!
レオンはどこへ行くにも、あたしを車に乗せる。
あたしにだけ部屋を借りてくれて、あたしにだけ体をくれる。
あたしはレオンの物で、レオンのお気に入りで、他の人たちとは違う。
そう思うと、背筋がすっと伸びる。
「ジーナ、ナイフの話、本気なのか」
前を向いたまま、レオンがだしぬけにどこか落ち着かない声を投げて来る。
あたしの話をちゃんと覚えていてくれたのが、嬉しい。
「本気だよ。細いの。骨と骨の間に、すっと入るやつ」
「そんなもの、何に使うんだよ」
「レオンのために使う」
「骨と骨の間って……お前、そういうのをどこで覚えるんだ」
「解体場。牛はね、肋の間に入れると、一回で止まるの」
「やめてってば!」
ルシールが両手で耳を塞いだ。
レオンは少し黙ってから、変な声で笑った。嬉しいのか気味が悪いのか、どっちつかずの笑い方だった。
そのどっちつかずの笑い方も、好きだ。
「ジーナ、ナイフ買ったら、僕にも見せてね」
「見せるだけならね」
「ケチだなあ」
「触ったら、トビーの指が減るよ」
トビーは慌てて号外を持つ手を胸の前に引っ込めた。
「……今度、刃物屋に寄ってやる。一番いいのを選べ」
「ほんと?」
「嘘ついてどうする」
前を向いたままのぶっきらぼうな声に、あたしは膝の上で手をぎゅっと握った。
今度もレオンの車に乗れる。今度もレオンの隣で、レオンに何かを買ってもらえるのだ。
車は中央通りの裏の、あたしの借りている部屋のほうへ曲がっていった。
あたしは後ろの座席から、運転席のレオンの背中を見ている。
背広の左の脇の、肩甲骨の下の端のすぐ横。
上から数えて五本目と六本目の肋の間の、その奥に、レオンの心臓がある。
レオンの体の一番大事な所がどこにあるか、あたしは知っている。
「ジーナ、あなた、さっきからレオンの背中ばっかり見てるわね」
ルシールが狐の襟の陰から、探るような、少し気味悪そうな目であたしを見た。
「見てないよ」
「見てるわよ。穴が開きそう」
見ていたけど、見ていないふりをした。
あたしがレオンの背中のどこを見ているかは、ルシールには一生分からない。
レオンが息を吸うたびに、背広の布がかすかに持ち上がる。
吸って、吐いて、また吸って、鼻歌の外れた所で一度だけ深く吸い直す。あたしはその息を一つずつ数えて、その場所を何度も何度も目でそっとなぞる。
いつか、あたしが捨てられる日が来るかもしれない。
飽きた毛皮みたいに奥の箱へしまわれる日だ。
レオンはそんな日のことは考えたことも無いんだろう。
その日が来たら、あたしはどうせ死ぬ。
この体の薬代も借りてもらった部屋の家賃も、あたしには一つも払えない。
だからその日が来たら、もらったナイフでレオンを連れていく。
痛いのは、ほんの一瞬で済むようにする。
そうしたら、ずっと一緒にいられる。
捨てられるより、そっちのほうが、ずっといい。
でも、もしレオンのほうが先に死んだら。
その時はナイフはあたしの分だけでいい。
「おい、ジーナ。部屋に着いたら、その手の血はちゃんと落とせよ」
「うん。レオンこそ、屋敷に帰ったら請求書だよ。今日の狐の請求書、もう屋敷に着いてると思う」
「……それは、そうだな」
レオンの肩が目に見えてしょんぼりと下がった。
毛皮屋で揉み手を止めさせた時の得意顔は、もうどこにも残っていない。
かわいい。
「レオン、請求書、一緒に謝ってあげようか」
「来るな。お前が来ると、ミス・ケンドリックの話が倍に長くなる」
あたしは手の甲の茶色い血を、親指でもう一度こすった。
やっぱり取れなかったけど、もう、取れなくてもいいと思った。
前の座席でレオンが何も知らずに、鼻歌の続きを、いつもの所で半音外して歌っている。