バイオパンク・ヴィラン ~金と家の名前で好き勝手する、兵器王のドラ息子~ 作:泥酔ネコ
「銀狐の襟のコートが一万八千ダル。お取り置きの品を倍のお値段で、と毛皮屋の請求書に但し書きがございます。
屋敷の玄関の広間で僕を待っていたのは、よりによって父の秘書のミス・ケンドリックだった。
帰って早々これだから嫌になる。
黒い服に糊の利いた白い襟。
四十五になるという話だが、皺の一本まで定規で引いたような顔をしていて、歳というものを感じさせない女だ。
手には今日の午後に僕がこの街でばら撒いた金の請求書の束が、もうきちんと揃えて握られている。
仕立て屋も毛皮屋もアッシュクロフトの次男の買い物となると、品物より先に請求書を丘の上へ走らせるらしい。
商売熱心なのは結構だが、僕より先に屋敷に着かなくてもいいじゃないか!
この世界でも、生まれが違えば、請求書の封筒一つで胃を重くする側だったかもしれない。
まあ、そんなもしもに意味は無い。今は人が揃えて持ってきて、僕は聞き流すだけだ。
「お取り置きのほうは、銀行の支店長の奥様でございました。旦那様のお名前で、奥様にお詫びの花を手配いたしております」
「花? 倍も払ったんだぞ。それで済んだ話だろ?」
「毛皮屋には済んだ話でございます。支店長の奥様には、まだでございました」
ミス・ケンドリックは表情一つ変えずに請求書を一枚めくる。
僕が十分で済ませた買い物の後始末を、この女は午後いっぱいかけてやっていたらしい。ご苦労なことだが僕が礼を言う筋合いの話でもない。
「警官の報告では、左の手のひらに刃物によるかすり傷。その場で傷はすでに塞がりかけていた、とあります」
「……かすり傷っていうのは、警官の言い方だよ。結構深かったんだからな」
「さようでございますか」
ミス・ケンドリックは僕の左の手のひらに目を落とした。
そこにはもう乾いた赤い線が一本、薄く残っているだけだ。この女はそれを眺めてから、何も言わずに請求書の束をめくった。
何も言わないのがこの女の一番怖いところだ。
屋敷の使用人は百人を超えるが、僕が本気で怖いと思う大人は父とこの女の二人しかいない。
父は会社の金を動かし、この女は父の時間を動かす。
そして僕の小遣いの分厚い封筒は、毎月この女の手から渡される。
封筒を渡すとき、この女は必ずその月の日付を読み上げ、僕が受け取ってからも一呼吸、指を離さない。
その一呼吸のあいだ、僕はいつも封筒が本当に自分の物になるのかどうか分からなくなるのだ。
「港通りの角の帰還兵ですが、市の施療院で夕方に亡くなったそうです。身寄りはございません。施療院の記録では、
ミス・ケンドリックは請求書を読み上げるのと同じ平らな声で、そう付け足した。
喉の奥がひやりとした。
いや、死んだのか、と思っただけで別に悲しくはない。
先にナイフを出したのはあっちだし、殴ったのはジーナで殴れと言ったのは僕だが、死ねとは言っていない。
それにこの女が「新聞には載りません」と言うのなら、それはもうこの街では起きなかったことになったという意味なのだ。
眠れなくなり、怒りっぽくなり、生の肉を欲しがるようになって、最後には自分が誰かも分からずに暴れ出す。
換えた手足の力はそのままなので、暴れ出したら警官が何発も撃ち込まなければ止まらない。
だから
貧民街か港の裏か、物乞いの帰還兵が立つ角。路地の売人から混ぜ物の闇のサップを買うのが精一杯の連中だ。
帰還兵が
戦争で手足を失って安物の手足に換え、薬代が払えずに崩れていく男たちのことは、新聞が週に一度は書いている。
でも大丈夫か?
「でも、あいつ片腕だったよ。残った腕だって、換えてるようには見えなかったけど」
「施療院の医者がそう書けば、誰も遺体を調べ直したりはいたしません。残った腕を換えていたのかどうかも、もう誰にも分かりません」
答えになっていない答えだったが、僕はそれ以上訊く気にならなかった。
分からないようにしたのはこの女なのだから、分かる筈が無いのである。
「……そう。父さんが?」
「旦那様のお言いつけで、私が片づけました」
「父さん、何か言ってた?」
「何も。片づけておけ、とだけ。……それから、警官の報告書をお書斎で二度お読みになっていらっしゃいました。お手の傷のところを」
「二度? 警官の字がよっぽど汚かったのかな」
ミス・ケンドリックは答えず、請求書の束を揃え直した。
答えないのは答える必要の無い問いだったからだろう。
やっぱり、と思った。
父はいつもこうだ。僕が街で何をしでかしても、翌日には何も無かったことになっている。
取り巻きが警官と揉めれば、夕方には釈放されているし、殴った相手が新聞に駆け込めば記事は刷られる前に消えている。
一度目も二度目も十度目も、父は必ず片づけてくれる。
そしてそのことについて、父が僕に何か言ってきたことは一度も無い。
叱られたことも褒められたことも無い。
「旦那様は明朝の汽車で首都へお発ちになります。法案のご用で。今夜はお書斎でお食事を。ローランド様がお帰りですので、食堂はお二人で」
「……今夜もね」
分かっていたことなので、がっかりもしなかった。
「法案って、また例のやつ?」
「第二保全法案でございます。今週だけで、議員の方々とのお食事が四つ入っております」
ミス・ケンドリックは手帳も見ずに、すらすらと数を挙げた。父の予定はこの女の頭の中に全部入っているのだ。
父には長年の悲願がある。
そのために月の半分は首都で議員や役人と会って回っている。
屋敷にいる晩でも、父が食堂の卓に着いて僕と同じスープを飲むのを最後に見たのが、いつだったかは思い出せない。
たぶん神童と呼ばれていた頃までだ。
それからの父は、僕が屋敷にいる晩はたいてい書斎で食事をとり、僕が出ていった晩には食堂へ下りてくるらしい。
僕と同じ部屋にいるのがよほど嫌なのだろう。
嫌われる心当たりならいくらでもある。出来の悪い次男で金遣いが荒くて、信心が薄い。
それでも父が僕の尻拭いを一度も断ったことが無いのは、息子が嫌いでも、家の名前に泥が付くのはもっと嫌だからだろう。
そういう人なのだと僕はずいぶん前に納得している。
「お召し替えを。……その
言われて見下ろすと、朝から着ていた白い
「うわ、これ先週届いたばかりなんだけどな!」
「存じております。仕立て屋には、同じ生地でもう一着頼んでございます」
ミス・ケンドリックは請求書の束から目も上げない。僕が文句を言う前に、文句の種まで片づけてあるのだ。
あの物乞い、死んでまで僕の下ろしたての白い
唾を吐いて、ナイフを出して、最後は袖口の染みだ。死んだ後まで祟るとは、帰還兵というのはつくづくろくでもない連中である。
ミス・ケンドリックという女は、怖いうえに気が利くのだから始末が悪い。
自分の部屋に上がって血の付いた
着替えのあいだ何か鳴っていないと、この屋敷は静かすぎて落ち着かないのだ。
真空管が温まるまで少しかかる。やがてざらついた音の中から、アナウンサーの澄ました声が浮かび上がった。
『……本日の株式は、ケスラー、アッシュクロフトともに大引けで最高値を更新。造兵廠では今月、砲弾の生産が創業以来の新記録に――』
うちの会社の話だ。ケスラーの名のほうは聞かなかったことにする。
新記録の砲弾が一発でも僕の小遣いを増やしてくれるなら、喜んで聞くのだが。
『首都の議会では、第二保全法案をめぐる審議が今日も続きました。賛成する議員たちは、若い工員のあいだに広がる
僕はつまみを回した。
法案の話なら、父の書斎の前に立てばいくらでも漏れ聞こえてくる。わざわざラジオでまで聞かされてたまるか。
『――人は人のまま、強くなれる。この時間は、アッシュクロフト社の提供でお送りいたしました』
次の局では、ちょうど番組の終わりにうちの会社の文句が流れていた。耳にたこが出来そうだ!
二つ隣の局で、楽団がジャズを鳴らしている。
やかましいクラリネットのほうが、アナウンサーの声よりよほど耳にいい。
これでいい。
◇
屋敷の食堂は二十人が座れる長い卓に、たった二人分の皿が並んでいる。
上座の父の席は空いている。その右に兄が座り、僕は左に座る。
上座の向こうの壁には母の肖像画が掛かっている。
淡い金色の髪の、細い顎の女の人で、膝に置いた手に白い手袋をはめている。
僕を産んだ晩に死んだ人だ。
僕は母を知らない。肖像画の顔を見ても、懐かしいとも悲しいとも思わない。
ただ屋敷の古い使用人たちは、僕の顔を見るたびに目を潤ませる。
「レオン坊ちゃまは、本当に奥様によく似ていらっしゃいます。目元なんか、もうそっくりで」
金色の髪は兄が受け継いだが、顔立ちは僕のほうが母に近いのだそうだ。
鏡を見るたびに悪くない顔だとは思うので、母に感謝すべき数少ないことの一つである。
母の死に父の信心が関わっていたらしい、と古い女中が一度だけ口を滑らせたことがある。
何がどう関わったのかは訊いたことが無い。
訊いて何かが変わる話でもないし、知ったところで僕の小遣いが増える訳でもない。
兄は僕より六つ上で、母が死んだ冬に六つだった。母の声も手の温かさも覚えている歳だ。
兄が時々その肖像画を見上げるときの目つきで、兄にとってそれが過ぎた話ではないことくらいは分かる。
「輪の書を」
父の代わりに兄が卓の上の小さな輪の書を開く。父がいない晩は兄がこれを読む。
給仕の男たちが壁際に下がり、食堂がしんと静まる。
この瞬間の空気が、僕は子供の頃から大嫌いだ!
「――人は互いに手をつなぎ、一つの輪となれ。輪から手を離す者は獣の野へ行く。手を離すな。輪の内に留まれ」
「輪の内に」
兄は自分で読んだ一節に、目を閉じて、心の底から信じている人の声で唱和した。
僕も一拍遅れて、面倒くさいのを顔に出さないように口だけ動かす。
白輪派の食前の祈りは短い。
短いのはありがたいが、毎晩同じ一節を聞かされるとさすがに耳が覚えてしまう。
輪から手を離す者は獣の野へ行く。
前の世界の言葉で言い直せば、体をいじった人間は人間扱いしません、という意味だ。神様の言葉にしてはずいぶん世知辛いじゃないか。
鴨のスープが運ばれてくる。白輪派の家だからといって料理が質素な訳ではない。
父の料理人は首都の店から引き抜いてきた男で、このスープ一杯で港の人足の日当くらいの値段はするだろう。
味だけは文句無しにうまい。
兄はスープに匙を入れる前に、卓の脇に書類の束を置いた。
ローランド・アッシュクロフト、二十五歳。
父によく似た背の高い男で、大学を首席で出て、今は父の会社の生体の子会社を任されている、出来のいい跡取りだ。
「父さんに入札の報告をするつもりだったんだがな。書斎の扉は開かなかった。明日からまた首都だそうだ」
兄は書類を一枚めくって、空いた上座をちらりと見た。悔しさを隠しきれていない目だった。
「入札って、例の鎧のですか」
「
兄は匙を持ったまま、心底呆れた顔で僕を見る。
呆れられるのには慣れているので、僕は神妙な顔で鴨のスープを一口すすっておく。
兄の会社が作っている
その陸軍の注文は、大戦の頃からずっとうちの会社の物だった。
それが近ごろ、ケスラーという、
らしい、というのは僕がそれ以上のことを知ろうとしたことが無いからだ。
「ケスラーが筋肉の見本を三割安く出してきた。陸軍の試験はこの街の調達局の出張所でやるから、ケスラーの連中はわざわざアッシュポートに支社を構えて、会長の息子まで送り込んできている。マックス・ケスラーという、背の高い愛想のいい男だ。妹まで連れてきているそうだぞ。……イザベラ・ケスラーだ。お前の苦手な」
兄の口の端がほんの少しだけ持ち上がった。
首都の晩餐会でも夏の避暑地の舞踏会でも、あの娘に僕が散々からかわれるのを、兄は何度も横で見ているのだ。
嫌な名前を嫌なところで出してくる。
「あの家の者がこの街の通りを我が物顔で歩いているのを、父さんは何とも思わないらしい。ケスラーの広告なら、もうこの街の壁という壁に貼ってある。あの会社が売っているのは、父さんが法律で止めようとしている当の物だぞ」
兄は匙の先で、窓の外の街のほうを指すような仕草をした。
腹に据えかねているのは、ケスラーより父のほうらしい。
「父さんは兄さんに任せてるんですよ」
「任せる、か」
兄はその言葉を噛み潰すように繰り返した。
任せる、というのは父にとって最上の褒め言葉なのだが、兄はいつもそれを相手にされていないと受け取るらしい。
言葉の足りない父と、言葉の欲しい兄。
父が書斎に引っ込んでいる晩は、その愚痴の行き先が卓の向かいの僕になるのだ。いい迷惑だ、クソったれ。
兄は匙を置き、それからまっすぐに僕のほうを見た。
嫌な予感がする。
「レオン。港通りの件は聞いた」
「ちょっと切られただけです。帰還兵に絡まれまして」
「叔父さんの会社の警官に、お前の喧嘩の後始末をさせたそうだな」
「……させてませんよ。向こうが勝手に来たんです」
「見回りの車が一台、受け持ちを外れて、お前の殴らせた物乞いを施療院まで運んだ。その間に表通りの宝石屋に強盗が入っても、誰も駆けつけない。警官はお前の使用人ではないんだぞ。分かっているのか」
兄の声は低く抑えてあった。抑えてあるのがかえって怒りの深さを物語っているのだろう。
分かっているのか、と言われれば分かっていない。
表通りの宝石屋がどうなろうと、僕の手のひらの傷と比べて考えたことは一度も無いからだ。
もっともそれをここで口に出すほど、僕も子供ではない。
「申し訳ありません、兄さん。気をつけます。叔父さんの会社にも、あとでお詫びを言っておきます」
僕は出来るだけ神妙に見える顔を作って頭を下げた。
下げた頭の中で、クソ真面目の唐変木め、と毒づく。兄に言い返しても、いいことは一つも無い。
言い返すと長引く。長引けば今夜のモナークの席に間に合わない。
頭を下げて済むなら、下げておくほうが早い。
だが兄の話はそれで終わりではなかった。
「その帰還兵は死んだそうだな」
兄は卓の上で指を組んだ。
組んだ指の関節が、卓の向こうでも分かるほど白くなっている。
まずい流れだ!
「お前の連れている移民の娘が殴って、市の施療院で死んだ。それをケンドリックが夕方までに
「……はい」
「父さんはお前のことになると何でも片づける。私が入札の報告を持っていっても、書斎の扉は開かない。だが、お前が街で人を死なせれば、その日のうちに秘書を走らせる」
兄の声がそこで初めて揺れた。よほど悔しかったらしい。
「家の恥だ、レオン。お前のしていることも、父さんがそれを片づけ続けることも」
胸のどこかが、ちくりとした。ちくりとしただけだ。
言われて、僕は内心でうんざりした。
片づけてくれと頼んだ覚えは一度も無い。父が勝手に片づけるのだ。
それに父が扉を開けないのは兄に対してだけではない。僕に対しては扉どころか、食堂の椅子にさえ座ってくれないのだ。
兄はいつもこうだ。
父のことになると、二十五にもなって、言っても仕方の無いことを言わずにいられない。
これだからガキは困る。
首席だの跡取りだのと言っても、中身は父親に頭を撫でてほしい子供のままなのだ。その八つ当たりを屋敷で飯を食うたびに聞かされる、こっちの身にもなってほしい。
とはいえ、それもここで口に出すことではない。
「申し訳ありません。軽率でした」
僕はもう一度、さっきより深く頭を下げた。
頭を下げながら、今夜はモナークに何時に着けるかを考えていた。
兄はしばらく僕の下げた頭を見ていたが、やがて黙ってスープを飲み干した。
それから母の肖像画を一度だけ見上げて、僕のほうを見ないまま唇の端で吐き捨てた。
「……神童が聞いて呆れる」
小さな声だった。給仕の男たちに聞こえたのかどうかは分からない。
僕には嫌になるほどよく聞こえた。
◇
神童。
懐かしい言葉だ。
この体に生まれ直して僕が最初に困ったのは、赤ん坊のふりをすることだった。
中身は前の世界で一度死んだ大人なのだ。
乳母の話す言葉は半年もすれば分かるようになったし、三つのときには父の書斎の新聞が読めた。
読めると分かっていて読まないふりをするのは、思ったより難しい。
結局、僕は大して隠さなかった。
四つで足し算と引き算を、五つで掛け算と割り算をやってみせ、六つで家庭教師の出す算術の問題を家庭教師より先に解いた。
そのたびに屋敷じゅうが騒いだ。家庭教師は父の書斎に飛び込んで、上ずった声で叫んだ。
「旦那様、この子は天才です! 六つで私の問題を私より先に!」
その頃の父はまだ食堂に下りてきていた。客に僕を自慢することもあった。
会社の幹部たちが屋敷へ来るたびに、僕は算術の問題を解かされ、拍手を浴びて菓子を貰った。
悪い気はしなかった。むしろずいぶんいい気になっていたと思う。
そういう客が帰った晩の夕食の席で、兄がスープの匙を握ったまま僕に言った一言だけは覚えている。
「お前のせいで母さんの話を誰もしなくなった」
兄はまだ十二だった。
六つの僕は何のことか分からないふりをした。
分かっていたが、分からないふりをするほうが楽だったのだ。
母の命と引き換えに生まれてきた弟が、母のいた席の前で拍手を浴びているのを、兄は卓の向こうから毎晩見ていたのである。
神童の噂は僕が十二になる頃には消えた。
当たり前の話だ。
中身が大人だから早かっただけで、頭の出来は前の世界でも並の男だったのだ。同い年の連中が追いついてくれば、僕はただの少し物知りな子供になる。
「伸び悩みでございますな、旦那様。早く咲く子には、よくあることで」
六つのときに書斎へ飛び込んだのと同じ家庭教師が、今度は声を落として父にそう告げていた。
それきり客の前で算術の問題を出す者はいなくなり、父は食堂に下りてこなくなった。
正直に言えば、ほっとした。
期待されなくなった次男は、勉強をしなくても叱られず、夜遊びをしても大して咎められず、月に一度ミス・ケンドリックから封筒を渡される。
それで十分だった。
兄にはそれが許せないのだろう。
さっき肖像画を見上げたときの兄の目つきが、それを全部言っていた。
だから僕は兄に言い返さない。言い返したところで母が生き返る訳でもないのだ。
◇
食後の果物が運ばれてくるより先に僕は席を立った。
「出かけるのか」
「はい。友人と約束がありまして」
「どうせ、飲み屋だろう。父さんの名前で飲む酒は、さぞうまいんだろうな。……好きにしろ」
兄の声はもう怒ってさえいなかった。
僕は形だけ会釈をして廊下へ出るなり外套を掴み、玄関の階段を一段飛ばしで駆け下りた。
やっと息が出来る。
車寄せには昼間の赤い車がもう回してある。運転手に行き先を言う必要も無い。
この屋敷の者は、僕が夕食のあとにどこへ行くかをみんな知っている。
実を言えば、屋敷で眠るのは週に二晩か三晩くらいのものだ。
あとはモナークの奥の部屋か、港の見えるホテルの続き部屋か、さもなければ誰かの家の長椅子で朝を迎える。
丘の上の屋敷は僕にとっては、着替えを取りに帰る場所で、兄に頭を下げに帰る場所で、それ以上の場所ではない。
門の前で警備会社の男が二人、赤い車に敬礼をする。
僕は目も向けずに通り過ぎた。
川向こうから響く交代のサイレンを聞き流しながら、車は坂を下りていく。
中央通りで路面電車を追い越す。
横腹には、昼間僕の車を足止めしたのと同じ白い字が刷ってある。
本社の塔を過ぎると、通りの明かりの色が変わる。
劇場の看板。宿の電飾。高級美容院の窓には「ヴァーナルで、十年前の肌を」の赤いネオン管。
港へ下りる路地の奥では、安い店の桃色のネオンがちかちかと瞬いている。
表通りの入口の角で、警備会社の車が二台、道の半分をふさいでいる。
腕章を巻いた男たちが、裏通りから出てくる者を一人ずつ止めては壁に手をつかせている。
壁に手をついているのは作業着の若い男だ。
まくった袖から出た右腕だけが、左の倍ほども太い。腕章の男が警棒でその腕を小突いて、何か怒鳴っている。
赤い車が角に差しかかると、腕章の男の一人がこちらに気づいて、慌てて帽子のつばに手をやった。
別の一人が手を振って車を半分どかせる。運転手は速さも落とさずにその隙間を抜けた。
「何を探してるんだ、あれ」
「さあ。腕の太い若いのを、片端から止めているようでございますな」
運転手は気のない声で返してきた。
叔父の警備会社の連中である。本当は何を探しているのか、僕は知らないし知りたくもない。
食堂では僕が頭を下げる側だったが、屋敷を出れば向こうの帽子のつばが勝手に下がるのだから、世の中はよく出来ている。
胸がすっとした。
港のほうで乾いた音が二つ鳴った。
首が勝手にすくんだ。
「今の、銃か」
「港の裏でございましょう。表通りまでは参りません」
運転手の返事は、前を向いたまま落ち着き払っていた。この男にとっては、毎晩どこかで聞く音なのだろう。
こっちだけ首をすくめたのが馬鹿みたいだ。年寄りが平気な顔をするから悪い。
流れ弾が赤い車の塗りにさえ当たらなければ、僕にはどうでもいい音だ。
車の中が静かになると、さっきの食堂を思い出した。
屋敷の食堂は天井が高くて、静かで寒い。空いた上座と、母の肖像画と、兄の白くなった指の関節。
あそこではスープの匙を置く音まで誰かに聞かれている気がする。
それに比べてモナークは気が抜けて楽だ。
回転扉の前で車が止まると、中からジャズが溢れ出してくる。
低音の弦がずんずんと腹の底を叩く。煙草と香水の匂いが、外の煤の匂いを押し返してくる。
ああ、これだ。
「お帰りは何時にお迎えに上がりましょう」
「朝だよ! 迎えは要らない」
運転手は何も訊き返さずに頷いた。毎晩同じことを訊いて、毎晩同じ答えを聞くのが、この男の仕事なのだ。
僕は車を降りて、回転扉の真鍮の取っ手に手を掛けた。
今夜はもう、兄の顔など一度も思い出してやるものか。